デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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その夜。
赤城は、いつもより冷えていた。
日付が変わる頃にはレッドサンズのメンバーも少しずつ帰り始め、駐車場に残る車も減っていた。
あかねも今日はもう終わりにするつもりだった。
「じゃあ、私も帰ります」
赤いFCのドアを開ける。
その時だった。
「……あれ?」
キーを回す。
エンジンがかからない。
もう一度。
「……」
あかねの表情が曇る。
「何で?」
もう一度キーを回したところで、運転席の窓を軽く叩かれた。
啓介だった。
あかねが窓を下げる。
「何してんだ?」
「エンジンかからない」
「は?」
啓介の顔つきが変わる。
「ちょっと降りろ」
「うん」
あかねが車から降りる。
啓介が運転席へ乗り込んだ。
キーを回す。
「……」
何度か確認してから降りてくる。
ちょうどそこへ涼介もやってきた。
「どうした?」
「兄貴。こいつのFC、エンジンかからねえ」
涼介が赤いFCを見る。
「さっきまでは?」
「普通でした」
あかねが答える。
「走って戻ってきて、停めて……それからは触ってないです」
「そうか」
二人が車を確認し始める。
あかねはその横に立つ。
当然ながら。
何をしているのか、全部は分からない。
少し前までなら完全に意味不明だった。
今なら多少は分かる。
それでも。
自分では直せない。
しばらくして。
啓介が顔を上げた。
「今日は無理だな」
「え」
「ここでどうにかするのはやめた方がいい」
あかねは時計を見る。
もう午前一時近い。
「……どうしよう」
レッドサンズのメンバーの一人が言った。
「送ってこうか?」
「あ――」
あかねが答えるより早く。
「いや」
啓介が口を挟んだ。
「俺が送る」
「啓介さん?」
「お前んち、ここから結構あるだろ」
「でも」
「この時間に一人置いてけねえだろ」
もっともだった。
あかねが少し迷う。
その横で。
涼介が腕時計を見る。
「今から家まで送って、啓介がここへ戻ってくるのも面倒だな」
「じゃあどうすんだよ、兄貴」
涼介は少し考えた。
そして。
あかねを見る。
「うちに泊まればいい」
「……え?」
あかねが固まった。
啓介も兄を見る。
「兄貴?」
「ここからなら近い」
「いや、でも」
あかねが慌てる。
「そんな、急に迷惑じゃ……」
「両親もいる。客間も空いている」
涼介は淡々としている。
「明日の朝、車をどうするか考えればいい」
「でも……」
「この時間から一人で帰すよりいいだろう」
正論。
正論なのだけれど。
――高橋家に泊まる。
その言葉だけで。
急に別の意味を持って聞こえてしまう。
あかねは啓介を見る。
啓介も少し困った顔をしていた。
「……まあ」
頭を掻く。
「兄貴の言う通りだな」
「本当にいいの?」
「いいんじゃねえか。客間あるし」
「……」
「嫌なら送ってくけどよ」
「嫌じゃない!」
思わず即答した。
啓介が眉を上げる。
「なんでそんな勢いなんだよ」
「違う、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味だよ」
「送ってもらう方が申し訳ないって意味!」
「分かってるよ」
少し笑われた。
「……もう」
あかねは赤いFCを見る。
まさか。
車が動かなくなった結果。
こんなことになるとは思わなかった。
*
結局。
あかねは黄色いFDの助手席へ乗ることになった。
「シートベルト」
「してます」
「ならいい」
啓介がFDを発進させる。
後ろには白いFC。
涼介がついてくる。
夜の赤城を下る。
あかねは助手席から外を見ていた。
「……」
落ち着かない。
啓介の助手席に乗ること自体は初めてではない。
以前。
自分が事故を起こしかけた夜にも乗った。
でも今日は違う。
このまま。
啓介と涼介の家へ行く。
「何緊張してんだ?」
啓介が前を見たまま聞く。
「してない」
「してるだろ」
「……ちょっと」
「何でだよ」
「だって男の人の家に泊まるの初めてだもん」
啓介の手が一瞬止まった。
「……」
「何?」
「いや」
「何」
「そういう言い方すんな」
「え?」
「俺と兄貴しかいねえみてえだろ。親もいるからな」
「分かってるよ」
「ならいい」
啓介は前を見る。
あかねは首を傾げた。
「変なの」
「うるせえ」
それ以上。
啓介は何も言わなかった。
*
高橋家へ到着した時。
あかねは。
思わず家を見上げた。
「……大きい」
「何が?」
「家」
「普通だろ」
「普通じゃないと思う」
「そうか?」
啓介は本当に分かっていないらしい。
後ろに白いFCが停まる。
涼介が降りてきた。
「行くぞ」
「あ、はい」
玄関へ向かう。
そこで。
あかねは急に自分の格好が気になった。
夜の赤城へ行くための服。
特別変ではない。
でも。
人の家へ泊まりに行くつもりで選んだ服ではない。
当然。
化粧道具もない。
着替えもない。
「……最悪」
小さく呟く。
啓介が振り返る。
「何が?」
「何でもない」
「今日それ多いな」
「啓介さんには分かんない」
「何がだよ」
「女の子には色々あるの」
「知らねえよ」
「だから言ったじゃん」
その前を歩いていた涼介が振り返る。
「あかね」
「はい?」
「必要なものがあるなら、途中で言えばよかったな」
「……」
あかねが目を瞬く。
啓介も兄を見る。
「何が必要なんだ?」
「着替えとか……化粧落とすものとか」
「ああ」
涼介は少し考える。
「家にあるもので足りなければ、明日の朝に用意すればいい」
「大丈夫です。今日だけだし」
「そうか」
再び歩き出す。
あかねはその背中を見る。
こういうところ。
気づくのは涼介さんの方が早い。
啓介が横から言う。
「俺の服なら貸せるぞ」
「え?」
「寝る時の服ねえんだろ」
「……啓介さんの?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないけど……」
想像する。
啓介の服を着る自分。
急に。
恥ずかしくなった。
「……」
「何だよ」
「やっぱり何でもない」
「だから何なんだよ、お前」
啓介には分からないらしい。
*
家の中へ入る。
遅い時間だったが、母親はまだ起きていた。
事情を説明すると。
突然連れてきたにもかかわらず、驚きながらもあかねを迎えてくれた。
「こんな時間に一人で帰るより、その方がいいわ」
「すみません、急に……」
「いいのよ。気にしないで」
「ありがとうございます」
頭を下げる。
そして。
母親が啓介と涼介を見る。
「それにしても」
「?」
「二人が女の子を連れて帰ってくるなんて珍しいわね」
「母さん」
涼介が静かに止める。
啓介は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんなんじゃねえよ。こいつの車が動かなくなっただけだ」
「分かってるわよ」
母親は笑っている。
あかねだけが少し居心地が悪い。
「喉が乾いたりお腹が空いたら冷蔵庫にあるものとっていいからね。今日はゆっくり休んで。」
「ありがとうございます…」
顔が熱い。
*
客間を用意してもらった。
そして。
風呂も借りることになった。
問題は。
着替え。
「ほら」
啓介から渡されたのは。
大きめのTシャツとスウェットだった。
「……」
あかねはそれを見る。
「本当にこれ着るの?」
「他にねえだろ」
「そうだけど」
「洗ってあるから安心しろ」
「そこは心配してない」
「じゃあ何だよ」
「何でもない」
「またかよ」
啓介が呆れる。
服を受け取る。
「ありがとう」
「ああ」
啓介が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
あかねは。
手元のTシャツを見る。
「……」
啓介の服。
ただ借りるだけ。
それだけ。
なのに。
妙に意識する。
「……馬鹿みたい」
自分に言い聞かせる。
*
風呂から上がる。
髪は濡れたまま。
化粧も落ちている。
そして。
啓介のTシャツ。
当然。
大きい。
裾は太腿の辺りまである。
スウェットも紐をきつく結ばないと落ちそうだった。
「……大きすぎ」
袖も余る。
鏡を見る。
完全に。
人の家に泊まっている格好。
「……」
恥ずかしい。
でも。
部屋から出ないわけにもいかない。
喉が渇いた。
水が欲しい。
あかねはそっと廊下へ出た。
*
夜中。
家の中は静かだった。
キッチンを探す。
「こっちかな……」
角を曲がった瞬間。
「……っ」
人影。
ぶつかりそうになる。
「危ない」
腕を掴まれた。
あかねの体が止まる。
目の前。
涼介。
「……涼介さん」
「どうした?」
近い。
思った以上に。
近い。
掴まれている腕。
目の前に涼介の胸元。
あかねは一歩下がろうとする。
けれど。
後ろは壁。
「……」
逃げ場がない。
涼介もそれに気づいた。
すぐに手を離す。
「悪い」
「い、いえ」
あかねは自分の腕を見る。
掴まれた場所。
別に痛くない。
なのに。
そこだけ妙に熱い。
涼介の視線があかねへ向く。
髪。
化粧を落とした顔。
そして。
大きすぎるTシャツ。
一瞬。
視線が止まった。
「それは……」
「啓介さんに借りました」
「そうか」
涼介はそれだけ答えた。
でも。
さっきより。
ほんの少し。
表情が硬くなったように見えた。
「水か?」
「あ、はい」
「こっちだ」
涼介が先を歩く。
あかねもついていく。
*
キッチン。
涼介がグラスへ水を入れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。
「……」
また。
二人。
先週もそうだった。
赤城で二人きりになった。
でも。
今日は。
場所が違う。
高橋家。
夜中。
自分は啓介の服を着ている。
意識するなという方が無理だった。
「眠れないのか?」
涼介が尋ねる。
「まだちょっと」
「知らない家だからか?」
「それもあるかも」
「そうか」
あかねは水を飲む。
そして。
何となく涼介を見る。
「涼介さんは?」
「俺?」
「寝ないんですか?」
「もう少ししたら寝る」
「いつも遅い?」
「そうだな」
「何してるんですか?」
「色々だ」
「勉強?」
「それもある」
「車のこと?」
「それもある」
あかねが笑う。
「全部それもあるじゃん」
涼介も少し笑った。
「そうだな」
また。
静かな時間。
でも。
やっぱり嫌じゃない。
あかねがグラスを置く。
「涼介さん」
「なんだ?」
「先週」
「うん」
「家まで後ろ走ってくれましたよね」
涼介が一瞬黙る。
「気づいていたのか」
「気づきますよ。白いFCなんだから」
「そうか」
「なんで言わなかったんですか?」
「言う必要がないと思った」
「……」
本当に。
この人は。
そういうことを平気で言う。
「啓介さんだったら絶対言うのに」
「そうかもしれないな」
「『送ってってやる』って」
「啓介らしい」
二人で少し笑う。
その時。
廊下から足音。
「……何してんだ?」
二人が振り返る。
啓介。
寝る前らしいラフな格好。
そして。
キッチンにいる二人を見る。
「水飲みに来ただけ」
あかねが答える。
啓介の視線が。
あかねへ。
自分のTシャツ。
そして。
隣にいる兄。
「……」
何となく。
面白くない。
「啓介さんも水?」
「……ああ」
啓介が入ってくる。
一気に。
狭く感じる。
あかね。
涼介。
啓介。
三人。
夜中のキッチン。
「……」
妙な沈黙。
最初に口を開いたのは涼介だった。
「啓介」
「何だよ」
「その服、大きすぎるんじゃないのか」
「しょうがねえだろ。女物なんてねえんだから」
「そうだが」
「別に寝るだけだろ」
あかねが口を挟む。
「私は大丈夫です」
「ならいいだろ」
啓介は冷蔵庫を開ける。
涼介があかねを見る。
「寒くないか?」
「大丈夫」
「ならいい」
啓介が冷蔵庫から顔を出す。
「兄貴」
「なんだ?」
「さっきから何なんだよ」
「何がだ?」
「……いや」
言えない。
自分でも分からない。
兄貴があかねを気にする。
それが。
妙に引っかかる。
*
「じゃあ私、寝ます」
あかねがグラスを置く。
「おやすみなさい」
「おう」
啓介。
「おやすみ」
涼介。
あかねはキッチンを出た。
廊下を歩く。
客間へ戻る。
ドアを閉める。
「……」
ベッドへ座る。
静か。
自分の服ではない。
啓介のTシャツ。
さっき掴まれた腕。
涼介との距離。
キッチンに来た啓介の顔。
「……何なの、今日」
心臓が。
全然落ち着かない。
走っている時より。
ずっと。
落ち着かない。
*
キッチン。
あかねがいなくなった後。
兄弟だけが残った。
啓介が水を飲む。
涼介はまだそこにいる。
「兄貴」
「なんだ?」
「……」
言おうとして。
やめる。
「いや。何でもねえ」
「そうか」
涼介がキッチンを出ようとする。
その時。
啓介がもう一度口を開いた。
「兄貴」
涼介が振り返る。
「何だ?」
「…… あかねのこと」
そこまで言って。
止まる。
何を聞く?
気になってるのか?
そんなこと。
聞けるわけがない。
そもそも。
自分は何なんだ。
「……いや」
啓介が顔を逸らす。
「やっぱ何でもねえ」
涼介は弟を数秒見た。
そして。
「そうか」
それだけ言って。
廊下へ消えた。
啓介は一人。
キッチンに残る。
「……くそ」
小さく呟いた。
*
そして。
自室へ戻った涼介も。
すぐには眠らなかった。
机の前。
開いていた本へ視線を落とす。
しかし。
文字が頭に入らない。
思い出す。
廊下の角。
ぶつかりそうになったあかね。
腕を掴んだ時。
思ったより近かった距離。
濡れた髪。
普段とは違う顔。
啓介の服。
「……」
そこで。
涼介は自分の思考を止めた。
なぜ。
最後の一つだけ。
妙に気になった。
啓介の服を着ていた。
ただそれだけのこと。
必要だったから借りた。
それ以上の意味はない。
分かっている。
それなのに。
あまり面白くないと思った。
「……なるほど」
涼介は椅子の背へ体を預けた。
弟より。
自分の方が。
少しだけ早く。
その感情の正体に気づき始めていた。
一方。
客間。
あかねも眠れずにいた。
啓介の服に顔を埋めるように横になる。
目を閉じる。
浮かぶのは。
一人ではなかった。
啓介。
涼介。
まるで違う二人。
どちらを思い出しても。
少しだけ。
胸が騒ぐ。
「……眠れない」
高橋家で過ごす。
初めての夜は。
まだ。
始まったばかりだった。
赤城は、いつもより冷えていた。
日付が変わる頃にはレッドサンズのメンバーも少しずつ帰り始め、駐車場に残る車も減っていた。
あかねも今日はもう終わりにするつもりだった。
「じゃあ、私も帰ります」
赤いFCのドアを開ける。
その時だった。
「……あれ?」
キーを回す。
エンジンがかからない。
もう一度。
「……」
あかねの表情が曇る。
「何で?」
もう一度キーを回したところで、運転席の窓を軽く叩かれた。
啓介だった。
あかねが窓を下げる。
「何してんだ?」
「エンジンかからない」
「は?」
啓介の顔つきが変わる。
「ちょっと降りろ」
「うん」
あかねが車から降りる。
啓介が運転席へ乗り込んだ。
キーを回す。
「……」
何度か確認してから降りてくる。
ちょうどそこへ涼介もやってきた。
「どうした?」
「兄貴。こいつのFC、エンジンかからねえ」
涼介が赤いFCを見る。
「さっきまでは?」
「普通でした」
あかねが答える。
「走って戻ってきて、停めて……それからは触ってないです」
「そうか」
二人が車を確認し始める。
あかねはその横に立つ。
当然ながら。
何をしているのか、全部は分からない。
少し前までなら完全に意味不明だった。
今なら多少は分かる。
それでも。
自分では直せない。
しばらくして。
啓介が顔を上げた。
「今日は無理だな」
「え」
「ここでどうにかするのはやめた方がいい」
あかねは時計を見る。
もう午前一時近い。
「……どうしよう」
レッドサンズのメンバーの一人が言った。
「送ってこうか?」
「あ――」
あかねが答えるより早く。
「いや」
啓介が口を挟んだ。
「俺が送る」
「啓介さん?」
「お前んち、ここから結構あるだろ」
「でも」
「この時間に一人置いてけねえだろ」
もっともだった。
あかねが少し迷う。
その横で。
涼介が腕時計を見る。
「今から家まで送って、啓介がここへ戻ってくるのも面倒だな」
「じゃあどうすんだよ、兄貴」
涼介は少し考えた。
そして。
あかねを見る。
「うちに泊まればいい」
「……え?」
あかねが固まった。
啓介も兄を見る。
「兄貴?」
「ここからなら近い」
「いや、でも」
あかねが慌てる。
「そんな、急に迷惑じゃ……」
「両親もいる。客間も空いている」
涼介は淡々としている。
「明日の朝、車をどうするか考えればいい」
「でも……」
「この時間から一人で帰すよりいいだろう」
正論。
正論なのだけれど。
――高橋家に泊まる。
その言葉だけで。
急に別の意味を持って聞こえてしまう。
あかねは啓介を見る。
啓介も少し困った顔をしていた。
「……まあ」
頭を掻く。
「兄貴の言う通りだな」
「本当にいいの?」
「いいんじゃねえか。客間あるし」
「……」
「嫌なら送ってくけどよ」
「嫌じゃない!」
思わず即答した。
啓介が眉を上げる。
「なんでそんな勢いなんだよ」
「違う、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味だよ」
「送ってもらう方が申し訳ないって意味!」
「分かってるよ」
少し笑われた。
「……もう」
あかねは赤いFCを見る。
まさか。
車が動かなくなった結果。
こんなことになるとは思わなかった。
*
結局。
あかねは黄色いFDの助手席へ乗ることになった。
「シートベルト」
「してます」
「ならいい」
啓介がFDを発進させる。
後ろには白いFC。
涼介がついてくる。
夜の赤城を下る。
あかねは助手席から外を見ていた。
「……」
落ち着かない。
啓介の助手席に乗ること自体は初めてではない。
以前。
自分が事故を起こしかけた夜にも乗った。
でも今日は違う。
このまま。
啓介と涼介の家へ行く。
「何緊張してんだ?」
啓介が前を見たまま聞く。
「してない」
「してるだろ」
「……ちょっと」
「何でだよ」
「だって男の人の家に泊まるの初めてだもん」
啓介の手が一瞬止まった。
「……」
「何?」
「いや」
「何」
「そういう言い方すんな」
「え?」
「俺と兄貴しかいねえみてえだろ。親もいるからな」
「分かってるよ」
「ならいい」
啓介は前を見る。
あかねは首を傾げた。
「変なの」
「うるせえ」
それ以上。
啓介は何も言わなかった。
*
高橋家へ到着した時。
あかねは。
思わず家を見上げた。
「……大きい」
「何が?」
「家」
「普通だろ」
「普通じゃないと思う」
「そうか?」
啓介は本当に分かっていないらしい。
後ろに白いFCが停まる。
涼介が降りてきた。
「行くぞ」
「あ、はい」
玄関へ向かう。
そこで。
あかねは急に自分の格好が気になった。
夜の赤城へ行くための服。
特別変ではない。
でも。
人の家へ泊まりに行くつもりで選んだ服ではない。
当然。
化粧道具もない。
着替えもない。
「……最悪」
小さく呟く。
啓介が振り返る。
「何が?」
「何でもない」
「今日それ多いな」
「啓介さんには分かんない」
「何がだよ」
「女の子には色々あるの」
「知らねえよ」
「だから言ったじゃん」
その前を歩いていた涼介が振り返る。
「あかね」
「はい?」
「必要なものがあるなら、途中で言えばよかったな」
「……」
あかねが目を瞬く。
啓介も兄を見る。
「何が必要なんだ?」
「着替えとか……化粧落とすものとか」
「ああ」
涼介は少し考える。
「家にあるもので足りなければ、明日の朝に用意すればいい」
「大丈夫です。今日だけだし」
「そうか」
再び歩き出す。
あかねはその背中を見る。
こういうところ。
気づくのは涼介さんの方が早い。
啓介が横から言う。
「俺の服なら貸せるぞ」
「え?」
「寝る時の服ねえんだろ」
「……啓介さんの?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないけど……」
想像する。
啓介の服を着る自分。
急に。
恥ずかしくなった。
「……」
「何だよ」
「やっぱり何でもない」
「だから何なんだよ、お前」
啓介には分からないらしい。
*
家の中へ入る。
遅い時間だったが、母親はまだ起きていた。
事情を説明すると。
突然連れてきたにもかかわらず、驚きながらもあかねを迎えてくれた。
「こんな時間に一人で帰るより、その方がいいわ」
「すみません、急に……」
「いいのよ。気にしないで」
「ありがとうございます」
頭を下げる。
そして。
母親が啓介と涼介を見る。
「それにしても」
「?」
「二人が女の子を連れて帰ってくるなんて珍しいわね」
「母さん」
涼介が静かに止める。
啓介は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんなんじゃねえよ。こいつの車が動かなくなっただけだ」
「分かってるわよ」
母親は笑っている。
あかねだけが少し居心地が悪い。
「喉が乾いたりお腹が空いたら冷蔵庫にあるものとっていいからね。今日はゆっくり休んで。」
「ありがとうございます…」
顔が熱い。
*
客間を用意してもらった。
そして。
風呂も借りることになった。
問題は。
着替え。
「ほら」
啓介から渡されたのは。
大きめのTシャツとスウェットだった。
「……」
あかねはそれを見る。
「本当にこれ着るの?」
「他にねえだろ」
「そうだけど」
「洗ってあるから安心しろ」
「そこは心配してない」
「じゃあ何だよ」
「何でもない」
「またかよ」
啓介が呆れる。
服を受け取る。
「ありがとう」
「ああ」
啓介が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
あかねは。
手元のTシャツを見る。
「……」
啓介の服。
ただ借りるだけ。
それだけ。
なのに。
妙に意識する。
「……馬鹿みたい」
自分に言い聞かせる。
*
風呂から上がる。
髪は濡れたまま。
化粧も落ちている。
そして。
啓介のTシャツ。
当然。
大きい。
裾は太腿の辺りまである。
スウェットも紐をきつく結ばないと落ちそうだった。
「……大きすぎ」
袖も余る。
鏡を見る。
完全に。
人の家に泊まっている格好。
「……」
恥ずかしい。
でも。
部屋から出ないわけにもいかない。
喉が渇いた。
水が欲しい。
あかねはそっと廊下へ出た。
*
夜中。
家の中は静かだった。
キッチンを探す。
「こっちかな……」
角を曲がった瞬間。
「……っ」
人影。
ぶつかりそうになる。
「危ない」
腕を掴まれた。
あかねの体が止まる。
目の前。
涼介。
「……涼介さん」
「どうした?」
近い。
思った以上に。
近い。
掴まれている腕。
目の前に涼介の胸元。
あかねは一歩下がろうとする。
けれど。
後ろは壁。
「……」
逃げ場がない。
涼介もそれに気づいた。
すぐに手を離す。
「悪い」
「い、いえ」
あかねは自分の腕を見る。
掴まれた場所。
別に痛くない。
なのに。
そこだけ妙に熱い。
涼介の視線があかねへ向く。
髪。
化粧を落とした顔。
そして。
大きすぎるTシャツ。
一瞬。
視線が止まった。
「それは……」
「啓介さんに借りました」
「そうか」
涼介はそれだけ答えた。
でも。
さっきより。
ほんの少し。
表情が硬くなったように見えた。
「水か?」
「あ、はい」
「こっちだ」
涼介が先を歩く。
あかねもついていく。
*
キッチン。
涼介がグラスへ水を入れる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。
「……」
また。
二人。
先週もそうだった。
赤城で二人きりになった。
でも。
今日は。
場所が違う。
高橋家。
夜中。
自分は啓介の服を着ている。
意識するなという方が無理だった。
「眠れないのか?」
涼介が尋ねる。
「まだちょっと」
「知らない家だからか?」
「それもあるかも」
「そうか」
あかねは水を飲む。
そして。
何となく涼介を見る。
「涼介さんは?」
「俺?」
「寝ないんですか?」
「もう少ししたら寝る」
「いつも遅い?」
「そうだな」
「何してるんですか?」
「色々だ」
「勉強?」
「それもある」
「車のこと?」
「それもある」
あかねが笑う。
「全部それもあるじゃん」
涼介も少し笑った。
「そうだな」
また。
静かな時間。
でも。
やっぱり嫌じゃない。
あかねがグラスを置く。
「涼介さん」
「なんだ?」
「先週」
「うん」
「家まで後ろ走ってくれましたよね」
涼介が一瞬黙る。
「気づいていたのか」
「気づきますよ。白いFCなんだから」
「そうか」
「なんで言わなかったんですか?」
「言う必要がないと思った」
「……」
本当に。
この人は。
そういうことを平気で言う。
「啓介さんだったら絶対言うのに」
「そうかもしれないな」
「『送ってってやる』って」
「啓介らしい」
二人で少し笑う。
その時。
廊下から足音。
「……何してんだ?」
二人が振り返る。
啓介。
寝る前らしいラフな格好。
そして。
キッチンにいる二人を見る。
「水飲みに来ただけ」
あかねが答える。
啓介の視線が。
あかねへ。
自分のTシャツ。
そして。
隣にいる兄。
「……」
何となく。
面白くない。
「啓介さんも水?」
「……ああ」
啓介が入ってくる。
一気に。
狭く感じる。
あかね。
涼介。
啓介。
三人。
夜中のキッチン。
「……」
妙な沈黙。
最初に口を開いたのは涼介だった。
「啓介」
「何だよ」
「その服、大きすぎるんじゃないのか」
「しょうがねえだろ。女物なんてねえんだから」
「そうだが」
「別に寝るだけだろ」
あかねが口を挟む。
「私は大丈夫です」
「ならいいだろ」
啓介は冷蔵庫を開ける。
涼介があかねを見る。
「寒くないか?」
「大丈夫」
「ならいい」
啓介が冷蔵庫から顔を出す。
「兄貴」
「なんだ?」
「さっきから何なんだよ」
「何がだ?」
「……いや」
言えない。
自分でも分からない。
兄貴があかねを気にする。
それが。
妙に引っかかる。
*
「じゃあ私、寝ます」
あかねがグラスを置く。
「おやすみなさい」
「おう」
啓介。
「おやすみ」
涼介。
あかねはキッチンを出た。
廊下を歩く。
客間へ戻る。
ドアを閉める。
「……」
ベッドへ座る。
静か。
自分の服ではない。
啓介のTシャツ。
さっき掴まれた腕。
涼介との距離。
キッチンに来た啓介の顔。
「……何なの、今日」
心臓が。
全然落ち着かない。
走っている時より。
ずっと。
落ち着かない。
*
キッチン。
あかねがいなくなった後。
兄弟だけが残った。
啓介が水を飲む。
涼介はまだそこにいる。
「兄貴」
「なんだ?」
「……」
言おうとして。
やめる。
「いや。何でもねえ」
「そうか」
涼介がキッチンを出ようとする。
その時。
啓介がもう一度口を開いた。
「兄貴」
涼介が振り返る。
「何だ?」
「…… あかねのこと」
そこまで言って。
止まる。
何を聞く?
気になってるのか?
そんなこと。
聞けるわけがない。
そもそも。
自分は何なんだ。
「……いや」
啓介が顔を逸らす。
「やっぱ何でもねえ」
涼介は弟を数秒見た。
そして。
「そうか」
それだけ言って。
廊下へ消えた。
啓介は一人。
キッチンに残る。
「……くそ」
小さく呟いた。
*
そして。
自室へ戻った涼介も。
すぐには眠らなかった。
机の前。
開いていた本へ視線を落とす。
しかし。
文字が頭に入らない。
思い出す。
廊下の角。
ぶつかりそうになったあかね。
腕を掴んだ時。
思ったより近かった距離。
濡れた髪。
普段とは違う顔。
啓介の服。
「……」
そこで。
涼介は自分の思考を止めた。
なぜ。
最後の一つだけ。
妙に気になった。
啓介の服を着ていた。
ただそれだけのこと。
必要だったから借りた。
それ以上の意味はない。
分かっている。
それなのに。
あまり面白くないと思った。
「……なるほど」
涼介は椅子の背へ体を預けた。
弟より。
自分の方が。
少しだけ早く。
その感情の正体に気づき始めていた。
一方。
客間。
あかねも眠れずにいた。
啓介の服に顔を埋めるように横になる。
目を閉じる。
浮かぶのは。
一人ではなかった。
啓介。
涼介。
まるで違う二人。
どちらを思い出しても。
少しだけ。
胸が騒ぐ。
「……眠れない」
高橋家で過ごす。
初めての夜は。
まだ。
始まったばかりだった。