デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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週末。
午後十一時を少し回った頃。
赤城の麓に、一台の赤いFCが現れた。
多摩ナンバー。
群馬では、それだけで少し目につく。
まして運転しているのは、まだ十八歳の女だ。
木下あかねはそんなことを気にすることもなく、いつものように赤城へ向かっていた。
助手席には車雑誌。
その上には、前回から使っているノート。
ページを開けば、覚えたばかりの車の用語が並んでいる。
ロータリーエンジン。
FR。
ターボ。
アンダーステア。
オーバーステア。
最後の二つについては、意味を読んでもまだよく分かっていない。
「実際に滑ったら分かるのかな……」
そんなことを呟きながら、あかねは山へ入った。
前回来た時とは少し違う。
初めて赤城へ迷い込んだ夜は、カーブが続くこと自体が新鮮だった。
今夜は違う。
ブレーキを踏む。
ハンドルを切る。
車の向きが変わる。
少しずつアクセルを踏む。
――車の動きを意識する。
涼介に言われたことを思い出しながら、一つ一つの操作を確かめる。
けれど。
「……遅い」
当然だった。
意識すればするほど、今までより慎重になる。
後ろから車が来れば、すぐに道を譲る。
速く走る以前の問題だ。
それでも不思議と嫌にはならなかった。
むしろ。
もっと知りたい。
自分の車がどうやって動いているのか。
どうすれば、啓介のように走れるのか。
考えることが増えるほど楽しかった。
*
いつもの場所へ到着すると、すでに何台もの車が集まっていた。
あかねは少し離れた場所へFCを停める。
エンジンを切り、車から降りた。
その瞬間。
何人かの男がこちらを見る。
「……?」
あかねは気づいたものの、それほど気にしなかった。
黄色いFDを探す。
すぐに見つかった。
けれど啓介はいない。
「あれ?」
周囲を見回していると、少し離れたところから声が聞こえた。
「また来たのかよ」
振り返る。
缶コーヒーを片手に持った啓介が立っていた。
「こんばんは」
「おう」
啓介はあかねの後ろへ視線を向けた。
赤いFC。
「一人で上がってきたのか?」
「はい」
「飛ばしてねえだろうな」
「飛ばしてません」
「ならいい」
啓介は缶コーヒーを口へ運ぶ。
あかねは少し笑った。
「なんかお父さんみたい」
啓介が飲みかけた缶を止める。
「……誰がお父さんだ」
「だって毎回、気をつけろとか飛ばすなとか言うから」
「初心者が一人で山上がってくりゃ普通は言うだろ」
「優しいんですね」
「は?」
啓介が露骨に嫌そうな顔をする。
「どこをどう聞いたらそうなんだよ」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ心配してない?」
「してねえ」
「じゃあ飛ばしてきてもよかった?」
「ダメに決まってんだろ!」
あかねが吹き出す。
「やっぱり心配してるじゃん」
「お前な……」
啓介が眉間を押さえた。
あかねは楽しそうに笑っている。
「……ったく」
啓介は呆れたように息を吐いた。
それ以上は言い返さなかった。
「あのさ」
あかねが周囲を見る。
「さっきから、なんか見られてない?」
啓介も周囲へ目を向けた。
何人かがこちらを気にしている。
「そりゃ見るだろ」
「なんで?」
「お前の車」
「FC?」
「ああ」
啓介が赤いFCを指す。
「赤いFCで、多摩ナンバー。乗ってんのは女。それで最近、毎週赤城に来てりゃ目立つ」
あかねは自分の車を見る。
「多摩ナンバーってそんな珍しい?」
「ここ群馬だぞ」
「そうだけど」
「しかも――」
啓介は言いかけてやめた。
「何?」
「いや、別に」
「気になる」
「何でもねえよ」
本当はもう一つある。
高橋兄弟と話している。
それが一番目立つ理由だ。
特に兄の涼介は、赤城では名前を知らない人間の方が少ない。
そんな涼介が、どこの誰かも分からない初心者の女と話している。
目立たない方がおかしい。
ただ、それを本人に説明するのも面倒だった。
「今日は走るんだろ?」
啓介が尋ねる。
「そのために来ました」
「なら準備しろ」
「はい」
あかねがFCへ向かおうとする。
その背中へ啓介が声をかけた。
「あかね」
「ん?」
振り返る。
二人とも一瞬止まった。
啓介が先に眉を寄せた。
「……なんだよ」
「いや」
あかねも少し戸惑う。
今まで啓介は自分を『お前』としか呼ばなかった。
初めて名前で呼ばれた。
「初めて名前で呼ばれたなと思って」
「……そうだったか?」
「うん」
「別に深い意味ねえよ」
「何も言ってないじゃん」
「その顔がうぜえんだよ」
「どんな顔?」
「知らねえ」
啓介は顔を逸らした。
「さっさと準備しろ」
「はいはい」
あかねは少し笑いながらFCへ向かった。
*
今夜も先行はあかね。
後ろを啓介のFDが走る。
前回と同じだ。
ただし今回は、走り出す前に啓介から一つだけ課題を出されていた。
『ブレーキを踏んでから慌ててハンドル切るんじゃなくて、ちゃんと減速を終わらせてから曲がれ』
言葉にすれば簡単だった。
実際にやると難しい。
「ここで……」
ブレーキ。
減速。
離す。
ハンドル。
「……こう?」
コーナーを抜ける。
アクセル。
次。
ブレーキ。
ハンドル。
「あ」
少し速い。
思ったより車が外へ膨らむ。
反射的にアクセルを戻した。
FCが落ち着く。
「怖……」
心臓が少し速くなる。
それでも。
やめたいとは思わなかった。
後ろを走る啓介は、赤いFCの動きをじっと見ていた。
「……」
遅い。
圧倒的に遅い。
ラインもまだ甘い。
ブレーキングも安定していない。
それでも前回より明らかに変わっている。
教えたことを意識している。
一度言ったことを、そのままやろうとしている。
「律儀だな……」
啓介が小さく笑った。
次のコーナー。
赤いFCがブレーキを踏む。
進入。
立ち上がり。
「……ん?」
啓介の表情が変わった。
今のコーナー。
偶然か?
もう一つ。
次。
赤いFCが入っていく。
ブレーキ。
ターンイン。
立ち上がり。
「……」
啓介は少しだけアクセルを踏み足した。
*
二台を停める。
あかねがFCから降りるなり、啓介へ駆け寄った。
「どうでした?」
「近えよ」
「あ、ごめん」
一歩下がる。
「で?」
「何が」
「前より上手くなった?」
期待に満ちた顔。
啓介は少し意地悪をしたくなった。
「全然」
あかねの顔が一気に曇る。
「……そう」
予想以上に落ち込んだ。
啓介が少し焦る。
「いや、全然ってわけじゃ――」
「もっと練習しないとダメか」
あかねはすでにFCを見ている。
「もう一本行ってきます」
「待て待て」
啓介が腕を掴む。
「何?」
「誰が一人で行けっつった」
「でも全然なんでしょ?」
「だから……」
啓介は頭を掻いた。
「前よりはマシだ」
「本当?」
すぐ顔が明るくなる。
「……お前、分かりやすいな」
「何が?」
「何でもねえ」
啓介はFCの方へ顎を向けた。
「ブレーキは前よりいい」
「うん」
「まだ遅いけどな」
「うん」
「あと、コーナー二つくらい、ラインが結構よかった」
「ライン?」
「走る位置だよ」
啓介は道路を指差しながら説明する。
「コーナーに入って、どこ通って、どこから立ち上がるか」
「それがよかったの?」
「ああ」
「やった」
素直に喜ぶ。
「ただし」
啓介の声が真面目になる。
「自分で狙ったのか?」
あかねは首を傾げた。
「何を?」
「……だよな」
「何?」
「いや」
啓介は考える。
狙ったわけではない。
つまり偶然。
普通ならそれで終わる。
けれど。
二つ続いた。
偶然にしては妙だった。
「もう一本行くぞ」
「え?」
「確認したい」
「何を?」
「いいから乗れ」
「教えてよ」
「走ったらな」
啓介はFDへ向かった。
*
二本目。
今度は啓介から別の指示が出た。
『俺のことは気にしなくていい。自分が曲がりやすいと思う場所を走れ』
それだけ。
あかねには意味が分からなかった。
「曲がりやすい場所って……」
とりあえず走る。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
速く走ろうとしない。
怖いと思ったら減速する。
ただ。
車が自然に曲がってくれる場所を探す。
「あ……」
なんとなく分かる。
さっきより少し内側。
ここ。
ハンドルを切る。
FCが素直に向きを変える。
「……気持ちいい」
次。
ここは違う。
もう少し先。
ブレーキ。
車の向きが変わる。
アクセル。
「ふふっ」
少し楽しい。
怖さはある。
それ以上に、自分と車の動きが噛み合った瞬間が気持ちいい。
後ろのFD。
啓介はもう笑っていなかった。
「……マジかよ」
遅い。
まだ、とんでもなく遅い。
けれど。
ライン取りが明らかに変わった。
教えていない。
セオリーも知らない。
なのに、自分が曲がりやすい場所を探させただけで、少しずつ理想に近づいていく。
完璧ではない。
むしろバラバラだ。
それでも。
「こいつ……」
何か持っている。
そんな気がした。
*
元の場所へ戻ると、白いFCが停まっていた。
「あ」
あかねが車から降りる。
「涼介さん」
涼介がこちらを見る。
「こんばんは」
「こんばんは。いつ来たんですか?」
「少し前だ」
そこへ啓介も戻ってくる。
「兄貴」
「走りを見ていたのか?」
「ああ」
涼介が弟を見る。
「どうだった?」
「……」
啓介はすぐに答えなかった。
あかねが不思議そうに二人を見る。
「何?」
「お前はちょっと向こう行ってろ」
啓介が言う。
「なんで?」
「いいから」
「私の話でしょ?」
「……」
「じゃあ私も聞く」
啓介がため息をついた。
「ほんっと頑固だな」
「知ってます」
涼介が僅かに笑う。
「それで?」
涼介が改めて弟へ尋ねた。
啓介は赤いFCを見る。
「まだ遅えよ」
「うん」
「ブレーキも甘いし、アクセルも雑だ」
「うん」
「ただ……」
啓介が少し間を置いた。
「ライン取りが妙なんだよ」
あかねが首を傾げる。
「悪いってこと?」
「逆だ」
「え?」
「たまに妙にいいライン通る」
あかねは目を丸くした。
「私が?」
「ああ」
啓介は涼介を見る。
「二本目は何も教えずに、曲がりやすいと思うとこ走らせた」
涼介の表情が少し変わる。
「それで?」
「一本目よりよくなった」
涼介は黙った。
その視線が赤いFCへ向く。
次にあかねへ。
「運転経験は?」
「普通に運転するくらいです」
「東京でも?」
「たまにお父さんの車借りるくらいでした」
「カートやモータースポーツの経験は?」
「ないです」
「本当に?」
「ないですよ」
あかねは少し笑った。
「私、この前まで走り屋も知らなかったんですよ?」
「そうだったな」
涼介が小さく笑う。
その横で啓介が腕を組む。
「兄貴、どう思う?」
涼介はすぐには答えなかった。
少し考えてから、あかねを見る。
「次に来た時、俺も後ろから見てみよう」
「え?」
あかねの顔が明るくなる。
「三ヶ月後じゃなかったんですか?」
「ああ。そのつもりだった」
「じゃあ何で?」
「少し気になることができた」
「気になること?」
「走りを見れば分かる」
あかねは嬉しそうに頷いた。
「分かりました」
その横で。
啓介は何も言わなかった。
「……」
自分から兄に意見を聞いた。
兄に見てもらった方がいいとも思った。
なのに。
『次に来た時、俺も後ろから見てみよう』
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に小さな引っかかりを感じた。
何なのかは分からない。
あかねが涼介を見て嬉しそうにしているからなのか。
兄があかねに興味を持ったからなのか。
それとも――
自分が最初に見つけたものを、兄に取られるような感覚なのか。
「啓介さん?」
あかねに呼ばれる。
「……あ?」
「どうしたの?」
「別に」
「またそれ」
「何が」
「啓介さん、何かあるとすぐ『別に』って言う」
「うるせえな」
「ほら、怒った」
「怒ってねえ!」
いつもの言い合い。
涼介はその様子を黙って見ていた。
*
それから、さらに二週間。
週末になると。
赤いFCは必ず赤城へ現れた。
雨の日以外。
同じ時間。
多摩ナンバー。
最初は物珍しそうに見ていた連中も、次第にその存在に慣れていった。
「あ、また来たぜ」
「多摩のFC」
「今日も啓介さんと走るんじゃねえ?」
そんな声が聞こえるようになった。
あかね本人は知らない。
いつの間にか。
『多摩ナンバーの赤いFC』
それだけで、誰の車か通じるようになり始めていた。
走りも少しずつ変わった。
劇的に速くなったわけではない。
まだまだ遅い。
啓介には毎回怒られる。
「ブレーキ遅え!」
「今のアクセル雑すぎんだろ!」
「ハンドルで無理やり曲げんな!」
「分かってます!」
「分かってねえから言ってんだよ!」
「うるさい!」
「教えてやってんだろうが!」
喧嘩して。
また走る。
戻ってきて。
また言い合う。
それでも次の週末になれば、あかねは来た。
啓介も。
口では文句を言いながら、黄色いFDで後ろについた。
そして――
三週目の夜。
「今日は俺が見る」
涼介がそう言った。
あかねは少し緊張した。
「後ろから?」
「ああ」
「啓介さんは?」
「俺も行く」
啓介が当然のように答える。
涼介が弟を見る。
「二台も必要ないだろう」
「別にいいだろ」
「構わないが」
あかねは二人を見比べる。
「じゃあ私、先頭?」
「ああ」
涼介が頷いた。
「普段通り走ればいい」
「……分かりました」
赤いFCへ乗り込む。
エンジンをかける。
バックミラーを見る。
白いFC。
その後ろに黄色いFD。
「……緊張する」
高橋兄弟を後ろに従えて走る。
今のあかねには、それがどれほど目立つ光景なのか分かっていなかった。
周囲にいた走り屋たちは、三台が出ていくのを見送っていた。
一人の男が呟く。
「なんなんだ、あの女」
別の男が答える。
「知らねえよ」
「高橋兄弟が二人とも見るって……」
「しかも、まだド素人だろ?」
「多摩ナンバーの赤いFC……」
三台のテールランプが闇へ消えていく。
*
先頭。
あかねは深く息を吐いた。
「普段通り……」
ブレーキ。
ターンイン。
アクセル。
一つ。
二つ。
三つ。
後ろの白いFCは、一定の距離を保っている。
そのさらに後ろに黄色いFD。
涼介は無言だった。
赤いFCの動きを一つも見逃さないように追う。
ブレーキング。
ステアリング。
アクセル。
ライン。
一つのコーナー。
次。
さらに次。
そして。
ある中速コーナー。
あかねがブレーキを踏む。
車速を落とす。
ステアリング。
クリッピングポイント。
立ち上がり。
涼介の目が僅かに細くなった。
「……」
次のコーナー。
また。
その次。
今度は少し外す。
まだ安定していない。
しかし――
偶然ではない。
さらに数コーナー。
涼介は確信した。
後ろの黄色いFD。
啓介も兄のFCを追いながら、赤いFCを見る。
「兄貴も気づいたか……」
*
走り終える。
三台が停車した。
あかねは車を降りた。
「どうでした?」
真っ先に涼介を見る。
涼介はすぐには答えない。
赤いFCを見ている。
あかねが少し不安になる。
「……そんなにダメでした?」
「いや」
涼介があかねを見る。
「逆だ」
「え?」
啓介が腕を組んだ。
「だから言っただろ、兄貴」
「ああ」
涼介は弟へ頷く。
そして再び、あかねを見る。
「面白いな」
「何がですか?」
「君の走りだ」
「私?」
「ああ」
涼介が静かに続ける。
「まだ技術はない」
「……はい」
「知識もない」
「はい……」
「経験も圧倒的に足りない」
「そんなに言わなくても……」
あかねが少し落ち込む。
啓介が横で笑った。
「事実だろ」
「啓介さんは黙ってて」
「はいはい」
涼介は続ける。
「ただし、感覚がいい」
あかねが顔を上げる。
「感覚?」
「車が曲がりやすい場所を見つける感覚だ」
「……」
「普通は経験を積んで覚える。それを君は、まだ不完全とはいえ感覚だけで探している」
あかね自身には分からない。
「それって……」
少し迷ってから尋ねる。
「才能があるってことですか?」
啓介が吹き出した。
「自分で聞くか、普通」
「だって気になるじゃん!」
「そこで女みてえな顔すんなよ」
「乙女だもん!」
「自分で言うな!」
「十八歳の女の子なんだから乙女でしょ!」
「知らねえよ!」
涼介が二人を見ながら、小さく笑った。
やがて。
「才能があるかどうかを判断するには早い」
涼介の声に、あかねと啓介が黙る。
「だが――」
涼介は赤いFCを見る。
「少なくとも、伸びる可能性はある」
あかねの目が輝く。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあもっと練習します」
即答。
涼介の口元が僅かに上がる。
「そう言うと思った」
啓介が横から口を挟む。
「ただし調子乗んなよ」
「乗りません」
「才能あるとか言われた次の日に事故る奴なんて腐るほどいるからな」
「分かってます」
「本当か?」
「分かってるってば」
また始まる。
その二人を見ながら、涼介は何も言わなかった。
ただ。
一つだけ。
少し興味が湧いていた。
この少女は、どこまで速くなるのか。
今はまだ。
赤城へ迷い込んできただけの初心者。
多摩ナンバーの赤いFC。
それだけだ。
だが。
もし、この感覚に技術が追いついたら。
もし、経験を積んだら。
もし――
怖さを知っても、それでもアクセルを踏むことを選べたら。
面白いドライバーになるかもしれない。
涼介はそう考えていた。
そして啓介は。
兄があかねの走りを見つめていることが――
なぜか少しだけ、気に入らなかった。