サンジ過去編
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翌週にはショーが復活した。ナマエはパフォーマンスを完璧にこなすかたわら、賄い料理としてキッシュの味見をしてもらう。負担をかけないためにも、パン屋の「いつもの味」から出発した。自分のつくる料理には全幅の信頼を置いてほしい。攻め込まず、遠まわりしてでも一歩一歩、着実に好みへ寄せる。口に含んだ瞬間の反応は、味見を重ねるたびにやわらかくなっていった。
三日間のショーを終えたナマエは今日の定期船二便目で帰る。次のショー日程も決まった。バラティエの電伝虫を教え、ナマエの番号も控えた。ただし、ナマエの電伝虫は遠すぎると電波が届かないため、近場にいるときしか使えない。あくまで補助的な連絡手段だ。
「サンジ、ちょっといいか」
ナマエが背筋を伸ばす。自室で話していたが、手招きされ、外へ。ふたりして柵にもたれかかった。
「どうした」
目を泳がせ、拳を握っては開くをくり返す。この状態なら、ひたすら待てばいい。じっと見守った。
「その。電伝虫だけだと、あれだから」
また口を閉じた。一歩後退されるので、目を細めてしまう。様子がおかしい。
「だから、もう」
ぎゅっと目をつぶり、ぶんぶん首を横に振る。思わず駆け寄った。
「ナマエ──」
「とってみろ! おまえのだ!」
腕を振り上げた。ちがう、投げた。何を。真上に目を凝らし、かたまりを見つける。垂直に上がったはずが、落下軌道がわずかにそれた。このままでは海に落ちる。自分のもの。とってみろ。つまり、あれを取らなければならない。めいっぱい腕を伸ばす。一階へ飛び降り、柵からも身を乗りだし、手を軌道上へ。かたまりをキャッチした。だがバランスを崩し、体を支えきれなくなる。海に落ちかけたところで腕を引っ張られた。ナマエだ。
「こっちの手もつかめ」
つかみたいが、キャッチした金属のかたまりで手が塞がっている。徐々に体が下がり、足が海に浸かる。ナマエも落ちてきた。ふたりして海に沈む。船の端につかまり、どうにかよじのぼる。柵を背に座りこみ、息を整えた。となりのナマエも肩を上下させている。
「それで、これは何だ」
握った感触で理解できていた。それでもこいつの口から聞きたい。
「だから、おまえのだ。好きに使え」
眼鏡を外し、ジャケットを脱ぎ、海水を含んだ髪を絞っている。まだこちらに顔を上げない。
「言わねェとわからねェだろ。どこの鍵だ」
すでにナマエの息づかいは元に戻っていた。それでも目を合わせない。ぽつりと単語をつぶやく。
「うちの、かぎ」
もっと具体的な言葉を引き出したい。
「おまえの家を好きに使っていいってことか?」
目を伏せたまま、こくりとうなずく。これだけの反応では物足りない。
「おれはこれから、おまえの家に勝手に入って、勝手に料理して、勝手にシャワー浴びて、勝手に寝ていい。そういうことか?」
口には出したが、理解が追いつかない。鍵の共有。いや、スペースの共同管理。ジジイと自分がスペアキーを持ち、店の売上金を共同で管理しているようなもの。
「ああそうだ。おれが留守なら泊まってもいい。宿代も浮くし、ちょうどいいだろ」
ぽかんと口を開けてしまう。
「ただし、女を連れ込むのはナシだ。それくらいは守れるよな?」
「そこまで無神経じゃねェ」
「ならいいが?」
ようやく顔を上げた。憎たらしく歯を見せてくる。機嫌は悪くない。もう少し踏み込むか。
「おまえがいるときは泊まれない。今までどおりってことだな」
「そこはわかってくれ。これからは部屋に予定表をはっておく。それで泊まれるか確認しろ」
ナマエが立ち上がった。自分もあとに続き、自室へ。案の定、着替えを頼まれるので好きに選ばせる。
「ローグタウンに来る予定はあるか」
濡れたシャツを脱ぎ捨てながら、ナマエに答える。
「三日後だな」
「なら、いまから借りる分は家のクローゼットにしまっておく」
自分の服を着たまま帰る、ということか。何も問題はないが、この言い方は、
「三日後は留守なのか」
「そういうことだ」
今日の笑い方は妙にまぶしい。自分も着替えを出したので、シャワーへ向かう。だがナマエはずぶぬれのシャツを着たまま動かない。着替えも選んだはずだ。振り返り、声をかける。
「おい、はやく行くぞ」
「さきに入って。おれはまだ時間あるし」
意味がわからない。シャワーは五つもあるのだ。
「ぐずぐずするな。風邪引くぞ」
「これくらい平気だ」
なぜ遠慮する。こちらも引くに引けず、睨み合いが始まる。
「サンジ、どこだ」
ジジイの声。まずい。小休憩がてら、ナマエとショーの日程調整をしていたのだ。戻らなければ。
「何してる。さっさと仕事に戻れ」
自室まで顔を出した。自分とナマエを交互に見やり、わずかに目を細める。ナマエは見られた途端、軽く背筋を伸ばした。同じ言葉をくり返す。
「サンジ。おれはあとでいい。先に入って」
ジジイにも睨まれ、仕方なく歩きだす。急いでシャワーを浴びた。
「あいつはまだ、そういう空気は読めねェぞ。鈍感なバカと向き合いたいなら、そろそろ腹をくくれ」
「……すみません。少し、お時間をください」
三日後。アパートの玄関前で鍵を取りだす。本当に開いた。おそるおそる部屋に上がる。話していたとおり、ナマエは留守だった。例の予定表も見つける。カレンダーに矢印が数本。今日も矢印があるので、矢印の期間が不在なのだろう。少し迷ったが、自分の手帳に矢印を書き写しておく。あさってには帰ってくるらしい。
部屋を見まわす。問題は遊ぶかどうか。いつものように連れ込めないなら、花街で買うしかない。浮いた宿代があれば、選ぶのには困らないだろう。外で夕めしを済ませ、眠らない街へ。予算内の店を見つけて入る。指名はないと答えれば、好みを聞かれた。
「髪色、顔の良し悪し、太さ、なんでもいい。ベテランか素人か。シチュエーションのリクエストがしたいなら、それ専門も選べる」
シチュエーション? リクエスト?
「向こうに主導権を握ってほしいなら、演技のうまい娘の方が盛り上がる。最近そういう需要が多くてね」
何がどうなるのか。興味本位で演技力の高い娘をリクエストした。通された部屋は、普段の宿とは趣が異なる。中央には天蓋付きのダブル──いや、クイーンベッドだ。あいつのおかげでサイズも正確に把握できるようになった。しばらくすると女の子が入ってくる。
「どんな風に遊びたいの?」
宿に連れ込む子たちは、はじめこそ積極的だが、ベッド上になると言葉で誘い、主導権をこちらに渡す。店の女の子とは方向性がちがう。金のやりとりはサービスを生み出す。いま、自分はこの子にどんなサービスを求めているのか。理性を取り払い、自身の体に問いかける。飢えた獣が這い出てきた。
情を引きずらないためにも、金で体を買い、その場かぎりの関係と割り切る。実際、本当に割り切れた。マダム・ソワールの影響は計り知れない。眠らない街には定期的に訪れることになりそうだ。まだ午後十時。アパートに帰り、シャワーを浴びる。上質なクイーンベッドで存分に睡眠をむさぼった。
翌朝。洗面室で髭を剃る。戸棚に新品同様のカミソリを見つけた。あいつの髭はまだ薄い。うぶ毛くらいなら、そこまでカミソリも必要ない。やはり年下だろう。
そうか。三日前、一緒にシャワーを入りたがらなかった理由。下の毛が生えそろっていないのを見られるのが恥ずかしかったのでは。気持ちはわかる。年頃の野郎は案外繊細だ。今度からは気をつかってやろう。
市場で買い出しも終えた。船へ荷物を運び、もう一度街へ戻る。目的地は花屋。アパートから近いところを見つけ、店に入る。ひと通り花を見てまわったところ、店員に声をかけられた。
「プレゼントですか?」
「あ、ああ。そうだな」
少なくとも自分用ではない。
「イメージを教えてくだされば、花束をつくります。明るい色合いとか、黄色っぽいとか。贈る相手の印象などでも」
イメージ。あいつの色。どんな印象、か。
「やさしい印象がいい。疲れて帰ってくるだろうから、その花を見て、ほっと落ち着けるような」
店員が目の前で花束をつくる。グリーンをベースに淡くて白っぽい花が集まった。この組み合わせで了承する。
「包装はどうしましょうか」
「おれが花瓶に差すから最低限でいい」
合計金額に少し驚くも、手持ちに余裕があったのでそのまま買い上げる。アパートに帰り、店員のアドバイスどおりに切り口を処理。以前使用していた花瓶を見つけ、花束を飾った。明日には帰ってくる。合鍵をもらい、寝泊まりを許可してくれた礼をこめて。入念にベッドを整え、玄関の鍵を締める。次に会う一週間後を待ち望んだ。
ショーのため、ナマエがバラティエにやってきた。自分から話を切り出すのもかっこ悪いので、普段どおり接する。キッシュの改良も順調。ナマエを連れ、二階の外で煙草を吹かす。今は味見で機嫌を良くしている。このタイミングで家の鍵をチラつかせた。
「助かった。宿代もバカにならねェしな」
ナマエは口元に笑みを浮かべ、目を伏せる。
「おれもここでタダ泊まり、タダめしをもらっているからな。お互いさまだ」
沈黙。唇を噛んだので言葉が続くはず。
「このあいだはありがとう、花を飾ってくれて」
ストレートな言葉。少し意外だった。
「あのカレンダーで三日以上滞在するってわかったからな」
「もしかして、一番近い花屋で買ったのか」
「一番かはわからねェが、まあ、すぐ歩ける距離だった」
「そうか」
まだ目を伏せている。話が続く前兆。
「花束、すっげェうれしかったし、帰ってきた時にほっとした。ただ、ひとつだけ注文つけていいか」
ぎこちない顔。眉を下げ、困ったような笑みを浮かべた。
「あの花、結構いい値段しただろ?」
図星だ。だからといって素直にうなずくわけにもいかず、今度は自分が目を伏せてしまう。
「宿泊代だ。気にするな」
「おれは気にする」
顔を上げれば、真剣なまなざしがぶつかる。
「給料、そんなにもらってねェだろ。いや、あえてもらっていない」
以前、具体的な額を話したことがあった。今さら否定できない。
「おれは職業柄、花はいくらでももらう。いくらでも手にする。だから、おまえはあえて買わないでくれ」
有無を言わせぬ気迫。おとなしく従うしかない。
「わかった。買うまでして花を用意しない」
「ごめん。おれなりのけじめだ」
両手を上げ、軽く伸びをしたあと、表情が一変する。ニタニタと歯を見せてきた。
「ところで副料理長殿。あの花言葉辞典は愛読しているかな?」
言葉に詰まってしまう。ナマエが自分の部屋に入っていった。収納場所を教えた記憶もないのに、あっさり辞典を見つけだしてくる。
「では問題。サンジが選んだ花は何でしょう?」
しまった。店員に確認をとるべきだった。
「その様子だと、勉強不足かな?」
顔をそらしたのに、わざわざ正面にまわりこんできやがる。
「どうとでも言え」
「そうか。やっぱり」
まだニヤついている。
「もし天と地がひっくり返って、おまえがおれに花を選ぶ日がきたら、これだけは覚えておくように」
仰々しい咳払い。
「花自体にメッセージが込められている。おれは、その花言葉を重視する」
つまり、先週選んだ花には意外なメッセージが込められていた。
「さて。そろそろカタリの準備をしないと。これは返しておく」
花言葉辞典をこちらに手渡し、歩きだす。どうにか頭をフル回転させ、声をかける。
「あれは何の花だ」
立ちどまるも、こちらを振り返らない。抑揚のない、端的な音が返ってくる。
「スイートピー」
あっというまに姿が消える。さっそく手元の辞典を開き、ページをめくる。そのまま音読していった。
「スイートピーはほのかな喜び、至福の喜び、やさしい思い出──」
さようならそして出発
三日間のショーを終えたナマエは今日の定期船二便目で帰る。次のショー日程も決まった。バラティエの電伝虫を教え、ナマエの番号も控えた。ただし、ナマエの電伝虫は遠すぎると電波が届かないため、近場にいるときしか使えない。あくまで補助的な連絡手段だ。
「サンジ、ちょっといいか」
ナマエが背筋を伸ばす。自室で話していたが、手招きされ、外へ。ふたりして柵にもたれかかった。
「どうした」
目を泳がせ、拳を握っては開くをくり返す。この状態なら、ひたすら待てばいい。じっと見守った。
「その。電伝虫だけだと、あれだから」
また口を閉じた。一歩後退されるので、目を細めてしまう。様子がおかしい。
「だから、もう」
ぎゅっと目をつぶり、ぶんぶん首を横に振る。思わず駆け寄った。
「ナマエ──」
「とってみろ! おまえのだ!」
腕を振り上げた。ちがう、投げた。何を。真上に目を凝らし、かたまりを見つける。垂直に上がったはずが、落下軌道がわずかにそれた。このままでは海に落ちる。自分のもの。とってみろ。つまり、あれを取らなければならない。めいっぱい腕を伸ばす。一階へ飛び降り、柵からも身を乗りだし、手を軌道上へ。かたまりをキャッチした。だがバランスを崩し、体を支えきれなくなる。海に落ちかけたところで腕を引っ張られた。ナマエだ。
「こっちの手もつかめ」
つかみたいが、キャッチした金属のかたまりで手が塞がっている。徐々に体が下がり、足が海に浸かる。ナマエも落ちてきた。ふたりして海に沈む。船の端につかまり、どうにかよじのぼる。柵を背に座りこみ、息を整えた。となりのナマエも肩を上下させている。
「それで、これは何だ」
握った感触で理解できていた。それでもこいつの口から聞きたい。
「だから、おまえのだ。好きに使え」
眼鏡を外し、ジャケットを脱ぎ、海水を含んだ髪を絞っている。まだこちらに顔を上げない。
「言わねェとわからねェだろ。どこの鍵だ」
すでにナマエの息づかいは元に戻っていた。それでも目を合わせない。ぽつりと単語をつぶやく。
「うちの、かぎ」
もっと具体的な言葉を引き出したい。
「おまえの家を好きに使っていいってことか?」
目を伏せたまま、こくりとうなずく。これだけの反応では物足りない。
「おれはこれから、おまえの家に勝手に入って、勝手に料理して、勝手にシャワー浴びて、勝手に寝ていい。そういうことか?」
口には出したが、理解が追いつかない。鍵の共有。いや、スペースの共同管理。ジジイと自分がスペアキーを持ち、店の売上金を共同で管理しているようなもの。
「ああそうだ。おれが留守なら泊まってもいい。宿代も浮くし、ちょうどいいだろ」
ぽかんと口を開けてしまう。
「ただし、女を連れ込むのはナシだ。それくらいは守れるよな?」
「そこまで無神経じゃねェ」
「ならいいが?」
ようやく顔を上げた。憎たらしく歯を見せてくる。機嫌は悪くない。もう少し踏み込むか。
「おまえがいるときは泊まれない。今までどおりってことだな」
「そこはわかってくれ。これからは部屋に予定表をはっておく。それで泊まれるか確認しろ」
ナマエが立ち上がった。自分もあとに続き、自室へ。案の定、着替えを頼まれるので好きに選ばせる。
「ローグタウンに来る予定はあるか」
濡れたシャツを脱ぎ捨てながら、ナマエに答える。
「三日後だな」
「なら、いまから借りる分は家のクローゼットにしまっておく」
自分の服を着たまま帰る、ということか。何も問題はないが、この言い方は、
「三日後は留守なのか」
「そういうことだ」
今日の笑い方は妙にまぶしい。自分も着替えを出したので、シャワーへ向かう。だがナマエはずぶぬれのシャツを着たまま動かない。着替えも選んだはずだ。振り返り、声をかける。
「おい、はやく行くぞ」
「さきに入って。おれはまだ時間あるし」
意味がわからない。シャワーは五つもあるのだ。
「ぐずぐずするな。風邪引くぞ」
「これくらい平気だ」
なぜ遠慮する。こちらも引くに引けず、睨み合いが始まる。
「サンジ、どこだ」
ジジイの声。まずい。小休憩がてら、ナマエとショーの日程調整をしていたのだ。戻らなければ。
「何してる。さっさと仕事に戻れ」
自室まで顔を出した。自分とナマエを交互に見やり、わずかに目を細める。ナマエは見られた途端、軽く背筋を伸ばした。同じ言葉をくり返す。
「サンジ。おれはあとでいい。先に入って」
ジジイにも睨まれ、仕方なく歩きだす。急いでシャワーを浴びた。
「あいつはまだ、そういう空気は読めねェぞ。鈍感なバカと向き合いたいなら、そろそろ腹をくくれ」
「……すみません。少し、お時間をください」
三日後。アパートの玄関前で鍵を取りだす。本当に開いた。おそるおそる部屋に上がる。話していたとおり、ナマエは留守だった。例の予定表も見つける。カレンダーに矢印が数本。今日も矢印があるので、矢印の期間が不在なのだろう。少し迷ったが、自分の手帳に矢印を書き写しておく。あさってには帰ってくるらしい。
部屋を見まわす。問題は遊ぶかどうか。いつものように連れ込めないなら、花街で買うしかない。浮いた宿代があれば、選ぶのには困らないだろう。外で夕めしを済ませ、眠らない街へ。予算内の店を見つけて入る。指名はないと答えれば、好みを聞かれた。
「髪色、顔の良し悪し、太さ、なんでもいい。ベテランか素人か。シチュエーションのリクエストがしたいなら、それ専門も選べる」
シチュエーション? リクエスト?
「向こうに主導権を握ってほしいなら、演技のうまい娘の方が盛り上がる。最近そういう需要が多くてね」
何がどうなるのか。興味本位で演技力の高い娘をリクエストした。通された部屋は、普段の宿とは趣が異なる。中央には天蓋付きのダブル──いや、クイーンベッドだ。あいつのおかげでサイズも正確に把握できるようになった。しばらくすると女の子が入ってくる。
「どんな風に遊びたいの?」
宿に連れ込む子たちは、はじめこそ積極的だが、ベッド上になると言葉で誘い、主導権をこちらに渡す。店の女の子とは方向性がちがう。金のやりとりはサービスを生み出す。いま、自分はこの子にどんなサービスを求めているのか。理性を取り払い、自身の体に問いかける。飢えた獣が這い出てきた。
情を引きずらないためにも、金で体を買い、その場かぎりの関係と割り切る。実際、本当に割り切れた。マダム・ソワールの影響は計り知れない。眠らない街には定期的に訪れることになりそうだ。まだ午後十時。アパートに帰り、シャワーを浴びる。上質なクイーンベッドで存分に睡眠をむさぼった。
翌朝。洗面室で髭を剃る。戸棚に新品同様のカミソリを見つけた。あいつの髭はまだ薄い。うぶ毛くらいなら、そこまでカミソリも必要ない。やはり年下だろう。
そうか。三日前、一緒にシャワーを入りたがらなかった理由。下の毛が生えそろっていないのを見られるのが恥ずかしかったのでは。気持ちはわかる。年頃の野郎は案外繊細だ。今度からは気をつかってやろう。
市場で買い出しも終えた。船へ荷物を運び、もう一度街へ戻る。目的地は花屋。アパートから近いところを見つけ、店に入る。ひと通り花を見てまわったところ、店員に声をかけられた。
「プレゼントですか?」
「あ、ああ。そうだな」
少なくとも自分用ではない。
「イメージを教えてくだされば、花束をつくります。明るい色合いとか、黄色っぽいとか。贈る相手の印象などでも」
イメージ。あいつの色。どんな印象、か。
「やさしい印象がいい。疲れて帰ってくるだろうから、その花を見て、ほっと落ち着けるような」
店員が目の前で花束をつくる。グリーンをベースに淡くて白っぽい花が集まった。この組み合わせで了承する。
「包装はどうしましょうか」
「おれが花瓶に差すから最低限でいい」
合計金額に少し驚くも、手持ちに余裕があったのでそのまま買い上げる。アパートに帰り、店員のアドバイスどおりに切り口を処理。以前使用していた花瓶を見つけ、花束を飾った。明日には帰ってくる。合鍵をもらい、寝泊まりを許可してくれた礼をこめて。入念にベッドを整え、玄関の鍵を締める。次に会う一週間後を待ち望んだ。
ショーのため、ナマエがバラティエにやってきた。自分から話を切り出すのもかっこ悪いので、普段どおり接する。キッシュの改良も順調。ナマエを連れ、二階の外で煙草を吹かす。今は味見で機嫌を良くしている。このタイミングで家の鍵をチラつかせた。
「助かった。宿代もバカにならねェしな」
ナマエは口元に笑みを浮かべ、目を伏せる。
「おれもここでタダ泊まり、タダめしをもらっているからな。お互いさまだ」
沈黙。唇を噛んだので言葉が続くはず。
「このあいだはありがとう、花を飾ってくれて」
ストレートな言葉。少し意外だった。
「あのカレンダーで三日以上滞在するってわかったからな」
「もしかして、一番近い花屋で買ったのか」
「一番かはわからねェが、まあ、すぐ歩ける距離だった」
「そうか」
まだ目を伏せている。話が続く前兆。
「花束、すっげェうれしかったし、帰ってきた時にほっとした。ただ、ひとつだけ注文つけていいか」
ぎこちない顔。眉を下げ、困ったような笑みを浮かべた。
「あの花、結構いい値段しただろ?」
図星だ。だからといって素直にうなずくわけにもいかず、今度は自分が目を伏せてしまう。
「宿泊代だ。気にするな」
「おれは気にする」
顔を上げれば、真剣なまなざしがぶつかる。
「給料、そんなにもらってねェだろ。いや、あえてもらっていない」
以前、具体的な額を話したことがあった。今さら否定できない。
「おれは職業柄、花はいくらでももらう。いくらでも手にする。だから、おまえはあえて買わないでくれ」
有無を言わせぬ気迫。おとなしく従うしかない。
「わかった。買うまでして花を用意しない」
「ごめん。おれなりのけじめだ」
両手を上げ、軽く伸びをしたあと、表情が一変する。ニタニタと歯を見せてきた。
「ところで副料理長殿。あの花言葉辞典は愛読しているかな?」
言葉に詰まってしまう。ナマエが自分の部屋に入っていった。収納場所を教えた記憶もないのに、あっさり辞典を見つけだしてくる。
「では問題。サンジが選んだ花は何でしょう?」
しまった。店員に確認をとるべきだった。
「その様子だと、勉強不足かな?」
顔をそらしたのに、わざわざ正面にまわりこんできやがる。
「どうとでも言え」
「そうか。やっぱり」
まだニヤついている。
「もし天と地がひっくり返って、おまえがおれに花を選ぶ日がきたら、これだけは覚えておくように」
仰々しい咳払い。
「花自体にメッセージが込められている。おれは、その花言葉を重視する」
つまり、先週選んだ花には意外なメッセージが込められていた。
「さて。そろそろカタリの準備をしないと。これは返しておく」
花言葉辞典をこちらに手渡し、歩きだす。どうにか頭をフル回転させ、声をかける。
「あれは何の花だ」
立ちどまるも、こちらを振り返らない。抑揚のない、端的な音が返ってくる。
「スイートピー」
あっというまに姿が消える。さっそく手元の辞典を開き、ページをめくる。そのまま音読していった。
「スイートピーはほのかな喜び、至福の喜び、やさしい思い出──」
さようならそして出発