その腕の中で溺れたい
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「ふわぁ……」
どうせ誰にも見られていないだろう。
そんな軽い気持ちであくびをした時に限って、何故だか誰かに見られているものだ。
柔らかな陽光が降り注ぐ、麗らかな昼下がり。
愛らしいブウサギ達と共に中庭を散歩する時間は、慌ただしい日常を忘れさせてくれる穏やかなひと時だ。
そんな平和な空気をぶち壊すかのように、突然ガサリと茂みが大きく揺れた。
「よお!」
「わああああっ!!」
まさかこんな場所でピオニー陛下に出くわすとは思わず、盛大に驚いて飛び跳ねる。
眠気など一瞬で吹き飛んでしまった。
どうしてこのお方は、こうも神出鬼没なのだろう?
「へ、陛下! こんな所で一体何を……あ! まさか、また執務中に抜け出したのですか!?」
「ただの散歩だ、散歩。たまには息抜きも必要だろう? 無論、声もかけてきたぞ」
「はぁ、それなら構いませんが……」
今回も例に漏れず、脱走したのだとばかり……。
彼には前科があるだけに、すっかり職務放棄のイメージが定着してしまった。
想定外の場所で陛下と顔を合わせると、つい身構えてしまう。万が一、脱走だとしたら大事になる前に確保しなければならない。
なにしろ彼は一国を背負う、誰よりも尊いお方なのだから。
「そういうお前こそ楽しむのは結構だが、程々にしておけよ?」
「はい?」
楽しむ?程々に、とは?
何の事を言っているのかいまいち理解出来ないが、陛下は面白がるように目を細め、私の顔を覗き込む。
ブウサギの散歩の話だろうかと、両手に持った計六本のリードへ視線を落とす。
楽しいかと問われれば首を傾げてしまうけれど、まあ、ブウサギ達は愛らしい。今ではこんなにも懐いてくれて、彼等との触れ合いに癒しを貰っているのは事実だ。
足元でブヒブヒと鼻を鳴らしながら地面の匂いを嗅いで、モチモチの頬をぷっくり膨らませながら此方を仰ぎ見る仕草は……うん!とっっっても可愛い!
だらしなく表情が緩んで、蕩けたように目尻が下がる。
初めこそブウサギがペットだなんて驚いたものだが、今ではすっかりその愛らしさの虜になってしまった。
「まあ、ジェイドの奴が毎夜離さないんだろうが……あいつは涼しい顔をして存外ネチネチしてそうだしなぁ」
「大佐? ブウサギの話ではなくて、ですか?」
何だか話が噛み合っていない。
陛下の口からは大佐だの、ネチネチだのといったブウサギとは全く関係のない単語が出てくる。
少なくとも私は、ブウサギの話をしていたつもりだった。
「ブウサギ? いや、お前はさっき大きなあくびをしていただろう?」
「え!? 見ていたんですか!? 実は最近、徹夜続きでして……お見苦しい所を」
「そうじゃない。俺が言いたいのは、お前ら夫婦の夜の営みについてだな……」
「んなっ! そ、そそそそんなわけがないでしょう!?」
そこで漸く、陛下は私のあくびの原因が夜の営みのせいだと勘違いしている事に気が付いた。
睡眠を削ってまで励んでいると思われてしまった事が、何よりも恥ずかしい。
冗談ではないと声を大きくする私を見て、ピオニー陛下は酷く驚いたふうに目を剥いた。心なしか顔色もよろしくない。
散歩は早々に切り上げた方がいいのではないかと進言しようとした瞬間、がっしりと力強く両肩を掴まれた。
「まさか、お前ら……“まだ”なのか?」
「まだとは?」
「おいおい、冗談はよせ。そろそろ宮殿を出てひと月だぞ? ひと月の間、何も進展がないだと!?」
「冗談ではないのですが……まあ、はい。特には」
「その為に此処を出たんじゃないのか? いや、しかし……ジェイドがまだ手を出してないとはなぁ。こいつは驚いた」
その口振りからして、陛下にとって私たち夫婦の現状は想定外だったようだ。
確かに以前、いずれ私を抱くと大佐は言った。その為に宮殿を出て、私邸に移るのだと。
勿論、同じベッドで眠るし、抱き締められることだってある。キスもする。けれど、それ以上はない。
つまり、触れ合いがあるにも関わらず、その先に進む気配がないという事実が問題なのだ。
恋人ではなく、私達は夫婦であるのに。
今更ながらに、足元からじわじわと不安が立ち上ってくる。
私には一国を傾けるような美貌もなければ、人を惑わせる色気だってない。平々凡々な女だ。
いつだったか、チンチクリン呼ばわりされたことだってあった。
(……あれ? これは少し……いや、かなりマズいんじゃ?)
「へ、陛下……急に死活問題だと思えてきました」
「ああ。このままだと夫婦として致命的だな」
「致、命的……ど、どどどどどうすれば!?」
ここは女性好きと名高い我らがピオニー・ウパラ・マルクト九世皇帝陛下に教えを乞うしか道は残されていない。
彼が一国の王だと言うことも忘れ、縋り付く私の振る舞いは極刑待ったなしだろう。無礼も甚だしい。
「まあ、落ち着け。そんなお前に、俺がとっておきの秘策を授けてやる」
「本当ですか!?」
「ああ。涼しい顔をしたあいつも所詮は男だからな」
「是非、ご教示ください! ピオニー皇帝陛下万歳!!」
陛下は満更でもなさそうに「任せておけ」なんて鼻高々に言った後、私に耳打ちをする。
初めこそ熱心に頷きながら陛下の言葉に耳を傾けていたけれど、話が進むに連れ、それがとんでもない方法だと知って打ち震える。
想像しただけで泡を吹いて卒倒しそうだが、覚悟を決めるしかない。私には他に道が残されていないのだ。
決行は今夜。
偽物から本物へ──そして何より本当の夫婦になる為に。
「陛下、私……死ぬ気でやってみます!」
「よし、行ってこい。骨は拾ってやる」
「はい!!」
勇み足という名の空回りが、今後の夫婦生活の行く末を左右するかと思うと、あまりに心許ないけれど……。
***
昼間はああも息巻いていたが、実際、物事はそう上手く進まないらしい。
ちょっとしたハプニングやトラブルは、物語を面白くする為のスパイスになるけれど、今回に限ってそんなものは必要なかった。
要らないから、早くとどめを刺してほしい。その一心で、私はベッドに潜り込み、来たる瞬間を待っている。
陛下のアドバイス通り魅惑的な下着を着用し、サテン生地のやけに丈の短い薄手の寝間着(と、呼んでもいいのか微妙)に身を包んで、準備は万端。
覚悟を決め、ベッドに潜り込んでその時を待つが、肝心な大佐が一向に書斎から出て来ないのだ。
ただ待つだけというのは、いつもより時間の経過が遅く感じられる。
どこか落ち着かず、折角の覚悟も揺らいでしまいそうになる。
ベッドの上に正座してみたり、押し倒された所をシミュレーションして大の字に寝転んでみたり、再び布団の中へ潜り込んでみたり……。
「全っ然、出て来ないんですけど!?」
──待てど暮らせど、待ち人未だ訪れず。
駄目だ。待つのは性に合わない。
単純な私は、来ないのなら此方から行くしかないとベッドから跳ね起き、書斎へと向かう。
ふと姿見に映る自分の格好に驚き、慌ててベッドの脇に置いてあったガウンを羽織る。
胸元が大きく開いているせいで屈めば乳房が溢れ出そうだし、異様に丈の短い裾は少し動いただけで下着が見えてしまいそうだ。
陛下から言われるがままに受け取ったはいいが、私は今とんでもない格好をしているのだと改めて思い知る。こんなの、ただの痴女じゃないか。
羞恥心に抗いながらこんな格好をしているのだ。なんとしてでもこの誘惑大作戦を成功させなければ、犠牲になったなけなしの自尊心が浮かばれない。
僅かに震える手で書斎の扉をノックした後、控えめに顔を覗かせた。
「……ジェイド?」
扉の先には、此方に背を向けて机に向う大佐の姿がある。
邪魔をしている自覚があるから、自然と名前を呼ぶ声はか細い。
「おや、まだ起きていたのですか?」
大佐は書面に走らせていたペンを置き、椅子を少し引いて上体を此方に向けた。
その表情は穏やかで、声音も柔らかい。
第三師団師団長の彼ではなく、夫の顔をしていた。
胸の奥が、きゅうっと小さく疼く。
ああ──この人のこういう顔に、私は弱い。
「……まだ寝ないの?」
「ええ。あと少しかかりますので、先に休んでいてください」
その言葉に、今夜も何も起こらないのだと落胆した。
けれど、このまますごすごと寝室に戻ったのでは今までと何も変わらない。
昼間、致命的だと指摘された陛下の言葉を思い出し、自分を奮い立たせる。
今夜は何があっても引き下がらないと決めたのだから。
そして今こそ、陛下直伝の色仕掛け大作戦を実行に移す時。
小走りで駆け寄って、勢い任せに椅子に座る大佐を抱き締める。
「どうしました? 今夜は随分と積極的です、ね──!」
彼の頭を抱え込むようにして、無いに等しい胸を押し当てる。
(抱き締めて……それから、それから……何て言うんだっけ?)
「ええっと……ひ、一人じゃ寂しくて眠れないのー。一緒にいてほしいなー」
「……」
「私、ジェイドになら何をされても、かまわないからー」
「……」
陛下から教えてもらった台詞は、確かこんな感じだったはず。
露骨に胸を押し当てて、こうやって誘えば、あとはジェイドに任せておけばいいって言っていたもの。
けれど、返ってきたのは沈黙だった。
何か不手際があったのだろうかと、おずおずと腕を解くと、大佐はただ黙って此方を見つめている。
その双眸は、面白い物でも見るかのように細められていて、居心地が悪い。
少なくとも、色事からは程遠い。どちらかと言えば珍獣でも眺める類の視線だった。
──こんなはずでは。
「あのぉ……」
「お気になさらず。続きをどうぞ?」
「続き!? あ、えっと……以上、です……」
大佐は眼鏡を指で押し上げて、盛大にため息をついた。
一体何が駄目だったのだろう?
やっぱり、棒読みの台詞?それとも似合わないこの格好?
「誰の入れ知恵ですか?」
「え?」
「まあ、こうも単純で露骨な誘い方は……いかにもあのお方が考えそうな事ですが」
「え゛!?」
どうして陛下の入れ知恵だと分かったのか尋ねると、分からない方がおかしいと鼻で笑われた。
ピオニー陛下。あなたから教わった、とっておきの作戦は一瞬で見破られてしまいました。
「ブウサギの散歩の後、あなたの様子が可笑しかったので。何かあった事は明白です」
「そ、そうですか……」
結局、どんなに頑張ってみても、やっぱり“そういった雰囲気”にはならない。
「それに、ああも棒読みで誘われたのでは……」
「わ、悪かったですね! 棒読みで──っ!?」
丈の短いワンピースタイプの衣服は、裾にスリットが入っていて、容易く手の侵入を許してしまう。
実際今も、大佐の指が太腿を滑り、ゆっくりと裾をたくし上げていく。
羽織っていたガウンも剥ぎ取られて床に落ちてしまった。
あられも無い姿が眼前に晒されて、恥ずかしさのあまり逃げ出そうと身を捩っても、抱き寄せるように腰へ回された腕が離れることを良しとしない。
裾と同じく大胆に開いた胸元へ、唇が押し当てられる。
「ちょ、っと……どこ、触って……!」
「せっかくですので、その意地らしい色仕掛けに乗ってみようかと。これは“その為の服”ではないのですか?」
「男を誘う為の」と、囁いた吐息が肌にかかり、ピクリと体が小さく跳ねた。
私の反応を楽しむかのように、押し当てられた唇がリップ音を交えながら胸を這う。
「っ、ん……そこで喋らないでよ……!」
私の制止など気にも留めずに指を更に奥へと進め、蝶結びになった下着の紐に指を掛けると、大佐は少しばかり驚いた様子で呟く。
「…………紐、ですか」
「わ、私の趣味じゃないです!」
「また随分と大胆なことで」
「だからこれは、ピオニー陛下が……っ!」
陛下の名前を出した途端、ほんの一瞬私を捉える視線が鋭くなって、紐を引く指に力が込められた。
「ぁ……だ、だめ! 引っ張らないで……」
「駄目と言いながら、解いて欲しいと聞こえますが?」
クスリと、楽しげに笑う声が耳朶に響き、全身を駆け巡る。
指先と唇で軽く触れているだけ。それだけなのに、溶かされるような感覚に段々と体の力が抜けていくのが分かる。
これ以上の事をしてしまったら──私は一体どうなってしまうのだろう?
「──まあ、陛下の入れ知恵であろうと、あなたの努力は認めて差し上げますよ」
「……え? うわああっ!」
突然、浮遊感に襲われる。
横抱きにされたかと思うと、足早に書斎を出る。
躊躇うことなくベッドになだれ込むと、二人分の体重を受け止めるマットレスが弾みながらギシリと音を立てた。
「さあ、どうぞ。今度はあなた自身の言葉で、私を誘惑してください」
頬を包む彼の手は、いつもより熱を帯びているような気がした。
言葉を促すように、唇の上を親指の腹が滑る。
「そ、そんなのっ……無理だよ……」
「そうですか? 先程は見事な棒読みで私を誘っていたではないですか」
「棒読みはもういいから! それは、その……何も進展がないから……ピオニー陛下にどうしたら先に進めるか相談、して──」
一旦言葉を切って、唇を食む。
飲み込んだ言葉は、鉛のように胸の奥深くへと重く沈んでゆくようだ。
大佐から視線を逸らし、行き場のない感情ごと服の裾をぎゅっと握りしめた。
「だって……私に魅力が無いから、抱いてくれないんでしょ?」
絞り出すような声は震えていたように思う。
その通りだと肯定されたら、私はどうしたらいいの?
自分で口にしておきながら、虚しくなる。滑稽だった。
お前は女としての魅力がないと烙印を押されたような心地になってしまって。
こんな格好までして慣れないスキンシップをとって、棒読みで愛を囁いて──全部全部、馬鹿みたいだ。
不安の色を滲ませながら恐る恐る視線を戻すと、大佐は虚を突かれたように双眸を僅かに見開いた。
フッ、と吐息混じりの笑みが零れる。 けれど、それは笑っているはずなのに少しも温もりを感じない。
「……まさか」
吐き捨てるような声音が耳を衝く。
熱の引いた双眸に射抜かれ、一瞬だけ冷えた空気に、ぞくりと背筋が粟立つ。
眼鏡を外した大佐の表情からは何も読み取れない。 けれど、彼があからさまに機嫌を損ねた事だけは理解出来た。
「ジェイ、ド……?」
私の声を遮るようにベッドが軋み、覆い被さった体が息苦しさを引き連れてのしかかる。
「あなたは、何も分かっていないのですね」
「あ、あの……──っ、」
これ以上の言葉は必要ないとばかりに唇を塞がれる。
差し入れられた舌が呼吸まで奪うように荒々しく口内を這いずり回る。
──いつもと全然違う。
それが無性に怖かった。
胸板を押し返す手は、まともな抵抗の一つも出来ず、いとも簡単に頭上で一纏めに拘束されてしまった。
節ばった手が無遠慮に裾をたくし上げ、脚のラインをなぞりながら衣服の中へと忍び込む。
「……ん、ぅ……はぁ」
唇の端から溢れて顎を伝う唾液を舌が舐め上げて、そのまま顎を滑り降りて、首筋に埋められる。
ねっとりと滑る舌が項を這い、頭が真っ白になる。
肌の感触を味わうように太腿をゆったりと這う手が、下着の紐へと掛けられた。
「ぁ、……待って……!」
「……今更、何を待つのですか? これは、あなたが望んだ事です」
制止の声も届かず、先程、散々焦らされた紐は容易く解かれてしまった。
自分から誘うような真似をしておいて、まさか、本当に先に進んでしまうのかと思った時、まだ覚悟が決めきれていないことに遅ればせながらに気付く。
こんな状況で私の心情が彼に届くわけもない。
太腿を撫でる手がやがて内側へと滑り込み、いよいよ全て奪われてしまうのだと思うと、途端に体がカタカタと震え出す。
(どうしよう……本当に、このまま最後まで?)
こうなる事を望んでいたはずなのに、どうしてだろう?
──嫌だ……まだ、少し怖い。
飲み込まれてしまいそうな感覚から逃げ出したい一心で顔を背け、目をきつく瞑る。目尻には、じわりと生理的な涙が滲んだ。
「…………はぁ」
拘束された手が解放され、頭上からため息が落とされる。
呆れられたと思い不安気な表情で大佐を見上げると、眉を下げ、柔らかく笑んでいた。
ゆったりと伸びる腕が、震える私を慈しむように抱き寄せる。
「ジェイド……」
「生憎と、怯える妻を無理矢理抱く趣味はありません」
ああ、そうか。
彼は最初から分かっていたのだ。
私に覚悟が決まっていないことを。
「だ、大丈夫!」
「震えていますよ?」
「これはっ……武者震いです!」
「……それはそれで、複雑ですね」
途中で止めてくれた事に安堵した自分がいる。
でも、このままずっとできなかったら?
私の決心がいつまでもつかなかったら?
私達はいつまでも先に進めない──本当の夫婦になれない。
「だって……私、ジェイドと本当の夫婦になりたいのに……」
「!」
胸板に埋めていた顔を上げ、揺れる瞳で訴える。
大佐はまたしても深く長いため息をついて、目を伏せた。
そして、私の額に触れるだけのキスを一つ落として、宥めるように静かな口調で言う。
「何をそんなに焦っているのですか? 私達はもうとっくに夫婦ですよ」
「そう、ですけど……でも、」
「なにも体を重ねることだけが全てではないでしょう? 何を吹き込まれたのか知りませんが、急ぐ必要などありません。私達は私達のペースで進めばいい」
「……はい」
どうしてだろう?
不思議だ……大佐の腕に抱き締められているだけで胸を締めていた不安はすっかり消えてなくなるのだから。
優しげな眼差しと、包み込むような声に堪らなくなって、再び胸板に顔を埋めて縋り付くように抱き締め返す。
「あなたを待つことには慣れていますので」
「ははは……それもそうですね」
焦らなくてもいい。
私はただ、この人を信じて委ねればいいのだ。
「てっきり、私がこういった事に不慣れだから面倒くさくなったのかと思っていました」
「心外ですねぇ。そんなわけがないでしょう?」
「だって、男の人はそうだって聞きました」
「一体どこでそんな知識を……。それこそ人それぞれだと思いますが」
腕に抱かれながら、彼の言葉にいつもより真剣に耳を傾ける。
愛だの恋だのというよりは、普段から論理的に私の問いに答えてくれる彼の見解が、果たしてこの題材をどのように紐解くのか気になったからに他ならない。
「まあ確かに快楽を目的とするのであれば、そうでしょうね。そうでないのなら、むしろ好ましいと思う男性は多いのではないでしょうか?」
「そうなの?」
「男は最初になりたがり、女は最後になりたがる──性交渉に限らず、本質的にそういう生き物だという事ですよ」
彼の指先が私の髪を梳く。
私を抱く腕も、声も、眼差しも、──指先までも。体を重ねなくとも彼の愛情が伝わってくるようだった。
心地よさに、目を細める。
「じゃあ、ジェイドも私の最初がいい?」
もぞもぞと腕の中で身じろいで胸板から顔を上げると、彼は双眸を柔和に細め、口元を緩める。
「そうですねぇ。ですが──私はあなたの“最初で最後の男”でありたい」
「へっ?」
「私はこう見えて欲深い男なんですよ?」
ニコリといつもの笑みを浮かべ、大佐は私の左手を掬い上げる。
薄く、形の良い唇が、薬指で輝く指輪へと押し当てられた。
見せつけるような仕草に、ぶわっと頬が真っ赤に色付く。
「あなたは、そんな厄介な男に生涯を捧げたという事です」
「の、望むところです! それに……捕まえたのは私の方だって事、忘れないでくださいよ?」
「ええ、そうでしたね。……忘れませんよ」
その腕に抱かれるのは、まるで底の見えない泥の中にゆっくりと沈んでゆく感覚に似ている。
足を取られたら抜け出せない耽美な泥濘のような──彼から与えられるのは、そんな愛だ。
20260524
どうせ誰にも見られていないだろう。
そんな軽い気持ちであくびをした時に限って、何故だか誰かに見られているものだ。
柔らかな陽光が降り注ぐ、麗らかな昼下がり。
愛らしいブウサギ達と共に中庭を散歩する時間は、慌ただしい日常を忘れさせてくれる穏やかなひと時だ。
そんな平和な空気をぶち壊すかのように、突然ガサリと茂みが大きく揺れた。
「よお!」
「わああああっ!!」
まさかこんな場所でピオニー陛下に出くわすとは思わず、盛大に驚いて飛び跳ねる。
眠気など一瞬で吹き飛んでしまった。
どうしてこのお方は、こうも神出鬼没なのだろう?
「へ、陛下! こんな所で一体何を……あ! まさか、また執務中に抜け出したのですか!?」
「ただの散歩だ、散歩。たまには息抜きも必要だろう? 無論、声もかけてきたぞ」
「はぁ、それなら構いませんが……」
今回も例に漏れず、脱走したのだとばかり……。
彼には前科があるだけに、すっかり職務放棄のイメージが定着してしまった。
想定外の場所で陛下と顔を合わせると、つい身構えてしまう。万が一、脱走だとしたら大事になる前に確保しなければならない。
なにしろ彼は一国を背負う、誰よりも尊いお方なのだから。
「そういうお前こそ楽しむのは結構だが、程々にしておけよ?」
「はい?」
楽しむ?程々に、とは?
何の事を言っているのかいまいち理解出来ないが、陛下は面白がるように目を細め、私の顔を覗き込む。
ブウサギの散歩の話だろうかと、両手に持った計六本のリードへ視線を落とす。
楽しいかと問われれば首を傾げてしまうけれど、まあ、ブウサギ達は愛らしい。今ではこんなにも懐いてくれて、彼等との触れ合いに癒しを貰っているのは事実だ。
足元でブヒブヒと鼻を鳴らしながら地面の匂いを嗅いで、モチモチの頬をぷっくり膨らませながら此方を仰ぎ見る仕草は……うん!とっっっても可愛い!
だらしなく表情が緩んで、蕩けたように目尻が下がる。
初めこそブウサギがペットだなんて驚いたものだが、今ではすっかりその愛らしさの虜になってしまった。
「まあ、ジェイドの奴が毎夜離さないんだろうが……あいつは涼しい顔をして存外ネチネチしてそうだしなぁ」
「大佐? ブウサギの話ではなくて、ですか?」
何だか話が噛み合っていない。
陛下の口からは大佐だの、ネチネチだのといったブウサギとは全く関係のない単語が出てくる。
少なくとも私は、ブウサギの話をしていたつもりだった。
「ブウサギ? いや、お前はさっき大きなあくびをしていただろう?」
「え!? 見ていたんですか!? 実は最近、徹夜続きでして……お見苦しい所を」
「そうじゃない。俺が言いたいのは、お前ら夫婦の夜の営みについてだな……」
「んなっ! そ、そそそそんなわけがないでしょう!?」
そこで漸く、陛下は私のあくびの原因が夜の営みのせいだと勘違いしている事に気が付いた。
睡眠を削ってまで励んでいると思われてしまった事が、何よりも恥ずかしい。
冗談ではないと声を大きくする私を見て、ピオニー陛下は酷く驚いたふうに目を剥いた。心なしか顔色もよろしくない。
散歩は早々に切り上げた方がいいのではないかと進言しようとした瞬間、がっしりと力強く両肩を掴まれた。
「まさか、お前ら……“まだ”なのか?」
「まだとは?」
「おいおい、冗談はよせ。そろそろ宮殿を出てひと月だぞ? ひと月の間、何も進展がないだと!?」
「冗談ではないのですが……まあ、はい。特には」
「その為に此処を出たんじゃないのか? いや、しかし……ジェイドがまだ手を出してないとはなぁ。こいつは驚いた」
その口振りからして、陛下にとって私たち夫婦の現状は想定外だったようだ。
確かに以前、いずれ私を抱くと大佐は言った。その為に宮殿を出て、私邸に移るのだと。
勿論、同じベッドで眠るし、抱き締められることだってある。キスもする。けれど、それ以上はない。
つまり、触れ合いがあるにも関わらず、その先に進む気配がないという事実が問題なのだ。
恋人ではなく、私達は夫婦であるのに。
今更ながらに、足元からじわじわと不安が立ち上ってくる。
私には一国を傾けるような美貌もなければ、人を惑わせる色気だってない。平々凡々な女だ。
いつだったか、チンチクリン呼ばわりされたことだってあった。
(……あれ? これは少し……いや、かなりマズいんじゃ?)
「へ、陛下……急に死活問題だと思えてきました」
「ああ。このままだと夫婦として致命的だな」
「致、命的……ど、どどどどどうすれば!?」
ここは女性好きと名高い我らがピオニー・ウパラ・マルクト九世皇帝陛下に教えを乞うしか道は残されていない。
彼が一国の王だと言うことも忘れ、縋り付く私の振る舞いは極刑待ったなしだろう。無礼も甚だしい。
「まあ、落ち着け。そんなお前に、俺がとっておきの秘策を授けてやる」
「本当ですか!?」
「ああ。涼しい顔をしたあいつも所詮は男だからな」
「是非、ご教示ください! ピオニー皇帝陛下万歳!!」
陛下は満更でもなさそうに「任せておけ」なんて鼻高々に言った後、私に耳打ちをする。
初めこそ熱心に頷きながら陛下の言葉に耳を傾けていたけれど、話が進むに連れ、それがとんでもない方法だと知って打ち震える。
想像しただけで泡を吹いて卒倒しそうだが、覚悟を決めるしかない。私には他に道が残されていないのだ。
決行は今夜。
偽物から本物へ──そして何より本当の夫婦になる為に。
「陛下、私……死ぬ気でやってみます!」
「よし、行ってこい。骨は拾ってやる」
「はい!!」
勇み足という名の空回りが、今後の夫婦生活の行く末を左右するかと思うと、あまりに心許ないけれど……。
***
昼間はああも息巻いていたが、実際、物事はそう上手く進まないらしい。
ちょっとしたハプニングやトラブルは、物語を面白くする為のスパイスになるけれど、今回に限ってそんなものは必要なかった。
要らないから、早くとどめを刺してほしい。その一心で、私はベッドに潜り込み、来たる瞬間を待っている。
陛下のアドバイス通り魅惑的な下着を着用し、サテン生地のやけに丈の短い薄手の寝間着(と、呼んでもいいのか微妙)に身を包んで、準備は万端。
覚悟を決め、ベッドに潜り込んでその時を待つが、肝心な大佐が一向に書斎から出て来ないのだ。
ただ待つだけというのは、いつもより時間の経過が遅く感じられる。
どこか落ち着かず、折角の覚悟も揺らいでしまいそうになる。
ベッドの上に正座してみたり、押し倒された所をシミュレーションして大の字に寝転んでみたり、再び布団の中へ潜り込んでみたり……。
「全っ然、出て来ないんですけど!?」
──待てど暮らせど、待ち人未だ訪れず。
駄目だ。待つのは性に合わない。
単純な私は、来ないのなら此方から行くしかないとベッドから跳ね起き、書斎へと向かう。
ふと姿見に映る自分の格好に驚き、慌ててベッドの脇に置いてあったガウンを羽織る。
胸元が大きく開いているせいで屈めば乳房が溢れ出そうだし、異様に丈の短い裾は少し動いただけで下着が見えてしまいそうだ。
陛下から言われるがままに受け取ったはいいが、私は今とんでもない格好をしているのだと改めて思い知る。こんなの、ただの痴女じゃないか。
羞恥心に抗いながらこんな格好をしているのだ。なんとしてでもこの誘惑大作戦を成功させなければ、犠牲になったなけなしの自尊心が浮かばれない。
僅かに震える手で書斎の扉をノックした後、控えめに顔を覗かせた。
「……ジェイド?」
扉の先には、此方に背を向けて机に向う大佐の姿がある。
邪魔をしている自覚があるから、自然と名前を呼ぶ声はか細い。
「おや、まだ起きていたのですか?」
大佐は書面に走らせていたペンを置き、椅子を少し引いて上体を此方に向けた。
その表情は穏やかで、声音も柔らかい。
第三師団師団長の彼ではなく、夫の顔をしていた。
胸の奥が、きゅうっと小さく疼く。
ああ──この人のこういう顔に、私は弱い。
「……まだ寝ないの?」
「ええ。あと少しかかりますので、先に休んでいてください」
その言葉に、今夜も何も起こらないのだと落胆した。
けれど、このまますごすごと寝室に戻ったのでは今までと何も変わらない。
昼間、致命的だと指摘された陛下の言葉を思い出し、自分を奮い立たせる。
今夜は何があっても引き下がらないと決めたのだから。
そして今こそ、陛下直伝の色仕掛け大作戦を実行に移す時。
小走りで駆け寄って、勢い任せに椅子に座る大佐を抱き締める。
「どうしました? 今夜は随分と積極的です、ね──!」
彼の頭を抱え込むようにして、無いに等しい胸を押し当てる。
(抱き締めて……それから、それから……何て言うんだっけ?)
「ええっと……ひ、一人じゃ寂しくて眠れないのー。一緒にいてほしいなー」
「……」
「私、ジェイドになら何をされても、かまわないからー」
「……」
陛下から教えてもらった台詞は、確かこんな感じだったはず。
露骨に胸を押し当てて、こうやって誘えば、あとはジェイドに任せておけばいいって言っていたもの。
けれど、返ってきたのは沈黙だった。
何か不手際があったのだろうかと、おずおずと腕を解くと、大佐はただ黙って此方を見つめている。
その双眸は、面白い物でも見るかのように細められていて、居心地が悪い。
少なくとも、色事からは程遠い。どちらかと言えば珍獣でも眺める類の視線だった。
──こんなはずでは。
「あのぉ……」
「お気になさらず。続きをどうぞ?」
「続き!? あ、えっと……以上、です……」
大佐は眼鏡を指で押し上げて、盛大にため息をついた。
一体何が駄目だったのだろう?
やっぱり、棒読みの台詞?それとも似合わないこの格好?
「誰の入れ知恵ですか?」
「え?」
「まあ、こうも単純で露骨な誘い方は……いかにもあのお方が考えそうな事ですが」
「え゛!?」
どうして陛下の入れ知恵だと分かったのか尋ねると、分からない方がおかしいと鼻で笑われた。
ピオニー陛下。あなたから教わった、とっておきの作戦は一瞬で見破られてしまいました。
「ブウサギの散歩の後、あなたの様子が可笑しかったので。何かあった事は明白です」
「そ、そうですか……」
結局、どんなに頑張ってみても、やっぱり“そういった雰囲気”にはならない。
「それに、ああも棒読みで誘われたのでは……」
「わ、悪かったですね! 棒読みで──っ!?」
丈の短いワンピースタイプの衣服は、裾にスリットが入っていて、容易く手の侵入を許してしまう。
実際今も、大佐の指が太腿を滑り、ゆっくりと裾をたくし上げていく。
羽織っていたガウンも剥ぎ取られて床に落ちてしまった。
あられも無い姿が眼前に晒されて、恥ずかしさのあまり逃げ出そうと身を捩っても、抱き寄せるように腰へ回された腕が離れることを良しとしない。
裾と同じく大胆に開いた胸元へ、唇が押し当てられる。
「ちょ、っと……どこ、触って……!」
「せっかくですので、その意地らしい色仕掛けに乗ってみようかと。これは“その為の服”ではないのですか?」
「男を誘う為の」と、囁いた吐息が肌にかかり、ピクリと体が小さく跳ねた。
私の反応を楽しむかのように、押し当てられた唇がリップ音を交えながら胸を這う。
「っ、ん……そこで喋らないでよ……!」
私の制止など気にも留めずに指を更に奥へと進め、蝶結びになった下着の紐に指を掛けると、大佐は少しばかり驚いた様子で呟く。
「…………紐、ですか」
「わ、私の趣味じゃないです!」
「また随分と大胆なことで」
「だからこれは、ピオニー陛下が……っ!」
陛下の名前を出した途端、ほんの一瞬私を捉える視線が鋭くなって、紐を引く指に力が込められた。
「ぁ……だ、だめ! 引っ張らないで……」
「駄目と言いながら、解いて欲しいと聞こえますが?」
クスリと、楽しげに笑う声が耳朶に響き、全身を駆け巡る。
指先と唇で軽く触れているだけ。それだけなのに、溶かされるような感覚に段々と体の力が抜けていくのが分かる。
これ以上の事をしてしまったら──私は一体どうなってしまうのだろう?
「──まあ、陛下の入れ知恵であろうと、あなたの努力は認めて差し上げますよ」
「……え? うわああっ!」
突然、浮遊感に襲われる。
横抱きにされたかと思うと、足早に書斎を出る。
躊躇うことなくベッドになだれ込むと、二人分の体重を受け止めるマットレスが弾みながらギシリと音を立てた。
「さあ、どうぞ。今度はあなた自身の言葉で、私を誘惑してください」
頬を包む彼の手は、いつもより熱を帯びているような気がした。
言葉を促すように、唇の上を親指の腹が滑る。
「そ、そんなのっ……無理だよ……」
「そうですか? 先程は見事な棒読みで私を誘っていたではないですか」
「棒読みはもういいから! それは、その……何も進展がないから……ピオニー陛下にどうしたら先に進めるか相談、して──」
一旦言葉を切って、唇を食む。
飲み込んだ言葉は、鉛のように胸の奥深くへと重く沈んでゆくようだ。
大佐から視線を逸らし、行き場のない感情ごと服の裾をぎゅっと握りしめた。
「だって……私に魅力が無いから、抱いてくれないんでしょ?」
絞り出すような声は震えていたように思う。
その通りだと肯定されたら、私はどうしたらいいの?
自分で口にしておきながら、虚しくなる。滑稽だった。
お前は女としての魅力がないと烙印を押されたような心地になってしまって。
こんな格好までして慣れないスキンシップをとって、棒読みで愛を囁いて──全部全部、馬鹿みたいだ。
不安の色を滲ませながら恐る恐る視線を戻すと、大佐は虚を突かれたように双眸を僅かに見開いた。
フッ、と吐息混じりの笑みが零れる。 けれど、それは笑っているはずなのに少しも温もりを感じない。
「……まさか」
吐き捨てるような声音が耳を衝く。
熱の引いた双眸に射抜かれ、一瞬だけ冷えた空気に、ぞくりと背筋が粟立つ。
眼鏡を外した大佐の表情からは何も読み取れない。 けれど、彼があからさまに機嫌を損ねた事だけは理解出来た。
「ジェイ、ド……?」
私の声を遮るようにベッドが軋み、覆い被さった体が息苦しさを引き連れてのしかかる。
「あなたは、何も分かっていないのですね」
「あ、あの……──っ、」
これ以上の言葉は必要ないとばかりに唇を塞がれる。
差し入れられた舌が呼吸まで奪うように荒々しく口内を這いずり回る。
──いつもと全然違う。
それが無性に怖かった。
胸板を押し返す手は、まともな抵抗の一つも出来ず、いとも簡単に頭上で一纏めに拘束されてしまった。
節ばった手が無遠慮に裾をたくし上げ、脚のラインをなぞりながら衣服の中へと忍び込む。
「……ん、ぅ……はぁ」
唇の端から溢れて顎を伝う唾液を舌が舐め上げて、そのまま顎を滑り降りて、首筋に埋められる。
ねっとりと滑る舌が項を這い、頭が真っ白になる。
肌の感触を味わうように太腿をゆったりと這う手が、下着の紐へと掛けられた。
「ぁ、……待って……!」
「……今更、何を待つのですか? これは、あなたが望んだ事です」
制止の声も届かず、先程、散々焦らされた紐は容易く解かれてしまった。
自分から誘うような真似をしておいて、まさか、本当に先に進んでしまうのかと思った時、まだ覚悟が決めきれていないことに遅ればせながらに気付く。
こんな状況で私の心情が彼に届くわけもない。
太腿を撫でる手がやがて内側へと滑り込み、いよいよ全て奪われてしまうのだと思うと、途端に体がカタカタと震え出す。
(どうしよう……本当に、このまま最後まで?)
こうなる事を望んでいたはずなのに、どうしてだろう?
──嫌だ……まだ、少し怖い。
飲み込まれてしまいそうな感覚から逃げ出したい一心で顔を背け、目をきつく瞑る。目尻には、じわりと生理的な涙が滲んだ。
「…………はぁ」
拘束された手が解放され、頭上からため息が落とされる。
呆れられたと思い不安気な表情で大佐を見上げると、眉を下げ、柔らかく笑んでいた。
ゆったりと伸びる腕が、震える私を慈しむように抱き寄せる。
「ジェイド……」
「生憎と、怯える妻を無理矢理抱く趣味はありません」
ああ、そうか。
彼は最初から分かっていたのだ。
私に覚悟が決まっていないことを。
「だ、大丈夫!」
「震えていますよ?」
「これはっ……武者震いです!」
「……それはそれで、複雑ですね」
途中で止めてくれた事に安堵した自分がいる。
でも、このままずっとできなかったら?
私の決心がいつまでもつかなかったら?
私達はいつまでも先に進めない──本当の夫婦になれない。
「だって……私、ジェイドと本当の夫婦になりたいのに……」
「!」
胸板に埋めていた顔を上げ、揺れる瞳で訴える。
大佐はまたしても深く長いため息をついて、目を伏せた。
そして、私の額に触れるだけのキスを一つ落として、宥めるように静かな口調で言う。
「何をそんなに焦っているのですか? 私達はもうとっくに夫婦ですよ」
「そう、ですけど……でも、」
「なにも体を重ねることだけが全てではないでしょう? 何を吹き込まれたのか知りませんが、急ぐ必要などありません。私達は私達のペースで進めばいい」
「……はい」
どうしてだろう?
不思議だ……大佐の腕に抱き締められているだけで胸を締めていた不安はすっかり消えてなくなるのだから。
優しげな眼差しと、包み込むような声に堪らなくなって、再び胸板に顔を埋めて縋り付くように抱き締め返す。
「あなたを待つことには慣れていますので」
「ははは……それもそうですね」
焦らなくてもいい。
私はただ、この人を信じて委ねればいいのだ。
「てっきり、私がこういった事に不慣れだから面倒くさくなったのかと思っていました」
「心外ですねぇ。そんなわけがないでしょう?」
「だって、男の人はそうだって聞きました」
「一体どこでそんな知識を……。それこそ人それぞれだと思いますが」
腕に抱かれながら、彼の言葉にいつもより真剣に耳を傾ける。
愛だの恋だのというよりは、普段から論理的に私の問いに答えてくれる彼の見解が、果たしてこの題材をどのように紐解くのか気になったからに他ならない。
「まあ確かに快楽を目的とするのであれば、そうでしょうね。そうでないのなら、むしろ好ましいと思う男性は多いのではないでしょうか?」
「そうなの?」
「男は最初になりたがり、女は最後になりたがる──性交渉に限らず、本質的にそういう生き物だという事ですよ」
彼の指先が私の髪を梳く。
私を抱く腕も、声も、眼差しも、──指先までも。体を重ねなくとも彼の愛情が伝わってくるようだった。
心地よさに、目を細める。
「じゃあ、ジェイドも私の最初がいい?」
もぞもぞと腕の中で身じろいで胸板から顔を上げると、彼は双眸を柔和に細め、口元を緩める。
「そうですねぇ。ですが──私はあなたの“最初で最後の男”でありたい」
「へっ?」
「私はこう見えて欲深い男なんですよ?」
ニコリといつもの笑みを浮かべ、大佐は私の左手を掬い上げる。
薄く、形の良い唇が、薬指で輝く指輪へと押し当てられた。
見せつけるような仕草に、ぶわっと頬が真っ赤に色付く。
「あなたは、そんな厄介な男に生涯を捧げたという事です」
「の、望むところです! それに……捕まえたのは私の方だって事、忘れないでくださいよ?」
「ええ、そうでしたね。……忘れませんよ」
その腕に抱かれるのは、まるで底の見えない泥の中にゆっくりと沈んでゆく感覚に似ている。
足を取られたら抜け出せない耽美な泥濘のような──彼から与えられるのは、そんな愛だ。
20260524