番号のないサンプル
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ポーラータングが騒がしいのは日常茶飯事だ。一度ノックされたくらいでは重い腰を上げない。次の島が見えるまで急用などあるはずもなく。
「キャプテン! たいへんだ!」
ベポがこうして駆けこんでくるのも珍しくはない。
「いそいで! コックピットまで! はやく!」
腕を引っ張られ、否応なく部屋を出る。肝心の報告をまだ聞けていない。
「状況を言え。何があった」
コックピットに押し込まれる。前方に小さな魚影が。海面に近いので、シルエットがはっきりと見える。あれは、
「あそこに人魚が!」
ベポは喜ぶどころか焦っている。理由はすぐにわかった。海底から轟音が。黒いかたまりが浮上し、人魚に向かって大口を開けた。
「人魚が海獣に食われそう!」
状況は理解した。この距離では遅かれ早かれ海獣がポーラータングに気づくだろう。ならば、先手で海獣を排除する。船の浮上を指示しROOMを張る。一応、ベポに確認を。
「海獣は斬る。それでいいな?」
「人魚は? 助けないの?」
予想どおりの反応。用意していた答えを続ける。
「助けてどうするつもりだ」
善意や良心、尊い命を救うため。そんなきれいごとを求めているわけではない。うちの航海士は十分に理解しているはずだ。
「あの人魚、さっきからふらふらしていたんだ。たぶん困っている。海で泳いでいる人魚は初めて見た。きっとこの辺の島について知っているよ」
ふらふら。ということは、救助した矢先に船が襲われる心配はない。人魚なら意思疎通できるはず。情報収集か。ベポの言い分に納得したので、シャンブルズで人魚をコックピットに引き込んだ。人魚が消えたため、やはり海獣はポーラータングに気づく。海面に浮上したタイミングで甲板へ。迫りくる海獣めがけて鬼哭を振りかざした。
医療室に運んだ人魚は浅い呼吸をくり返す。声をかけるが応答なし。仕方がないのでこちらで勝手に処置していく。結論としては、疲労による衰弱。経口摂取できる状態ではないので、点滴を。しばらくすると規則正しい寝息が。命に別状はない。そっと息をつく。器具を片付ける最中、手の違和感に気づく。張り付いていた一枚をとり、照明にかざした。五センチ四方の鱗。透き通り、虹色に反射する。指で折り曲げようとするも、わずかに湾曲するのみ。両手に張り付いていた分だけでも五枚はあった。ベッドや床にも虹色が散乱している。少し考え、はがれ落ちた鱗すべてを拾い集めた。
数時間後には人魚が目覚める。単調な航海に飽きていた船員が一気に押し寄せ、休みなく質問が飛び交う。
「ええっと、私は。海の底から来ました」
「リュウグウ王国という……」
「ナマエといいます。助けてくださりありがとうございます」
野次馬どもから距離を置き、部屋の入り口そばに背を預ける。会話の断片から新情報を拾い上げていった。
「おれたち、記録指針で島を渡ってるんだ。この辺のこと知らないか」
ベポが直球を投げるも、人魚は気まずそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。実は、私もこんなに長い距離を移動したのは初めてで。海の底しかわからないです」
さっきから海の底。海の底。あいまいな答えに対し、突っ込む野郎はいないのか。
「ならさ、海の底のこと聞かせてくれよ」
あの軽い口調は。シャチ。
「おれたち、人魚に会うのは初めてなんだ」
初めて、か。シャチの嬉々とした声に、人魚が体を硬直させる。拳も強く握った。だがすぐに表情がやわらぐ。その異変に周囲の船員が気づいた様子はない。受け答えも自然。しばらく耳を傾けていたが、有用な情報をこぼす様子はない。新発見があれば、あいつらが報告してくるだろう。そのまま部屋をあとにした。
数日後には人魚の容態も安定してきた。尾びれなので車椅子に乗せて移動。海面に一番近い、船尾の甲板まで運ぶ。自力で泳げそうか確認をとったうえで、海面を指さしてやる。だが人魚は動かない。
「あ、あの」
まるで意図が伝わっていない。面倒だが説明を。
「とりあえず泳いでみろ。体が水温に慣れたら顔を出せ。診断する。それをクリアすれば完治だ」
みるみるうちに目が丸くなる。海面とこちらを交互に見やり、ごくりと息をのむ。次の瞬間、尾びれが跳ねる。勢いよく海へ飛び降りた。五分経過。甲板に顔を出す船員がぽつぽつ増えていく。さらに五分経過。ここでペンギンが暗い顔で声をかけてきた。
「なあ。ひょっとして、ナマエはもう戻ってこねェんじゃ」
どういう意味だ。
「ほら。ナマエって、おれたちと話してると、ちょっとぎこちないというか、そわそわしてたし。船長もずっとこわい顔してるし」
顔をとやかく言われる筋合いはねェぞ。
「ポーラータングにいるあいだ、ずっとこわかったんじゃねェか? やっと解放されたから、一目散に、逃げた、って」
水が撥ねる音。ペンギンの目線が海へ。何人かが叫ぶ。人魚が水面から顔を出していた。それも頬をゆるませ、歯を見せている。ひとまずペンギンとの会話を中断し、船べりから手をのばす。問診と脈を。この息づかいは相当泳ぎ込んだ様子。
「特に異常なし」
最低限の報告。立ち上がり、船内へ戻ろうとすれば人魚に呼び止められた。
「助けてくださり、本当にありがとうございました。お礼をさせてください」
「余計な気遣いは不要だ」と吐き捨てたいが、周囲の視線が痛い。よりによって全員顔を出しているではないか。深く息をつき、船べりへ引き返す。人魚が差し出したのは、自身が身につけていた宝飾品。よく磨き込まれた貝と真珠。見知らぬ石もある。受け取ろうとしたが、思いなおし手を引っ込める。
「物はいらねェ。代わりに、今からの質問に答えろ」
シャーレに入れた、十数枚。
「治療中、おまえの鱗が剥がれた。結構な枚数だ。痛みはないのか」
「え、ええ。鱗なら、少しは剥がれても大丈夫なので」
「治るのか」
「たぶん。また再生すると思います」
沈黙が流れる。こちらの質問を待っているのだと気づき、適当な話題を探す。
「これからどこへ行く」
人魚の顔が曇った。
「これから。わたしは」
顔も伏せる。まずい。嫌な予感が。
「まだ、なにも決めていなくて」
頭が痛い。案の定、野次馬どもが群がってきた。
「ナマエ、迷子なのか」
ベポ。ちがうだろ。こいつは、
「帰り道はわかります。でも。もう帰らないと決めたんです」
帰らないと決めただと? くだらない。
「後先考えず、家を飛びだしてきたってわけか」
人魚が唇をかみしめる。目もそらした。さらにたたみかける。
「海の底しか知らないと言っていたな。つまり、三日前のおまえが海獣に食われかけたのは、自業自得だった」
「船長、言いすぎじゃ──」
シャチをにらんで黙らせる。
「はい。考えなしに海へ出た、わたしの、自業自得、です」
こいつ、言い切った。自覚があるならば、
「さっさと家に帰れ」
誰かが悲鳴を上げた。人魚は目を丸める。
「本当なら、三日前におまえは食われていた。この海はそういう世界だ」
そもそも、人魚ならば海獣以上に危険な敵がいる。どれほどの額で売買されるか。
「家を飛びだしてから、ろくに飲み食いもしてなかった。ちがうか」
おずおずと顔を伏せていく。海面の下で拳を握った。
「いいか。海のそこらじゅうにレストランがあるわけでもねェ」
もう人魚は顔を上げない。わずかに肩も震わせる。
「食い物も自力で調達できねェやつが、計画なしに突っ走るな」
人間の手に渡れば最後。
「おまえに外の世界は早すぎる」
この場で異を唱える者はいない。人魚のそばに水滴が落ちた。顔を伏せているため、目もとは髪で隠れている。感情を表に出したところで世界は変わらない。人魚の価値が落ちるわけでもない。
人魚が顔を上げる。ぐしゃぐしゃに赤く泣きはらした目もとが、一瞬。身をひるがえし、水しぶきが上がる。まばたきした頃には跡形もなく消えていた。
あの追い払い方に難色を示した者は少なからずいた。だが、オークションの実態を明かせば全員もれなく口を閉じる。翌日には船内の空気も日常へもどっていった。
乱暴に自室の扉をたたく音。またベポが飛び込んでくる。
「キャプテン! たいへんだ! きて!」
強引に腕をとられ、着いた先はコックピットではなく甲板。すでに人だかりができていた。全員船べりから海を見下ろしている。野郎の笑い声。そして細く高い音色が一筋。まさか、
「船長! ナマエだよ、ナマエ!」
シャチに手招きされる。ベポに背中も押されるので、柵へ直行するしかなかった。視線を下げていく。胸もとには海藻や貝類が。それも山ほどある。口は弧を描き、頬をうっすらと紅潮させ、肩で息をする。つまり、全速力で泳いできた。
「まんべんなく、いろんな種類を採ってきました」
嬉々とした声色。なぜ戻ってきた。
「この海藻なら、そのまま食べられます」
ワカメのような緑をその場で口に含む。ごくりと飲みこんだ。
「新鮮な貝もおいしいですよ」
コックたちが感嘆の声を上げる。「めずらしい」と口をそろえた。
「どうぞ」
手の平ほど大きな貝をコックへ手渡す。その様子を注視する。昨日診察した時には無かった傷が。指先が特に酷い。すり傷に噛み跡も数箇所。魚にでも攻撃されたか。あるいは貝にはさまれたか。
「この海藻も、どうぞ。もらってください。ワカメはブリュレ、モズクはタルトがおすすめです」
コックたちと会話がはずむ。手持ちをすべて差し出したため、肩口や胸まわりの傷もあらわになる。全身ボロボロではないか。
「なあ、船長。いまからブリュレとタルトを作っていいか」
コックの提案。人魚もこちらを見上げる。周囲の視線が同時に突き刺さり、そっと息をついてしまう。追い返すなら今しかない。だが、コックたちは海鮮類を山盛りで抱えていた。すでに物品を受け取ってしまった。
「そんで、よければ、できあがった分をナマエに食わせてやりてェ」
頭が痛い。どいつもこいつも。
「こっちに上がってこい」
人魚に向かって静かに告げる。
「傷を見せろ。貴重な食材をタダでもらうわけにはいかねェ。手当する」
歓声と雄叫び。複数人から肩を強く叩かれる。人魚はくしゃりと顔をゆがませた。傷だらけの両手を胸もとで重ねて、細く震えた声が届く。
「ありがとう、ございます」
人魚は毎日のようにポーラータングを訪れた。かならず海鮮類の手土産を持参し、コックが快く調理する。完治していない手で採取するため、一向に傷は治らない。どれだけ言っても手土産を絶やさない。命に別状はないが、ていねいに巻きなおした包帯が翌朝にはボロボロに破れているさまは、見ていて気分の良いものではない。そう正直に伝えるが、人魚はさらに顔をほころばせる。
「はい。怪我しないように気をつけます」
つまり、採取をやめるつもりはない、と。
「いつまでも面倒を見てもらえると思うな」
今日も甲板で処置を済ませる。肩口や腕の傷は目に見えて減っていた。どうも、貝類の捕獲に手間取っているらしい。
「はい。わかっています」
ここで笑顔が消える。声も沈んだ。空気が重い。なぜこちらが話題を提供せねばならないのだ。つい毒づきたくなる。
「家出しなければ、こんな苦労も怪我もしなくて済んだだろ」
人魚は押し黙る。目もそらし、遠く水平線をながめた。誰が問いかけても家出の理由は答えない。今までの生活について聞くかぎり、自分の手で料理や家事をしたこともないはずだ。絵に描いたような世間知らずで、妙な部分で頑固。さきほど意気消沈したかと思えば、次の瞬間には笑顔がはじける。急激な環境変化に精神面が追いついていないだけにも見える。どこまで安定するか。
「多少の怪我は覚悟の上です。空を見るためなら、これくらい我慢しないと」
空を見るため、か。
人魚と遭遇して一週間。レーダーに大物が引っかかる。そのサイズ感から、海獣ではなく魚と推測。種類によっては食材として捕獲しよう、と話がまとまった。いよいよポーラータングで近づけば、後方から弾丸のごとく何かが飛んできた。あのシルエットは人魚。速い。前方の巨大魚へ突っ込んだ。いや、ちがう。体表ギリギリをすり抜け、魚の周囲を延々と旋回する。
「ナマエ、まさか、アレを倒すつもりじゃ」
ベポの推測通りならば、別の疑問が浮かぶ。人魚は魚肉を食べない。つまり、あの巨大魚を倒しても本人に得はないのだ。
「おれたちを手伝ってくれるのかな」
ベポが船を減速させる。そもそも人魚には巨大魚捕獲作戦を伝えていない。今日はまだ顔を合わせてすらいなかった。ここコックピットの会話が聞こえていたとは考えにくい。そして数分経過した今でも、人魚は巨大魚を倒せていない。錯乱できてはいるが、物理的ダメージを与えなければ埒が明かない。考えるよりも先に足が動いた。船を浮上させ、甲板へ飛びだす。海面近くで人魚は旋回を続けている。とにかくROOMを。このまま魚を斬れば、かならず人魚を巻き込む。シャンブルズで引き寄せたいが、動きが速すぎて姿を捉えきれない。どうすればいい。なにか合図を。海中へ届くのか。一か八か。大声を張り上げた。
「ナマエ! とまれ! あとは任せろ!」
海中で巻き起こっていた一筋の水流が消える。見つけた。手もとのロープとシャンブルズ。彼女を受け止める。巨大魚の動きは鈍っていた。海面に顔を出した隙に一振り。さらに切り分ければ、船員が手際よく網で引き寄せていった。
足もとに違和感。視線を下げれば、肩で息をするナマエと目が合った。背を丸くして、こちらの足を囲うように身体を寝そべる。とにかく診察を。その場でひざを着き、新しい傷を探す。しかし見つからない。処置は不要だが、無言で立ち去る気にはなれない。なにかを吐き捨ててやりたかった。
「なぜ魚に突っ込んだ。あんな真似、今まで一度もやらなかっただろ」
彼女は頬を甲板に押し当て、起き上がる気配はない。あれだけの速度で泳ぎつづけたのだ。さすがに負荷が大きかったか。
「コックさんたちが、そろそろ新しい食材が欲しいって、聞いていたので」
息を切らせながら、目だけをこちらへ向ける。わずかに頬をゆるませ、笑っているようにも見える。
「船がまっすぐ、あの魚に向かっていったので。きっと目をつけたのかと、思い、ました」
軽く息をついてしまう。
「おれが手を出さなかったら、どうするつもりだった」
巨大魚は、隙あらば彼女を飲み込むつもりだった。持久力で人魚が巨大魚に勝てるはずがない。あそこで減速して力尽きれば、なにが起きたか。想像に難くない。
「コックピットから、こちらを見ていたのは分かったので」
だとしても、だとしてもだ。
「すこしでも、あなたの力になりたかった」
思わずまばたきしてしまう。いまの言葉を理解できなかった。
「これくらいの、恩返しは、させて、ください」
いつの恩を返すつもりだ、こいつは。そんなもの、とっくに時効に決まって、
「あったかい」
唐突に。今度は何だ。
「陸って、こんなに光があって。こんなに、あたたかい」
彼女はまだ甲板に頬をつけていた。手で甲板をなでる。馬鹿馬鹿しい。
「これは船だ。陸じゃねェぞ」
「私にとって、はじめての陸はここでした。この陸以外、知らない」
考えをめぐらせて、ようやく気づく。
「おまえ、海岸は見たことあるか」
「いいえ」
「木は。陸に生える、緑の植物だ」
「ないです。陸のものは、一度も」
「島を見たことくらいはあるだろ。ここに来るまで本当にないのか」
身をよじり、あお向けになる。いつのまにか呼吸は落ち着いていた。空へ手をのばし、目もとに影をつくる。
「水平線に出っ張りを見たことはあります。それが船なのか、島なのかは分かりません。近づかないようにしていたので」
そこまで避けている陸を、いまは欲しているように見える。
「いいか。これは木の板だ。本来は樹木として陸に生えている」
彼女の手のそばに、自身のそれを置く。
「樹木を加工したものだ。人の手を加えた人工物。陸はもっと広い。淡水だが、川や湖もある。肉以外の食材もある。おまえにも食わせたことあっただろ。野菜や果物は陸で生育する」
結局、自分は何が言いたいのか。
「おまえの知らない世界はいくらでもある」
次から次へと言葉があふれる。彼女はまっすぐと自分を見ていた。ゆっくりと上体も起こす。ようやく目線の高さが合う。その瞳は、世界のごくわずかしか映していなかった。
「わかっています。そんなこと、わかっています」
語気が強く、上ずり。瞳が揺れる。拳を強く握った。
「私にとって、はじめての陸は。本当に、信じられないくらい、あったかくて、やさしくて」
最後の言葉を否定するつもりだった。「くだらない」と吐き捨てるつもりだった。しかし頬に一筋が伝い、すべての選択肢を破棄してしまう。
「ごめんなさい。すこし、頭を冷やしてきます」
目もとをこすり、作り笑いを見せる。尾びれを甲板に打ち付け、身をひるがえし、柵を飛び越える。水に落ちる音。静けさが訪れる。手もとを見下ろせば、彼女の濡れ跡と数枚の鱗が。すべてを拾い集める。これで十八枚。そのうちの一枚を太陽にかざす。七色に輝く、生命の一部。人工物のガラスでは決して表現できない光が、ここに。
新しい傷は減り、鱗も再生しつつある。毎日欠かさず処置していたが、それも間隔が開き、今では甲板で日光浴するだけの日も増える。しかし肌が日焼けに慣れていないため、放っておくと炎症を起こしかねない。こんこんと言い聞かせ、甲板で長居しないよう定期的に様子を見にいく。
初めて手当してから二週間が過ぎていた。
午前六時。寝起きに何となく外へ出れば、コックも甲板に来ていた。船べりから海に向かって話している。ナマエだ。ここ最近は早朝に採取してコックに届けているらしい。料理した一部を分けてもらう。二週間前にコックの申し出を許可してから毎日続いているやりとり。こちらにデメリットもないので、とやかく言うつもりはない。
「今からそっち下りるよ」
コックが指さしたのは、海面に一番近い船尾の甲板。いま、自分たちは船首の一番広い甲板にいた。
「あ、大丈夫です。私がそっちに行きますから」
コックが首をかしげる。こちらと目も合わせてきた。自分も意味がわからないので首を横にふる。ナマエの姿は海面から消えていた。三十秒後。勢いよく海から飛びだす。高い。採取袋を片手に、自分たちの目線をも超えて、空中で体をひねる。水中であれだけの速度を出せるのだ。これだけ高くジャンプするのも造作ないのだろう。こちらに向かって落ちてくる。
突風が吹いた。帆を張っていたので、大きく船が傾く。まずい。ナマエの落下地点にウォールランプが。ランプシェードの先端は尖っている。ROOMでは遅い。思いきり甲板を蹴り、手をのばす。彼女をつかみ、軌道をずらした。なりふり構わず抱き込む。そのまま海へ落下した。体が硬直する。力も入らない。息もできず、じりじりと沈んでいく。沈んでいくはずだった。
「すこし、息をとめて」
体が上昇し、海面から顔を出す。腕の中にいた。視界がぼやける。強く咳きこみ、飲んだ海水を吐き出す。野郎の声。そして耳もとで、ナマエが。海に嫌われた能力者は、肉体、そして精神さえも、けっして抗えない。とうに限界を超えていた。
目が覚める。見慣れた天井。そしてベッド。息ができる。腕も問題ない。握力は。まるで強く握れない。これは相当海水を飲んだか。過去に自分の体で実験した結果、体内に取り込んだ海水量が回復速度に影響する。すぐに吐き出せば軽症で済むが、飲んだ分を完全消化するまでは身体の反応速度が著しく低下する。四五時間は様子を見たほうがいい。
窓の外を見る。まだ日は高い。壁時計は午前十時を指していた。首を動かして視界を広げたところで気づく。左手に見慣れた髪、よく見る寝顔。椅子にも座らず、床に尾びれを投げだし、頭をベッドに突っ伏す。
「おい」
どうにか上体を起こし、声をかける。反応なし。
「ナマエ」
頭をのせた腕を引っ張るつもりが、床のきらめきを認めてしまう。無数の光。七色がナマエを囲んでいた。まず尾びれの表面を確認。ぽつぽつと一部が反射するのみ。大部分の鱗が剥がれ落ちていた。
「具合は、どうですか」
小さくあくびをもらし、顔を上げる。何から言えばいいのか。
「ごめんなさい。私が余計なことをしたから」
まぶたが腫れている。泣いた跡も頬にくっきりと。
「助けてくださり、ありがとうございます。本当に、ごめんなさい」
唇をかみ、瞳がゆれる。目尻に水がたまっていく。
「悪魔の実について、みなさんに聞きました。ごめんなさい。無茶させて、ごめんなさい」
この、延々と続きそうな謝罪をどうにかしなければ。
「海に落ちたのはおまえのせいじゃねェ。おれは自分の意思で飛び込んだ」
泣くな。
「おまえを信用していた」
言葉にして初めて意識する。どうやら自分はこいつを信用していたらしい。
「おまえに身を預けるつもりで海に入った。こうしてベッドで目が覚めたのも想定内だ。おまえがおれを助け、うちの船員がここまで運んで処置すると信じていた」
自分が海に落ちた際の対応は、日頃から船員全員に叩き込んでいた。そうでなければ、共に航海などしていない。
「これくらい大したことじゃねェ」
涙はとまったが、一筋だけこぼれてしまう。
「謝罪もいらねェ」
目を伏せたので涙が落ちる。どうしたものか。
「同じことを、みなさんに言われました」
思わず目を細めてしまう。
「悪魔の実の能力者が海を旅するには危険がつきものだ、って。だからおれたちが船長のそばにいるんだ、とも教えてくれました」
どいつの言葉か。シャチあたりだろう。
「船員のみなさんは、船長のあなたに信頼されていることをよく知っていました」
あいつらがデレデレと話す姿が目に浮かぶ。気づかれぬよう静かに息をついた。
「でも、こわかったんです。海に入った瞬間、あなたの体が冷たくなって。まるで、生きていない体、みたいで」
ナマエの体が小さく震える。そのとき、一枚の鱗が剥がれた。床に転がり、七色の光が一層増す。なぜいま剥がれたのだ。
「おい、おちつけ」
とにかく診察を。脈を計り、新しい傷を探していく。鱗以外は異常なし。つまり、これは、
「自分の体に何が起きているか、わかるか?」
首をかしげられるので、床を指さしてやる。彼女が小さく悲鳴を上げた。
「ここに来てから相当の鱗が剥がれた。気づいていなかったのか」
自身の尾びれを手でさわる。出血しているわけでもない。床に座ったくらいで、過度な摩擦がかかるわけでもない。
「こんなの初めてです。なんで、急に」
診断を伝えなければ。
「過度のストレスで、皮膚が荒れたり脱毛するケースがある」
伝えるだけでは何も解決しない。
「おまえの鱗はすぐに再生する。普通に過ごしていれば問題ないはずだ」
そっと腕を引き、ベッドに座らせる。顔も固定し、目も合わせた。
「そのストレスは、おれが原因としか考えられない」
また瞳がゆれた。まずい。これ以上こいつを追い込んでどうする。
「いいか。おれの体は問題ない。今日中に調子がもどる。心配するな」
ぎこちなくうなずいた。だが、そう簡単に心身が切り替わるものではない。
「とにかく休め。何も考えなくていい。腹が減ったなら用意させる。眠いなら外の甲板で昼寝でもいい」
彼女が自身の腹に手をそえる。
「おなかは、すいてない、です」
嘘だ。朝から何も食っていないはず。つまり食欲がない。精神面が原因か。
「ねむい、かも、しれない、です」
それならば。ベッド脇の船内電伝虫へ手をのばす。
「あ、あの。どうして電伝虫を?」
「車椅子を持ってこさせる。甲板へ連れていく」
そもそも、なぜここに車椅子がないのだ。ナマエがいるときは必需品だというのに。
「大丈夫です。甲板まで行かなくても」
電伝虫の受話器を置いてしまう。
「どういう意味だ」
目をそらし、両手を握っては開くをくりかえす。
「もう、あなたを心配しません。心配したくないので」
言葉が途切れる。彼女が小さく息をついた。
「もう少し、ここに、いさせてください」
ようやく目が合う。胸のあたりに妙な違和感が。とにかく返答を。
「構わねェが、おれは今から本を読むぞ」
どうせまともに歩けないのだ。こういうときは読書に限る。
「ええ。お好きにしてください」
ひととおり話が済んだので、読みかけの本を手にとる。何ページかめくったところで、となりを見る。ふらついていたナマエの肩が跳ねた。背筋をのばすも、重そうなまぶたがすべてを物語っている。
「眠いなら無理するな」
勢いよく首を横にふる。こんな調子では読書も捗らない。慎重に言葉を選んだ。
「暇なら本でも読むか」
海洋学なら山ほどある。手が届く範囲から一冊。文字が多いタイプをあえて選んだ。枕を渡し、開いた本をベッドに置く。彼女の腕をとり、うつ伏せに寝かせて、枕を抱えこませる。準備が整ったので、自分もとなりで読書を再開する。作戦成功。五分もたたないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。貸した本を元にもどす。ゆっくりと肩を押し、枕の位置を調整。横向きにすれば、自然と彼女が背を丸めた。しばらく眠れば、気分も落ち着くだろう。
シーツをかける途中で、床の虹色を思い出す。机の引き出しには十八枚を入れたシャーレが。どうするか。しばらく考えたあと、重い体を引きずり、一枚ずつ鱗を拾っていく。全部で百三十二。シャーレひとつでは足りないため、乾いた布で包んでおく。集める目的はわからない。だが捨てたいとも思わなかった。なにせ、あの人魚の鱗だ。そう。こいつは、人魚。
ベッドにもどり、しおりをはさんだページを開く。しかしまるで頭に入ってこない。集中できない原因はわかりきっていた。視界の隅に髪が、腕が。自分も横になれば、目の前に寝顔がある。頭が重くなってきた。どうせ体もろくに動かない。まだ午前。特に予定もない。いさぎよく目を閉じた。
「船長、だいじょう、ぶ」
目を開ける。頭だけ動かし、扉を確認。シャチか。
「どうした」
とにかく上体を起こす。シャチは両手で顔をおおい、その場でしゃがみこんでいた。
「おい、シャチ。聞いてるか」
「ま、まって。ちょっと待って。おれにも時間をくれ」
しまいには頭をかきむしりはじめた。
「用件は何だ。はやく言え」
額に手をあてがい、深呼吸をくりかえす。ようやくシャチが顔を上げた。
「ナマエ、寝てんだよな?」
一応、となりを確認。呼吸は乱れない。狸寝入りなら一発で見分けられるが、正真正銘、こいつは深い眠りについていた。
「ああ」
「そうか。そうだよな。いや、うん」
一向に本題へ入らないので、きつめに睨んでやる。
「昼メシの時間だから様子を見にきた。ナマエと船長の二人分。持ってきていいか?」
壁掛け時計は正午。二時間も寝ていたのか。
「こいつはもう少し寝かせておく。おれの分だけでいい」
「はいよー」
片手をあげて背を向ける。そのまま部屋を出るかと思いきや、またこちらを振り向いた。顔をそらしながら歩いてくる。ベッドの右手、自分の側まできて立ちどまった。
「あのさ、船長」
「なんだ」
数秒の沈黙。
「昔のこと、覚えてる? ノースで、四人で見た、あのオークション」
シャチが言いたいことを察する。
「ああ」
「あそこで見たのは、いい年のおばあちゃんだった。だから尾びれも二股で。それでも、とんでもない額がつけられて」
あの場で初めて、ベポも自身の価値を思い知ってしまった。そして能力者も。オペオペの能力を欲する者は確実にひとり、存在する。
「だからさ、二週間前に船長がナマエを追い払ったのも、おれは悪くないと思った」
悪くない。
「そう思ったのも最初だけ。もう、なんつうか、うん。おれは、船長の考えたことも、選んだことも、ぜんぶ応援してるから」
ナマエのことについて、か。
「船長のとなりで、こんなにぐっすり寝てるナマエを見たらさ、なんも言えねェよ」
ぐっすり寝ている。たしかに起きる気配はない。
「船長は強いから。この場所ならナマエも大丈夫だ」
シャチがへらりと歯を見せる。
「それだけ」
歩きだす。返す言葉が浮かばないので無言で見送る。また扉のまえで立ちどまった。
「いけね。一番大事なこと忘れてた」
顔だけをこちらに向ける。何度か口を開閉させ、最後に小さくこぼした。
「次の島が見えた。明日には着くって」
翌朝。島へ近づくにつれて、後方から付いてくるナマエの距離が遠ざかる。岩場に停泊させた頃には完全に姿が消えていた。船員の何人かが分かりやすく落胆する。まずは島で情報収集を。船を降りようとすれば、周りから強く引き止められた。
「ほら、船長だけ賞金首だろ。顔が割れてるから、まずはおれたちだけで様子を見てくる」
一時間以内にもどることを条件に偵察を許可する。特にすることもないので、甲板から海をながめる。しばらくすると、海面からナマエが顔を出した。
「どうした」
島には近寄らないと思っていた。
「ここには、どのくらい滞在しますか」
記録について説明する。
「二十四時間以内に記録がたまる。島での用が済めば、最短で二日後には出航する」
確証は持てない。順調に食料調達できるかもわからないのだ。
「出航するまで、ポーラータングはずっとここにいますか」
これには強くうなずいておく。彼女が目を泳がせた。
「あなたも島に上陸しますよね」
「ああ」
「それなら」
きつく目を閉じた。水面下で拳を強くにぎる。
「どんな島なのか、教えてください。ざっくり、適当で構いません。あなたが見たことだけでいいので」
島の様子、か。
「他はいいのか。なにか欲しいものは」
「もの、ですか? ほしい、もの……」
顔を伏せて、胸もとで両手を重ねる。辛抱強く待つが、一向に答えは出ない。
「物は大丈夫です。あなたからお話を聞ければ、それで」
あと少しで答えを引き出せそうな気もしたが、深追いはやめる。ちょうど偵察組も帰ってきた。「海賊を歓迎する安全な町」との報告なので、船番数人を残し、ほぼ全員で町へ向かった。
島の名はキューカ島。
「キャプテン! たいへんだ!」
ベポがこうして駆けこんでくるのも珍しくはない。
「いそいで! コックピットまで! はやく!」
腕を引っ張られ、否応なく部屋を出る。肝心の報告をまだ聞けていない。
「状況を言え。何があった」
コックピットに押し込まれる。前方に小さな魚影が。海面に近いので、シルエットがはっきりと見える。あれは、
「あそこに人魚が!」
ベポは喜ぶどころか焦っている。理由はすぐにわかった。海底から轟音が。黒いかたまりが浮上し、人魚に向かって大口を開けた。
「人魚が海獣に食われそう!」
状況は理解した。この距離では遅かれ早かれ海獣がポーラータングに気づくだろう。ならば、先手で海獣を排除する。船の浮上を指示しROOMを張る。一応、ベポに確認を。
「海獣は斬る。それでいいな?」
「人魚は? 助けないの?」
予想どおりの反応。用意していた答えを続ける。
「助けてどうするつもりだ」
善意や良心、尊い命を救うため。そんなきれいごとを求めているわけではない。うちの航海士は十分に理解しているはずだ。
「あの人魚、さっきからふらふらしていたんだ。たぶん困っている。海で泳いでいる人魚は初めて見た。きっとこの辺の島について知っているよ」
ふらふら。ということは、救助した矢先に船が襲われる心配はない。人魚なら意思疎通できるはず。情報収集か。ベポの言い分に納得したので、シャンブルズで人魚をコックピットに引き込んだ。人魚が消えたため、やはり海獣はポーラータングに気づく。海面に浮上したタイミングで甲板へ。迫りくる海獣めがけて鬼哭を振りかざした。
医療室に運んだ人魚は浅い呼吸をくり返す。声をかけるが応答なし。仕方がないのでこちらで勝手に処置していく。結論としては、疲労による衰弱。経口摂取できる状態ではないので、点滴を。しばらくすると規則正しい寝息が。命に別状はない。そっと息をつく。器具を片付ける最中、手の違和感に気づく。張り付いていた一枚をとり、照明にかざした。五センチ四方の鱗。透き通り、虹色に反射する。指で折り曲げようとするも、わずかに湾曲するのみ。両手に張り付いていた分だけでも五枚はあった。ベッドや床にも虹色が散乱している。少し考え、はがれ落ちた鱗すべてを拾い集めた。
数時間後には人魚が目覚める。単調な航海に飽きていた船員が一気に押し寄せ、休みなく質問が飛び交う。
「ええっと、私は。海の底から来ました」
「リュウグウ王国という……」
「ナマエといいます。助けてくださりありがとうございます」
野次馬どもから距離を置き、部屋の入り口そばに背を預ける。会話の断片から新情報を拾い上げていった。
「おれたち、記録指針で島を渡ってるんだ。この辺のこと知らないか」
ベポが直球を投げるも、人魚は気まずそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。実は、私もこんなに長い距離を移動したのは初めてで。海の底しかわからないです」
さっきから海の底。海の底。あいまいな答えに対し、突っ込む野郎はいないのか。
「ならさ、海の底のこと聞かせてくれよ」
あの軽い口調は。シャチ。
「おれたち、人魚に会うのは初めてなんだ」
初めて、か。シャチの嬉々とした声に、人魚が体を硬直させる。拳も強く握った。だがすぐに表情がやわらぐ。その異変に周囲の船員が気づいた様子はない。受け答えも自然。しばらく耳を傾けていたが、有用な情報をこぼす様子はない。新発見があれば、あいつらが報告してくるだろう。そのまま部屋をあとにした。
数日後には人魚の容態も安定してきた。尾びれなので車椅子に乗せて移動。海面に一番近い、船尾の甲板まで運ぶ。自力で泳げそうか確認をとったうえで、海面を指さしてやる。だが人魚は動かない。
「あ、あの」
まるで意図が伝わっていない。面倒だが説明を。
「とりあえず泳いでみろ。体が水温に慣れたら顔を出せ。診断する。それをクリアすれば完治だ」
みるみるうちに目が丸くなる。海面とこちらを交互に見やり、ごくりと息をのむ。次の瞬間、尾びれが跳ねる。勢いよく海へ飛び降りた。五分経過。甲板に顔を出す船員がぽつぽつ増えていく。さらに五分経過。ここでペンギンが暗い顔で声をかけてきた。
「なあ。ひょっとして、ナマエはもう戻ってこねェんじゃ」
どういう意味だ。
「ほら。ナマエって、おれたちと話してると、ちょっとぎこちないというか、そわそわしてたし。船長もずっとこわい顔してるし」
顔をとやかく言われる筋合いはねェぞ。
「ポーラータングにいるあいだ、ずっとこわかったんじゃねェか? やっと解放されたから、一目散に、逃げた、って」
水が撥ねる音。ペンギンの目線が海へ。何人かが叫ぶ。人魚が水面から顔を出していた。それも頬をゆるませ、歯を見せている。ひとまずペンギンとの会話を中断し、船べりから手をのばす。問診と脈を。この息づかいは相当泳ぎ込んだ様子。
「特に異常なし」
最低限の報告。立ち上がり、船内へ戻ろうとすれば人魚に呼び止められた。
「助けてくださり、本当にありがとうございました。お礼をさせてください」
「余計な気遣いは不要だ」と吐き捨てたいが、周囲の視線が痛い。よりによって全員顔を出しているではないか。深く息をつき、船べりへ引き返す。人魚が差し出したのは、自身が身につけていた宝飾品。よく磨き込まれた貝と真珠。見知らぬ石もある。受け取ろうとしたが、思いなおし手を引っ込める。
「物はいらねェ。代わりに、今からの質問に答えろ」
シャーレに入れた、十数枚。
「治療中、おまえの鱗が剥がれた。結構な枚数だ。痛みはないのか」
「え、ええ。鱗なら、少しは剥がれても大丈夫なので」
「治るのか」
「たぶん。また再生すると思います」
沈黙が流れる。こちらの質問を待っているのだと気づき、適当な話題を探す。
「これからどこへ行く」
人魚の顔が曇った。
「これから。わたしは」
顔も伏せる。まずい。嫌な予感が。
「まだ、なにも決めていなくて」
頭が痛い。案の定、野次馬どもが群がってきた。
「ナマエ、迷子なのか」
ベポ。ちがうだろ。こいつは、
「帰り道はわかります。でも。もう帰らないと決めたんです」
帰らないと決めただと? くだらない。
「後先考えず、家を飛びだしてきたってわけか」
人魚が唇をかみしめる。目もそらした。さらにたたみかける。
「海の底しか知らないと言っていたな。つまり、三日前のおまえが海獣に食われかけたのは、自業自得だった」
「船長、言いすぎじゃ──」
シャチをにらんで黙らせる。
「はい。考えなしに海へ出た、わたしの、自業自得、です」
こいつ、言い切った。自覚があるならば、
「さっさと家に帰れ」
誰かが悲鳴を上げた。人魚は目を丸める。
「本当なら、三日前におまえは食われていた。この海はそういう世界だ」
そもそも、人魚ならば海獣以上に危険な敵がいる。どれほどの額で売買されるか。
「家を飛びだしてから、ろくに飲み食いもしてなかった。ちがうか」
おずおずと顔を伏せていく。海面の下で拳を握った。
「いいか。海のそこらじゅうにレストランがあるわけでもねェ」
もう人魚は顔を上げない。わずかに肩も震わせる。
「食い物も自力で調達できねェやつが、計画なしに突っ走るな」
人間の手に渡れば最後。
「おまえに外の世界は早すぎる」
この場で異を唱える者はいない。人魚のそばに水滴が落ちた。顔を伏せているため、目もとは髪で隠れている。感情を表に出したところで世界は変わらない。人魚の価値が落ちるわけでもない。
人魚が顔を上げる。ぐしゃぐしゃに赤く泣きはらした目もとが、一瞬。身をひるがえし、水しぶきが上がる。まばたきした頃には跡形もなく消えていた。
あの追い払い方に難色を示した者は少なからずいた。だが、オークションの実態を明かせば全員もれなく口を閉じる。翌日には船内の空気も日常へもどっていった。
乱暴に自室の扉をたたく音。またベポが飛び込んでくる。
「キャプテン! たいへんだ! きて!」
強引に腕をとられ、着いた先はコックピットではなく甲板。すでに人だかりができていた。全員船べりから海を見下ろしている。野郎の笑い声。そして細く高い音色が一筋。まさか、
「船長! ナマエだよ、ナマエ!」
シャチに手招きされる。ベポに背中も押されるので、柵へ直行するしかなかった。視線を下げていく。胸もとには海藻や貝類が。それも山ほどある。口は弧を描き、頬をうっすらと紅潮させ、肩で息をする。つまり、全速力で泳いできた。
「まんべんなく、いろんな種類を採ってきました」
嬉々とした声色。なぜ戻ってきた。
「この海藻なら、そのまま食べられます」
ワカメのような緑をその場で口に含む。ごくりと飲みこんだ。
「新鮮な貝もおいしいですよ」
コックたちが感嘆の声を上げる。「めずらしい」と口をそろえた。
「どうぞ」
手の平ほど大きな貝をコックへ手渡す。その様子を注視する。昨日診察した時には無かった傷が。指先が特に酷い。すり傷に噛み跡も数箇所。魚にでも攻撃されたか。あるいは貝にはさまれたか。
「この海藻も、どうぞ。もらってください。ワカメはブリュレ、モズクはタルトがおすすめです」
コックたちと会話がはずむ。手持ちをすべて差し出したため、肩口や胸まわりの傷もあらわになる。全身ボロボロではないか。
「なあ、船長。いまからブリュレとタルトを作っていいか」
コックの提案。人魚もこちらを見上げる。周囲の視線が同時に突き刺さり、そっと息をついてしまう。追い返すなら今しかない。だが、コックたちは海鮮類を山盛りで抱えていた。すでに物品を受け取ってしまった。
「そんで、よければ、できあがった分をナマエに食わせてやりてェ」
頭が痛い。どいつもこいつも。
「こっちに上がってこい」
人魚に向かって静かに告げる。
「傷を見せろ。貴重な食材をタダでもらうわけにはいかねェ。手当する」
歓声と雄叫び。複数人から肩を強く叩かれる。人魚はくしゃりと顔をゆがませた。傷だらけの両手を胸もとで重ねて、細く震えた声が届く。
「ありがとう、ございます」
人魚は毎日のようにポーラータングを訪れた。かならず海鮮類の手土産を持参し、コックが快く調理する。完治していない手で採取するため、一向に傷は治らない。どれだけ言っても手土産を絶やさない。命に別状はないが、ていねいに巻きなおした包帯が翌朝にはボロボロに破れているさまは、見ていて気分の良いものではない。そう正直に伝えるが、人魚はさらに顔をほころばせる。
「はい。怪我しないように気をつけます」
つまり、採取をやめるつもりはない、と。
「いつまでも面倒を見てもらえると思うな」
今日も甲板で処置を済ませる。肩口や腕の傷は目に見えて減っていた。どうも、貝類の捕獲に手間取っているらしい。
「はい。わかっています」
ここで笑顔が消える。声も沈んだ。空気が重い。なぜこちらが話題を提供せねばならないのだ。つい毒づきたくなる。
「家出しなければ、こんな苦労も怪我もしなくて済んだだろ」
人魚は押し黙る。目もそらし、遠く水平線をながめた。誰が問いかけても家出の理由は答えない。今までの生活について聞くかぎり、自分の手で料理や家事をしたこともないはずだ。絵に描いたような世間知らずで、妙な部分で頑固。さきほど意気消沈したかと思えば、次の瞬間には笑顔がはじける。急激な環境変化に精神面が追いついていないだけにも見える。どこまで安定するか。
「多少の怪我は覚悟の上です。空を見るためなら、これくらい我慢しないと」
空を見るため、か。
人魚と遭遇して一週間。レーダーに大物が引っかかる。そのサイズ感から、海獣ではなく魚と推測。種類によっては食材として捕獲しよう、と話がまとまった。いよいよポーラータングで近づけば、後方から弾丸のごとく何かが飛んできた。あのシルエットは人魚。速い。前方の巨大魚へ突っ込んだ。いや、ちがう。体表ギリギリをすり抜け、魚の周囲を延々と旋回する。
「ナマエ、まさか、アレを倒すつもりじゃ」
ベポの推測通りならば、別の疑問が浮かぶ。人魚は魚肉を食べない。つまり、あの巨大魚を倒しても本人に得はないのだ。
「おれたちを手伝ってくれるのかな」
ベポが船を減速させる。そもそも人魚には巨大魚捕獲作戦を伝えていない。今日はまだ顔を合わせてすらいなかった。ここコックピットの会話が聞こえていたとは考えにくい。そして数分経過した今でも、人魚は巨大魚を倒せていない。錯乱できてはいるが、物理的ダメージを与えなければ埒が明かない。考えるよりも先に足が動いた。船を浮上させ、甲板へ飛びだす。海面近くで人魚は旋回を続けている。とにかくROOMを。このまま魚を斬れば、かならず人魚を巻き込む。シャンブルズで引き寄せたいが、動きが速すぎて姿を捉えきれない。どうすればいい。なにか合図を。海中へ届くのか。一か八か。大声を張り上げた。
「ナマエ! とまれ! あとは任せろ!」
海中で巻き起こっていた一筋の水流が消える。見つけた。手もとのロープとシャンブルズ。彼女を受け止める。巨大魚の動きは鈍っていた。海面に顔を出した隙に一振り。さらに切り分ければ、船員が手際よく網で引き寄せていった。
足もとに違和感。視線を下げれば、肩で息をするナマエと目が合った。背を丸くして、こちらの足を囲うように身体を寝そべる。とにかく診察を。その場でひざを着き、新しい傷を探す。しかし見つからない。処置は不要だが、無言で立ち去る気にはなれない。なにかを吐き捨ててやりたかった。
「なぜ魚に突っ込んだ。あんな真似、今まで一度もやらなかっただろ」
彼女は頬を甲板に押し当て、起き上がる気配はない。あれだけの速度で泳ぎつづけたのだ。さすがに負荷が大きかったか。
「コックさんたちが、そろそろ新しい食材が欲しいって、聞いていたので」
息を切らせながら、目だけをこちらへ向ける。わずかに頬をゆるませ、笑っているようにも見える。
「船がまっすぐ、あの魚に向かっていったので。きっと目をつけたのかと、思い、ました」
軽く息をついてしまう。
「おれが手を出さなかったら、どうするつもりだった」
巨大魚は、隙あらば彼女を飲み込むつもりだった。持久力で人魚が巨大魚に勝てるはずがない。あそこで減速して力尽きれば、なにが起きたか。想像に難くない。
「コックピットから、こちらを見ていたのは分かったので」
だとしても、だとしてもだ。
「すこしでも、あなたの力になりたかった」
思わずまばたきしてしまう。いまの言葉を理解できなかった。
「これくらいの、恩返しは、させて、ください」
いつの恩を返すつもりだ、こいつは。そんなもの、とっくに時効に決まって、
「あったかい」
唐突に。今度は何だ。
「陸って、こんなに光があって。こんなに、あたたかい」
彼女はまだ甲板に頬をつけていた。手で甲板をなでる。馬鹿馬鹿しい。
「これは船だ。陸じゃねェぞ」
「私にとって、はじめての陸はここでした。この陸以外、知らない」
考えをめぐらせて、ようやく気づく。
「おまえ、海岸は見たことあるか」
「いいえ」
「木は。陸に生える、緑の植物だ」
「ないです。陸のものは、一度も」
「島を見たことくらいはあるだろ。ここに来るまで本当にないのか」
身をよじり、あお向けになる。いつのまにか呼吸は落ち着いていた。空へ手をのばし、目もとに影をつくる。
「水平線に出っ張りを見たことはあります。それが船なのか、島なのかは分かりません。近づかないようにしていたので」
そこまで避けている陸を、いまは欲しているように見える。
「いいか。これは木の板だ。本来は樹木として陸に生えている」
彼女の手のそばに、自身のそれを置く。
「樹木を加工したものだ。人の手を加えた人工物。陸はもっと広い。淡水だが、川や湖もある。肉以外の食材もある。おまえにも食わせたことあっただろ。野菜や果物は陸で生育する」
結局、自分は何が言いたいのか。
「おまえの知らない世界はいくらでもある」
次から次へと言葉があふれる。彼女はまっすぐと自分を見ていた。ゆっくりと上体も起こす。ようやく目線の高さが合う。その瞳は、世界のごくわずかしか映していなかった。
「わかっています。そんなこと、わかっています」
語気が強く、上ずり。瞳が揺れる。拳を強く握った。
「私にとって、はじめての陸は。本当に、信じられないくらい、あったかくて、やさしくて」
最後の言葉を否定するつもりだった。「くだらない」と吐き捨てるつもりだった。しかし頬に一筋が伝い、すべての選択肢を破棄してしまう。
「ごめんなさい。すこし、頭を冷やしてきます」
目もとをこすり、作り笑いを見せる。尾びれを甲板に打ち付け、身をひるがえし、柵を飛び越える。水に落ちる音。静けさが訪れる。手もとを見下ろせば、彼女の濡れ跡と数枚の鱗が。すべてを拾い集める。これで十八枚。そのうちの一枚を太陽にかざす。七色に輝く、生命の一部。人工物のガラスでは決して表現できない光が、ここに。
新しい傷は減り、鱗も再生しつつある。毎日欠かさず処置していたが、それも間隔が開き、今では甲板で日光浴するだけの日も増える。しかし肌が日焼けに慣れていないため、放っておくと炎症を起こしかねない。こんこんと言い聞かせ、甲板で長居しないよう定期的に様子を見にいく。
初めて手当してから二週間が過ぎていた。
午前六時。寝起きに何となく外へ出れば、コックも甲板に来ていた。船べりから海に向かって話している。ナマエだ。ここ最近は早朝に採取してコックに届けているらしい。料理した一部を分けてもらう。二週間前にコックの申し出を許可してから毎日続いているやりとり。こちらにデメリットもないので、とやかく言うつもりはない。
「今からそっち下りるよ」
コックが指さしたのは、海面に一番近い船尾の甲板。いま、自分たちは船首の一番広い甲板にいた。
「あ、大丈夫です。私がそっちに行きますから」
コックが首をかしげる。こちらと目も合わせてきた。自分も意味がわからないので首を横にふる。ナマエの姿は海面から消えていた。三十秒後。勢いよく海から飛びだす。高い。採取袋を片手に、自分たちの目線をも超えて、空中で体をひねる。水中であれだけの速度を出せるのだ。これだけ高くジャンプするのも造作ないのだろう。こちらに向かって落ちてくる。
突風が吹いた。帆を張っていたので、大きく船が傾く。まずい。ナマエの落下地点にウォールランプが。ランプシェードの先端は尖っている。ROOMでは遅い。思いきり甲板を蹴り、手をのばす。彼女をつかみ、軌道をずらした。なりふり構わず抱き込む。そのまま海へ落下した。体が硬直する。力も入らない。息もできず、じりじりと沈んでいく。沈んでいくはずだった。
「すこし、息をとめて」
体が上昇し、海面から顔を出す。腕の中にいた。視界がぼやける。強く咳きこみ、飲んだ海水を吐き出す。野郎の声。そして耳もとで、ナマエが。海に嫌われた能力者は、肉体、そして精神さえも、けっして抗えない。とうに限界を超えていた。
目が覚める。見慣れた天井。そしてベッド。息ができる。腕も問題ない。握力は。まるで強く握れない。これは相当海水を飲んだか。過去に自分の体で実験した結果、体内に取り込んだ海水量が回復速度に影響する。すぐに吐き出せば軽症で済むが、飲んだ分を完全消化するまでは身体の反応速度が著しく低下する。四五時間は様子を見たほうがいい。
窓の外を見る。まだ日は高い。壁時計は午前十時を指していた。首を動かして視界を広げたところで気づく。左手に見慣れた髪、よく見る寝顔。椅子にも座らず、床に尾びれを投げだし、頭をベッドに突っ伏す。
「おい」
どうにか上体を起こし、声をかける。反応なし。
「ナマエ」
頭をのせた腕を引っ張るつもりが、床のきらめきを認めてしまう。無数の光。七色がナマエを囲んでいた。まず尾びれの表面を確認。ぽつぽつと一部が反射するのみ。大部分の鱗が剥がれ落ちていた。
「具合は、どうですか」
小さくあくびをもらし、顔を上げる。何から言えばいいのか。
「ごめんなさい。私が余計なことをしたから」
まぶたが腫れている。泣いた跡も頬にくっきりと。
「助けてくださり、ありがとうございます。本当に、ごめんなさい」
唇をかみ、瞳がゆれる。目尻に水がたまっていく。
「悪魔の実について、みなさんに聞きました。ごめんなさい。無茶させて、ごめんなさい」
この、延々と続きそうな謝罪をどうにかしなければ。
「海に落ちたのはおまえのせいじゃねェ。おれは自分の意思で飛び込んだ」
泣くな。
「おまえを信用していた」
言葉にして初めて意識する。どうやら自分はこいつを信用していたらしい。
「おまえに身を預けるつもりで海に入った。こうしてベッドで目が覚めたのも想定内だ。おまえがおれを助け、うちの船員がここまで運んで処置すると信じていた」
自分が海に落ちた際の対応は、日頃から船員全員に叩き込んでいた。そうでなければ、共に航海などしていない。
「これくらい大したことじゃねェ」
涙はとまったが、一筋だけこぼれてしまう。
「謝罪もいらねェ」
目を伏せたので涙が落ちる。どうしたものか。
「同じことを、みなさんに言われました」
思わず目を細めてしまう。
「悪魔の実の能力者が海を旅するには危険がつきものだ、って。だからおれたちが船長のそばにいるんだ、とも教えてくれました」
どいつの言葉か。シャチあたりだろう。
「船員のみなさんは、船長のあなたに信頼されていることをよく知っていました」
あいつらがデレデレと話す姿が目に浮かぶ。気づかれぬよう静かに息をついた。
「でも、こわかったんです。海に入った瞬間、あなたの体が冷たくなって。まるで、生きていない体、みたいで」
ナマエの体が小さく震える。そのとき、一枚の鱗が剥がれた。床に転がり、七色の光が一層増す。なぜいま剥がれたのだ。
「おい、おちつけ」
とにかく診察を。脈を計り、新しい傷を探していく。鱗以外は異常なし。つまり、これは、
「自分の体に何が起きているか、わかるか?」
首をかしげられるので、床を指さしてやる。彼女が小さく悲鳴を上げた。
「ここに来てから相当の鱗が剥がれた。気づいていなかったのか」
自身の尾びれを手でさわる。出血しているわけでもない。床に座ったくらいで、過度な摩擦がかかるわけでもない。
「こんなの初めてです。なんで、急に」
診断を伝えなければ。
「過度のストレスで、皮膚が荒れたり脱毛するケースがある」
伝えるだけでは何も解決しない。
「おまえの鱗はすぐに再生する。普通に過ごしていれば問題ないはずだ」
そっと腕を引き、ベッドに座らせる。顔も固定し、目も合わせた。
「そのストレスは、おれが原因としか考えられない」
また瞳がゆれた。まずい。これ以上こいつを追い込んでどうする。
「いいか。おれの体は問題ない。今日中に調子がもどる。心配するな」
ぎこちなくうなずいた。だが、そう簡単に心身が切り替わるものではない。
「とにかく休め。何も考えなくていい。腹が減ったなら用意させる。眠いなら外の甲板で昼寝でもいい」
彼女が自身の腹に手をそえる。
「おなかは、すいてない、です」
嘘だ。朝から何も食っていないはず。つまり食欲がない。精神面が原因か。
「ねむい、かも、しれない、です」
それならば。ベッド脇の船内電伝虫へ手をのばす。
「あ、あの。どうして電伝虫を?」
「車椅子を持ってこさせる。甲板へ連れていく」
そもそも、なぜここに車椅子がないのだ。ナマエがいるときは必需品だというのに。
「大丈夫です。甲板まで行かなくても」
電伝虫の受話器を置いてしまう。
「どういう意味だ」
目をそらし、両手を握っては開くをくりかえす。
「もう、あなたを心配しません。心配したくないので」
言葉が途切れる。彼女が小さく息をついた。
「もう少し、ここに、いさせてください」
ようやく目が合う。胸のあたりに妙な違和感が。とにかく返答を。
「構わねェが、おれは今から本を読むぞ」
どうせまともに歩けないのだ。こういうときは読書に限る。
「ええ。お好きにしてください」
ひととおり話が済んだので、読みかけの本を手にとる。何ページかめくったところで、となりを見る。ふらついていたナマエの肩が跳ねた。背筋をのばすも、重そうなまぶたがすべてを物語っている。
「眠いなら無理するな」
勢いよく首を横にふる。こんな調子では読書も捗らない。慎重に言葉を選んだ。
「暇なら本でも読むか」
海洋学なら山ほどある。手が届く範囲から一冊。文字が多いタイプをあえて選んだ。枕を渡し、開いた本をベッドに置く。彼女の腕をとり、うつ伏せに寝かせて、枕を抱えこませる。準備が整ったので、自分もとなりで読書を再開する。作戦成功。五分もたたないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。貸した本を元にもどす。ゆっくりと肩を押し、枕の位置を調整。横向きにすれば、自然と彼女が背を丸めた。しばらく眠れば、気分も落ち着くだろう。
シーツをかける途中で、床の虹色を思い出す。机の引き出しには十八枚を入れたシャーレが。どうするか。しばらく考えたあと、重い体を引きずり、一枚ずつ鱗を拾っていく。全部で百三十二。シャーレひとつでは足りないため、乾いた布で包んでおく。集める目的はわからない。だが捨てたいとも思わなかった。なにせ、あの人魚の鱗だ。そう。こいつは、人魚。
ベッドにもどり、しおりをはさんだページを開く。しかしまるで頭に入ってこない。集中できない原因はわかりきっていた。視界の隅に髪が、腕が。自分も横になれば、目の前に寝顔がある。頭が重くなってきた。どうせ体もろくに動かない。まだ午前。特に予定もない。いさぎよく目を閉じた。
「船長、だいじょう、ぶ」
目を開ける。頭だけ動かし、扉を確認。シャチか。
「どうした」
とにかく上体を起こす。シャチは両手で顔をおおい、その場でしゃがみこんでいた。
「おい、シャチ。聞いてるか」
「ま、まって。ちょっと待って。おれにも時間をくれ」
しまいには頭をかきむしりはじめた。
「用件は何だ。はやく言え」
額に手をあてがい、深呼吸をくりかえす。ようやくシャチが顔を上げた。
「ナマエ、寝てんだよな?」
一応、となりを確認。呼吸は乱れない。狸寝入りなら一発で見分けられるが、正真正銘、こいつは深い眠りについていた。
「ああ」
「そうか。そうだよな。いや、うん」
一向に本題へ入らないので、きつめに睨んでやる。
「昼メシの時間だから様子を見にきた。ナマエと船長の二人分。持ってきていいか?」
壁掛け時計は正午。二時間も寝ていたのか。
「こいつはもう少し寝かせておく。おれの分だけでいい」
「はいよー」
片手をあげて背を向ける。そのまま部屋を出るかと思いきや、またこちらを振り向いた。顔をそらしながら歩いてくる。ベッドの右手、自分の側まできて立ちどまった。
「あのさ、船長」
「なんだ」
数秒の沈黙。
「昔のこと、覚えてる? ノースで、四人で見た、あのオークション」
シャチが言いたいことを察する。
「ああ」
「あそこで見たのは、いい年のおばあちゃんだった。だから尾びれも二股で。それでも、とんでもない額がつけられて」
あの場で初めて、ベポも自身の価値を思い知ってしまった。そして能力者も。オペオペの能力を欲する者は確実にひとり、存在する。
「だからさ、二週間前に船長がナマエを追い払ったのも、おれは悪くないと思った」
悪くない。
「そう思ったのも最初だけ。もう、なんつうか、うん。おれは、船長の考えたことも、選んだことも、ぜんぶ応援してるから」
ナマエのことについて、か。
「船長のとなりで、こんなにぐっすり寝てるナマエを見たらさ、なんも言えねェよ」
ぐっすり寝ている。たしかに起きる気配はない。
「船長は強いから。この場所ならナマエも大丈夫だ」
シャチがへらりと歯を見せる。
「それだけ」
歩きだす。返す言葉が浮かばないので無言で見送る。また扉のまえで立ちどまった。
「いけね。一番大事なこと忘れてた」
顔だけをこちらに向ける。何度か口を開閉させ、最後に小さくこぼした。
「次の島が見えた。明日には着くって」
翌朝。島へ近づくにつれて、後方から付いてくるナマエの距離が遠ざかる。岩場に停泊させた頃には完全に姿が消えていた。船員の何人かが分かりやすく落胆する。まずは島で情報収集を。船を降りようとすれば、周りから強く引き止められた。
「ほら、船長だけ賞金首だろ。顔が割れてるから、まずはおれたちだけで様子を見てくる」
一時間以内にもどることを条件に偵察を許可する。特にすることもないので、甲板から海をながめる。しばらくすると、海面からナマエが顔を出した。
「どうした」
島には近寄らないと思っていた。
「ここには、どのくらい滞在しますか」
記録について説明する。
「二十四時間以内に記録がたまる。島での用が済めば、最短で二日後には出航する」
確証は持てない。順調に食料調達できるかもわからないのだ。
「出航するまで、ポーラータングはずっとここにいますか」
これには強くうなずいておく。彼女が目を泳がせた。
「あなたも島に上陸しますよね」
「ああ」
「それなら」
きつく目を閉じた。水面下で拳を強くにぎる。
「どんな島なのか、教えてください。ざっくり、適当で構いません。あなたが見たことだけでいいので」
島の様子、か。
「他はいいのか。なにか欲しいものは」
「もの、ですか? ほしい、もの……」
顔を伏せて、胸もとで両手を重ねる。辛抱強く待つが、一向に答えは出ない。
「物は大丈夫です。あなたからお話を聞ければ、それで」
あと少しで答えを引き出せそうな気もしたが、深追いはやめる。ちょうど偵察組も帰ってきた。「海賊を歓迎する安全な町」との報告なので、船番数人を残し、ほぼ全員で町へ向かった。
島の名はキューカ島。
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