サンジ過去編
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朝の手合わせが三十戦を超えた。ナマエのクセも把握できたが、それを利用できる技術が追いつかない。スピードに付いていくのに精一杯。やる気がない日は引き分けまで持ち込めた。ジジイが見ていない日は気が抜けるらしい。この傾向にコックたちは気づいていない。全力で勝負に賭けて、全力で自分たちに野次を飛ばす。見られて悪い気はしないので好きにさせた。
手合わせ後の一服。開店前のおだやかなひととき。柵に肘をついていれば、となりにナマエが。妙に視線を感じる。
「どうした」
「煙草。そんなにうまい?」
「うまいぞ。くせになる」
実際、一度吸いだしたら手放せなくなる。
「料理の邪魔じゃねェのか」
「問題ない。どれだけ吸っても完璧に仕上げる一流コックが、ここにいる」
「ふうん」
この目は。
「葉巻とは違う?」
「手軽さは煙草の方が上だ」
ものは試し。いま吸っている分をナマエの口元に持っていく。
「最初は少し吸うだけにしろ」
口をつけた。目が合う。これは指示を待っている。
「煙を口にためて、煙草を離す。あとは口を開けて煙を出す」
口を離し、ふわりと煙が出てきた。顔をしかめる。
「どうだ、うまいか」
にがい顔。自分も同じ煙草を咥え、煙を吐く。
「煙をそのまま肺まで吸う奴もいる」
こっちを見てくるので、また煙草を持っていってやる。口をつけた。瞬間、体が跳ねる。激しく咳き込みだした。
「ばか。最初から肺に入れるな」
急いで煙草を咥え、ふらつく体を支える。まだ咳は止まらない。まずい。背中をさすり、肩を持つ。水を取りにいかねば。
「おい、何をしている」
振り返る。ジジイだ。咳き込むナマエに目を細める。簡潔に説明を。
「煙を吸った」
ギロリと睨まれる。
「コーンスープをぬるく温めろ。飲みやすいもんに入れてこい」
ジジイがナマエを担ぎ、すぐ横の自室へ入っていく。煙草を携帯灰皿に突っ込み、すぐさま厨房へ駆けだした。今日のスープに火をつける。ぬるい温度。やけどしない程度に飲みやすい温かさ。マグカップに注ぎ、自室へ。ナマエは横向きに寝かされていた。頻度は減ったが、まだ咳は続いている。
「これでいいか」
差し出せば、ジジイがナマエの上体をゆっくりと起こした。腕で体を支え、マグカップを口元へ持っていく。
「飲め」
顔を赤くさせ、目尻に涙をためた姿が痛々しい。ジジイの腕にしがみつき、マグカップを傾ける。途中、また咳き込んだ。その都度ジジイが背中をさする。ようやく落ち着いてきた。しばらく背中をさすっていたが、ゆっくりと寝かせ、ジジイが立ち上がる。部屋を出ていった。即座にベッドへ駆け寄り、ナマエの顔をのぞく。
「サンジ、出てこい」
ジジイの声。もう咳が出ないことを確認したあと、自分も外へ出る。歩きだすジジイのあとを付いていった。船の反対側まで来たところで立ちどまる。振り返りざまに一発。腹にめり込んだ。後方に吹き飛ぶ。なぜ蹴られたのか。理解はしている。
「あいつがいるときは密室にするな」
煙の吸いすぎを防ぐため、か。
「おまえの部屋に入れるなとは言わん。だが、必ず窓も扉も全開にしろ」
今まで、自分の吐いた煙で咳き込んだことはなかった。あいつが煙草を直接吸わなければ問題ないはず。だが今回はおとなしくジジイに従おう。
「わかった」
「てめェ、わかっているのか」
目を合わせる。その言葉を理解できない。
「何がだ」
わずかに目を細め、背を向けられる。
「自分で気づけ」
三階に上がっていってしまった。咳の原因を理解していないとでも思われたのか。そこまで馬鹿ではない。ナメられて腹が立つも、気を取りなおし自室へ戻る。
「ナマエ、大丈夫か」
体を丸めている。横向きでは眼鏡は邪魔だろう。外してやる。ようやく目が合った。涙で瞳が揺れている。
「わるい、めいわく、かけて」
「気にするな。まだスープいるか?」
首を横に振る。それでも息は苦しそうだ。もう一度スープをよそってくる。ジジイのようにナマエの上体を起こし、こちらに体を傾けさせ、マグカップを差し出す。むせそうになった時も背中をさすった。いったんマグカップを置き、正面からナマエを支える。背中へ腕をまわし、一定間隔でなでつづけた。こちらの肩に顔を乗せ、深呼吸をくり返す。自分も同じタイミングで息を吐き、吸った。
「もう、大丈夫」
胸元を押され、ナマエが離れる。起き上がろうとするので肩を押す。ジャケットを脱がし、そっと寝かせた。
「寝とけ。昼に様子を見にくる」
「でも」
「ナマエ」
名を呼び、まっすぐと見つめる。まだ涙がたまっている。こぼれる前に指ですくった。うしろでまとめた髪ひもをほどいてやる。
「そんな顔で接客されても困る。それにナマエのメインステージは今じゃねェだろ」
笑いかければ、ナマエの頬もそっとゆるむ。
「せっかくだ。今晩のまかない料理、リクエストを聞いてやる」
「いい。予定どおりつくって」
そう言われると思った。
「なら明日の分だ。言ってみろ。なにが食いたい」
口が開くも、また閉じてしまう。首を横に振った。
「サンジが、おれのために考えてくれたメニューがいい」
いつもなら攻め込んで本音を吐かせるが、今日はやめておく。
「わかった。とっておきを用意する」
そろそろ開店時間だ。窓をすべて開け、扉も閉じないよう重しを置く。最後にナマエと目を合わせれば、ひらひらと小さく手を振られる。つい口が動いた。
「いってくる」
声は聞こえないが、ナマエの口も動く。何を言ったのか。都合よく、自分勝手に解釈しておく。頭のなかで明日のメニューを組み立てながら店内へ下りた。
翌朝には元気な姿を見せた。今日は断るつもりだったが、ナマエに強く押され、足場の「ヒレ」を出す。三十二戦目。ナマエの動きは鈍るどころか、すこぶる調子がいい。
「なあ、サンジ。そろそろ別の手を考えたらどうだ」
こちらを挑発する余裕もある。
「このままだと、いつまでたっても一勝をもぎ取れねェぞ」
わかっている。今までにない、相手の不意をつくような奇策を、
「今日もこれで終わりか?」
背後をとられ、ゾッと血の気が引く。相手の顔を床に十秒以上押さえつけたら勝ち。もう何戦も前に決めたことだ。こちらの勝機を得るために持ちかけたルールだが、とことん利用されてしまった。両手を拘束されたら終わる。奇策。裏をかく。瞬時にしゃがみ、攻撃を避け、足をつかむ。一気に持ち上げた。バランスを崩した体を押し倒し、まっさきに両手を確保。こいつに何度も押し倒されているうちに体が覚えた。腰に体重を乗せ、うつ伏せに押さえつければ動けなくなる。手合わせで初めて手を使った。だが攻撃には値しないはず。自分なりのけじめだ。
「ナマエ」
まっすぐ名を呼べば一瞬固まる。反撃の隙を与えてはならない。一気にたたみかける。
「ナマエ」
遠くでコックたちの十秒カウントが始まった。まだ気を抜けない。顔をさげ、さらに上から体重をかけていく。耳元で名を呼ぶ。どうにか精神攻撃を。こいつの気力をそぐような、なにか。
「ナマエ」
まだカウントは七秒。挑発的な言葉は論外。意識を消沈させ、吸収してしまえばいい。気力を奪いとり、食いつぶす。そんな言葉。反発を助長する「命令」ではなく、相手を惑わし、迷いを生むような「誘惑」を、
あのときの、三時間。徹底的に意識を貪り尽くされた、
「どこから召し上がってくださる?」
「どこから食ってやろうか」
耳に唇を押し当て、低く、とろりと甘い音を。ナマエがビクリとはねた。口からこぼれたのは、さえずり。わずかに喉をふるわせただけの小さな鳴き声。瞬時に空気へ溶けた。まわりのガヤとは明らかに異なる音色。なにが起きたのか。
カウントの叫びが遠くなる。視界がまわった。腹に衝撃。真上に吹き飛ぶ。バラティエの屋根さえも視認できる高度。ナマエが下から追い上げてきた。空中で体をひねり、蹴りが飛んでくる。顔面に食いこむ直前で目が合う。ぐしゃぐしゃに顔をゆがませ、目元は涙であふれていた。受け身もとれず、海に叩き落される。
「おい! サンジ! そいつにつかまれ!」
泳ぐ気になれず、仰向けに浮かんでいると、浮き輪が飛んできた。浮き輪とつながっているロープをパティが引っ張っていく。すでに足場の「ヒレ」は畳まれていた。そんなに長いあいだ、自分は海に浸っていたのか。
「ほら、さっさと上がれ」
バラティエに引き上げられる。まわりを囲んでいるのはコック。あいつの姿はない。
「おまえら、何があったんだ」
なにも考えられない。水を吸った服が重くて動きづらい。コックたちから質問攻めにあうも、すべて振り切る。どうにか自室へ足を引きずった。ちょうど開店時間。急いで着替えなければ。十分後、一階に下りる。客はまばら。どうにか間に合った。
「おい、行っちまったぞ」
焦り声に振り返る。パティ。今日のウエイターは足りている。なぜこいつが店内に顔を出すのだ。
「うるせェ。さっさと仕事に戻れ」
「ナマエだ。もう帰った」
帰った?
「さっきの定期船だ。そのまま乗っていった」
昨日で三日間のショーを終えた。今日の二便目で帰る予定だったはず。しかも先ほどの定期船はローグタウン行きではない。方向が逆だ。
「あいつ、すっげェ顔してたぞ。おまえがシャワー浴びているあいだ、なんとか引き止めたかったが。やべェ雰囲気で、声をかけにくくてよ」
あの言葉で機嫌を悪くした。そうとしか考えられない。
「あいつが帰ったならどうしようもねェだろ。とにかく厨房へ戻れ」
パティは動かない。バツが悪そうに、たどたどしい言葉が返ってくる。
「おまえら、いつもナマエが帰る日に話すだろ。次のショーは決まっているのか」
息がとまる。どうにか口を動かした。
「そのうち向こうから連絡くるだろ」
「てめェ!」
胸ぐらをつかまれるが抵抗しない。じっと睨まれたあと、手がゆるみ、解放される。
「おれがどうこう言う筋合いねェが。とにかく、あんなナマエは初めて見た。それだけは伝えておく」
パティが厨房へ消えたところでひと息つく。店内を見まわし、オーダーがないか確認。まだ開店直後。自分には仕事がある。あいつのことは後まわしだ。気分を落ち着けるためにも、新しく煙草を取りだした。
そもそも、今までバラティエに電伝虫をかけてきたことがあったか。番号を知っているのか。気づけば一週間が経過していた。あいつの番号も知らない。次のショーはいつなのか、客から問い合わせがくるも、未定だと詫びる。
「さっさと謝ってこい」
コックたちには毎日同じことを言われる。はじめは適当にあしらっていたが、二週間経過したところで重い腰を上げる。とにかく会って話したい。あいつの遠征日程などまったくわからないが、イチかバチかでローグタウンへ買い出しにいく。宿をとったあと、まっさきにアパートへ向かった。不在。このまま収穫なしでバラティエに帰れば、確実にドヤされる。なにか手がかりを。
「試食やってるよー。新商品だ」
アパート向かいのベーカリー。かごを手に店員が声かけをしていた。パンを買い終えた客が歩いてくる。見覚えのある紙袋。たしか、あれは、
「おう、兄ちゃんじゃねェか! 久しぶりだな」
店員が喜々として駆け寄ってくる。この顔。半年前の定期市で。
「あれから顔なしヒーローには会えたのか」
そうだ。人質の彼女を預けた、パン屋の店主。アパートの真向かいだったのか。顔なしヒーローの意味をとっさに理解し、言葉をつなぐ。
「ああ。彼女の礼もちゃんと伝えた」
「そりゃよかった。ほら、兄ちゃんも食ってけ。今うちで大売り出ししているキッシュだ」
かごを差し出される。切り分けられたピースを手にとった。香ばしい。軽やかな食感。味も悪くない。しばらく店主と雑談する。このあいだ復活した、半年ぶりの定期市について。自分が出店したことも知っていた。
「よかったら、うちの商品も見ていってくれ。バゲットには自信がある」
普段は朝市で買い出しを済ませるため、ローグタウンの路面店まで手がまわらなかった。ショーケースの品ぞろえに胸が躍る。とりあえずバゲットを注文。試食したキッシュは種類が豊富だ。どれかひとつは買っていこうか。
「迷うなら、『キッシュの詰め合わせ』がオススメだ」
店主の指差したプライスカードを見る。全種類を一ピースずつ箱に詰めてくれる。値段も安い。さっそく注文。無料包装でリボンも付けられると言われ、頼んでみる。
「うまい売り方だな。包装もきれいだ」
「これがまた、評判いいんだよ。向かいのお客さんなんか、店を通るたびに買ってくれる」
向かいの、客。家にここの紙袋があった。
「ひょっとして、髪の長い、眼鏡の──」
「キッシュの兄ちゃん、お宅のところにも来たのか?」
勢いよく食いつかれ、思わずうなずいてしまった。この街にはベーカリーを練り歩く青年がいるらしい。どの店でも必ずキッシュを注文するので、店主たちのあいだではキッシュの兄ちゃんで通っている。
「ありがたいことに、うちも贔屓してもらえていてな。ときどき大量注文をもらえるんだ。ホールを二十、三十まとめ買いしてくれるから、もう頭が上がらないよ」
あいつ、何やってんだ。そんなに大量注文しては、ひとりで食べきれるわけがない。
「その兄ちゃんが詰め合わせメニューを考えてくれたんだよ。ピースの箱詰めがケーキみたいだって女性にも人気だ」
とにかく、そのキッシュ野郎はまちがいなくナマエだ。バラティエのメニューにキッシュはない。一度も食わせたことがなかった。今まで、好きな料理を聞いてもはぐらかされていたのに。たしかに調理に手間がかかるが、決して難しくはない。
「そのキッシュの兄ちゃんは、ここのなかでどれが一番のお気に入りだ?」
得意げに店主が指差したのは、
「もちろん、これだ」
手合わせ後の一服。開店前のおだやかなひととき。柵に肘をついていれば、となりにナマエが。妙に視線を感じる。
「どうした」
「煙草。そんなにうまい?」
「うまいぞ。くせになる」
実際、一度吸いだしたら手放せなくなる。
「料理の邪魔じゃねェのか」
「問題ない。どれだけ吸っても完璧に仕上げる一流コックが、ここにいる」
「ふうん」
この目は。
「葉巻とは違う?」
「手軽さは煙草の方が上だ」
ものは試し。いま吸っている分をナマエの口元に持っていく。
「最初は少し吸うだけにしろ」
口をつけた。目が合う。これは指示を待っている。
「煙を口にためて、煙草を離す。あとは口を開けて煙を出す」
口を離し、ふわりと煙が出てきた。顔をしかめる。
「どうだ、うまいか」
にがい顔。自分も同じ煙草を咥え、煙を吐く。
「煙をそのまま肺まで吸う奴もいる」
こっちを見てくるので、また煙草を持っていってやる。口をつけた。瞬間、体が跳ねる。激しく咳き込みだした。
「ばか。最初から肺に入れるな」
急いで煙草を咥え、ふらつく体を支える。まだ咳は止まらない。まずい。背中をさすり、肩を持つ。水を取りにいかねば。
「おい、何をしている」
振り返る。ジジイだ。咳き込むナマエに目を細める。簡潔に説明を。
「煙を吸った」
ギロリと睨まれる。
「コーンスープをぬるく温めろ。飲みやすいもんに入れてこい」
ジジイがナマエを担ぎ、すぐ横の自室へ入っていく。煙草を携帯灰皿に突っ込み、すぐさま厨房へ駆けだした。今日のスープに火をつける。ぬるい温度。やけどしない程度に飲みやすい温かさ。マグカップに注ぎ、自室へ。ナマエは横向きに寝かされていた。頻度は減ったが、まだ咳は続いている。
「これでいいか」
差し出せば、ジジイがナマエの上体をゆっくりと起こした。腕で体を支え、マグカップを口元へ持っていく。
「飲め」
顔を赤くさせ、目尻に涙をためた姿が痛々しい。ジジイの腕にしがみつき、マグカップを傾ける。途中、また咳き込んだ。その都度ジジイが背中をさする。ようやく落ち着いてきた。しばらく背中をさすっていたが、ゆっくりと寝かせ、ジジイが立ち上がる。部屋を出ていった。即座にベッドへ駆け寄り、ナマエの顔をのぞく。
「サンジ、出てこい」
ジジイの声。もう咳が出ないことを確認したあと、自分も外へ出る。歩きだすジジイのあとを付いていった。船の反対側まで来たところで立ちどまる。振り返りざまに一発。腹にめり込んだ。後方に吹き飛ぶ。なぜ蹴られたのか。理解はしている。
「あいつがいるときは密室にするな」
煙の吸いすぎを防ぐため、か。
「おまえの部屋に入れるなとは言わん。だが、必ず窓も扉も全開にしろ」
今まで、自分の吐いた煙で咳き込んだことはなかった。あいつが煙草を直接吸わなければ問題ないはず。だが今回はおとなしくジジイに従おう。
「わかった」
「てめェ、わかっているのか」
目を合わせる。その言葉を理解できない。
「何がだ」
わずかに目を細め、背を向けられる。
「自分で気づけ」
三階に上がっていってしまった。咳の原因を理解していないとでも思われたのか。そこまで馬鹿ではない。ナメられて腹が立つも、気を取りなおし自室へ戻る。
「ナマエ、大丈夫か」
体を丸めている。横向きでは眼鏡は邪魔だろう。外してやる。ようやく目が合った。涙で瞳が揺れている。
「わるい、めいわく、かけて」
「気にするな。まだスープいるか?」
首を横に振る。それでも息は苦しそうだ。もう一度スープをよそってくる。ジジイのようにナマエの上体を起こし、こちらに体を傾けさせ、マグカップを差し出す。むせそうになった時も背中をさすった。いったんマグカップを置き、正面からナマエを支える。背中へ腕をまわし、一定間隔でなでつづけた。こちらの肩に顔を乗せ、深呼吸をくり返す。自分も同じタイミングで息を吐き、吸った。
「もう、大丈夫」
胸元を押され、ナマエが離れる。起き上がろうとするので肩を押す。ジャケットを脱がし、そっと寝かせた。
「寝とけ。昼に様子を見にくる」
「でも」
「ナマエ」
名を呼び、まっすぐと見つめる。まだ涙がたまっている。こぼれる前に指ですくった。うしろでまとめた髪ひもをほどいてやる。
「そんな顔で接客されても困る。それにナマエのメインステージは今じゃねェだろ」
笑いかければ、ナマエの頬もそっとゆるむ。
「せっかくだ。今晩のまかない料理、リクエストを聞いてやる」
「いい。予定どおりつくって」
そう言われると思った。
「なら明日の分だ。言ってみろ。なにが食いたい」
口が開くも、また閉じてしまう。首を横に振った。
「サンジが、おれのために考えてくれたメニューがいい」
いつもなら攻め込んで本音を吐かせるが、今日はやめておく。
「わかった。とっておきを用意する」
そろそろ開店時間だ。窓をすべて開け、扉も閉じないよう重しを置く。最後にナマエと目を合わせれば、ひらひらと小さく手を振られる。つい口が動いた。
「いってくる」
声は聞こえないが、ナマエの口も動く。何を言ったのか。都合よく、自分勝手に解釈しておく。頭のなかで明日のメニューを組み立てながら店内へ下りた。
翌朝には元気な姿を見せた。今日は断るつもりだったが、ナマエに強く押され、足場の「ヒレ」を出す。三十二戦目。ナマエの動きは鈍るどころか、すこぶる調子がいい。
「なあ、サンジ。そろそろ別の手を考えたらどうだ」
こちらを挑発する余裕もある。
「このままだと、いつまでたっても一勝をもぎ取れねェぞ」
わかっている。今までにない、相手の不意をつくような奇策を、
「今日もこれで終わりか?」
背後をとられ、ゾッと血の気が引く。相手の顔を床に十秒以上押さえつけたら勝ち。もう何戦も前に決めたことだ。こちらの勝機を得るために持ちかけたルールだが、とことん利用されてしまった。両手を拘束されたら終わる。奇策。裏をかく。瞬時にしゃがみ、攻撃を避け、足をつかむ。一気に持ち上げた。バランスを崩した体を押し倒し、まっさきに両手を確保。こいつに何度も押し倒されているうちに体が覚えた。腰に体重を乗せ、うつ伏せに押さえつければ動けなくなる。手合わせで初めて手を使った。だが攻撃には値しないはず。自分なりのけじめだ。
「ナマエ」
まっすぐ名を呼べば一瞬固まる。反撃の隙を与えてはならない。一気にたたみかける。
「ナマエ」
遠くでコックたちの十秒カウントが始まった。まだ気を抜けない。顔をさげ、さらに上から体重をかけていく。耳元で名を呼ぶ。どうにか精神攻撃を。こいつの気力をそぐような、なにか。
「ナマエ」
まだカウントは七秒。挑発的な言葉は論外。意識を消沈させ、吸収してしまえばいい。気力を奪いとり、食いつぶす。そんな言葉。反発を助長する「命令」ではなく、相手を惑わし、迷いを生むような「誘惑」を、
あのときの、三時間。徹底的に意識を貪り尽くされた、
「どこから召し上がってくださる?」
「どこから食ってやろうか」
耳に唇を押し当て、低く、とろりと甘い音を。ナマエがビクリとはねた。口からこぼれたのは、さえずり。わずかに喉をふるわせただけの小さな鳴き声。瞬時に空気へ溶けた。まわりのガヤとは明らかに異なる音色。なにが起きたのか。
カウントの叫びが遠くなる。視界がまわった。腹に衝撃。真上に吹き飛ぶ。バラティエの屋根さえも視認できる高度。ナマエが下から追い上げてきた。空中で体をひねり、蹴りが飛んでくる。顔面に食いこむ直前で目が合う。ぐしゃぐしゃに顔をゆがませ、目元は涙であふれていた。受け身もとれず、海に叩き落される。
「おい! サンジ! そいつにつかまれ!」
泳ぐ気になれず、仰向けに浮かんでいると、浮き輪が飛んできた。浮き輪とつながっているロープをパティが引っ張っていく。すでに足場の「ヒレ」は畳まれていた。そんなに長いあいだ、自分は海に浸っていたのか。
「ほら、さっさと上がれ」
バラティエに引き上げられる。まわりを囲んでいるのはコック。あいつの姿はない。
「おまえら、何があったんだ」
なにも考えられない。水を吸った服が重くて動きづらい。コックたちから質問攻めにあうも、すべて振り切る。どうにか自室へ足を引きずった。ちょうど開店時間。急いで着替えなければ。十分後、一階に下りる。客はまばら。どうにか間に合った。
「おい、行っちまったぞ」
焦り声に振り返る。パティ。今日のウエイターは足りている。なぜこいつが店内に顔を出すのだ。
「うるせェ。さっさと仕事に戻れ」
「ナマエだ。もう帰った」
帰った?
「さっきの定期船だ。そのまま乗っていった」
昨日で三日間のショーを終えた。今日の二便目で帰る予定だったはず。しかも先ほどの定期船はローグタウン行きではない。方向が逆だ。
「あいつ、すっげェ顔してたぞ。おまえがシャワー浴びているあいだ、なんとか引き止めたかったが。やべェ雰囲気で、声をかけにくくてよ」
あの言葉で機嫌を悪くした。そうとしか考えられない。
「あいつが帰ったならどうしようもねェだろ。とにかく厨房へ戻れ」
パティは動かない。バツが悪そうに、たどたどしい言葉が返ってくる。
「おまえら、いつもナマエが帰る日に話すだろ。次のショーは決まっているのか」
息がとまる。どうにか口を動かした。
「そのうち向こうから連絡くるだろ」
「てめェ!」
胸ぐらをつかまれるが抵抗しない。じっと睨まれたあと、手がゆるみ、解放される。
「おれがどうこう言う筋合いねェが。とにかく、あんなナマエは初めて見た。それだけは伝えておく」
パティが厨房へ消えたところでひと息つく。店内を見まわし、オーダーがないか確認。まだ開店直後。自分には仕事がある。あいつのことは後まわしだ。気分を落ち着けるためにも、新しく煙草を取りだした。
そもそも、今までバラティエに電伝虫をかけてきたことがあったか。番号を知っているのか。気づけば一週間が経過していた。あいつの番号も知らない。次のショーはいつなのか、客から問い合わせがくるも、未定だと詫びる。
「さっさと謝ってこい」
コックたちには毎日同じことを言われる。はじめは適当にあしらっていたが、二週間経過したところで重い腰を上げる。とにかく会って話したい。あいつの遠征日程などまったくわからないが、イチかバチかでローグタウンへ買い出しにいく。宿をとったあと、まっさきにアパートへ向かった。不在。このまま収穫なしでバラティエに帰れば、確実にドヤされる。なにか手がかりを。
「試食やってるよー。新商品だ」
アパート向かいのベーカリー。かごを手に店員が声かけをしていた。パンを買い終えた客が歩いてくる。見覚えのある紙袋。たしか、あれは、
「おう、兄ちゃんじゃねェか! 久しぶりだな」
店員が喜々として駆け寄ってくる。この顔。半年前の定期市で。
「あれから顔なしヒーローには会えたのか」
そうだ。人質の彼女を預けた、パン屋の店主。アパートの真向かいだったのか。顔なしヒーローの意味をとっさに理解し、言葉をつなぐ。
「ああ。彼女の礼もちゃんと伝えた」
「そりゃよかった。ほら、兄ちゃんも食ってけ。今うちで大売り出ししているキッシュだ」
かごを差し出される。切り分けられたピースを手にとった。香ばしい。軽やかな食感。味も悪くない。しばらく店主と雑談する。このあいだ復活した、半年ぶりの定期市について。自分が出店したことも知っていた。
「よかったら、うちの商品も見ていってくれ。バゲットには自信がある」
普段は朝市で買い出しを済ませるため、ローグタウンの路面店まで手がまわらなかった。ショーケースの品ぞろえに胸が躍る。とりあえずバゲットを注文。試食したキッシュは種類が豊富だ。どれかひとつは買っていこうか。
「迷うなら、『キッシュの詰め合わせ』がオススメだ」
店主の指差したプライスカードを見る。全種類を一ピースずつ箱に詰めてくれる。値段も安い。さっそく注文。無料包装でリボンも付けられると言われ、頼んでみる。
「うまい売り方だな。包装もきれいだ」
「これがまた、評判いいんだよ。向かいのお客さんなんか、店を通るたびに買ってくれる」
向かいの、客。家にここの紙袋があった。
「ひょっとして、髪の長い、眼鏡の──」
「キッシュの兄ちゃん、お宅のところにも来たのか?」
勢いよく食いつかれ、思わずうなずいてしまった。この街にはベーカリーを練り歩く青年がいるらしい。どの店でも必ずキッシュを注文するので、店主たちのあいだではキッシュの兄ちゃんで通っている。
「ありがたいことに、うちも贔屓してもらえていてな。ときどき大量注文をもらえるんだ。ホールを二十、三十まとめ買いしてくれるから、もう頭が上がらないよ」
あいつ、何やってんだ。そんなに大量注文しては、ひとりで食べきれるわけがない。
「その兄ちゃんが詰め合わせメニューを考えてくれたんだよ。ピースの箱詰めがケーキみたいだって女性にも人気だ」
とにかく、そのキッシュ野郎はまちがいなくナマエだ。バラティエのメニューにキッシュはない。一度も食わせたことがなかった。今まで、好きな料理を聞いてもはぐらかされていたのに。たしかに調理に手間がかかるが、決して難しくはない。
「そのキッシュの兄ちゃんは、ここのなかでどれが一番のお気に入りだ?」
得意げに店主が指差したのは、
「もちろん、これだ」