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気付けば、執務室を飛び出していた。
腕にナマエの私物を抱え、医務室へと続く廊下を駆ける。
事の発端は、ほんの数分前。
ナマエが随伴した部隊が任務を終え、そろそろ基地に帰還する頃だ。
いつものように“疲れた”だの“腹が減った”だの“人使いが荒い”などと文句を垂れながら、膨れっ面で私の元へ戻ってくる。
それを軽くあしらいながら、頭を撫でて労ってやる――いつもの日常。
それらが揺らぐことなどないのだと、軍人でありながら愚かにも信じて疑わなかったのだ。
しかし、時間になっても一向にナマエが執務室を訪れることはなく、代わりに執務室の扉を開けたのは、ナマエが随伴していた師団の兵士だった。
彼は、ナマエが任務中に負傷した旨と共に貴重品を差し出す。
どうか、何かの間違いであってほしい――。
だが、その期待はいとも簡単に打ち砕かれてしまった。
受け取った私物は、彼女が任務に赴く際にいつも身に付けているポーチと、肌身放さず持ち歩いている父親の形見の短剣だったからだ。
瞬間、呼吸が止まる――。
喉を絞め上げられるような圧迫感。
ドクリと鈍い音を立て、心臓が跳ねた。
周囲の音が消え、辛うじて“医務室”という単語だけが聞き取れた。
医務室まで行き至ったところで、突然部屋の扉が開く。
「いやぁー大変お世話になりました! すみません……治癒師が医務室でお世話になっちゃうなんて……あははは。あ、この事はどうか大佐には内緒にしておいてもらえます? こっ酷く怒られちゃうの、で――うぶ!?」
室内に顔を向けたまま部屋から出て来たナマエは、案の定、入り口で待ち構えていた私の胸元にぶつかる。
顔を上げた途端、軽口は途絶え、表情は見る見る色を無くし、絶望に塗れた。
「思っていたより元気そうで何よりです」
「あ、ああっ……ぁ……」
「余所見をしているからですよ? お陰で捕まえる手間は省けましたが」
「たったたたたたっ大佐……!」
「おかえりなさい、ナマエ。聞きたい事は山程ありますが――」
一旦言葉を切り、彼女に視線を落とす。
正確にはその髪に、だ。
肩下で切り揃えられていた髪が、見る影もなくザンバラになっている。
双眸を細めると、ナマエは反射的に身を強張らせるが、構わず言葉を続けた。
「また随分と無茶をしたようですね? 治癒師でありながら、医務室に世話になる程度には」
「ひいっ……!」
ナマエの行動はお見通しだ。
私が出入り口に立ちはだかっている以上、彼女の逃げ場は医務室の中にしか無い。
閉められる前に扉を掴み、籠城を阻止する。
周囲には、第三者の目もある。
下手に仕置など出来るはずもなく、彼女が自発的に私の元へ来るのを待つしかない。
衆目と静かな圧。
無言の攻防戦が繰り広げられる中、耐えかねて言葉を発したのはナマエだった。
「え、えっと……あ、荷物! 預かってくれてたんですね。ありがとう御座いまーす……うわぁぁあ!?」
望んでいたものとは程遠い言葉に、眼鏡を押し上げ、ため息をつく。
仕方がないと割り切って、ナマエを抱き上げた。
「ご苦労。後は此方で対処する」
軍医に一言告げて、踵を返す。
意を介さず行動に移す私に、ナマエは四肢をバタつかせて全身で抗議する。
「ちょ、待っ、下ろしてください大佐! 髪が切れただけで怪我も治ったし、大丈夫ですから!」
腕の中で喚くナマエを眼光鋭く見下ろすと、彼女は青ざめ、縮み上がった。
「ええ。ですから、そのザンバラ髪も私手ずから整えて差し上げますよ」
「…………アリガトウゴザイマス」
執務室に戻ると、横抱きにしていたナマエを下ろす。
ザンバラになった髪を視界に捉え、目を伏せた。
生憎と時間には融通が利く。
ナマエが戻る時間を見越して執務を一段落させておいたからに他ならないが、無論、こんな事のために時間を空けていたわけではない。
「あの、本当に適当でいいですからね? 切る物は――あ、そこの短剣でも」
切れれば何でもいいと、ナマエは机の上の短剣を指さした。
彼女の視線を辿り短剣を視界に捉えて、ため息をつく。
確かに彼女には少々逞しい一面があるが、今はその逞しさを発揮する場面ではない。
「……あなたという人は。それは形見の短剣でしょう? 鬼籍に入られたお父上も、娘の髪を切るために残したわけではないでしょうに」
「ははは……それを言われると……」
「ハサミを持ってきます。少し待っていてください」
ナマエを一人執務室に残し、別室からハサミと櫛、敷布、あとはケープの代わりになりそうな布を見繕って戻ってくる。
椅子に座る彼女の背後に回り、首回りに布を巻く。
疎らな長さの髪を櫛で整え、ハサミを入れた。
ハラリ、と切り落とした髪が敷布の上に落ちてゆく。
「まったく……無茶をしたものですね。周囲を顧みず助けに入るなど言語道断です」
「ぅ……で、でもっ!」
小刻みに動かしていたハサミを止めて、ジャキン!と力強く髪を切り落とす。
空気を切り裂くように響いた断髪音に、彼女の言い訳も喉の奥へ引っ込んでしまった。
「今や、あなたも一軍人。以前もそうお伝えしましたね?」
「は、はい……」
「今回、あなたのとった行動は、一人の兵士の命を助けた。ですが、そんなものは結果論です」
「……」
「周りを危険に晒す可能性も十分にあったはずです。もし、あなたが倒れていたら、その部隊はどうなりますか? あなたは治癒師です。ご自分の命の価値を、もう少し理解しなさい」
冷えた声は静まり返った室内に淡々と響く。
諭すような物言いは、私たちの間に沈黙を産んだ。
いつも反論してばかりのナマエも、今回ばかりは堪えたようだ。
ひとえに、反論を許さない私の物言いのせいかもしれないが。
手を止めたまま「ですが」と、静かに告げる。
「……あなたに怪我がなくて、本当によかった」
先程のように冷ややかな声音ではなく、そこには安堵が滲んでいた。
それと同時に“最悪の事態”が脳裏を過り、ひどく胸の奥がざわついた。
知らせを聞いた時、堪らず駆け出して医務室に向かう程、私は軍人であることを忘れていた。
軍人の心得を散々彼女に説いておいて。
生きた心地がせず、そして――ナマエを失う事が、何よりも恐ろしいと思えてならなかったのだ。
ナマエが柔らかくなった声色につられて此方を振り向こうとするが、細い顎に指先を添え、制止する。
「動かないでください。まだ終わっていませんよ?」
「あ、はい……すみません」
再び小刻みにハサミを動かす最中、ナマエは「それにしても」と話を切り出す。
その声には無邪気さが戻りつつあるようだった。
「大佐は案外、心配症なんですねー」
「一体誰のせいだと? こうもじゃじゃ馬な妻をもつと、心臓がいくつあってもたりませんよ」
「偽装妻ですけどね!?」
以前にも、こうして彼女の髪に触れたことがある。
あの時も――ナマエは、嫌がる素振りを見せなかった。
髪に触れる距離は、本来なら容易に踏み込める領域ではない。他人であれば、尚更だ。
それを、減らず口を叩きながらも彼女は許容している。
(……無自覚なのでしょうが)
これを当然と思われているのなら――少々、都合が良すぎる。
「あなたは――」
ほんの一瞬、手が止まる。
「私に心を許してくれていると、思ってもよろしいのですか?」
「へ?」
「他人に髪を触らせる行為は、少なからず抵抗を覚えるものだと思うのですが」
私の問いかけに、ナマエは間の抜けた声を上げた。
質問の意味を咀嚼し、理解し、慌てて否定する。
「ち、違いますぅー! 仕方なくですよ! 自分じゃ切れないってだけだもの!」
「おや、そうですか? あなたは以前も、私に髪を触らせてくださいましたね」
「いや、あれは乾かせって大佐がうるさかったからで……! まぁ……確かに、誰にもは触らせないですけど」
まさか彼女の口からそんな言葉が聞けるとは思っておらず、面食らって、動きを止めてしまった。
瞬きも、指先一つも、呼吸でさえも。全て。
「大佐?」
「……いえ。あなたも随分と私の扱いに慣れたものだと思っただけですよ。最初はあれほど私を警戒していたというのに」
我に返り、軽口混じりに言葉を紡ぐ。
動揺の色が、呼吸や視線、指先を伝って彼女に伝わってしまわないように。
「いや、今でも警戒してますよ!? ちょっと……ほんのちょーっとだけマシになっただけです」
「まあ、それも初めの頃を思えば進歩だと思いますがね。それに今、あなたの髪の運命は私の手中である事を忘れないでください」
「卑怯ですよ!!」
「いやぁ、腕が鳴りますねぇ」
「ちょっと大佐! お願いしますよ!? 信じてますからね!?」
短剣で適当に整えろと言っていたわりに仕上がりは気になるらしい。
バラバラの長さの髪を指で掬い上げ、ハサミを入れて整える。
それでもショックを受けている様子は彼女からさほど見受けられない。
適当でいいと言った彼女の言葉には、少なからず本心も混ざっていたようだ。
「――髪は、女性の命」
「はい?」
「一般論として、そう言いますが……あなたはさほど気にしていないようですね」
ナマエは、ゆっくりと顔を此方に向けた。
本当は傷付いていて、ただ平然としているだけなのかもしれないが。
「大佐は髪が長い女性の方が好きなんですか?」
「!」
しかし、彼女よりも浮かない顔をしていたのは私の方だったのかもしれない。
彼女の言葉がそれを物語っていた。
想定外の質問に双眸を瞬かせる。
「……特に、好みはありません。その人に似合っていることが大切だと思いますよ」
我ながら模範解答だったろう。
けれど――。
肩下までの、本来の長さのまま残った髪を一束掬う。
ハサミを入れる手が切り落とす事を僅かに拒んだ。
「……ですが、やはりあなたには伸ばしていただきましょうか」
「え、何で……?」
一呼吸置いて、長い髪にハサミを入れる。
断ち切られた髪が、重力に従って指の中でしなだれる。
切り落とした髪を指に留めたまま、わずかな呼吸の間だけ見つめ――何事もなかったかのように床へ落とした。
「私の精神衛生の為にですよ」
「え゛!? 大佐の為!?」
「ええ、私の為に。不服ですか?」
「んう゛ー……」と、腕を組み、考えあぐねている。その様子がまた面白い。
彼女のようなタイプは、他者の為なら自身が傷付くこともいとわない。
今回はたまたま髪だっただけで、次はどうなるともわからない。
ならばせめて――と思っての提案だった。
表向きではそうだったとしても、決して冗談ではなかったし、彼女の中に私という存在を選択肢として残しておいてほしいと願っていた。
「ま、まあ? 考えておいてあげますよ」
伏せていた視線を、正面に戻す。
髪の隙間から覗く耳が僅かに赤く色付いていた。
嗚呼、やはり――私の扱いに慣れている。
癪だと思う一方で、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「ええ、是非。あなたの髪はとても美しいですから」
「っ、またそんな事言って……」
「こればかりは事実ですからね」
短くなった髪の先を、指先で確かめるように触れた。
「くれぐれも頼みますよ。……今後、こんな風に髪を整えるのは御免ですから」
「はーい」
僅かに口元を緩め、「結構」と短く零した。
20260318
腕にナマエの私物を抱え、医務室へと続く廊下を駆ける。
事の発端は、ほんの数分前。
ナマエが随伴した部隊が任務を終え、そろそろ基地に帰還する頃だ。
いつものように“疲れた”だの“腹が減った”だの“人使いが荒い”などと文句を垂れながら、膨れっ面で私の元へ戻ってくる。
それを軽くあしらいながら、頭を撫でて労ってやる――いつもの日常。
それらが揺らぐことなどないのだと、軍人でありながら愚かにも信じて疑わなかったのだ。
しかし、時間になっても一向にナマエが執務室を訪れることはなく、代わりに執務室の扉を開けたのは、ナマエが随伴していた師団の兵士だった。
彼は、ナマエが任務中に負傷した旨と共に貴重品を差し出す。
どうか、何かの間違いであってほしい――。
だが、その期待はいとも簡単に打ち砕かれてしまった。
受け取った私物は、彼女が任務に赴く際にいつも身に付けているポーチと、肌身放さず持ち歩いている父親の形見の短剣だったからだ。
瞬間、呼吸が止まる――。
喉を絞め上げられるような圧迫感。
ドクリと鈍い音を立て、心臓が跳ねた。
周囲の音が消え、辛うじて“医務室”という単語だけが聞き取れた。
医務室まで行き至ったところで、突然部屋の扉が開く。
「いやぁー大変お世話になりました! すみません……治癒師が医務室でお世話になっちゃうなんて……あははは。あ、この事はどうか大佐には内緒にしておいてもらえます? こっ酷く怒られちゃうの、で――うぶ!?」
室内に顔を向けたまま部屋から出て来たナマエは、案の定、入り口で待ち構えていた私の胸元にぶつかる。
顔を上げた途端、軽口は途絶え、表情は見る見る色を無くし、絶望に塗れた。
「思っていたより元気そうで何よりです」
「あ、ああっ……ぁ……」
「余所見をしているからですよ? お陰で捕まえる手間は省けましたが」
「たったたたたたっ大佐……!」
「おかえりなさい、ナマエ。聞きたい事は山程ありますが――」
一旦言葉を切り、彼女に視線を落とす。
正確にはその髪に、だ。
肩下で切り揃えられていた髪が、見る影もなくザンバラになっている。
双眸を細めると、ナマエは反射的に身を強張らせるが、構わず言葉を続けた。
「また随分と無茶をしたようですね? 治癒師でありながら、医務室に世話になる程度には」
「ひいっ……!」
ナマエの行動はお見通しだ。
私が出入り口に立ちはだかっている以上、彼女の逃げ場は医務室の中にしか無い。
閉められる前に扉を掴み、籠城を阻止する。
周囲には、第三者の目もある。
下手に仕置など出来るはずもなく、彼女が自発的に私の元へ来るのを待つしかない。
衆目と静かな圧。
無言の攻防戦が繰り広げられる中、耐えかねて言葉を発したのはナマエだった。
「え、えっと……あ、荷物! 預かってくれてたんですね。ありがとう御座いまーす……うわぁぁあ!?」
望んでいたものとは程遠い言葉に、眼鏡を押し上げ、ため息をつく。
仕方がないと割り切って、ナマエを抱き上げた。
「ご苦労。後は此方で対処する」
軍医に一言告げて、踵を返す。
意を介さず行動に移す私に、ナマエは四肢をバタつかせて全身で抗議する。
「ちょ、待っ、下ろしてください大佐! 髪が切れただけで怪我も治ったし、大丈夫ですから!」
腕の中で喚くナマエを眼光鋭く見下ろすと、彼女は青ざめ、縮み上がった。
「ええ。ですから、そのザンバラ髪も私手ずから整えて差し上げますよ」
「…………アリガトウゴザイマス」
執務室に戻ると、横抱きにしていたナマエを下ろす。
ザンバラになった髪を視界に捉え、目を伏せた。
生憎と時間には融通が利く。
ナマエが戻る時間を見越して執務を一段落させておいたからに他ならないが、無論、こんな事のために時間を空けていたわけではない。
「あの、本当に適当でいいですからね? 切る物は――あ、そこの短剣でも」
切れれば何でもいいと、ナマエは机の上の短剣を指さした。
彼女の視線を辿り短剣を視界に捉えて、ため息をつく。
確かに彼女には少々逞しい一面があるが、今はその逞しさを発揮する場面ではない。
「……あなたという人は。それは形見の短剣でしょう? 鬼籍に入られたお父上も、娘の髪を切るために残したわけではないでしょうに」
「ははは……それを言われると……」
「ハサミを持ってきます。少し待っていてください」
ナマエを一人執務室に残し、別室からハサミと櫛、敷布、あとはケープの代わりになりそうな布を見繕って戻ってくる。
椅子に座る彼女の背後に回り、首回りに布を巻く。
疎らな長さの髪を櫛で整え、ハサミを入れた。
ハラリ、と切り落とした髪が敷布の上に落ちてゆく。
「まったく……無茶をしたものですね。周囲を顧みず助けに入るなど言語道断です」
「ぅ……で、でもっ!」
小刻みに動かしていたハサミを止めて、ジャキン!と力強く髪を切り落とす。
空気を切り裂くように響いた断髪音に、彼女の言い訳も喉の奥へ引っ込んでしまった。
「今や、あなたも一軍人。以前もそうお伝えしましたね?」
「は、はい……」
「今回、あなたのとった行動は、一人の兵士の命を助けた。ですが、そんなものは結果論です」
「……」
「周りを危険に晒す可能性も十分にあったはずです。もし、あなたが倒れていたら、その部隊はどうなりますか? あなたは治癒師です。ご自分の命の価値を、もう少し理解しなさい」
冷えた声は静まり返った室内に淡々と響く。
諭すような物言いは、私たちの間に沈黙を産んだ。
いつも反論してばかりのナマエも、今回ばかりは堪えたようだ。
ひとえに、反論を許さない私の物言いのせいかもしれないが。
手を止めたまま「ですが」と、静かに告げる。
「……あなたに怪我がなくて、本当によかった」
先程のように冷ややかな声音ではなく、そこには安堵が滲んでいた。
それと同時に“最悪の事態”が脳裏を過り、ひどく胸の奥がざわついた。
知らせを聞いた時、堪らず駆け出して医務室に向かう程、私は軍人であることを忘れていた。
軍人の心得を散々彼女に説いておいて。
生きた心地がせず、そして――ナマエを失う事が、何よりも恐ろしいと思えてならなかったのだ。
ナマエが柔らかくなった声色につられて此方を振り向こうとするが、細い顎に指先を添え、制止する。
「動かないでください。まだ終わっていませんよ?」
「あ、はい……すみません」
再び小刻みにハサミを動かす最中、ナマエは「それにしても」と話を切り出す。
その声には無邪気さが戻りつつあるようだった。
「大佐は案外、心配症なんですねー」
「一体誰のせいだと? こうもじゃじゃ馬な妻をもつと、心臓がいくつあってもたりませんよ」
「偽装妻ですけどね!?」
以前にも、こうして彼女の髪に触れたことがある。
あの時も――ナマエは、嫌がる素振りを見せなかった。
髪に触れる距離は、本来なら容易に踏み込める領域ではない。他人であれば、尚更だ。
それを、減らず口を叩きながらも彼女は許容している。
(……無自覚なのでしょうが)
これを当然と思われているのなら――少々、都合が良すぎる。
「あなたは――」
ほんの一瞬、手が止まる。
「私に心を許してくれていると、思ってもよろしいのですか?」
「へ?」
「他人に髪を触らせる行為は、少なからず抵抗を覚えるものだと思うのですが」
私の問いかけに、ナマエは間の抜けた声を上げた。
質問の意味を咀嚼し、理解し、慌てて否定する。
「ち、違いますぅー! 仕方なくですよ! 自分じゃ切れないってだけだもの!」
「おや、そうですか? あなたは以前も、私に髪を触らせてくださいましたね」
「いや、あれは乾かせって大佐がうるさかったからで……! まぁ……確かに、誰にもは触らせないですけど」
まさか彼女の口からそんな言葉が聞けるとは思っておらず、面食らって、動きを止めてしまった。
瞬きも、指先一つも、呼吸でさえも。全て。
「大佐?」
「……いえ。あなたも随分と私の扱いに慣れたものだと思っただけですよ。最初はあれほど私を警戒していたというのに」
我に返り、軽口混じりに言葉を紡ぐ。
動揺の色が、呼吸や視線、指先を伝って彼女に伝わってしまわないように。
「いや、今でも警戒してますよ!? ちょっと……ほんのちょーっとだけマシになっただけです」
「まあ、それも初めの頃を思えば進歩だと思いますがね。それに今、あなたの髪の運命は私の手中である事を忘れないでください」
「卑怯ですよ!!」
「いやぁ、腕が鳴りますねぇ」
「ちょっと大佐! お願いしますよ!? 信じてますからね!?」
短剣で適当に整えろと言っていたわりに仕上がりは気になるらしい。
バラバラの長さの髪を指で掬い上げ、ハサミを入れて整える。
それでもショックを受けている様子は彼女からさほど見受けられない。
適当でいいと言った彼女の言葉には、少なからず本心も混ざっていたようだ。
「――髪は、女性の命」
「はい?」
「一般論として、そう言いますが……あなたはさほど気にしていないようですね」
ナマエは、ゆっくりと顔を此方に向けた。
本当は傷付いていて、ただ平然としているだけなのかもしれないが。
「大佐は髪が長い女性の方が好きなんですか?」
「!」
しかし、彼女よりも浮かない顔をしていたのは私の方だったのかもしれない。
彼女の言葉がそれを物語っていた。
想定外の質問に双眸を瞬かせる。
「……特に、好みはありません。その人に似合っていることが大切だと思いますよ」
我ながら模範解答だったろう。
けれど――。
肩下までの、本来の長さのまま残った髪を一束掬う。
ハサミを入れる手が切り落とす事を僅かに拒んだ。
「……ですが、やはりあなたには伸ばしていただきましょうか」
「え、何で……?」
一呼吸置いて、長い髪にハサミを入れる。
断ち切られた髪が、重力に従って指の中でしなだれる。
切り落とした髪を指に留めたまま、わずかな呼吸の間だけ見つめ――何事もなかったかのように床へ落とした。
「私の精神衛生の為にですよ」
「え゛!? 大佐の為!?」
「ええ、私の為に。不服ですか?」
「んう゛ー……」と、腕を組み、考えあぐねている。その様子がまた面白い。
彼女のようなタイプは、他者の為なら自身が傷付くこともいとわない。
今回はたまたま髪だっただけで、次はどうなるともわからない。
ならばせめて――と思っての提案だった。
表向きではそうだったとしても、決して冗談ではなかったし、彼女の中に私という存在を選択肢として残しておいてほしいと願っていた。
「ま、まあ? 考えておいてあげますよ」
伏せていた視線を、正面に戻す。
髪の隙間から覗く耳が僅かに赤く色付いていた。
嗚呼、やはり――私の扱いに慣れている。
癪だと思う一方で、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「ええ、是非。あなたの髪はとても美しいですから」
「っ、またそんな事言って……」
「こればかりは事実ですからね」
短くなった髪の先を、指先で確かめるように触れた。
「くれぐれも頼みますよ。……今後、こんな風に髪を整えるのは御免ですから」
「はーい」
僅かに口元を緩め、「結構」と短く零した。
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