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グランコクマに辿り着いて早々、宮殿を素通りし、陛下への挨拶もすっ飛ばして基地に向かって歩を進めた。
軍服ではなく私服姿で足音高く進む私を、好奇の目で見る兵士たちの視線にすら今は構っていられない。
中には私の形相に臆せず声をかけてくる兵士もいたが、そんな声掛けで足を止めるほど、私を突き動かす怒りは収束しない。
「あ、ナマエさん! 長期休暇を終えられたんですね、お帰りなさい」
「長期休暇!? そんなもの知りません!」
私が不在の間、大佐の補佐を担っていた兵士だろうか?
それにしても、長期休暇とは一体……?
執務室の手前で控えていた兵士は私を迎えた後、その形相に驚き、慌てて静止を促す。
私を取り巻く張り詰めた空気が、ただ事ではないと彼に予感させたのだろう。
「ちょ、ちょっと、お待ちください! 一旦落ち着かれて……」
「放っておいて! その言葉はさっきも聞いたから!」
「ですが大佐は只今執務中でして」
「知ってるよ! だから来たんでしょ!? 遠路はるばる!!」
「は、はい……?」
纏わり付く手を振り払い、床を乱暴に踏み鳴らしながら目的地である執務室の前まで漸く辿り着いた。
「っ!」
足を止め、ドアノブに手を掛けた瞬間、自分の身に起きた異変に気付く。
ドアノブを掴む手が、カタカタと小さく震えている。
殴り込みだの何だのと息巻いて基地に乗り込んできたというのに、本心はまだどこか恐ろしさを覚えていたのだ。
あの日、私を突き放した“愛していない”という残酷な言葉。色を無くした冷徹な眼差し。
この扉を隔てた先に大佐がいる。
もしかすると、もう一度同じ態度で──場合によってはあの日以上ににべない態度で追い返されるかもしれない。
その可能性を想像した途端、息が詰まる。足は震え、喉は渇き、心臓だけが鈍く嫌な音を刻んでいた。
一度手を離して、自分自身を落ち着かせるように右手を左手で覆い隠す。
(だい、じょうぶ……大丈夫……!)
一方的に遠ざけられた私は、あの時何も言えなかった。
たとえ今回も同じ事になったとしても、その時は、あの憎たらしい程に美しい顔面にビンタの一つでもお見舞いしてやればいい。
よくも私の心を弄んでくれたな、と。私こそあなたなんて大嫌いだと慟哭して“突き返してやる”。
ポケット中に忍ばせた“それ”を、服の上からぎゅうっと握りしめた。
覚悟を決めれば、ふっと気持ちが軽くなって、体の震えもいつの間にか止まっていた。
大きく息を吸い、そして吐き出す。
今一度ドアノブに手を掛けて、勢いよく開け放つ。
あの日、あなたが手放したつもりの私は、こうして戻ってきてやった──ざまあみろ。
***
「ジェイド!!」
「──っ」
扉を開けるが早いか。名前を呼ぶのが早いか。
無遠慮に部屋へ入る私を視界に捉えた大佐は、一体何が起こったのか理解が追いついていない様子で、驚きのあまり双眸を見開いていた。
構わず大佐の元まで歩み寄ると、机に座ったまま此方を見上げる彼の胸ぐらを容赦なく引っ掴んだ。
胸ぐらを掴むなど、上司に対して考え難い蛮行だが、今は生憎と部下でもなければ彼の妻でも、恋人でもない。私達は何者でもない。
掴み上げた衝撃で机の上の書類が数枚ほど床に溢れ落ちたが、それを気にする素振りも見せず、眼鏡の奥の赤い瞳は既に先程の動揺など微塵も残っていなかった。
真っ直ぐに私を射抜いている。
「お久しぶりですね、ナマエ。“お元気そうで”何よりです」
「はい、お陰様で。なに不自由なく暮らしています。“カーティス大佐”」
人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、この状況にそぐわないほど和やかな声音で言う。
その態度は容赦なく私の感情を逆撫でする。
「何をしにきたのですか? もう、あなたには利用価値が無いとお伝えしたはずですよ?」
──利用価値。
またそうやって、わざと私を傷付けるような物言いをする。遠ざけようと、する。
唇を噛んで、込み上げる感情をぶつけるように声を張り上げた。
「ふざけないで!」
「……別に、ふざけてなどいませんよ」
「事実をお伝えしたまでです」と言って、大佐は胸ぐらを掴む私の手を衣服から解く。
鋭さを増した眼光に怯んでしまいそうになるけれど、ここで怖気付いていたらあの日と何も変わらない。
「……嘘。全部、聞いたんだから」
「さて、何の話でしょう?」
「もう誤魔化されないから! ──私の父親の事です」
先程まで煙に巻くように紡がれていた言葉が、不自然な沈黙に途切れる。
やはり、私を突き放した原因はガイから聞かされた通りのようだった。
大佐は、観念したように小さく息をついた。
そして、眼鏡を指で押し上げながら「ご存じでしたか」と呟く。
「全く……陛下もガイも、お喋りですねぇ」
「大佐……!」
「ええ、その通りです。直接的でないにしろ、私はあなたの唯一の肉親だった父親を死に追いやった。謂わば、あなたの仇ですよ」
「仇、って……」
「それを知ってなお、あなたは私の傍にいられるのですか?」
問い詰めると、大佐はあっさりと白状した。
そこには許しを乞う言葉はない。
逃げ出すわけでも誤魔化すわけでもない。ただ淡々と事実を語る。
私情を全て排除した、軍人の顔をした彼がそこにはいた。
「それだけではありません。私は、あなたから父親を奪った挙句、あなた自身からも自由を奪っている」
「……」
「二度も自分から大切なモノを奪った男の傍で生きる……そんな生き地獄を、あなたは望んでいますか?」
大佐は私から視線を外し、目を伏せる。
「いっそあなたに、私のことを憎んでほしかった」
その言葉は、実に彼らしかった。
わざと冷徹な言葉と態度で私を傷つけ、自分を嫌わせようとする──。
そうする事で楽になるだなんて思考も、大佐が考えそうな事だ。
「……じゃあ聞くけど、なんで離縁したことが公になってないの? 長期休暇って何? 除隊処理すらまだ出来てないくせに!」
「ですから、それは追々──」
これ以上の言い訳には聞く耳を持たないとばかりに手を伸ばす。
優しげな手付きで、大佐の頬を両手で包み込む──わけがない。
包み込む振りをして、そのまま頬を力任せに抓り上げ、思い切り左右に引き伸ばした。
「バーカ! ジェイドのバカバカバーカ!」
「──な、っ!?」
これでもかと引っ張ったせいで、色白の彼の頬は赤く色付いてしまっている。
流石の大佐も、頬を抓られる事に加えて幼稚な暴言を面と向かって吐かれるとは思っていなかったのだろう。呆気に取られている。
真実を知り、彼の覚悟を知り、不器用な愛情を知った。
力無く頬から手を離し──俯く。
「傍にいろって、言ったじゃない……」
音を無くした執務室には、私の声だけが静寂の中にポツリと響く。
「幼い頃の私は確かに戦争を恨んだけれど、父の生き様には誇りを持っているって言ったはずです」
「ですが、私はあなたのお父上を……」
「戦争は、仕方がなかった! でも、私はそれを乗り越えて今を生きています」
父が死に至った経緯を、真実を聞いて、少しも揺らがなかったのかと問われれば嘘になる。
けれど、それでも彼の傍で生きるという意思は少しも揺らがなかったのだ。
「それなのに……どうしてあなたが勝手に私の幸せまで決めつけるんですか?」
「!」
「逃げないでよ……今まで積み上げてきた私達の感情まで切り捨てて、全部無かったことにしないで!!」
ポケットに忍ばせていた紙を取り出して、大佐の胸元に押し付ける。
それはあの日、一方的に突きつけられた婚姻の証明書だった。
何度も破ろうとして、捨てようとして、それでもどうすることも出来なくて。
行き場のない感情のまま、ぐしゃぐしゃにしてポーチに入れっぱなしになっていた。
「だから、これは返す!」
大佐は突き付けられたそれに目を剥いて、言葉を発することなく、戸惑いながら受け取る。
「……ナマエ」と、大佐はまるで呟くように私の名前を呼んだ。
「本当はね、一発くらいぶん殴ってやろうと思って此処に来たんです」
「それはまた……実にあなたらしいですね」
でも、出来なかった。
握りしめた拳は小さく震えたまま、ひと月振りに大佐の顔を見た時、それ以上の感情に飲み込まれてしまったから。
謝ってほしいわけでも、別れの経緯を聞きたいわけでも、ましてや懺悔を聞きたいわけでもない。
たった一言でいい。私は、ジェイド自身の言葉で本心を聞かせてほしいのだ。
「本当に、あなたは困った人ですね……。せっかく逃がして差し上げたのに」
「……大佐?」
「おかげで私の矜持は形無しだ」
大佐は、呆れ混じりに吐き捨てて立ち上がる。
その瞬間、見下ろしていた側から、見上げる側に立場が入れ替わる。
私を見下ろす大佐には、いつも通りの意地悪な表情が戻っていた。
「それに、自分から捕まりに来るとは思いませんでしたよ」
言葉の圧も手伝って、思わず後ずさってしまう。
けれど此処まで来たら、此方だって引き下がるわけにはいかない。
「違いますよ。勘違いしないでもらえますか?」
「はい?」
口角を吊り上げて得意げに笑うと、床を蹴り、大佐の胸に向かって飛び込む。
もう、誰に決められるでもなく──私は自分の意思で彼の傍を選んだ。
「待ちくたびれました。だから、今度は私があなたを捕まえに来たんですよ。だから、さっさと観念して大人しく捕まってください!」
勝ち気な笑顔で見上げると、大佐は珍しく面食らったような顔をしていた。
そして「ふふっ」と困ったように眉を下げ、小さく笑う。
「……全く。敵いませんね、あなたには」
呆れたように言った後、包み込むように大佐の腕が私を抱き締め返す。
「あなたの覚悟に免じて、捕まって差し上げます」
どうしてだろう?此方を見下ろす表情は、この状況を心底楽しんでいるようだ。
もしかすると、こうなる事まで大佐は読んでいて、またしても私は彼の掌で踊らされていた……?
「さあ、どうぞ。今度はしっかり縛って逃さないでください」
「し、縛……!?」
「私を捕まえるのでしょう?」
「へ!? いや、えっと、それは物理的な意味ではなくて……」
「冗談ですよ」
どんな状況になろうとも、決して主導権は譲らない。 そういうところは相変わらずだ。
離れていた月日はいつの間にか埋められて、今まで通りの私達がそこにいた。
「……ナマエ、愛しています」
甘い言葉が耳朶に溶けて、彼のブラウンの髪が私を囲うように垂れ下がった。
そっと唇に重ねられる熱に目を閉じる。
溜め込んだ感情を余す事なく吐き出すみたいに、大佐の背中に腕を回して縋り付く。
嬉しくて、苦しくて、どうしてか堪らなく泣きたくなった。
──私はずっと、その言葉を聞きたかったのだ。
20260506
軍服ではなく私服姿で足音高く進む私を、好奇の目で見る兵士たちの視線にすら今は構っていられない。
中には私の形相に臆せず声をかけてくる兵士もいたが、そんな声掛けで足を止めるほど、私を突き動かす怒りは収束しない。
「あ、ナマエさん! 長期休暇を終えられたんですね、お帰りなさい」
「長期休暇!? そんなもの知りません!」
私が不在の間、大佐の補佐を担っていた兵士だろうか?
それにしても、長期休暇とは一体……?
執務室の手前で控えていた兵士は私を迎えた後、その形相に驚き、慌てて静止を促す。
私を取り巻く張り詰めた空気が、ただ事ではないと彼に予感させたのだろう。
「ちょ、ちょっと、お待ちください! 一旦落ち着かれて……」
「放っておいて! その言葉はさっきも聞いたから!」
「ですが大佐は只今執務中でして」
「知ってるよ! だから来たんでしょ!? 遠路はるばる!!」
「は、はい……?」
纏わり付く手を振り払い、床を乱暴に踏み鳴らしながら目的地である執務室の前まで漸く辿り着いた。
「っ!」
足を止め、ドアノブに手を掛けた瞬間、自分の身に起きた異変に気付く。
ドアノブを掴む手が、カタカタと小さく震えている。
殴り込みだの何だのと息巻いて基地に乗り込んできたというのに、本心はまだどこか恐ろしさを覚えていたのだ。
あの日、私を突き放した“愛していない”という残酷な言葉。色を無くした冷徹な眼差し。
この扉を隔てた先に大佐がいる。
もしかすると、もう一度同じ態度で──場合によってはあの日以上ににべない態度で追い返されるかもしれない。
その可能性を想像した途端、息が詰まる。足は震え、喉は渇き、心臓だけが鈍く嫌な音を刻んでいた。
一度手を離して、自分自身を落ち着かせるように右手を左手で覆い隠す。
(だい、じょうぶ……大丈夫……!)
一方的に遠ざけられた私は、あの時何も言えなかった。
たとえ今回も同じ事になったとしても、その時は、あの憎たらしい程に美しい顔面にビンタの一つでもお見舞いしてやればいい。
よくも私の心を弄んでくれたな、と。私こそあなたなんて大嫌いだと慟哭して“突き返してやる”。
ポケット中に忍ばせた“それ”を、服の上からぎゅうっと握りしめた。
覚悟を決めれば、ふっと気持ちが軽くなって、体の震えもいつの間にか止まっていた。
大きく息を吸い、そして吐き出す。
今一度ドアノブに手を掛けて、勢いよく開け放つ。
あの日、あなたが手放したつもりの私は、こうして戻ってきてやった──ざまあみろ。
***
「ジェイド!!」
「──っ」
扉を開けるが早いか。名前を呼ぶのが早いか。
無遠慮に部屋へ入る私を視界に捉えた大佐は、一体何が起こったのか理解が追いついていない様子で、驚きのあまり双眸を見開いていた。
構わず大佐の元まで歩み寄ると、机に座ったまま此方を見上げる彼の胸ぐらを容赦なく引っ掴んだ。
胸ぐらを掴むなど、上司に対して考え難い蛮行だが、今は生憎と部下でもなければ彼の妻でも、恋人でもない。私達は何者でもない。
掴み上げた衝撃で机の上の書類が数枚ほど床に溢れ落ちたが、それを気にする素振りも見せず、眼鏡の奥の赤い瞳は既に先程の動揺など微塵も残っていなかった。
真っ直ぐに私を射抜いている。
「お久しぶりですね、ナマエ。“お元気そうで”何よりです」
「はい、お陰様で。なに不自由なく暮らしています。“カーティス大佐”」
人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、この状況にそぐわないほど和やかな声音で言う。
その態度は容赦なく私の感情を逆撫でする。
「何をしにきたのですか? もう、あなたには利用価値が無いとお伝えしたはずですよ?」
──利用価値。
またそうやって、わざと私を傷付けるような物言いをする。遠ざけようと、する。
唇を噛んで、込み上げる感情をぶつけるように声を張り上げた。
「ふざけないで!」
「……別に、ふざけてなどいませんよ」
「事実をお伝えしたまでです」と言って、大佐は胸ぐらを掴む私の手を衣服から解く。
鋭さを増した眼光に怯んでしまいそうになるけれど、ここで怖気付いていたらあの日と何も変わらない。
「……嘘。全部、聞いたんだから」
「さて、何の話でしょう?」
「もう誤魔化されないから! ──私の父親の事です」
先程まで煙に巻くように紡がれていた言葉が、不自然な沈黙に途切れる。
やはり、私を突き放した原因はガイから聞かされた通りのようだった。
大佐は、観念したように小さく息をついた。
そして、眼鏡を指で押し上げながら「ご存じでしたか」と呟く。
「全く……陛下もガイも、お喋りですねぇ」
「大佐……!」
「ええ、その通りです。直接的でないにしろ、私はあなたの唯一の肉親だった父親を死に追いやった。謂わば、あなたの仇ですよ」
「仇、って……」
「それを知ってなお、あなたは私の傍にいられるのですか?」
問い詰めると、大佐はあっさりと白状した。
そこには許しを乞う言葉はない。
逃げ出すわけでも誤魔化すわけでもない。ただ淡々と事実を語る。
私情を全て排除した、軍人の顔をした彼がそこにはいた。
「それだけではありません。私は、あなたから父親を奪った挙句、あなた自身からも自由を奪っている」
「……」
「二度も自分から大切なモノを奪った男の傍で生きる……そんな生き地獄を、あなたは望んでいますか?」
大佐は私から視線を外し、目を伏せる。
「いっそあなたに、私のことを憎んでほしかった」
その言葉は、実に彼らしかった。
わざと冷徹な言葉と態度で私を傷つけ、自分を嫌わせようとする──。
そうする事で楽になるだなんて思考も、大佐が考えそうな事だ。
「……じゃあ聞くけど、なんで離縁したことが公になってないの? 長期休暇って何? 除隊処理すらまだ出来てないくせに!」
「ですから、それは追々──」
これ以上の言い訳には聞く耳を持たないとばかりに手を伸ばす。
優しげな手付きで、大佐の頬を両手で包み込む──わけがない。
包み込む振りをして、そのまま頬を力任せに抓り上げ、思い切り左右に引き伸ばした。
「バーカ! ジェイドのバカバカバーカ!」
「──な、っ!?」
これでもかと引っ張ったせいで、色白の彼の頬は赤く色付いてしまっている。
流石の大佐も、頬を抓られる事に加えて幼稚な暴言を面と向かって吐かれるとは思っていなかったのだろう。呆気に取られている。
真実を知り、彼の覚悟を知り、不器用な愛情を知った。
力無く頬から手を離し──俯く。
「傍にいろって、言ったじゃない……」
音を無くした執務室には、私の声だけが静寂の中にポツリと響く。
「幼い頃の私は確かに戦争を恨んだけれど、父の生き様には誇りを持っているって言ったはずです」
「ですが、私はあなたのお父上を……」
「戦争は、仕方がなかった! でも、私はそれを乗り越えて今を生きています」
父が死に至った経緯を、真実を聞いて、少しも揺らがなかったのかと問われれば嘘になる。
けれど、それでも彼の傍で生きるという意思は少しも揺らがなかったのだ。
「それなのに……どうしてあなたが勝手に私の幸せまで決めつけるんですか?」
「!」
「逃げないでよ……今まで積み上げてきた私達の感情まで切り捨てて、全部無かったことにしないで!!」
ポケットに忍ばせていた紙を取り出して、大佐の胸元に押し付ける。
それはあの日、一方的に突きつけられた婚姻の証明書だった。
何度も破ろうとして、捨てようとして、それでもどうすることも出来なくて。
行き場のない感情のまま、ぐしゃぐしゃにしてポーチに入れっぱなしになっていた。
「だから、これは返す!」
大佐は突き付けられたそれに目を剥いて、言葉を発することなく、戸惑いながら受け取る。
「……ナマエ」と、大佐はまるで呟くように私の名前を呼んだ。
「本当はね、一発くらいぶん殴ってやろうと思って此処に来たんです」
「それはまた……実にあなたらしいですね」
でも、出来なかった。
握りしめた拳は小さく震えたまま、ひと月振りに大佐の顔を見た時、それ以上の感情に飲み込まれてしまったから。
謝ってほしいわけでも、別れの経緯を聞きたいわけでも、ましてや懺悔を聞きたいわけでもない。
たった一言でいい。私は、ジェイド自身の言葉で本心を聞かせてほしいのだ。
「本当に、あなたは困った人ですね……。せっかく逃がして差し上げたのに」
「……大佐?」
「おかげで私の矜持は形無しだ」
大佐は、呆れ混じりに吐き捨てて立ち上がる。
その瞬間、見下ろしていた側から、見上げる側に立場が入れ替わる。
私を見下ろす大佐には、いつも通りの意地悪な表情が戻っていた。
「それに、自分から捕まりに来るとは思いませんでしたよ」
言葉の圧も手伝って、思わず後ずさってしまう。
けれど此処まで来たら、此方だって引き下がるわけにはいかない。
「違いますよ。勘違いしないでもらえますか?」
「はい?」
口角を吊り上げて得意げに笑うと、床を蹴り、大佐の胸に向かって飛び込む。
もう、誰に決められるでもなく──私は自分の意思で彼の傍を選んだ。
「待ちくたびれました。だから、今度は私があなたを捕まえに来たんですよ。だから、さっさと観念して大人しく捕まってください!」
勝ち気な笑顔で見上げると、大佐は珍しく面食らったような顔をしていた。
そして「ふふっ」と困ったように眉を下げ、小さく笑う。
「……全く。敵いませんね、あなたには」
呆れたように言った後、包み込むように大佐の腕が私を抱き締め返す。
「あなたの覚悟に免じて、捕まって差し上げます」
どうしてだろう?此方を見下ろす表情は、この状況を心底楽しんでいるようだ。
もしかすると、こうなる事まで大佐は読んでいて、またしても私は彼の掌で踊らされていた……?
「さあ、どうぞ。今度はしっかり縛って逃さないでください」
「し、縛……!?」
「私を捕まえるのでしょう?」
「へ!? いや、えっと、それは物理的な意味ではなくて……」
「冗談ですよ」
どんな状況になろうとも、決して主導権は譲らない。 そういうところは相変わらずだ。
離れていた月日はいつの間にか埋められて、今まで通りの私達がそこにいた。
「……ナマエ、愛しています」
甘い言葉が耳朶に溶けて、彼のブラウンの髪が私を囲うように垂れ下がった。
そっと唇に重ねられる熱に目を閉じる。
溜め込んだ感情を余す事なく吐き出すみたいに、大佐の背中に腕を回して縋り付く。
嬉しくて、苦しくて、どうしてか堪らなく泣きたくなった。
──私はずっと、その言葉を聞きたかったのだ。
20260506