サンジ過去編

Name

連載・短編共通の名前変換
ミョウジ
ナマエ
別名(仕事用の夢主のナマエ)
夢主の兄のナマエ
夢主の弟のナマエ

 ローグタウンの定期市は気分がいい。一日では巡りきれないほど店が立ち並び、客もひっきりなしに訪れる。サンジは出張販売に来ていた。バラティエの宣伝とウエイターの募集が主な目的だ。定期市が開催される三日間、ひとりで実演販売をこなす。初日から売れ行きは好調。前回出店したこともあり、自分を覚えていた客がまた買いにきてくれたのだ。客足を見越したのか、今回から壁際の広いスペースに割り当てられた。

「毎度ありがとうございます」
「またお店を出してくださいね」

 商品を手渡しながら、レディに全力で応える。今日は特に女性客が多い。目の前で調理する実演販売はとりわけ目を引きやすい。品ぞろえも自信がある。そして売り手本人が求められているのもわかっていた。普段どおり的確に素早く調理していけばいい。たまに、道行く女性に声をかければ完璧だ。こういう芸当はうちのコックには務まらない。この副料理長が抜擢されたのもうなずける。

 それにしても、となりはいつ開店するのだ。市場の客入りもピークに達しているというのに、いまだ商品どころか売り場すら設営されていない。買いにきただろう客が、手元の腕時計を気にしながら空スペースの前に並んでいる。客を待たせるとはどういうことだ。腹が立つも、淡々と仕事に専念する。

 十数分後。いよいよ空スペースに人が押し寄せてきた。異様な密集率に足をとめ、さらに人だかりが大きくなる。自分のところに並んでいる客も、となりを気にしはじめた。決して顔には出さないが、ふつふつと苛立ちが募っていく。

 女性の悲鳴が重なった。危機に直面した叫びではない。となりに足音。男がひとり、空スペース中央に現れた。商品を並べるでもなく、直立したまま身振り手振りで場を沸かせている。思わず調理の手をとめた。ただのジェスチャーではない。カードを消し、無数の花を出現させ、恭しく頭を下げる。あれは手品。マジシャン。となりはマジックショーのステージだったのだ。

 こちらに並んでいた客がひとり、ふたりと消え、となりへ移動する。やっとわかった。とりわけ女性客が多い理由。パフォーマンスを見ているのは若い子ばかり。マジシャンは男。ハットを深く被っているため、よく見えないが、口元は涼しげだ。ようやく我に返り、接客を再開する。だが、対面する客も例外なくとなりを見ていた。ショーが終わり、マジシャンが退場する三十分後まで。ろくにさばくことができなかった。

 パフォーマンスは一日に四回行われた。そのたびに客をとられ、悲鳴が重なり、自分もマジシャンの一挙一動を目で追いかける。

「百花のマジシャンよ」
「あのひとがカタリさん」

 客の会話を盗み聞きし、男の情報もおおよそ掴めた。翌日もとなりのスペースにマジシャンが立つ。やはりパフォーマンス中は客をとられるので、いさぎよく開きなおることにした。自分も手を休め、真横からマジシャンを眺める。マジックといえば、なにか仕掛けがあるはず。だが、客席でもない自分の位置から観察しても原理はわからない。こちらの視線に気づいたのか、退場する途中で男と目が合う。一瞬、口元がゆるんだ。

 なんだ、こいつ。

 客をとられたコックがそんなにおかしいか。無性に腹が立つ。

 三日目。定期市最終日。今日は徹底的にとなりを無視する。どれだけ拍手が鳴り響こうが、観客のため息が聞こえようが、手を止めてやるものか。自分の料理を求めてくれる客を大事にすればいい。そうわかってはいるものの、皆の視線がとなりへ注がれるたび、振り向きたい衝動を抑える。何が行われているのか。なぜ目を奪われるのか。あいつのどこがいいのか。

 発砲音。とっさに頭を下げたあと、周囲を見まわす。前方百メートル先。広場中央で銃を掲げている者がひとり。海賊だ。

「この広場はデュロック海賊団が占拠した! 死にたくねェ奴はカネを出せ!」

 あれが船長か。まずは現状確認。数十人いたはずの警備隊はすでにやられていた。海賊は百人いるかいないか。数が多すぎる。女の叫び声が響いた。船長に拘束されたのだ。彼女の手にある袋が、自分の店のものだと認識した瞬間、すぐさま飛びだした。

「言うことを聞かねェとどうなるか──」

 船長が彼女の首筋に刃をあてる。全速力で駆けても間に合うか。そもそも、彼女を助けられたとしても、どうやって百人を相手するのか。

 風が吹いた。後方から来た男に抜かされる。速い。姿を追いきれない。直後、爆発音が。一気に煙が上がる。

「白猟のスモーカーが来たぞ!」

 男の叫び声。爆発音は重なり、さらに煙が広がる。店主も客も一斉に逃げだした。女の悲鳴。まずい、人質が、

「彼女を! 安全な場所へ!」

 叫んだ男と同じ声。誰かが胸元に飛び込んでくる。人質の子だ。さきほど追い抜かされた男が自分に託した。目が合う。

「はやく!」

 男の声に動かされる。彼女を抱え上げ、無我夢中で駆けた。広場を抜け出し、海賊のいない区画まで走り、ようやく下ろしてやる。怯えた顔。手を重ね、どうにか言葉をつむぎ、ちょうど目が合ったパン屋の主人に彼女を預ける。すぐに広場へ戻った。まだ煙は引かない。野郎の雄叫びと銃声が響く。だが、着実に海賊は減っていた。自分も煙のなかに飛び込み、ひとりずつ海賊をのしていく。中央に戻った頃には視界が広がり、倒れた船長と、さきほどの男が見えた。男はこちらを振り返る。目が合うと、のんきに手を振った。

「てめェ、ひとりで」

 言葉を詰まらせてしまう。男は放り投げる蹴るをくり返し、倒れた海賊を中央に集めていった。この広場に立っている人間は、自分たち以外誰もいない。つまり、こいつが海賊を倒した。後方から足音が。海軍だ。

「面倒になる前に引くぞ」

 男の言葉を理解できずにいると、ぐいぐい腕を引っ張られる。自分たちが離れた中央に海軍が集まってきた。海賊を調べ、拘束している。

「現場に居合わせると、もれなく取り調べを受ける。おまえ、賞金稼ぎじゃねェだろ」

 男の足が止まった。腕も解放される。質問の答えよりも疑問ばかりが浮かんでしまう。

「なぜおれに託した」

 連れてこられた先が自分の店なのも偶然とは思えない。あの状況で、人質を渡せる相手だと判断されたのだ。純粋に理由を知りたい。目を合わせるも、男は笑みを浮かべるだけ。コインを店先に置いた。

「これ、ひとつ」

 なぜこのタイミングで注文するのか。並んでいる客もいないので、仕方なく応じてやる。機嫌よく頬張りながら、ようやく答えが返ってきた。

「あの子、ここの袋を持っていた」

 気づいていたのか。

「おまえが走りだした瞬間、何をするかわかったから」

 駆けだす自分を見ていた。つまり、そばにいた。

「ずっと食いたかったけど、列が長すぎてさ」

 さっき並んでいたのか。

「うん。うまい」

 またコインを置く。別の品をひとつずつ注文し、目の前で食べていく。

「よく食うな」
「完食したくてずっと狙っていたのに。いつも並んでるから」

 ここまでストレートに言われるのも悪い気はしない。もう少し話を広げてみる。

「前もうちに来たのか」
「いや、今回がはじめて。初日からすごい人気だからさ。結構噂されてたぞ。これを買うのにどれくらい並んだか、みんなが自慢していた」

 こういう話も、悪くない。

「もう、人は戻ってこないだろうなあ。あそこの海軍に絡まれたら厄介だし」

 男の視線につられ、ふたたび中央を振り返る。大柄な海軍将校が女性を怒鳴りつけていた。彼女も海兵だろう。あんな麗しいレディを、なぜ。思わず目を細めてしまう。

「あれが白猟のスモーカー。厳格な本部大佐だから、下手に目を付けられない方がいい」

 この男は町の事情をよく知っている。

「やけに詳しいな」

 とうとう最後の品を食べ終えた。「ごちそうさま」とつぶやいたあと、また目が合う。

「面倒ごとを避けるには情報がいるからな」
「つまり、てめェも賞金稼ぎじゃねェってことか」

 男は大げさに両手を上げ、目を丸くしてみせた。

「おれが賞金稼ぎ? まさか」

 その反応が妙におかしくて、つい吹き出してしまう。

「今日は店じまいだな」

 顔をしかめる男を横目に片付けはじめる。つくってしまった分はどうしようか。結構余っている。

「手伝うよ」

 不快な申し出でもなかったので、適当に指示する。当てなどないが、余った品はていねいに包んだ。

「それ、どうするの」
「持ち帰ってもしょうがねェしな。今から適当に売り歩くか」

 じっと見つめられる。少し気まずい。最終的に目をそらしてしまった。

「おれが全部買うのは、アリ?」

 頭が追いつかない。

「これを、全部か?」
「ああ。全部」

 冗談を言う顔ではない。少しずつ距離を詰められ、思わず後退してしまった。

「すごくおいしかった。だからみんなに食べさせたい」

 言葉が強烈で、また目をそらしてしまう。

「わ、わかった。全部持ってけ」
「ほんと? いいの?」

 ここまで喜ばれるのも悪くはない。

「食いてェ奴に食わせる。それがコックだ」
「ああ! さいっこうだ!」

 さっそく男はコインを出した。紙幣も数枚。定価どおりの額だが、コイン数枚は男に返却する。

「上客になってもらった礼だ。それで今度、うちに食いにこい」

 ランチなら余裕で食べられる額だ。

「では、遠慮なく」

 ひらりと会釈し、コインを受けとる。なんだ、この違和感は。

「そのお店って、どこにあるの」

 話題が変わったので気を取りなおす。

「海のどまんなかだ。ここから真東に一日進めば、『バラティエ』という海上レストランがある」

 男が「バラティエ」とくり返す。

「わかった。かならず行く」

 もう一度頭を下げたあと、包んだ品を両手で抱え上げる。相当な量だ。思わず声をかけてしまう。

「台車つかうか?」
「へいき。店の片付けに必要だろ? ほら、急がないと。海軍がこっちに気づいた」

 徐々に店主たちは戻ってきていた。各自片付けを始める。海軍は彼らに声をかけているのだ。そういえば、となりのマジシャンはどこへ行った。あの船長が発砲したときはパフォーマンス中だったはず。片付ける物もないから、そのまま単身で逃げたのか。薄情な野郎だ。

「そうだ。彼女はどうした。おまえのことだから、雑に捨てたりしねェだろ」

 彼女。人質の子。「雑」「捨てる」という単語が鼻につき、男を睨んでしまう。

「ああ、そんな顔するなって。わかってる。つまり、その、あれだ。帰りに時間があるなら、彼女の様子を、だな」

 なかなか断言しない男に痺れを切らす。

「ちょうど帰り道沿いだ。てめェに言われなくとも様子を見に行くつもりだった」

 一瞬、目を丸くしたあと、にがい顔になる。

「悪い。こっちも手が離せなくて」

 男は両手で抱え上げ、どうにか踏ん張っている状態だ。こんな量を誰に食べさせるのか。仕事先。仲間。家族。これ以上突っ込むのも野暮な気がし、自分も台車を引きはじめる。

「今日は災難だったな」

 男も歩きはじめた。これでもう別れる。なにか足りない気がするも、気楽な返答を選んだ。

「てめェもな」

 立ちどまり、男が思いきり歯を見せた。自分も煙草を咥えたまま口元をゆるめる。同じタイミングで互いに背を向け、一度も振り返ることなく広場をあとにした。

 宣言どおり彼女の元へ戻る。パン屋の主人と和やかに談笑していた。

「助けてくださり、ありがとうございます」

 何度も頭を下げられる。手元の袋はぐちゃぐちゃに潰れていた。さきほど全部持たせてしまったことを少し後悔する。

「悪い。せっかく買ってくれたのに」

 彼女は慌てて袋の中身を取りだした。

「これでいいんです。これが食べたかったんですから」

 目の前でかぶりつく。途端に彼女の頬がゆるんだ。

「おいしい。すっごくおいしいです。味も全然かわらない」

 そばで見ていたパン屋の主人がそっと微笑んだ。じわり、じわりと胸があたたかくなる。

「ごちそうさまです。私、これを買えて、食べることができて本当によかったです」

 彼女の瞳が揺れる。ああ、泣かせたいわけではないんだ。

「この御恩は一生忘れません。本当に、ありがとうございました」

 深く頭を下げたあと、また目が合う。最大限やわらかい笑顔を心がけていると、彼女がぽつり、ぽつりと言葉を続けた。

「あの。私を最初に助けてくれた方とは、お知り合いなのですか」

 前向きな答えを伝えたいが、静かに首を横に振る。

「おれも初対面だ。だが、今度うちのレストランに来ると言っていた」

 彼女が顔を伏せ、自身のスカートをぎゅっと握りしめる。

「勝手なお願いなのは承知しています。ですが、もしまた、その方にお会いしましたら、私が礼を言っていたと伝えていただけないでしょうか」

 顔を上げた彼女は、力強いまなざしを見せた。

「あの方がいなければ、きっと、私は」

 そうか。あいつ、こうなるとわかっていて。もしあいつが自分の立場だったら、どう答えるか。

「きみは元気に笑っていてくれればいい。あいつもそう思っているはずだ。伝言はかならず伝える」

 震える手をとり、そっと握る。ようやく彼女の空気がやわらかくなった。

 あれから一ヶ月。今日こそは、と客の顔をひとりずつ確かめるも彼は来ない。所詮、その場しのぎの口約束。名前すら聞かれなかったのだ。そんな相手の店になど興味を持つわけがない。代わりに「百花のマジシャン」の情報は嫌でも目についた。新聞で記事を見かけると、つい読んでしまう。東の海全域で活動しているらしい。あちこちで出没情報が報告されるが、本人の正体はつかめず。今まで一枚も写真が残らず、プロフィールも非公開。ただ、「カタリ」という名だけがひとり歩きする。

「おい、サンジ」
「うるせェ」

 盛り付け中だ。見ればわかるだろ。

「きたぞ」
「だまれ。気が散る」

 三枚におろすぞ。

「おまえの言っていた野郎がだな──」

 手をとめ、振り返る。挙動不審に目を泳がせるパティに、大きくため息をついてしまう。

「何の話だ」
「てめェがさんざん言っていた野郎だ。一ヶ月前か何だかに、ローグタウンで会ったとかいう」

 ゆっくりと言葉を飲み込み、理解するも、盛り付けを再開する。このソースで完成するのだ。

「黒髪でうしろにまとめている。眼鏡もある。背の高さもてめェくらいだ。ありゃ確実に若い」

 できた皿をパティに押し付ける。

「てめェが見つけた奴は、似ても似つかないボンクラばかりだった。どうせ今回もハズレだ」

 いい加減、もう忘れよう。胸の内で彼女に謝っておく。

「信じられねェなら自分の目で見てこい。まだ注文はとってねェ」

 テーブル番号を告げ、グラスを乗せたトレイを渡される。ちょうど手が空いた。あとでパティをシメるためにも顔くらいは確かめにいこうか。足が重い。あのテーブルか。たしかに髪を結んでいる。そう。体格もあれくらい。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」

 背後から水のグラスを置く。

「はじめてだから、オススメがいいな」

 まあ、声もこんな感じだった。

「では、『副料理長の日替わりランチ』はいかがでしょう。旬の食材をふんだんに使用しております」

 窓越しに海を遠く見渡したあと、ようやく客の顔を見る。

「いいね。じゃ、それで」

 息が止まる。まばたきも忘れた。

「なんだよ。来たらまずかったか?」

 口を開けるも声が出ない。

「ああ、悪い。遅くなった」

 気まずそうに目をそらされる。ようやく声を振りしぼった。

「てめェを待つほど暇はねェんだよ、こっちは」

 死んでも言うものか。

「うん。すごく忙しそう。いい店だ」

 また目が合う。いまいち表情が決まらずにいると、彼がニカリと歯を見せた。

「おれは今、腹が減ってる。その日替わりランチを食わせてくれ」

 ぎこちなく首を縦に振る。懸命に足を動かし、どうにか厨房に戻った。頭を左右に振り、気を引きしめる。周りがうるさい気もするが、調理に集中する。

「あれが本物か」

 この、パティの笑顔が気に食わない。

「うるせェ。邪魔するな」

 ニヤつくコックたちを何度も振り切り、できあがった皿を手に彼のテーブルへ。ひとくち、またひとくち口のなかに消えていく。言い知れぬ緊張感。何度か質問され、食材をていねいに答えていく。途中、そばの客に呼ばれたのでテーブルを離れた。今が一番忙しい時間帯。注文に追われ、店内と厨房を忙しなく行き来する。

「おい、あいつ帰っちまうぞ」

 一瞬、手をとめてしまうも、パティを振り返ることなく適当に口を動かす。

「ああ」
「おまえ、まともに話してねェだろ」

 今さら、今さらだ。もう一ヶ月も経った。

「どけ。あとはおれがやる。さっさと行け」

 パティに皿を奪われる。コックたちに無理やり背中を押され、厨房から外へ飛びだした。勢いづいたあまり、柵も飛び越えそうになる。どうにか踏みとどまった。また扉が開閉する。外に出てきたのは、

「サンジは昼休憩だ。三十分はそこから動くなよ」

 パティの叫び。今度こそ完全に扉が閉まった。こちらにひとり、歩いてくる。

「悪い。こんな忙しい時間に」

 彼もとなりにやってくる。ふたりして海を眺めた。心を落ち着かせ、頭を整理するためにも新しい煙草を取り出す。

「ゆっくり食えたのか」

 あのパティのことだ。食事を急かし、無理やりここへ連れてきたのでは。

「ごちそうさま。いい時間を過ごせたよ。彼は気前がいいね」

 パティが? まさか。

「さっき教えてもらってびっくりしたよ。あの日替わりランチをつくったのは、おまえなんだってな」

 どう答えるか迷い、適当に煙を吹かす。まだ目は合わせない。

「どうりで全部おいしいわけだ。まさか、副料理長だったとは」
「意外か?」
「人は見た目じゃない」

 視線を感じ、ゆっくりと向きなおる。どこか空気が重い。

「完全にそう言い切れるか?」

 くしゃりと笑みがこぼれた。つい自分も頬をゆるめてしまう。

「わかってる。おまえの料理があんなに売れたのは、味だけじゃねェってことくらい」

 これ以上広げるのはスマートではない。適当に話を振る。

「ローグタウンから遠かっただろ」
「これくらい大したことねェよ」

 なら、どうしてすぐ来なかった。

「実は今日、話があって」

 彼女を思い出す。

「それはおれが先だ。伝言がある」

 この言葉だけは忘れてはならない。毎日胸に刻みなおした。

「あのとき助けた彼女が、おまえに礼を言っていた。次に会うときがあれば伝えてほしいと、頼まれていた」

 ようやく約束を果たせた。

「そうか」

 彼はまた海を見渡す。少しにがい横顔。

「てめェ、元から彼女と顔を合わせる気がなかっただろ」

 海を見ながら、肩をすくめてみせる。

「煙幕で顔はわからなかったはずだ。彼女が無事ならそれでいい」

 あの煙幕も計算されていたのか。いや、この言い方は、

「てめェがあの煙を発生させたのか」
「そうだけど?」

 白猟のスモーカーについても軽く調べた。奴は煙を操る悪魔の実の能力者。こいつは、白猟が出現したと見せかけた。

「あの一瞬で、そこまで動けるとはな」

 また目が合う。今度はニタリと気味悪く歯を見せた。

「副料理長の目に留めてもらえるとは光栄だ」

 一歩後退し、深く頭を下げる。まただ。この違和感。妙に仰々しい。

「ぜひ副料理長のお耳に入れていただきたい話がありまして」

 彼が取り出したのはハット。深く頭に被り、目を合わせてくる。そっと口元がゆるんだ。なんだ、これは。

「東の海で活動する、とあるパフォーマーをご存知ですか」

 そもそも、どこからハットを出した。いや、まさか、

「ここはすばらしいレストランだ。僕は多くのひとを楽しませたい。みんなの笑顔が見たい。バラティエで、より充実した時間を過ごしてもらいたい」

 身振り手振りに気をとられ、彼から目をそらしてしまう。次の瞬間、スーツが変わった。一ヶ月前、となりに立っていた男。客を奪われ、自分も何度か手をとめた。あのときのように、彼が差し出した手から花が出現する。無数の花弁が舞った。

「百花のマジシャン、カタリ。以後、お見知りおきを」
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