30
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「…………」
あの失言から今日で三日。
今朝も上等なマットレス――ではなく、硬く冷えた床の上で目を覚ました。
申し訳ない程度に片足だけマットレスに引っ掛けて、布団と共に床へ転がり落ちたまま眠っていたようだ。
いつの間にか受け入れていたけれど、朝は大佐の腕の中で迎えることが当たり前になっていた。
今思えば、あれはただの嫌がらせではなく、寝相の悪い私への対処だったのかもしれない。
――実に、彼らしい。
まあ、今更気付いたところで、どうにもならないのだけれど……私を包み込む腕は、もうない。
そもそも、あれが当たり前だったことの方が異常だったのだから。
大胆かつ芸術的な寝相のせいで体のあちこちが痛む。
まるで眠っていた間に一仕事終えたかのような疲労感を帯びた体をのっそりと起こして部屋を見回す。
そこには既に大佐の気配はなく、静まり返った室内には窓辺に止まる小鳥の囀りだけが僅かに響いている。
今日もまた私を残し、大佐は先に出てしまったらしい。
冷えたマットレスに手を這わせ、今はもうない温もりを確かめる。
「これが普通……なんだよね……」
別に、なんてことはない。
むしろ、これこそ私が望んだ現実ではないか……。
最初の頃に戻っただけだ。近付きすぎた距離が正常に戻っただけ。
背中合わせで眠ることも、必要最小限の言葉を交わすことも、共に食事を取らないことも。
全部全部、元通りになった――それだけだ。
起こしたばかりの体を再びベッドへ投げ出す。
無駄に高い天井を見あげると、先日の記憶が脳内に流れ来んできた。
『心まで、あなたのものじゃない!』
目を閉じても、先日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
決して、間違った事を言ったつもりはない。
ただ、その一言で冷えていく大佐の瞳を見た時、触れてはならない場所を踏み抜いてしまったのだと静かに理解した。
その時から心の片隅には、言葉に出来ないに何かが巣食っている。
軋む体を引き摺って、どこか晴れない鬱屈とした気分のまま支度を済ませ、部屋を出た。
***
「随分と遅かったですね。もう少し時間に余裕を持って行動して欲しいものです」
私を迎え入れた言葉は実に彼らしいが、その口振りは何処までも他人行儀だった。
拒絶するのならいっそ、とことん突き放して欲しい。
もうこんな関係は終わりだと突っぱねてくれたのなら割り切れるのに、そうしないのがジェイド・カーティスという男の真髄なのだ。
冷え切った状況であっても、偽装夫婦という肩書を外す事はしない――解放してはくれない。
「む……悪かったですね。でも、まだギリギリ始業時間前ですしー」
「ええ。遅刻でないだけ、評価すべきなのでしょうね」
相変わらずの嫌味だ。
言葉には彼らしさが滲んでいるけれど、何かが違う。
向かいに座る大佐を不満気に見やるが、視線が重なることはない。
ペンを走らせる手も止めず、視線も手元に残したまま淡々と言葉を交わす。
「だったら、起こしてくれれば……」
「……」
ついには言葉すら返ってこない。
室内にはペン先が紙を滑る音と、書類めくる乾いた音だけが響く。
「ちょっと! 聞いてます!?」
「ええ。ですが、必要性を感じませんね」
「っ!」
それは、言葉を交わす必要が?
――それとも、私と関わること自体が?
堪らず立ち上がり、その言葉の真意を尋ねようと身を乗り出すが、迫り上がった言葉は喉の奥へと引っ込んだ。
こんな時でも、彼はその瞳に私を映そうとすらしなかったからだ。
彼の冷えた声に気圧され、ふらりと椅子に座り直す。
「それから、その寝癖も直してください。あなたは私の“偽装妻”なのでしょう? でしたら、“体裁くらい”守って頂きたいものですね。――外では特に」
「あーもー分かりましたよ。直せばいいんでしょ!? 直せば!」
あんなふうに当てつけのように言わなくてもいいじゃないか。
髪を整える名目で執務室から抜け出し、ひと息つく。あの部屋は息苦しくてかなわない。
鏡に映った自分の姿は、大佐の指摘通り、収まりの悪い髪が一束ぴょこんと主張していた。
「そんなに言わなくてもいいじゃん……いつもだったら――」
いつもだったらきっと、皮肉って、最後には仕方のない人だと軽口を叩いて髪に触れ、言葉とは裏腹に優しげな視線をくれる。
(あ、そうだ――視線)
声は返ってくる。会話も成立している。
なのに――私だけが、そこにいないみたいだった。
あの日から今日まで拭いきれなかった違和感の正体は、視線だったのだ。
憎たらしくもあり、剣呑でもあり、けれど……どこか柔らかで。
私を縛り続けるあの双眸は、冷え切ったきり私を映すことは無い。
そして、その双眸から温もりを奪ったのは他でもない私自身。
執務室の前まで行き至ると、そこには今し方執務室から出て来たばかりの大佐の姿がある。
一瞬でも、私を探しに来てくれたのかもしれないだなんて淡い感情に捕らわれる自分が惨めったらしい。
勿論そんな事はなく、大佐は此方を一瞥もせず歩き出す。
違和感の正体に気付いてから、改めて現実を突き付けられたようでならなかった。
やはり、大佐は私を視界に捉えてはくれない。
あるはずのものが存在しない――それだけで、こうも喪失感に似た感情が胸に広がっていく。
こんな感情、私は知らない。
思わず、大佐の後を追う。
「あ、あの、大佐? 何処に行くんですか?」
「陛下の執務室です――が、あなたはついてこなくて結構ですよ」
「別について行くわけじゃないです! こっちに用があるだけで……」
「そうですか」
それっきり会話は無くなり、二人分の不揃いの足音が廊下に響く。
チラリと前を歩く広い背中を盗み見る。
肩下まで伸びた茶色の髪が靡くだけで、振り向く事もなければ歩調も合わない。
開いてゆく距離と語らない冷淡な背中。
彼と共に歩く時、こんな事はなかった。
――視界に映らない。目が合わない。
それだけで、こんなにも距離を感じるものだった。
偽装夫婦でありながらも、大佐は私をいつも視界に映していた。歩調を合わせ、気付ける距離で。
いつも静かに、ただそこにある事が当たり前であるように。
それは理不尽な世界という名の檻のようでいて、私は――。
ざわり……、と胸の奥が漣立つ。
それらを言葉にする前に駆け寄って、伸ばした手は靡く燕尾の襟を掴んでいた。
「!」
真っ直ぐ前を向いていた大佐が、ゆっくりと振り返る。
赤い瞳が私を捉え、漸く視線が絡まる。
目が合う――ただそれだけのことなのに、燻っていた感情が迫り上がり、喉を擦る。
襟を掴む指に、僅かに力が籠った。
「っ、あの……ジェイド――」
何を伝えようとしたのか、自分でも分からない。
それでも引き留めて、ただ彼の名前を呼んでいた。
「お待ちなさい、ジェイドーー!」
その瞬間だった。
私の呼びかけを遮り、一瞬で無き物にする。
場の空気を容赦なく引き裂くように、その声は轟いたのだ。
20260326
あの失言から今日で三日。
今朝も上等なマットレス――ではなく、硬く冷えた床の上で目を覚ました。
申し訳ない程度に片足だけマットレスに引っ掛けて、布団と共に床へ転がり落ちたまま眠っていたようだ。
いつの間にか受け入れていたけれど、朝は大佐の腕の中で迎えることが当たり前になっていた。
今思えば、あれはただの嫌がらせではなく、寝相の悪い私への対処だったのかもしれない。
――実に、彼らしい。
まあ、今更気付いたところで、どうにもならないのだけれど……私を包み込む腕は、もうない。
そもそも、あれが当たり前だったことの方が異常だったのだから。
大胆かつ芸術的な寝相のせいで体のあちこちが痛む。
まるで眠っていた間に一仕事終えたかのような疲労感を帯びた体をのっそりと起こして部屋を見回す。
そこには既に大佐の気配はなく、静まり返った室内には窓辺に止まる小鳥の囀りだけが僅かに響いている。
今日もまた私を残し、大佐は先に出てしまったらしい。
冷えたマットレスに手を這わせ、今はもうない温もりを確かめる。
「これが普通……なんだよね……」
別に、なんてことはない。
むしろ、これこそ私が望んだ現実ではないか……。
最初の頃に戻っただけだ。近付きすぎた距離が正常に戻っただけ。
背中合わせで眠ることも、必要最小限の言葉を交わすことも、共に食事を取らないことも。
全部全部、元通りになった――それだけだ。
起こしたばかりの体を再びベッドへ投げ出す。
無駄に高い天井を見あげると、先日の記憶が脳内に流れ来んできた。
『心まで、あなたのものじゃない!』
目を閉じても、先日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
決して、間違った事を言ったつもりはない。
ただ、その一言で冷えていく大佐の瞳を見た時、触れてはならない場所を踏み抜いてしまったのだと静かに理解した。
その時から心の片隅には、言葉に出来ないに何かが巣食っている。
軋む体を引き摺って、どこか晴れない鬱屈とした気分のまま支度を済ませ、部屋を出た。
***
「随分と遅かったですね。もう少し時間に余裕を持って行動して欲しいものです」
私を迎え入れた言葉は実に彼らしいが、その口振りは何処までも他人行儀だった。
拒絶するのならいっそ、とことん突き放して欲しい。
もうこんな関係は終わりだと突っぱねてくれたのなら割り切れるのに、そうしないのがジェイド・カーティスという男の真髄なのだ。
冷え切った状況であっても、偽装夫婦という肩書を外す事はしない――解放してはくれない。
「む……悪かったですね。でも、まだギリギリ始業時間前ですしー」
「ええ。遅刻でないだけ、評価すべきなのでしょうね」
相変わらずの嫌味だ。
言葉には彼らしさが滲んでいるけれど、何かが違う。
向かいに座る大佐を不満気に見やるが、視線が重なることはない。
ペンを走らせる手も止めず、視線も手元に残したまま淡々と言葉を交わす。
「だったら、起こしてくれれば……」
「……」
ついには言葉すら返ってこない。
室内にはペン先が紙を滑る音と、書類めくる乾いた音だけが響く。
「ちょっと! 聞いてます!?」
「ええ。ですが、必要性を感じませんね」
「っ!」
それは、言葉を交わす必要が?
――それとも、私と関わること自体が?
堪らず立ち上がり、その言葉の真意を尋ねようと身を乗り出すが、迫り上がった言葉は喉の奥へと引っ込んだ。
こんな時でも、彼はその瞳に私を映そうとすらしなかったからだ。
彼の冷えた声に気圧され、ふらりと椅子に座り直す。
「それから、その寝癖も直してください。あなたは私の“偽装妻”なのでしょう? でしたら、“体裁くらい”守って頂きたいものですね。――外では特に」
「あーもー分かりましたよ。直せばいいんでしょ!? 直せば!」
あんなふうに当てつけのように言わなくてもいいじゃないか。
髪を整える名目で執務室から抜け出し、ひと息つく。あの部屋は息苦しくてかなわない。
鏡に映った自分の姿は、大佐の指摘通り、収まりの悪い髪が一束ぴょこんと主張していた。
「そんなに言わなくてもいいじゃん……いつもだったら――」
いつもだったらきっと、皮肉って、最後には仕方のない人だと軽口を叩いて髪に触れ、言葉とは裏腹に優しげな視線をくれる。
(あ、そうだ――視線)
声は返ってくる。会話も成立している。
なのに――私だけが、そこにいないみたいだった。
あの日から今日まで拭いきれなかった違和感の正体は、視線だったのだ。
憎たらしくもあり、剣呑でもあり、けれど……どこか柔らかで。
私を縛り続けるあの双眸は、冷え切ったきり私を映すことは無い。
そして、その双眸から温もりを奪ったのは他でもない私自身。
執務室の前まで行き至ると、そこには今し方執務室から出て来たばかりの大佐の姿がある。
一瞬でも、私を探しに来てくれたのかもしれないだなんて淡い感情に捕らわれる自分が惨めったらしい。
勿論そんな事はなく、大佐は此方を一瞥もせず歩き出す。
違和感の正体に気付いてから、改めて現実を突き付けられたようでならなかった。
やはり、大佐は私を視界に捉えてはくれない。
あるはずのものが存在しない――それだけで、こうも喪失感に似た感情が胸に広がっていく。
こんな感情、私は知らない。
思わず、大佐の後を追う。
「あ、あの、大佐? 何処に行くんですか?」
「陛下の執務室です――が、あなたはついてこなくて結構ですよ」
「別について行くわけじゃないです! こっちに用があるだけで……」
「そうですか」
それっきり会話は無くなり、二人分の不揃いの足音が廊下に響く。
チラリと前を歩く広い背中を盗み見る。
肩下まで伸びた茶色の髪が靡くだけで、振り向く事もなければ歩調も合わない。
開いてゆく距離と語らない冷淡な背中。
彼と共に歩く時、こんな事はなかった。
――視界に映らない。目が合わない。
それだけで、こんなにも距離を感じるものだった。
偽装夫婦でありながらも、大佐は私をいつも視界に映していた。歩調を合わせ、気付ける距離で。
いつも静かに、ただそこにある事が当たり前であるように。
それは理不尽な世界という名の檻のようでいて、私は――。
ざわり……、と胸の奥が漣立つ。
それらを言葉にする前に駆け寄って、伸ばした手は靡く燕尾の襟を掴んでいた。
「!」
真っ直ぐ前を向いていた大佐が、ゆっくりと振り返る。
赤い瞳が私を捉え、漸く視線が絡まる。
目が合う――ただそれだけのことなのに、燻っていた感情が迫り上がり、喉を擦る。
襟を掴む指に、僅かに力が籠った。
「っ、あの……ジェイド――」
何を伝えようとしたのか、自分でも分からない。
それでも引き留めて、ただ彼の名前を呼んでいた。
「お待ちなさい、ジェイドーー!」
その瞬間だった。
私の呼びかけを遮り、一瞬で無き物にする。
場の空気を容赦なく引き裂くように、その声は轟いたのだ。
20260326