デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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それから数日。
大学から帰ってきたあかねは、自宅近くの本屋で買った車雑誌を床に広げていた。
その隣にはノート。
「……全然分かんない」
ロータリーエンジン。
FR。
ターボ。
トルク。
サスペンション。
知らない言葉ばかりだ。
『まずは自分の車を知ることだ』
赤城で涼介に言われた言葉が頭に残っていた。
「自分の車を知る、か……」
あかねは雑誌のページをめくる。
しばらく探していると、見覚えのある車が載っていた。
「あった」
RX-7。
FC3S。
自分の車と同じ名前だ。
文章を読む。
一度読む。
分からない。
もう一度読む。
やっぱり分からない。
「ロータリーって何……」
それでもノートに書いた。
分からない言葉を一つずつ。
『ロータリーエンジン』
『FR』
『ターボ』
知識なんて昨日までゼロだった。
なら、一つずつ覚えるしかない。
*
その週末。
赤城。
赤いFCが再び山を登ってきた。
今度は偶然ではない。
道路地図で道を確認して、最初からここを目指してきた。
前回と同じ場所。
何台もの車が停まっている。
その中に黄色いFDを見つけた。
「あ、いた」
あかねは少し離れた場所へFCを停める。
車を降り、黄色いFDへ向かった。
啓介は仲間と話していた。
あかねに気づき、眉を寄せる。
「……お前」
「こんばんは」
あかねが笑顔で挨拶する。
啓介は少し呆れたような顔をした。
「また来たのかよ」
「来ました」
「本当に走るつもりなのか?」
「そのつもりです」
即答だった。
啓介はあかねの手元を見る。
車雑誌とノートを持っている。
「……なんだ、それ」
「勉強してきました」
「勉強?」
「私のFC、ロータリーエンジンなんですよね」
啓介が黙る。
「あとFRで、ターボで――」
「待て待て」
啓介が顔を逸らした。
肩が少し揺れている。
あかねの眉が寄る。
「……笑ってます?」
「笑ってねえよ」
「絶対笑ってる」
「いや……」
啓介が堪えきれずに吹き出す。
「お前、そんなもんノートに書いてきたのかよ」
「悪いですか?」
「悪くはねえけどよ」
「もういいです」
あかねが踵を返す。
「おい、待てって」
啓介が呼び止める。
あかねは振り返らない。
「笑う人には聞きません」
「分かった。悪かったって」
その時。
後ろから聞き覚えのある声がした。
「何を騒いでいるんだ、啓介」
あかねが振り返る。
白いFCのそばに涼介が立っていた。
「涼介さん」
あかねが声をかけると、涼介がこちらへ歩いてくる。
「こんばんは」
「こんばんは」
涼介の視線が、あかねの持っているノートへ向いた。
「勉強してきたのか?」
「はい。でも全然分からなくて」
「最初から全部理解する必要はない」
涼介がそう言うと、あかねはすぐ啓介を見る。
「ほら。涼介さんは笑わない」
啓介が眉を寄せる。
「兄貴と俺を比べんなよ」
「だって啓介さん笑ったじゃん」
「悪かったって言っただろ」
二人のやり取りを見ながら、涼介が僅かに笑う。
「FCを見てもいいか?」
涼介が尋ねる。
「もちろんです」
三人で赤いFCへ向かった。
涼介は車体を一通り確認する。
タイヤ。
車高。
足回り。
運転席。
ボンネットの中。
啓介も横から覗き込んだ。
「ほとんどノーマルだな」
啓介が言う。
あかねは啓介を見る。
「ノーマルって?」
「ほとんど改造してねえってことだよ」
「ああ」
あかねが納得すると、涼介がボンネットを閉じた。
「今はこのままでいいだろう」
「速くするために何か変えなくていいんですか?」
あかねが尋ねる。
涼介は首を横に振る。
「車を速くするのは後でいい」
「じゃあ何をすれば?」
「まずは普通に走ることだ」
「普通に?」
「ああ」
涼介は運転席を指す。
「アクセルを踏めば車がどう動くか。ブレーキを踏めば荷重がどう変わるか。ハンドルを切った時に車体がどう動くか」
あかねは真剣に聞く。
「今まで無意識にやっていた操作を、意識してやってみるといい」
「なるほど……」
横で聞いていた啓介が口を挟む。
「兄貴。本当にこいつに教えるつもりなのか?」
涼介が弟を見る。
「まだ教えているというほどのことはしていない」
「そうだけどよ……」
啓介は何となく納得していない様子だった。
涼介はそんな弟から視線を外し、あかねを見る。
「少し走ってみるか?」
あかねの顔が明るくなる。
「いいんですか?」
「ああ。ただし、速く走ろうとしなくていい」
「はい」
「俺が後ろから見る」
その言葉に啓介が反応した。
「兄貴が見るのか?」
「ああ」
啓介は少し黙った後、言った。
「だったら俺が行く」
あかねが啓介を見る。
「啓介さんが?」
「なんだよ」
「さっき私のこと笑ってたのに」
「それとこれは別だろ」
「ちゃんと教えてくれるんですか?」
「お前……」
啓介の眉間に皺が寄る。
「教えてやるって言ってんだから黙って乗れ」
「また怒った」
「怒ってねえ!」
涼介が小さく息を吐いた。
「啓介に任せよう」
「兄貴」
「お前の方が向いているかもしれない」
「……何が?」
涼介は答えず、あかねを見る。
「行ってこい」
「はい」
あかねは赤いFCへ乗り込んだ。
*
赤いFCが先行する。
その後ろを黄色いFDが一定の距離で追う。
あかねはいつもより慎重にハンドルを握っていた。
速く走る必要はない。
涼介に言われた通り、車の動きを意識する。
ブレーキ。
ハンドル。
アクセル。
一つ目のコーナー。
次のコーナー。
さらに次。
今までなら何となく操作していた。
今日は違う。
「……難しい」
後ろのFDは追いついてこない。
本気を出せば一瞬で距離を詰められるはずなのに。
一定の距離を保っている。
啓介が見ている。
そう思うと余計に緊張した。
しばらく走ったところで二台を停める。
あかねが車から降りた。
啓介もFDから降りてくる。
「どうでした?」
あかねが尋ねる。
啓介は少し考えるように赤いFCを見る。
そして。
「下手だな」
「……」
あかねの顔が固まった。
「もうちょっと言い方ないんですか?」
「ねえな」
「最悪」
啓介が笑う。
「でも、思ってたよりはマシだった」
あかねがすぐ顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「どこが?」
「ハンドルだ」
啓介は自分の両手を使って説明する。
「初心者は怖くなるとコーナーの途中で余計に切り足したり、戻したりする。お前はそれが少ない」
「……そうなんだ」
自覚はない。
啓介が続ける。
「ただしブレーキは遅え。アクセルも雑。ラインもめちゃくちゃだ」
「いっぱいあるじゃん」
「だから下手だっつってんだろ」
「じゃあ練習します」
あかねは即答した。
啓介が少し目を細める。
「……本当にやる気なんだな」
「最初からそう言ってます」
「そうだったな」
あかねは赤いFCを見る。
「また練習しに来ます」
啓介があかねを見る。
「また来んのか?」
「はい」
「一人で走るつもりか?」
「啓介さんがいなかったら」
啓介の表情が変わった。
「やめとけ」
「でも練習しないと上手くならないでしょ?」
「そういう意味じゃねえ」
啓介の声が真面目になる。
「夜の峠を初心者が一人で練習すんのは危ねえって言ってんだ」
「じゃあ、どうすればいいですか?」
「……」
啓介が黙る。
あかねは返事を待つ。
しばらくして。
「週末なら大体いる」
「啓介さんが?」
「ああ」
「じゃあ週末に来ます」
「即決かよ」
「だって今、来ていいって言ったじゃん」
「そこまでは言ってねえ」
「同じでしょ」
「全然違えよ」
あかねが笑う。
啓介も呆れたように息を吐いた。
*
二台で元の場所へ戻る。
涼介が白いFCのそばで待っていた。
赤いFCから降りたあかねへ、涼介が尋ねる。
「どうだった?」
「難しかったです」
あかねが答える。
その横から啓介が口を挟む。
「下手だったぜ」
「啓介さん!」
「事実だろ」
涼介が弟を見る。
「それだけか?」
「……まあ」
啓介は少し考える。
「ハンドルの使い方は悪くねえ。変な癖も今のところない」
涼介の目が僅かに細くなる。
「そうか」
今度はあかねを見る。
「楽しかったか?」
「はい」
あかねは迷わず答えた。
「もっと上手くなりたいです」
「そうか」
涼介はそれ以上何も言わず、赤いFCを見る。
何かを考えているようだった。
あかねが尋ねる。
「私、また来てもいいですか?」
涼介があかねへ視線を戻す。
「それは俺に許可を取ることじゃないだろう」
「それもそうですね」
「ただ」
涼介が続ける。
「本気で続けるつもりなら、焦らないことだ」
「はい」
「三ヶ月続けて、それでもまだ速くなりたいと思っているなら――」
涼介は少し間を置いた。
「その時は俺も走りを見よう」
あかねの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「約束ですよ」
涼介が僅かに笑う。
「分かった。約束しよう」
その横で啓介は黙って二人を見ていた。
兄が誰かの走りを見ること自体は珍しくない。
素質のある人間なら助言もする。
だから。
別におかしなことではない。
それなのに。
なぜか少しだけ面白くなかった。
帰る時間になった。
あかねは自分のFCのドアを開けたところで振り返った。
「そうだ、啓介さん」
「なんだ?」
「携帯持ってます?」
「ああ」
「番号教えてください」
啓介が一瞬黙った。
「……俺の?」
「週末に来ても、啓介さんがいるか分からないじゃないですか」
「ああ……まあな」
あかねはバッグから携帯電話を取り出した。
「お願いします」
啓介が自分の番号を読み上げる。
あかねは一つずつ入力した。
「できた」
そのまま涼介を見る。
「涼介さんも教えてもらっていいですか?」
啓介がすぐ反応した。
「なんで兄貴のまで必要なんだよ」
あかねが不思議そうに啓介を見る。
「三ヶ月後に走り見てくれるって言ってたじゃん」
「三ヶ月後だろ」
「別に番号くらいいいでしょ」
「だから何で――」
「啓介」
涼介が静かに止めた。
「別に構わない」
「兄貴……」
涼介も番号を伝える。
あかねは携帯へ登録した。
画面に二つの名前が並ぶ。
『高橋啓介』
『高橋涼介』
「ありがとうございます」
あかねは携帯をバッグへしまう。
「じゃあ、また来ます」
啓介が呆れたように言う。
「本当に来んだろうな、お前は」
「もちろん」
「帰り飛ばすなよ」
「分かってます」
あかねは運転席へ乗り込んだ。
エンジンをかける。
窓を開けて二人へ手を振った。
「おやすみなさい!」
「気をつけて帰れよ」
啓介が返す。
涼介も軽く片手を上げた。
「おやすみ」
赤いFCがゆっくりと走り出す。
やがてテールランプが見えなくなった。
啓介は腕を組んだまま、その方向を見ていた。
「……変な女だな」
隣の涼介が答える。
「そうだな」
「兄貴」
「なんだ?」
「あいつ、本当に三ヶ月続くと思うか?」
涼介は少し考えてから答えた。
「続くだろうな」
啓介が兄を見る。
「なんで分かる?」
「根拠はない」
涼介は白いFCへ視線を向けた。
「ただ、簡単にやめる人間には見えない」
「……」
啓介はもう一度、赤いFCが消えた道を見る。
「まあ……それは俺も思うけどよ」
その頃。
あかねは一人、赤城を下っていた。
助手席には車雑誌と、文字でいっぱいになったノート。
バッグの中の携帯には、新しく二人の番号が入っている。
高橋啓介。
高橋涼介。
まだ、その名前を見ても特別な感情なんてない。
ただ。
群馬へ来てから初めてだった。
明日が少し楽しみだと思えたのは。
そして。
早く次の週末になればいい。
そう思ったのも。
赤いFCのエンジン音を聞きながら、あかねは少しだけアクセルを踏み込んだ。