デフォルトは木下あかねです。
――赤いFCと、知らなかった世界――
主人公の名前
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東京に飽きた。
群馬へ引っ越した理由を聞かれれば、木下あかねはそう答える。
東京が嫌いだったわけではない。
生まれてから十八年間暮らした街だ。友達もいるし、便利さでいえば、これ以上ない場所だった。
けれど大学進学を機に一人暮らしをするなら、今までとはまるで違う場所へ行ってみたかった。
ただ、それだけ。
両親には反対された。
特に母親は最後まで、
「大学なら東京にもたくさんあるでしょう」
と言っていた。
それでもあかねは考えを変えなかった。
一度これと決めると、簡単には曲げられない。
最後には父親が折れた。
そうして群馬での一人暮らしが決まり――次に問題になったのが、移動手段だった。
群馬へ来てすぐ、あかねは気づいた。
車がないと、不便だ。
東京では電車と徒歩で大抵の場所へ行けた。
けれど、ここではそうはいかない。
大学へ行くにも、買い物をするにも、車があった方が圧倒的に楽だった。
そこで父親に車を買ってもらうことになった。
とはいえ、あかねに車の知識なんてない。
父親から渡された中古車雑誌をめくりながら、なんとなく眺めていた。
セダン。
軽自動車。
ワゴン。
どれを見ても、よく分からない。
その中で一台だけ、あかねの目が止まった。
赤い車。
低い車体。
少し古そうな角張ったデザイン。
何より、普段は隠れているライトが開くのが可愛かった。
「これがいい」
向かいに座っていた父親が雑誌を覗き込む。
「……これ?」
「うん」
「本当にこれでいいのか?」
「なんで?」
「いや……」
父親は雑誌に載っている車を見る。
それから娘を見る。
「お前、これが何か分かってるか?」
「RX-7」
あかねは記事に書いてある文字をそのまま読んだ。
「赤くてかっこいいし、これがいい」
「……そうか」
父親はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は何も言わなかった。
数週間後。
木下あかねの愛車になったのは――
赤いRX-7。
FC3Sだった。
*
群馬へ引っ越して三日目の夜。
あかねは一人、赤いRX-7を走らせていた。
目的地は特にない。
大学が本格的に始まるまで時間がある。
一人暮らしの部屋には、まだ必要最低限の家具しかない。
そして何より、夜が静かすぎた。
東京にいた頃は、夜中でもどこかから車の音が聞こえた。
人の気配があった。
ここでは窓を閉めてしまえば、本当に何も聞こえない。
その静けさが落ち着かなくて、ドライブに出た。
最初は街中を走っていた。
けれど、知らない道を見つけるたびに、
「こっち行ってみよ」
と曲がっているうちに、だんだん建物が減っていった。
やがて道路の両側を木々が囲む。
「……山?」
街灯も少ない。
かなり暗い。
それでも引き返す気にはならなかった。
助手席には道路地図を積んである。
道に迷ったら、それを見ればいい。
あかねはそのままアクセルを踏んだ。
右へ。
左へ。
また右へ。
カーブが次々と続く。
「すご……ずっと曲がってる」
自然と笑みがこぼれた。
運転が上手いわけではない。
免許を取ってから、それほど時間も経っていない。
ただ、自分の手で車を動かすことは好きだった。
ハンドルを切る。
車が向きを変える。
アクセルを踏む。
景色が後ろへ流れていく。
単純に、それが楽しい。
その時。
バックミラーの奥に、二つの光が見えた。
一台の車だった。
最初はかなり離れていた。
ところが――
「……速くない?」
みるみる距離が縮まってくる。
あかねは少し左へ寄った。
急いでいるなら先へ行かせよう。
数秒後。
甲高いエンジン音が一気に近づいた。
黄色い車が、あかねのRX-7の横を駆け抜ける。
「うわっ……!」
驚いてアクセルを緩める。
黄色い車はそのまま次のコーナーへ突っ込んでいった。
「危な……」
あかねは思わず呟いた。
かなりの速度だった。
当然、ブレーキを踏むと思った。
ところが黄色い車は僅かに減速しただけで、吸い込まれるようにコーナーを抜けていく。
あっという間にテールランプが見えなくなった。
「……何、今の」
あんな速度で曲がれるものなのか。
あかねはしばらく、その車が消えた先を見つめていた。
さらに山を登る。
しばらくすると、道路脇に何台もの車が停まっている場所へ出た。
「……?」
こんな時間。
こんな山の中。
なのに若い男たちが大勢いる。
停まっている車も、普通とは少し違って見えた。
車高が低かったり。
大きな羽のようなものが付いていたり。
そして、その中には――
「あ」
さっきの黄色い車もあった。
何となくそちらを見ながら通り過ぎる。
すると今度は、向こうにいた男たちが一斉にこちらを見た。
「……何?」
視線が気になる。
あかねは前を向き、そのまま通過した。
黄色いFDの横に立っていた高橋啓介は、通り過ぎていく赤いFCを目で追った。
「……FC?」
仲間の一人が隣から声をかける。
「どうした、啓介?」
啓介は赤いFCから目を離さない。
「いや……」
運転席にいたのは女だった。
しかも若い。
それだけなら別に珍しくもない。
妙なのは走り方だ。
さっき後ろについた時から分かっていた。
明らかに峠を攻めている人間の走りではない。
それなのに、夜の赤城へFCで一人で上がってきた。
「なんなんだ、あいつ……」
*
少し先。
あかねは駐車スペースを見つけ、車を停めた。
助手席から道路地図を取る。
車内灯をつけ、地図を広げた。
「えーっと……」
今まで通った道を思い出しながら指で辿る。
「ここ曲がって……その前が……」
数分後。
ようやく現在地らしき場所を見つけた。
「赤城山……」
思っていた以上に山の中まで来ていた。
「さすがに戻ろ」
地図を畳んだ、その時だった。
遠くからエンジン音が聞こえてくる。
徐々に近づいてきた。
バックミラーを見る。
「……あ」
黄色い車。
先ほど自分を追い抜いていった車だった。
黄色いFDが後ろへ停まる。
運転席から男が降りてきた。
金髪。
若い。
けれど、夜の山で知らない男に近づいてこられるのは普通に怖い。
あかねはドアロックを確認した。
男が運転席側まで来る。
コンコン。
窓を叩かれた。
あかねは少し迷ってから、数センチだけ窓を下げた。
「……何ですか?」
啓介はその隙間越しにあかねを見る。
「お前、こんなとこで何してんだ?」
いきなり『お前』。
あかねの眉が寄る。
「ドライブですけど」
「ドライブ?」
「そうです」
啓介は周囲を見回した。
「赤城まで?」
「赤城?」
「……ここがどこかも知らねえのかよ」
「さっき地図見て知りました」
啓介は呆れたように息を吐く。
それから赤いFCへ視線を落とした。
「そのFC、お前のか?」
「……さっきから何ですか、FCって」
啓介の視線があかねへ戻る。
「は?」
「この車、RX-7ですけど」
「だからFCだろ」
「?」
本気で分かっていない顔だった。
啓介が眉間を押さえる。
「お前、自分がFC乗ってるって知らねえの?」
「今日初めて聞きました」
「マジかよ……」
「RX-7なのは知ってます」
「それは見りゃ分かんだろ」
「何でそんな呆れられなきゃいけないの?」
「じゃあなんでFC買ったんだよ」
「見た目」
「は?」
「赤くてかっこいいから」
「……」
啓介が黙った。
あかねは少し窓を開ける。
「何?」
「いや……」
「馬鹿にしてる?」
「してねえよ」
「してる顔じゃん」
「してねえって」
「もういいです」
窓を閉めようとした、その時。
もう一台のエンジン音が聞こえた。
白い車が入ってくる。
あかねは目を見開いた。
「……同じ?」
自分の車によく似ている。
白いFCが停まる。
運転席から一人の男が降りてきた。
黒髪。
金髪の男とは正反対だった。
落ち着いていて、静かな雰囲気。
「啓介」
低く穏やかな声だった。
金髪の男――啓介が振り返る。
「兄貴」
兄弟なんだ。
あかねは二人を見比べた。
白いFCから降りてきた男が啓介へ尋ねる。
「こんなところで何をしている?」
「いや、こいつがさ」
啓介が赤いFCを指した。
「自分がFC乗ってることも知らねえんだよ」
あかねはすぐに窓を下げた。
「言い方!」
啓介が振り返る。
「事実だろ」
「RX-7なのは知ってるって言ったじゃん!」
二人のやり取りを見ていた男の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
その視線が赤いFCへ向く。
そして、あかねへ戻る。
「FCというのは型式のことだ」
男が静かに説明する。
「RX-7には世代がある。君のRX-7はFC3S。それでFCと呼ばれている」
「あ……そういうことなんだ」
ようやく意味が分かった。
あかねは白い車を見る。
「じゃあ、その車も?」
「ああ。同じFCだ」
「へえ……」
自分の赤いFCと白いFCを見比べる。
確かに同じ形だ。
「すごい偶然」
隣で啓介が呟いた。
「……そこに感動すんのかよ」
「だって同じ車でしょ?」
「そうだけどよ」
白いFCの男があかねを見る。
「ところで、君はここに集まっている連中が何をしているか知らないのか?」
「知らないです」
「走り屋だ」
「走り屋……?」
あかねは少し考えた。
「暴走族みたいな?」
「ちげえよ!」
啓介の声が山に響いた。
「うるさい!」
あかねが思わず言い返す。
「一緒にすんな!」
「知らないんだから仕方ないでしょ!」
「啓介」
黒髪の男が静かに名前を呼んだ。
それだけで啓介が黙る。
あかねは思わず二人を見比べた。
本当に兄には弱いらしい。
「簡単に言えば、峠を速く走ることを目的にしている連中だ」
黒髪の男が説明を続ける。
あかねはそこで気づいた。
「じゃあ……」
啓介を見る。
「さっき私を抜いたのも、それ?」
啓介が鼻を鳴らす。
「あんなの流してただけだ」
「流す?」
「本気で走ってねえってことだよ」
「あれで?」
信じられない。
「見てみるか?」
啓介が突然言った。
「え?」
「本気で走ってるとこ」
黒髪の男が啓介を見る。
「啓介。一般人を巻き込むな」
「見るだけだろ、兄貴」
啓介は再びあかねへ視線を向けた。
「どうすんだ?」
帰った方がいい。
知らない男たち。
知らない場所。
知らない世界。
普通ならそうする。
けれど。
あの黄色い車がコーナーへ消えていった瞬間が、まだ頭に焼き付いている。
「……見たい」
あかねはそう答えた。
啓介が少し笑う。
「じゃあ来い」
「あ、その前に」
あかねは車から降りた。
「私、木下あかねです」
啓介があかねを見る。
「高橋啓介」
続いて、黒髪の男が名乗る。
「高橋涼介だ」
「あ……やっぱり兄弟なんですね」
「そうだ」
涼介が答える。
あかねは二人を交互に見た。
「じゃあ、啓介さんと涼介さん」
啓介が僅かに眉を上げる。
「さん付けすんのか?」
「年上でしょ?」
「まあな」
「じゃあ普通じゃん」
「好きにしろ」
啓介はそれだけ言って、黄色いFDへ戻っていった。
*
しばらくして。
あかねは道路脇の安全な場所からスタートを見ていた。
少し離れた場所には涼介がいる。
啓介の黄色いFDと、別の車が並ぶ。
エンジン音が夜の山に響いた。
そして――
二台が飛び出した。
「……っ!」
一瞬だった。
あっという間にテールランプが小さくなる。
あかねは目を見開いた。
「速……」
先ほど自分を抜いた時とはまるで違う。
隣に立つ涼介へ尋ねる。
「こんな速度で走って、怖くないんですか?」
涼介は道路の先を見たまま答えた。
「怖いさ」
「え?」
あかねは涼介を見る。
「怖いんですか?」
「ああ」
意外だった。
涼介は静かに続ける。
「恐怖を感じない人間は、自分の限界を正確に判断できない」
「……」
「恐怖心をなくすんじゃない。それを理解した上で、どこまで踏めるかを判断する」
あかねは再び道路を見る。
「難しい……」
「そうだな」
しばらくすると、遠くからエンジン音が聞こえた。
黄色いFDが戻ってくる。
啓介が車から降りると、周囲にいた仲間たちが集まった。
勝ったらしい。
普段のぶっきらぼうな態度とは違う。
自信に満ちた顔。
何より楽しそうだった。
あかねは思わず呟いた。
「……かっこいい」
隣から涼介の声がした。
「啓介がか?」
「えっ?」
あかねは慌てて涼介を見る。
「ち、違う。走ってるところがです」
「そうか」
涼介はそれ以上追及しなかった。
それが逆に恥ずかしかった。
*
戻ってきた啓介があかねを見る。
「どうだった?」
「すごかった」
あかねが素直に答えると、啓介の口元が僅かに上がった。
「だろ?」
「でも危ない」
「お前な……」
啓介が呆れた顔になる。
あかねは黄色いFDを見た。
次に、自分の赤いFCを見る。
自分の車でも。
練習すれば、あんな風に走れるのだろうか。
「……私もやってみたい」
啓介の表情から笑みが消えた。
涼介もあかねを見る。
「走り屋」
あかねは続けた。
「私もやってみたい」
啓介は少しの間黙っていた。
そして、はっきり言った。
「やめとけ」
「なんで?」
「お前には無理だ」
あかねの表情が変わる。
「何で決めつけるの?」
「自分の車のことも知らねえ。峠も知らねえ。走り方も知らねえ」
「だったら覚えればいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
啓介の声が低くなる。
「ここじゃミスしたら車壊して終わりじゃねえ。下手すりゃ死ぬんだぞ」
あかねは黙った。
啓介は本気で言っている。
それくらいは分かった。
それでも。
「……やってみたい」
「お前な」
「やってみて、本当に無理だったらやめる」
あかねは啓介から目を逸らさなかった。
「でも、まだ何もやってないのに無理って決めるのは嫌」
啓介も黙ってあかねを見る。
数秒。
「……頑固だな、お前」
「よく言われます」
「褒めてねえよ」
「知ってます」
啓介は小さく息を吐いた。
「勝手にしろ」
そう言ってFDへ向かう。
途中で振り返った。
「ただし、赤城を甘く見るなよ」
今までとは違う目だった。
「遊び半分でやるなら、最初からやめとけ」
あかねも真面目に頷いた。
「分かりました」
啓介はそれ以上何も言わず、FDに乗り込んだ。
あかねは隣に残った涼介を見る。
「怒らせちゃったかな」
「いや」
涼介は首を横に振った。
「啓介なりに忠告しただけだろう」
「……そうなんですか?」
「ああ」
あかねは啓介のFDを見る。
少し怖そうな人だと思っていた。
口も悪い。
すぐ怒る。
でも。
悪い人ではないのかもしれない。
「本気で走るつもりなのか?」
涼介に尋ねられ、あかねは振り返った。
「はい」
「そうか」
「何から始めればいいですか?」
涼介は赤いFCへ視線を向けた。
「まずは自分の車を知ることだ」
「車を?」
「ああ」
涼介が白いFCへ向かいながら続ける。
「君はまだ、その車が何をできるのか知らない」
あかねも自分のFCを見る。
「……確かに」
「焦る必要はない」
涼介は運転席のドアを開ける。
「それじゃあ、気をつけて帰れ」
「あ、はい。涼介さんも」
白いFCのエンジンがかかる。
やがてその姿も見えなくなった。
一人になったあかねは、自分の赤いRX-7の前に立った。
「FC3S……」
今日初めて知った名前。
運転席へ乗る。
エンジンをかけた。
今まで気にも留めなかった音が車内へ響く。
軽くアクセルを踏んでみる。
ヴォン――。
「……」
もう一度。
ヴォン――。
あかねは少しだけ笑った。
「私、この車のこと何にも知らないんだ」
ハンドルを握る。
赤いFCが、ゆっくりと赤城を下り始める。
この夜。
木下あかねは初めて走り屋という存在を知った。
高橋啓介。
高橋涼介。
二人の兄弟と出会った。
そして――
ただ見た目が気に入った。
それだけの理由で選んだ赤いFCが。
これから自分の人生を大きく変えていくことを。
十八歳のあかねは、まだ知らなかった。
群馬へ引っ越した理由を聞かれれば、木下あかねはそう答える。
東京が嫌いだったわけではない。
生まれてから十八年間暮らした街だ。友達もいるし、便利さでいえば、これ以上ない場所だった。
けれど大学進学を機に一人暮らしをするなら、今までとはまるで違う場所へ行ってみたかった。
ただ、それだけ。
両親には反対された。
特に母親は最後まで、
「大学なら東京にもたくさんあるでしょう」
と言っていた。
それでもあかねは考えを変えなかった。
一度これと決めると、簡単には曲げられない。
最後には父親が折れた。
そうして群馬での一人暮らしが決まり――次に問題になったのが、移動手段だった。
群馬へ来てすぐ、あかねは気づいた。
車がないと、不便だ。
東京では電車と徒歩で大抵の場所へ行けた。
けれど、ここではそうはいかない。
大学へ行くにも、買い物をするにも、車があった方が圧倒的に楽だった。
そこで父親に車を買ってもらうことになった。
とはいえ、あかねに車の知識なんてない。
父親から渡された中古車雑誌をめくりながら、なんとなく眺めていた。
セダン。
軽自動車。
ワゴン。
どれを見ても、よく分からない。
その中で一台だけ、あかねの目が止まった。
赤い車。
低い車体。
少し古そうな角張ったデザイン。
何より、普段は隠れているライトが開くのが可愛かった。
「これがいい」
向かいに座っていた父親が雑誌を覗き込む。
「……これ?」
「うん」
「本当にこれでいいのか?」
「なんで?」
「いや……」
父親は雑誌に載っている車を見る。
それから娘を見る。
「お前、これが何か分かってるか?」
「RX-7」
あかねは記事に書いてある文字をそのまま読んだ。
「赤くてかっこいいし、これがいい」
「……そうか」
父親はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は何も言わなかった。
数週間後。
木下あかねの愛車になったのは――
赤いRX-7。
FC3Sだった。
*
群馬へ引っ越して三日目の夜。
あかねは一人、赤いRX-7を走らせていた。
目的地は特にない。
大学が本格的に始まるまで時間がある。
一人暮らしの部屋には、まだ必要最低限の家具しかない。
そして何より、夜が静かすぎた。
東京にいた頃は、夜中でもどこかから車の音が聞こえた。
人の気配があった。
ここでは窓を閉めてしまえば、本当に何も聞こえない。
その静けさが落ち着かなくて、ドライブに出た。
最初は街中を走っていた。
けれど、知らない道を見つけるたびに、
「こっち行ってみよ」
と曲がっているうちに、だんだん建物が減っていった。
やがて道路の両側を木々が囲む。
「……山?」
街灯も少ない。
かなり暗い。
それでも引き返す気にはならなかった。
助手席には道路地図を積んである。
道に迷ったら、それを見ればいい。
あかねはそのままアクセルを踏んだ。
右へ。
左へ。
また右へ。
カーブが次々と続く。
「すご……ずっと曲がってる」
自然と笑みがこぼれた。
運転が上手いわけではない。
免許を取ってから、それほど時間も経っていない。
ただ、自分の手で車を動かすことは好きだった。
ハンドルを切る。
車が向きを変える。
アクセルを踏む。
景色が後ろへ流れていく。
単純に、それが楽しい。
その時。
バックミラーの奥に、二つの光が見えた。
一台の車だった。
最初はかなり離れていた。
ところが――
「……速くない?」
みるみる距離が縮まってくる。
あかねは少し左へ寄った。
急いでいるなら先へ行かせよう。
数秒後。
甲高いエンジン音が一気に近づいた。
黄色い車が、あかねのRX-7の横を駆け抜ける。
「うわっ……!」
驚いてアクセルを緩める。
黄色い車はそのまま次のコーナーへ突っ込んでいった。
「危な……」
あかねは思わず呟いた。
かなりの速度だった。
当然、ブレーキを踏むと思った。
ところが黄色い車は僅かに減速しただけで、吸い込まれるようにコーナーを抜けていく。
あっという間にテールランプが見えなくなった。
「……何、今の」
あんな速度で曲がれるものなのか。
あかねはしばらく、その車が消えた先を見つめていた。
さらに山を登る。
しばらくすると、道路脇に何台もの車が停まっている場所へ出た。
「……?」
こんな時間。
こんな山の中。
なのに若い男たちが大勢いる。
停まっている車も、普通とは少し違って見えた。
車高が低かったり。
大きな羽のようなものが付いていたり。
そして、その中には――
「あ」
さっきの黄色い車もあった。
何となくそちらを見ながら通り過ぎる。
すると今度は、向こうにいた男たちが一斉にこちらを見た。
「……何?」
視線が気になる。
あかねは前を向き、そのまま通過した。
黄色いFDの横に立っていた高橋啓介は、通り過ぎていく赤いFCを目で追った。
「……FC?」
仲間の一人が隣から声をかける。
「どうした、啓介?」
啓介は赤いFCから目を離さない。
「いや……」
運転席にいたのは女だった。
しかも若い。
それだけなら別に珍しくもない。
妙なのは走り方だ。
さっき後ろについた時から分かっていた。
明らかに峠を攻めている人間の走りではない。
それなのに、夜の赤城へFCで一人で上がってきた。
「なんなんだ、あいつ……」
*
少し先。
あかねは駐車スペースを見つけ、車を停めた。
助手席から道路地図を取る。
車内灯をつけ、地図を広げた。
「えーっと……」
今まで通った道を思い出しながら指で辿る。
「ここ曲がって……その前が……」
数分後。
ようやく現在地らしき場所を見つけた。
「赤城山……」
思っていた以上に山の中まで来ていた。
「さすがに戻ろ」
地図を畳んだ、その時だった。
遠くからエンジン音が聞こえてくる。
徐々に近づいてきた。
バックミラーを見る。
「……あ」
黄色い車。
先ほど自分を追い抜いていった車だった。
黄色いFDが後ろへ停まる。
運転席から男が降りてきた。
金髪。
若い。
けれど、夜の山で知らない男に近づいてこられるのは普通に怖い。
あかねはドアロックを確認した。
男が運転席側まで来る。
コンコン。
窓を叩かれた。
あかねは少し迷ってから、数センチだけ窓を下げた。
「……何ですか?」
啓介はその隙間越しにあかねを見る。
「お前、こんなとこで何してんだ?」
いきなり『お前』。
あかねの眉が寄る。
「ドライブですけど」
「ドライブ?」
「そうです」
啓介は周囲を見回した。
「赤城まで?」
「赤城?」
「……ここがどこかも知らねえのかよ」
「さっき地図見て知りました」
啓介は呆れたように息を吐く。
それから赤いFCへ視線を落とした。
「そのFC、お前のか?」
「……さっきから何ですか、FCって」
啓介の視線があかねへ戻る。
「は?」
「この車、RX-7ですけど」
「だからFCだろ」
「?」
本気で分かっていない顔だった。
啓介が眉間を押さえる。
「お前、自分がFC乗ってるって知らねえの?」
「今日初めて聞きました」
「マジかよ……」
「RX-7なのは知ってます」
「それは見りゃ分かんだろ」
「何でそんな呆れられなきゃいけないの?」
「じゃあなんでFC買ったんだよ」
「見た目」
「は?」
「赤くてかっこいいから」
「……」
啓介が黙った。
あかねは少し窓を開ける。
「何?」
「いや……」
「馬鹿にしてる?」
「してねえよ」
「してる顔じゃん」
「してねえって」
「もういいです」
窓を閉めようとした、その時。
もう一台のエンジン音が聞こえた。
白い車が入ってくる。
あかねは目を見開いた。
「……同じ?」
自分の車によく似ている。
白いFCが停まる。
運転席から一人の男が降りてきた。
黒髪。
金髪の男とは正反対だった。
落ち着いていて、静かな雰囲気。
「啓介」
低く穏やかな声だった。
金髪の男――啓介が振り返る。
「兄貴」
兄弟なんだ。
あかねは二人を見比べた。
白いFCから降りてきた男が啓介へ尋ねる。
「こんなところで何をしている?」
「いや、こいつがさ」
啓介が赤いFCを指した。
「自分がFC乗ってることも知らねえんだよ」
あかねはすぐに窓を下げた。
「言い方!」
啓介が振り返る。
「事実だろ」
「RX-7なのは知ってるって言ったじゃん!」
二人のやり取りを見ていた男の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
その視線が赤いFCへ向く。
そして、あかねへ戻る。
「FCというのは型式のことだ」
男が静かに説明する。
「RX-7には世代がある。君のRX-7はFC3S。それでFCと呼ばれている」
「あ……そういうことなんだ」
ようやく意味が分かった。
あかねは白い車を見る。
「じゃあ、その車も?」
「ああ。同じFCだ」
「へえ……」
自分の赤いFCと白いFCを見比べる。
確かに同じ形だ。
「すごい偶然」
隣で啓介が呟いた。
「……そこに感動すんのかよ」
「だって同じ車でしょ?」
「そうだけどよ」
白いFCの男があかねを見る。
「ところで、君はここに集まっている連中が何をしているか知らないのか?」
「知らないです」
「走り屋だ」
「走り屋……?」
あかねは少し考えた。
「暴走族みたいな?」
「ちげえよ!」
啓介の声が山に響いた。
「うるさい!」
あかねが思わず言い返す。
「一緒にすんな!」
「知らないんだから仕方ないでしょ!」
「啓介」
黒髪の男が静かに名前を呼んだ。
それだけで啓介が黙る。
あかねは思わず二人を見比べた。
本当に兄には弱いらしい。
「簡単に言えば、峠を速く走ることを目的にしている連中だ」
黒髪の男が説明を続ける。
あかねはそこで気づいた。
「じゃあ……」
啓介を見る。
「さっき私を抜いたのも、それ?」
啓介が鼻を鳴らす。
「あんなの流してただけだ」
「流す?」
「本気で走ってねえってことだよ」
「あれで?」
信じられない。
「見てみるか?」
啓介が突然言った。
「え?」
「本気で走ってるとこ」
黒髪の男が啓介を見る。
「啓介。一般人を巻き込むな」
「見るだけだろ、兄貴」
啓介は再びあかねへ視線を向けた。
「どうすんだ?」
帰った方がいい。
知らない男たち。
知らない場所。
知らない世界。
普通ならそうする。
けれど。
あの黄色い車がコーナーへ消えていった瞬間が、まだ頭に焼き付いている。
「……見たい」
あかねはそう答えた。
啓介が少し笑う。
「じゃあ来い」
「あ、その前に」
あかねは車から降りた。
「私、木下あかねです」
啓介があかねを見る。
「高橋啓介」
続いて、黒髪の男が名乗る。
「高橋涼介だ」
「あ……やっぱり兄弟なんですね」
「そうだ」
涼介が答える。
あかねは二人を交互に見た。
「じゃあ、啓介さんと涼介さん」
啓介が僅かに眉を上げる。
「さん付けすんのか?」
「年上でしょ?」
「まあな」
「じゃあ普通じゃん」
「好きにしろ」
啓介はそれだけ言って、黄色いFDへ戻っていった。
*
しばらくして。
あかねは道路脇の安全な場所からスタートを見ていた。
少し離れた場所には涼介がいる。
啓介の黄色いFDと、別の車が並ぶ。
エンジン音が夜の山に響いた。
そして――
二台が飛び出した。
「……っ!」
一瞬だった。
あっという間にテールランプが小さくなる。
あかねは目を見開いた。
「速……」
先ほど自分を抜いた時とはまるで違う。
隣に立つ涼介へ尋ねる。
「こんな速度で走って、怖くないんですか?」
涼介は道路の先を見たまま答えた。
「怖いさ」
「え?」
あかねは涼介を見る。
「怖いんですか?」
「ああ」
意外だった。
涼介は静かに続ける。
「恐怖を感じない人間は、自分の限界を正確に判断できない」
「……」
「恐怖心をなくすんじゃない。それを理解した上で、どこまで踏めるかを判断する」
あかねは再び道路を見る。
「難しい……」
「そうだな」
しばらくすると、遠くからエンジン音が聞こえた。
黄色いFDが戻ってくる。
啓介が車から降りると、周囲にいた仲間たちが集まった。
勝ったらしい。
普段のぶっきらぼうな態度とは違う。
自信に満ちた顔。
何より楽しそうだった。
あかねは思わず呟いた。
「……かっこいい」
隣から涼介の声がした。
「啓介がか?」
「えっ?」
あかねは慌てて涼介を見る。
「ち、違う。走ってるところがです」
「そうか」
涼介はそれ以上追及しなかった。
それが逆に恥ずかしかった。
*
戻ってきた啓介があかねを見る。
「どうだった?」
「すごかった」
あかねが素直に答えると、啓介の口元が僅かに上がった。
「だろ?」
「でも危ない」
「お前な……」
啓介が呆れた顔になる。
あかねは黄色いFDを見た。
次に、自分の赤いFCを見る。
自分の車でも。
練習すれば、あんな風に走れるのだろうか。
「……私もやってみたい」
啓介の表情から笑みが消えた。
涼介もあかねを見る。
「走り屋」
あかねは続けた。
「私もやってみたい」
啓介は少しの間黙っていた。
そして、はっきり言った。
「やめとけ」
「なんで?」
「お前には無理だ」
あかねの表情が変わる。
「何で決めつけるの?」
「自分の車のことも知らねえ。峠も知らねえ。走り方も知らねえ」
「だったら覚えればいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
啓介の声が低くなる。
「ここじゃミスしたら車壊して終わりじゃねえ。下手すりゃ死ぬんだぞ」
あかねは黙った。
啓介は本気で言っている。
それくらいは分かった。
それでも。
「……やってみたい」
「お前な」
「やってみて、本当に無理だったらやめる」
あかねは啓介から目を逸らさなかった。
「でも、まだ何もやってないのに無理って決めるのは嫌」
啓介も黙ってあかねを見る。
数秒。
「……頑固だな、お前」
「よく言われます」
「褒めてねえよ」
「知ってます」
啓介は小さく息を吐いた。
「勝手にしろ」
そう言ってFDへ向かう。
途中で振り返った。
「ただし、赤城を甘く見るなよ」
今までとは違う目だった。
「遊び半分でやるなら、最初からやめとけ」
あかねも真面目に頷いた。
「分かりました」
啓介はそれ以上何も言わず、FDに乗り込んだ。
あかねは隣に残った涼介を見る。
「怒らせちゃったかな」
「いや」
涼介は首を横に振った。
「啓介なりに忠告しただけだろう」
「……そうなんですか?」
「ああ」
あかねは啓介のFDを見る。
少し怖そうな人だと思っていた。
口も悪い。
すぐ怒る。
でも。
悪い人ではないのかもしれない。
「本気で走るつもりなのか?」
涼介に尋ねられ、あかねは振り返った。
「はい」
「そうか」
「何から始めればいいですか?」
涼介は赤いFCへ視線を向けた。
「まずは自分の車を知ることだ」
「車を?」
「ああ」
涼介が白いFCへ向かいながら続ける。
「君はまだ、その車が何をできるのか知らない」
あかねも自分のFCを見る。
「……確かに」
「焦る必要はない」
涼介は運転席のドアを開ける。
「それじゃあ、気をつけて帰れ」
「あ、はい。涼介さんも」
白いFCのエンジンがかかる。
やがてその姿も見えなくなった。
一人になったあかねは、自分の赤いRX-7の前に立った。
「FC3S……」
今日初めて知った名前。
運転席へ乗る。
エンジンをかけた。
今まで気にも留めなかった音が車内へ響く。
軽くアクセルを踏んでみる。
ヴォン――。
「……」
もう一度。
ヴォン――。
あかねは少しだけ笑った。
「私、この車のこと何にも知らないんだ」
ハンドルを握る。
赤いFCが、ゆっくりと赤城を下り始める。
この夜。
木下あかねは初めて走り屋という存在を知った。
高橋啓介。
高橋涼介。
二人の兄弟と出会った。
そして――
ただ見た目が気に入った。
それだけの理由で選んだ赤いFCが。
これから自分の人生を大きく変えていくことを。
十八歳のあかねは、まだ知らなかった。
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