デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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白いFCが赤城を離れていく。
助手席に座るあかねは、流れていく景色を眺めていた。
昼間の道。
夜とはまるで違う。
そして。
同じFCなのに。
自分の赤いFCとも違う。
「……静か」
思わず口から出た。
涼介が前を向いたまま尋ねる。
「何がだ?」
「涼介さんの運転」
「そうか?」
「うん」
あかねは運転席を見る。
「啓介さんと全然違う」
「啓介の運転はうるさいのか?」
「車じゃなくて」
「本人が?」
「それもあるかも」
涼介が僅かに笑った。
「本人には言うなよ」
「もう言ってるから大丈夫です」
「そうか」
「でも、運転も違う」
あかねは少し考える。
「啓介さんの助手席に乗ってると、なんか……」
言葉を探す。
「走ってるって感じがする」
「俺は?」
「涼介さんは……」
また考える。
「気づいたら進んでる感じ」
「ずいぶん曖昧だな」
「上手く言えないんだもん」
「いや」
涼介は前を見る。
「感覚としては間違っていない」
「本当?」
「ああ」
あかねは少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ私、車のこと分かるようになってきた?」
「最初に会った頃よりはな」
「最初はFCも知らなかったもんね」
「そうだったな」
「今考えると恥ずかしい」
「なぜ?」
「RX-7買っておいてFCって何ですかって」
「知らなかったんだから仕方ないだろう」
「啓介さん、すごい顔してた」
「覚えている」
「涼介さんも呆れてた?」
「少し驚きはした」
「やっぱり」
「ただ」
涼介が続ける。
「それ以上に、なぜ君が一人であそこにいるのかが気になった」
「赤城?」
「ああ」
「私も今なら分かる」
あかねは笑った。
「夜中に多摩ナンバーの赤いFCで女の子一人って、ちょっと変だよね」
「かなりな」
「そんなにはっきり言う?」
「事実だろう」
「涼介さん、たまに啓介さんみたいなこと言うよね」
「それは心外だな」
「ひどい」
二人で笑う。
そして。
少しの沈黙。
あかねは窓の外を見る。
不思議だった。
涼介と二人きりになると緊張する。
でも。
話し始めてしまえば。
思っていたよりずっと楽しい。
*
信号。
白いFCが停まる。
あかねは何となく運転席を見る。
涼介の手。
ハンドル。
横顔。
「……」
昨夜。
腕を掴まれたことを思い出す。
廊下の角。
近かった距離。
『危ない』
思い出した瞬間。
あかねは窓の方へ顔を向けた。
「暑いのか?」
「え?」
「顔が赤い」
「……暑い」
「そうか?」
涼介が空調へ手を伸ばす。
「待って、大丈夫!」
思わずその手を止めようとして。
あかねも手を伸ばす。
指先が触れた。
「……」
二人とも止まった。
ほんの一瞬。
ただ。
指が触れただけ。
それなのに。
あかねは反射的に手を引いた。
「ご、ごめんなさい」
「いや」
涼介も手を戻す。
信号はまだ赤。
妙な沈黙。
あかねは窓の外を見る。
涼介は前を見る。
「……」
早く青になって。
そう思っているのは。
多分。
あかねだけではなかった。
信号が変わる。
白いFCが発進した。
*
しばらく走った後。
涼介が口を開いた。
「修理代のことだが」
一気に現実へ戻される。
「……はい」
「金額が出るまでは何とも言えないが、今後も走るなら考えておいた方がいい」
「維持費?」
「ああ」
「やっぱりバイト増やした方がいいかな」
「それは君が決めることだ。ただ、大学生活を犠牲にしてまで走る必要はない」
「でも走りたい」
即答だった。
涼介が横目であかねを見る。
「そうか」
「うん」
「なら、なおさら無理はするな」
「お金のこと?」
「それもある」
涼介は少し間を置く。
「車も、時間も、金も必要になる。続けることの方が難しい」
あかねは黙って聞く。
「速くなりたいという気持ちだけでは、いずれ続かなくなる」
「……」
「君はまだ大学生だ。走ることだけが生活ではない」
「分かってます」
「本当に?」
「……多分」
涼介が僅かに笑う。
「多分か」
「だって」
あかねは膝の上の手を見る。
「今、楽しいんです」
「走ることが?」
「それも」
「それも?」
聞かれて。
あかねが止まる。
赤城へ行く。
FCを走らせる。
昨日より上手くなる。
楽しい。
でも。
それだけじゃない。
レッドサンズのみんなと話すこと。
啓介と言い合うこと。
涼介に走りを見てもらうこと。
週末になれば。
自然と。
会える。
「……みんなに会うのも」
涼介の視線が一瞬だけあかねへ向く。
「レッドサンズか」
「うん」
少し考えて。
「啓介さんとか、涼介さんとか」
名前を出した。
涼介は前を向いたまま。
「そうか」
それだけ。
でも。
ほんの少し。
声が柔らかかった。
*
やがて。
あかねの住む辺りまで来た。
「この先です」
「ああ」
「次、右」
「分かった」
自宅が近づく。
さっきまで何とも思わなかったのに。
急に。
少し惜しい。
もう着く。
「……」
あかねは窓の外を見る。
「そこです」
白いFCが停まる。
エンジン音だけが残る。
「ありがとうございました」
「ああ」
シートベルトを外す。
それでも。
すぐにはドアを開けなかった。
涼介が見る。
「どうした?」
「……」
あかねは少し迷って。
「昨日から、本当にありがとうございました」
「気にする必要はない」
「泊めてもらって、送ってもらって」
「車が動かなかったんだ。仕方ないだろう」
「でも」
あかねが涼介を見る。
「楽しかったです」
涼介が黙る。
「……そうか」
「はい」
「それならよかった」
目が合う。
昼間。
車内。
昨夜の暗い赤城とは違う。
顔がはっきり見える。
あかねは。
また思ってしまう。
――やっぱり、格好いい。
そして。
そう思ったこと自体が恥ずかしくなって。
先に目を逸らした。
「じゃ、じゃあ帰ります」
「ああ」
慌ててドアへ手をかける。
「あかね」
「……はい?」
振り返る。
涼介が。
こちらを見ていた。
「修理の連絡が来たら、俺にも教えてくれ」
「涼介さんに?」
「ああ」
「なんで?」
「故障の原因が気になる」
「ああ……」
車。
やっぱり。
そういうことか。
「分かりました」
少しだけ。
自分でも理由の分からない拍子抜け。
すると。
「それと」
「?」
涼介が続ける。
「君が困っていないかも気になる」
「……」
あかねが止まった。
涼介自身も。
言ってから。
ほんの一瞬。
黙った。
「……だから、連絡してくれ」
「あ……はい」
「じゃあな」
「……はい。ありがとうございました」
あかねはFCを降りた。
ドアを閉める。
白いFCが走り去る。
見えなくなるまで。
その場に立っていた。
「……何それ」
小さく呟く。
『君が困っていないかも気になる』
また。
残る。
涼介の言葉は。
いつも。
後から効いてくる。
*
白いFC。
一人になった車内。
涼介は前を見ていた。
「……」
先ほどの言葉。
故障の原因が気になる。
そこまでは。
間違いなく本心だった。
しかし。
その後。
『君が困っていないかも気になる』
なぜ。
わざわざ付け加えた。
答えは。
もう。
それほど難しくなかった。
あかねだからだ。
他の人間なら。
ここまで気にしない。
走りを見ているから。
初心者だから。
啓介が教えているから。
理由ならいくらでも作れる。
だが。
それだけでは説明できないところまで来ている。
「……」
涼介は。
小さく息を吐いた。
自覚したからといって。
すぐに何かをするつもりはない。
まして。
相手はまだ十八歳。
弟とも親しい。
慎重になる理由はいくらでもある。
ただ。
一つだけ。
認める。
木下あかねを。
ドライバーとしてだけではなく。
一人の女性として。
意識し始めている。
それだけだった。
*
その頃。
あかねは自宅へ入った。
バッグを置く。
ベッドへ倒れ込む。
「疲れた……」
濃すぎる一日だった。
FC故障。
高橋家。
啓介の服。
夜中の涼介。
朝の啓介。
父親への電話。
そして。
白いFCの助手席。
「……」
ふと。
思い出す。
指先。
触れただけ。
なのに。
また心臓が少し速くなる。
「やめよ」
枕へ顔を埋める。
すると。
別のことを思い出した。
今朝。
『別に変わんねえじゃん』
寝起きの自分を見た啓介。
『まあ、似合ってんじゃねえの』
髪を巻いて赤城へ行った夜。
「……」
枕から顔を上げる。
今度は啓介。
次は涼介。
また啓介。
「……何なの」
自分でも分からない。
二人とも。
全然違う。
啓介といると。
楽しい。
遠慮がない。
何を言われても言い返せる。
気づけば笑っている。
涼介といると。
緊張する。
何でもない言葉に。
いちいち心臓が反応する。
どちらが何なのか。
まだ。
分からなかった。
*
一方。
高橋家。
黄色いFDが戻ってきた。
啓介が家へ入る。
リビングには誰もいない。
「……」
何となく。
静かだった。
昨日まで。
それが普通だったはずなのに。
テーブルを見る。
朝。
あかねが座っていた場所。
廊下。
寝起きのあかねと鉢合わせた場所。
客間。
昨日。
自分の服を渡した。
「……」
たった一晩。
それだけなのに。
いなくなると。
妙に静かに感じる。
「何考えてんだ、俺」
自分で呆れる。
そこへ。
玄関の音。
涼介が帰ってきた。
啓介が振り返る。
「兄貴」
「ああ」
「送ってきたのか?」
「今帰ってきたんだから、そうだろう」
「……」
啓介は黙る。
聞きたい。
車の中で何を話した。
あかねはどうしてた。
でも。
そんなことを聞けば。
自分が気にしていると認めるようなものだった。
「啓介」
「何だよ」
「どうした?」
「別に」
また。
その言葉。
涼介は弟を見る。
そして。
何も言わずに横を通り過ぎる。
「兄貴」
涼介が足を止める。
「……」
啓介は少し迷って。
「いや」
また。
やめた。
「何でもねえ」
「そうか」
涼介は二階へ向かう。
啓介はその背中を見る。
兄貴。
尊敬している。
走りでも。
頭でも。
自分が追いかけ続けてきた相手。
だから。
今まで。
兄貴と同じものを欲しいと思った時。
譲ることに疑問なんてなかった。
兄貴の方が上。
それでいい。
ずっと。
そうだった。
でも。
もし。
あかねまで。
兄貴の方を見るようになったら。
「……」
胸の奥。
嫌な感覚。
啓介は。
初めて。
その感情から目を逸らさなかった。
「……それは、嫌だ」
誰にも聞こえない声。
その言葉を口にした瞬間。
自分でも。
驚くほど。
はっきりしていた。
ただ。
それが恋だと認めるには。
まだ。
少しだけ時間が必要だった。
助手席に座るあかねは、流れていく景色を眺めていた。
昼間の道。
夜とはまるで違う。
そして。
同じFCなのに。
自分の赤いFCとも違う。
「……静か」
思わず口から出た。
涼介が前を向いたまま尋ねる。
「何がだ?」
「涼介さんの運転」
「そうか?」
「うん」
あかねは運転席を見る。
「啓介さんと全然違う」
「啓介の運転はうるさいのか?」
「車じゃなくて」
「本人が?」
「それもあるかも」
涼介が僅かに笑った。
「本人には言うなよ」
「もう言ってるから大丈夫です」
「そうか」
「でも、運転も違う」
あかねは少し考える。
「啓介さんの助手席に乗ってると、なんか……」
言葉を探す。
「走ってるって感じがする」
「俺は?」
「涼介さんは……」
また考える。
「気づいたら進んでる感じ」
「ずいぶん曖昧だな」
「上手く言えないんだもん」
「いや」
涼介は前を見る。
「感覚としては間違っていない」
「本当?」
「ああ」
あかねは少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ私、車のこと分かるようになってきた?」
「最初に会った頃よりはな」
「最初はFCも知らなかったもんね」
「そうだったな」
「今考えると恥ずかしい」
「なぜ?」
「RX-7買っておいてFCって何ですかって」
「知らなかったんだから仕方ないだろう」
「啓介さん、すごい顔してた」
「覚えている」
「涼介さんも呆れてた?」
「少し驚きはした」
「やっぱり」
「ただ」
涼介が続ける。
「それ以上に、なぜ君が一人であそこにいるのかが気になった」
「赤城?」
「ああ」
「私も今なら分かる」
あかねは笑った。
「夜中に多摩ナンバーの赤いFCで女の子一人って、ちょっと変だよね」
「かなりな」
「そんなにはっきり言う?」
「事実だろう」
「涼介さん、たまに啓介さんみたいなこと言うよね」
「それは心外だな」
「ひどい」
二人で笑う。
そして。
少しの沈黙。
あかねは窓の外を見る。
不思議だった。
涼介と二人きりになると緊張する。
でも。
話し始めてしまえば。
思っていたよりずっと楽しい。
*
信号。
白いFCが停まる。
あかねは何となく運転席を見る。
涼介の手。
ハンドル。
横顔。
「……」
昨夜。
腕を掴まれたことを思い出す。
廊下の角。
近かった距離。
『危ない』
思い出した瞬間。
あかねは窓の方へ顔を向けた。
「暑いのか?」
「え?」
「顔が赤い」
「……暑い」
「そうか?」
涼介が空調へ手を伸ばす。
「待って、大丈夫!」
思わずその手を止めようとして。
あかねも手を伸ばす。
指先が触れた。
「……」
二人とも止まった。
ほんの一瞬。
ただ。
指が触れただけ。
それなのに。
あかねは反射的に手を引いた。
「ご、ごめんなさい」
「いや」
涼介も手を戻す。
信号はまだ赤。
妙な沈黙。
あかねは窓の外を見る。
涼介は前を見る。
「……」
早く青になって。
そう思っているのは。
多分。
あかねだけではなかった。
信号が変わる。
白いFCが発進した。
*
しばらく走った後。
涼介が口を開いた。
「修理代のことだが」
一気に現実へ戻される。
「……はい」
「金額が出るまでは何とも言えないが、今後も走るなら考えておいた方がいい」
「維持費?」
「ああ」
「やっぱりバイト増やした方がいいかな」
「それは君が決めることだ。ただ、大学生活を犠牲にしてまで走る必要はない」
「でも走りたい」
即答だった。
涼介が横目であかねを見る。
「そうか」
「うん」
「なら、なおさら無理はするな」
「お金のこと?」
「それもある」
涼介は少し間を置く。
「車も、時間も、金も必要になる。続けることの方が難しい」
あかねは黙って聞く。
「速くなりたいという気持ちだけでは、いずれ続かなくなる」
「……」
「君はまだ大学生だ。走ることだけが生活ではない」
「分かってます」
「本当に?」
「……多分」
涼介が僅かに笑う。
「多分か」
「だって」
あかねは膝の上の手を見る。
「今、楽しいんです」
「走ることが?」
「それも」
「それも?」
聞かれて。
あかねが止まる。
赤城へ行く。
FCを走らせる。
昨日より上手くなる。
楽しい。
でも。
それだけじゃない。
レッドサンズのみんなと話すこと。
啓介と言い合うこと。
涼介に走りを見てもらうこと。
週末になれば。
自然と。
会える。
「……みんなに会うのも」
涼介の視線が一瞬だけあかねへ向く。
「レッドサンズか」
「うん」
少し考えて。
「啓介さんとか、涼介さんとか」
名前を出した。
涼介は前を向いたまま。
「そうか」
それだけ。
でも。
ほんの少し。
声が柔らかかった。
*
やがて。
あかねの住む辺りまで来た。
「この先です」
「ああ」
「次、右」
「分かった」
自宅が近づく。
さっきまで何とも思わなかったのに。
急に。
少し惜しい。
もう着く。
「……」
あかねは窓の外を見る。
「そこです」
白いFCが停まる。
エンジン音だけが残る。
「ありがとうございました」
「ああ」
シートベルトを外す。
それでも。
すぐにはドアを開けなかった。
涼介が見る。
「どうした?」
「……」
あかねは少し迷って。
「昨日から、本当にありがとうございました」
「気にする必要はない」
「泊めてもらって、送ってもらって」
「車が動かなかったんだ。仕方ないだろう」
「でも」
あかねが涼介を見る。
「楽しかったです」
涼介が黙る。
「……そうか」
「はい」
「それならよかった」
目が合う。
昼間。
車内。
昨夜の暗い赤城とは違う。
顔がはっきり見える。
あかねは。
また思ってしまう。
――やっぱり、格好いい。
そして。
そう思ったこと自体が恥ずかしくなって。
先に目を逸らした。
「じゃ、じゃあ帰ります」
「ああ」
慌ててドアへ手をかける。
「あかね」
「……はい?」
振り返る。
涼介が。
こちらを見ていた。
「修理の連絡が来たら、俺にも教えてくれ」
「涼介さんに?」
「ああ」
「なんで?」
「故障の原因が気になる」
「ああ……」
車。
やっぱり。
そういうことか。
「分かりました」
少しだけ。
自分でも理由の分からない拍子抜け。
すると。
「それと」
「?」
涼介が続ける。
「君が困っていないかも気になる」
「……」
あかねが止まった。
涼介自身も。
言ってから。
ほんの一瞬。
黙った。
「……だから、連絡してくれ」
「あ……はい」
「じゃあな」
「……はい。ありがとうございました」
あかねはFCを降りた。
ドアを閉める。
白いFCが走り去る。
見えなくなるまで。
その場に立っていた。
「……何それ」
小さく呟く。
『君が困っていないかも気になる』
また。
残る。
涼介の言葉は。
いつも。
後から効いてくる。
*
白いFC。
一人になった車内。
涼介は前を見ていた。
「……」
先ほどの言葉。
故障の原因が気になる。
そこまでは。
間違いなく本心だった。
しかし。
その後。
『君が困っていないかも気になる』
なぜ。
わざわざ付け加えた。
答えは。
もう。
それほど難しくなかった。
あかねだからだ。
他の人間なら。
ここまで気にしない。
走りを見ているから。
初心者だから。
啓介が教えているから。
理由ならいくらでも作れる。
だが。
それだけでは説明できないところまで来ている。
「……」
涼介は。
小さく息を吐いた。
自覚したからといって。
すぐに何かをするつもりはない。
まして。
相手はまだ十八歳。
弟とも親しい。
慎重になる理由はいくらでもある。
ただ。
一つだけ。
認める。
木下あかねを。
ドライバーとしてだけではなく。
一人の女性として。
意識し始めている。
それだけだった。
*
その頃。
あかねは自宅へ入った。
バッグを置く。
ベッドへ倒れ込む。
「疲れた……」
濃すぎる一日だった。
FC故障。
高橋家。
啓介の服。
夜中の涼介。
朝の啓介。
父親への電話。
そして。
白いFCの助手席。
「……」
ふと。
思い出す。
指先。
触れただけ。
なのに。
また心臓が少し速くなる。
「やめよ」
枕へ顔を埋める。
すると。
別のことを思い出した。
今朝。
『別に変わんねえじゃん』
寝起きの自分を見た啓介。
『まあ、似合ってんじゃねえの』
髪を巻いて赤城へ行った夜。
「……」
枕から顔を上げる。
今度は啓介。
次は涼介。
また啓介。
「……何なの」
自分でも分からない。
二人とも。
全然違う。
啓介といると。
楽しい。
遠慮がない。
何を言われても言い返せる。
気づけば笑っている。
涼介といると。
緊張する。
何でもない言葉に。
いちいち心臓が反応する。
どちらが何なのか。
まだ。
分からなかった。
*
一方。
高橋家。
黄色いFDが戻ってきた。
啓介が家へ入る。
リビングには誰もいない。
「……」
何となく。
静かだった。
昨日まで。
それが普通だったはずなのに。
テーブルを見る。
朝。
あかねが座っていた場所。
廊下。
寝起きのあかねと鉢合わせた場所。
客間。
昨日。
自分の服を渡した。
「……」
たった一晩。
それだけなのに。
いなくなると。
妙に静かに感じる。
「何考えてんだ、俺」
自分で呆れる。
そこへ。
玄関の音。
涼介が帰ってきた。
啓介が振り返る。
「兄貴」
「ああ」
「送ってきたのか?」
「今帰ってきたんだから、そうだろう」
「……」
啓介は黙る。
聞きたい。
車の中で何を話した。
あかねはどうしてた。
でも。
そんなことを聞けば。
自分が気にしていると認めるようなものだった。
「啓介」
「何だよ」
「どうした?」
「別に」
また。
その言葉。
涼介は弟を見る。
そして。
何も言わずに横を通り過ぎる。
「兄貴」
涼介が足を止める。
「……」
啓介は少し迷って。
「いや」
また。
やめた。
「何でもねえ」
「そうか」
涼介は二階へ向かう。
啓介はその背中を見る。
兄貴。
尊敬している。
走りでも。
頭でも。
自分が追いかけ続けてきた相手。
だから。
今まで。
兄貴と同じものを欲しいと思った時。
譲ることに疑問なんてなかった。
兄貴の方が上。
それでいい。
ずっと。
そうだった。
でも。
もし。
あかねまで。
兄貴の方を見るようになったら。
「……」
胸の奥。
嫌な感覚。
啓介は。
初めて。
その感情から目を逸らさなかった。
「……それは、嫌だ」
誰にも聞こえない声。
その言葉を口にした瞬間。
自分でも。
驚くほど。
はっきりしていた。
ただ。
それが恋だと認めるには。
まだ。
少しだけ時間が必要だった。