サンジ過去編
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アパートのポストに手紙を入れて、一週間が過ぎた。もう三週間は顔を合わせていない。それでも気分は持ちなおしていた。半年前に顔なしヒーローを待ったときは、一ヶ月も渾身のランチを作りつづけたのだ。今は試行錯誤し、日に日に味が向上していくのが楽しい。寝かせるのも重要なので、むしろ時間が欲しかった。コックたちに食わせて反応を見る。
さらに一週間後。三品に絞ったところで、ようやく待ち望んだ姿が現れた。他の客と同じように入店し、席に着いたが、すかさずテーブルに向かう。しっかりと顔を見て話した。
「ご注文は『副料理長の気まぐれランチ』でよろしいでしょうか」
もちろんそんなものはメニューにない。無表情ながら目を合わせてくれる。
「頼まれたから来た」
端的な音。手紙には「新作メニューを試食しにきてくれ」と書いたのだ。
「かしこまりました。奥の部屋へご案内します」
他の客に怪しまれぬよう当たり障りのないフレーズを選ぶ。二階店員食堂への誘導に成功。厨房に戻り、寝かせておいた三品をすべてトースターに入れる。温めなおすだけなので数分で終わった。問題は、どれを最初に食わせるか。
キッシュの定番。
キッシュ野郎お気に入りの、パン屋の品を再現したオマージュ。
パン屋の品をさらに改良し、かぎりなく好みに寄せたオリジナル。
ひとつをカットし、銀の蓋をかぶせる。店員食堂へ戻れば騒がしくなっていた。ひとりふたりではない。ほぼ全員が集まっているではないか。
「てめェら、仕事はどうした」
パティ、カルネをはじめ、コックたちがニカリと歯を見せる。
「くじで二人が厨房に居残りだ。おれたちも立ち会わせろ」
部屋の隅に長いコック帽も見えた。
「おい、ジジイ。いいのか」
コックたちが両端に分かれ、長いコック帽の全貌がお目見えした。お互い、鋭く視線がぶつかる。
「試食ならすぐ終わる」
今度はナマエがジジイを振り返った。背筋を伸ばし、軽く頭を下げる。向きなおり、正面のクロッシュをつかんだ。半分開けたところで手がとまる。まっさきにこちらを見上げた。予想どおりの反応。すぐに言葉をつむぐ。
「おれの新作だ。食ってみてくれ」
横にクロッシュを置き、フォークを手にとる。小さくカットし、口に含んだ。ゆっくりと噛みしめている。まだ無表情。フォークを持つ手は停止し、ようやく飲みこむ。じっとキッシュを見下ろしている。まだ声をかけてはならない。コックたちも今日ばかりは空気を読み、誰もが口を閉じていた。またナマエの手が動く。ふたくち目。少し大きなカット。口に入れてすぐに顔を下げた。テーブルに肘をつき、両手を額にあてがい、わずかに震えている。それでも口は動きつづけた。鼻をすする音。三口目をカットする瞬間、顔を覆っていた手が離れる。隙間からのぞいた目元には涙が一筋こぼれていた。それでも手はとまらない。口も動く。ときおり喉がひくつき、きつく口を結ぶ。途中で眼鏡も外した。膝のナプキンで涙を拭き、食事を再開する。最後のひとくちを食べ終えるまで、ナマエは沈黙を守った。
「ごちそう、さ、ま」
ぽつりと小さな音。顔を伏せているので声をかけにくい。それでもどうにか目を合わせたい。真横で膝をつき、じっと待つ。水を入れたグラスも置いた。
「あと二皿あるが、どうする。まだ食えるか」
感想を聞くのは諦めた。やわらかい音で次の選択肢を提示する。
「いま、全部、ぐちゃぐちゃで、わからなくなってる。新しいのを、たべても、ちゃんと、あじわえるか、な」
顔が赤い。声も弱々しい。なぜこうなってしまったか。問いただしたい衝動をぐっと抑える。
「ちょっと休むか? 次もキッシュだから温めなおせる」
ようやく目が合った。顔をゆがませ、力なく歯を見せる。
「おれを殺す気か?」
意外な言葉。おどけた声色。笑っているので冗談のはず。たかが料理一品で、ここまで感情が急変するのか。こいつにとってキッシュは起爆剤。あらゆる感情を発火させた。
「おまえを殺したくない。だから今のうちに言っておく。今日はキッシュを三種類用意した。残りの二種類を食ったあと、どれが一番か聞くつもりだ。できそうか?」
「ああ……」
額に手をあてがい顔を伏せる。悩ましげな甘い嘆息。今のなかで、どの言葉が響いたのか。知りたい。聞きたい。だが焦ってはならない。たっぷり時間をかけて、気持ちを追いつかせる。
「だいぶ冷めてきた。この水を飲んだら次をくれ」
よし。焚きつけた。さきほどトースターで温めたので、すぐに出せる。またクロッシュをかぶせてナマエの前に出した。一品目よりは手早くクロッシュを開けてくれる。途端に頬がゆるんだ。
「まさか、これ」
そばに立つ自分を見上げる。ぱっと表情が明るくなった。
「ああ。かぎりなく再現したつもりだ」
店主が教えてくれた、キッシュ野郎お気に入りの品。わざわざ店名を口にする必要もない。もう理解し合っている。ひとくち含めば、心地よさそうに目を細めた。
「うん、同じ。いつもの」
さあ、ここからだ。噛んでいるうちに気づくはず。
「なにか入っている。生地の方? ピリッとする」
当てやがった。
「ペッパーのミックスだ。味が引き締まるだろ?」
「へえ。こういうのもアリだな」
どの程度キッシュを食べてきたのか。なぜキッシュにこだわるのか。
「ごちそうさま」
適度に会話を挟めるくらいには落ち着いた試食だった。最後は定番を。これもぺろりと平らげた。終始笑顔だったので悪い反応ではない。あらためて三品を一ピースずつ切り分け、ナマエの前に三皿並べる。
「どれが一番か。決めたか?」
まったく答えが読めない。最初の涙はどんな感情から引き起こされたのか。食が一番進んでいたのは最後の「定番」だった気もする。パン屋のオマージュは落ち着いて対処していた。
「一番って、つまり、どういう一番?」
気まずそうに目を泳がせている。意味がわからない。ナマエの言葉が続いた。
「いくらでも食べたいとか、一番おいしいとか。一生忘れられない味、ってのも」
思った以上に難しく考えていた。とにかく正直な感想を聞きたい。
「わかった。一番を決めなくてもいい。それぞれを食って何を感じたのか。順番に聞かせてくれ」
不安げな表情。無言でうなずいてやれば、三皿を見つめ、深呼吸した。まずは「定番」を手前に持ってくる。
「やさしい味。一番落ち着く。無心で食べられるのもこれ。きっと一番飽きない」
驚く答えではない。何十年、何百年と親しまれてきたからこそ「定番」と呼ばれるのだ。次はオマージュを手前に。
「おれにとっては『いつもの味』。食べるたびに新しい発見がある。さっきの『定番』よりパンチが強いから、一緒に食べる料理は選ばないといけない。一癖も二癖もあるけれど、他では食えない味だから、やみつきになる」
はっきり言って腹立たしい。ここまで評価される品が、他人の考えた料理だとは。我慢するつもりだったが、つい口をはさんでしまう。
「ペッパーを練り込んだ生地はいけるのか」
「おれはいつものやつで満足していたからな。ペッパー入りも売っていたら買うかもしれねェが、ときどきになると思う。結局いつものに戻りそう」
舌打ちしそうになるも必死に堪えた。
「で、最後にこれなんだが」
最初に食べた品を持ってくる。パン屋の品をさらに改良し、かぎりなくナマエの好みに寄せたオリジナル。半年以上、食への反応を総合的に分析した集大成。綿密にデータを拾ったつもりだ。もちろんすべてを欲張って詰め込んだわけではない。厳選に厳選を重ね、方向性を固めた。
「正直に、言ったほうがいい?」
自信なさげな声色。見上げてくる顔もぎこちない。
「最後だけごまかすのか」
キッと睨まれる。久しぶりの表情。懐かしささえ覚える。
「まいったな」
ため息がわざとらしい。しかし目元は真剣だ。一度目を閉じ深呼吸。
「はっきり言う。これは、だいきらいだ」
心臓がひねり潰される感覚。一瞬、自分の耳を疑った。
「どうしようもなく嫌いで、どうしようもなく食べていたい。こんなの初めてだ。初めてなのに、初めてな気がしない。わからない。全部めちゃくちゃで、気が狂いそうになる。毒が入ってるわけでもないのに。酒入りでもない。自分が自分でいられなくなる」
とっさにフォークをつかんだ。嫌いだと公言されたキッシュをカットし、ナマエの口元へ運ぶ。床に膝をつき、目線も合わせた。
「もう一度反応を見たい。食ってくれ」
「断る」
「ナマエ。たのむ」
一瞬、瞳が揺れた。フォークに乗せたカットは自分が口に含む。また切り分けてナマエへ持っていく。
「おれも一緒に食う。だからひとくち食ってみろ」
目の前のカットを見つめる。こちらとも目を合わせた。ゆっくりとうなずいてやる。そろり、そろりとフォークを咥えた。フォークを離し、皿に置く。噛みしめる姿を真横から観察した。
「嫌いな理由、言えそうか」
噛むたびに顔がゆがみ、目元からこぼれそうになる。自分も食べた。またカットし、口元へ持っていってやる。ナマエもふたくち目を。
「どんな味だ。甘いか、辛いか、酸っぱいか、塩っぱいか」
単純な質問から始める。
「やわら、かい。すごく、くすぐったい。噛んでいると熱くなる」
食感。そして体の反応。こいつの何を刺激しているのか。
「うれしいし、かなしい。でも急にくるしくなる。何かが込み上げてくるのに、途中で全部はじける。だから余計に混乱する。おいしい。おいしいんだよ。でも、おいしさの前に気が狂いそうになる」
同じものを食しているはずなのに、まるで印象が違う。なぜナマエだけ気が狂うほど感情が乱れるのか。
「前に似たようなキッシュを食ったことがあるのか」
勢いよく首を横に振る。すでに涙が一筋こぼれていた。
「こんなの初めて。全部投げ出して、全部忘れたくなる。すごく、こわい」
こいつにとって、知らない感情を引き出しているのでは。知らない自分が見え隠れするから恐れるのでは。勝手に口が動いた。
「おれに全部、預けてみないか」
わずかに目が丸くなる。周りの誰かが息を呑んだ。
「気が狂うなら、おれが最後まで面倒を見る。こわいなら、ずっとそばにいてやる。暴走しそうになったら、おれが全力で止める。いま、ぐちゃぐちゃになっちまってるかもしれねェが、その先に何があるか、知りたくねェか?」
「その、さき?」
「ナマエも知らない、なにかがある。渡りきった先には、なにかが見える。きっとそうだ」
感情が高ぶるあまり、手をとってしまう。自分から目をそらしてほしくない。迷うな。おれを信じろ。
「サンジが、ずっといてくれる?」
「ああ」
「どうなるか、わからないよ?」
「どうなったっていい。おれが全部受け止める」
強く手を握りなおす。顔を近づけ、まっすぐ声を届ける。
「しんじて、いい?」
「信じろ。ナマエにささげる。この身を全部」
ゆるりと肩が下りていく。上体がふらついたので、とっさに腕をまわして支えた。うつろな瞳。額を合わせてみる。熱い。なんて熱だ。
「どけ、サンジ」
背中に蹴りが入る。ジジイだ。軽く突かれた程度なので、ナマエを支えなおし、後方を見上げる。
「なんだ、ジジイ」
「どけと言った。ナマエを貸せ」
強引に奪い取られる。ざっくりとナマエを担ぎ上げた。
「いつもの部屋を使えるようにしろ。寝かせる」
いつもの。ナマエが寝泊まりする部屋。普段は物置なので、ナマエが泊まる際だけベッドを下ろす。毎回自分が準備していた。
「さっさと行け。それまでおれの部屋で寝かせる」
意味がわからない。なぜジジイの部屋なのだ。
「おれの部屋でいいだろ。第一、今日こいつが泊まるかわからねェ。休ませるだけなら──」
「お、おい、サンジ」
パティ。なぜこのタイミングで口を挟む。
「バカには何言っても通じねェ。これは命令だ。おれの部屋で寝かせたくねェなら、さっさと掃除してこい」
これは本気だ。しぶしぶ店員食堂を抜け、物置を換気し、ベッドを下ろす。すぐさま三階へ向かった。ジジイはデスクチェアに座り、ナマエはベッドで横になっている。目を閉じていた。
「部屋の窓も扉も全開にしておけ」
ジジイが振り返る。物置のことだ。言うことには従うが、どうしてもひとつ聞きたい。
「なんで、さっき止めた」
ナマエがキッシュを食べるのを、なぜ邪魔した。
「親のけじめだ」
あたまが、まっしろになる。
「なに、言って」
「当分は、あのキッシュを食わせるのはやめろ。体に負担がかかる」
負担。
「悔しかったら、負担がかからねェ配分を見つけてみろ」
配分。あの、究極のレシピを妥協せねばならない。
「それもコックの役目だ」
ナマエを振り返る。まだ顔は赤い。汗でぬれた髪が額に貼り付いている。
「起きたら水を飲ませておけ」
ジジイの視線の意味を理解し、ナマエを抱き上げる。二階に下り、物置へ。ゆっくりと寝かせるも、まだ目は覚めない。ベッドの横で膝をつき、顔をながめる。一時的な発熱。そうに決まっている。キッシュに毒など盛っていない。自分が何度も味見した。
「さん、じ」
掠れ声。うっすらと目が開いた。手が伸びてくるので重ねる。
「調子はどうだ。気持ち悪いか」
「ちょっと、体が重いだけ。急に熱くなって、フリーズしたみたい。ごめん」
フリーズ。体に負担がかかり、自ら動作を急停止した。
「あやまるな。もう少し寝とけ。水をとってくる」
「まって」
立ち上がりかけたが、体勢を戻す。眼鏡を外し忘れていたので、とってやる。ジャケットを脱がし、髪もほどいた。
「大事なこと、言えてない」
また手を重ねる。今度は握り返された。
「このあいだ、手合わせのあと、勝手に帰って、本当に──」
とっさに言葉をかぶせた。
「もういい。わかってる」
笑いかければ、くしゃりと顔をゆがませた。瞳が揺れる。
「おねがい。最後まで言わせて」
瞳を閉じる。数秒の沈黙が流れ、ゆっくりと視線が交差する。力強いまなざし。
「あのとき、急に距離が近くなって、自分の知らない声が出て、すごくびっくりした。知らない自分を見られて、急に恥ずかしくなった。恥ずかしくて恥ずかしくて、サンジにどんな顔すればいいか、わからなくて」
よかった。嫌われたわけではなかった。
「どうやってまた会えばいいか、わからなかった。謝るのも変な気がして、バラティエに行きにくくなってた。だから、手紙をもらえてうれしかった」
大丈夫。わかっている。
「キッシュに気づいて、さすがだと思った。やっぱり一流コックは目のつけどころが違う」
「当たり前だ。おまえの好みくらい難しくも何ともなかった」
いや、あのパン屋に行き着いたのは偶然だった。もしかしたら、顔なしヒーローが引き合わせてくれたのかもしれない。
「サンジ、ありがとう」
頬がとろけた。まばたきすら忘れ、深く深く引き込まれる。
「今度は楽に食えるキッシュをつくる。完成したら、また食ってくれるか」
「それは『副料理長の気まぐれランチ』? 新作メニューってこと?」
今日の最初に交わした言葉。余計な労力がかかると気を遣われている。
「賄い料理だ。キッシュは日持ちするし、大量に作りやすい。味にうるさいコックたちも満足できる」
実際、試行錯誤したキッシュの評判は上々だった。ゴーサインが出た三品をさきほど食べさせた。
「それなら。待ってる」
一気に力が抜ける。そのままベッドに顔を埋めてしまった。
「サンジも疲れた?」
頭をなでられている。おとなしく受け入れた。
「緊張がとけた、ってやつだろうな。今日はよく眠れそうだ」
そういえば、なぜジジイはナマエの寝場所として自室を避けたのか。
「あとでショーの日程を決めていい?」
ようやく再開だ。これで問い合わせにも明るく応対できる。
「そうだな。一時間後くらいでいいか」
まだなでられていた。ベッドから顔を離したくない。
「うん。そうしたら次の定期便で帰るよ。明日は用事があるから」
ぼんやりと廊下を見つめる。扉が全開なので、突き当たりまで見わたせた。長いコック帽。ジジイが三階から下りてきた。こちらを振り返る。立ちどまるも、すぐに店員食堂へ入っていった。ようやく思い出す。水を飲ませなければ。
「すぐ戻る」
顔を上げれば、頭から手が離れる。もう顔の熱は引いていた。
「急がなくていいよ」
「それなら。いってくる」
いつのまにか舌になじんだ言葉。じっと見つめていれば、ナマエの頬がゆるむ。
「うん」
惜しいような、惜しくないような。なんとなく手を伸ばし、頭をなでておく。気持ちよさそうに目を細めた。胸のあたりで何かがこみ上げるも、勢いよく立ち上がる。足取り軽く部屋をあとにした。
さらに一週間後。三品に絞ったところで、ようやく待ち望んだ姿が現れた。他の客と同じように入店し、席に着いたが、すかさずテーブルに向かう。しっかりと顔を見て話した。
「ご注文は『副料理長の気まぐれランチ』でよろしいでしょうか」
もちろんそんなものはメニューにない。無表情ながら目を合わせてくれる。
「頼まれたから来た」
端的な音。手紙には「新作メニューを試食しにきてくれ」と書いたのだ。
「かしこまりました。奥の部屋へご案内します」
他の客に怪しまれぬよう当たり障りのないフレーズを選ぶ。二階店員食堂への誘導に成功。厨房に戻り、寝かせておいた三品をすべてトースターに入れる。温めなおすだけなので数分で終わった。問題は、どれを最初に食わせるか。
キッシュの定番。
キッシュ野郎お気に入りの、パン屋の品を再現したオマージュ。
パン屋の品をさらに改良し、かぎりなく好みに寄せたオリジナル。
ひとつをカットし、銀の蓋をかぶせる。店員食堂へ戻れば騒がしくなっていた。ひとりふたりではない。ほぼ全員が集まっているではないか。
「てめェら、仕事はどうした」
パティ、カルネをはじめ、コックたちがニカリと歯を見せる。
「くじで二人が厨房に居残りだ。おれたちも立ち会わせろ」
部屋の隅に長いコック帽も見えた。
「おい、ジジイ。いいのか」
コックたちが両端に分かれ、長いコック帽の全貌がお目見えした。お互い、鋭く視線がぶつかる。
「試食ならすぐ終わる」
今度はナマエがジジイを振り返った。背筋を伸ばし、軽く頭を下げる。向きなおり、正面のクロッシュをつかんだ。半分開けたところで手がとまる。まっさきにこちらを見上げた。予想どおりの反応。すぐに言葉をつむぐ。
「おれの新作だ。食ってみてくれ」
横にクロッシュを置き、フォークを手にとる。小さくカットし、口に含んだ。ゆっくりと噛みしめている。まだ無表情。フォークを持つ手は停止し、ようやく飲みこむ。じっとキッシュを見下ろしている。まだ声をかけてはならない。コックたちも今日ばかりは空気を読み、誰もが口を閉じていた。またナマエの手が動く。ふたくち目。少し大きなカット。口に入れてすぐに顔を下げた。テーブルに肘をつき、両手を額にあてがい、わずかに震えている。それでも口は動きつづけた。鼻をすする音。三口目をカットする瞬間、顔を覆っていた手が離れる。隙間からのぞいた目元には涙が一筋こぼれていた。それでも手はとまらない。口も動く。ときおり喉がひくつき、きつく口を結ぶ。途中で眼鏡も外した。膝のナプキンで涙を拭き、食事を再開する。最後のひとくちを食べ終えるまで、ナマエは沈黙を守った。
「ごちそう、さ、ま」
ぽつりと小さな音。顔を伏せているので声をかけにくい。それでもどうにか目を合わせたい。真横で膝をつき、じっと待つ。水を入れたグラスも置いた。
「あと二皿あるが、どうする。まだ食えるか」
感想を聞くのは諦めた。やわらかい音で次の選択肢を提示する。
「いま、全部、ぐちゃぐちゃで、わからなくなってる。新しいのを、たべても、ちゃんと、あじわえるか、な」
顔が赤い。声も弱々しい。なぜこうなってしまったか。問いただしたい衝動をぐっと抑える。
「ちょっと休むか? 次もキッシュだから温めなおせる」
ようやく目が合った。顔をゆがませ、力なく歯を見せる。
「おれを殺す気か?」
意外な言葉。おどけた声色。笑っているので冗談のはず。たかが料理一品で、ここまで感情が急変するのか。こいつにとってキッシュは起爆剤。あらゆる感情を発火させた。
「おまえを殺したくない。だから今のうちに言っておく。今日はキッシュを三種類用意した。残りの二種類を食ったあと、どれが一番か聞くつもりだ。できそうか?」
「ああ……」
額に手をあてがい顔を伏せる。悩ましげな甘い嘆息。今のなかで、どの言葉が響いたのか。知りたい。聞きたい。だが焦ってはならない。たっぷり時間をかけて、気持ちを追いつかせる。
「だいぶ冷めてきた。この水を飲んだら次をくれ」
よし。焚きつけた。さきほどトースターで温めたので、すぐに出せる。またクロッシュをかぶせてナマエの前に出した。一品目よりは手早くクロッシュを開けてくれる。途端に頬がゆるんだ。
「まさか、これ」
そばに立つ自分を見上げる。ぱっと表情が明るくなった。
「ああ。かぎりなく再現したつもりだ」
店主が教えてくれた、キッシュ野郎お気に入りの品。わざわざ店名を口にする必要もない。もう理解し合っている。ひとくち含めば、心地よさそうに目を細めた。
「うん、同じ。いつもの」
さあ、ここからだ。噛んでいるうちに気づくはず。
「なにか入っている。生地の方? ピリッとする」
当てやがった。
「ペッパーのミックスだ。味が引き締まるだろ?」
「へえ。こういうのもアリだな」
どの程度キッシュを食べてきたのか。なぜキッシュにこだわるのか。
「ごちそうさま」
適度に会話を挟めるくらいには落ち着いた試食だった。最後は定番を。これもぺろりと平らげた。終始笑顔だったので悪い反応ではない。あらためて三品を一ピースずつ切り分け、ナマエの前に三皿並べる。
「どれが一番か。決めたか?」
まったく答えが読めない。最初の涙はどんな感情から引き起こされたのか。食が一番進んでいたのは最後の「定番」だった気もする。パン屋のオマージュは落ち着いて対処していた。
「一番って、つまり、どういう一番?」
気まずそうに目を泳がせている。意味がわからない。ナマエの言葉が続いた。
「いくらでも食べたいとか、一番おいしいとか。一生忘れられない味、ってのも」
思った以上に難しく考えていた。とにかく正直な感想を聞きたい。
「わかった。一番を決めなくてもいい。それぞれを食って何を感じたのか。順番に聞かせてくれ」
不安げな表情。無言でうなずいてやれば、三皿を見つめ、深呼吸した。まずは「定番」を手前に持ってくる。
「やさしい味。一番落ち着く。無心で食べられるのもこれ。きっと一番飽きない」
驚く答えではない。何十年、何百年と親しまれてきたからこそ「定番」と呼ばれるのだ。次はオマージュを手前に。
「おれにとっては『いつもの味』。食べるたびに新しい発見がある。さっきの『定番』よりパンチが強いから、一緒に食べる料理は選ばないといけない。一癖も二癖もあるけれど、他では食えない味だから、やみつきになる」
はっきり言って腹立たしい。ここまで評価される品が、他人の考えた料理だとは。我慢するつもりだったが、つい口をはさんでしまう。
「ペッパーを練り込んだ生地はいけるのか」
「おれはいつものやつで満足していたからな。ペッパー入りも売っていたら買うかもしれねェが、ときどきになると思う。結局いつものに戻りそう」
舌打ちしそうになるも必死に堪えた。
「で、最後にこれなんだが」
最初に食べた品を持ってくる。パン屋の品をさらに改良し、かぎりなくナマエの好みに寄せたオリジナル。半年以上、食への反応を総合的に分析した集大成。綿密にデータを拾ったつもりだ。もちろんすべてを欲張って詰め込んだわけではない。厳選に厳選を重ね、方向性を固めた。
「正直に、言ったほうがいい?」
自信なさげな声色。見上げてくる顔もぎこちない。
「最後だけごまかすのか」
キッと睨まれる。久しぶりの表情。懐かしささえ覚える。
「まいったな」
ため息がわざとらしい。しかし目元は真剣だ。一度目を閉じ深呼吸。
「はっきり言う。これは、だいきらいだ」
心臓がひねり潰される感覚。一瞬、自分の耳を疑った。
「どうしようもなく嫌いで、どうしようもなく食べていたい。こんなの初めてだ。初めてなのに、初めてな気がしない。わからない。全部めちゃくちゃで、気が狂いそうになる。毒が入ってるわけでもないのに。酒入りでもない。自分が自分でいられなくなる」
とっさにフォークをつかんだ。嫌いだと公言されたキッシュをカットし、ナマエの口元へ運ぶ。床に膝をつき、目線も合わせた。
「もう一度反応を見たい。食ってくれ」
「断る」
「ナマエ。たのむ」
一瞬、瞳が揺れた。フォークに乗せたカットは自分が口に含む。また切り分けてナマエへ持っていく。
「おれも一緒に食う。だからひとくち食ってみろ」
目の前のカットを見つめる。こちらとも目を合わせた。ゆっくりとうなずいてやる。そろり、そろりとフォークを咥えた。フォークを離し、皿に置く。噛みしめる姿を真横から観察した。
「嫌いな理由、言えそうか」
噛むたびに顔がゆがみ、目元からこぼれそうになる。自分も食べた。またカットし、口元へ持っていってやる。ナマエもふたくち目を。
「どんな味だ。甘いか、辛いか、酸っぱいか、塩っぱいか」
単純な質問から始める。
「やわら、かい。すごく、くすぐったい。噛んでいると熱くなる」
食感。そして体の反応。こいつの何を刺激しているのか。
「うれしいし、かなしい。でも急にくるしくなる。何かが込み上げてくるのに、途中で全部はじける。だから余計に混乱する。おいしい。おいしいんだよ。でも、おいしさの前に気が狂いそうになる」
同じものを食しているはずなのに、まるで印象が違う。なぜナマエだけ気が狂うほど感情が乱れるのか。
「前に似たようなキッシュを食ったことがあるのか」
勢いよく首を横に振る。すでに涙が一筋こぼれていた。
「こんなの初めて。全部投げ出して、全部忘れたくなる。すごく、こわい」
こいつにとって、知らない感情を引き出しているのでは。知らない自分が見え隠れするから恐れるのでは。勝手に口が動いた。
「おれに全部、預けてみないか」
わずかに目が丸くなる。周りの誰かが息を呑んだ。
「気が狂うなら、おれが最後まで面倒を見る。こわいなら、ずっとそばにいてやる。暴走しそうになったら、おれが全力で止める。いま、ぐちゃぐちゃになっちまってるかもしれねェが、その先に何があるか、知りたくねェか?」
「その、さき?」
「ナマエも知らない、なにかがある。渡りきった先には、なにかが見える。きっとそうだ」
感情が高ぶるあまり、手をとってしまう。自分から目をそらしてほしくない。迷うな。おれを信じろ。
「サンジが、ずっといてくれる?」
「ああ」
「どうなるか、わからないよ?」
「どうなったっていい。おれが全部受け止める」
強く手を握りなおす。顔を近づけ、まっすぐ声を届ける。
「しんじて、いい?」
「信じろ。ナマエにささげる。この身を全部」
ゆるりと肩が下りていく。上体がふらついたので、とっさに腕をまわして支えた。うつろな瞳。額を合わせてみる。熱い。なんて熱だ。
「どけ、サンジ」
背中に蹴りが入る。ジジイだ。軽く突かれた程度なので、ナマエを支えなおし、後方を見上げる。
「なんだ、ジジイ」
「どけと言った。ナマエを貸せ」
強引に奪い取られる。ざっくりとナマエを担ぎ上げた。
「いつもの部屋を使えるようにしろ。寝かせる」
いつもの。ナマエが寝泊まりする部屋。普段は物置なので、ナマエが泊まる際だけベッドを下ろす。毎回自分が準備していた。
「さっさと行け。それまでおれの部屋で寝かせる」
意味がわからない。なぜジジイの部屋なのだ。
「おれの部屋でいいだろ。第一、今日こいつが泊まるかわからねェ。休ませるだけなら──」
「お、おい、サンジ」
パティ。なぜこのタイミングで口を挟む。
「バカには何言っても通じねェ。これは命令だ。おれの部屋で寝かせたくねェなら、さっさと掃除してこい」
これは本気だ。しぶしぶ店員食堂を抜け、物置を換気し、ベッドを下ろす。すぐさま三階へ向かった。ジジイはデスクチェアに座り、ナマエはベッドで横になっている。目を閉じていた。
「部屋の窓も扉も全開にしておけ」
ジジイが振り返る。物置のことだ。言うことには従うが、どうしてもひとつ聞きたい。
「なんで、さっき止めた」
ナマエがキッシュを食べるのを、なぜ邪魔した。
「親のけじめだ」
あたまが、まっしろになる。
「なに、言って」
「当分は、あのキッシュを食わせるのはやめろ。体に負担がかかる」
負担。
「悔しかったら、負担がかからねェ配分を見つけてみろ」
配分。あの、究極のレシピを妥協せねばならない。
「それもコックの役目だ」
ナマエを振り返る。まだ顔は赤い。汗でぬれた髪が額に貼り付いている。
「起きたら水を飲ませておけ」
ジジイの視線の意味を理解し、ナマエを抱き上げる。二階に下り、物置へ。ゆっくりと寝かせるも、まだ目は覚めない。ベッドの横で膝をつき、顔をながめる。一時的な発熱。そうに決まっている。キッシュに毒など盛っていない。自分が何度も味見した。
「さん、じ」
掠れ声。うっすらと目が開いた。手が伸びてくるので重ねる。
「調子はどうだ。気持ち悪いか」
「ちょっと、体が重いだけ。急に熱くなって、フリーズしたみたい。ごめん」
フリーズ。体に負担がかかり、自ら動作を急停止した。
「あやまるな。もう少し寝とけ。水をとってくる」
「まって」
立ち上がりかけたが、体勢を戻す。眼鏡を外し忘れていたので、とってやる。ジャケットを脱がし、髪もほどいた。
「大事なこと、言えてない」
また手を重ねる。今度は握り返された。
「このあいだ、手合わせのあと、勝手に帰って、本当に──」
とっさに言葉をかぶせた。
「もういい。わかってる」
笑いかければ、くしゃりと顔をゆがませた。瞳が揺れる。
「おねがい。最後まで言わせて」
瞳を閉じる。数秒の沈黙が流れ、ゆっくりと視線が交差する。力強いまなざし。
「あのとき、急に距離が近くなって、自分の知らない声が出て、すごくびっくりした。知らない自分を見られて、急に恥ずかしくなった。恥ずかしくて恥ずかしくて、サンジにどんな顔すればいいか、わからなくて」
よかった。嫌われたわけではなかった。
「どうやってまた会えばいいか、わからなかった。謝るのも変な気がして、バラティエに行きにくくなってた。だから、手紙をもらえてうれしかった」
大丈夫。わかっている。
「キッシュに気づいて、さすがだと思った。やっぱり一流コックは目のつけどころが違う」
「当たり前だ。おまえの好みくらい難しくも何ともなかった」
いや、あのパン屋に行き着いたのは偶然だった。もしかしたら、顔なしヒーローが引き合わせてくれたのかもしれない。
「サンジ、ありがとう」
頬がとろけた。まばたきすら忘れ、深く深く引き込まれる。
「今度は楽に食えるキッシュをつくる。完成したら、また食ってくれるか」
「それは『副料理長の気まぐれランチ』? 新作メニューってこと?」
今日の最初に交わした言葉。余計な労力がかかると気を遣われている。
「賄い料理だ。キッシュは日持ちするし、大量に作りやすい。味にうるさいコックたちも満足できる」
実際、試行錯誤したキッシュの評判は上々だった。ゴーサインが出た三品をさきほど食べさせた。
「それなら。待ってる」
一気に力が抜ける。そのままベッドに顔を埋めてしまった。
「サンジも疲れた?」
頭をなでられている。おとなしく受け入れた。
「緊張がとけた、ってやつだろうな。今日はよく眠れそうだ」
そういえば、なぜジジイはナマエの寝場所として自室を避けたのか。
「あとでショーの日程を決めていい?」
ようやく再開だ。これで問い合わせにも明るく応対できる。
「そうだな。一時間後くらいでいいか」
まだなでられていた。ベッドから顔を離したくない。
「うん。そうしたら次の定期便で帰るよ。明日は用事があるから」
ぼんやりと廊下を見つめる。扉が全開なので、突き当たりまで見わたせた。長いコック帽。ジジイが三階から下りてきた。こちらを振り返る。立ちどまるも、すぐに店員食堂へ入っていった。ようやく思い出す。水を飲ませなければ。
「すぐ戻る」
顔を上げれば、頭から手が離れる。もう顔の熱は引いていた。
「急がなくていいよ」
「それなら。いってくる」
いつのまにか舌になじんだ言葉。じっと見つめていれば、ナマエの頬がゆるむ。
「うん」
惜しいような、惜しくないような。なんとなく手を伸ばし、頭をなでておく。気持ちよさそうに目を細めた。胸のあたりで何かがこみ上げるも、勢いよく立ち上がる。足取り軽く部屋をあとにした。