デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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あの日から、あかねの走りは変わった。
速くなった。
――わけではない。
むしろ、一度遅くなった。
赤城へ戻ってきた最初の夜。
啓介のFDを後ろにつけて走ったあかねは、以前よりずっと手前でブレーキを踏んだ。
コーナーへ入る速度も遅い。
少しでも怖いと思えば、すぐにアクセルを戻す。
一本走り終えた後。
啓介は赤いFCから降りてきたあかねに言った。
「遅くなったな」
分かっていた。
だから、あかねは俯いた。
「……やっぱり?」
「ああ」
「怖くて」
「なら、それでいい」
意外な言葉だった。
あかねが顔を上げる。
「いいの?」
「今はな」
啓介は赤いFCへ視線を向ける。
「怖えのに無理して踏んだって、また同じことになるだけだ」
「……」
「まずは自分が怖くねえ速度で走れ」
「それじゃ速くならなくない?」
「焦んな」
短い言葉だった。
「お前はすぐ結果出そうとしすぎなんだよ」
言い返そうとして。
やめた。
あの日。
『飛ばすな』
そう言われたのに、自分は聞かなかった。
今度はちゃんと聞こうと思った。
「……分かった」
啓介が少し意外そうな顔をする。
「今日は素直だな」
「いつも素直です」
「どこがだよ」
「失礼」
「ほらな」
いつもの調子で言い合う。
それだけで少し気持ちが軽くなった。
それから数週間。
あかねは徹底的にペースを落とした。
速さよりも、同じように走ること。
一本目と二本目で、ブレーキの位置を大きく変えない。
怖くなってから減速するのではなく、怖くならない速度まで先に落とす。
ハンドルを慌てて動かさない。
一つずつ。
本当に、一つずつ。
そして。
少しずつ。
恐怖が変わっていった。
消えたわけではない。
この速度なら大丈夫。
ここから先はまだ怖い。
それが以前より分かるようになった。
*
一ヶ月後。
夜の赤城。
「もう一本行ってきます」
あかねが言うと、啓介は腕時計を確認した。
「これで何本目だ?」
「三本目」
「ならいい」
「最近ちゃんと数えるよね」
「お前がほっとくといつまでも走るからだろ」
「そんなことないよ」
「ある」
即答だった。
あかねが不満そうな顔をする。
その時。
白いFCのそばにいた涼介が二人へ近づいてきた。
「啓介」
「あ?」
「次は俺が後ろにつこう」
啓介が兄を見る。
「兄貴が?」
「ああ」
あかねも涼介を見る。
「何か見るんですか?」
「少し確認したい」
「分かりました」
あかねは素直に頷いた。
その横で、啓介が白いFCを見る。
「俺も行く」
涼介は弟へ視線を向ける。
「必要ない」
「別にいいだろ」
「三台で走る理由がない」
「……」
正論だった。
啓介は黙る。
あかねが二人を見比べた。
「じゃあ行ってきます」
「ああ」
啓介は少し不満そうな顔のまま答える。
「無茶すんなよ」
「しません」
赤いFCへ向かうあかねの背中を、啓介は目で追った。
涼介はそれを見ていた。
「啓介」
「なんだよ」
「いや」
「……?」
「何でもない」
涼介は白いFCへ乗り込んだ。
*
赤いFCが先行する。
白いFCが追う。
涼介は一定の距離を保っていた。
以前とはまるで違う。
初めて走りを見た時。
あかねの運転は不安定だった。
速い時と遅い時。
上手く曲がれる時と失敗する時。
その差が大きすぎた。
時折、感覚だけで驚くほどいいラインを通る。
しかし再現できない。
それが今は――
「……なるほど」
涼介が小さく呟いた。
速くはない。
だが、安定している。
同じ場所で減速する。
同じような速度で進入する。
同じ場所へ車を持っていく。
一ヶ月前の事故寸前の経験。
あれが、無駄になっていない。
次のコーナー。
あかねがブレーキを踏む。
減速。
ターンイン。
クリッピングポイントへ寄る。
アクセル。
赤いFCが立ち上がっていく。
涼介の白いFCなら。
今の倍近い速度でも余裕がある。
だが、問題はそこではない。
「恐怖を基準にできるようになったか……」
自分が扱える範囲。
その境界を、あかねは探し始めている。
これは大きい。
怖さを克服するために無理をする人間は多い。
だが。
怖さそのものを判断材料にできる人間は、意外に少ない。
涼介はアクセルを少し踏み足した。
白いFCが距離を縮める。
前を走るあかねがバックミラーを見る。
「……近い」
さっきまで遠かった白いFCが近づいてきている。
少し緊張する。
速く走らなきゃ。
一瞬、そう思った。
けれど。
「……違う」
自分に言い聞かせる。
後ろは関係ない。
今の自分にできる走りをする。
ブレーキ。
コーナー。
アクセル。
白いFCはさらに近い。
それでもペースを変えない。
涼介の口元が僅かに上がった。
「そうだ。それでいい」
*
二台が戻ってくる。
あかねが車を降りる。
「どうでした?」
涼介は白いFCのドアを閉めた。
「よくなった」
「本当ですか?」
「ああ」
あかねの表情が明るくなる。
「以前より遅い。だが、今の方がずっといい」
「啓介さんにも同じこと言われました」
あかねが黄色いFDの方を見る。
そこにいた啓介が反応する。
「なんだよ」
「別に」
「今、俺の話してただろ」
「褒めてただけ」
「……ならいい」
あかねが少し笑う。
涼介が続けた。
「途中で俺が距離を詰めたのは分かったか?」
「はい」
「どう思った?」
「最初は、もっと速く走らなきゃって思いました」
「それで?」
「やめました」
「なぜ?」
あかねは少し考える。
「また怖くなると思ったから」
涼介が頷く。
「それでいい」
「でも」
あかねは少し不満そうだった。
「ずっとこのままじゃ速くならないですよね?」
「もちろんだ」
「じゃあ、いつから速く走るんですか?」
「今も速くなっている」
「え?」
「速度だけが速さじゃない」
涼介は赤いFCを見る。
「以前の君は、十回走れば十通りの走りをしていた」
「……そんなに?」
「ああ」
「今は?」
「少なくとも、自分が何をしているかは分かり始めている」
涼介はあかねを見る。
「同じことを繰り返せるようになれば、次は一つずつ限界を上げられる」
あかねは真剣に聞いている。
「ブレーキを少し遅らせる。進入速度を少し上げる。アクセルを少し早く開ける」
「一気にじゃなくて?」
「ああ。一つずつだ」
あかねは頷いた。
「分かりました」
啓介が横から口を挟む。
「今度こそちゃんと守れよ」
「分かってます」
「前もそう言ったからな」
「もうしないって」
「ならいい」
涼介が弟を見る。
啓介は当然のようにあかねの横に立っている。
それが最近ではすっかり普通になっていた。
*
その夜。
あかねが休憩していると、少し離れたところから会話が聞こえた。
「なあ」
「ん?」
「最近来てる赤いFC、知ってる?」
「多摩ナンバーの?」
自分のことだ。
あかねは思わずそちらを見る。
男が三人。
知らない顔だった。
「啓介さんが毎週後ろ走ってるやつだろ」
「女だよな?」
「そう」
一人があかねに気づいた。
目が合う。
「あ」
気まずい。
あかねは視線を逸らした。
けれど。
向こうから近づいてきた。
「なあ」
声をかけられる。
あかねは顔を上げた。
「はい?」
「そのFC、あんたの?」
「そうです」
男が赤いFCを見る。
「多摩から毎週来てんの?」
「今は群馬に住んでます」
「ああ、そうなんだ」
もう一人が聞く。
「高橋兄弟と知り合い?」
「知り合い……」
あかねは少し考えた。
何と言えばいいのか分からない。
「走りを教えてもらってます」
三人の表情が変わった。
「マジで?」
「はい」
「涼介さんにも?」
「たまに見てもらってます」
男たちが顔を見合わせる。
あかねには、その反応の意味が分からなかった。
一人が赤いFCを見る。
「じゃあ、結構速いんだ?」
「全然です」
あかねは即答した。
「まだ遅いですよ」
「でも啓介さんが見てんだろ?」
「それと私が速いかどうかは別じゃないですか?」
「まあ、そうだけど」
男は少し笑った。
「一本、一緒に走ってみる?」
「え?」
「俺が後ろ走るから」
あかねは困った。
今まで。
後ろにつくのは啓介か涼介だけだった。
知らない人と走ったことはない。
「……」
断るべきなのか。
でも。
走り屋なら、こういうものなのだろうか。
迷っていると。
「やめとけ」
後ろから声がした。
あかねが振り返る。
啓介だった。
男たちも啓介を見る。
「あ、啓介さん…」
啓介はあかねの隣まで来る。
「こいつはまだバトルできるレベルじゃねえ」
声は普通だった。
怒ってはいない。
ただ、はっきりしている。
男が少し笑う。
「後ろから見るだけですって」
「同じだろ」
「別に煽りませんよ!」
「そういう問題じゃねえ」
啓介が男を見る。
「後ろにつかれりゃ、こいつは意識する」
あかねは何も言わなかった。
図星だった。
涼介が後ろに来ただけでも、速く走ろうとしてしまった。
知らない人なら、もっと気にするかもしれない。
男も少し考えた。
「……まあ、そうか」
それ以上食い下がらなかった。
「悪かったな」
あかねへ軽く手を上げる。
「いえ」
男たちは戻っていった。
二人になる。
あかねが啓介を見る。
「ありがとうございます」
「何が?」
「断ってくれたから」
「別に」
啓介は赤いFCを見る。
「今のお前じゃ、後ろから知らねえ車に詰められたら絶対無理するからな」
「しないかもしれないじゃん」
啓介があかねを見る。
「する」
「なんで断言するの?」
「お前の性格知ってるからだよ」
「……」
言われて。
少しだけ変な感じがした。
『お前の性格知ってるから』
考えてみれば。
出会ってから、まだそれほど長くない。
それなのに。
啓介には、かなり色々知られている。
頑固なこと。
負けず嫌いなこと。
褒められると調子に乗りそうになること。
怖くても無理をしてしまうこと。
逆に。
あかねも啓介のことを少しずつ知っていた。
口が悪い。
すぐ怒る。
車のことになると真剣。
意外と面倒見がいい。
そして。
思っているより、ずっと優しい。
「……何だよ」
啓介が怪訝そうに見る。
「何でもない」
「だったら見るな」
「見てない」
「見てただろ」
「自意識過剰」
「お前な……」
あかねは笑いながら赤いFCへ向かった。
その後ろで。
啓介が小さく息を吐いた。
*
さらに数週間が過ぎた。
赤いFCのペースは、少しずつ上がっていった。
一気には上げない。
昨日よりほんの少し。
その次は、またほんの少し。
失敗すれば戻す。
できるようになったら、また上げる。
そして。
ある夜。
いつものように一本走り終えたあかねが戻ってくる。
赤いFCを停める。
運転席から降りた。
「啓介さん」
黄色いFDから降りてきた啓介を見る。
「今日どうだった?」
最近。
この質問が恒例になっていた。
啓介は缶コーヒーを開けながら答える。
「まあまあ」
あかねが固まる。
「……え?」
「なんだよ」
「今なんて?」
「まあまあ」
「もう一回言って」
「うるせえな」
「だって初めてじゃない?」
「何が」
「啓介さんが私の走りに『まあまあ』って言ったの」
「そうだったか?」
「そうだよ!」
あかねは明らかに嬉しそうだった。
「じゃあ結構よかった?」
「調子乗んな」
「でもまあまあなんでしょ?」
「前よりはな」
「やった」
嬉しそうに笑う。
啓介は缶コーヒーを飲みながら、あかねから視線を逸らした。
本当は。
『まあまあ』より少し上だった。
特に後半。
一ヶ月前とは比較にならない。
怖さを知ったことで、走りに芯ができた。
まだ遅い。
それでも。
追いかけていて、少しだけ面白くなってきた。
「なあ、あかね」
啓介が呼ぶ。
「何?」
「次から俺が前走る」
「え?」
あかねが目を丸くする。
今まではずっと。
あかねが前。
啓介が後ろ。
「どうして?」
「そろそろライン教える」
「今までも教えてくれてたじゃん」
「口で言うのと見るのじゃ違えんだよ」
啓介は黄色いFDを見る。
「俺が前走る。お前は後ろからついてこい」
あかねは少し考える。
そして。
「無理」
「は?」
「啓介さん速すぎるもん」
「誰が本気で走るっつった」
「あ」
「お前のペースに合わせる」
「……できるの?」
「馬鹿にしてんのか?」
「だって啓介さん、すぐ速くなりそう」
「ならねえよ」
「本当に?」
「しつけえな!」
あかねが笑う。
「じゃあお願いします」
「ああ」
少し離れたところ。
白いFCにもたれながら。
涼介がその会話を聞いていた。
啓介が。
自分から前を走ると言った。
今まで弟は、あかねの走りを後ろから見ていただけだった。
それが。
自分の走りを見せる。
自分のラインを教える。
涼介は静かに二人を見る。
「……なるほどな」
小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
*
数分後。
黄色いFDが先頭。
その後ろに。
多摩ナンバーの赤いFC。
あかねはハンドルを握り直した。
「離されないようにしなきゃ……」
黄色いFDのブレーキランプが光る。
あかねもブレーキ。
FDがコーナーへ入る。
「……あ」
今まで自分が走っていた場所と違う。
啓介は。
あえて、ゆっくり走っていた。
あかねが見えるように。
ブレーキの位置。
車を入れる場所。
コーナーの内側へ寄る位置。
立ち上がり。
まるで。
黄色いFDが道の上に一本の線を描いていく。
「ここ……?」
真似をする。
赤いFCが曲がる。
「……!」
今までより楽に曲がった。
次。
また啓介のラインを追う。
「すご……」
さらに次。
少し遅れる。
黄色いFDが離れる。
ところが。
啓介は加速しなかった。
あかねが追いつくのを待つ。
距離が戻る。
また走り始める。
その繰り返し。
あかねはいつの間にか笑っていた。
楽しい。
速く走ることだけじゃない。
分からなかったものが、一つずつ分かる。
できなかったことが、できるようになる。
そして。
前には黄色いFDがいる。
「……追いつきたい」
初めて。
はっきりそう思った。
いつか。
手加減されなくても。
あの黄色いFDの後ろを走れるようになりたい。
*
その夜。
赤城にいた何人かの走り屋が、二台を見送っていた。
「最近あのFC、結構走れるようになってきたよな」
「最初なんてめちゃくちゃ遅かったのにな」
「啓介さんが教えてんだろ?」
「そりゃ速くなるわ」
一人が笑う。
「でもさ」
別の男が言った。
「どこまでが啓介さんのおかげなんだろうな」
「どういう意味だ?」
「いや」
男は山の下へ消えていった赤いFCを見る。
「本人が本当に速いのか、一回見てみたくね?」
まだ。
あかねは知らなかった。
自分がもう。
ただ見物されるだけの初心者ではなくなりつつあることを。
『多摩ナンバーの赤いFC』
その名前が。
少しずつ。
赤城の走り屋たちの興味の対象へ変わり始めていることを。
速くなった。
――わけではない。
むしろ、一度遅くなった。
赤城へ戻ってきた最初の夜。
啓介のFDを後ろにつけて走ったあかねは、以前よりずっと手前でブレーキを踏んだ。
コーナーへ入る速度も遅い。
少しでも怖いと思えば、すぐにアクセルを戻す。
一本走り終えた後。
啓介は赤いFCから降りてきたあかねに言った。
「遅くなったな」
分かっていた。
だから、あかねは俯いた。
「……やっぱり?」
「ああ」
「怖くて」
「なら、それでいい」
意外な言葉だった。
あかねが顔を上げる。
「いいの?」
「今はな」
啓介は赤いFCへ視線を向ける。
「怖えのに無理して踏んだって、また同じことになるだけだ」
「……」
「まずは自分が怖くねえ速度で走れ」
「それじゃ速くならなくない?」
「焦んな」
短い言葉だった。
「お前はすぐ結果出そうとしすぎなんだよ」
言い返そうとして。
やめた。
あの日。
『飛ばすな』
そう言われたのに、自分は聞かなかった。
今度はちゃんと聞こうと思った。
「……分かった」
啓介が少し意外そうな顔をする。
「今日は素直だな」
「いつも素直です」
「どこがだよ」
「失礼」
「ほらな」
いつもの調子で言い合う。
それだけで少し気持ちが軽くなった。
それから数週間。
あかねは徹底的にペースを落とした。
速さよりも、同じように走ること。
一本目と二本目で、ブレーキの位置を大きく変えない。
怖くなってから減速するのではなく、怖くならない速度まで先に落とす。
ハンドルを慌てて動かさない。
一つずつ。
本当に、一つずつ。
そして。
少しずつ。
恐怖が変わっていった。
消えたわけではない。
この速度なら大丈夫。
ここから先はまだ怖い。
それが以前より分かるようになった。
*
一ヶ月後。
夜の赤城。
「もう一本行ってきます」
あかねが言うと、啓介は腕時計を確認した。
「これで何本目だ?」
「三本目」
「ならいい」
「最近ちゃんと数えるよね」
「お前がほっとくといつまでも走るからだろ」
「そんなことないよ」
「ある」
即答だった。
あかねが不満そうな顔をする。
その時。
白いFCのそばにいた涼介が二人へ近づいてきた。
「啓介」
「あ?」
「次は俺が後ろにつこう」
啓介が兄を見る。
「兄貴が?」
「ああ」
あかねも涼介を見る。
「何か見るんですか?」
「少し確認したい」
「分かりました」
あかねは素直に頷いた。
その横で、啓介が白いFCを見る。
「俺も行く」
涼介は弟へ視線を向ける。
「必要ない」
「別にいいだろ」
「三台で走る理由がない」
「……」
正論だった。
啓介は黙る。
あかねが二人を見比べた。
「じゃあ行ってきます」
「ああ」
啓介は少し不満そうな顔のまま答える。
「無茶すんなよ」
「しません」
赤いFCへ向かうあかねの背中を、啓介は目で追った。
涼介はそれを見ていた。
「啓介」
「なんだよ」
「いや」
「……?」
「何でもない」
涼介は白いFCへ乗り込んだ。
*
赤いFCが先行する。
白いFCが追う。
涼介は一定の距離を保っていた。
以前とはまるで違う。
初めて走りを見た時。
あかねの運転は不安定だった。
速い時と遅い時。
上手く曲がれる時と失敗する時。
その差が大きすぎた。
時折、感覚だけで驚くほどいいラインを通る。
しかし再現できない。
それが今は――
「……なるほど」
涼介が小さく呟いた。
速くはない。
だが、安定している。
同じ場所で減速する。
同じような速度で進入する。
同じ場所へ車を持っていく。
一ヶ月前の事故寸前の経験。
あれが、無駄になっていない。
次のコーナー。
あかねがブレーキを踏む。
減速。
ターンイン。
クリッピングポイントへ寄る。
アクセル。
赤いFCが立ち上がっていく。
涼介の白いFCなら。
今の倍近い速度でも余裕がある。
だが、問題はそこではない。
「恐怖を基準にできるようになったか……」
自分が扱える範囲。
その境界を、あかねは探し始めている。
これは大きい。
怖さを克服するために無理をする人間は多い。
だが。
怖さそのものを判断材料にできる人間は、意外に少ない。
涼介はアクセルを少し踏み足した。
白いFCが距離を縮める。
前を走るあかねがバックミラーを見る。
「……近い」
さっきまで遠かった白いFCが近づいてきている。
少し緊張する。
速く走らなきゃ。
一瞬、そう思った。
けれど。
「……違う」
自分に言い聞かせる。
後ろは関係ない。
今の自分にできる走りをする。
ブレーキ。
コーナー。
アクセル。
白いFCはさらに近い。
それでもペースを変えない。
涼介の口元が僅かに上がった。
「そうだ。それでいい」
*
二台が戻ってくる。
あかねが車を降りる。
「どうでした?」
涼介は白いFCのドアを閉めた。
「よくなった」
「本当ですか?」
「ああ」
あかねの表情が明るくなる。
「以前より遅い。だが、今の方がずっといい」
「啓介さんにも同じこと言われました」
あかねが黄色いFDの方を見る。
そこにいた啓介が反応する。
「なんだよ」
「別に」
「今、俺の話してただろ」
「褒めてただけ」
「……ならいい」
あかねが少し笑う。
涼介が続けた。
「途中で俺が距離を詰めたのは分かったか?」
「はい」
「どう思った?」
「最初は、もっと速く走らなきゃって思いました」
「それで?」
「やめました」
「なぜ?」
あかねは少し考える。
「また怖くなると思ったから」
涼介が頷く。
「それでいい」
「でも」
あかねは少し不満そうだった。
「ずっとこのままじゃ速くならないですよね?」
「もちろんだ」
「じゃあ、いつから速く走るんですか?」
「今も速くなっている」
「え?」
「速度だけが速さじゃない」
涼介は赤いFCを見る。
「以前の君は、十回走れば十通りの走りをしていた」
「……そんなに?」
「ああ」
「今は?」
「少なくとも、自分が何をしているかは分かり始めている」
涼介はあかねを見る。
「同じことを繰り返せるようになれば、次は一つずつ限界を上げられる」
あかねは真剣に聞いている。
「ブレーキを少し遅らせる。進入速度を少し上げる。アクセルを少し早く開ける」
「一気にじゃなくて?」
「ああ。一つずつだ」
あかねは頷いた。
「分かりました」
啓介が横から口を挟む。
「今度こそちゃんと守れよ」
「分かってます」
「前もそう言ったからな」
「もうしないって」
「ならいい」
涼介が弟を見る。
啓介は当然のようにあかねの横に立っている。
それが最近ではすっかり普通になっていた。
*
その夜。
あかねが休憩していると、少し離れたところから会話が聞こえた。
「なあ」
「ん?」
「最近来てる赤いFC、知ってる?」
「多摩ナンバーの?」
自分のことだ。
あかねは思わずそちらを見る。
男が三人。
知らない顔だった。
「啓介さんが毎週後ろ走ってるやつだろ」
「女だよな?」
「そう」
一人があかねに気づいた。
目が合う。
「あ」
気まずい。
あかねは視線を逸らした。
けれど。
向こうから近づいてきた。
「なあ」
声をかけられる。
あかねは顔を上げた。
「はい?」
「そのFC、あんたの?」
「そうです」
男が赤いFCを見る。
「多摩から毎週来てんの?」
「今は群馬に住んでます」
「ああ、そうなんだ」
もう一人が聞く。
「高橋兄弟と知り合い?」
「知り合い……」
あかねは少し考えた。
何と言えばいいのか分からない。
「走りを教えてもらってます」
三人の表情が変わった。
「マジで?」
「はい」
「涼介さんにも?」
「たまに見てもらってます」
男たちが顔を見合わせる。
あかねには、その反応の意味が分からなかった。
一人が赤いFCを見る。
「じゃあ、結構速いんだ?」
「全然です」
あかねは即答した。
「まだ遅いですよ」
「でも啓介さんが見てんだろ?」
「それと私が速いかどうかは別じゃないですか?」
「まあ、そうだけど」
男は少し笑った。
「一本、一緒に走ってみる?」
「え?」
「俺が後ろ走るから」
あかねは困った。
今まで。
後ろにつくのは啓介か涼介だけだった。
知らない人と走ったことはない。
「……」
断るべきなのか。
でも。
走り屋なら、こういうものなのだろうか。
迷っていると。
「やめとけ」
後ろから声がした。
あかねが振り返る。
啓介だった。
男たちも啓介を見る。
「あ、啓介さん…」
啓介はあかねの隣まで来る。
「こいつはまだバトルできるレベルじゃねえ」
声は普通だった。
怒ってはいない。
ただ、はっきりしている。
男が少し笑う。
「後ろから見るだけですって」
「同じだろ」
「別に煽りませんよ!」
「そういう問題じゃねえ」
啓介が男を見る。
「後ろにつかれりゃ、こいつは意識する」
あかねは何も言わなかった。
図星だった。
涼介が後ろに来ただけでも、速く走ろうとしてしまった。
知らない人なら、もっと気にするかもしれない。
男も少し考えた。
「……まあ、そうか」
それ以上食い下がらなかった。
「悪かったな」
あかねへ軽く手を上げる。
「いえ」
男たちは戻っていった。
二人になる。
あかねが啓介を見る。
「ありがとうございます」
「何が?」
「断ってくれたから」
「別に」
啓介は赤いFCを見る。
「今のお前じゃ、後ろから知らねえ車に詰められたら絶対無理するからな」
「しないかもしれないじゃん」
啓介があかねを見る。
「する」
「なんで断言するの?」
「お前の性格知ってるからだよ」
「……」
言われて。
少しだけ変な感じがした。
『お前の性格知ってるから』
考えてみれば。
出会ってから、まだそれほど長くない。
それなのに。
啓介には、かなり色々知られている。
頑固なこと。
負けず嫌いなこと。
褒められると調子に乗りそうになること。
怖くても無理をしてしまうこと。
逆に。
あかねも啓介のことを少しずつ知っていた。
口が悪い。
すぐ怒る。
車のことになると真剣。
意外と面倒見がいい。
そして。
思っているより、ずっと優しい。
「……何だよ」
啓介が怪訝そうに見る。
「何でもない」
「だったら見るな」
「見てない」
「見てただろ」
「自意識過剰」
「お前な……」
あかねは笑いながら赤いFCへ向かった。
その後ろで。
啓介が小さく息を吐いた。
*
さらに数週間が過ぎた。
赤いFCのペースは、少しずつ上がっていった。
一気には上げない。
昨日よりほんの少し。
その次は、またほんの少し。
失敗すれば戻す。
できるようになったら、また上げる。
そして。
ある夜。
いつものように一本走り終えたあかねが戻ってくる。
赤いFCを停める。
運転席から降りた。
「啓介さん」
黄色いFDから降りてきた啓介を見る。
「今日どうだった?」
最近。
この質問が恒例になっていた。
啓介は缶コーヒーを開けながら答える。
「まあまあ」
あかねが固まる。
「……え?」
「なんだよ」
「今なんて?」
「まあまあ」
「もう一回言って」
「うるせえな」
「だって初めてじゃない?」
「何が」
「啓介さんが私の走りに『まあまあ』って言ったの」
「そうだったか?」
「そうだよ!」
あかねは明らかに嬉しそうだった。
「じゃあ結構よかった?」
「調子乗んな」
「でもまあまあなんでしょ?」
「前よりはな」
「やった」
嬉しそうに笑う。
啓介は缶コーヒーを飲みながら、あかねから視線を逸らした。
本当は。
『まあまあ』より少し上だった。
特に後半。
一ヶ月前とは比較にならない。
怖さを知ったことで、走りに芯ができた。
まだ遅い。
それでも。
追いかけていて、少しだけ面白くなってきた。
「なあ、あかね」
啓介が呼ぶ。
「何?」
「次から俺が前走る」
「え?」
あかねが目を丸くする。
今まではずっと。
あかねが前。
啓介が後ろ。
「どうして?」
「そろそろライン教える」
「今までも教えてくれてたじゃん」
「口で言うのと見るのじゃ違えんだよ」
啓介は黄色いFDを見る。
「俺が前走る。お前は後ろからついてこい」
あかねは少し考える。
そして。
「無理」
「は?」
「啓介さん速すぎるもん」
「誰が本気で走るっつった」
「あ」
「お前のペースに合わせる」
「……できるの?」
「馬鹿にしてんのか?」
「だって啓介さん、すぐ速くなりそう」
「ならねえよ」
「本当に?」
「しつけえな!」
あかねが笑う。
「じゃあお願いします」
「ああ」
少し離れたところ。
白いFCにもたれながら。
涼介がその会話を聞いていた。
啓介が。
自分から前を走ると言った。
今まで弟は、あかねの走りを後ろから見ていただけだった。
それが。
自分の走りを見せる。
自分のラインを教える。
涼介は静かに二人を見る。
「……なるほどな」
小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
*
数分後。
黄色いFDが先頭。
その後ろに。
多摩ナンバーの赤いFC。
あかねはハンドルを握り直した。
「離されないようにしなきゃ……」
黄色いFDのブレーキランプが光る。
あかねもブレーキ。
FDがコーナーへ入る。
「……あ」
今まで自分が走っていた場所と違う。
啓介は。
あえて、ゆっくり走っていた。
あかねが見えるように。
ブレーキの位置。
車を入れる場所。
コーナーの内側へ寄る位置。
立ち上がり。
まるで。
黄色いFDが道の上に一本の線を描いていく。
「ここ……?」
真似をする。
赤いFCが曲がる。
「……!」
今までより楽に曲がった。
次。
また啓介のラインを追う。
「すご……」
さらに次。
少し遅れる。
黄色いFDが離れる。
ところが。
啓介は加速しなかった。
あかねが追いつくのを待つ。
距離が戻る。
また走り始める。
その繰り返し。
あかねはいつの間にか笑っていた。
楽しい。
速く走ることだけじゃない。
分からなかったものが、一つずつ分かる。
できなかったことが、できるようになる。
そして。
前には黄色いFDがいる。
「……追いつきたい」
初めて。
はっきりそう思った。
いつか。
手加減されなくても。
あの黄色いFDの後ろを走れるようになりたい。
*
その夜。
赤城にいた何人かの走り屋が、二台を見送っていた。
「最近あのFC、結構走れるようになってきたよな」
「最初なんてめちゃくちゃ遅かったのにな」
「啓介さんが教えてんだろ?」
「そりゃ速くなるわ」
一人が笑う。
「でもさ」
別の男が言った。
「どこまでが啓介さんのおかげなんだろうな」
「どういう意味だ?」
「いや」
男は山の下へ消えていった赤いFCを見る。
「本人が本当に速いのか、一回見てみたくね?」
まだ。
あかねは知らなかった。
自分がもう。
ただ見物されるだけの初心者ではなくなりつつあることを。
『多摩ナンバーの赤いFC』
その名前が。
少しずつ。
赤城の走り屋たちの興味の対象へ変わり始めていることを。