カタクリが天使と出会い、愛を育む・女主
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秘密のキス
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テーブルに広げたのは海図の束。向かいに座るペロスペローがそのうちの一枚を手にとる。カタクリは兄の第一声を待っていた。
「なんだこりゃ。島が全部見切れてるじゃねェか。文字も記号も、海図のタイトルすらねェ。こんなものを見せるために呼んだのか」
シャーロット兄弟は万国の大臣として各島を治めていた。島の分布は広範囲に渡るため、兄弟の家を行き来する習慣はない。その代わり、国の中枢ホールケーキアイランドで定期開催されるお茶会には兄弟八十五人が一堂に会する。お茶会で声をかけるのではなく、今回わざわざ兄をコムギ島の自宅に呼びよせた。まずは焦らず、段階的に話を広げる。
「最初は空から降ってきた。チラシが風で飛ばされたのだろうと、気にも留めなかった。次の日、海岸でボトルメールを拾った。その中にも同じ海図があった。毎日毎日、同じ図面が手に入る。今日で三十枚目。つまり、三十日間もこの現象が続いている」
鳥が運んできた日もあった。仕事の書類に紛れ込んでいたことも。
「新聞屋が刷りまちがえて、コムギ島で大量にバラまきでもしたのか」
「いや、島でそんな騒ぎはない。おれしかこの海図を見ていない」
兄が目を細める。海図を睨みながら静かに立ち上がった。部屋の壁一面に貼られたトットランド国内地図のまえで止まる。
「文字情報はゼロだが、見切れた島の地形は見覚えがある。コムギ島からそう遠くない」
海図を国内地図のうえに重ねる。
「おい、カタクリ。最初からわかっていておれを試したな? しっかりナイフの跡があるぞ」
重ねた海図をめくり、兄が指差す。わずかに穴が空いていた。自分もようやく立ち上がる。
「確かめる必要があった。おれ以外も海図を解読できるか。事実、ペロス兄は突き止めた。この先も確かめるつもりだったが、もういい」
「見えたのか? おれが何をするのか」
兄と目を合わせて、静かにうなずく。
「ペロス兄はこう言う。『海図のなかに丸ごと収まっている島はひとつもねェ。なぜ島を中心に描かなかったのか』」
見聞色は、ときに未来という選択肢を示す。覇気を鍛えつづけた結果、数秒先なら見えるようになった。だが、まだ不完全。さらに精度を高めなければ。
「そしてこう続ける。『わざと目的の島を描かなかったんだ。気づいた者だけがたどり着ける、まぼろしの島』」
同じ位置にもう一度ナイフを突き立てる。なにも描かれていない、海図の中心点。もちろん国内地図上も空白。
「すると、こいつは宝の地図ってことか?」
兄の、おどけた声がおかしくて仕方がない。話を合わせておく。
「ロマンある響きだな。だが、まだ疑っている」
「だろうな。おまえだけが毎日拾っているのも妙な話だ。それで、どうする」
「ギリギリおれの管轄に入る。周辺地理を把握する義務はある」
「なんだよ、ノリ気じゃねェか」
ようやく本題にたどり着いた。
「ペロス兄、頼みがある。──」
普段、自分の赴く先には兄弟の誰かが同行していた。大臣に任命されるほどの兄弟は、ある程度分別をわきまえ、一歩距離をおく。しかし年頃の弟や妹は上の者に甘えてしまう。「お兄さまの勇姿をこの目で見たい」などと言われては無下に扱えない。そんなわがままを窘めるつもりもない。幼いうちしかできないこともある。
だが、今回はどうしても単独で動きたかった。不自然に出現した海図。あるかどうかもわからない島。この探索はかならず危険がともなう。あともう一歩で形になりそうな見聞色も試したい。熟考を重ね、兄のペロスペローに協力を仰ぐことに。自分は兄の船に乗り、兄の部下を引き連れる。対する兄はコムギ島の自宅で待機。「ペロス兄が新しい航路を開拓する」と周りに根回しを。互いの行動予定を入れ替えたのだ。他の兄弟に自分の不在が知られるのも時間の問題だが、三日くらいは稼げるはず。こんなことが頼めるのは、唯一の兄ペロスペローしかいない。
コムギ島を出航して一日。海図の中心にあたる位置に島が見えた。だが上陸して早々、異様な覇気を浴びる。かなり距離があるが、まちがいない。部下に対し、森への侵入を禁ずる。探索は海岸沿いのみに制限した。
「カタクリさま。本当に、おひとりで向かわれるのですか」
ひとりが浮かない顔をする。彼もれっきとしたビッグ・マム海賊団戦闘員だが、今回は足手まといだ。そんなことは正直に伝えない。代わりに目安を言い残し、森へ乗りこむ。
「おやつの時間までにはもどる」
命あるものは大なり小なりかならず覇気をまとう。今回の覇気はあまりに強固なため、容易に所在をつかめた。ひと山越えた先の湖。妙に物寂しい。湖岸に沿って目立つのは土色。地面がむき出しになっていた。水面に目を凝らすも、水草すら見当たらない。湖に面する植物はすべて枯れていた。
前方を見わたす。なめらかにつながる湖岸線のうち、一か所のみが突出していた。その先端には巨木がそびえ立つ。だが、岬の地表は巨木にとって狭すぎた。根の大半が水に浸っている。樹高もさることながら、巨木に巻きつくツルの量にも目を見張る。順に目線を上げていけば、何かを見つける。岩肌。平らになった幹の根元に岩が乗っていた。何本ものツルが巻きついており、岩の大きさを測りにくい。ツルのすき間からのぞく、こまかな凹凸が妙に引っかかる。観察しようと湖岸沿いに近づいていけば、場の空気が急変した。
足もとから強い気配。湖底に何かがいる。島に上陸してから湖まで、道中で人工物は一切見かけなかった。つまり、ヒトではない、なにか。
地響きと水流音。無数の泡が水面に吹きだす。背後の森林から野鳥が一斉に飛び立った。水面が隆起する。半円の物体が浮上した。巨大な甲羅。そこから伸びる四足と頭部。大きさは海王類に匹敵する。この化けガメが覇気の持ち主。
「おまえが海図を寄越したのか」
化けガメは答えない。代わりに咆哮してみせた。目が合う。わかりやすい殺気。こちらの出方をうかがっている。
「話のわかる相手じゃねェな」
むしろ知性を見いだせない相手のほうが闘いやすい。いまの自分でどこまで見切れるか。甲羅の防御力はあなどれない。持久戦は避けなければ。覚醒を使い、一気に畳みかける。
ついに甲羅を貫通した。化けガメが横転。一瞬沈んだあと、仰向けに浮かび上がる。あの甲羅を崩すのに三十分も費やしてしまった。見聞色も極めたとは言いがたい。精進せねば。休む間もなく化けガメに飛び移る。比較的状態の良い箇所を探し、甲羅の一部を切り取った。お菓子の材料には期待できないが、総料理長のシュトロイゼンなら用途を思いつくだろう。兄に無理を言った分、収穫は確実につくらなければならない。
陸地にもどると片ひざをついてしまう。視界がゆれて体がふらつく。息も荒い。渇いたのどを潤すため、湖に近づく。ここで、ようやく巨木の変化に気づいた。
ツルが動いている。みるみるうちに引いていき、水中へ消える。巨木に乗る岩の形状が露わとなった。あれは。あの形は。思考するあいだにも、岩のくすんだ灰色が抜け落ちていく。白味が増し、ついには光を放つ。白い布へ変化した。布のかたまり。ちがう。布ではなく羽がかたまりを包む。つばさが、うごいた。かたまりから四本が伸びる。四本の手足。髪が流れ落ち、顔を上げる。女が体を起こし、羽を広げた。大きなあくび。目をこする。長いあいだ空を見上げたあと、視線を下げる。手もとの樹皮にふれた。
「そんな」
声が通る。表情をくもらせ、苦々しく言葉を吐きだす。
「どうして。どうして」
聞きとれる。女の言葉がわかる。あれは空島の人間か。
「こんなはずじゃなかったのに」
顔をおおい、すすり泣く。耳が痛い。女の泣き声はひどく空気をふるわせた。日差しが巨木を照らす。いや、ちがう。あれは巨木みずからが発光していた。あわい黄色が女を包みこむ。ようやく泣きやんだ。同時に耳鳴りも消える。
「あなたは」
固まってしまう。いま、こちらを認識されたかと思った。だが、女がふりかえったのはバケモノ。立ち上がり、羽を動かす。足が浮いた。空中を移動し、化けガメの顔へ近づく。
「あなただと思ったのに」
すでに奴は息絶えていた。覇気が完全に消失している。女が手をのばす。顔を近づけ、口から息を吐く。きらめく吐息が化けガメを包みこむ。全身が光の粒子へと分解され、空気へ溶けていった。女と目が合う。後ずさりしようにも、疲労で手足が動かない。羽を広げた女が近づいてくる。目の前でひざをついた。こちらを見上げる。
「あなたが彼を倒したのですか」
彼とは誰を指すのか。理解したつもりで深くうなずく。女がくしゃりと顔をゆがませた。そっと目を伏せる。
「そう、でしたか」
なぜ女は石化していたのか。なぜ化けガメを倒したら石化が解けたのか。
「まだ足りないのに。もっと、もっと」
殺意は感じないので静観に徹する。拳を握ったあと、ふたたび女が顔を上げた。力強いまなざし。
「助けてくださり、ありがとうございます」
女が深々と頭を下げる。
「あなたには感謝してもしきれません。ぜひ、お礼をさせてください」
とにかく今は疲れきっている。気の利いた返しも思いつかない。
「どうか教えてください。あなたの欲しいものを。欲しい夢を。欲しい未来を」
もの。夢。未来。なにを言っているのだ、こいつは。
「かならず叶えてさしあげます。救っていただいたこの命、けっして無駄にはしません」
その言葉の意味を、自分はまだ理解していなかった。
予定どおり三日以内に帰還する。そのままホールケーキアイランドへ向かうと、やはり情報が漏れていた。到着早々、満面の笑みで兄弟に抱きつかれる。
「カタクリお兄さま。すごい冒険をしてきたって本当? とっても強い怪物をやっつけたって!」
「おれは知らない。行ったのはペロス兄だ」という言い訳はあきらめた。代わりに兄弟の頭をなでる。
「あんなにたくさん宝箱を持ち帰ったのも、はじめて見たわ。さすがお兄さま!」
海岸には流れ着いた廃船が多く見つかり、部下が宝箱をかき集めてきた。自分の手柄ではない。そう正直に伝えるも、兄弟はさらに喜んでしまう。
「ねえ、お兄さま。今度つれていって。私もカタクリお兄さまと冒険したい」
反応に悩み、その場しのぎで適当にごまかしてしまう。ひとまず総料理長シュトロイゼンのもとへ向かった。持ち帰った甲羅を見せる。
「これなら薬になる。そのバケモノがいた湖は環境がいいようだな。他にもお宝が眠っているかもしれないぞ」
シュトロイゼンの言葉を理解できない。理由を尋ねる。
「ここを見てみろ。甲羅に付着した植物。こいつはきれいな水でしか生息しない」
たしかに苔のような緑が生えている。だが、あの湖に水草などなかった。それどころか、付近の植物はすべて枯れていた。
「そう遠くない場所だと聞いた。もう一度探索する価値はある。コックは常に新しい道、そして新食材を探求し、極めたいものだ」
目が合う。総料理長は自分に何を求めているか。シュトロイゼンが満足すれば、結果として彼の料理でママが満足する。今回の宝箱でママはすこぶる機嫌がいい。不自然に出現した海図は、ビッグ・マム海賊団にとって何も不利益をもたらさなかった。妙に引っかかっているのは己のみ。コムギ島の自宅にもどり、予定を調整。今度は兄の部下ではなく、自分の部下を集めて船に乗りこんだ。
結局、部下は海岸に置いてきた。もうこの島に異様な覇気はない。なぜひとりで湖に来たのか。わからない。わからないが、理由のひとつに心当たりはある。巨木のうえに横たわるつばさ。湖岸に近づけば顔を上げる。羽を広げて飛んできた。
「よかった。また来てくれて」
ちがう。おまえに用はない。
「今度こそ教えてください。あなたの欲しいものを」
一週間前、女への返答を保留して湖を去った。理由は時間切れ。おやつの時間の遅延ほど愚かな行為はない。そもそも欲しいものなど思いつかなかった。
「押しつけがましいのは承知しています」
胸もとで手を組み、不安げに瞳をゆらす。女の意図を理解できない。下手に反応すれば誤解を生む。無言を貫き、湖周辺を探索する。歩いてすぐに気づく。むき出しだった土は緑に隠れ、水中に小魚が見える。この一週間で湖の環境は劇的に回復していた。見慣れない果実、きのこ、花などを採取する。自分の目では判別できない。シュトロイゼンに見せ──
「なにかお探しですか」
瞬時に後退。腕を構えて距離をとる。おかしい。気配がなかった。妙な冷や汗が肌を伝う。いまも見聞色を駆使しているのに、女の未来がまるで見えない。
「貴様、何のつもりだ」
頭のなかでは戦術を組み立てていた。この女に勝てるか。──勝てるか、だと? まさか、己の勝利を疑っているのか。敗けるはずがない。命あるものはみな、覇気をまとう。覇気の流れが未来を示す。
瞬間、頭のなかで何かがはじけた。
「あの。大丈夫ですか」
直立したまま、女がこちらへ手をのばす。もちろん届く距離ではない。届かないが、この未来は見えなかった。女の行動を予知できなかった。なぜなのか。覇気がない。一糸も覇気を身にまとっていない。ならば、この女は死んでいるのか。確かめなければ。今度はこちらから手をのばす。じりじりと前へ進み、相手の間合いへ。女は無言で立ち尽くしていた。目だけはしっかりと合わせてくる。
「貴様、何者だ」
つかんだのは女の手首。細いが、たしかに感触はある。地面を見下ろせば、影もついていた。空島の者は覇気が見えない、もしくは特殊な覇気を持つのかもしれない。
「ごめんなさい。本当に、あなたに敵意はありません。どうか信じてください」
手をとられた女は拒絶しない。それどころか一歩近づいてきた。瞬時に後退し、距離をとる。
「素性を隠す相手を、そう安々と信じる奴はいねェ」
「そんな! 私は隠してなど──」
はじめて女が声を荒らげた。途中で言葉を切り、口もとに手を添える。にがい表情。一度目をそらしたあと、ふたたび見上げてくる。
「ナマエ。ナマエと申します」
予想外の言葉に、つかんだ手首をはなしてしまう。
「私はただ、助けていただいたお礼をしたいだけなのです。教えてください、あなたの欲しいものを」
同じ問い。これで三度目。見聞色で未来を探るも、やはり映らない。時間切れだ。おやつの時間が船で待っている。警戒しながら女から目をそらした。採集袋を拾い、来た道をもどっていく。やはり女は追いかけてこなかった。
採集したものすべてに対し、シュトロイゼンは価値を見いだした。また取ってきてほしいと頼まれる。ただの採集なら部下に任せればいい。しかし今度もひとりで向かう。二週間ぶりに湖へ。
「あ、あの」
今日は控えめに近づいてきた。だが聞こえないふりをする。必要最低限の採集を終えて、湖のほとりに腰を下ろす。あれから二週間考えつづけた。自分に何が足りないのか。どうすれば見聞色で未来が見えるのか。無言を貫いていれば、女が肩を落とし、ゆっくりと背を向ける。湖上を浮遊し、巨木のうえへ。石化していたときのように体を丸めて横たわった。眠りにつこうとする女の覇気を探る。見えない。かけらも、一糸さえも。おそらく女以外にも見えていない覇気がある。自分はまだ見聞色を極めていないのだ。すべての覇気を可視化できない。ならば己の限界をぶち破ればいい。瞳を閉じ、深呼吸。精神集中を。視界を封じ、肌から周囲の覇気を浴びる。二週間に一度、希少種の採取と修行目的で湖へ通う。
そんな習慣を続けて半年が過ぎた。
今日も女は巨木で眠る。しかし自分が湖岸を歩くことで、いつも途中で目を覚ます。そのタイミングを修行に組み込んでいた。女に気づかれぬよう気配を絶ち、いかに長く採集を続けられるか。日を重ねるごとに女の起床時間は遅れていく。今日も目覚めるまえに湖を一周できるはずだった。
「あれ。どうして」
あくびをもらし、ゆれた声が響く。半周も満たない時点で目覚めてしまった。仕方がないので、その場で座り、精神統一を始める。人間の手が及んでいないこの湖では、小さな命が絶えず芽吹いていた。半年間通いつめた成果も上がり、以前にも増して覇気の流れをたどれるようになる。着実に前へ進んでいる、はずだった。
「音が、こんなにもゆれて」
聞こえるはずのない位置から声が。焦らず視界を広げる。目の前で女が立ち尽くす。なぜ気づかなかった。なぜ覇気が見えない。こいつの未来はどこにある。半年程度では見極められないというのか。
「なにかあったのですか」
なぜそんな顔をする。なぜ気遣う。貴様の未来は見えないというのに、貴様はおれの心を読んだとでも言うのか。
「ちがう。私はただ、あなたに尽くしたいだけ。まだ恩返しできていない」
半年前のことをまだ引きずっているのか。もうおまえは関係ない。関係などあるものか。おれの何がわかる。何を見た。知った口をきくな。
「ごめんなさい。あなたの音を乱したくないのに」
音を、乱す。こいつは何かを聞いた。自分の何かを聞かれた。
「おい、今からおれと勝負しろ」
最初からこうすればよかったのだ。女が戦意をむき出しにすれば覇気が見えるはず。立ち上がり、五歩以上距離をとる。相手を煽るためにも最初から全力で挑む。一気に覚醒を放った。
「まって。やめて」
「待たねェ。どちらかが倒れるまで終わらせねェぞ」
まずは一撃を。速い。難なく避けられた。やはり相手は見聞色を使える。それも未来視に近いものを。あの翼がやっかいだ。ちょこまか動かれては攻撃も命中しない。いつもなら相手の動きを先読みして確実にねじ込む。だがこいつには通用しない。感情が先走る。冷静を欠いては勝利など不可能。わかっているのに体が勝手に動く。未来が見えないなら拳の数で勝負すればいい。モチモチの能力で腕を複数生やして武装色を込める。
「おねがい! やめて!」
女の声が空気をふるわせた。一瞬の静けさ。入れ替わるように物々しい殺気が浮上する。すぐさま森へふりかえり、殺気の主を待つ。四方から獣が現れた。白虎に大トカゲ、派手な怪鳥も飛んでくる。どれも見上げるほどの巨体。半年も通ったというのに、こんなバケモノの覇気などまるで気づかなかった。足りない。自分には何もかもが圧倒的に足りない。だが己の未熟さを悔いている余裕はない。じりじりと距離が縮まっている。女が呼んだのか。小賢しい真似を。
「来い。返り討ちにしてやる」
獣が一斉に駆けだす。複数生やした腕で一体ずつに狙いを定める。
「だめ!」
顔面に女が。目が合う。すべての腕をふさがれ、獣の鋭利な切っ先が女の背中へ集中する。両手を広げ、自分を包み込もうとしていた体がずるずると崩れ落ちた。すぐに女は足を踏んばり立ち上がる。おののき後退する獣たちへふりかえった。
「へいき。これくらい、わたしは」
ふるえた声。汗をにじませながら笑顔をつくってみせる。そのあいだにも、背中の翼から次々と羽根が抜け落ちていく。体をふらつかせながら、ゆっくりとこちらを見上げる。いつのまにか猛獣の姿は消えていた。
「わたし、わたしは」
声が途切れ、倒れこむ。とっさに体を受けとめた。
「おい、しっかりしろ」
まずは止血を。女をうつ伏せに寝かせて採集袋を細長く引きちぎる。ここでようやく気づいた。血はない。背肌は鋭い爪や牙を受けたが、赤色はどこにも見当たらなかった。それでも女は消耗している。息が浅い。くるしそうに目を閉じて、額に汗も伝う。考えるよりも先に手が動いた。とにかく布を背中に巻きつけ、抱え上げる。その瞬間、すべての思考が停止した。
「おまえ……」
言葉にならない。腕のなかで目を閉じる女はたしかに存在するが、抱えた感覚はない。一グラムも重さがないのだ。言い知れぬ焦燥が襲いかかる。予期せぬ事態に混乱し、己の感覚が麻痺しているだけだ。そうに違いない。どうにか頭を切り替える。しっかりと女を抱えなおし、全速力で森を駆け抜けた。船にもどり、すぐさま出航合図をだす。
「カタクリさま、おやつの時間の準備が整って──」
「そんなものは後だ! さっさと船を出せ」
コックを追い払い、医務室へ急ぐ。ベッドに寝かせた女を船医が診断していく。
「空島の者は初めてです。どう手当てすればいいか、私もさっぱりで」
伝えるべき情報があったはずだが、うまく頭がまわらない。ひとまず船医は清潔な包帯で巻きなおした。羽を避けるため、うつ伏せに寝かせる。
「あの、カタクリさま。この者は、いったい」
船医の問いが頭に入ってこない。代わりに口が勝手に動く。
「他言するな。こいつの存在も傷も、すべてだ」
覇気を放てば、たちまち船医の顔が青ざめる。すばやくうなずき、逃げるように医務室を飛びだした。女の意識はもどらない。このままホールケーキアイランドへ連れていき、もっとも信頼できる医者に見せるか。もしくはその医者をコムギ島まで呼びよせるか。
コムギ島が見えたころ、ようやく女が目を開ける。すかさず声をかけた。
「おれの船に連れてきた。すぐに医者に見せる」
そろりと目線をうごかし、うつ伏せのまま目を合わせる。小さな音がこぼれた。
「もりへ、つれていって」
森。連れていく。
「もりなら、やすめるから」
なにを言っているのか。しかし自分は力強くうなずいてしまう。女の表情がゆるむ。ふたたび目を閉じた。船がコムギ島に着く。女を抱え上げ、まっさきに下船した。向かった先は自宅。使用人たちの出迎えをすべて無視し、はなれの寝屋をも通りすぎ、敷地の最奥にたどり着く。庭で一番樹齢の長い木のもとへ。静かに女を横たわらせる。
「ここでいいか」
女がうっすらと目を開ける。力ない瞳。それでもやわらかく微笑んでみせた。日差しが強まる。ちがう。女が光に包まれた。半年前の光景を思い出す。あのとき石化が解けた女は、化けガメにきらめく吐息を注いだ。その瞬間、化けガメが光の粒子へ分解され、存在がまるごと消失したのだ。
「おい、しっかりしろ」
ひざをつき、女の手をとる。このまま光に分解され、消えてしまうのでは。この握った感触さえも消失してしまうのではないか。呼ばなければ。呼びつづけなければ。どんな言葉よりも先に飛びだしたのは、
「ナマエ」
彼女が目を開ける。こちらを見上げた。
「ナマエ、しっかりしろ」
さらに強く手をにぎる。何度も名を呼んだ。何度も何度も呼びつづけた。彼女がゆっくりとまばたきを。そのあいだも自分から目をそらさない。今度は頬がゆるむ。体が丸まり、握りかえされた手に、吐息が。一瞬、悪寒のごとく全身が逆立つ。なにが起きたのか。懸命に歯を食いしばり、高ぶった神経を落ち着ける。いつのまにか彼女は深い眠りに就いていた。全身を包む光量も減っている。顔色も悪くない。そっと息をついてしまう。念のため、背中の包帯をずらしてみる。やはり傷跡は完治していた。しかし翼の羽根は再生しない。頭が痛い。自分は何を見たのか。何をしでかしたのか。考えることは山ほどある。それでも疲労には打ち勝てない。手をにぎったまま、彼女のとなりに腰を下ろす。木に背を預ければ、すぐに意識を手放した。
次に目を開けたときには日が沈んでいた。船を降りてから六時間。腹が空いた。おやつの時間を二度も逃している。丸一日なにも食べていない。手をつないだまま横たわる彼女は起きそうにない。慎重に指を一本ずつ外す。音もなく立ち上がった。敷地内なので心配ない。木の下に彼女を置いて、ひとまず居間へ向かう。
「カタクリさま」
部屋に入れば、使用人たちが一斉に顔をだした。名を呼ばれたが、言葉は続かない。おそらく、自分が庭からもどるのを待っていたのだ。顔色が浮かばない。心配されている。帰宅したと思えば、負傷した女を抱えていた。メリエンダをも遅らせ、庭で長時間過ごしたのだ。なにか説明を。船医のように他言無用と命ずるか。そんなごまかしはいずれボロがでる。皆が絶対に秘密を守れるような、なにか。
「島でめずらしい種族を見つけた。ママのコレクションとしてプレゼントするつもりだ。サプライズにしたい。あいつがここにいることは誰にも言うな。兄弟もおどろかせたい。いいな?」
使用人たちが顔を見合わせる。すぐに頭を下げた。そばの者を呼び、部下全員にも通達させる。これでしばらくは時間稼ぎできる。コックを呼びつけ、二日ぶりのメリエンダを。就寝時間だが、さきほど起きたばかりなので、することもない。彼女の様子を見にいく。念のため、使用人たちには庭の最奥への立ち入りを禁じておく。そもそも彼女のもとへたどり着くには、はなれの寝屋を通らなければならない。もとから自分の寝屋へは誰も近づかない。一日に一度、ハウスキーパーが出入りするのみ。寝屋で過ごす時間は、メリエンダの次に羽を伸ばせた。
深夜零時。木の根元にあわい光が見える。徐々に光量はおちついてきていた。静かに腰を下ろし、となりを見る。
「あなたは寝ないの?」
体を起こし、こちらを見上げる。起きていたのか。
「眠くなるまでここにいる」
じっと見つめられたあと、彼女が腰を上げる。ふらつく様子もない。それでも翼の羽根はまばらで、背中の布は無残にも切り裂かれている。すき間からのぞく包帯も痛々しい。すでに完治したとわかっているが、確認をとる。
「傷は治ったのか」
「うん。羽はまだだけれど、あとはへいき」
闇夜でも彼女を視認できるのは、あわい光に包まれているからだ。なぜ光っているのか。なぜ完治したのか。問いただしたいが、別の話題を選んでしまう。
「代わりの服はいるか」
「そんなにひどい?」
ぎこちない笑顔。全身を見まわしながら、一回転もしてみせた。やはり切り裂かれた背中が目立つ。
「気持ちは本当にありがたいけれど、服は大丈夫。自分で直すから」
彼女が脱ぎはじめた。背中から腰、胸もとから腹部にかけては包帯があるので問題ないが。すぐに下から目をそらす。視界の隅で彼女が羽根を一本抜く。光り輝いた羽根は糸束へと変化した。思わずふりかえってしまう。黙々と、きらめく糸で切り口を縫い上げる。仕上がった服をふたたび身につけた。包帯をすべて取り去り、ぐっと伸びをする。大きく翼も広げた。
「ありがとう。二度も助けてもらえた。今度こそお礼をさせて」
半年前から何も変わらない。そんな彼女の言葉を自分はずっと聞き流してきた。隔週で顔を合わせていたというのに、一定の距離を置いてきた。今回は明らかに自分の失態。彼女に八つ当たりしたのだ。そもそも彼女の未来が見えていれば。獣と自分のあいだに割り込んできた彼女を守っていれば。いまさら後悔しても遅い。今度こそ手をのばそう。彼女の問いに答えよう。
「あの湖で修行を続けたい。おまえが必要だ。これからもあの場所で見ていてほしい」
湖で覇気を探りはじめてから、着実に見聞色が向上している。彼女の覇気が見えたときこそ見聞色を極められる。そう確信していた。
「そんなことでいいの? なにかもっと、叶いそうにない願いは──」
「おまえにしかできない。おまえの替えはきかない。他の奴では叶わない夢だ。だからこうして頼んでいる」
沈黙が流れる。彼女がそっと目を伏せた。羽をたたみ、全身のあわい光も消える。
「わかった。これからもあなたを見守る。でも、それだけでは足りないの」
鋭い瞳。まっすぐとこちらを見すえた。
「あなたの言葉を待つのはやめた。私が見つける。私があなたの欲しいものを探す」
修行の交渉が成立する。次の航海まで彼女を自宅に住まわせることにした。ママのサプライズと説明しているため、そもそも敷地外へ出すつもりはない。彼女はほとんどの時間を庭で過ごした。定期的に様子を見にいくが、どの時間も木の下で体を丸めて眠っている。ときには野鳥に囲われ、どこからともなく現れた子鹿に頭を預ける。最初は干渉しないよう心がけていた。空島の者は地上の人間と生活習慣が異なるのかもしれない。だが、とうとう痺れを切らし、三日目に彼女を居間へ呼ぶことに。ダイニングテーブルの席に着かせた。
「朝食だ」
好みがわからないので、あらゆる料理を用意させた。
「この三日、なにも食ってないだろ」
ビッグ・マムが治めるトットランドには飢餓の概念がない。多種多様かつ膨大な食料が流通していた。すべての国民が腹を満たし、幸福を保障される。もちろんここの使用人にも十分な食事を支給する。だからこそ、なにも要求してこない彼女を放っておけなかった。
「ありがとう。でも大丈夫。食べなくても困らないから」
その言いまわしが引っかかるが、強引に話をすすめる。
「つまり、ものは食えるんだな?」
彼女は押し黙ってしまう。手もとのスープを見つめた。
「ここにいるあいだ、おれがおまえの衣食住を保障する。遠慮なく食え」
顔を上げて、彼女が部屋を見まわす。待機する給仕係が表情を硬くした。
「ありがとう、ございます」
ぎこちない笑顔。ようやくスプーンを手にとった。スープをひとくち、ふたくち。テーブルマナーは悪くない。パンをちぎり、バターをぬり、ひかえめに頬張る。緊張をほぐすためにも、自分も料理に手をつけた。周りの視線もあるので口もとは隠す。すばやく食す自分に対し、彼女の食事スピードは徐々に落ちていく。三皿目でまぶたを重くする。手もとの皿を空にしたところで小さなあくびをもらす。ついにはテーブルに肘をついた。きつめにまばたきをくり返し、眠気とたたかう。
「もういいのか」
「うん。たくさん、ありがとう」
間延びした声。呂律がまわっていない。体もゆれてきたので席を立ち、彼女のもとへ歩みよる。
「少し寝るか?」
手を差しだせば、体ごと倒れこんできた。手早く抱え上げるが、動きを停止してしまう。感触に違和感。歩きながら確認する。湖では実感できなかった体重が生まれていた。数十グラムだが、まちがいない。用意していた彼女の寝室へ向かう。客室なのでベッドのほかにシャワーも完備している。三日前に彼女をここへ案内したが、ベッドはほぼ使っていないようだ。ゆっくりと体を下ろし、シーツをかけてやる。うっすらと目が開いた。背中には翼があるので、横へ体をかたむける。
「ひさしぶりに物を入れたあとだ。無理に起きなくていい」
こちらと目を合わせたあと、自身の手を見つめる。ゆっくりと拳をつくっては開くをくり返した。
「ほんとうに、ひさしぶり、だった、から」
ついには瞳を閉じた。一定の呼吸音。ひさしぶりの食事、か。もしかすると、石化が解けたこの半年間、まともな飲食をしていなかったのでは。次々と疑問が浮かぶ。だが当の本人はすでに夢のなか。急ぐ必要はない。音もなく部屋をあとにした。
彼女の食事頻度は多くない。一日一食。量も半人前以下。さらに食後は長い眠りにつく。それでも少しずつ変化が見えてきた。一日二食へ増える。手をつける皿も多くなった。食後の睡眠も日に日に短くなる。移動はすべて翼で飛んでいたが、最近地上を歩くようになった。足が汚れるので靴を用意させる。ここに来てから十日が過ぎていた。
「その服は変えないのか」
彼女の部屋で新しい靴を履かせた、このタイミングで提案する。案の定、首をかしげた。
「ちゃんと洗っているよ?」
彼女は日中、庭の池で水浴びする。野鳥のように水辺で羽を手入れしていた。その際に服を洗うのも知っている。切り裂かれた箇所をわざわざ修繕した様子から、思い入れが強いのもわかっている。
「一応、用意させた。無理に着なくてもいい」
部屋のクローゼットを開ける。いまの服に近い色合い、デザインを用意させた。一枚布で軽い素材。体に巻きつけてピンやひもで固定する。
「あの、本当に、ありがとう」
まただ。不自然に笑顔をつくり、形だけの礼を述べる。これで何度目か。たしかに今回は押し付けがましかったかもしれない。だが、彼女を粗雑に扱うわけにはいかなかった。ここでは「ママへのサプライズプレゼント」で話が通っている。食事を提供し、ベッドで寝かせ、自由に着替えさせることで少しでも奴隷らしさを払拭したい。こちらは修業の場を借りる身。彼女は客人に相当する。丁重にもてなさなければ、自分自身が納得できない。
「これでいいかな」
着替え終えた彼女がもどってくる。第一印象は違和感。着替えた服のせいではない。なにかが今の彼女に欠けていた。全身を観察していれば、彼女がゆるりと回転する。背を向けたところでようやく気づいた。
「羽はどうした」
翼がない。あの大きさを服のなかにすべてしまったとは考えにくい。
「そういえば。はじめてかも」
背中がふくらみ、一瞬で翼が飛びだした。息をとめてしまう。そもそも、いまの行動を予測できなかった。己の未熟さに腹立たしくなるも、冷静を装う。
「今までもこんなことができたのか」
「ごめんなさい。隠しているつもりはなかったの。この服は、羽を畳んだほうがきれいだと思って」
ふたたび羽をしまう。背中へ吸収されるように空気へ溶けた。やはり布はふくらんでいない。羽を丸ごと消したのか。
「あの、本当にちがうから。あなたをだますつもりはなかった」
こちらの顔色をうかがい、妙に腰が低い。まさか、さきほどの苛立ちを見抜かれたか。息づかいさえも完全に隠し通したはず。
「明日でしょう? ちゃんと見るから。あなたの音を聴く」
明日、島へ。湖で音を聞く。そうか。彼女はこちらの音を探り、感情を読みとる。いまも聞かれてしまった。羽が飛びだす未来を予測できなかった自分に対し、彼女はこちらの心を見抜いた。沈めたはずの感情が噴出する。まずい。また考えを読まれてしまう。
「明日は昼すぎに出発する」
かぎりなくやわらかい音を心がけ、背を向ける。足早に部屋を抜けだした。
湖のある島へは半日ほどかかる。夕方にコムギ島を出航し、一晩を船で過ごす。目を覚ました彼女が乗船するのは初めてだ。昨日こちらから強引に話を切り上げたこともあり、なんとなく彼女と顔を合わせにくい。つい避けてしまう。時間が解決するだろうと自分自身を納得させる。気づけば就寝時刻となっていた。
自室へたどり着くには彼女の部屋を通りすぎなければならない。午後十一時。結局、乗船してから一度も姿を見ていない。迷いに迷い、扉のまえに立つ。なかに気配はない。そもそも彼女の覇気は見えないため、己の感覚はあてにならない。妙な胸騒ぎがする。
「おい、おれだ。入るぞ」
返事はない。ドアもノックする。反応なし。まずい、これは、
「開けるぞ」
室内は暗い。となりの浴室も空。この時間は見張り番しか起きていない。だからこそ彼女が気兼ねなく自由に動きまわれるかもしれない。そう割り切るには、あまりにも判断材料が少なすぎた。なにより彼女の覇気をたどれない。現在地がつかめない。まっさきに甲板へ飛びだす。見聞色で部下の位置を確認。見張り台にふたり。操舵者がひとり。船首船尾にひとりずつ。のこりは全員部屋で──
キッチンにひとり。朝食の下ごしらえをする時間ではない。夜食は全員済ませた。彼女ではない。覇気の見えない彼女では、ない。では彼女はどこにいる。はじけるようにかけだした。階段を下りてキッチンの扉をこじ開ける。いない。だがひとりの気配はつかめた。キッチン最奥の食糧庫へ。
「ナマエ!」
おおいかぶさる男を突き飛ばし、彼女を背に隠す。たおれた男はふらつきながら体を起こした。
「カ、カタクリさま。お、おれは」
こいつは。先日うちに入ったばかりではないか。
「貴様、何をしたかわかっているのか。おれの客人だぞ」
叫ばぬよう、必死に感情を押し殺す。男は悲鳴を上げた。
「そ、そんな。ってことは、サプライズの」
やはり彼女だと認識していなかった。
「ち、ちがうんです。おれはてっきり、新入りの子だと思って」
なにを抜かしてやがる。たとえ部下の女だとしても、こんな真似を許した覚えはない。
「申し訳ありません! カタクリさまの客人には羽があると聞いていて。まさか、この子だとは」
うしろをふりかえる。彼女はいま、羽をしまっていた。だからどうと言うのだ。女なら見境なく、こんな真似を。この男の存在すべてが腹立たしい。
「甲板へ出ろ」
走りだした男のあとを追う。考慮する必要もない。迷わず男を海へ突き落とした。あれは部下ですらない。そんな者を受け入れてしまった自分自身が許せない。怒りを沈めながら食糧庫へもどる。彼女はその場から一歩も動かず、立ち尽くしていた。暗いため表情はわからない。だからといって、ここに放置する理由もない。慎重に抱え上げる。はじめて食事をとったあのときから確実に体重は増えていた。それでも一キログラムにも満たない。大半が衣服の重さなのでは。彼女の部屋へ。ベッドへ横たわらせた。明かりをつけるか迷い、暗いまま観察をこころみる。服に乱れはない。外傷も特になし。肝心の精神状態を確かめるには、どうすればいいか。
「ナマエ。聞こえるか」
ベッドのまえでひざをつき、顔を近づける。ようやく目が暗闇に慣れてきた。彼女は目を開けている。仰向けで、ぼんやりと天井を見つめていた。辛抱強く待つも、返事は聞こえない。慎重に行動を取捨選択し、彼女の手をとる。
「何でもいい。おまえの声が聞きたい」
いつもならこの時点で目が合う。背中の羽があるので横向きに寝るからだ。だが今は羽をしまい、仰向けになっている。過度に刺激を与えたくないが、他の案も浮かばない。そっと肩をもち、こちらへ体を向けさせた。
「余計なことは考えるな。今夜はおれがここにいる」
ゆっくりと、まばたきを。やっと目が合う。口も動いた。
「あなたが、ここに?」
空気にとけるほど小さな音。それでも自分の耳は熱くなる。
「ああ。おまえは何も考えずに寝ろ。寝ているうちに到着する」
とにかく安心させたい。彼女の未来が見えない今、できることすべてを試みる。肩までシーツをかけて頭に手を置く。そっと髪をなで上げる。ときおり頬へ下りては指の腹でやわらかく肌をたどる。己のプライドをも捨てた。彼女の能力を逆手にとる。胸の内をさらけだす。音を聞かせる。いま、何を考えているか。どんな感情が流れているか。好きに探ればいい。
「聞こえる。あなたの音」
ゆるりと頬が。やんわりと目がほそく。にぎった手を引かれる。顔のまえまで寄せて、彼女自身がかたむく。両手で包みこまれた。少し口を開けて、息吹が注がれる。きらめく吐息。何度か見た光。瞬間、全身の血が一斉に巡りだした。予期せぬ衝動がおそいかかり、体勢を保てない。そのままベッドへ倒れこんだ。息が荒い。汗もにじみでる。それでも彼女の手をはなさない。
「ありがとう」
頭が倒れこんだ先は彼女の胸もと。思考が停止する。動かねばと焦るも、体はまるで言うことをきかない。そうこうしているうちに両腕で包みこまれる。彼女の手が動き、ぞわりと全身が逆立つ。頭をなでられていた。
「おやすみなさい」
なでる手つきは一定。しだいに間隔がのびていく。ついには頭のうえから滑りおちた。慎重に腕のなかから抜けだす。顔を上げた瞬間、ひどく大きなため息をついてしまう。何はともあれ、彼女を寝かせる目標は達成した。もう心配ないだろう。だが「今夜はここにいる」と宣言してしまった。考えに考え抜き、腰を下ろす。彼女に背を向けて座りこんだ。腕を組み、瞳を閉じる。今夜のできごとすべてを思考から追い出し、頭を空にする。しだいに意識が遠のいていった。
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