デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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次の土曜日。
赤城。
いつもの場所へ入ってきた赤いFCを見て、レッドサンズのメンバーの一人が手を上げた。
「あかねちゃん、こんばんは」
「こんばんは」
あかねも軽く手を上げて返す。
車を停める場所も、もうほとんど決まっていた。
白いFC。
黄色いFD。
そして少し離れたところに、あかねの赤いFC。
エンジンを切って外へ出ると、すぐに啓介がやってきた。
「遅え」
「え、時間いつもと同じだけど」
「俺らはもう来てた」
「それは啓介さんたちが早いだけじゃん」
「……まあいい」
啓介は赤いFCを一度見てから言った。
「兄貴から聞いてるだろ」
「今日、別の人と走るんでしょ?」
「ああ」
あかねは周囲を見る。
「誰?」
「まだ決めてねえ」
「そうなの?」
「兄貴が決める」
「啓介さんじゃないんだ」
「俺が決めたら意味ねえだろ」
「なんで?」
「お前に合わせすぎるからだよ」
あかねが少し驚いた。
「啓介さんが?」
「……なんだよ、その顔」
「いや」
「言えよ」
「ちゃんと私に合わせてくれてたんだなと思って」
「当たり前だろ」
啓介は何でもないことのように答えた。
「初心者相手に自分のペースで走ってどうすんだよ」
「そっか」
「何だよ」
「別に」
「真似すんな」
あかねが笑う。
その時。
「木下」
涼介の声がした。
振り返る。
白いFCのそばに涼介がいる。
その隣にはレッドサンズのメンバーが一人立っていた。
「今日の相手だ」
「よろしく、あかねちゃん」
「あ、よろしくお願いします」
何度か顔を合わせたことはある。
話したこともある。
ただ、一緒に走ったことはない。
涼介が二人を見る。
「最初は彼に前を走ってもらう」
「はい」
「無理についていく必要はない。離されたら離されたままでいい」
「分かりました」
「二本目は前後を入れ替える」
「私が前?」
「ああ」
あかねの表情が少し硬くなる。
それを見た啓介が口を挟んだ。
「後ろ気にすんなよ」
「分かってる」
「前だけ見ろ」
「うん」
「あと――」
「啓介」
涼介が止める。
「あ?」
「それ以上言う必要はない」
「でもよ」
「今日は自分で考えさせるために走らせるんだろう」
啓介が黙る。
「……分かったよ」
あかねは少し笑った。
「行ってきます」
啓介は軽く顎を上げる。
「おう」
涼介は短く言った。
「気をつけろ」
「はい」
*
一本目。
前を走る車を、赤いFCが追う。
「……違う」
すぐに分かった。
啓介とは全然違う。
ブレーキを踏む場所。
コーナーへの入り方。
車を置く場所。
当然だ。
運転する人が違うのだから。
最初。
あかねは相手のラインを真似しようとした。
けれど、うまくいかない。
「違うな……」
啓介の後ろなら分かる。
何度も見てきたから。
でも、この人の走りは知らない。
それなら。
無理に真似しなくていい。
自分が走れる場所を走る。
前の車が少し離れる。
追わない。
ブレーキ。
ターンイン。
アクセル。
また少し離れる。
それでも追わない。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
離されてもいい。
そう言われている。
そして一本目を終えた。
*
戻ってくると、啓介が待っていた。
「どうだった?」
「離された」
「見りゃ分かる」
「結構」
「だから?」
あかねが首を傾げる。
「だからって?」
「離されて焦ったか?」
「最初はちょっと」
「途中からは?」
「諦めた」
啓介が眉を寄せる。
「諦めた?」
「追いつくのを」
「ああ」
「自分のペースで走った」
啓介の表情が少し緩む。
「ならいい」
一緒に走ったメンバーも車から降りてくる。
「いや、思ったよりちゃんとしてましたよ」
涼介が尋ねる。
「どうだった?」
「最初は俺についてこようとしてましたけど、途中からやめましたね」
「そうか」
「無茶して追ってくるかと思ったんですけど」
啓介が横から言う。
「前ならやってたな」
あかねが睨む。
「もうしません」
「分かってるよ」
「じゃあ言わないで」
「事実だろ」
「昔の話です」
「数ヶ月前だろうが」
二人のやり取りを聞きながら、メンバーが笑う。
涼介だけは、あかねを見ていた。
「木下」
「はい?」
「次は前だ」
「……はい」
少しだけ返事が遅れた。
「怖いか?」
聞かれて。
あかねは考える。
「少し」
「なぜ?」
「後ろから見られるから」
「誰に?」
「一緒に走る人に」
「俺や啓介に見られるのは平気なのか?」
「あ」
言われて初めて気づいた。
「……平気かも」
「なぜだと思う?」
「慣れたから?」
「それもあるだろうな」
涼介は続ける。
「なら、今日も慣れればいい」
簡単な言葉だった。
でも。
不思議と少し緊張が抜けた。
「……はい」
*
二本目。
赤いFCが前。
後ろにレッドサンズの車。
バックミラーにヘッドライトが見える。
近い。
「……」
気になる。
やっぱり気になる。
でも。
あかねは前を見る。
啓介に言われた。
後ろを見るな。
涼介に言われた。
慣れればいい。
ブレーキ。
ターンイン。
後ろの車はついてくる。
次。
少し距離が縮まる。
心臓が速くなる。
「大丈夫」
自分のペース。
次。
ブレーキ。
曲がる。
立ち上がる。
徐々に。
後ろのヘッドライトが気にならなくなっていく。
そして中盤。
一つのコーナーを抜けた瞬間。
後ろとの距離が少し開いた。
「あれ?」
自分が速かった?
違う。
相手が何かミスしたのかもしれない。
考えない。
次。
また次。
赤いFCが走る。
最後まで。
自分のペースを崩さなかった。
*
戻った瞬間。
あかねは車から降りる。
「どうだった?」
今度は自分から聞いた。
一緒に走ったメンバーが笑う。
「思ってたより速かった」
「本当?」
「ああ。特に後半」
あかねの顔が明るくなる。
「やった」
啓介がすぐ言う。
「調子乗んなよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に出てんだよ」
「ちょっとくらい喜んでもいいでしょ」
「喜ぶのはいい。次いきなりペース上げんなって言ってんだ」
「分かってます」
「ならいい」
メンバーが啓介を見る。
「啓介さん」
「あ?」
「結構速くなりましたね」
「まあな」
啓介の返事は短い。
だが。
なぜか少しだけ得意そうだった。
「啓介さんが嬉しそう」
あかねhが言う。
「は?」
「今ちょっと嬉しかったでしょ」
「何で俺が嬉しいんだよ」
「自分が教えたから?」
「知らねえよ」
「絶対そうじゃん」
「うるせえな」
メンバーがまた笑う。
その輪から少し離れたところ。
涼介は静かに二人を見ていた。
*
その夜。
午前一時を過ぎた頃。
「じゃ、お疲れっした」
「お疲れさまでした」
レッドサンズのメンバーたちが一台、また一台と帰っていく。
啓介もFDのドアを開けた。
「あかね」
「ん?」
「帰んねえの?」
「もうちょっと休んでから帰る」
「眠いのか?」
「ちょっと疲れただけ」
「なら無理して運転すんなよ」
「分かってる」
啓介は少し迷った。
「……待ってようか?」
あかねが目を丸くする。
「え?」
「だから、帰るまで」
「大丈夫だよ」
「でも――」
「啓介」
涼介の声。
白いFCのそばに立っていた。
「俺もまだ帰らない」
啓介が兄を見る。
「兄貴も?」
「ああ」
「……」
少しだけ考える。
「じゃあ頼む」
「分かった」
啓介はあかねを見る。
「ちゃんと休んでから帰れよ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「はい」
「……じゃあな」
「おやすみなさい」
黄色いFDのエンジンがかかる。
あかねは走り去っていくFDを見送った。
やがて。
音が遠ざかる。
静かになった。
気づけば。
残っているのは。
赤いFC。
白いFC。
二台だけだった。
*
あかねはガードレールの近くに腰を下ろしていた。
夜の山は少し寒い。
「寒くないのか?」
顔を上げる。
涼介だった。
「ちょっとだけ」
「なら車にいた方がいい」
「せっかく山に来てるのに車の中にいるのも、なんかもったいなくないですか?」
「そういうものか?」
「そういうものです」
涼介が少し笑う。
そして。
あかねから少し離れた場所に立った。
二人きり。
考えてみれば。
こんなふうに涼介と二人だけになるのは初めてかもしれない。
走りの話をすることはあった。
でも。
いつも近くには啓介やレッドサンズの誰かがいた。
「……」
急に。
何を話せばいいのか分からなくなる。
あかねは横目で涼介を見る。
白いFCのそばに立っている姿。
街灯の少ない赤城でも。
整った顔立ちは分かる。
「……」
そういえば。
初めて会った夜にも思った。
この人。
すごく格好いい。
今までは走りのことで頭がいっぱいで。
あまり意識していなかったけれど。
二人きりになると。
なんとなく落ち着かない。
「どうした?」
涼介がこちらを見る。
目が合った。
「え?」
「さっきから静かだな」
「あ……いや」
視線を逸らす。
「疲れただけです」
「そうか」
それ以上追及しない。
その距離感が。
逆に少し困る。
啓介なら。
『何だよ』
としつこく聞いてきそうなのに。
涼介は聞かない。
沈黙。
でも。
不思議と嫌な沈黙ではなかった。
しばらくして。
涼介が口を開いた。
「東京が恋しくなることはないのか?」
突然だった。
あかねが顔を上げる。
「東京?」
「ああ」
「なんで急に?」
「君のことを考えたら、そういえば聞いたことがなかったと思ってな」
あかねは一瞬、言葉を止めた。
――君のことを考えたら。
特別な意味はない。
分かっている。
それでも。
なんとなくその言葉だけ耳に残った。
「……あんまりないです」
「そうなのか?」
「はい」
「十八で一人暮らしだろう」
「そうですけど」
「東京には家族も友人もいるんじゃないのか?」
「いますよ」
「それでも?」
あかねは少し考える。
「東京が嫌いだったわけじゃないんです」
「なら、なぜ群馬に?」
「飽きたから」
涼介が黙った。
「……」
「何ですか、その顔」
「いや」
僅かに笑っている。
「もっと大きな理由があると思っていた」
「ないですよ」
あかねも笑う。
「ずっと東京だったから、違うところに住んでみたかっただけ」
「それで群馬を選んだのか?」
「大学もあるし。東京からそんなに遠くないし」
「随分と思い切ったな」
「よく言われます」
「両親には反対されなかったのか?」
「されました」
「だろうな」
「でも私、一回決めると変えないので」
「それは知っている」
即答。
あかねが涼介を見る。
「知ってるんですか?」
「ああ」
涼介の視線があかねへ向く。
「何度やめた方がいいと言われても赤城へ来ただろう」
「……確かに」
「事故を起こしかけた次の週にも来た」
「それは……」
少し恥ずかしい。
「褒めているわけじゃない」
「分かってます」
「だが」
涼介は少し間を置く。
「君らしいとは思う」
また。
変な感じがした。
啓介から。
『お前の性格知ってるから』
と言われた時とは違う。
涼介に。
『君らしい』
と言われる。
自分のことを見られている。
そんな感覚。
「あの」
あかねが尋ねる。
「涼介さんって、最初から私が続けると思ってたんですよね?」
「ああ」
「なんで?」
「前にも言っただろう。根拠はない」
「今なら?」
涼介が少し考える。
「今なら分かる」
「何が?」
「君は、自分で納得するまではやめない」
あかねは黙る。
「……当たってるかも」
「だろうな」
「なんか全部分かってるみたい」
「全部は分からない」
涼介は静かに答えた。
「だから知ろうとしている」
あかねの動きが止まった。
「……え?」
涼介自身は。
何でもないことを言ったような顔をしている。
おそらく。
本当に深い意味はない。
走りを見ているから。
どういう人間なのか知ろうとしている。
それだけ。
それなのに。
胸が。
一度だけ。
妙に大きく鳴った。
「……」
「木下?」
「何でもないです」
「そうか」
また追及しない。
あかねは自分の膝へ視線を落とす。
何なんだろう。
この人と話していると。
啓介とは違う意味で調子が狂う。
*
少しして。
あかねが立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「もう大丈夫なのか?」
「はい」
赤いFCへ向かう。
涼介も白いFCへ向かった。
「涼介さん」
「なんだ?」
「今日はありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「待っててくれたから」
「ああ」
涼介は少しだけ笑った。
「気をつけて帰れ」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
赤いFCに乗り込む。
エンジンをかける。
走り出す前。
あかねはバックミラーを見る。
白いFCは。
まだ動かない。
「……?」
少し不思議に思いながら発進する。
赤城を下る。
数分後。
バックミラーの遠くに。
二つのヘッドライトが現れた。
白いFC。
一定の距離。
近づきすぎず。
離れすぎず。
ずっと後ろにいる。
「……涼介さん?」
あかねは少し笑った。
待っていただけではなかった。
帰り道まで。
見ている。
それを。
涼介はわざわざ言わなかった。
*
その夜。
自宅へ戻ったあかねは。
ベッドへ入ってから。
なぜか。
走りのことより。
赤城での会話を思い出していた。
『君らしいとは思う』
『全部は分からない』
『だから知ろうとしている』
「……」
布団の中。
あかねは寝返りを打つ。
「ずるいな……」
何がずるいのか。
自分でもよく分からない。
啓介といる時は。
もっと簡単なのに。
腹が立つ。
言い返す。
笑う。
また腹が立つ。
それなのに。
涼介といる時は。
たった一言が。
後から何度も頭に残る。
その理由を。
あかねはまだ。
考えないことにした。
赤城。
いつもの場所へ入ってきた赤いFCを見て、レッドサンズのメンバーの一人が手を上げた。
「あかねちゃん、こんばんは」
「こんばんは」
あかねも軽く手を上げて返す。
車を停める場所も、もうほとんど決まっていた。
白いFC。
黄色いFD。
そして少し離れたところに、あかねの赤いFC。
エンジンを切って外へ出ると、すぐに啓介がやってきた。
「遅え」
「え、時間いつもと同じだけど」
「俺らはもう来てた」
「それは啓介さんたちが早いだけじゃん」
「……まあいい」
啓介は赤いFCを一度見てから言った。
「兄貴から聞いてるだろ」
「今日、別の人と走るんでしょ?」
「ああ」
あかねは周囲を見る。
「誰?」
「まだ決めてねえ」
「そうなの?」
「兄貴が決める」
「啓介さんじゃないんだ」
「俺が決めたら意味ねえだろ」
「なんで?」
「お前に合わせすぎるからだよ」
あかねが少し驚いた。
「啓介さんが?」
「……なんだよ、その顔」
「いや」
「言えよ」
「ちゃんと私に合わせてくれてたんだなと思って」
「当たり前だろ」
啓介は何でもないことのように答えた。
「初心者相手に自分のペースで走ってどうすんだよ」
「そっか」
「何だよ」
「別に」
「真似すんな」
あかねが笑う。
その時。
「木下」
涼介の声がした。
振り返る。
白いFCのそばに涼介がいる。
その隣にはレッドサンズのメンバーが一人立っていた。
「今日の相手だ」
「よろしく、あかねちゃん」
「あ、よろしくお願いします」
何度か顔を合わせたことはある。
話したこともある。
ただ、一緒に走ったことはない。
涼介が二人を見る。
「最初は彼に前を走ってもらう」
「はい」
「無理についていく必要はない。離されたら離されたままでいい」
「分かりました」
「二本目は前後を入れ替える」
「私が前?」
「ああ」
あかねの表情が少し硬くなる。
それを見た啓介が口を挟んだ。
「後ろ気にすんなよ」
「分かってる」
「前だけ見ろ」
「うん」
「あと――」
「啓介」
涼介が止める。
「あ?」
「それ以上言う必要はない」
「でもよ」
「今日は自分で考えさせるために走らせるんだろう」
啓介が黙る。
「……分かったよ」
あかねは少し笑った。
「行ってきます」
啓介は軽く顎を上げる。
「おう」
涼介は短く言った。
「気をつけろ」
「はい」
*
一本目。
前を走る車を、赤いFCが追う。
「……違う」
すぐに分かった。
啓介とは全然違う。
ブレーキを踏む場所。
コーナーへの入り方。
車を置く場所。
当然だ。
運転する人が違うのだから。
最初。
あかねは相手のラインを真似しようとした。
けれど、うまくいかない。
「違うな……」
啓介の後ろなら分かる。
何度も見てきたから。
でも、この人の走りは知らない。
それなら。
無理に真似しなくていい。
自分が走れる場所を走る。
前の車が少し離れる。
追わない。
ブレーキ。
ターンイン。
アクセル。
また少し離れる。
それでも追わない。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
離されてもいい。
そう言われている。
そして一本目を終えた。
*
戻ってくると、啓介が待っていた。
「どうだった?」
「離された」
「見りゃ分かる」
「結構」
「だから?」
あかねが首を傾げる。
「だからって?」
「離されて焦ったか?」
「最初はちょっと」
「途中からは?」
「諦めた」
啓介が眉を寄せる。
「諦めた?」
「追いつくのを」
「ああ」
「自分のペースで走った」
啓介の表情が少し緩む。
「ならいい」
一緒に走ったメンバーも車から降りてくる。
「いや、思ったよりちゃんとしてましたよ」
涼介が尋ねる。
「どうだった?」
「最初は俺についてこようとしてましたけど、途中からやめましたね」
「そうか」
「無茶して追ってくるかと思ったんですけど」
啓介が横から言う。
「前ならやってたな」
あかねが睨む。
「もうしません」
「分かってるよ」
「じゃあ言わないで」
「事実だろ」
「昔の話です」
「数ヶ月前だろうが」
二人のやり取りを聞きながら、メンバーが笑う。
涼介だけは、あかねを見ていた。
「木下」
「はい?」
「次は前だ」
「……はい」
少しだけ返事が遅れた。
「怖いか?」
聞かれて。
あかねは考える。
「少し」
「なぜ?」
「後ろから見られるから」
「誰に?」
「一緒に走る人に」
「俺や啓介に見られるのは平気なのか?」
「あ」
言われて初めて気づいた。
「……平気かも」
「なぜだと思う?」
「慣れたから?」
「それもあるだろうな」
涼介は続ける。
「なら、今日も慣れればいい」
簡単な言葉だった。
でも。
不思議と少し緊張が抜けた。
「……はい」
*
二本目。
赤いFCが前。
後ろにレッドサンズの車。
バックミラーにヘッドライトが見える。
近い。
「……」
気になる。
やっぱり気になる。
でも。
あかねは前を見る。
啓介に言われた。
後ろを見るな。
涼介に言われた。
慣れればいい。
ブレーキ。
ターンイン。
後ろの車はついてくる。
次。
少し距離が縮まる。
心臓が速くなる。
「大丈夫」
自分のペース。
次。
ブレーキ。
曲がる。
立ち上がる。
徐々に。
後ろのヘッドライトが気にならなくなっていく。
そして中盤。
一つのコーナーを抜けた瞬間。
後ろとの距離が少し開いた。
「あれ?」
自分が速かった?
違う。
相手が何かミスしたのかもしれない。
考えない。
次。
また次。
赤いFCが走る。
最後まで。
自分のペースを崩さなかった。
*
戻った瞬間。
あかねは車から降りる。
「どうだった?」
今度は自分から聞いた。
一緒に走ったメンバーが笑う。
「思ってたより速かった」
「本当?」
「ああ。特に後半」
あかねの顔が明るくなる。
「やった」
啓介がすぐ言う。
「調子乗んなよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に出てんだよ」
「ちょっとくらい喜んでもいいでしょ」
「喜ぶのはいい。次いきなりペース上げんなって言ってんだ」
「分かってます」
「ならいい」
メンバーが啓介を見る。
「啓介さん」
「あ?」
「結構速くなりましたね」
「まあな」
啓介の返事は短い。
だが。
なぜか少しだけ得意そうだった。
「啓介さんが嬉しそう」
あかねhが言う。
「は?」
「今ちょっと嬉しかったでしょ」
「何で俺が嬉しいんだよ」
「自分が教えたから?」
「知らねえよ」
「絶対そうじゃん」
「うるせえな」
メンバーがまた笑う。
その輪から少し離れたところ。
涼介は静かに二人を見ていた。
*
その夜。
午前一時を過ぎた頃。
「じゃ、お疲れっした」
「お疲れさまでした」
レッドサンズのメンバーたちが一台、また一台と帰っていく。
啓介もFDのドアを開けた。
「あかね」
「ん?」
「帰んねえの?」
「もうちょっと休んでから帰る」
「眠いのか?」
「ちょっと疲れただけ」
「なら無理して運転すんなよ」
「分かってる」
啓介は少し迷った。
「……待ってようか?」
あかねが目を丸くする。
「え?」
「だから、帰るまで」
「大丈夫だよ」
「でも――」
「啓介」
涼介の声。
白いFCのそばに立っていた。
「俺もまだ帰らない」
啓介が兄を見る。
「兄貴も?」
「ああ」
「……」
少しだけ考える。
「じゃあ頼む」
「分かった」
啓介はあかねを見る。
「ちゃんと休んでから帰れよ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「はい」
「……じゃあな」
「おやすみなさい」
黄色いFDのエンジンがかかる。
あかねは走り去っていくFDを見送った。
やがて。
音が遠ざかる。
静かになった。
気づけば。
残っているのは。
赤いFC。
白いFC。
二台だけだった。
*
あかねはガードレールの近くに腰を下ろしていた。
夜の山は少し寒い。
「寒くないのか?」
顔を上げる。
涼介だった。
「ちょっとだけ」
「なら車にいた方がいい」
「せっかく山に来てるのに車の中にいるのも、なんかもったいなくないですか?」
「そういうものか?」
「そういうものです」
涼介が少し笑う。
そして。
あかねから少し離れた場所に立った。
二人きり。
考えてみれば。
こんなふうに涼介と二人だけになるのは初めてかもしれない。
走りの話をすることはあった。
でも。
いつも近くには啓介やレッドサンズの誰かがいた。
「……」
急に。
何を話せばいいのか分からなくなる。
あかねは横目で涼介を見る。
白いFCのそばに立っている姿。
街灯の少ない赤城でも。
整った顔立ちは分かる。
「……」
そういえば。
初めて会った夜にも思った。
この人。
すごく格好いい。
今までは走りのことで頭がいっぱいで。
あまり意識していなかったけれど。
二人きりになると。
なんとなく落ち着かない。
「どうした?」
涼介がこちらを見る。
目が合った。
「え?」
「さっきから静かだな」
「あ……いや」
視線を逸らす。
「疲れただけです」
「そうか」
それ以上追及しない。
その距離感が。
逆に少し困る。
啓介なら。
『何だよ』
としつこく聞いてきそうなのに。
涼介は聞かない。
沈黙。
でも。
不思議と嫌な沈黙ではなかった。
しばらくして。
涼介が口を開いた。
「東京が恋しくなることはないのか?」
突然だった。
あかねが顔を上げる。
「東京?」
「ああ」
「なんで急に?」
「君のことを考えたら、そういえば聞いたことがなかったと思ってな」
あかねは一瞬、言葉を止めた。
――君のことを考えたら。
特別な意味はない。
分かっている。
それでも。
なんとなくその言葉だけ耳に残った。
「……あんまりないです」
「そうなのか?」
「はい」
「十八で一人暮らしだろう」
「そうですけど」
「東京には家族も友人もいるんじゃないのか?」
「いますよ」
「それでも?」
あかねは少し考える。
「東京が嫌いだったわけじゃないんです」
「なら、なぜ群馬に?」
「飽きたから」
涼介が黙った。
「……」
「何ですか、その顔」
「いや」
僅かに笑っている。
「もっと大きな理由があると思っていた」
「ないですよ」
あかねも笑う。
「ずっと東京だったから、違うところに住んでみたかっただけ」
「それで群馬を選んだのか?」
「大学もあるし。東京からそんなに遠くないし」
「随分と思い切ったな」
「よく言われます」
「両親には反対されなかったのか?」
「されました」
「だろうな」
「でも私、一回決めると変えないので」
「それは知っている」
即答。
あかねが涼介を見る。
「知ってるんですか?」
「ああ」
涼介の視線があかねへ向く。
「何度やめた方がいいと言われても赤城へ来ただろう」
「……確かに」
「事故を起こしかけた次の週にも来た」
「それは……」
少し恥ずかしい。
「褒めているわけじゃない」
「分かってます」
「だが」
涼介は少し間を置く。
「君らしいとは思う」
また。
変な感じがした。
啓介から。
『お前の性格知ってるから』
と言われた時とは違う。
涼介に。
『君らしい』
と言われる。
自分のことを見られている。
そんな感覚。
「あの」
あかねが尋ねる。
「涼介さんって、最初から私が続けると思ってたんですよね?」
「ああ」
「なんで?」
「前にも言っただろう。根拠はない」
「今なら?」
涼介が少し考える。
「今なら分かる」
「何が?」
「君は、自分で納得するまではやめない」
あかねは黙る。
「……当たってるかも」
「だろうな」
「なんか全部分かってるみたい」
「全部は分からない」
涼介は静かに答えた。
「だから知ろうとしている」
あかねの動きが止まった。
「……え?」
涼介自身は。
何でもないことを言ったような顔をしている。
おそらく。
本当に深い意味はない。
走りを見ているから。
どういう人間なのか知ろうとしている。
それだけ。
それなのに。
胸が。
一度だけ。
妙に大きく鳴った。
「……」
「木下?」
「何でもないです」
「そうか」
また追及しない。
あかねは自分の膝へ視線を落とす。
何なんだろう。
この人と話していると。
啓介とは違う意味で調子が狂う。
*
少しして。
あかねが立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「もう大丈夫なのか?」
「はい」
赤いFCへ向かう。
涼介も白いFCへ向かった。
「涼介さん」
「なんだ?」
「今日はありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「待っててくれたから」
「ああ」
涼介は少しだけ笑った。
「気をつけて帰れ」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
赤いFCに乗り込む。
エンジンをかける。
走り出す前。
あかねはバックミラーを見る。
白いFCは。
まだ動かない。
「……?」
少し不思議に思いながら発進する。
赤城を下る。
数分後。
バックミラーの遠くに。
二つのヘッドライトが現れた。
白いFC。
一定の距離。
近づきすぎず。
離れすぎず。
ずっと後ろにいる。
「……涼介さん?」
あかねは少し笑った。
待っていただけではなかった。
帰り道まで。
見ている。
それを。
涼介はわざわざ言わなかった。
*
その夜。
自宅へ戻ったあかねは。
ベッドへ入ってから。
なぜか。
走りのことより。
赤城での会話を思い出していた。
『君らしいとは思う』
『全部は分からない』
『だから知ろうとしている』
「……」
布団の中。
あかねは寝返りを打つ。
「ずるいな……」
何がずるいのか。
自分でもよく分からない。
啓介といる時は。
もっと簡単なのに。
腹が立つ。
言い返す。
笑う。
また腹が立つ。
それなのに。
涼介といる時は。
たった一言が。
後から何度も頭に残る。
その理由を。
あかねはまだ。
考えないことにした。