知らぬが仏であるならば
夜。虫の鳴く声すら聞こえない静寂に沈んだ暗闇の中一軒の屋根の上に音もなく降り立つ影。同じ屋根の上で眠る猫が目覚めない程最小限の音で蹴り出して次の屋根の上に飛び移り移動をこなす。忍装束を纏った男──ミカゲは今度の標的の元へ急いでいた。
彼らの提案を受け入れるはずもない──あの後言葉も返さずあの場を立ち去って気付けば依頼遂行の日の夜。淡白に取り掛かっているつもりでも遠く物思いに耽っている間に目的の一軒家近辺まで来てしまっていた。いつもはこんな事があるはずもないのにどくどくと嫌な心音が体の機能を奪っていくようで吐きそうになる。
正直。物心ついた頃から忍としての鍛錬は受けていたし暗殺業に就いたのも必然的で。余計な感情は上乗せせず苦情は一切頂かない仕事人でその仕事ぶりを知る業界の人間からは高く評価されていた。自分自身、そちらに関しては自信があったし納得のいかない依頼内容であれ仕事と割り切ってこなしてきたのだが。
ため息が漏れる。
まさか自分が殺さなければならない相手が長年ネット上で追いかけてきた絵描きだとは──
標的も依頼人も仮名がそのままネット上でペンネームとして使われているのだから嫌でも一致してしまう。普段仕事はオンオフ切り替えているミカゲでもこれにはくっと眉を顰めた。
代わりに殺してくれとは言わないさ。言わないけども。ああぁ……何の気なしに依頼を受けた数日前の自分を呪いたい。自分自身神絵師だと崇めている相手の家を突き止めて訪れるなんてこんな悲しい聖地巡礼があってたまるか!
ため息を吐いたが次の瞬間目の色を変えてその家の窓の奥を見据える。明かりのついた部屋の中には一人の女性が勉強机と向き合っていた。大学生くらいか。最近の更新が停滞気味だったのも学業に専念していたからなのだろう。
知ったところでなのだが──
「偶然ですね」
ぎくりとして咄嗟に構えながら振り返る。
「背中がガラ空きでしたよ」