デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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翌週、土曜日。
午後九時半。
赤いFCは赤城へ向かっていた。
もう地図を見る必要はない。
何度通ったか分からない道。
どこを曲がれば赤城へ入るのか。
どこから勾配がきつくなるのか。
どこに街灯が少ないのか。
すっかり覚えてしまった。
それでも。
今夜はいつもと少し違った。
「……」
信号待ち。
あかねはルームミラーで自分の顔を見る。
前髪を少し直す。
「……何やってんだろ」
すぐに手を下ろした。
別に。
誰かに会うために髪を整えたわけじゃない。
大学から帰ってきて、着替えて。
いつもより少し丁寧に髪を巻いたのだって。
たまたま。
「……そう。たまたま」
信号が青になる。
赤いFCが走り出した。
*
いつもの場所。
赤いFCが入ってくる。
「あ、来た」
「こんばんは、あかねちゃん」
レッドサンズのメンバーたちが声をかけてくる。
「こんばんは」
あかねはいつもの場所へFCを停めた。
車から降りる。
無意識に。
白いFCを探した。
「……」
ある。
少し離れた場所。
でも。
涼介はいない。
「何見てんだ?」
すぐ横から声。
「わっ!」
振り返る。
啓介だった。
「びっくりした……」
「何だよ」
「急に後ろから話しかけないでよ」
「普通に歩いてきただろ」
「気づかなかった」
「ぼーっとしてっからだ」
啓介は赤いFCを見る。
「今日、ちょっと早いな」
「そう?」
「ああ」
そして。
あかねを見る。
「……」
「何?」
「いや」
「何」
「いつもとなんか違くねえ?」
あかねの心臓が跳ねた。
「え?」
「髪」
啓介が指差す。
「いつもそんなだったか?」
「……」
気づいた。
意外だった。
「巻いただけ」
「ふーん」
それだけ。
啓介は車へ視線を戻した。
あかねは少し拍子抜けする。
「それだけ?」
「何が?」
「いや……」
何を期待していたんだろう。
自分でも分からない。
「変?」
「別に」
「じゃあいいけど」
啓介が数秒黙る。
それから。
「まあ、似合ってんじゃねえの」
あかねが顔を上げる。
「……え?」
「何だよ」
「今、褒めた?」
「…言わなきゃよかった」
「待って。もう一回言って」
「言うかよ」
「啓介さんが車以外のことで褒めるの珍しい」
「うるせえな」
啓介は顔を逸らした。
「さっさと準備しろ」
「はいはい」
あかねは笑う。
いつも通り。
啓介と話していると。
何も考えなくていい。
*
その夜。
最初の二本は啓介と走った。
一本目は啓介が前。
二本目はあかねが前。
戻ってくる。
赤いFCから降りると、啓介もFDから出てきた。
「最後の右、遅え」
開口一番。
「また?」
「また」
「自分では結構よかった」
「立ち上がりはな。進入で落としすぎ」
「怖いんだもん」
「なら今はそれでいいけどよ」
啓介は道路の方を見る。
「その一個前はよかった」
「本当?」
「ああ」
「どこが?」
「ブレーキから進入まで。前より無駄が減った」
「やった」
啓介は赤いFCを見る。
「あと――」
「あかね」
別の声。
あかねが振り返る。
涼介だった。
「涼介さん」
自然と表情が変わる。
「こんばんは」
「ああ」
涼介が近づいてくる。
「今日はもう走ったのか?」
「二本」
「そうか」
涼介の視線が。
あかねの顔で止まった。
「……」
数秒。
何も言わない。
あかねが妙に落ち着かなくなる。
「何ですか?」
「いや」
涼介が少しだけ目を細める。
「今日は雰囲気が違うと思ってな」
「……」
また。
気づかれた。
「あ」
あかねは髪に触れる。
「これ?」
「ああ」
「ちょっと巻いただけです」
「そうか」
涼介はそれ以上何も言わない。
「……」
あかねは待ってしまった。
何を。
自分でも分からない。
すると。
涼介が僅かに笑った。
「似合っている」
「……!」
啓介にも。
同じことを言われた。
なのに。
全然違った。
「あ……ありがとうございます」
自分でも分かる。
声が少し小さくなった。
涼介はもう赤いFCへ視線を移している。
何でもない。
本当に。
何でもない一言だったのだろう。
なのに。
あかねだけが。
少し困っていた。
*
その様子を。
啓介は横で見ていた。
「……」
何だ。
今の。
俺が言った時と反応違わねえか?
そう思った。
でも。
何が違うのか。
説明できない。
「啓介」
涼介が弟を見る。
「あ?」
「走りはどうだった?」
「ああ……」
一瞬遅れる。
「悪くねえよ」
「そうか」
「最後の方、結構まとまってきてる」
「なら次は俺が見よう」
あかねが涼介を見る。
「今から?」
「ああ。疲れていなければだが」
「大丈夫です」
即答。
啓介の眉が僅かに動く。
「お前、さっき三本目行くか聞いたら休むって言っただろ」
「ちょっと休んだから」
「五分も経ってねえぞ」
「もう回復した」
「どんな体してんだよ」
あかねが笑う。
「じゃあ行ってきます」
涼介も白いFCへ向かう。
啓介は二人の背中を見る。
「……」
何となく。
面白くない。
*
赤いFCが前。
白いFCが後ろ。
走り出して数コーナー。
あかねは妙に緊張していた。
後ろに涼介がいる。
それ自体は初めてじゃない。
何度もある。
なのに。
今日は。
意識してしまう。
さっき。
髪を褒められた。
たったそれだけ。
「……集中」
自分に言い聞かせる。
ブレーキ。
進入。
アクセル。
次。
白いFCは一定の距離。
近すぎない。
離れすぎない。
涼介はただ見ている。
中盤。
あかねの走りが少しずつ落ち着いてくる。
「……よし」
いつもの感覚。
自分のFC。
道路。
コーナー。
それだけを見る。
一方。
後ろ。
涼介は。
いつもと少し違うことに気づいていた。
「……」
走りではない。
赤いFCの動きは。
むしろ以前よりいい。
問題は。
自分だった。
なぜ。
さっき髪型が違うことにすぐ気づいたのか。
普段なら。
そんなことを気にする必要はない。
ドライバーを見る時。
見るのは体調。
集中力。
精神状態。
走りに影響する要素。
髪型など。
どうでもいい。
それなのに。
赤いFCから降りてきた瞬間。
気づいた。
そして。
似合っていると思った。
「……」
白いFCがコーナーを抜ける。
前を走る赤いFCを見る。
理由は。
まだ考える必要はない。
そう判断した。
*
二台が戻る。
あかねが降りる。
「どうでした?」
「いい」
涼介の返事は短かった。
「本当?」
「ああ」
涼介は赤いFCを見る。
「以前よりブレーキングが安定している。特に後半はよかった」
「やった」
「ただ」
「はい」
「三つ目の左。進入で少し迷っただろう」
あかねが驚く。
「分かるんですか?」
「ああ」
「ちょっとだけ怖くなって……」
「無理をしなかったのは正解だ」
涼介はあかねを見る。
「今はそれでいい」
「はい」
素直に頷く。
そこへ。
「どうだった?」
啓介が来る。
あかねが振り返る。
「涼介さんにいいって言われた」
「へえ」
「啓介さんより評価高い」
「比べんな」
「だって啓介さん厳しいんだもん」
「兄貴が甘いんだよ。俺が普通だ」
涼介が弟を見る。
「俺も別に甘く評価しているわけじゃない」
「兄貴はこいつに甘いんだよ」
言ってから。
一瞬。
空気が止まった。
啓介自身も。
少しだけ。
言葉を間違えた気がした。
あかねが涼介を見る。
「甘いんですか?」
涼介は動じない。
「そう思うか?」
逆に啓介へ尋ねる。
「……知らねえよ」
「自分で言ったんだろう」
「そういう意味じゃねえ」
啓介は面倒そうに頭を掻く。
「もういい」
あかねが笑う。
「何それ」
「うるせえ」
涼介は。
そんな弟を静かに見ていた。
*
少し後。
あかねはレッドサンズのメンバーたちと話していた。
その中には。
以前一緒に走ったメンバーもいる。
「次、俺の後ろ走ってみる?」
「いいの?」
「ああ。涼介さんからも色んな奴の走り見た方がいいって言われてるだろ?」
「うん」
「なら一本だけ」
「行きたい」
その会話を。
少し離れたところで啓介が聞いていた。
「……」
また。
胸の奥がざわつく。
前にもあった。
他の奴と走らせると聞いた時。
同じ感覚。
ただ。
今度は。
少しだけ。
理由が分かる。
自分がずっと教えてきた。
自分の後ろを走ってきた。
それなのに。
最近。
兄貴の後ろを走って。
他のメンバーとも走って。
楽しそうにしている。
「……くだらねえ」
誰と走ろうが。
あかねの自由だ。
速くなるなら。
色んな走りを見た方がいい。
分かっている。
「啓介さん?」
呼ばれた。
あかねがこちらを見ている。
「何?」
「行ってきます」
「ああ」
「何か気をつけることある?」
その一言。
啓介の表情が少し変わる。
結局。
聞くのは自分なのか。
「……前の奴の真似ばっかすんな」
「うん」
「ライン見んのはいいけど、自分のFCで同じことできると思うな」
「分かった」
「あと――」
言いかけて。
やめる。
「何?」
「いや」
「気になる」
「無茶すんな。それだけだ」
「はい」
あかねは笑って赤いFCへ向かった。
啓介はその背中を見る。
さっきまでの苛立ちは。
少しだけ。
薄くなっていた。
*
「啓介」
後ろから兄の声。
「なんだよ」
「随分、気にかけているな」
「誰を?」
「あかねを」
名前。
兄の口から。
『木下』ではなく。
『あかね』。
啓介が振り返った。
「……兄貴、今なんつった?」
涼介も。
一瞬だけ。
黙った。
自分でも。
自然に出た。
「何のことだ?」
「今、あかねって――」
その時。
赤いFCのエンジン音が響いた。
二人の視線が同時にそちらへ向く。
あかねが運転席からこちらへ軽く手を上げる。
そして。
走り出す。
「……」
兄弟は。
同じ赤いFCを目で追った。
先に視線を戻したのは涼介だった。
「行くぞ」
「どこに?」
「少し離れた場所から見る」
「……ああ」
二人が歩き出す。
啓介は。
兄の横顔を一度見る。
さっきの。
『あかね』。
ただ名前で呼んだだけ。
それだけなのに。
なぜか。
妙に引っかかった。
そして涼介も。
自分がなぜ自然に彼女の名前を口にしたのか。
その理由を。
まだ。
答えにはしなかった。
ただ一つ。
以前より。
木下あかねという一人の女性を。
意識する時間が増えている。
その事実だけは。
もう。
否定できなくなり始めていた。
午後九時半。
赤いFCは赤城へ向かっていた。
もう地図を見る必要はない。
何度通ったか分からない道。
どこを曲がれば赤城へ入るのか。
どこから勾配がきつくなるのか。
どこに街灯が少ないのか。
すっかり覚えてしまった。
それでも。
今夜はいつもと少し違った。
「……」
信号待ち。
あかねはルームミラーで自分の顔を見る。
前髪を少し直す。
「……何やってんだろ」
すぐに手を下ろした。
別に。
誰かに会うために髪を整えたわけじゃない。
大学から帰ってきて、着替えて。
いつもより少し丁寧に髪を巻いたのだって。
たまたま。
「……そう。たまたま」
信号が青になる。
赤いFCが走り出した。
*
いつもの場所。
赤いFCが入ってくる。
「あ、来た」
「こんばんは、あかねちゃん」
レッドサンズのメンバーたちが声をかけてくる。
「こんばんは」
あかねはいつもの場所へFCを停めた。
車から降りる。
無意識に。
白いFCを探した。
「……」
ある。
少し離れた場所。
でも。
涼介はいない。
「何見てんだ?」
すぐ横から声。
「わっ!」
振り返る。
啓介だった。
「びっくりした……」
「何だよ」
「急に後ろから話しかけないでよ」
「普通に歩いてきただろ」
「気づかなかった」
「ぼーっとしてっからだ」
啓介は赤いFCを見る。
「今日、ちょっと早いな」
「そう?」
「ああ」
そして。
あかねを見る。
「……」
「何?」
「いや」
「何」
「いつもとなんか違くねえ?」
あかねの心臓が跳ねた。
「え?」
「髪」
啓介が指差す。
「いつもそんなだったか?」
「……」
気づいた。
意外だった。
「巻いただけ」
「ふーん」
それだけ。
啓介は車へ視線を戻した。
あかねは少し拍子抜けする。
「それだけ?」
「何が?」
「いや……」
何を期待していたんだろう。
自分でも分からない。
「変?」
「別に」
「じゃあいいけど」
啓介が数秒黙る。
それから。
「まあ、似合ってんじゃねえの」
あかねが顔を上げる。
「……え?」
「何だよ」
「今、褒めた?」
「…言わなきゃよかった」
「待って。もう一回言って」
「言うかよ」
「啓介さんが車以外のことで褒めるの珍しい」
「うるせえな」
啓介は顔を逸らした。
「さっさと準備しろ」
「はいはい」
あかねは笑う。
いつも通り。
啓介と話していると。
何も考えなくていい。
*
その夜。
最初の二本は啓介と走った。
一本目は啓介が前。
二本目はあかねが前。
戻ってくる。
赤いFCから降りると、啓介もFDから出てきた。
「最後の右、遅え」
開口一番。
「また?」
「また」
「自分では結構よかった」
「立ち上がりはな。進入で落としすぎ」
「怖いんだもん」
「なら今はそれでいいけどよ」
啓介は道路の方を見る。
「その一個前はよかった」
「本当?」
「ああ」
「どこが?」
「ブレーキから進入まで。前より無駄が減った」
「やった」
啓介は赤いFCを見る。
「あと――」
「あかね」
別の声。
あかねが振り返る。
涼介だった。
「涼介さん」
自然と表情が変わる。
「こんばんは」
「ああ」
涼介が近づいてくる。
「今日はもう走ったのか?」
「二本」
「そうか」
涼介の視線が。
あかねの顔で止まった。
「……」
数秒。
何も言わない。
あかねが妙に落ち着かなくなる。
「何ですか?」
「いや」
涼介が少しだけ目を細める。
「今日は雰囲気が違うと思ってな」
「……」
また。
気づかれた。
「あ」
あかねは髪に触れる。
「これ?」
「ああ」
「ちょっと巻いただけです」
「そうか」
涼介はそれ以上何も言わない。
「……」
あかねは待ってしまった。
何を。
自分でも分からない。
すると。
涼介が僅かに笑った。
「似合っている」
「……!」
啓介にも。
同じことを言われた。
なのに。
全然違った。
「あ……ありがとうございます」
自分でも分かる。
声が少し小さくなった。
涼介はもう赤いFCへ視線を移している。
何でもない。
本当に。
何でもない一言だったのだろう。
なのに。
あかねだけが。
少し困っていた。
*
その様子を。
啓介は横で見ていた。
「……」
何だ。
今の。
俺が言った時と反応違わねえか?
そう思った。
でも。
何が違うのか。
説明できない。
「啓介」
涼介が弟を見る。
「あ?」
「走りはどうだった?」
「ああ……」
一瞬遅れる。
「悪くねえよ」
「そうか」
「最後の方、結構まとまってきてる」
「なら次は俺が見よう」
あかねが涼介を見る。
「今から?」
「ああ。疲れていなければだが」
「大丈夫です」
即答。
啓介の眉が僅かに動く。
「お前、さっき三本目行くか聞いたら休むって言っただろ」
「ちょっと休んだから」
「五分も経ってねえぞ」
「もう回復した」
「どんな体してんだよ」
あかねが笑う。
「じゃあ行ってきます」
涼介も白いFCへ向かう。
啓介は二人の背中を見る。
「……」
何となく。
面白くない。
*
赤いFCが前。
白いFCが後ろ。
走り出して数コーナー。
あかねは妙に緊張していた。
後ろに涼介がいる。
それ自体は初めてじゃない。
何度もある。
なのに。
今日は。
意識してしまう。
さっき。
髪を褒められた。
たったそれだけ。
「……集中」
自分に言い聞かせる。
ブレーキ。
進入。
アクセル。
次。
白いFCは一定の距離。
近すぎない。
離れすぎない。
涼介はただ見ている。
中盤。
あかねの走りが少しずつ落ち着いてくる。
「……よし」
いつもの感覚。
自分のFC。
道路。
コーナー。
それだけを見る。
一方。
後ろ。
涼介は。
いつもと少し違うことに気づいていた。
「……」
走りではない。
赤いFCの動きは。
むしろ以前よりいい。
問題は。
自分だった。
なぜ。
さっき髪型が違うことにすぐ気づいたのか。
普段なら。
そんなことを気にする必要はない。
ドライバーを見る時。
見るのは体調。
集中力。
精神状態。
走りに影響する要素。
髪型など。
どうでもいい。
それなのに。
赤いFCから降りてきた瞬間。
気づいた。
そして。
似合っていると思った。
「……」
白いFCがコーナーを抜ける。
前を走る赤いFCを見る。
理由は。
まだ考える必要はない。
そう判断した。
*
二台が戻る。
あかねが降りる。
「どうでした?」
「いい」
涼介の返事は短かった。
「本当?」
「ああ」
涼介は赤いFCを見る。
「以前よりブレーキングが安定している。特に後半はよかった」
「やった」
「ただ」
「はい」
「三つ目の左。進入で少し迷っただろう」
あかねが驚く。
「分かるんですか?」
「ああ」
「ちょっとだけ怖くなって……」
「無理をしなかったのは正解だ」
涼介はあかねを見る。
「今はそれでいい」
「はい」
素直に頷く。
そこへ。
「どうだった?」
啓介が来る。
あかねが振り返る。
「涼介さんにいいって言われた」
「へえ」
「啓介さんより評価高い」
「比べんな」
「だって啓介さん厳しいんだもん」
「兄貴が甘いんだよ。俺が普通だ」
涼介が弟を見る。
「俺も別に甘く評価しているわけじゃない」
「兄貴はこいつに甘いんだよ」
言ってから。
一瞬。
空気が止まった。
啓介自身も。
少しだけ。
言葉を間違えた気がした。
あかねが涼介を見る。
「甘いんですか?」
涼介は動じない。
「そう思うか?」
逆に啓介へ尋ねる。
「……知らねえよ」
「自分で言ったんだろう」
「そういう意味じゃねえ」
啓介は面倒そうに頭を掻く。
「もういい」
あかねが笑う。
「何それ」
「うるせえ」
涼介は。
そんな弟を静かに見ていた。
*
少し後。
あかねはレッドサンズのメンバーたちと話していた。
その中には。
以前一緒に走ったメンバーもいる。
「次、俺の後ろ走ってみる?」
「いいの?」
「ああ。涼介さんからも色んな奴の走り見た方がいいって言われてるだろ?」
「うん」
「なら一本だけ」
「行きたい」
その会話を。
少し離れたところで啓介が聞いていた。
「……」
また。
胸の奥がざわつく。
前にもあった。
他の奴と走らせると聞いた時。
同じ感覚。
ただ。
今度は。
少しだけ。
理由が分かる。
自分がずっと教えてきた。
自分の後ろを走ってきた。
それなのに。
最近。
兄貴の後ろを走って。
他のメンバーとも走って。
楽しそうにしている。
「……くだらねえ」
誰と走ろうが。
あかねの自由だ。
速くなるなら。
色んな走りを見た方がいい。
分かっている。
「啓介さん?」
呼ばれた。
あかねがこちらを見ている。
「何?」
「行ってきます」
「ああ」
「何か気をつけることある?」
その一言。
啓介の表情が少し変わる。
結局。
聞くのは自分なのか。
「……前の奴の真似ばっかすんな」
「うん」
「ライン見んのはいいけど、自分のFCで同じことできると思うな」
「分かった」
「あと――」
言いかけて。
やめる。
「何?」
「いや」
「気になる」
「無茶すんな。それだけだ」
「はい」
あかねは笑って赤いFCへ向かった。
啓介はその背中を見る。
さっきまでの苛立ちは。
少しだけ。
薄くなっていた。
*
「啓介」
後ろから兄の声。
「なんだよ」
「随分、気にかけているな」
「誰を?」
「あかねを」
名前。
兄の口から。
『木下』ではなく。
『あかね』。
啓介が振り返った。
「……兄貴、今なんつった?」
涼介も。
一瞬だけ。
黙った。
自分でも。
自然に出た。
「何のことだ?」
「今、あかねって――」
その時。
赤いFCのエンジン音が響いた。
二人の視線が同時にそちらへ向く。
あかねが運転席からこちらへ軽く手を上げる。
そして。
走り出す。
「……」
兄弟は。
同じ赤いFCを目で追った。
先に視線を戻したのは涼介だった。
「行くぞ」
「どこに?」
「少し離れた場所から見る」
「……ああ」
二人が歩き出す。
啓介は。
兄の横顔を一度見る。
さっきの。
『あかね』。
ただ名前で呼んだだけ。
それだけなのに。
なぜか。
妙に引っかかった。
そして涼介も。
自分がなぜ自然に彼女の名前を口にしたのか。
その理由を。
まだ。
答えにはしなかった。
ただ一つ。
以前より。
木下あかねという一人の女性を。
意識する時間が増えている。
その事実だけは。
もう。
否定できなくなり始めていた。