05
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「や、やっと終わったぁ……」
「はい、ご苦労様です」
べちゃりと顔面から机に突っ伏した私は、さながら無脊椎動物のようにだらしなく蕩けていた。
もう駄目だ……指先一つ動かせない。最低限の生命活動以外何もしたくない。
マルクト軍基地、大佐の執務室にて――。
デスクワークによって長時間拘束された体は限界に達し、悲鳴を上げていた。
書類整理で肩は凝るし、二年振りに袖を通した軍服はやはり堅苦しいし、目は眼精疲労でずっしりと重い。長時間椅子に座り続け、押し潰れた尻はすっかり真っ平らになった気がする。
馬鹿げた挙式を執り行ったのが午前中。
新婚気分を味わう暇もなく、ウエディングドレスからマルクト軍の軍服にお色直しをしたかと思うと、執務室で缶詰状態なのだから無脊椎動物にもなる。
疲労困憊で無脊椎動物化した私に対し、大佐は涼しい顔で書類に目を通している。
自分と同じ時間机に向かっている筈なのに、彼は何故こうも涼しい顔をしていられるのだろう?
大佐は本当に私と同じ人間なのだろうか?
そもそも私に書類仕事なんて細々した作業は向いていないのだ。
そんな事は二年前から分かっていた筈なのに、どういうわけか大佐は私に書類仕事を押し付けた。嫌がらせとしか思えない。
そればかりか、仕事中になんの脈絡もなく告げられた私の役職は、大佐の補佐官という立ち位置らしい。
肩書が副士団長でないだけまだマシだが、副師団長が空席である現状、補佐官なんて名ばかりで実際はそれに類する役職なのではないかと思えてならなかった。
もしも、そんな事を口にしようものなら……『おや、そんなにやる気があるのなら、是非、副師団長に任命しましょう』などと言われかねない。考えただけで恐ろしかった。
今や私の肩書はマルクト帝国軍第三師団師団長補佐官兼妻というなんとも複雑なものとなってしまった。
昨日まで自由奔放、勝手気儘なハッピーライフを送っていたというのに……ああ、ダアトでの悠々自適な生活が恋しくて堪らない。
早くもここから――大佐の元から逃げ出したい衝動に駆られた。
…………じゃあ、逃げちゃう?
不意に脳内へと流れ込んだ誘惑の囁き。
思わず頷きそうになるものの、先刻も一瞬で阻止された事を思い出し、首を左右に振って邪な思考を脳内から追い出した。
「あの……今日は心身共に疲労困憊なので、お先に失礼しまーす……」
「ああ、少し待って下さい。私も一段落つきましたので、一緒に帰りましょう」
うん?一緒に帰りましょう?
今、大佐の口から聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「…………はい?」
「ですから、一緒に帰りましょうと言いました」
「いや、何処に? 帰るも何も私の部屋はすぐ隣なんですけど……」
「その件ですが、陛下から私達の新居を宮殿内に賜りました。“愛の巣”だそうですよ……まったく何を考えていらっしゃるのやら」
「はいいいいいい!?」
あ、あああ愛の巣っ!?
そんなものは、偽装夫婦である私達に一番必要のない代物だった。
せっかくのご厚意だが、今は余計な世話だとしか思えない。
少しは夫婦らしくしろとの意が込められているのだろうが、そもそも私達の関係は偽装なのでその必要性をまったく感じない。心労がまた一段と増した気がする。
「遠慮します! 丁重にお断り致します! 冗談じゃないです!」
「まあ、夫婦といえど私達の場合は偽装ですし、その点に関しては同感ですね。陛下もご存知のはずですが……」
揶揄い半分なのか、それとも他に何かお考えあってのことなのか……。
ふと脳内にピオニー陛下の姿が浮かぶ――が、それは式の最中ずっと肩を震わせ必死に笑いを堪える彼の姿だった。
うん。この件は絶対に私達をからかって遊んでいる。
陛下のことだ。面白可笑しく大佐に告げたに違いない。
『俺からの結婚祝だ。仲睦まじくな!』だとかなんとか言いって。
「しかし、陛下からのご厚意とあらば無碍にも出来ませんしねぇ」
「大丈夫ですよ。さあ、無碍にしましょう。今無碍にせず、いつ無碍にするんですか!?」
「そう簡単な問題ではないのですよ。周囲の目もありますから」
「そんなの知らないですよ。だったら、大佐がお一人で住めばいいじゃないですか。私は今の部屋で十分です」
「“部屋”と言いますが、あそこは元は物置ですよ? それに、ベッドもないでしょう?」
「いえ、大丈夫ですのでお気遣いなく!」
大佐はさらりと口にしたが、私の私室だと与えられた部屋はどうやら物置だったらしい。
二年越しに知る衝撃的事実。二年前の数カ月間、どうやら私は物置部屋の住人であったらしい。
まあ、二年前の……それ以前の事を思えば雨風凌げる場所で、ソファーにしろ何にしろ寝転べる場所があれば十分だった。
なので、今のまま寝床はソファーでも問題ない。
ダアトで逃亡生活中、道具屋の二階の物置で暮らしていた時も、板箱を並べて煎餅布団を敷いただけのお世辞にも寝台と呼べない粗末な場所で寝ていたのだから、マットレスのきいたソファーは贅沢品だ。
「今夜は冷えますよ? 隙間風も入ります」
「寒さには慣れてるのでお気遣いなく。これでも幼少期の数年間ケテルブルクに住んでいた事もあるんですから!」
えっへん!と胸を張って高らかに宣言する私を前に、大佐は双眸を見開く。
「……その時の事は何か覚えていますか?」と問う彼の言葉には珍しく動揺の色が滲んでいたように思うが、私の返答を待たず頭を振り、何でもありませんと付け足した。
仕切り直すように眼鏡を指で押し上げ、大佐は改めて口を開いた。
「ナマエ、本当に宜しいのですか?」
「え……?」
キラリと眼鏡が光ったような気がする。
こんな時、大佐は十中八九良からぬ事を企んでいて、言葉巧みに私を騙し、出し抜き、分かっていながら気付けばいつも懐柔されているのだ。
一歩また一歩と私との距離を詰め、つられて私も一歩また一歩と後退る。
「何しろグランコクマ宮殿ですからねぇ。貴族が住まう場所ですので、それはそれは豪華で華やかで絢爛な室内ですよ」
「ご、豪華……。はっ! そ、その手にはのりません……」
「風呂場も広く、ベッドもそこらの高級宿よりも上等なものでしょうねぇ。今日のようなデスクワークで凝り固まった体を癒すならこれ以上ないでしょう」
「う、あ……」
「さあ、どうしますか?」
「…………」
「…………」
トン、と背中に壁の冷ややかな感触を受ける。眼前には笑顔の大佐、背中には壁。
ニコニコと満面の笑みならぬ悪魔の微笑みと囁きで、大佐は私の好奇心を存分に揺り動かした。頷かずにはいられないような文言で。
「無言は肯定と受け取ってよろしいですね? では、一緒に帰りましょうか」
「ぐわあああ……ズルいですよ!!」
私が逃げ出すと見越してか、大佐は笑みを浮かべたまましっかりと私の右手を掴んだ。
完全に行動を読まれている。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ私を歯牙にも掛けず半強制的に連れ出すが、扉を開けると執務室の前で佇む兵士と鉢合わせになった。
今にも部屋に入らんとすべく、彼の手はノックをする為に胸の前で軽く握られている。
一抹の不安がよぎる。
もしかすると、一連の言い合いを聞かれてしまった可能性があったからだ。
カーティス夫妻は結婚初日から離縁の危機だ!だのと不仲説が宮殿や軍基地中に飛び交い、終いには結婚生活が何ヶ月保つか賭け事のネタにされかねない。
どうすべきか逡巡していると、途端に大佐の手が腰に回り、力強く引き寄せられた。
足がもつれ、よろけたままに身を預ける体勢になってしまい、慌てて離れようとしたが、それを拒むように一層強く抱き寄せられた。
力強い腕と逞しい胸板は、やはり彼は軍人で、男性である事を私に改めて実感させる。
鼻を掠めた彼の香りに堪らず心臓がトクリと淡い音を立てた。
「ご苦労。すまないが、急ぎの用件でなければ明日の朝にしてくれ」
「し、失礼しました! 明日、改めます」
敬礼し、足早に去った兵士は私達を見て流石に戸惑っていたように思う。
死霊使いと恐れられる彼の、妻(偽装)との仲睦まじい姿というのはやはり異色に映るらしい。
「ナマエ、もう離れて結構ですよ? まあ、私はこのままでも一向に構いませんが」
「へ? うわ! わ、あっ!」
慌てて大佐から飛び退き、じっとりとした視線を向けた。
その様はまるで、警戒して体毛を逆立てる猫のようだったろう。
「流石は大佐……機転が利きますね。ついでに女性の扱いもお手の物って事ですか?」
「お褒め頂き光栄です。流石に初日からバレるわけにはいきませんから」
大佐は、嫌味交じりに吐き出した私の言葉を軽くあしらって執務室を施錠する。
その様を傍らでぼんやり眺めながら、ふと先程感じた事を尋ねてみる。
「あの、大佐」
「何ですか?」
「大佐も香水とかつけるんですね」
「いえ、特につけていませんが?」
「え? でも、さっきいい匂い……が――」
言って、自分が今とてつもない変態発言をしてしまったことにはたとして、慌てて言葉を切る。
彼の前でこんな発言をした日には、存分に揶揄われ、後日ネタにされ、事あるごとに引っ張り出しては玩具のように扱い、羞恥に貶める……悪魔みたいな男なのだ。
しかし、大佐は別段私の発言を取り上げて揶揄うわけでもなく、その原因を科学的に紐解いた。
「それはきっと遺伝子レベルで相性が良いのでしょうね」
「遺伝子レベル……」
「人間は、自分と相手の遺伝子の相性を嗅覚を介して選別出来る能力を備えていると言われていますから」
「へぇ」
大佐は突然私の顎へ指を掛け、そのまま自分の方へ掬い上げる。
紅い瞳に射抜かれ、意識をまるっと攫われた。
ジリジリと焼き付けるような深紅の双眸は、私から一切の抵抗を取り上げる。
「では、試してみますか?」
「え? た、いさ……」
肩から流れ落ちたブラウンの髪が頬を掠めた瞬間、昨夜の記憶が脳内に流れ込む。
あの日は、不覚にもあのまま唇を奪われてしまったが、二度も唇を奪われてなるものか。
けれど、顎に指を掛けられている以上、私に抵抗らしい抵抗など出来るわけもなく……。
絶体絶命の中、私がとった行動といえば、全力で大佐に変顔をお見舞いすることだった。
キスをする気が失せるほどの変顔を披露する日が、満を持してやってきたのだ。
我ながら渾身の変顔だったと思う。
深海に住まう魚のような、不細工さと緩さ、そして愛くるしさを絶妙に織り交ぜた言葉にし難い顔になっていただろう。
「っ! ふ、ふふ……っ、そう来ましたか。あなたは本当に飽きないですね。まあ、いいでしょう。今日は私の負けです」
私の顎から手を離し、顔を背けて肩を震わせる大佐は、珍しく自ら負けを認めた。
そして、顔を背けたまま私の頭を優しい手付きでポンポンと撫でた。
「では、帰りましょうか。“愛の巣”へ」
「ははは……はは……“愛の巣”と言うより“牢獄”ですよ」
愛の巣だなんてとんでもない。
私にとってそれは、鳥籠――いや、とんでもなく豪華な牢獄のように感じられてならなかった。
「至言ですね」と喉を鳴らして態とらしく笑う大佐は、間違いなくこの状況を楽しんでいる。
いつものように片手はポケットに、もう片方は私の手を引く。
その足取りは心なしか弾んでいるように感じられた。
全く、何がそんなに楽しいのだろう?
20251017
「はい、ご苦労様です」
べちゃりと顔面から机に突っ伏した私は、さながら無脊椎動物のようにだらしなく蕩けていた。
もう駄目だ……指先一つ動かせない。最低限の生命活動以外何もしたくない。
マルクト軍基地、大佐の執務室にて――。
デスクワークによって長時間拘束された体は限界に達し、悲鳴を上げていた。
書類整理で肩は凝るし、二年振りに袖を通した軍服はやはり堅苦しいし、目は眼精疲労でずっしりと重い。長時間椅子に座り続け、押し潰れた尻はすっかり真っ平らになった気がする。
馬鹿げた挙式を執り行ったのが午前中。
新婚気分を味わう暇もなく、ウエディングドレスからマルクト軍の軍服にお色直しをしたかと思うと、執務室で缶詰状態なのだから無脊椎動物にもなる。
疲労困憊で無脊椎動物化した私に対し、大佐は涼しい顔で書類に目を通している。
自分と同じ時間机に向かっている筈なのに、彼は何故こうも涼しい顔をしていられるのだろう?
大佐は本当に私と同じ人間なのだろうか?
そもそも私に書類仕事なんて細々した作業は向いていないのだ。
そんな事は二年前から分かっていた筈なのに、どういうわけか大佐は私に書類仕事を押し付けた。嫌がらせとしか思えない。
そればかりか、仕事中になんの脈絡もなく告げられた私の役職は、大佐の補佐官という立ち位置らしい。
肩書が副士団長でないだけまだマシだが、副師団長が空席である現状、補佐官なんて名ばかりで実際はそれに類する役職なのではないかと思えてならなかった。
もしも、そんな事を口にしようものなら……『おや、そんなにやる気があるのなら、是非、副師団長に任命しましょう』などと言われかねない。考えただけで恐ろしかった。
今や私の肩書はマルクト帝国軍第三師団師団長補佐官兼妻というなんとも複雑なものとなってしまった。
昨日まで自由奔放、勝手気儘なハッピーライフを送っていたというのに……ああ、ダアトでの悠々自適な生活が恋しくて堪らない。
早くもここから――大佐の元から逃げ出したい衝動に駆られた。
…………じゃあ、逃げちゃう?
不意に脳内へと流れ込んだ誘惑の囁き。
思わず頷きそうになるものの、先刻も一瞬で阻止された事を思い出し、首を左右に振って邪な思考を脳内から追い出した。
「あの……今日は心身共に疲労困憊なので、お先に失礼しまーす……」
「ああ、少し待って下さい。私も一段落つきましたので、一緒に帰りましょう」
うん?一緒に帰りましょう?
今、大佐の口から聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「…………はい?」
「ですから、一緒に帰りましょうと言いました」
「いや、何処に? 帰るも何も私の部屋はすぐ隣なんですけど……」
「その件ですが、陛下から私達の新居を宮殿内に賜りました。“愛の巣”だそうですよ……まったく何を考えていらっしゃるのやら」
「はいいいいいい!?」
あ、あああ愛の巣っ!?
そんなものは、偽装夫婦である私達に一番必要のない代物だった。
せっかくのご厚意だが、今は余計な世話だとしか思えない。
少しは夫婦らしくしろとの意が込められているのだろうが、そもそも私達の関係は偽装なのでその必要性をまったく感じない。心労がまた一段と増した気がする。
「遠慮します! 丁重にお断り致します! 冗談じゃないです!」
「まあ、夫婦といえど私達の場合は偽装ですし、その点に関しては同感ですね。陛下もご存知のはずですが……」
揶揄い半分なのか、それとも他に何かお考えあってのことなのか……。
ふと脳内にピオニー陛下の姿が浮かぶ――が、それは式の最中ずっと肩を震わせ必死に笑いを堪える彼の姿だった。
うん。この件は絶対に私達をからかって遊んでいる。
陛下のことだ。面白可笑しく大佐に告げたに違いない。
『俺からの結婚祝だ。仲睦まじくな!』だとかなんとか言いって。
「しかし、陛下からのご厚意とあらば無碍にも出来ませんしねぇ」
「大丈夫ですよ。さあ、無碍にしましょう。今無碍にせず、いつ無碍にするんですか!?」
「そう簡単な問題ではないのですよ。周囲の目もありますから」
「そんなの知らないですよ。だったら、大佐がお一人で住めばいいじゃないですか。私は今の部屋で十分です」
「“部屋”と言いますが、あそこは元は物置ですよ? それに、ベッドもないでしょう?」
「いえ、大丈夫ですのでお気遣いなく!」
大佐はさらりと口にしたが、私の私室だと与えられた部屋はどうやら物置だったらしい。
二年越しに知る衝撃的事実。二年前の数カ月間、どうやら私は物置部屋の住人であったらしい。
まあ、二年前の……それ以前の事を思えば雨風凌げる場所で、ソファーにしろ何にしろ寝転べる場所があれば十分だった。
なので、今のまま寝床はソファーでも問題ない。
ダアトで逃亡生活中、道具屋の二階の物置で暮らしていた時も、板箱を並べて煎餅布団を敷いただけのお世辞にも寝台と呼べない粗末な場所で寝ていたのだから、マットレスのきいたソファーは贅沢品だ。
「今夜は冷えますよ? 隙間風も入ります」
「寒さには慣れてるのでお気遣いなく。これでも幼少期の数年間ケテルブルクに住んでいた事もあるんですから!」
えっへん!と胸を張って高らかに宣言する私を前に、大佐は双眸を見開く。
「……その時の事は何か覚えていますか?」と問う彼の言葉には珍しく動揺の色が滲んでいたように思うが、私の返答を待たず頭を振り、何でもありませんと付け足した。
仕切り直すように眼鏡を指で押し上げ、大佐は改めて口を開いた。
「ナマエ、本当に宜しいのですか?」
「え……?」
キラリと眼鏡が光ったような気がする。
こんな時、大佐は十中八九良からぬ事を企んでいて、言葉巧みに私を騙し、出し抜き、分かっていながら気付けばいつも懐柔されているのだ。
一歩また一歩と私との距離を詰め、つられて私も一歩また一歩と後退る。
「何しろグランコクマ宮殿ですからねぇ。貴族が住まう場所ですので、それはそれは豪華で華やかで絢爛な室内ですよ」
「ご、豪華……。はっ! そ、その手にはのりません……」
「風呂場も広く、ベッドもそこらの高級宿よりも上等なものでしょうねぇ。今日のようなデスクワークで凝り固まった体を癒すならこれ以上ないでしょう」
「う、あ……」
「さあ、どうしますか?」
「…………」
「…………」
トン、と背中に壁の冷ややかな感触を受ける。眼前には笑顔の大佐、背中には壁。
ニコニコと満面の笑みならぬ悪魔の微笑みと囁きで、大佐は私の好奇心を存分に揺り動かした。頷かずにはいられないような文言で。
「無言は肯定と受け取ってよろしいですね? では、一緒に帰りましょうか」
「ぐわあああ……ズルいですよ!!」
私が逃げ出すと見越してか、大佐は笑みを浮かべたまましっかりと私の右手を掴んだ。
完全に行動を読まれている。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ私を歯牙にも掛けず半強制的に連れ出すが、扉を開けると執務室の前で佇む兵士と鉢合わせになった。
今にも部屋に入らんとすべく、彼の手はノックをする為に胸の前で軽く握られている。
一抹の不安がよぎる。
もしかすると、一連の言い合いを聞かれてしまった可能性があったからだ。
カーティス夫妻は結婚初日から離縁の危機だ!だのと不仲説が宮殿や軍基地中に飛び交い、終いには結婚生活が何ヶ月保つか賭け事のネタにされかねない。
どうすべきか逡巡していると、途端に大佐の手が腰に回り、力強く引き寄せられた。
足がもつれ、よろけたままに身を預ける体勢になってしまい、慌てて離れようとしたが、それを拒むように一層強く抱き寄せられた。
力強い腕と逞しい胸板は、やはり彼は軍人で、男性である事を私に改めて実感させる。
鼻を掠めた彼の香りに堪らず心臓がトクリと淡い音を立てた。
「ご苦労。すまないが、急ぎの用件でなければ明日の朝にしてくれ」
「し、失礼しました! 明日、改めます」
敬礼し、足早に去った兵士は私達を見て流石に戸惑っていたように思う。
死霊使いと恐れられる彼の、妻(偽装)との仲睦まじい姿というのはやはり異色に映るらしい。
「ナマエ、もう離れて結構ですよ? まあ、私はこのままでも一向に構いませんが」
「へ? うわ! わ、あっ!」
慌てて大佐から飛び退き、じっとりとした視線を向けた。
その様はまるで、警戒して体毛を逆立てる猫のようだったろう。
「流石は大佐……機転が利きますね。ついでに女性の扱いもお手の物って事ですか?」
「お褒め頂き光栄です。流石に初日からバレるわけにはいきませんから」
大佐は、嫌味交じりに吐き出した私の言葉を軽くあしらって執務室を施錠する。
その様を傍らでぼんやり眺めながら、ふと先程感じた事を尋ねてみる。
「あの、大佐」
「何ですか?」
「大佐も香水とかつけるんですね」
「いえ、特につけていませんが?」
「え? でも、さっきいい匂い……が――」
言って、自分が今とてつもない変態発言をしてしまったことにはたとして、慌てて言葉を切る。
彼の前でこんな発言をした日には、存分に揶揄われ、後日ネタにされ、事あるごとに引っ張り出しては玩具のように扱い、羞恥に貶める……悪魔みたいな男なのだ。
しかし、大佐は別段私の発言を取り上げて揶揄うわけでもなく、その原因を科学的に紐解いた。
「それはきっと遺伝子レベルで相性が良いのでしょうね」
「遺伝子レベル……」
「人間は、自分と相手の遺伝子の相性を嗅覚を介して選別出来る能力を備えていると言われていますから」
「へぇ」
大佐は突然私の顎へ指を掛け、そのまま自分の方へ掬い上げる。
紅い瞳に射抜かれ、意識をまるっと攫われた。
ジリジリと焼き付けるような深紅の双眸は、私から一切の抵抗を取り上げる。
「では、試してみますか?」
「え? た、いさ……」
肩から流れ落ちたブラウンの髪が頬を掠めた瞬間、昨夜の記憶が脳内に流れ込む。
あの日は、不覚にもあのまま唇を奪われてしまったが、二度も唇を奪われてなるものか。
けれど、顎に指を掛けられている以上、私に抵抗らしい抵抗など出来るわけもなく……。
絶体絶命の中、私がとった行動といえば、全力で大佐に変顔をお見舞いすることだった。
キスをする気が失せるほどの変顔を披露する日が、満を持してやってきたのだ。
我ながら渾身の変顔だったと思う。
深海に住まう魚のような、不細工さと緩さ、そして愛くるしさを絶妙に織り交ぜた言葉にし難い顔になっていただろう。
「っ! ふ、ふふ……っ、そう来ましたか。あなたは本当に飽きないですね。まあ、いいでしょう。今日は私の負けです」
私の顎から手を離し、顔を背けて肩を震わせる大佐は、珍しく自ら負けを認めた。
そして、顔を背けたまま私の頭を優しい手付きでポンポンと撫でた。
「では、帰りましょうか。“愛の巣”へ」
「ははは……はは……“愛の巣”と言うより“牢獄”ですよ」
愛の巣だなんてとんでもない。
私にとってそれは、鳥籠――いや、とんでもなく豪華な牢獄のように感じられてならなかった。
「至言ですね」と喉を鳴らして態とらしく笑う大佐は、間違いなくこの状況を楽しんでいる。
いつものように片手はポケットに、もう片方は私の手を引く。
その足取りは心なしか弾んでいるように感じられた。
全く、何がそんなに楽しいのだろう?
20251017