ロー連作
Name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
自室を出てまっさきに気づく。やけに廊下の空気が悪い。換気システムは潜水艇の要。とりわけ現在ポーラータング号は船橋以外を潜水し偉大なる航路を航行していた。モニタリングを怠っているのか、大元のスイッチをいじったのか。どちらにせよ船長室への呼び出しは確定。こんな朝っぱらからトラブル処理とは。
時刻は午前九時すぎ。朝食後、船員は持ち場に散った時間帯。換気が停止しているため、エンジン音のみが足もとから響き渡る。とにかく廊下の空気を入れ替えたい。自室を開け放ち、この階でもっとも広い船首側の一室へ。廊下の突き当たりにたどり着くと妙な光景に出くわす。ラウンジの扉に一枚、デカデカと。
《午前中 立入禁止》
誰だ。こんな張り紙を許可した覚えはない。ためしに後方を振り返り、他にも異変がないか廊下を見渡す。換気以外は問題なし。船長に報告しにくい件でもあるのか。ラウンジの備品破損。十分考えられる。念のため、最悪の事態も想定せねば。誰に確認をとるでもなくラウンジの扉を押し開けた。
天井のファンは稼働中。壁掛けの船内電伝虫も異常なし。滞在者ゼロ。照明はすべて落とされている。妙に静かだ。左から右へ、ぐるりと首をまわして後悔する。天井沿いの壁に、昨日まではなかった布が。横長の二メートル超を巻き上げて吊るしてある。もうそんな日か。航海日誌を開いた時点で気づくべきだった。
足もとの影が動く。ラウンジの床には青色の楕円形がいくつか点在していた。このゆらめく淡い光源はポーラータングの外から差し込む。楕円の中でまた黒い影が移動する。とっさに後方の窓を振り返った。ポーラータング付近を移動する物体といえば、魚。全長はヒトに近しい。尾びれは見えたが、あれは。ヒトと同じ腕、上体。影が何度か窓を通り過ぎる。無意識のうちに窓辺へ歩み寄り、立ち尽くしていた。影が減速し、こちらへ顔を見せる。いつもなら悠長に手を振ってくるが、今日は目を丸めて急接近する。大きく口を動かした。
うしろ みないで
声ではなく口の動きで判断する。読唇術と呼ばれる大層な代物でなくとも、この程度なら造作もない。うしろといえば、あの弾幕か。やけに落ち着きがないので素直に首を横に振っておく。
「諦めろ」
発した声が海中へ届くはずもなく。向こうはしきりに手を動かし、なにかを訴えかけている。
「ナマエ」
動きが止まった。つまり通じた。本人の名は口の動きだけで認識できたのか。たしかにありえる話ではある。
いま なまえ よんだ?
しっかりうなずいておく。
ごめんなさい ほかの ことば よく わからなくて
妙にしょげている。窓ガラスに両手を置き、顔もうつむかせて。なぜ勝手に落ち込む。なぜ悲しむ。
「こんなどうでもいいことでへこむな」
ナマエの手に自身のそれを合わせる。窓にふれてから気づく。普段ならば絶対にこんなことはしない。ガラスに指紋を付けることほど愚かな行為はないのだ。あとで拭き取っておかねば。一度指紋を付けてしまったからには開きなおる。もう片方の手もナマエに重ねた。ようやく目が合う。
「聞こえるか」
ためしに声を張ってみる。そもそもポーラータング号の窓は高水圧に耐えるため、普通のガラスではない。こんな窓越しの会話など、設計時に想定できるはずが。
「顔を見せろ。口の動きで読める」
反応なし。目線が下がっているため、こちらが膝を曲げて下からのぞき込む。ナマエが目を丸めた。いまいち意図が伝わっていないので、こちらもジェスチャーで対応する。まずは自身の唇を指差す。そして口を開閉する。わかりやすい単語といえば、
「もっと、笑え」
少し待ってみる。目を泳がせたが、ナマエが口を閉じる。わずかに歯を見せたかと思えば、徐々に口角が上がっていった。首も傾げてみせる。
わらって みました
ようやくまともな顔に。そっと息をついてしまう。そして今さら気づく。顔を近づければ、それなりに声が届くのだ。鼻先がふれないギリギリまで窓に近づく。ジェスチャーで手招きを。
「もっと近づけ。声、聞こえるか」
微妙な反応。変わらず手招きを続ける。数秒後、さまざまな感情に見切りをつけ、コツンと額を窓に当ててみる。今度は目線が下がってしまうため、わずかに顔を横へ向ける。額ではなくこめかみが接していた。ナマエと目を合わせる。
「おれの声。聞こえるだろ」
ナマエの目が丸くなり、ぎこちない笑顔から、はじけた。両手を口もとに当てて、体が窓から離れる。すぐに戻ってきた。同じように額を合わせてくる。こちらは右のこめかみを、向こうも右のこめかみを。真正面ではなく、互いに窓を挟んで斜め向かいを見つめ合っていた。屈折率が高いため、目を合わせにくい。位置調整に手こずり、ようやくいまの場所に落ち着く。声さえナマエに届けば問題ないというのに、何をそこまで拘る必要が。
「すごい。ちゃんと聞こえた。うそみたい」
手放しで喜ぶさまは、いかにもナマエらしい。
「当たり前だ。それで、さっき何か言っただろ。どうした」
「あの、どうしても、うしろは見てほしくなくて」
「ああ。おまえは気にするな。毎年こうだ。あいつらの下準備でおれが先に気づく。そのあと気づかねェフリをするのも毎年だ」
「そう、だったのですか」
勝手に察して勝手に落ち込んでいるようだが、うまい返しが思いつかない。適当に話題をそらすか。
「窓に張り付いて面倒じゃねェのか。ポーラータング、そこそこスピードが出てるだろ」
「そんなに難しくないですよ。尾びれを軽く動かしておけば付いていけるので」
なかなか器用な芸当をやってのけているらしい。人魚だから当然といえば当然か。
「あなたの手、こんなに大きかったのですね」
ナマエがこちらの形に沿って指を開く。右手も、左手も。その動作が妙にむず痒く、左手は窓から離してしまう。瞬間、ナマエの表情がわかりやすく曇った。顔をさらに窓へ寄せて、はなれた左手を目で追う。何をそんな、いちいち。そっと息をついてしまう。ふたたび左手を窓に張り付かせた。ナマエの手と同じ場所へ重ねる。
「これで満足か」
反応が悪い。たったいま重なった手を、ぼんやりと。
「あ、あの」
唇を噛みしめたあと、くるしそうに顔を歪ませる。きつく瞳も閉じた。しかし次に目が合ったときには頬がゆるむ。口は弧を描き、心なしか耳が色づいていく。
「せっかくなので、いま、いいですか」
「どうした」
何をそんな改まって。いまさら。
「お時間は大丈夫ですか」
「おまえより急ぐ用件はない」
目を丸めた顔がおかしくておかしくて仕方がない。過剰に息を吐き出してしまい、一瞬窓が曇る。すぐに手のひらで打ち消した。やはり海中は室内より冷たいのだ。
「どうした。おまえの用件を待っている」
静寂。いまこの瞬間、はじめて室内換気が耳ざわりだと感じた。
「この、流れゆく命の水に祈りを」
ナマエが目を閉じる。
「永遠に光差す場所へ。あなたを導きますように。どうか」
瞳をとらえる。いま、どうしようもなく視線を絡めとりたい。
「ウィーウァームス、メウスロー」
なにを、いって、
「アトクウェ、アメームス」
最後は声がかすれて消失していった。うっすらと開いた瞳は不規則に揺れ動き、自身の右手を口もとにあてがう。左手も右手に重ねた。体が窓から離れていく。ナマエが前進を止めたのだ。考えるよりも先に手が動く。
ROOM
窓から体の位置は把握できていた。ポケットのメモ用紙を、
シャンブルズ
室内へ引き込んだ体をしっかり抱きとめる。立っている理由もないため、その場に腰を下ろした。胡座をかき、膝に乗せる。ナマエはいまだ両手で口もとを覆っていた。こちらに身を預け、ぴくりとも動かない。
「いま、何を言った」
肩がはねる。同時に顔も上げた。ゆっくりと両手が下ろされる。
「ご、ごめんなさい。わたし、その」
「もう一度言ってみろ。今ならはっきり聞こえる」
また体がはねた。今度は両手をバタつかせる。
「ち、ちがうんです。最後のあれは、言うつもりは」
顔をしかめてしまう。
「どういう意味だ。おれに伝えるのは不本意なのか、おまえの口癖なのか、単なるかけ声か何かなのか」
既知の言語ではなかった。唄のような独特の長音が聞こえたはず。
「不本意で、よく口ずさむし、最初のワンフレーズでもあって」
全部拾われるのは想定外。ワンフレーズ、ということは音楽か。
「耳なじみのねェ音だったが? 知らねェ単語が並ぶと、理解不能であるがゆえのストレスも感じやすい。言ってること、わかるな」
「ごめんなさい! 知らない単語、というのは、まさに、おっしゃるとおりで。嫌ですよね、変な音を聞かされるの」
ああ、イラつく。まわりくどい。
「いちいち謝るな。これ以上の謝罪は不要。不快なのは事実だが、理解できれば問題ない。つまり、そのフレーズが何なのか。説明しろ」
おずおずと背も顔もそらされる。すかさず右手をつかみ、軽く引っ張る。目が合うよう、こちらを向かせる。
「謝らないよう、努力、します。説明もできるかぎり、できるかぎりは」
頬に手を当てがい、そっと息をついている。こちらは待機。
「お祝いの言葉を、伝えたくて。記憶の中にある、最初のフレーズが、その、すこし、お祝いっぽかったので」
肩の力が抜ける。
「何を聞かされてもおれは腹を立てねェ。言ってみろ。そのフレーズ」
ナマエが鱗のうえで拳をつくる。か細い声が続いた。
「生きて、いきましょう」
沈黙。仕方がないので催促を。
「それで。次は」
「お祝いの言葉はこれでおしまいです。あとは、詩の続きを、いつもの癖で」
ほう。
「詩か。誰の詩だ」
「私の故郷の、魚人島に伝わる、昔の有名な詩人で。古い言葉なので、耳慣れない感じだったかも」
それなら納得できる。
「せっかくだ。もう一度言ってみろ。おれを祝うつもりなんだろ」
「ええっと、それは。だめ、です」
そっと息をついてしまう。
「理由は」
「どうがんばっても、お祝いの意味にはならない、ので。途中でやめるつもりだったのに」
「よくわからねェで済まされるのが一番不快だ。正しい意味さえ理解できれば、今日という一日を気分良く過ごせる」
ナマエの手をとり、真剣なまなざしを心がける。何をそんなムキになっているのか。己を嘲笑してやりたい。知らぬ単語というだけで、ここまで苛立つとは。
「わかりました。字は教えます。詩集は魚人島で簡単に手に入りますので。文字を頼りにすれば、絶対に意味は調べられます」
まわりくどい。まわりくどいが、
「そこまでおまえにとって不本意で、この場に相応しくないフレーズだってことだな?」
「少なくとも、いまここで言うべきではありませんでした。ごめんなさ──あっ」
口に手を添えて目を丸める。
「謝るなら、その度にフレーズの意味を教えてもらおうか」
「い、言わないと、だめですか」
ここまで落ち込まれると叱るに叱れない。本人に悪意はなかった。それが判明しただけで十分ではないか。何をそこまで自分は。
「最低限、約束は守ってもらおうか。紙を用意する」
手もとのメモ用紙は先ほどのシャンブルズで海へ。ラウンジの本棚には筆記具が常備されていたはず。とりあえずナマエを抱えたまま腰を上げる。
「あの、待って」
「どうした」
「そのまま、少しだけ。ここに」
ナマエが手をのばした先は窓。左の手のひらをひたりとガラスに張り付かせる。右手も懸命にのばすので、さらに窓へ近づいてやる。両手を張り付かせたあとは、上体を起こして顔も窓へ近づける。こちらの左の二の腕を窓に押し当てる体勢になった。対するナマエも右頬を窓へ。
「これが、あなたの見ていた景色」
ぞわりと胸がざわつく。得体の知れぬ反応。とにかく気を紛らわせたい。なにか、なにか言ってやらねば。
「こんなの、いつもの風景だ」
「そうですね、いつもの。でも、『いつもの』は、私にとって、すごく。まぶしい」
妙な胸騒ぎは止むどころか悪化。ただちにナマエの言葉を変えさせなければ。
「その窓、汚ねェぞ。さっさと離れたほうがいい。おれの手でベタベタさわった」
目を丸めて全身が固まる。静かに肩を上下させて口もとに手を添えた。こいつ、笑っていやがる。
「あなたが汚かったら、私はどうなってしまうの。海のいろんな場所を知っているのに」
どう反応すべきか考えあぐねていると、笑い声がやむ。ふたたび窓ガラスに頬を押し付けた。
「変なことを言いすぎました。もうやめます。今度は絶対に口を滑らせませんから」
いまのむず痒い言葉に対してか、さきほどのフレーズに対してか。これ以上突っ込むのも気分ではない。ひとまず筆記具を探さなくては。
「気は済んだか。さっきの約束くらいは果たしてもらうぞ」
「やっぱりちゃんと覚えていたのですね。せっかくがんばって話題をそらしたのに」
この程度で騙せると思われていたのか。気に食わない。
「おれに勝てるとでも?」
「か、勝とうとまでは思ってません。ほんのすこし背伸びしてみただけで」
「ほう。向上心はあるのか。感心だ」
「なんだか、ちょっとだけいじわるですね、今日」
「そろそろ動いてもいい頃合いだと思っているだけだ」
「だって、窓から顔をはなせば、その。やらないといけないのですよね」
「そうだな。約束は約束だ」
頬が膨らみそうな勢いで口を固く結ぶ。その顔がおかしくて仕方がない。
「書ける範囲でいい。これは、おれの探究心を満たすための、ただの趣味だ。妙な意味だろうが、悪口だろうが、おれが真に受けるわけねェだろ」
返答を待ってもキリがない。即座に歩きだす。案の定、壁沿いの本棚にペンとノートが。ナマエに持たせてさらに移動する。どこで書かせるか。ラウンジはミーティングルームも兼ねているため、テーブルと椅子はそこらじゅうに散らばっている。何を懸念しているのか。ナマエの下半身へ視線を落とす。虹色に光り輝く鱗。ナマエを最初に処置した際に十一枚、海獣狩り後の甲板で七枚。合計十八枚の鱗が剥がれ落ちた。いまも十八枚をシャーレで保管している。なぜ剥がれたのか原因は掴めていない。そのため、彼女が腰を下ろす場所は細心の注意を払っていた。海水で濡らしたバスタオルを用意し、車椅子に敷く。ナマエ専用車椅子を常備し、船内の移動に使用していた。あいにく車椅子はラウンジにない。ミーティング用の椅子は固い。ナマエの下半身が安定するほどサイズに余裕もない。椅子は諦めて、さきほどの窓辺へ戻る。部屋のコーナーに近く、扉を開けた際は死角にもなるため、気分的にも落ち着く。ふたたび腰を下ろし、膝にナマエを乗せた。すでにペンとノートは持たせてある。言葉は不要。じっと待つ。
「ノートの続きでいいですか」
「どこでもいい。好きにしろ」
表紙から順にページをめくっていく。ミーティング内容の走り書き、航路を割り出す計算式、日常生活のリマインド。ほとんどが一時的なメモばかり。室内が暗いため、ノートをわざわざ顔の位置まで上げている。さきほど筆記具を探すついでに照明をつけるべきだった。
「暗いか」
「いえ、気にしないでください。軽く目を通すだけなので」
そう言う割には一ページずつ、隅々まで読み込んでいる。こちらは手持ち無沙汰。なんとなく左手で背表紙を支えてやる。
「すみません。甘えてしまってばかりで」
すとんと胸に落ちる。左手でノートを持ったまま、右手を腰にまわす。そっと引き寄せた。倒れる背中を受け止める。
「あ、あの」
すかさず言葉をかぶせる。
「こうすれば少しは読みやすいだろ。おれは椅子の背だと思えばいい」
体が硬直している。これ以上の言い訳や補足も適当ではない。右手は腰から外し、静かに待つ。
「しゃべる、椅子」
ぼそりと単語が。思わず片眉を上げてしまう。となりを盗み見れば、口もとが笑っているではないか。頬を引っ張ってやりたい衝動をぐっと抑える。反応すれば、その時点で負けが確定する。
「アームが伸縮して、可動式で。本の解説もしてもらえるなんて。私にはぜいたくな椅子です」
「口を動かす暇があるなら手を動かせ」
結局右手は腰へ逆戻り。もう一度引き寄せれば、徐々に背中から体重がかかる。望んだはずの体勢だが、今度は笑いを堪える横顔が余計にチラつき、まるで落ち着かない。
「椅子に怒られてしまいました。反省します」
ようやくページめくりが再開。数ページ読み込んで動きが止まる。視線の先には箇条書きが。
・ケーキ→甘さひかえめ、ビターチョコに金箔
・ろうそく→「2」と「3」、予備も確保
・プレート→「ロ…
・デコレーション…
反射的に右手をのばす。ナマエの右手に自身の手を重ねて次のページを催促。
「まって。まだ最後まで読めて」
「ただの無意味な落書きだ。わざわざ確認する必要もない」
「あの。もしかして、これって。今日の」
重ねた手を大きく広げたため、箇条書きの後半は隠れていた。チョコレートは加熱すると香りが拡散しやすい。厨房と廊下は隣接している。換気を止めた理由。
「そうですね。そうですよね。わかりました。私も見なかったことにします」
肩をふるわせ、笑い声が小さくもれる。真横から顔を見るかぎり、相当機嫌を良くしている。こちらにとっては非常におもしろくない。
「このノート、いろんな方が書かれていますよね。字の大きさも形もバラバラで。書いたとき、何があったのか。想像できるのが、なんだかたのしくて」
ページをめくりながら声を弾ませる。ここまで上機嫌なのも珍しい。本来の目的ではないが、しばらくは好きにさせるか。
「あなたの字もありますか」
「いや、おれは自分のノートで完結させている」
背を起こし、こちらを振り返る。近い。後ろから抱き込む体勢なのだから当然といえば当然。
「すこし書いてみませんか」
目を合わせたうえで頼んできた、その中身がこれ、か。
「うちは互いの筆跡を大方把握している。つまり、ここに書けばおれのメモだとあいつらにバレる」
「誰に読まれてもいい、ただの試し書きでいいですから。あいうえお、かきくけこ、とか」
なぜ。そこまでして。
「理由くらいは言えるな?」
「あの、それは、ですね。率直に、正直に打ち明けてしまうと」
視線はそれて、顔もノートを見下ろす。声のトーンが落ちた。
「私の字、汚かったらどうしよう、って」
呆れるほどの。杞憂を。
「字の良し悪しがそんなに気になるか」
「気にしますよ。だって本当は、この詩集──」
途中で口を閉じる。目だけをこちらと合わせてきた。己の失態を自覚している様子。
「書きます。書きますから。お願いします。これ以上、詩のことは」
「わかったから、そろそろ観念しろ」
唇を噛みしめて、きつく目も閉じる。何をそこまで緊張することがあるのか。やっとペン先をノートに走らせた。
Vivamus,
ここで手が止まる。ノートを見下ろしたまま。
「これの発音は」
「これだけだと『ウィーウァームス』という、感じでして」
いまいち歯切れが悪い。横から見ていても目を泳がせている。
「このカンマは」
「もちろん続きを書きます。でも。どうしよう、かな」
扉が開く音。入室したペンギンは右手へ進み、横弾幕そばに荷物を下ろす。大きく伸びをしたあと、こちらへ振り向いた、そのとき。素っ頓狂な悲鳴。体が後方へ吹き飛び、後頭部を壁に強打。野太い唸り声が続く。数秒後には複数の足音が。ぞろぞろとラウンジに入ってきては、こちらを見るや否や、揃いも揃って悲鳴を上げる。対するナマエはペンを持ったまま、呆然と前方の騒ぎを見つめていた。
「あの。みなさん、大丈夫ですか」
「大丈夫なわけ」
頭をさすりながらペンギンがナマエに応答するが、途中で言葉が切れる。口をひん曲げて右手を帽子に乗せる。深く被りなおした。目もとはすべて隠れる。
「いや、もう。夢だ。これは夢。まじで見なかったことになんねェか、これ」
ペンギンの周りでは着々と荷物が積まれていく。不意に部屋が明るくなり、反射的に目を細める。さきほどの薄暗さに慣れきったせいで、白いラウンジに不快感さえ覚えてしまう。はじめの騒ぎもなくなり、入室しては軽くこちらに手を振る者も現れる。ナマエは呑気に手を振りかえしていた。
「とにかく。船長はそのまま待機。ナマエも、そうだな。そこで問題なけりゃ、そこで。まあ、そうだな。そう、そうそう」
何が言いたいのか。しきりに目もとを隠し、軽く首を横に振る動作も釈然としない。
「なにかお手伝いしましょうか」
「あー、いや、いい。ナマエはそのまま船長を見張っといて。船長、たぶんひとりだと逃げちまうから」
ひとを小動物扱いしやがって。
「船長を見張ります。見張りますから、あの。すこしだけ助けてもらえませんか」
この場の全員がナマエを振り返った。半数が駆け寄ってくる。
「やっぱり、助け、いる?」
「必要なら用意はできている」
ナマエへ手を差し伸べる者がひとり、ふたり。四人、五人。腰へまわした右手にだんだんと力が入る。左手のノートを床に置き、ナマエからペンを抜きとる。その動作で数人は後退した。さらに何人かは手を引っ込める。
「おかしいと思ったんだよなあ。車椅子持ってこればいいか?」
ペンギンは微妙に顔をそらしながら、誰よりも最前列の真正面でしゃがみこんだ。どれだけ睨みつけても一向に目は合わない。
「すみません、みなさんをお邪魔するわけには。どなたか、おひとりでいいので。そう、ペンギンさん。お願いします」
「よしきた。とりあえずこっち、ってことでいいな?」
ペンギンが両腕を広げると、ナマエが前のめりに両手をのばす。これから何が始まるのか察した。
「おい。この続きは」
「続きを書くために、すこしペンギンさんをお借りしてもいいですか」
何を言っているのか微塵も理解できない。すでにペンギン以外はナマエの前から散り散りに去っていた。
「続きって?」
「いまから詳しくお話しします。ここではちょっと、言いにくいので。向こうまで連れて行っていただけませんか」
さらに理解できない言葉が。これ以上問い詰めるのも無粋な気がし、無言で訴えかけるにとどめる。予想どおりナマエがこちらを振り向いた。ぎこちない笑顔を貼りつける。
「すぐ戻ります」
ペンギンがようやくこちらと目を合わせた。軽妙に歯を見せる。
「まあ、ナマエがすぐ戻るんならすぐ戻るから。ちゃんと留守番しといてくださいよ」
ペンギンがナマエを抱え上げる。その際、ナマエの手がペンギンの首へまわされた。何の光景を見せられているのか。ふたりはラウンジの最奥で立ちどまる。いつのまにか床に敷かれたバスタオルのうえにナマエを下ろした。となりにペンギンが腰を下ろす。ナマエが手招きし、ペンギンが顔を近づける。そして耳打ちが。なんだ、あれは。ペンギンの口が軽く開く。ナマエの耳打ちが終わり、今度はペンギンがナマエに近づき、耳打ちを。ナマエが軽くうなずく。ペンギンが顔をはなすと、ナマエが深く頭を下げた。かけ声を発しながらペンギンが立ち上がる。ラウンジを飛び出していった。数分でペンギンが戻ってくる。右手には四角い薄手の紙切れが。ナマエに受け渡し、抱え上げる。まっすぐこちらに歩いてきた。近づいてくるナマエの表情はどことなく強ばっている。
「船長、いますっげェ機嫌悪そう。当たり?」
座ったままナマエを受け取り、元どおり膝に乗せる。ペンギンの煽りを受け流さなくては。
「運搬方法に不備があったくらいだ」
「運搬って、ナマエの運び方? 不備?」
ペンギンだけでなく、ナマエも首を傾げるとは。
「おれのときと違っただろ。腕の位置」
顎に手を当てていたペンギンが指を鳴らす。そして豪快に腹を抱えて笑いはじめた。何人かがこちらを振り向いたが、また作業に戻る。すでにラウンジの光景は一変していた。何をそこまで飾りつける必要があるのか。
「こりゃ大問題、大事件だ。どこから説明すりゃいいんだか」
「私、なにか失礼なことを。ご迷惑をおかけしたのでは」
ペンギンは勝手に納得し、ナマエは勝手に罪を被ろうとしている。どこから手をつければよいのやら。
「ナマエ、船長に抱えてもらうとき、腕は首じゃねェのか」
「え?」
「ああ、悪い悪い。ちゃんと説明するか。要は、船長のほうが器用で力持ちってことだ。そんで、おれらは不器用で非力ってこと。ナマエの体、濡れてると滑りやすいからな。安定して運ぶには首に腕は必須ってわけ。船長は濡れてるナマエをラクラク運べるから、首の腕は必須じゃねェ。格の違いってとこ?」
ペンギンの説明ですべてを理解する。対するナマエはペンギンとこちらの顔を交互に見つめてくる。顔も暗いためフォローも兼ねた声掛けならば、
「おまえに非はない。こっちの認識不足が原因だ」
そして、これからは必ずナマエ専用車椅子を使用させる。周知せねば。
「じゃ、おれはこれで。がんばれよ、ナマエ。船長の見張り、よろしく」
ペンギンはこちらも見ずに去っていく。遠ざかる背中を見ていたナマエだが、わずかに目を細めて固く口を結んだ。
「続き、書きますから。ペンをお借りしても?」
さきほどと同じペンを手渡す。ナマエは床のノートを拾い、表紙のうえにカードを重ねた。本格的に書きはじめる前に確認を。カードの表面を指でなでてみる。真っ白な厚紙。手のひらに収まるサイズ。この手ざわり、標本台紙をカットしたものか。あのペンギンが小洒落たメッセージカードを所持していたら。多少は感心するところだった。
Vivamus, meuslaw
一文字ずつ丁寧に記す。カンマまで来たところでペンを上げて深呼吸。m、e、u、s、l、a、w。二単語を綴ったカードをこちらに差し出す。
「長く手間取って申し訳ありませんでした」
おとなしくカードを受け取る。まずは率直な疑問を。
「『ウィーウァームス』の次は。どう発音すればいい」
「『メウスロー』。つまり、『ウィーウァームス、メウスロー』になります」
何度か舌のうえで転がしてみる。収まりが良いような、悪いような。vaが「ウァー」ならば、laは「ラー」と読みたくなる。音節に規則性も見いだせない。残りの単語の綴りもわかれば、言語として読み解けるはずだが。
「この二単語で『生きていこう』になるのか」
「大まかには、それで伝わります」
歯切れが悪い。真横から見つめているが、こちらと目を合わせようともしない。もう一歩踏み込んでみる。
「この続きは不本意で不適切なフレーズということだな? だからここに書けない」
ナマエが息をつく。目も伏せた。
「これは、きっと。覚悟も決心も、強い思いも。あなたに聞かせるつもりは。手をとるとさえ決めていないのに」
曖昧、抽象。ごまかし、はぐらかし。そして遠慮、躊躇、迷い。ならば、なぜ窓越しに口を滑らせたのか。
「もういい。残りの音は覚えた。この二単語があれば辿れるだろ」
「ま、まって。いま、なんて」
「アトクウェ、アメームス」
それなりに再現したつもりだ。あのとき窓越しで声はかすれていたが、口はしっかり動いていた。その動きを模倣したまで。
「だ、め」
こちらと目を合わせ、ひたすら首を振る。なぜそこまで顔を歪める。何がナマエを苦しめているのだ。
「おねがい。どうか忘れて。私も聞かなかったことにしますから」
ナマエの瞳に水滴を認めた瞬間、何かがはじけた。
「おい、いい加減にしろ」
可能なかぎり声から力を抜く。責めるのではない、問い詰めるのではない。すべてはナマエを受け入れるため。
「おまえを傷つける言葉なら二度と使わねェ。言語には歴史がある。単語そのものの語源だけでも膨大な情報が詰め込まれている。おまえが知っていて、おれが知らねェ言葉があるのは別に構わねェ。ただ、約束しろ。少なくともいま、こうして伝えている言語は信念を曲げずに紡いでいるのだ、と」
半端な覚悟で表明したのではない。ナマエに届くよう、しっかりと顔を振り向かせる。手首もつかんだ。まだナマエはいびつに目を細めている。あいた手は口もとを覆い隠す。
「私こそ、浅はかでした。あなたを傷つけたくない。後悔してほしくない。だからこそ伝えておきます。この書き記したふたつは、けっしてあなたを傷つける言葉ではない、から」
音色が続く。
「ウィーウァームス、メウスロー」
わずかにナマエの頬がゆるむ。
「メウスロー、メウスロー」
歯も見せた。ゆるやかに口は弧を描き、声ものびのびと、晴れやかに。
「メウスロー」
長いため息が続き、そうっと瞳を閉じる。両手を自身の胸もとに添えた。息を整えている。
「めうす、ろー」
声がかすれ、途切れがちに。不思議と音が耳に馴染んで溶けていく。胸の奥底へ沁み入り、絡み合い、浸り、吐息が自然ともれて、意識もどこか、おぼろげで、
「ナマエ」
顎に手をかけて瞳をのぞく。特に抵抗もされず、目が合うだけの時間が過ぎていく。勝手に体がゆれて、顔が近づき、
「あー! できたー! みんなー! おつかれ! いやー、たいへんだったなー!」
耳鳴りがするほどの騒音。この叫び、船尾まで貫通したのでは。まっさきに犯人を睨みつけた。帽子のつばを持ち上げ、わざと目を合わせてくる奴の気がしれない。
「び、びっくり、した」
目の前のナマエも固まっているではないか。今の今までトーンダウンしていたこともあり、ペンギンを怒鳴りつける気分になれず。
「みんなー、定位置につけー。船長はこっちー」
どうせ今日は逃げられない。一度目を閉じて深呼吸。気を取りなおしてナマエを抱えたまま立ち上がった。
「あの、私はこれで。すこし散歩してきます」
思考が停止する。どう答えるのが最適か。引き止めれば、この後の時間を保証せねばならない。どうする。
「なあ、やっぱりこのまま参加すればいいじゃねェか。せっかくだからよ。ほら、船長の顔も見てみろよ。嫌そうにしてるか?」
ペンギンの様子を見るに、ナマエは何度か誘いを断っているのだろう。
「いえ、やっぱり今日は。私はハートの船員ではないので」
ナマエは船員ではない。部外者。何も矛盾していない。ここでようやく気づく。
「せっかくなので、いま、いいですか」
海中から窓越しで。ナマエは今日という日の意味を船員から聞かされていた。はじめから船に上がるつもりはなかったからこそ、あんな形で言葉を残そうと、
「車椅子、ありがとうございます。それでは」
目の前に車椅子が用意される。あとはナマエを下ろすのみ。だが、いまいち腕がいうことをきかない。
「車椅子に下ろしていただけますか」
見つめられる。何を言ってやればいいか。時間だけが過ぎていく。
「どうか素敵な一日を」
顔が近づく。頬同士がかすれて首に抱きつかれ、耳に吐息が、
“Vivamus, meuslaw.”
顔がはなれて笑顔を見せる。なにか、なにかを。そう考えているはずが、車椅子に下ろしてしまう。ひとりが駆けつけてナマエを引いていく。ひらり、ひらりと船員へ手を振り、ラウンジを出ていった。
「船長、引き留めなくていいのか」
手もとにはナマエ手書きのメッセージカードが。シャチに答える気分ではない。いまから何をするか考えれば、不在で好都合かもしれない。予期せぬ醜態を晒すくらいならば。
「今日は元から全部諦めている。おまえらの好きにしろ」
歓声、雄叫び。呼ばれた位置へ移動しながらカードを懐にしまいこんだ。
「よーし、準備はいいなー。せーの!」
船長 誕生日おめでとうございます
「どうした。わざわざこんなに離れて。船長に言えねェやつか」
「すみません。口の動きで読まれてしまうので。耳打ちでお願いします」
「いいけどよ、できるだけ巻きでな? いまの船長、目がやっべェから」
「い、急ぎます。ひとつだけ教えてください。あのひとの、船長、ロー船長の名前の、スペルを」
Vivamus, meuslaw,
ウィーウァームス メウスロー
Vivamus, meus Law,
ウィーウァームス メウス ロー
生きていきましょう 私のロー
atque amemus,
アトクウェ アメームス
そして 愛し合いましょう
「そばにいてくれ、おれのナマエ。二度と離さない」
「このままおまえを、一滴も余すことなく」
「分かち合えばいい。なにもかも。自我さえも」
時刻は午前九時すぎ。朝食後、船員は持ち場に散った時間帯。換気が停止しているため、エンジン音のみが足もとから響き渡る。とにかく廊下の空気を入れ替えたい。自室を開け放ち、この階でもっとも広い船首側の一室へ。廊下の突き当たりにたどり着くと妙な光景に出くわす。ラウンジの扉に一枚、デカデカと。
《午前中 立入禁止》
誰だ。こんな張り紙を許可した覚えはない。ためしに後方を振り返り、他にも異変がないか廊下を見渡す。換気以外は問題なし。船長に報告しにくい件でもあるのか。ラウンジの備品破損。十分考えられる。念のため、最悪の事態も想定せねば。誰に確認をとるでもなくラウンジの扉を押し開けた。
天井のファンは稼働中。壁掛けの船内電伝虫も異常なし。滞在者ゼロ。照明はすべて落とされている。妙に静かだ。左から右へ、ぐるりと首をまわして後悔する。天井沿いの壁に、昨日まではなかった布が。横長の二メートル超を巻き上げて吊るしてある。もうそんな日か。航海日誌を開いた時点で気づくべきだった。
足もとの影が動く。ラウンジの床には青色の楕円形がいくつか点在していた。このゆらめく淡い光源はポーラータングの外から差し込む。楕円の中でまた黒い影が移動する。とっさに後方の窓を振り返った。ポーラータング付近を移動する物体といえば、魚。全長はヒトに近しい。尾びれは見えたが、あれは。ヒトと同じ腕、上体。影が何度か窓を通り過ぎる。無意識のうちに窓辺へ歩み寄り、立ち尽くしていた。影が減速し、こちらへ顔を見せる。いつもなら悠長に手を振ってくるが、今日は目を丸めて急接近する。大きく口を動かした。
うしろ みないで
声ではなく口の動きで判断する。読唇術と呼ばれる大層な代物でなくとも、この程度なら造作もない。うしろといえば、あの弾幕か。やけに落ち着きがないので素直に首を横に振っておく。
「諦めろ」
発した声が海中へ届くはずもなく。向こうはしきりに手を動かし、なにかを訴えかけている。
「ナマエ」
動きが止まった。つまり通じた。本人の名は口の動きだけで認識できたのか。たしかにありえる話ではある。
いま なまえ よんだ?
しっかりうなずいておく。
ごめんなさい ほかの ことば よく わからなくて
妙にしょげている。窓ガラスに両手を置き、顔もうつむかせて。なぜ勝手に落ち込む。なぜ悲しむ。
「こんなどうでもいいことでへこむな」
ナマエの手に自身のそれを合わせる。窓にふれてから気づく。普段ならば絶対にこんなことはしない。ガラスに指紋を付けることほど愚かな行為はないのだ。あとで拭き取っておかねば。一度指紋を付けてしまったからには開きなおる。もう片方の手もナマエに重ねた。ようやく目が合う。
「聞こえるか」
ためしに声を張ってみる。そもそもポーラータング号の窓は高水圧に耐えるため、普通のガラスではない。こんな窓越しの会話など、設計時に想定できるはずが。
「顔を見せろ。口の動きで読める」
反応なし。目線が下がっているため、こちらが膝を曲げて下からのぞき込む。ナマエが目を丸めた。いまいち意図が伝わっていないので、こちらもジェスチャーで対応する。まずは自身の唇を指差す。そして口を開閉する。わかりやすい単語といえば、
「もっと、笑え」
少し待ってみる。目を泳がせたが、ナマエが口を閉じる。わずかに歯を見せたかと思えば、徐々に口角が上がっていった。首も傾げてみせる。
わらって みました
ようやくまともな顔に。そっと息をついてしまう。そして今さら気づく。顔を近づければ、それなりに声が届くのだ。鼻先がふれないギリギリまで窓に近づく。ジェスチャーで手招きを。
「もっと近づけ。声、聞こえるか」
微妙な反応。変わらず手招きを続ける。数秒後、さまざまな感情に見切りをつけ、コツンと額を窓に当ててみる。今度は目線が下がってしまうため、わずかに顔を横へ向ける。額ではなくこめかみが接していた。ナマエと目を合わせる。
「おれの声。聞こえるだろ」
ナマエの目が丸くなり、ぎこちない笑顔から、はじけた。両手を口もとに当てて、体が窓から離れる。すぐに戻ってきた。同じように額を合わせてくる。こちらは右のこめかみを、向こうも右のこめかみを。真正面ではなく、互いに窓を挟んで斜め向かいを見つめ合っていた。屈折率が高いため、目を合わせにくい。位置調整に手こずり、ようやくいまの場所に落ち着く。声さえナマエに届けば問題ないというのに、何をそこまで拘る必要が。
「すごい。ちゃんと聞こえた。うそみたい」
手放しで喜ぶさまは、いかにもナマエらしい。
「当たり前だ。それで、さっき何か言っただろ。どうした」
「あの、どうしても、うしろは見てほしくなくて」
「ああ。おまえは気にするな。毎年こうだ。あいつらの下準備でおれが先に気づく。そのあと気づかねェフリをするのも毎年だ」
「そう、だったのですか」
勝手に察して勝手に落ち込んでいるようだが、うまい返しが思いつかない。適当に話題をそらすか。
「窓に張り付いて面倒じゃねェのか。ポーラータング、そこそこスピードが出てるだろ」
「そんなに難しくないですよ。尾びれを軽く動かしておけば付いていけるので」
なかなか器用な芸当をやってのけているらしい。人魚だから当然といえば当然か。
「あなたの手、こんなに大きかったのですね」
ナマエがこちらの形に沿って指を開く。右手も、左手も。その動作が妙にむず痒く、左手は窓から離してしまう。瞬間、ナマエの表情がわかりやすく曇った。顔をさらに窓へ寄せて、はなれた左手を目で追う。何をそんな、いちいち。そっと息をついてしまう。ふたたび左手を窓に張り付かせた。ナマエの手と同じ場所へ重ねる。
「これで満足か」
反応が悪い。たったいま重なった手を、ぼんやりと。
「あ、あの」
唇を噛みしめたあと、くるしそうに顔を歪ませる。きつく瞳も閉じた。しかし次に目が合ったときには頬がゆるむ。口は弧を描き、心なしか耳が色づいていく。
「せっかくなので、いま、いいですか」
「どうした」
何をそんな改まって。いまさら。
「お時間は大丈夫ですか」
「おまえより急ぐ用件はない」
目を丸めた顔がおかしくておかしくて仕方がない。過剰に息を吐き出してしまい、一瞬窓が曇る。すぐに手のひらで打ち消した。やはり海中は室内より冷たいのだ。
「どうした。おまえの用件を待っている」
静寂。いまこの瞬間、はじめて室内換気が耳ざわりだと感じた。
「この、流れゆく命の水に祈りを」
ナマエが目を閉じる。
「永遠に光差す場所へ。あなたを導きますように。どうか」
瞳をとらえる。いま、どうしようもなく視線を絡めとりたい。
「ウィーウァームス、メウスロー」
なにを、いって、
「アトクウェ、アメームス」
最後は声がかすれて消失していった。うっすらと開いた瞳は不規則に揺れ動き、自身の右手を口もとにあてがう。左手も右手に重ねた。体が窓から離れていく。ナマエが前進を止めたのだ。考えるよりも先に手が動く。
ROOM
窓から体の位置は把握できていた。ポケットのメモ用紙を、
シャンブルズ
室内へ引き込んだ体をしっかり抱きとめる。立っている理由もないため、その場に腰を下ろした。胡座をかき、膝に乗せる。ナマエはいまだ両手で口もとを覆っていた。こちらに身を預け、ぴくりとも動かない。
「いま、何を言った」
肩がはねる。同時に顔も上げた。ゆっくりと両手が下ろされる。
「ご、ごめんなさい。わたし、その」
「もう一度言ってみろ。今ならはっきり聞こえる」
また体がはねた。今度は両手をバタつかせる。
「ち、ちがうんです。最後のあれは、言うつもりは」
顔をしかめてしまう。
「どういう意味だ。おれに伝えるのは不本意なのか、おまえの口癖なのか、単なるかけ声か何かなのか」
既知の言語ではなかった。唄のような独特の長音が聞こえたはず。
「不本意で、よく口ずさむし、最初のワンフレーズでもあって」
全部拾われるのは想定外。ワンフレーズ、ということは音楽か。
「耳なじみのねェ音だったが? 知らねェ単語が並ぶと、理解不能であるがゆえのストレスも感じやすい。言ってること、わかるな」
「ごめんなさい! 知らない単語、というのは、まさに、おっしゃるとおりで。嫌ですよね、変な音を聞かされるの」
ああ、イラつく。まわりくどい。
「いちいち謝るな。これ以上の謝罪は不要。不快なのは事実だが、理解できれば問題ない。つまり、そのフレーズが何なのか。説明しろ」
おずおずと背も顔もそらされる。すかさず右手をつかみ、軽く引っ張る。目が合うよう、こちらを向かせる。
「謝らないよう、努力、します。説明もできるかぎり、できるかぎりは」
頬に手を当てがい、そっと息をついている。こちらは待機。
「お祝いの言葉を、伝えたくて。記憶の中にある、最初のフレーズが、その、すこし、お祝いっぽかったので」
肩の力が抜ける。
「何を聞かされてもおれは腹を立てねェ。言ってみろ。そのフレーズ」
ナマエが鱗のうえで拳をつくる。か細い声が続いた。
「生きて、いきましょう」
沈黙。仕方がないので催促を。
「それで。次は」
「お祝いの言葉はこれでおしまいです。あとは、詩の続きを、いつもの癖で」
ほう。
「詩か。誰の詩だ」
「私の故郷の、魚人島に伝わる、昔の有名な詩人で。古い言葉なので、耳慣れない感じだったかも」
それなら納得できる。
「せっかくだ。もう一度言ってみろ。おれを祝うつもりなんだろ」
「ええっと、それは。だめ、です」
そっと息をついてしまう。
「理由は」
「どうがんばっても、お祝いの意味にはならない、ので。途中でやめるつもりだったのに」
「よくわからねェで済まされるのが一番不快だ。正しい意味さえ理解できれば、今日という一日を気分良く過ごせる」
ナマエの手をとり、真剣なまなざしを心がける。何をそんなムキになっているのか。己を嘲笑してやりたい。知らぬ単語というだけで、ここまで苛立つとは。
「わかりました。字は教えます。詩集は魚人島で簡単に手に入りますので。文字を頼りにすれば、絶対に意味は調べられます」
まわりくどい。まわりくどいが、
「そこまでおまえにとって不本意で、この場に相応しくないフレーズだってことだな?」
「少なくとも、いまここで言うべきではありませんでした。ごめんなさ──あっ」
口に手を添えて目を丸める。
「謝るなら、その度にフレーズの意味を教えてもらおうか」
「い、言わないと、だめですか」
ここまで落ち込まれると叱るに叱れない。本人に悪意はなかった。それが判明しただけで十分ではないか。何をそこまで自分は。
「最低限、約束は守ってもらおうか。紙を用意する」
手もとのメモ用紙は先ほどのシャンブルズで海へ。ラウンジの本棚には筆記具が常備されていたはず。とりあえずナマエを抱えたまま腰を上げる。
「あの、待って」
「どうした」
「そのまま、少しだけ。ここに」
ナマエが手をのばした先は窓。左の手のひらをひたりとガラスに張り付かせる。右手も懸命にのばすので、さらに窓へ近づいてやる。両手を張り付かせたあとは、上体を起こして顔も窓へ近づける。こちらの左の二の腕を窓に押し当てる体勢になった。対するナマエも右頬を窓へ。
「これが、あなたの見ていた景色」
ぞわりと胸がざわつく。得体の知れぬ反応。とにかく気を紛らわせたい。なにか、なにか言ってやらねば。
「こんなの、いつもの風景だ」
「そうですね、いつもの。でも、『いつもの』は、私にとって、すごく。まぶしい」
妙な胸騒ぎは止むどころか悪化。ただちにナマエの言葉を変えさせなければ。
「その窓、汚ねェぞ。さっさと離れたほうがいい。おれの手でベタベタさわった」
目を丸めて全身が固まる。静かに肩を上下させて口もとに手を添えた。こいつ、笑っていやがる。
「あなたが汚かったら、私はどうなってしまうの。海のいろんな場所を知っているのに」
どう反応すべきか考えあぐねていると、笑い声がやむ。ふたたび窓ガラスに頬を押し付けた。
「変なことを言いすぎました。もうやめます。今度は絶対に口を滑らせませんから」
いまのむず痒い言葉に対してか、さきほどのフレーズに対してか。これ以上突っ込むのも気分ではない。ひとまず筆記具を探さなくては。
「気は済んだか。さっきの約束くらいは果たしてもらうぞ」
「やっぱりちゃんと覚えていたのですね。せっかくがんばって話題をそらしたのに」
この程度で騙せると思われていたのか。気に食わない。
「おれに勝てるとでも?」
「か、勝とうとまでは思ってません。ほんのすこし背伸びしてみただけで」
「ほう。向上心はあるのか。感心だ」
「なんだか、ちょっとだけいじわるですね、今日」
「そろそろ動いてもいい頃合いだと思っているだけだ」
「だって、窓から顔をはなせば、その。やらないといけないのですよね」
「そうだな。約束は約束だ」
頬が膨らみそうな勢いで口を固く結ぶ。その顔がおかしくて仕方がない。
「書ける範囲でいい。これは、おれの探究心を満たすための、ただの趣味だ。妙な意味だろうが、悪口だろうが、おれが真に受けるわけねェだろ」
返答を待ってもキリがない。即座に歩きだす。案の定、壁沿いの本棚にペンとノートが。ナマエに持たせてさらに移動する。どこで書かせるか。ラウンジはミーティングルームも兼ねているため、テーブルと椅子はそこらじゅうに散らばっている。何を懸念しているのか。ナマエの下半身へ視線を落とす。虹色に光り輝く鱗。ナマエを最初に処置した際に十一枚、海獣狩り後の甲板で七枚。合計十八枚の鱗が剥がれ落ちた。いまも十八枚をシャーレで保管している。なぜ剥がれたのか原因は掴めていない。そのため、彼女が腰を下ろす場所は細心の注意を払っていた。海水で濡らしたバスタオルを用意し、車椅子に敷く。ナマエ専用車椅子を常備し、船内の移動に使用していた。あいにく車椅子はラウンジにない。ミーティング用の椅子は固い。ナマエの下半身が安定するほどサイズに余裕もない。椅子は諦めて、さきほどの窓辺へ戻る。部屋のコーナーに近く、扉を開けた際は死角にもなるため、気分的にも落ち着く。ふたたび腰を下ろし、膝にナマエを乗せた。すでにペンとノートは持たせてある。言葉は不要。じっと待つ。
「ノートの続きでいいですか」
「どこでもいい。好きにしろ」
表紙から順にページをめくっていく。ミーティング内容の走り書き、航路を割り出す計算式、日常生活のリマインド。ほとんどが一時的なメモばかり。室内が暗いため、ノートをわざわざ顔の位置まで上げている。さきほど筆記具を探すついでに照明をつけるべきだった。
「暗いか」
「いえ、気にしないでください。軽く目を通すだけなので」
そう言う割には一ページずつ、隅々まで読み込んでいる。こちらは手持ち無沙汰。なんとなく左手で背表紙を支えてやる。
「すみません。甘えてしまってばかりで」
すとんと胸に落ちる。左手でノートを持ったまま、右手を腰にまわす。そっと引き寄せた。倒れる背中を受け止める。
「あ、あの」
すかさず言葉をかぶせる。
「こうすれば少しは読みやすいだろ。おれは椅子の背だと思えばいい」
体が硬直している。これ以上の言い訳や補足も適当ではない。右手は腰から外し、静かに待つ。
「しゃべる、椅子」
ぼそりと単語が。思わず片眉を上げてしまう。となりを盗み見れば、口もとが笑っているではないか。頬を引っ張ってやりたい衝動をぐっと抑える。反応すれば、その時点で負けが確定する。
「アームが伸縮して、可動式で。本の解説もしてもらえるなんて。私にはぜいたくな椅子です」
「口を動かす暇があるなら手を動かせ」
結局右手は腰へ逆戻り。もう一度引き寄せれば、徐々に背中から体重がかかる。望んだはずの体勢だが、今度は笑いを堪える横顔が余計にチラつき、まるで落ち着かない。
「椅子に怒られてしまいました。反省します」
ようやくページめくりが再開。数ページ読み込んで動きが止まる。視線の先には箇条書きが。
・ケーキ→甘さひかえめ、ビターチョコに金箔
・ろうそく→「2」と「3」、予備も確保
・プレート→「ロ…
・デコレーション…
反射的に右手をのばす。ナマエの右手に自身の手を重ねて次のページを催促。
「まって。まだ最後まで読めて」
「ただの無意味な落書きだ。わざわざ確認する必要もない」
「あの。もしかして、これって。今日の」
重ねた手を大きく広げたため、箇条書きの後半は隠れていた。チョコレートは加熱すると香りが拡散しやすい。厨房と廊下は隣接している。換気を止めた理由。
「そうですね。そうですよね。わかりました。私も見なかったことにします」
肩をふるわせ、笑い声が小さくもれる。真横から顔を見るかぎり、相当機嫌を良くしている。こちらにとっては非常におもしろくない。
「このノート、いろんな方が書かれていますよね。字の大きさも形もバラバラで。書いたとき、何があったのか。想像できるのが、なんだかたのしくて」
ページをめくりながら声を弾ませる。ここまで上機嫌なのも珍しい。本来の目的ではないが、しばらくは好きにさせるか。
「あなたの字もありますか」
「いや、おれは自分のノートで完結させている」
背を起こし、こちらを振り返る。近い。後ろから抱き込む体勢なのだから当然といえば当然。
「すこし書いてみませんか」
目を合わせたうえで頼んできた、その中身がこれ、か。
「うちは互いの筆跡を大方把握している。つまり、ここに書けばおれのメモだとあいつらにバレる」
「誰に読まれてもいい、ただの試し書きでいいですから。あいうえお、かきくけこ、とか」
なぜ。そこまでして。
「理由くらいは言えるな?」
「あの、それは、ですね。率直に、正直に打ち明けてしまうと」
視線はそれて、顔もノートを見下ろす。声のトーンが落ちた。
「私の字、汚かったらどうしよう、って」
呆れるほどの。杞憂を。
「字の良し悪しがそんなに気になるか」
「気にしますよ。だって本当は、この詩集──」
途中で口を閉じる。目だけをこちらと合わせてきた。己の失態を自覚している様子。
「書きます。書きますから。お願いします。これ以上、詩のことは」
「わかったから、そろそろ観念しろ」
唇を噛みしめて、きつく目も閉じる。何をそこまで緊張することがあるのか。やっとペン先をノートに走らせた。
Vivamus,
ここで手が止まる。ノートを見下ろしたまま。
「これの発音は」
「これだけだと『ウィーウァームス』という、感じでして」
いまいち歯切れが悪い。横から見ていても目を泳がせている。
「このカンマは」
「もちろん続きを書きます。でも。どうしよう、かな」
扉が開く音。入室したペンギンは右手へ進み、横弾幕そばに荷物を下ろす。大きく伸びをしたあと、こちらへ振り向いた、そのとき。素っ頓狂な悲鳴。体が後方へ吹き飛び、後頭部を壁に強打。野太い唸り声が続く。数秒後には複数の足音が。ぞろぞろとラウンジに入ってきては、こちらを見るや否や、揃いも揃って悲鳴を上げる。対するナマエはペンを持ったまま、呆然と前方の騒ぎを見つめていた。
「あの。みなさん、大丈夫ですか」
「大丈夫なわけ」
頭をさすりながらペンギンがナマエに応答するが、途中で言葉が切れる。口をひん曲げて右手を帽子に乗せる。深く被りなおした。目もとはすべて隠れる。
「いや、もう。夢だ。これは夢。まじで見なかったことになんねェか、これ」
ペンギンの周りでは着々と荷物が積まれていく。不意に部屋が明るくなり、反射的に目を細める。さきほどの薄暗さに慣れきったせいで、白いラウンジに不快感さえ覚えてしまう。はじめの騒ぎもなくなり、入室しては軽くこちらに手を振る者も現れる。ナマエは呑気に手を振りかえしていた。
「とにかく。船長はそのまま待機。ナマエも、そうだな。そこで問題なけりゃ、そこで。まあ、そうだな。そう、そうそう」
何が言いたいのか。しきりに目もとを隠し、軽く首を横に振る動作も釈然としない。
「なにかお手伝いしましょうか」
「あー、いや、いい。ナマエはそのまま船長を見張っといて。船長、たぶんひとりだと逃げちまうから」
ひとを小動物扱いしやがって。
「船長を見張ります。見張りますから、あの。すこしだけ助けてもらえませんか」
この場の全員がナマエを振り返った。半数が駆け寄ってくる。
「やっぱり、助け、いる?」
「必要なら用意はできている」
ナマエへ手を差し伸べる者がひとり、ふたり。四人、五人。腰へまわした右手にだんだんと力が入る。左手のノートを床に置き、ナマエからペンを抜きとる。その動作で数人は後退した。さらに何人かは手を引っ込める。
「おかしいと思ったんだよなあ。車椅子持ってこればいいか?」
ペンギンは微妙に顔をそらしながら、誰よりも最前列の真正面でしゃがみこんだ。どれだけ睨みつけても一向に目は合わない。
「すみません、みなさんをお邪魔するわけには。どなたか、おひとりでいいので。そう、ペンギンさん。お願いします」
「よしきた。とりあえずこっち、ってことでいいな?」
ペンギンが両腕を広げると、ナマエが前のめりに両手をのばす。これから何が始まるのか察した。
「おい。この続きは」
「続きを書くために、すこしペンギンさんをお借りしてもいいですか」
何を言っているのか微塵も理解できない。すでにペンギン以外はナマエの前から散り散りに去っていた。
「続きって?」
「いまから詳しくお話しします。ここではちょっと、言いにくいので。向こうまで連れて行っていただけませんか」
さらに理解できない言葉が。これ以上問い詰めるのも無粋な気がし、無言で訴えかけるにとどめる。予想どおりナマエがこちらを振り向いた。ぎこちない笑顔を貼りつける。
「すぐ戻ります」
ペンギンがようやくこちらと目を合わせた。軽妙に歯を見せる。
「まあ、ナマエがすぐ戻るんならすぐ戻るから。ちゃんと留守番しといてくださいよ」
ペンギンがナマエを抱え上げる。その際、ナマエの手がペンギンの首へまわされた。何の光景を見せられているのか。ふたりはラウンジの最奥で立ちどまる。いつのまにか床に敷かれたバスタオルのうえにナマエを下ろした。となりにペンギンが腰を下ろす。ナマエが手招きし、ペンギンが顔を近づける。そして耳打ちが。なんだ、あれは。ペンギンの口が軽く開く。ナマエの耳打ちが終わり、今度はペンギンがナマエに近づき、耳打ちを。ナマエが軽くうなずく。ペンギンが顔をはなすと、ナマエが深く頭を下げた。かけ声を発しながらペンギンが立ち上がる。ラウンジを飛び出していった。数分でペンギンが戻ってくる。右手には四角い薄手の紙切れが。ナマエに受け渡し、抱え上げる。まっすぐこちらに歩いてきた。近づいてくるナマエの表情はどことなく強ばっている。
「船長、いますっげェ機嫌悪そう。当たり?」
座ったままナマエを受け取り、元どおり膝に乗せる。ペンギンの煽りを受け流さなくては。
「運搬方法に不備があったくらいだ」
「運搬って、ナマエの運び方? 不備?」
ペンギンだけでなく、ナマエも首を傾げるとは。
「おれのときと違っただろ。腕の位置」
顎に手を当てていたペンギンが指を鳴らす。そして豪快に腹を抱えて笑いはじめた。何人かがこちらを振り向いたが、また作業に戻る。すでにラウンジの光景は一変していた。何をそこまで飾りつける必要があるのか。
「こりゃ大問題、大事件だ。どこから説明すりゃいいんだか」
「私、なにか失礼なことを。ご迷惑をおかけしたのでは」
ペンギンは勝手に納得し、ナマエは勝手に罪を被ろうとしている。どこから手をつければよいのやら。
「ナマエ、船長に抱えてもらうとき、腕は首じゃねェのか」
「え?」
「ああ、悪い悪い。ちゃんと説明するか。要は、船長のほうが器用で力持ちってことだ。そんで、おれらは不器用で非力ってこと。ナマエの体、濡れてると滑りやすいからな。安定して運ぶには首に腕は必須ってわけ。船長は濡れてるナマエをラクラク運べるから、首の腕は必須じゃねェ。格の違いってとこ?」
ペンギンの説明ですべてを理解する。対するナマエはペンギンとこちらの顔を交互に見つめてくる。顔も暗いためフォローも兼ねた声掛けならば、
「おまえに非はない。こっちの認識不足が原因だ」
そして、これからは必ずナマエ専用車椅子を使用させる。周知せねば。
「じゃ、おれはこれで。がんばれよ、ナマエ。船長の見張り、よろしく」
ペンギンはこちらも見ずに去っていく。遠ざかる背中を見ていたナマエだが、わずかに目を細めて固く口を結んだ。
「続き、書きますから。ペンをお借りしても?」
さきほどと同じペンを手渡す。ナマエは床のノートを拾い、表紙のうえにカードを重ねた。本格的に書きはじめる前に確認を。カードの表面を指でなでてみる。真っ白な厚紙。手のひらに収まるサイズ。この手ざわり、標本台紙をカットしたものか。あのペンギンが小洒落たメッセージカードを所持していたら。多少は感心するところだった。
Vivamus, meuslaw
一文字ずつ丁寧に記す。カンマまで来たところでペンを上げて深呼吸。m、e、u、s、l、a、w。二単語を綴ったカードをこちらに差し出す。
「長く手間取って申し訳ありませんでした」
おとなしくカードを受け取る。まずは率直な疑問を。
「『ウィーウァームス』の次は。どう発音すればいい」
「『メウスロー』。つまり、『ウィーウァームス、メウスロー』になります」
何度か舌のうえで転がしてみる。収まりが良いような、悪いような。vaが「ウァー」ならば、laは「ラー」と読みたくなる。音節に規則性も見いだせない。残りの単語の綴りもわかれば、言語として読み解けるはずだが。
「この二単語で『生きていこう』になるのか」
「大まかには、それで伝わります」
歯切れが悪い。真横から見つめているが、こちらと目を合わせようともしない。もう一歩踏み込んでみる。
「この続きは不本意で不適切なフレーズということだな? だからここに書けない」
ナマエが息をつく。目も伏せた。
「これは、きっと。覚悟も決心も、強い思いも。あなたに聞かせるつもりは。手をとるとさえ決めていないのに」
曖昧、抽象。ごまかし、はぐらかし。そして遠慮、躊躇、迷い。ならば、なぜ窓越しに口を滑らせたのか。
「もういい。残りの音は覚えた。この二単語があれば辿れるだろ」
「ま、まって。いま、なんて」
「アトクウェ、アメームス」
それなりに再現したつもりだ。あのとき窓越しで声はかすれていたが、口はしっかり動いていた。その動きを模倣したまで。
「だ、め」
こちらと目を合わせ、ひたすら首を振る。なぜそこまで顔を歪める。何がナマエを苦しめているのだ。
「おねがい。どうか忘れて。私も聞かなかったことにしますから」
ナマエの瞳に水滴を認めた瞬間、何かがはじけた。
「おい、いい加減にしろ」
可能なかぎり声から力を抜く。責めるのではない、問い詰めるのではない。すべてはナマエを受け入れるため。
「おまえを傷つける言葉なら二度と使わねェ。言語には歴史がある。単語そのものの語源だけでも膨大な情報が詰め込まれている。おまえが知っていて、おれが知らねェ言葉があるのは別に構わねェ。ただ、約束しろ。少なくともいま、こうして伝えている言語は信念を曲げずに紡いでいるのだ、と」
半端な覚悟で表明したのではない。ナマエに届くよう、しっかりと顔を振り向かせる。手首もつかんだ。まだナマエはいびつに目を細めている。あいた手は口もとを覆い隠す。
「私こそ、浅はかでした。あなたを傷つけたくない。後悔してほしくない。だからこそ伝えておきます。この書き記したふたつは、けっしてあなたを傷つける言葉ではない、から」
音色が続く。
「ウィーウァームス、メウスロー」
わずかにナマエの頬がゆるむ。
「メウスロー、メウスロー」
歯も見せた。ゆるやかに口は弧を描き、声ものびのびと、晴れやかに。
「メウスロー」
長いため息が続き、そうっと瞳を閉じる。両手を自身の胸もとに添えた。息を整えている。
「めうす、ろー」
声がかすれ、途切れがちに。不思議と音が耳に馴染んで溶けていく。胸の奥底へ沁み入り、絡み合い、浸り、吐息が自然ともれて、意識もどこか、おぼろげで、
「ナマエ」
顎に手をかけて瞳をのぞく。特に抵抗もされず、目が合うだけの時間が過ぎていく。勝手に体がゆれて、顔が近づき、
「あー! できたー! みんなー! おつかれ! いやー、たいへんだったなー!」
耳鳴りがするほどの騒音。この叫び、船尾まで貫通したのでは。まっさきに犯人を睨みつけた。帽子のつばを持ち上げ、わざと目を合わせてくる奴の気がしれない。
「び、びっくり、した」
目の前のナマエも固まっているではないか。今の今までトーンダウンしていたこともあり、ペンギンを怒鳴りつける気分になれず。
「みんなー、定位置につけー。船長はこっちー」
どうせ今日は逃げられない。一度目を閉じて深呼吸。気を取りなおしてナマエを抱えたまま立ち上がった。
「あの、私はこれで。すこし散歩してきます」
思考が停止する。どう答えるのが最適か。引き止めれば、この後の時間を保証せねばならない。どうする。
「なあ、やっぱりこのまま参加すればいいじゃねェか。せっかくだからよ。ほら、船長の顔も見てみろよ。嫌そうにしてるか?」
ペンギンの様子を見るに、ナマエは何度か誘いを断っているのだろう。
「いえ、やっぱり今日は。私はハートの船員ではないので」
ナマエは船員ではない。部外者。何も矛盾していない。ここでようやく気づく。
「せっかくなので、いま、いいですか」
海中から窓越しで。ナマエは今日という日の意味を船員から聞かされていた。はじめから船に上がるつもりはなかったからこそ、あんな形で言葉を残そうと、
「車椅子、ありがとうございます。それでは」
目の前に車椅子が用意される。あとはナマエを下ろすのみ。だが、いまいち腕がいうことをきかない。
「車椅子に下ろしていただけますか」
見つめられる。何を言ってやればいいか。時間だけが過ぎていく。
「どうか素敵な一日を」
顔が近づく。頬同士がかすれて首に抱きつかれ、耳に吐息が、
“Vivamus, meuslaw.”
顔がはなれて笑顔を見せる。なにか、なにかを。そう考えているはずが、車椅子に下ろしてしまう。ひとりが駆けつけてナマエを引いていく。ひらり、ひらりと船員へ手を振り、ラウンジを出ていった。
「船長、引き留めなくていいのか」
手もとにはナマエ手書きのメッセージカードが。シャチに答える気分ではない。いまから何をするか考えれば、不在で好都合かもしれない。予期せぬ醜態を晒すくらいならば。
「今日は元から全部諦めている。おまえらの好きにしろ」
歓声、雄叫び。呼ばれた位置へ移動しながらカードを懐にしまいこんだ。
「よーし、準備はいいなー。せーの!」
船長 誕生日おめでとうございます
「どうした。わざわざこんなに離れて。船長に言えねェやつか」
「すみません。口の動きで読まれてしまうので。耳打ちでお願いします」
「いいけどよ、できるだけ巻きでな? いまの船長、目がやっべェから」
「い、急ぎます。ひとつだけ教えてください。あのひとの、船長、ロー船長の名前の、スペルを」
Vivamus, meuslaw,
ウィーウァームス メウスロー
Vivamus, meus Law,
ウィーウァームス メウス ロー
生きていきましょう 私のロー
atque amemus,
アトクウェ アメームス
そして 愛し合いましょう
「そばにいてくれ、おれのナマエ。二度と離さない」
「このままおまえを、一滴も余すことなく」
「分かち合えばいい。なにもかも。自我さえも」
1/1ページ