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『鬼ごっこは終わりにしましょう』と、大佐は言った。
しかしながら私は、この数日間鬼ごっこをしていたつもりなどこれっぽっちもない。
自分の気持ちに向き合うのに手一杯で、心を守るのに必死で──それだけで何も考えられなくて。
けれど、大佐にとってこの期間ですらゲームのような感覚だったのかと、浮き彫りになった認識のズレとその異常性に震え上がった。
彼にとって単なる“鬼ごっこ”だというのなら、私にとってはまさに命がけの死闘。
そして、私は今し方──その死闘に敗北したのだ。
なんだかんだと理由を付けて逃げ回ることは、もうかなわない。
密室に閉じ込められて、鍵を掛けられてしまってはどうしようもない。
ここは物置部屋のようだし、窓もなく、大佐の背にある扉だけが唯一の脱出経路であるらしかった。
この状況では大佐の隙を突いて脱出する術は見つかるわけもなく、完全に手詰まりだった。
「あ、あのー……ちなみに、双方の歩み寄りと言いますか、平和的解決方法は……ないのでしょうか?」
「ありませんね。──あったとしても、お断りですが」
ならばせめて、情状酌量の余地を求めて交渉に切り替えるしかない。
懸命に思考するけれど、私の心臓は今も大佐を意識して暴れ回っている。
──大佐のことが好きなくせに。
その鼓動は痛いほど私に語りかけてくるようだった。
ガイに話を聞いてもらい、自分の本心に触れて間もなくこの状況なのだ。
自分の気持ちには気付いた。けれど、それを受け入れるにはまだ時間が必要だった。
「そこをなんとか……」
「お断りしますと、言ったはずですが?」
「うぅ……」
「本当に、あなたという人は……諦めが悪いですね」
呆れに混じる確信めいた物言いに、身体が小さく跳ねた。
「いいかげん認めたらどうです? 避けているのは、私のことを意識しているからでは?」
「っ、」
いくら取り繕ったところで、大佐を欺くことは出来ない。
彼はもう全てを知っているのだろう。
見据える赤い双眸は、私を容赦なくその場に縫いつける。
「わ、忘れてください!!」
「はぁ……それが、私から一週間ほど逃げ回ったあなたの出した答えですか?」
「……」
大佐はため息混じりに言って眼鏡を指で押し上げる。
沈黙する私を批難するでもなく、機嫌を損なうでもない──ただただ私の様子に呆れているようだった。
堪らず「だって……」と、零して唇を結ぶが、静かな視線がそれを良しとしない。沈黙は許さないとでもいうようだ。
「ああーもうっ! あれは……あれは私の黒歴史! 目も当てられないんです……忘却の彼方へ追いやらずにはいられないほどの恥ずべき記憶なんです!!」
大佐を視界に捉える度に、湧き上がる恋情と羞恥心。
所詮、この気持ちは私にしか分からない。
大佐には、分からない。
「それは困りましたね」
「え?」
「私がどれだけ待っていたと思っているんです?」
「ま、待つって……なに、を……」
言い淀む私に対し、大佐は無言の圧を背負ったまま一歩踏み出し、距離を詰めた。
さして広くない部屋だ。
逃げるにも限界があるが、この状況で一歩詰められれば一歩退くのは仕方がない。
こんな事を繰り返していれば、いずれ──。
トン、と背中には、固く無機質な棚の感触を感じた。
「じゃ、じゃあせめて……これからゆっくり大佐の事を知っていきたいっていうか……ははは」
「お断りします」
本日二度目の“お断りします”頂きましたー!
しかもサービスで、震え慄く笑顔付き!
ドッと脳内でコールが起こる。
当然そんなことを脳内で繰り広げている場合ではない。
けれど、そうでもしなければこの場の空気に飲まれてしまいそうだった。
「な、なん……で?」
「何故? そんなことは私が聞きたいくらいですがね。考える時間は十分すぎるほど与えたはずですが?」
言葉に詰まっていると、大佐は追い打ちをかけるように私の顔の横に手をついた。
「私は二十年近く、あなたに忘れられていたわけです。これ以上“待て”をさせるおつもりですか?」
待てって、犬じゃあるまいし……。
「いや、それは語弊があります! ありすぎます!」
「おや、違いましたか?」
そもそも人間は普通、二十年も前の出来事なんて覚えていないものだ。
ましてや幼少期の約束事なんて尚更だろう。
しかし、大佐にそんな理屈は通用しないらしい。
「だって覚えてなかったんだから仕方ないじゃないですか!」
「……なるほど」
再度大佐の口から溢れたため息が、私に重くのしかかるようだった。
「つまりあなたは、あれほど熱心に求婚しておきながら、それにさほど価値はなく、綺麗さっぱり忘れていた、と。仕方がないのですよね? そんな過去のことなど忘れていて当然だ」
「ぅ……は、い……」
「所詮は、子供同士で交わした口約束ですしねぇ? 私が一人で勝手にその約束を後生大事に覚えていただけですし」
「ちょ、言い方が……」
「傷つきますねぇ」
彼らしいネチネチとした言い草に、いつもの雰囲気が戻りつつある──僅かに安堵の色を浮かべた途端、大佐の手が頬に添えられる。
やはりいつもの雰囲気など皆無だった。
少しも戻っていない。それは寧ろ、危うい。
「……まだ分かりませんか?」
ワントーン低くなった大佐の声は地を這い、絡みつくようにして足元から立ち上ってくる。
「それでもまだ──私があなたを手放すとでも?」
──そんな未来があるとでも?
何があろうと、逃がしはしない。
そんな確固たる意思が宿る双眸に射抜かれ、言葉が出てこない。
まるで全身が心臓になったみたいだ。
そう思わずにはいられないほど、大きく打ち鳴らされた心音しか耳に届かない。
近すぎる距離に、私の鼓動が大佐に伝わってしまうのではないかと思えてならなかった。
「ナマエ、私は……」
まるで懇願するかのような彼は、本当にあの死霊使いと畏怖される男なのだろうか?
不思議と恐ろしさは抜けていた。
どう見ても今の彼からは恐ろしい異名など欠片も感じられない──ただの、一人の男のように感じられてならなかったからだ。
「あなたの心が欲しい」
ぎゅうっと胸が締め付けられるようだった。
その言葉は──紛れもなく、あの日の夜。私が彼を突き放した一言。
何があろうと、決して差し出しはしないと拒絶した。
「ジェイ、ド……」
「私を選ばない理由が、まだありますか?」
ああ、もう駄目だ──逃げられない。
違う。本当は逃げたいわけじゃない。
一歩踏み出せば何もかも変わってしまうと理解しているから、それがとても怖いのだ。
心と向き合って、彼の言葉を受け入れて、自分が自分じゃない他の何かに成り果ててしまうことが私は怖くてたまらない。
でも、彼と一緒なら──踏み出したいと思えてしまう時点で、答えなんて出ているようなものなのだけれど。
頬へ添えられた彼の手に、震える自分のそれをたどたどしく重ねた。
視線を外して消え入りそうな声で告げる。
「……好き、です」
心音が煩い。
私は今、きちんと伝えられたのだろうか?
自分で発した言葉でさえ、騒ぐ心臓の音で塗りつぶされてしまったように感じられて……。
「ジェイドが……好き……」
頭上から「ふっ」と小さく笑みが溢れた。
つられてゆっくりと顔をあげると、柔和な眼差しが私を捉えていた。
「やっと白状しましたか」
静かな息遣いと共に吐き出された言葉は実に彼らしい。こんな時でも──と、いうべきだろうか?
「……知っていましたよ」
「え?」
「ですが──」
ふわり──と、大佐の香水の香りが鼻を擽った。
全てを悟った物言いのわりに、私を包み込む腕はほんの僅かにぎこちない。
その非対称さが今はどうしてだろう……とても心地よかった。
「漸く、その言葉が聞けました」
酷く、時間がかかった。とても、長かった。
そこには──言葉にされなかった時間が滲んでいた。
私を包み込む腕が緩み、誘われるままに顔を上げると、大佐は整った顔に和やかな笑みを湛える。
「心を通わせるというのは、こんなにも心地の良いものなのですね……」
「知りませんでしたよ」と、柔らかな声音で告げる。
彼もそんな顔ができたのか──と、少々驚いた。
果たして、大佐のこんな表情を拝めるのはこの世界に何人存在するのだろう?
願わくば、私一人でありたいなんて──思っても口に出しはしないけれど。
「大佐もそんな顔が出来るんですね……」
「おや、胡散臭いとでも?」
「え!? いやいや、決してそんな……」
「失礼ですねぇ。これは──幸せを噛み締めている男の顔だというのに」
「へ?」
これ以上の反論は取り上げられる。
静かに重なり合った唇に──言葉も、意識も、何もかも……溶けてしまった。
20260405
しかしながら私は、この数日間鬼ごっこをしていたつもりなどこれっぽっちもない。
自分の気持ちに向き合うのに手一杯で、心を守るのに必死で──それだけで何も考えられなくて。
けれど、大佐にとってこの期間ですらゲームのような感覚だったのかと、浮き彫りになった認識のズレとその異常性に震え上がった。
彼にとって単なる“鬼ごっこ”だというのなら、私にとってはまさに命がけの死闘。
そして、私は今し方──その死闘に敗北したのだ。
なんだかんだと理由を付けて逃げ回ることは、もうかなわない。
密室に閉じ込められて、鍵を掛けられてしまってはどうしようもない。
ここは物置部屋のようだし、窓もなく、大佐の背にある扉だけが唯一の脱出経路であるらしかった。
この状況では大佐の隙を突いて脱出する術は見つかるわけもなく、完全に手詰まりだった。
「あ、あのー……ちなみに、双方の歩み寄りと言いますか、平和的解決方法は……ないのでしょうか?」
「ありませんね。──あったとしても、お断りですが」
ならばせめて、情状酌量の余地を求めて交渉に切り替えるしかない。
懸命に思考するけれど、私の心臓は今も大佐を意識して暴れ回っている。
──大佐のことが好きなくせに。
その鼓動は痛いほど私に語りかけてくるようだった。
ガイに話を聞いてもらい、自分の本心に触れて間もなくこの状況なのだ。
自分の気持ちには気付いた。けれど、それを受け入れるにはまだ時間が必要だった。
「そこをなんとか……」
「お断りしますと、言ったはずですが?」
「うぅ……」
「本当に、あなたという人は……諦めが悪いですね」
呆れに混じる確信めいた物言いに、身体が小さく跳ねた。
「いいかげん認めたらどうです? 避けているのは、私のことを意識しているからでは?」
「っ、」
いくら取り繕ったところで、大佐を欺くことは出来ない。
彼はもう全てを知っているのだろう。
見据える赤い双眸は、私を容赦なくその場に縫いつける。
「わ、忘れてください!!」
「はぁ……それが、私から一週間ほど逃げ回ったあなたの出した答えですか?」
「……」
大佐はため息混じりに言って眼鏡を指で押し上げる。
沈黙する私を批難するでもなく、機嫌を損なうでもない──ただただ私の様子に呆れているようだった。
堪らず「だって……」と、零して唇を結ぶが、静かな視線がそれを良しとしない。沈黙は許さないとでもいうようだ。
「ああーもうっ! あれは……あれは私の黒歴史! 目も当てられないんです……忘却の彼方へ追いやらずにはいられないほどの恥ずべき記憶なんです!!」
大佐を視界に捉える度に、湧き上がる恋情と羞恥心。
所詮、この気持ちは私にしか分からない。
大佐には、分からない。
「それは困りましたね」
「え?」
「私がどれだけ待っていたと思っているんです?」
「ま、待つって……なに、を……」
言い淀む私に対し、大佐は無言の圧を背負ったまま一歩踏み出し、距離を詰めた。
さして広くない部屋だ。
逃げるにも限界があるが、この状況で一歩詰められれば一歩退くのは仕方がない。
こんな事を繰り返していれば、いずれ──。
トン、と背中には、固く無機質な棚の感触を感じた。
「じゃ、じゃあせめて……これからゆっくり大佐の事を知っていきたいっていうか……ははは」
「お断りします」
本日二度目の“お断りします”頂きましたー!
しかもサービスで、震え慄く笑顔付き!
ドッと脳内でコールが起こる。
当然そんなことを脳内で繰り広げている場合ではない。
けれど、そうでもしなければこの場の空気に飲まれてしまいそうだった。
「な、なん……で?」
「何故? そんなことは私が聞きたいくらいですがね。考える時間は十分すぎるほど与えたはずですが?」
言葉に詰まっていると、大佐は追い打ちをかけるように私の顔の横に手をついた。
「私は二十年近く、あなたに忘れられていたわけです。これ以上“待て”をさせるおつもりですか?」
待てって、犬じゃあるまいし……。
「いや、それは語弊があります! ありすぎます!」
「おや、違いましたか?」
そもそも人間は普通、二十年も前の出来事なんて覚えていないものだ。
ましてや幼少期の約束事なんて尚更だろう。
しかし、大佐にそんな理屈は通用しないらしい。
「だって覚えてなかったんだから仕方ないじゃないですか!」
「……なるほど」
再度大佐の口から溢れたため息が、私に重くのしかかるようだった。
「つまりあなたは、あれほど熱心に求婚しておきながら、それにさほど価値はなく、綺麗さっぱり忘れていた、と。仕方がないのですよね? そんな過去のことなど忘れていて当然だ」
「ぅ……は、い……」
「所詮は、子供同士で交わした口約束ですしねぇ? 私が一人で勝手にその約束を後生大事に覚えていただけですし」
「ちょ、言い方が……」
「傷つきますねぇ」
彼らしいネチネチとした言い草に、いつもの雰囲気が戻りつつある──僅かに安堵の色を浮かべた途端、大佐の手が頬に添えられる。
やはりいつもの雰囲気など皆無だった。
少しも戻っていない。それは寧ろ、危うい。
「……まだ分かりませんか?」
ワントーン低くなった大佐の声は地を這い、絡みつくようにして足元から立ち上ってくる。
「それでもまだ──私があなたを手放すとでも?」
──そんな未来があるとでも?
何があろうと、逃がしはしない。
そんな確固たる意思が宿る双眸に射抜かれ、言葉が出てこない。
まるで全身が心臓になったみたいだ。
そう思わずにはいられないほど、大きく打ち鳴らされた心音しか耳に届かない。
近すぎる距離に、私の鼓動が大佐に伝わってしまうのではないかと思えてならなかった。
「ナマエ、私は……」
まるで懇願するかのような彼は、本当にあの死霊使いと畏怖される男なのだろうか?
不思議と恐ろしさは抜けていた。
どう見ても今の彼からは恐ろしい異名など欠片も感じられない──ただの、一人の男のように感じられてならなかったからだ。
「あなたの心が欲しい」
ぎゅうっと胸が締め付けられるようだった。
その言葉は──紛れもなく、あの日の夜。私が彼を突き放した一言。
何があろうと、決して差し出しはしないと拒絶した。
「ジェイ、ド……」
「私を選ばない理由が、まだありますか?」
ああ、もう駄目だ──逃げられない。
違う。本当は逃げたいわけじゃない。
一歩踏み出せば何もかも変わってしまうと理解しているから、それがとても怖いのだ。
心と向き合って、彼の言葉を受け入れて、自分が自分じゃない他の何かに成り果ててしまうことが私は怖くてたまらない。
でも、彼と一緒なら──踏み出したいと思えてしまう時点で、答えなんて出ているようなものなのだけれど。
頬へ添えられた彼の手に、震える自分のそれをたどたどしく重ねた。
視線を外して消え入りそうな声で告げる。
「……好き、です」
心音が煩い。
私は今、きちんと伝えられたのだろうか?
自分で発した言葉でさえ、騒ぐ心臓の音で塗りつぶされてしまったように感じられて……。
「ジェイドが……好き……」
頭上から「ふっ」と小さく笑みが溢れた。
つられてゆっくりと顔をあげると、柔和な眼差しが私を捉えていた。
「やっと白状しましたか」
静かな息遣いと共に吐き出された言葉は実に彼らしい。こんな時でも──と、いうべきだろうか?
「……知っていましたよ」
「え?」
「ですが──」
ふわり──と、大佐の香水の香りが鼻を擽った。
全てを悟った物言いのわりに、私を包み込む腕はほんの僅かにぎこちない。
その非対称さが今はどうしてだろう……とても心地よかった。
「漸く、その言葉が聞けました」
酷く、時間がかかった。とても、長かった。
そこには──言葉にされなかった時間が滲んでいた。
私を包み込む腕が緩み、誘われるままに顔を上げると、大佐は整った顔に和やかな笑みを湛える。
「心を通わせるというのは、こんなにも心地の良いものなのですね……」
「知りませんでしたよ」と、柔らかな声音で告げる。
彼もそんな顔ができたのか──と、少々驚いた。
果たして、大佐のこんな表情を拝めるのはこの世界に何人存在するのだろう?
願わくば、私一人でありたいなんて──思っても口に出しはしないけれど。
「大佐もそんな顔が出来るんですね……」
「おや、胡散臭いとでも?」
「え!? いやいや、決してそんな……」
「失礼ですねぇ。これは──幸せを噛み締めている男の顔だというのに」
「へ?」
これ以上の反論は取り上げられる。
静かに重なり合った唇に──言葉も、意識も、何もかも……溶けてしまった。
20260405