06
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グランコクマ宮殿――基、愛の巣と言う名の牢獄に戻る前、腹を満たす為に私達は食堂へと立ち寄った。
大佐と共に食事を取るのはこれが初めてだと今更ながらに気が付いて、二年前と比べて私達の関係は本当に変化してしまったのだと改めて実感した。
いがみ合っていた(私が一方的に)私達が食事を共にし、同居(新婚生活とは絶対認めない)する仲になったのだから、人生何が起こるか分からない。
大佐も自分と同じ人間なのだから食事をするのは当然だが、人間離れした彼の食事シーンは何だか物珍しかった。
しかも豆腐だ。死霊使いの好物はまさかの豆腐だったらしい。
その様を繁々と見つめる私の視線が物乞いしているように感じられたのだろうか?
「食べますか?」と問う彼の善意に対し「そんな年寄りが好みそうな味のしない食べ物なんていりませーん」と可愛げ無く返すと「これは失礼しました。脂肪に変化するだけの高カロリーな揚げ物を夜遅くに好んで食べるあなたに豆腐は物足りないですね。歳をとると匂いだけで胸焼けを起こしてしまいますので、羨ましいですよ」と数倍の嫌味で返された。
前言撤回。
やっぱり私達は二年前と何も変わっていない。私達は相容れない。食の好みすら。
そして本題。
食堂で腹を満たし、半日振りに宮殿へと戻った私達は陛下から賜った例の部屋に辿り着いたわけだが……。
「陛下ぁぁぁああ!?」
湯浴みを済ませ、寝室に入って早々――絶叫した。
夜分であろうが構わず腹の底から声を出した。大絶叫だ。
「な、なんっ……何で!?」
「まあ、こうなる予感はしていましたが……期待を裏切りませんねぇ」
髪を掻き毟りながら荒ぶ私とは対照的に、遅れて部屋に入ってきた大佐は落ち着き払った様子でベッドを眺めている。
どうして彼はこんな時まで冷静沈着でいられるのだろうか……成人男女に一つのベッド――これ以上の大事など他にないというのに。
大佐の言う“こうなる予感”とはつまり、私達が偽装夫婦だと知っていながらピオニー陛下は寝所にベッドを一台しか用意してくれていなかったという事実だ。
もはや悪戯では済まされない質の悪さだった。
私達の夫婦関係は張りぼての嘘っぱちであり、そこには愛情の欠片もないと示した筈なのに、この仕打ちはあまりに酷い。
やってくれたな!ピオニー・ウパラ・マルクト九世っ、…………皇帝陛下。
こんな仕打ちを受けて尚、心の中でさえ呼び捨てる事が出来ない自分が怨めしい。
『居場所がないのなら、ここに住めばいい。お前は今日から俺の民だ』
『好きな場所で好きなように生きればいい。飽きたらいつでも戻って来い』
二年前、ピオニー陛下は悪事を働いた私を快く受け入れ、送り出してくれた。
……まあ、送り出す事に関しては腹に一物抱えていたようだが、それでも彼から受けた恩は忘れず私の中に確と残っている。一生忘れる事はないのだろう。
何であれ、我らが皇帝陛下なのだった。
それにしてもベッド自体はかなり広々として、大人が二人で寝るには十分すぎる大きさだ。
もっと言えば、こんなにも大きなベッドを未だかつて見たことがなかった。
一体これは何サイズだろうかと、ベッドを見つめる私の肩口からにゅっと顔を覗かせて大佐は言う。
「キングサイズといったところでしょうか?」
「キ、キング!? ちょ、あの、近いです……」
「まあ、シングルサイズやそれに類するサイズでなかっただけマシですね」
耳にしたことのないサイズのベッドだった。
キングサイズのベッドだなんて、一般市民には縁遠い代物に違いない。それは私も然りである。
「これだけの広さがあれば二人でも十分か……一緒でもかまいませんね?」
「……はい?」
「何か?」
『何か?』ではない。
私の聞き間違いでなければ大佐は今、一緒に寝ると言わなかっただろうか?
男と女が一つのベッドで寝る?そんなおかしな話があってたまるか。私の聞き間違いに決まっている。
「えっと……今、一緒に寝ると聞こえまして。いや、でも、きっと私の聞き間違いですよね。すみません……あはは」
「いえ、聞き間違いではありませんよ。これだけの広さがあれば二人でも十分ですし」
「ちょ、本気ですか!? 正気ですか!?」
「はい。本気ですし、正気です。まさか、あなたは私達の間で何か間違いが起こるとでも?」
「そ、そりゃあ……男と女ですし? 百パーセント間違いが起きないとは言い切れないんじゃ……」
私の主張は至極真っ当だと思う。
男女が一つのベッドで眠るということは、そういう問題を危惧するのは当然だ。
疲労や雰囲気、精神的、身体的など様々な要因で愛がなくともそういった行為に及べるのが人間なのだ。
あまりに危険すぎる。
「なるほど……貞操の危機というわけですね。“私の”」
必死に反論する私に対し、大佐は揶揄うような口振りで言う。
予想外の返答だった。誰の貞操の危機だって?
その口振りは、まるで私が痴女であるかのような言い種だ。
「はぁああ!?」
「あなたは私と同じベッドで寝るといやらしい気分になるので、私に手を出しかねないのでしょう? なるほど……それなら仕方がありませんね。別々に寝ましょうか」
「何言ってるんですか! 逆ですよ逆! 私の貞操が危機だって言ってるんです!」
「ああ、それでしたら心配には及びません。私があなたに欲情する事はありませんから。こちらにも選ぶ権利くらい欲しいものですよ」
「サイテー!!」
私はこの瞬間、異性としての魅力をこれっぽっちも感じられない――女としてこれ以上ない侮辱を受けた気がした。
別にそうある事を望むわけじゃない。女として見て欲しいとも思っていない。
けれど、どうにも釈然としなかった。
どうして私はこんなにもやきもきしているのだろうか……。
「もういいです! おやすみなさい!」
「はい。おやすみなさい」
吐き捨てるように言って、早々とベッドに潜り込む。
「やれやれ」と呆れた台詞が耳に届いたが、振り向かず背を向けたままきつく目を閉じた。
直に衣擦れの音が背中越しに響き、マットレスが軋む。
程なくして部屋の灯りも落とされた。
床を共にしている筈なのにそれぞれがベッドの両端で眠っているせいで、一人で眠る時よりも寒々しく感じられた。
まるで、私達の心の距離が如実に現れているようでいて、居心地が悪い。
あれから、どれだけの時間が経っただろうか?
消灯した室内に目が順応して随分時間が経ったが、暗闇と静寂に包まれた室内は物音一つしない。
何しろキングサイズの広々としたベッドの端と端で眠っているのだから相手の寝息すら耳に届かない。
今日は朝早くから叩き起こされ怒涛の挙式と缶詰執務。腹は満たされ、ゆっくり風呂に浸かり、いつ睡魔が襲ってきてもおかしくない状況であるのに眠りに落ちるどころか目が冴える一方だった。
その原因は間違いなく背後で眠る彼のせい。
どうやら私は先程の大佐の言葉が存外堪えているらしかった。認めたくはないけれど。
良くも悪くも私には欲情しないと宣言した大佐は、その言葉通り、全く手を出してくる気配がない。
夫婦と言えど偽装なのだから当然で、寧ろ安心して眠りに付ける。
それなのに、私の胸には棘が刺さったかのようにチクチクと痛むのだ。
自分は彼にとって本当にその対象ではないとーー男としての本能にすら触れない存在なのだと現実を突き付けられているようだった。
――キスしたくせに。
仕返しだろうが何だろうが、私に触れたくせに。
行き場のない感情は滴り落ちて、心にじわりと滲みながら溶け広がる。
あれこれ考えたところで何か変わるわけでもない。
これ以上、不毛な感情に振り回されるのは御免だ。荒ぶ思考を脳内から追い出し、今度こそ眠ろう――そう思った時だった。
落ち着いた声音が静寂を破り、暗闇の中にポツリと響く。
「……ナマエ、起きていますか?」
「…………寝てます……だから、これは寝言です」
背を向けたまま素っ気なく返すと、大佐は小さく笑った。
いつものように揚げ足を取るわけでもなく、何事もなかったように言葉を続ける。
「先程の件ですが……幼少期にケテルブルクに住んでいたと。何か覚えていることはありますか?」
「またその話ですか……正直、四つか五つの頃だったので記憶はないです。でも、生前の母にそう聞かされました」
「……そうですか」
「何でそんな事を聞くんですか?」
大佐は執務室でケテルブルクの話をした時と同様に、またしても言葉に詰まる。
私の問いが、言葉に詰まるほど的外れだったとは思わないが……。
彼の場合、言葉に詰まるというよりも――何かを思案しているようにも感じられた。
一呼吸置いて、大佐は「特に意味はありませんよ」とまたしてもはぐらかすように言った。
意味がないのに質問なんてしない。
大佐のような合理性と効率を重視しているような人間なら尚更だろう。何もなければこんな風に問いかけたりしない。
彼の中で何かが引っかかったからこそ、こうして再度探るような質問をしているのだ。
ただ、彼の性質上、確信がなければ口にしない。
まだ答えを出すに足る確証と確信が得られていないのだろう。
それまで問の答えはお預けだなんてあんまりだ。焦らしプレイは止めてほしい。
「ちょっと、それは無いんじゃないですか? 人に質問しておいてー」
「おや、随分とよく喋る寝言ですね。一体どんな夢を見ているのやら」
「……っ! ……っ!!」
言葉にならなかった。
皮肉にも何気なく発した言葉が自分の首を絞めてしまう羽目になるとは。
大佐の嫌味に反論出来ない私は、背を向けたままただ悔しさを押し殺してわなわなと打ち震える事しか出来ない。
「…………でも、一つだけ覚えている事があります」
ケテルブルクで過ごした僅かな期間、幼い私が一つだけ覚えている事。忘れられない大切な思い出。
何故それを話そうと思ったのか自分でも分からなかった。
しかし、話したところで大佐には何ら関係の無いことで、幼き日の思い出の一ページに過ぎない。
そんな話を聞いても何の役にも立たないと思うのだけれど、大佐は押し黙ったままだった。
まるで、話の続きを待っているかのように感じられた。
沈黙に耐えかねて、仕方なく話の続きを話す。
「街の外で魔物に襲われた事があって」
四歳くらいだったろうか?
母の目を盗んでこっそり家を抜け出した私は、街を彷徨い歩いて気付けば街の外にいた。
その時、幼かった私は街の外がどれ程危険であったか知らず、案の定、魔物と出会してしまったのだ。
涎を口の端から垂れ流し、唸る魔物は鋭利な歯を剥き出しにして今にも私を喰らわんとしている。
慄き、恐怖から動けずにいる私は魔物にとって恰好の餌食だったろう。
咆哮と共に粘る涎が飛散し、こちらに飛びかかった瞬間、どこからとも無く発動した譜術が魔物の体を貫いたのだ。
「魔物に食われそうになった時、私を助けてくれた人がいました」
大佐は口を挟まず静かに私の言葉に耳を傾けている。
背中合わせで会話をするのは思った以上に厄介だ。何しろ相手の顔が見えないせいで心の機微を知り得ない。
そうは言っても、大佐は普段から笑みを浮かべているせいで何を考えているのかさっぱり分からないのだけれど。
彼に関しては向かい合わせであっても心の機微を知り得る事は出来ないのだろうし……うん。いいや、背中合わせのままで。
「一回りくらい歳が離れてたかなぁ……。彼は魔物を退治して直ぐに何処かへ行ってしまったんですけどね。兎にも角にも命の恩人です。あと、彼は私の初恋なんです」
「……そうですか」
「ですから、こうして偽装夫婦を演じていますけど、決して大佐の事を好きになる事はないですから!」
先程、大佐からお前は守備範囲外だと烙印を押された事への当て付けとばかりに言ってのけた。
私だって貴方は守備範囲外なのだと。
快哉を叫ぶと言わないまでも胸が空いた気がしたが、それも一時の事だった。
大佐を言い負かす事など私には不可能なのだ。
「なるほど。あなたの心は、その名前も知らない中身も分からないただ自分の命を救ってくれたという理由で美化された少年に今でも捧げ続けていると言うわけですか」
「……馬鹿にしてます?」
「いえ、そんなことは。思い続けられるあなたの心持ちと身持ちの堅さに関心しているだけですよ。いいですねぇ。甘酸っぱくて」
「やっぱり馬鹿にしてますよね!?」
背を向けている筈なのに、私を皮肉る時の楽しそうな大佐の顔が容易に想像出来て、またしても言い負かされた気持ちになった。実に不愉快極まりない。
「あなたの主張は理解しました。ですが、現に私にキスをした時点で身持ちの堅さは揺らいでしまっていますが……まあ、そこは目を瞑っておきますよ」
「んなっ、またその話を……! 忘れてくださいって言ったでしょう!?」
「私も嫌だと伝えたはずですよ?」
大佐は、相変わらず触れて欲しくない場所ばかりを的確に突いてくる。
まるで彼との会話は押し問答のようだと思えてならない。
決して交わることのない平行線のように、答えが出ることも気持ちが交わることもない。
「もういいです! ……どうせ今後彼と再会する事はないし、私の事だって何も覚えてないだろうし。美しい思い出として胸にしまっておきます」
「……案外、覚えているかもしれませんよ?」
「え?」
「いえ。おやすみなさい、ナマエ」
それはどういう意味かと問いかけようとして、しかし、大佐は強制的に話を切り上げた。
案外、覚えているかもしれない――その言葉を発した大佐の声音は心なしか柔らかだった。私の勘違いかもしれないが……。
気が付けば先程までの寒々しい空気は消え去っていて、今一度目を瞑ると意外にもするりと眠りの世界へと落ちることが出来た。
20251025
大佐と共に食事を取るのはこれが初めてだと今更ながらに気が付いて、二年前と比べて私達の関係は本当に変化してしまったのだと改めて実感した。
いがみ合っていた(私が一方的に)私達が食事を共にし、同居(新婚生活とは絶対認めない)する仲になったのだから、人生何が起こるか分からない。
大佐も自分と同じ人間なのだから食事をするのは当然だが、人間離れした彼の食事シーンは何だか物珍しかった。
しかも豆腐だ。死霊使いの好物はまさかの豆腐だったらしい。
その様を繁々と見つめる私の視線が物乞いしているように感じられたのだろうか?
「食べますか?」と問う彼の善意に対し「そんな年寄りが好みそうな味のしない食べ物なんていりませーん」と可愛げ無く返すと「これは失礼しました。脂肪に変化するだけの高カロリーな揚げ物を夜遅くに好んで食べるあなたに豆腐は物足りないですね。歳をとると匂いだけで胸焼けを起こしてしまいますので、羨ましいですよ」と数倍の嫌味で返された。
前言撤回。
やっぱり私達は二年前と何も変わっていない。私達は相容れない。食の好みすら。
そして本題。
食堂で腹を満たし、半日振りに宮殿へと戻った私達は陛下から賜った例の部屋に辿り着いたわけだが……。
「陛下ぁぁぁああ!?」
湯浴みを済ませ、寝室に入って早々――絶叫した。
夜分であろうが構わず腹の底から声を出した。大絶叫だ。
「な、なんっ……何で!?」
「まあ、こうなる予感はしていましたが……期待を裏切りませんねぇ」
髪を掻き毟りながら荒ぶ私とは対照的に、遅れて部屋に入ってきた大佐は落ち着き払った様子でベッドを眺めている。
どうして彼はこんな時まで冷静沈着でいられるのだろうか……成人男女に一つのベッド――これ以上の大事など他にないというのに。
大佐の言う“こうなる予感”とはつまり、私達が偽装夫婦だと知っていながらピオニー陛下は寝所にベッドを一台しか用意してくれていなかったという事実だ。
もはや悪戯では済まされない質の悪さだった。
私達の夫婦関係は張りぼての嘘っぱちであり、そこには愛情の欠片もないと示した筈なのに、この仕打ちはあまりに酷い。
やってくれたな!ピオニー・ウパラ・マルクト九世っ、…………皇帝陛下。
こんな仕打ちを受けて尚、心の中でさえ呼び捨てる事が出来ない自分が怨めしい。
『居場所がないのなら、ここに住めばいい。お前は今日から俺の民だ』
『好きな場所で好きなように生きればいい。飽きたらいつでも戻って来い』
二年前、ピオニー陛下は悪事を働いた私を快く受け入れ、送り出してくれた。
……まあ、送り出す事に関しては腹に一物抱えていたようだが、それでも彼から受けた恩は忘れず私の中に確と残っている。一生忘れる事はないのだろう。
何であれ、我らが皇帝陛下なのだった。
それにしてもベッド自体はかなり広々として、大人が二人で寝るには十分すぎる大きさだ。
もっと言えば、こんなにも大きなベッドを未だかつて見たことがなかった。
一体これは何サイズだろうかと、ベッドを見つめる私の肩口からにゅっと顔を覗かせて大佐は言う。
「キングサイズといったところでしょうか?」
「キ、キング!? ちょ、あの、近いです……」
「まあ、シングルサイズやそれに類するサイズでなかっただけマシですね」
耳にしたことのないサイズのベッドだった。
キングサイズのベッドだなんて、一般市民には縁遠い代物に違いない。それは私も然りである。
「これだけの広さがあれば二人でも十分か……一緒でもかまいませんね?」
「……はい?」
「何か?」
『何か?』ではない。
私の聞き間違いでなければ大佐は今、一緒に寝ると言わなかっただろうか?
男と女が一つのベッドで寝る?そんなおかしな話があってたまるか。私の聞き間違いに決まっている。
「えっと……今、一緒に寝ると聞こえまして。いや、でも、きっと私の聞き間違いですよね。すみません……あはは」
「いえ、聞き間違いではありませんよ。これだけの広さがあれば二人でも十分ですし」
「ちょ、本気ですか!? 正気ですか!?」
「はい。本気ですし、正気です。まさか、あなたは私達の間で何か間違いが起こるとでも?」
「そ、そりゃあ……男と女ですし? 百パーセント間違いが起きないとは言い切れないんじゃ……」
私の主張は至極真っ当だと思う。
男女が一つのベッドで眠るということは、そういう問題を危惧するのは当然だ。
疲労や雰囲気、精神的、身体的など様々な要因で愛がなくともそういった行為に及べるのが人間なのだ。
あまりに危険すぎる。
「なるほど……貞操の危機というわけですね。“私の”」
必死に反論する私に対し、大佐は揶揄うような口振りで言う。
予想外の返答だった。誰の貞操の危機だって?
その口振りは、まるで私が痴女であるかのような言い種だ。
「はぁああ!?」
「あなたは私と同じベッドで寝るといやらしい気分になるので、私に手を出しかねないのでしょう? なるほど……それなら仕方がありませんね。別々に寝ましょうか」
「何言ってるんですか! 逆ですよ逆! 私の貞操が危機だって言ってるんです!」
「ああ、それでしたら心配には及びません。私があなたに欲情する事はありませんから。こちらにも選ぶ権利くらい欲しいものですよ」
「サイテー!!」
私はこの瞬間、異性としての魅力をこれっぽっちも感じられない――女としてこれ以上ない侮辱を受けた気がした。
別にそうある事を望むわけじゃない。女として見て欲しいとも思っていない。
けれど、どうにも釈然としなかった。
どうして私はこんなにもやきもきしているのだろうか……。
「もういいです! おやすみなさい!」
「はい。おやすみなさい」
吐き捨てるように言って、早々とベッドに潜り込む。
「やれやれ」と呆れた台詞が耳に届いたが、振り向かず背を向けたままきつく目を閉じた。
直に衣擦れの音が背中越しに響き、マットレスが軋む。
程なくして部屋の灯りも落とされた。
床を共にしている筈なのにそれぞれがベッドの両端で眠っているせいで、一人で眠る時よりも寒々しく感じられた。
まるで、私達の心の距離が如実に現れているようでいて、居心地が悪い。
あれから、どれだけの時間が経っただろうか?
消灯した室内に目が順応して随分時間が経ったが、暗闇と静寂に包まれた室内は物音一つしない。
何しろキングサイズの広々としたベッドの端と端で眠っているのだから相手の寝息すら耳に届かない。
今日は朝早くから叩き起こされ怒涛の挙式と缶詰執務。腹は満たされ、ゆっくり風呂に浸かり、いつ睡魔が襲ってきてもおかしくない状況であるのに眠りに落ちるどころか目が冴える一方だった。
その原因は間違いなく背後で眠る彼のせい。
どうやら私は先程の大佐の言葉が存外堪えているらしかった。認めたくはないけれど。
良くも悪くも私には欲情しないと宣言した大佐は、その言葉通り、全く手を出してくる気配がない。
夫婦と言えど偽装なのだから当然で、寧ろ安心して眠りに付ける。
それなのに、私の胸には棘が刺さったかのようにチクチクと痛むのだ。
自分は彼にとって本当にその対象ではないとーー男としての本能にすら触れない存在なのだと現実を突き付けられているようだった。
――キスしたくせに。
仕返しだろうが何だろうが、私に触れたくせに。
行き場のない感情は滴り落ちて、心にじわりと滲みながら溶け広がる。
あれこれ考えたところで何か変わるわけでもない。
これ以上、不毛な感情に振り回されるのは御免だ。荒ぶ思考を脳内から追い出し、今度こそ眠ろう――そう思った時だった。
落ち着いた声音が静寂を破り、暗闇の中にポツリと響く。
「……ナマエ、起きていますか?」
「…………寝てます……だから、これは寝言です」
背を向けたまま素っ気なく返すと、大佐は小さく笑った。
いつものように揚げ足を取るわけでもなく、何事もなかったように言葉を続ける。
「先程の件ですが……幼少期にケテルブルクに住んでいたと。何か覚えていることはありますか?」
「またその話ですか……正直、四つか五つの頃だったので記憶はないです。でも、生前の母にそう聞かされました」
「……そうですか」
「何でそんな事を聞くんですか?」
大佐は執務室でケテルブルクの話をした時と同様に、またしても言葉に詰まる。
私の問いが、言葉に詰まるほど的外れだったとは思わないが……。
彼の場合、言葉に詰まるというよりも――何かを思案しているようにも感じられた。
一呼吸置いて、大佐は「特に意味はありませんよ」とまたしてもはぐらかすように言った。
意味がないのに質問なんてしない。
大佐のような合理性と効率を重視しているような人間なら尚更だろう。何もなければこんな風に問いかけたりしない。
彼の中で何かが引っかかったからこそ、こうして再度探るような質問をしているのだ。
ただ、彼の性質上、確信がなければ口にしない。
まだ答えを出すに足る確証と確信が得られていないのだろう。
それまで問の答えはお預けだなんてあんまりだ。焦らしプレイは止めてほしい。
「ちょっと、それは無いんじゃないですか? 人に質問しておいてー」
「おや、随分とよく喋る寝言ですね。一体どんな夢を見ているのやら」
「……っ! ……っ!!」
言葉にならなかった。
皮肉にも何気なく発した言葉が自分の首を絞めてしまう羽目になるとは。
大佐の嫌味に反論出来ない私は、背を向けたままただ悔しさを押し殺してわなわなと打ち震える事しか出来ない。
「…………でも、一つだけ覚えている事があります」
ケテルブルクで過ごした僅かな期間、幼い私が一つだけ覚えている事。忘れられない大切な思い出。
何故それを話そうと思ったのか自分でも分からなかった。
しかし、話したところで大佐には何ら関係の無いことで、幼き日の思い出の一ページに過ぎない。
そんな話を聞いても何の役にも立たないと思うのだけれど、大佐は押し黙ったままだった。
まるで、話の続きを待っているかのように感じられた。
沈黙に耐えかねて、仕方なく話の続きを話す。
「街の外で魔物に襲われた事があって」
四歳くらいだったろうか?
母の目を盗んでこっそり家を抜け出した私は、街を彷徨い歩いて気付けば街の外にいた。
その時、幼かった私は街の外がどれ程危険であったか知らず、案の定、魔物と出会してしまったのだ。
涎を口の端から垂れ流し、唸る魔物は鋭利な歯を剥き出しにして今にも私を喰らわんとしている。
慄き、恐怖から動けずにいる私は魔物にとって恰好の餌食だったろう。
咆哮と共に粘る涎が飛散し、こちらに飛びかかった瞬間、どこからとも無く発動した譜術が魔物の体を貫いたのだ。
「魔物に食われそうになった時、私を助けてくれた人がいました」
大佐は口を挟まず静かに私の言葉に耳を傾けている。
背中合わせで会話をするのは思った以上に厄介だ。何しろ相手の顔が見えないせいで心の機微を知り得ない。
そうは言っても、大佐は普段から笑みを浮かべているせいで何を考えているのかさっぱり分からないのだけれど。
彼に関しては向かい合わせであっても心の機微を知り得る事は出来ないのだろうし……うん。いいや、背中合わせのままで。
「一回りくらい歳が離れてたかなぁ……。彼は魔物を退治して直ぐに何処かへ行ってしまったんですけどね。兎にも角にも命の恩人です。あと、彼は私の初恋なんです」
「……そうですか」
「ですから、こうして偽装夫婦を演じていますけど、決して大佐の事を好きになる事はないですから!」
先程、大佐からお前は守備範囲外だと烙印を押された事への当て付けとばかりに言ってのけた。
私だって貴方は守備範囲外なのだと。
快哉を叫ぶと言わないまでも胸が空いた気がしたが、それも一時の事だった。
大佐を言い負かす事など私には不可能なのだ。
「なるほど。あなたの心は、その名前も知らない中身も分からないただ自分の命を救ってくれたという理由で美化された少年に今でも捧げ続けていると言うわけですか」
「……馬鹿にしてます?」
「いえ、そんなことは。思い続けられるあなたの心持ちと身持ちの堅さに関心しているだけですよ。いいですねぇ。甘酸っぱくて」
「やっぱり馬鹿にしてますよね!?」
背を向けている筈なのに、私を皮肉る時の楽しそうな大佐の顔が容易に想像出来て、またしても言い負かされた気持ちになった。実に不愉快極まりない。
「あなたの主張は理解しました。ですが、現に私にキスをした時点で身持ちの堅さは揺らいでしまっていますが……まあ、そこは目を瞑っておきますよ」
「んなっ、またその話を……! 忘れてくださいって言ったでしょう!?」
「私も嫌だと伝えたはずですよ?」
大佐は、相変わらず触れて欲しくない場所ばかりを的確に突いてくる。
まるで彼との会話は押し問答のようだと思えてならない。
決して交わることのない平行線のように、答えが出ることも気持ちが交わることもない。
「もういいです! ……どうせ今後彼と再会する事はないし、私の事だって何も覚えてないだろうし。美しい思い出として胸にしまっておきます」
「……案外、覚えているかもしれませんよ?」
「え?」
「いえ。おやすみなさい、ナマエ」
それはどういう意味かと問いかけようとして、しかし、大佐は強制的に話を切り上げた。
案外、覚えているかもしれない――その言葉を発した大佐の声音は心なしか柔らかだった。私の勘違いかもしれないが……。
気が付けば先程までの寒々しい空気は消え去っていて、今一度目を瞑ると意外にもするりと眠りの世界へと落ちることが出来た。
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