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何故、私はこんな場所に居るのだろう?
そんな事を、つい先日も思ったばかりだが、役割とはいえ軍人の妻役はつくづく私に向かないようだった。
高い天井から吊り下がった大きく豪華なシャンデリア。
広々としたこの空間には美しい衣服を纏い、高価な宝石を身に着けた人々で溢れている。
グラスの触れ合う音、絶え間なく交わされる笑声。
華やかな人々と、煌びやかな雰囲気──そのどれもが私を拒絶し、ポツリと一人この場所から浮かび上がらせる。
まるで、この場はお前に相応しくないと爪弾きにされたようだった。
会場に赴いて、まだ大して時間は経っていないが、既に此処から帰りたい。
此処は嫌だ。気持ち悪い。
何処もかしこも、ギラギラとして嘘と詭弁が混ざりあって。
大佐と再会することなく普通に生きていたら、一生無縁な場所だろう。
だったら何故、こんな場所に──それは、簡単な話だ。
彼が軍人で、そして、私は彼の妻役だから。
貴族や国の要人が一斉に顔を合わせるこの場所は、人脈を広げ、情報を拾うのに丁度いいらしい。
“らしい”だなんて曖昧なのは、大佐がそう言っていたに過ぎないからだ。
そう、所詮は他人事だ。そこはかとなく漂う疎外感が、そう思わせた。
しかし、いくら仕事とはいえ──したくもない会話をし、上っ面だけの笑みを浮かべる。
今の私にとってそれは尊敬に値することだ。
鬱屈とした気持ちごと無理矢理喉の奥へ押し流すように一息でシャンパンをあおる。
喉が、炭酸とアルコールで焼けるようだ。
グラスの飲み口に付着した口紅を見て、きゅうっと胸が詰まる。
「……っ、」
違う、違う。決してこんな公の場で数刻前の事を思い出して赤面しているわけではないのだ。
(これはアルコールのせいだし! ……たぶん)
***
「……ねぇ、本当にこんな格好しなくちゃ駄目なんですか?」
「はい。カーティス大佐からそのようにご指示を受けておりますから」
「大佐が……」
手際よく私に化粧を施し、髪を梳かすメイドは、和やかな声音で言った。
よく見ると彼女は、グランコクマへ連れ戻された翌日に大佐の指示で私を拉致し、結婚式の為に身形を整えてくれたメイドだ。
恨み言の一つでも言ってやろうかと思ったが、これは彼女自身の意思では無く、あくまで大佐の指示だったのだろう。
そして今回もまた、大佐の指示で彼女は動いている。
本意ではなく与えられた仕事であるなら、感謝して然るべきなのかもしれない。
一人では身支度も満足に出来ない私のせいで彼女は動いているのだと思うと、申し訳なさすら感じてしまう。
日頃から化粧っけの無い私が夜会に見合った身形を自分で整えられるのかと問われれば、答えはノーだ。誰かの手を借りなければ何も出来ない。
だから、今回も「お手を煩わせてすみません。ありがとう御座います」と彼女に感謝し、労うしか無いのだった。
以前よりだいぶ短くなった髪は結い上げることが出来ない。その代わりに耳元の髪を編み込んで、上等な髪飾りを付けた。
化粧も派手すぎず、けれど社交の場にふさわしい気品を漂わせたものに仕上げてくれた。
そして、最後に用意されたドレスに身を包むのだけれど──当然、ドレスなんて私の人生において一番縁遠い服であることは口に出すまでもない。
淡く色を落としたアイスブルーのドレスは、光を受けるたびにほのかに銀を帯びる。
華やかさを競う場には似つかわしくないほど静かな色合いだったが、それでも目を逸せない何かがあった。
「これ、変じゃないですよね? 私には大人っぽすぎるような気も……」
「まさか。これを用意されたのはカーティス大佐ですから」
「へ?」
「奥様にお似合いになる物を、よくご存知なのですね」
「あ、はは……それはどうも」
袖を通して初めて、このドレスを用意してくれたのは大佐だと知る。
そうだとしたら、きっとこの髪飾りも、ネックレスも、靴もそして、このドレスも──大佐の好みによって、私という形が一から整えられているようだった。
仕上げに背中のファスナーを上げたところで「出来ました」とメイドから声が掛かるが、鏡に映る自身の顔に一つ違和感を覚える。
この場合、違和感というよりも物足りなさ、だろうか……。
メイクを施される中で、まだ一箇所だけ手付かずで残された場所がある。
「あの、まだ口紅が……」
「はい。そちらはそのままで構わないと申しつけられております」
「え? それは一体どういう……──」
理由を尋ねようとした時だった。
ノックの後、部屋のドアが静かに開いて大佐が姿を現したのは。
刹那、大佐はドアを開けたまま僅かに動きを止めた。
視線が、ゆっくりと私をなぞる。
頭の天辺から足の爪先まで──一切の見落としもなく。
ほんの一瞬だけ、その目が柔らかく緩んだ気がした。
けれど次の瞬間には、いつもの無機質な表情に戻っていた。
「ご指示通り、お支度を済ませております」
「ああ。ご苦労」
大佐と軽く言葉を交わすと、メイドは会釈をして入れ替わるように部屋を出ていく。
「問題ないようですね」
「それなら良かったです……」
パタリと部屋のドアが閉まり、足音が段々と遠のいていくのを聞いて、息をつく。
「あのぉ、もっと“似合う”とか“綺麗だ”とか無いんですかー?」
「おや、そのような言葉をお望みですか?」
「いや、お望みっていうか……一般的にこういう場合、お世辞の一つぐらい言うものでしょ?」
頬を膨らませる私を見て、大佐は顎に手を添えて小さく笑った。
そして、再び柔らかな眼差しで全身を眺めて口を開く。
「私の見立て通りでしたから。それ以上は何もないかと」
「っ、そう……ですか……」
その言葉は、これ以上ない褒め言葉のように感じて、言葉を継げなくなる。
大佐も、今は日頃の軍服を脱いでフォーマルな装いに身を包んでいた。長い髪も片側で一つに纏めてある。
偽りの結婚式でも思ったが、こうして見ると本当に彼は人目を攫う美しい男なのだと実感する。
「口紅がまだでしたね」
大佐は椅子に腰掛けた私の元まで歩み寄ると、ジャケットのポケットから小さな硝子瓶を取り出す。
蓋を開け、指先にほんの少しだけ色を取る。
「ジェイド、それって……」
「失礼。──じっとしてください」
有無を言わせぬ物言いに、私はピタリと体の動きを止める。
顎を掬い上げられ、抗えない私はただぎゅっと目を閉じる事しかできなかった。
次の瞬間、指先が唇に触れる。
そして、ゆっくりと、なぞるように色が乗せられていく。
「……っ」
目を閉じているせいで、どうしても唇の上を滑る指先の感触に意識が集中してしまう。
心臓が忙しなく胸を叩いて、大佐に鼓動が漏れ聞こえてしまわないか心配でならなかった。
唇にあった指先の感覚が無くなって、ゆっくりと目を開ける。
触れられていた場所を意識した途端、遅れてじわりと熱が広がる。
逃げ場を失ったように思考が、ふっと止まった。
「あ……」
鏡に映った自分の姿に目を見張る。
大佐の指が触れた唇は薄く色付いていた。
派手すぎず、主張しすぎないその赤は、施された化粧に浮くこともなく、ドレスとも調和のとれた落ち着いた色味をしていた。
鏡越しに交わった視線は柔らかい。
「──やはり、これで正解ですね」
満足気に囁かれた言葉が、全てを物語っていた。
「これって、もしかしてジェイドが?」
「ええ。あなたに合う色を選んだつもりです」
「ありがとう、ございます……」
「あなたはこういった物事にあまり関心がないでしょう? 今夜はせっかくの機会ですからね。少しくらい粧し込んでもいいと思いますよ」
(粧し込む……か)
全身くまなく彼好みに染められてしまったような感覚に不思議と嫌悪感を抱かない自分に驚きを隠せない。
かつて、ウエディングドレスの意味に冗談ではないと震えていたものだが、その時の自分が今の私を見たらどう思うだろう?
ウエディングドレスでなくとも、すっかり彼のものになってしまった自分を。
***
──回想終了。
と、まあ。そんなこんなで、今こうして情報収集という名目のもとに貴族の集まる夜会に足を運んでいるわけだ。
大佐の趣味で雁字搦めにされたこの格好で。
此処は、煌びやかな雰囲気の中、様々な思惑と人脈、金の話が渦巻き、着飾った人々で溢れている。
酒が入って気が大きくなれば、普段聞き出せない事柄や内情も探れると大佐が言っていた通り、この場は情報収集に打って付けだという事だ。
貴族が中心となっているようだから、きっとガイもこの会場の何処かにいるだろう。
つい気安く接していたが、彼はガルディオス伯爵様なので。
結局会場を見回してみてもガイの姿は見当たらず、大佐ともはぐれてしまったまま。
最後に大佐の姿を見た時は、愛想よく和やかな表現を浮かべながら貴族と話をしていた。
仕事の一環だと事前に聞かされていたが、今回ばかりはとてもじゃないが力添え出来そうにない。
高いヒールで歩き回るにも足が疲れ、ドレスは着慣れず息が詰まる。
シャンパンを飲み過ぎて酔いが回ったのか、はたまた会場の雰囲気に酔ったのかは分からないが、冷たい夜風を求めてバルコニーへと向かおうとした時だった──。
「大丈夫ですか?」
不意に知らない男性に声を掛けられる。
振り向いた先には、二十代半ばほどの男が立っていた。
上等な仕立てのスーツを難なく着こなし、整えられた髪と隙のない身なりが目を引く。
物腰は柔らかいが、距離を詰めるのに躊躇いのない視線に、どこか慣れた気配があった。
「え、ええ……慣れない場所なので人に酔ってしまったみたいで。でも、大丈夫ですから……どうぞお気になさらず」
「それは大変だ。さあ、こちらへ。テラスで少し涼みましょう」
ふらつく私に寄り添いながら支えてくれる彼と共にバルコニーへ出ると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。
この時期の肌寒く澄みきった空気も、会場の雰囲気に当てられてしまった私には丁度よかった。
アルコールで火照った身体が冷やされて気持ちがいい。
傍らに立つ彼は品の良い笑顔を此方に向けつつ、身に着けていた上着を脱ぎ、私の肩へ掛けてくれた。
「外は冷えますから、こちらを」と、その淀み無い一連の動作は流石だと感心してしまうほどだ。
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
私を包み込む上着から漂う彼の香りが鼻を掠めた。
当然だけれど、大佐のものとは違う別の男の香りだ。それが何だか落ち着かず、胸の奥が僅かにざわつく。
チラリと盗み見るように視線を上向けると、上着に包まれた私を見て彼は満足そうに表情を綻ばせる。
「実は、会場であなたを見かけてからお話をしてみたかったんです」
「え?」
「ずっとお一人でシャンパンを飲んでいらしたので。夜会は退屈でしたか?」
「え゛!? あ、えっと、そういうわけでは……」
まずい。私は今日、大佐の妻としてこの夜会に参加しているのだ。
私の身元が割れた時、この状況では盛大に大佐の顔へ泥を塗りかねない。
あわあわとしながら、取り繕うように懸命に言葉を紡ぐ。
「ただ、その、こういった場にあまり慣れていなくて……あ、でもお料理とお酒はとっても美味しいです! いっぱいおかわりしちゃいました!」
「はははっ! あなたは正直な人ですね。では、こちらをどうぞ」
給仕人を呼び止めて果実酒の入ったグラスを二つ受け取り、片方を私に差し出す。
今まで飲んでいたシャンパンとは色味が違うようだ。
「同じものばかり飲まれていたでしょう? こちらは甘くて飲みやすいですよ」
「これは何のお酒です、か──」
ほんの僅かに、香りが強い気がした。
グラスを傾けた瞬間、それは私の手からスルリと取り上げられる。
「こちらでしたか。探しましたよ、ナマエ」
「ジェイド……!」
驚いて振り仰ぐと、ニコリと貼り付けただけの軽薄な笑みが私を見下ろしていた。
最後に大佐の姿を見てから暫く経つが、“仕事”はもう終わったのだろうか?
──ああ、このわざとらしい笑顔は少しばかり……いや、珍しい程に虫のいどころが悪い。
私から、傍に立つ男性に目を転じると、値踏みするような視線を向ける。
彼が一瞬怯んだタイミングで私の肩に掛かったジャケットを、まるで当然のようにそっと取り上げ、そのまま静かに持ち主へ返した。
笑顔も手伝い、丁寧な所作であるのに却って底冷えのするような恐ろしさに感じさせる。
「お気遣い頂き、ありがとう御座います。妻がご迷惑を」
言って、大佐は私の腰に手を添える。
まるで、誰のものか示すように。
「い、いえ……とんでもない。こちらこそ、カーティス大佐の奥様でいらっしゃったとは知らず、とんだご無礼を」
「失礼します」と一言告げて男性は足早に去ってしまった。
バルコニーには私と大佐だけが残される。
一連のやり取りですっかり酔いは覚めてしまって、火照りも引いた体には夜風が冷たく感じられる。
大佐は自分のジャケットを脱いで、私の肩にかけてくれる。
「ありがとうございます」
「油断も隙もありませんねぇ」
「? ……はあ、」
それにしても、不思議なものだ。
先程の男性と同じ行動だというのに、それが大佐だというだけで嬉しさも安心感も全然違う。
「そういえば、もういいんですか? あいさつ回り」
「よくはないですね」
「じゃあ、なんで戻ってきたんですか?」
「あなたが居なくなるからです。私の元を離れる時は、一言掛けるように言ったはずですが?」
「人に、酔っちゃって……気付いたら大佐の姿が見えなくなってたから……」
俯いて、言い訳を並べると、頭上からはわざとらしいため息が降ってくる。
ドレスの裾をぎゅうっと握ると、ドレスから外すように手を掬い上げられた。
「不慣れな場であったにも関わらず、あなたから一時でも目を離した私にも責任があります」
「いや、大佐のせいじゃ……私が勝手に、一人になったからで……」
「それに、ナマエ。一人だけ楽しむのはずるいですよ?」
「あー!」
大佐は、私から取り上げたグラスの酒を飲み干す。
その様はなんだか酒を味わうというよりも、舌の上で吟味し、何かを確かめているように見て取れる。
「そのお酒、私も飲みたかったのに……」
「普通の果実酒ですよ。あなたには私の目の届かない場所では飲ませないと決めていますので」
大佐は意味深に言って、ニッコリと笑った。
私は不貞腐れて頬を膨らませる。
「まったく……こんな場所でヤケ酒だなんて、流石に頂けませんねぇ」
大佐の口振りは、少なからず私がヤケ酒に至る経緯もしっかりと把握しているようだった。
きっと大佐の耳にも入っていたに違いない。
──すれ違い様、笑いを含んだ潜めた声で何を言われていたのか。
「……不釣り合いだってことくらい、分かってます。私はどうせジェイドみたいに完璧じゃないもの」
嘘ですらまともに装えない。
私に与えられた役目一つすら全う出来ないのだから。
「……面白い事を言いますね」
「はあ!? 面白くないですよ。喧嘩売ってます?」
「まさか」
大佐は前を向いたまま、静かに瞳を閉じる。
雲が切れて、バルコニーには月明かりが差し込んで大佐の横顔を照らし出した。
「放っておきなさい」
「でも……」
「先程、あなたは私を完璧だと言いましたが、私は寧ろ、人として肝心なものが欠けていますから」
一体、何の話をしているのだろう?
大佐の言葉から真意を探ろうと耳を傾けるけれど、よくわからない。
「……特に昔の私は、あなたが気に入らなかった」
「はい?」
「眩しく、騒がしく、理解できず」
伏せられた瞳が今度こそ私を捉えた。
ひっそりとして、どこまでも静かな赤い双眸は月夜の中でぼんやりと浮かび上がるようだった。
柔和に細められ、呼吸を忘れてしまう。
まるでその言葉通り、愛おしいものを見つめるような眼差しだったからだ。
「──だから、目を離せなかったのだと思います」
「な、ななな何の話ですかっ!?」
「簡単な話ですよ。あなたは、そのままでいい」
いつも私が望む言葉をくれないくせに。曖昧にぼかして輪郭を得ないものばかりで。
「ですから──これからも、傍にいなさい」
ほんの少しだけ落とされた声音で囁かれた言葉は、いとも簡単に私を掬いあげる。
こんなにも堪らない気持ちにさせるのだ。
20260422
そんな事を、つい先日も思ったばかりだが、役割とはいえ軍人の妻役はつくづく私に向かないようだった。
高い天井から吊り下がった大きく豪華なシャンデリア。
広々としたこの空間には美しい衣服を纏い、高価な宝石を身に着けた人々で溢れている。
グラスの触れ合う音、絶え間なく交わされる笑声。
華やかな人々と、煌びやかな雰囲気──そのどれもが私を拒絶し、ポツリと一人この場所から浮かび上がらせる。
まるで、この場はお前に相応しくないと爪弾きにされたようだった。
会場に赴いて、まだ大して時間は経っていないが、既に此処から帰りたい。
此処は嫌だ。気持ち悪い。
何処もかしこも、ギラギラとして嘘と詭弁が混ざりあって。
大佐と再会することなく普通に生きていたら、一生無縁な場所だろう。
だったら何故、こんな場所に──それは、簡単な話だ。
彼が軍人で、そして、私は彼の妻役だから。
貴族や国の要人が一斉に顔を合わせるこの場所は、人脈を広げ、情報を拾うのに丁度いいらしい。
“らしい”だなんて曖昧なのは、大佐がそう言っていたに過ぎないからだ。
そう、所詮は他人事だ。そこはかとなく漂う疎外感が、そう思わせた。
しかし、いくら仕事とはいえ──したくもない会話をし、上っ面だけの笑みを浮かべる。
今の私にとってそれは尊敬に値することだ。
鬱屈とした気持ちごと無理矢理喉の奥へ押し流すように一息でシャンパンをあおる。
喉が、炭酸とアルコールで焼けるようだ。
グラスの飲み口に付着した口紅を見て、きゅうっと胸が詰まる。
「……っ、」
違う、違う。決してこんな公の場で数刻前の事を思い出して赤面しているわけではないのだ。
(これはアルコールのせいだし! ……たぶん)
***
「……ねぇ、本当にこんな格好しなくちゃ駄目なんですか?」
「はい。カーティス大佐からそのようにご指示を受けておりますから」
「大佐が……」
手際よく私に化粧を施し、髪を梳かすメイドは、和やかな声音で言った。
よく見ると彼女は、グランコクマへ連れ戻された翌日に大佐の指示で私を拉致し、結婚式の為に身形を整えてくれたメイドだ。
恨み言の一つでも言ってやろうかと思ったが、これは彼女自身の意思では無く、あくまで大佐の指示だったのだろう。
そして今回もまた、大佐の指示で彼女は動いている。
本意ではなく与えられた仕事であるなら、感謝して然るべきなのかもしれない。
一人では身支度も満足に出来ない私のせいで彼女は動いているのだと思うと、申し訳なさすら感じてしまう。
日頃から化粧っけの無い私が夜会に見合った身形を自分で整えられるのかと問われれば、答えはノーだ。誰かの手を借りなければ何も出来ない。
だから、今回も「お手を煩わせてすみません。ありがとう御座います」と彼女に感謝し、労うしか無いのだった。
以前よりだいぶ短くなった髪は結い上げることが出来ない。その代わりに耳元の髪を編み込んで、上等な髪飾りを付けた。
化粧も派手すぎず、けれど社交の場にふさわしい気品を漂わせたものに仕上げてくれた。
そして、最後に用意されたドレスに身を包むのだけれど──当然、ドレスなんて私の人生において一番縁遠い服であることは口に出すまでもない。
淡く色を落としたアイスブルーのドレスは、光を受けるたびにほのかに銀を帯びる。
華やかさを競う場には似つかわしくないほど静かな色合いだったが、それでも目を逸せない何かがあった。
「これ、変じゃないですよね? 私には大人っぽすぎるような気も……」
「まさか。これを用意されたのはカーティス大佐ですから」
「へ?」
「奥様にお似合いになる物を、よくご存知なのですね」
「あ、はは……それはどうも」
袖を通して初めて、このドレスを用意してくれたのは大佐だと知る。
そうだとしたら、きっとこの髪飾りも、ネックレスも、靴もそして、このドレスも──大佐の好みによって、私という形が一から整えられているようだった。
仕上げに背中のファスナーを上げたところで「出来ました」とメイドから声が掛かるが、鏡に映る自身の顔に一つ違和感を覚える。
この場合、違和感というよりも物足りなさ、だろうか……。
メイクを施される中で、まだ一箇所だけ手付かずで残された場所がある。
「あの、まだ口紅が……」
「はい。そちらはそのままで構わないと申しつけられております」
「え? それは一体どういう……──」
理由を尋ねようとした時だった。
ノックの後、部屋のドアが静かに開いて大佐が姿を現したのは。
刹那、大佐はドアを開けたまま僅かに動きを止めた。
視線が、ゆっくりと私をなぞる。
頭の天辺から足の爪先まで──一切の見落としもなく。
ほんの一瞬だけ、その目が柔らかく緩んだ気がした。
けれど次の瞬間には、いつもの無機質な表情に戻っていた。
「ご指示通り、お支度を済ませております」
「ああ。ご苦労」
大佐と軽く言葉を交わすと、メイドは会釈をして入れ替わるように部屋を出ていく。
「問題ないようですね」
「それなら良かったです……」
パタリと部屋のドアが閉まり、足音が段々と遠のいていくのを聞いて、息をつく。
「あのぉ、もっと“似合う”とか“綺麗だ”とか無いんですかー?」
「おや、そのような言葉をお望みですか?」
「いや、お望みっていうか……一般的にこういう場合、お世辞の一つぐらい言うものでしょ?」
頬を膨らませる私を見て、大佐は顎に手を添えて小さく笑った。
そして、再び柔らかな眼差しで全身を眺めて口を開く。
「私の見立て通りでしたから。それ以上は何もないかと」
「っ、そう……ですか……」
その言葉は、これ以上ない褒め言葉のように感じて、言葉を継げなくなる。
大佐も、今は日頃の軍服を脱いでフォーマルな装いに身を包んでいた。長い髪も片側で一つに纏めてある。
偽りの結婚式でも思ったが、こうして見ると本当に彼は人目を攫う美しい男なのだと実感する。
「口紅がまだでしたね」
大佐は椅子に腰掛けた私の元まで歩み寄ると、ジャケットのポケットから小さな硝子瓶を取り出す。
蓋を開け、指先にほんの少しだけ色を取る。
「ジェイド、それって……」
「失礼。──じっとしてください」
有無を言わせぬ物言いに、私はピタリと体の動きを止める。
顎を掬い上げられ、抗えない私はただぎゅっと目を閉じる事しかできなかった。
次の瞬間、指先が唇に触れる。
そして、ゆっくりと、なぞるように色が乗せられていく。
「……っ」
目を閉じているせいで、どうしても唇の上を滑る指先の感触に意識が集中してしまう。
心臓が忙しなく胸を叩いて、大佐に鼓動が漏れ聞こえてしまわないか心配でならなかった。
唇にあった指先の感覚が無くなって、ゆっくりと目を開ける。
触れられていた場所を意識した途端、遅れてじわりと熱が広がる。
逃げ場を失ったように思考が、ふっと止まった。
「あ……」
鏡に映った自分の姿に目を見張る。
大佐の指が触れた唇は薄く色付いていた。
派手すぎず、主張しすぎないその赤は、施された化粧に浮くこともなく、ドレスとも調和のとれた落ち着いた色味をしていた。
鏡越しに交わった視線は柔らかい。
「──やはり、これで正解ですね」
満足気に囁かれた言葉が、全てを物語っていた。
「これって、もしかしてジェイドが?」
「ええ。あなたに合う色を選んだつもりです」
「ありがとう、ございます……」
「あなたはこういった物事にあまり関心がないでしょう? 今夜はせっかくの機会ですからね。少しくらい粧し込んでもいいと思いますよ」
(粧し込む……か)
全身くまなく彼好みに染められてしまったような感覚に不思議と嫌悪感を抱かない自分に驚きを隠せない。
かつて、ウエディングドレスの意味に冗談ではないと震えていたものだが、その時の自分が今の私を見たらどう思うだろう?
ウエディングドレスでなくとも、すっかり彼のものになってしまった自分を。
***
──回想終了。
と、まあ。そんなこんなで、今こうして情報収集という名目のもとに貴族の集まる夜会に足を運んでいるわけだ。
大佐の趣味で雁字搦めにされたこの格好で。
此処は、煌びやかな雰囲気の中、様々な思惑と人脈、金の話が渦巻き、着飾った人々で溢れている。
酒が入って気が大きくなれば、普段聞き出せない事柄や内情も探れると大佐が言っていた通り、この場は情報収集に打って付けだという事だ。
貴族が中心となっているようだから、きっとガイもこの会場の何処かにいるだろう。
つい気安く接していたが、彼はガルディオス伯爵様なので。
結局会場を見回してみてもガイの姿は見当たらず、大佐ともはぐれてしまったまま。
最後に大佐の姿を見た時は、愛想よく和やかな表現を浮かべながら貴族と話をしていた。
仕事の一環だと事前に聞かされていたが、今回ばかりはとてもじゃないが力添え出来そうにない。
高いヒールで歩き回るにも足が疲れ、ドレスは着慣れず息が詰まる。
シャンパンを飲み過ぎて酔いが回ったのか、はたまた会場の雰囲気に酔ったのかは分からないが、冷たい夜風を求めてバルコニーへと向かおうとした時だった──。
「大丈夫ですか?」
不意に知らない男性に声を掛けられる。
振り向いた先には、二十代半ばほどの男が立っていた。
上等な仕立てのスーツを難なく着こなし、整えられた髪と隙のない身なりが目を引く。
物腰は柔らかいが、距離を詰めるのに躊躇いのない視線に、どこか慣れた気配があった。
「え、ええ……慣れない場所なので人に酔ってしまったみたいで。でも、大丈夫ですから……どうぞお気になさらず」
「それは大変だ。さあ、こちらへ。テラスで少し涼みましょう」
ふらつく私に寄り添いながら支えてくれる彼と共にバルコニーへ出ると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。
この時期の肌寒く澄みきった空気も、会場の雰囲気に当てられてしまった私には丁度よかった。
アルコールで火照った身体が冷やされて気持ちがいい。
傍らに立つ彼は品の良い笑顔を此方に向けつつ、身に着けていた上着を脱ぎ、私の肩へ掛けてくれた。
「外は冷えますから、こちらを」と、その淀み無い一連の動作は流石だと感心してしまうほどだ。
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
私を包み込む上着から漂う彼の香りが鼻を掠めた。
当然だけれど、大佐のものとは違う別の男の香りだ。それが何だか落ち着かず、胸の奥が僅かにざわつく。
チラリと盗み見るように視線を上向けると、上着に包まれた私を見て彼は満足そうに表情を綻ばせる。
「実は、会場であなたを見かけてからお話をしてみたかったんです」
「え?」
「ずっとお一人でシャンパンを飲んでいらしたので。夜会は退屈でしたか?」
「え゛!? あ、えっと、そういうわけでは……」
まずい。私は今日、大佐の妻としてこの夜会に参加しているのだ。
私の身元が割れた時、この状況では盛大に大佐の顔へ泥を塗りかねない。
あわあわとしながら、取り繕うように懸命に言葉を紡ぐ。
「ただ、その、こういった場にあまり慣れていなくて……あ、でもお料理とお酒はとっても美味しいです! いっぱいおかわりしちゃいました!」
「はははっ! あなたは正直な人ですね。では、こちらをどうぞ」
給仕人を呼び止めて果実酒の入ったグラスを二つ受け取り、片方を私に差し出す。
今まで飲んでいたシャンパンとは色味が違うようだ。
「同じものばかり飲まれていたでしょう? こちらは甘くて飲みやすいですよ」
「これは何のお酒です、か──」
ほんの僅かに、香りが強い気がした。
グラスを傾けた瞬間、それは私の手からスルリと取り上げられる。
「こちらでしたか。探しましたよ、ナマエ」
「ジェイド……!」
驚いて振り仰ぐと、ニコリと貼り付けただけの軽薄な笑みが私を見下ろしていた。
最後に大佐の姿を見てから暫く経つが、“仕事”はもう終わったのだろうか?
──ああ、このわざとらしい笑顔は少しばかり……いや、珍しい程に虫のいどころが悪い。
私から、傍に立つ男性に目を転じると、値踏みするような視線を向ける。
彼が一瞬怯んだタイミングで私の肩に掛かったジャケットを、まるで当然のようにそっと取り上げ、そのまま静かに持ち主へ返した。
笑顔も手伝い、丁寧な所作であるのに却って底冷えのするような恐ろしさに感じさせる。
「お気遣い頂き、ありがとう御座います。妻がご迷惑を」
言って、大佐は私の腰に手を添える。
まるで、誰のものか示すように。
「い、いえ……とんでもない。こちらこそ、カーティス大佐の奥様でいらっしゃったとは知らず、とんだご無礼を」
「失礼します」と一言告げて男性は足早に去ってしまった。
バルコニーには私と大佐だけが残される。
一連のやり取りですっかり酔いは覚めてしまって、火照りも引いた体には夜風が冷たく感じられる。
大佐は自分のジャケットを脱いで、私の肩にかけてくれる。
「ありがとうございます」
「油断も隙もありませんねぇ」
「? ……はあ、」
それにしても、不思議なものだ。
先程の男性と同じ行動だというのに、それが大佐だというだけで嬉しさも安心感も全然違う。
「そういえば、もういいんですか? あいさつ回り」
「よくはないですね」
「じゃあ、なんで戻ってきたんですか?」
「あなたが居なくなるからです。私の元を離れる時は、一言掛けるように言ったはずですが?」
「人に、酔っちゃって……気付いたら大佐の姿が見えなくなってたから……」
俯いて、言い訳を並べると、頭上からはわざとらしいため息が降ってくる。
ドレスの裾をぎゅうっと握ると、ドレスから外すように手を掬い上げられた。
「不慣れな場であったにも関わらず、あなたから一時でも目を離した私にも責任があります」
「いや、大佐のせいじゃ……私が勝手に、一人になったからで……」
「それに、ナマエ。一人だけ楽しむのはずるいですよ?」
「あー!」
大佐は、私から取り上げたグラスの酒を飲み干す。
その様はなんだか酒を味わうというよりも、舌の上で吟味し、何かを確かめているように見て取れる。
「そのお酒、私も飲みたかったのに……」
「普通の果実酒ですよ。あなたには私の目の届かない場所では飲ませないと決めていますので」
大佐は意味深に言って、ニッコリと笑った。
私は不貞腐れて頬を膨らませる。
「まったく……こんな場所でヤケ酒だなんて、流石に頂けませんねぇ」
大佐の口振りは、少なからず私がヤケ酒に至る経緯もしっかりと把握しているようだった。
きっと大佐の耳にも入っていたに違いない。
──すれ違い様、笑いを含んだ潜めた声で何を言われていたのか。
「……不釣り合いだってことくらい、分かってます。私はどうせジェイドみたいに完璧じゃないもの」
嘘ですらまともに装えない。
私に与えられた役目一つすら全う出来ないのだから。
「……面白い事を言いますね」
「はあ!? 面白くないですよ。喧嘩売ってます?」
「まさか」
大佐は前を向いたまま、静かに瞳を閉じる。
雲が切れて、バルコニーには月明かりが差し込んで大佐の横顔を照らし出した。
「放っておきなさい」
「でも……」
「先程、あなたは私を完璧だと言いましたが、私は寧ろ、人として肝心なものが欠けていますから」
一体、何の話をしているのだろう?
大佐の言葉から真意を探ろうと耳を傾けるけれど、よくわからない。
「……特に昔の私は、あなたが気に入らなかった」
「はい?」
「眩しく、騒がしく、理解できず」
伏せられた瞳が今度こそ私を捉えた。
ひっそりとして、どこまでも静かな赤い双眸は月夜の中でぼんやりと浮かび上がるようだった。
柔和に細められ、呼吸を忘れてしまう。
まるでその言葉通り、愛おしいものを見つめるような眼差しだったからだ。
「──だから、目を離せなかったのだと思います」
「な、ななな何の話ですかっ!?」
「簡単な話ですよ。あなたは、そのままでいい」
いつも私が望む言葉をくれないくせに。曖昧にぼかして輪郭を得ないものばかりで。
「ですから──これからも、傍にいなさい」
ほんの少しだけ落とされた声音で囁かれた言葉は、いとも簡単に私を掬いあげる。
こんなにも堪らない気持ちにさせるのだ。
20260422