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ケテルブルク新婚旅行ならぬ慰安旅行から戻った私達を待ち受けていたのは、堆く積み上げられた山のような書類だった。
ケテルブルクの余韻を引き連れたまま執務室の扉を開くと、途端に現実へと引き戻される。
丸一日不在にしただけで、こうも仕事が溜まってしまうとは……。
今なら分かる。出発前、大佐があれほど渋っていた理由が。
こうなると分かっていたなら、私も全力で拒否していただろう。
勿論、吐きそうな量の書類からは逃れられるはずもなく、例外なく強制的に書類整理地獄の刑に処された。
そして、山場を越えた頃、いつも以上に溶けきって無脊椎動物ですら無くなった私は、執務机にでろりと伸びている。
「うへぇー……」
「だらしがないですよ、ナマエ」
ぴしゃりと言う大佐に一瞥を投げて、頬を膨らませる。
同じ条件であるはずなのに、何で大佐はケロッとしているのだろうか?
大佐から卓上へと視線を戻す。
視線の先にある飾り物を指先でツンツンと突いた。
不格好なそれは、ケテルブルクを発つ前、雪鳥を助けたあの幼い兄妹からもらった物だった。
貝殻や、木の実を使って作られた雪だるまを模した置物。
なんでも、街中を回って探してくれていたらしい。
雪鳥を助けてくれたお礼だと言って差し出された手作りの置物は、ケテルブルクのどんな土産物よりも私にとっては価値のある物だ。
「結局それは、一体何のお礼だったのですか?」
「言ってませんでしたっけ? 弱った雪鳥を譜術で治療してあげたんですよ」
「!」
急にペンを走らせる手を止めた大佐は、珍しく驚いたように此方を見る。
「……あの、それが何か?」
「――いえ。また雪鳥か、と。あなたも物好きだなと思っただけですよ」
「え? また雪鳥って……それってどういう――」
子細を尋ねようと上体を起こした時、大佐は次の書類を手にして「おや」と呟いた。
「これは……情報部宛の書類ですね」
「紛れ込んでいたんですか?」
「そのようです。ナマエ、これを情報部へ届けてください。そこにいてダラけられるよりマシですから」
「言い方……あーもう、はいはい! わかりましたよ。喜んで持って行かせて頂きまーす!」
「宜しくおねがいします」
相変わらず大佐はニコニコしながら余計な一言を口にする。
嫌味を浴びながら、書類を受け取った。
――ああ、いつもの日常が戻ってきたのだ。
「情報部……二課、ですか?」
「ええ、そこの配属である“彼”を尋ねてください。私の同期ですから。“こう”言えば、分かると思いますよ」
***
「ええっと……グッドJCさん? いらっしゃいますか?」
「はい?」
こう言えば分かるからと言われて尋ねたのに、窓口に座る女性二人は顔を見合わせ、小首を傾げた。
(ちょっと大佐! 全然伝わってませんけど!?)
誰だ。尋ねればすぐ分かるだなんて言った奴は。
伝わらないだけでなく、しまいには訝しげな視線を浴びせられる始末だ。
ここは情報部。
特に、怪しげな人間は通すわけにはいかないだろう。
門前払いされていないのは、ひとえに私がマルクトの軍人であるからに過ぎない。
そうでなければ、とっくに建物から叩き出されているはずだ。
「あ、えっと……その、私は決して怪しい者じゃなく、情報部の書類が第三師団へ紛れていましたので、お届けに……! グッドJCとお呼びすれば分かるからと……」
身振り手振りで身の潔白を主張する中、救いの手が差し伸べられる。
床を踏み鳴らす音から一拍、背後から声を掛けられた。
「久し振りに聞きましたよ。その呼称」
「!」
弾かれたように振り向くと、そこには優しげな雰囲気を纏った男性兵士が立っていた。
「ご足労頂きありがとうございます。ジャスパー・カドガンと申します。その呼び方を教えたのは……ジェイドですか?」
「あ、は、はい! ナマエ・カーティスと申します。こちらの書類をお届けに上がるように遣わされました」
彼の口から大佐の名前が出て、緊張が解ける。
大佐は彼の事を言っていたのだと直ぐに思い至った。
他部署は同じマルクト軍基地の敷地内とはいえ、他所様の家のような気がして落ち着かない。
私のような半端者にとっては尚更だ。
兎に角、グッドJCのJCはジャスパー・カドガンという彼のイニシャルであるらしい。
では、グッドとはどういう意味だろうか?
普通に考えれば“グッド=善人”という意味だろうが……いまいち理解が出来ないでいる。
「わざわざ、ありがとうございます」と言って、私から書類を受け取る。
そして、一呼吸置いたあと今一度私の顔を見て、何か思い至ったように声を上げた。
「カーティス? ……ああ! あなたが噂のジェイドの奥様でしたか!」
ジェイドの奥様……奥、様。
すっかり聞き慣れていると思っていたその言葉に対して、しかし、私の体は正直らしい。
細胞レベルで拒否反応を示している。
頭の天辺から足の爪先まで、鳥肌と呼ばれる現象が現れていた。
「う、噂の……と、いいますと?」
また自分の預かり知らぬ所で何か良からぬ噂でも立っているのだろうか?
どうせ、人の話なんて広まるにつれて背鰭、腹鰭、尾鰭がついて最終的に本人の耳に届く時には原型を留めないフンみたいなくだらない状態になっている。
「ああ、気を悪くされたのなら謝ります。すみません。彼の結婚は軍、宮殿問わず話題になりましたから。あの死霊使いが遂に年貢を納めたらし――と」
「なるほど……」
要約すると、結婚に何の興味も示さなかった大佐が元部下を連れ帰ったと思ったら、その部下と電撃入籍した。
そんな所だろうか?
電撃入籍もなにも偽装だし、なんなら籍も入っていないけれど。
こうして私達はまた一人、誰かを騙すのだ。
「あの……カドガンさんは、大佐と親しいのですか? 大佐を名前で呼ぶ方って滅多に知らないので……」
カドガンさんは「立ち話も何ですから」と入り口のソファーへ促してくれる。
「私とジェイドは士官学校時代からの同期でして。今では随分と差がついてしまいましたが」
「同期……! 大佐から昔話を聞いた事がなかったので新鮮です。では、先程のグッドJCも士官学校時代に?」
「ええ。私は善人JCと呼ばれていました。自分では特に善人だなんて思っちゃいませんが……ははは」
大佐の話を、しかも士官学校時代の話だなんて滅多に聞けるものではない。
別に、弱味を握ってやろうだなんて思っていない――うん、思ってないよ?
ケテルブルクのプールで私のカナヅチがバレたからって。
完全に白かと問われたら、まあ、多少言葉に詰まってしまうが、単純に大佐の事を知りたいと思ったのは本当だ。
「善人ってことは、悪人もいるんですか?」
「ははは……それはあいつに直接尋ねてみてください」
ジャスパーさんは苦笑いを浮かべ、これ以上の言及を避けた。
あいつとは十中八九、大佐の事だろう。
「いやぁ……それにしても本当にジェイドは結婚したんですね。想像がつかなくて、ただの噂話なんじゃないのかと軍の中には口にしている人間もいるんですよ。かく言う私もナマエさんにお会いするまで正直疑っていました」
「あははは……一応、は」
偽装とは口が裂けてもいえない。
こんな風に友人の結婚話を喜び、柔らかな表情でそれを語る彼には。
罪悪感が胸を締め付けるようだった。
「まあ、ジェイドもあの見た目で地位も名誉もありますから。貴族や軍の名家などからは、そういった話も多く持ちかけられていたようですが、全て断っていると聞いていたので」
偽装夫婦関係を持ち掛けられた時、そんな事を言っていたような気がする。
嘘ではなかったようだ。
確かに性格を除けば彼は整った造形をしている。
眼鏡を外した時なんてとんでもなく美形だ。
「ジャスパー、昔話はその辺にしておいて頂けますか?」
「ジェイド……!」
不意に頭上から声が降る。
驚いた表情のカドガンさんにつられて振り仰ぐと、ソファーの背もたれに手を置いて、此方を見つめる大佐と視線が交わった。
「私の可愛い妻がヤキモチをやいてしまいますので」
「んなっ!?」
カドガンさんの手前、否定することも、いつものように食って掛かる事も出来ない。
それを知っていて、大佐は態と言ったに違いない。
ニッコリといつもの軽薄な笑みが私を見下ろす。
顔を引き攣らせ、不器用な笑顔を返した。
(誰が妬くか! 誰が!)
「それはそうと大佐、どうして此処へ?」
「紛れた書類がありまして」
「それだけですか?」
「ええ。それだけです」
(絶対嘘だー! からかいに来たんだ!)
笑顔の胡散臭さに拍車が掛かる。
「仕事が溜まっていますので彼女は連れて帰ります。ジャスパー、落ち着いたらまた飲みに行きましょう」
「ああ。楽しみにしてるよ」
無理矢理に話を切り上げ、大佐は私の腕を掴む。
暴れるわけにもいかず、有無を言わせない彼の行動に今は大人しく従うしかない。
私もカドガンさんにお礼を告げて、大佐と共に情報部を後にした。
情報部から執務室に戻る最中、歩調を早め、半歩大佐を追い抜く。
身を乗り出して、覗き込むように大佐の顔を見上げた。
「第三師団長サマは随分とモテるんですねー」
「お褒め頂き光栄です。まあ、確かにそういった話で不便を感じたことはないですね」
にこやかに嫌味を吐く大佐に、唇を尖らせる。
「……じゃあ、別に私じゃなくても良かったんじゃないですか? この役目(偽装妻)なんて」
「そうはいきません。後腐れなく、こんな生産性のない関係を結ぶのですから。何の後ろ盾もないあなたをおいて適任者は他にいませんよ」
「……」
(こんな生産性もない関係……か)
今までなら、この程度の軽口で言葉に詰まることなんてなかった。
いつものように反抗して、減らず口を叩いて、それこそ“いつも通り”のやり取りが出来ていた筈だ。
それがどうして今は、一瞬でも彼の言葉に怯んでしまったのだろう?
「ま、まあ? そういう事ならいつでも離婚して差し上げますので安心してくださーい」
「おや、まさか妬いているのですか?」
「は、はぁ!? だから、別に妬いてなん、て――っ!」
不意に手を掴まれる。
足を止めると、大佐はただじっと私を見つめていた。
彼の目は苦手だ。何も言わずとも全てを見透かされてしまうような気がして。
たまらず視線を逸らすと、掴まれていた手がゆっくりと大佐の口元へと運ばれる。
そして、手の甲に軽く口付けられた。
手袋越しでも伝わるその感触に、今、大佐が私の手の甲に何をしたのか嫌でも理解してしまう。
「!?!?」
理解するまでに一拍、そして、途端に頬が紅潮し、バクバクと心臓が暴れ回る。
声にならない声を上げる私を、彼の視線が真っ直ぐに射抜いていた。
「安心してください。今は生憎と余所見などしている暇がないので」
「んな、ななっ、何の話をしているんですか!?」
慌てて手を引き抜いて胸元に抱き込む私に向かって、声色一つ変えず、それこそ“普段通り”に「ですから――」と、大佐は言う。
勿論、いつもの食えない笑みも添えて。
「そろそろ機嫌を直してください」
「っ! ……へ、臍なんて曲げてませんから!!」
言葉にされて初めて、私は自分の発言がそう受け取られても仕方が無いものだったと理解した。
無意識だった事、大佐に言い当てられてしまった事――二重の羞恥に苛まれ、頬を真っ赤に染めたまま、わなわなと打ち震えていた。
ああ、ここからは後日談なのだけれど。
結局、誰が善人JCの対として悪人JCと名を馳せていたのか……それを知ったのは一週間ほど後の事。
「イビルJC? ええ、勿論知っていますよ。今も立っているではないですか――あなたの隣に」
「!?」
ジェイド・カーティス――彼である。
20260315
ケテルブルクの余韻を引き連れたまま執務室の扉を開くと、途端に現実へと引き戻される。
丸一日不在にしただけで、こうも仕事が溜まってしまうとは……。
今なら分かる。出発前、大佐があれほど渋っていた理由が。
こうなると分かっていたなら、私も全力で拒否していただろう。
勿論、吐きそうな量の書類からは逃れられるはずもなく、例外なく強制的に書類整理地獄の刑に処された。
そして、山場を越えた頃、いつも以上に溶けきって無脊椎動物ですら無くなった私は、執務机にでろりと伸びている。
「うへぇー……」
「だらしがないですよ、ナマエ」
ぴしゃりと言う大佐に一瞥を投げて、頬を膨らませる。
同じ条件であるはずなのに、何で大佐はケロッとしているのだろうか?
大佐から卓上へと視線を戻す。
視線の先にある飾り物を指先でツンツンと突いた。
不格好なそれは、ケテルブルクを発つ前、雪鳥を助けたあの幼い兄妹からもらった物だった。
貝殻や、木の実を使って作られた雪だるまを模した置物。
なんでも、街中を回って探してくれていたらしい。
雪鳥を助けてくれたお礼だと言って差し出された手作りの置物は、ケテルブルクのどんな土産物よりも私にとっては価値のある物だ。
「結局それは、一体何のお礼だったのですか?」
「言ってませんでしたっけ? 弱った雪鳥を譜術で治療してあげたんですよ」
「!」
急にペンを走らせる手を止めた大佐は、珍しく驚いたように此方を見る。
「……あの、それが何か?」
「――いえ。また雪鳥か、と。あなたも物好きだなと思っただけですよ」
「え? また雪鳥って……それってどういう――」
子細を尋ねようと上体を起こした時、大佐は次の書類を手にして「おや」と呟いた。
「これは……情報部宛の書類ですね」
「紛れ込んでいたんですか?」
「そのようです。ナマエ、これを情報部へ届けてください。そこにいてダラけられるよりマシですから」
「言い方……あーもう、はいはい! わかりましたよ。喜んで持って行かせて頂きまーす!」
「宜しくおねがいします」
相変わらず大佐はニコニコしながら余計な一言を口にする。
嫌味を浴びながら、書類を受け取った。
――ああ、いつもの日常が戻ってきたのだ。
「情報部……二課、ですか?」
「ええ、そこの配属である“彼”を尋ねてください。私の同期ですから。“こう”言えば、分かると思いますよ」
***
「ええっと……グッドJCさん? いらっしゃいますか?」
「はい?」
こう言えば分かるからと言われて尋ねたのに、窓口に座る女性二人は顔を見合わせ、小首を傾げた。
(ちょっと大佐! 全然伝わってませんけど!?)
誰だ。尋ねればすぐ分かるだなんて言った奴は。
伝わらないだけでなく、しまいには訝しげな視線を浴びせられる始末だ。
ここは情報部。
特に、怪しげな人間は通すわけにはいかないだろう。
門前払いされていないのは、ひとえに私がマルクトの軍人であるからに過ぎない。
そうでなければ、とっくに建物から叩き出されているはずだ。
「あ、えっと……その、私は決して怪しい者じゃなく、情報部の書類が第三師団へ紛れていましたので、お届けに……! グッドJCとお呼びすれば分かるからと……」
身振り手振りで身の潔白を主張する中、救いの手が差し伸べられる。
床を踏み鳴らす音から一拍、背後から声を掛けられた。
「久し振りに聞きましたよ。その呼称」
「!」
弾かれたように振り向くと、そこには優しげな雰囲気を纏った男性兵士が立っていた。
「ご足労頂きありがとうございます。ジャスパー・カドガンと申します。その呼び方を教えたのは……ジェイドですか?」
「あ、は、はい! ナマエ・カーティスと申します。こちらの書類をお届けに上がるように遣わされました」
彼の口から大佐の名前が出て、緊張が解ける。
大佐は彼の事を言っていたのだと直ぐに思い至った。
他部署は同じマルクト軍基地の敷地内とはいえ、他所様の家のような気がして落ち着かない。
私のような半端者にとっては尚更だ。
兎に角、グッドJCのJCはジャスパー・カドガンという彼のイニシャルであるらしい。
では、グッドとはどういう意味だろうか?
普通に考えれば“グッド=善人”という意味だろうが……いまいち理解が出来ないでいる。
「わざわざ、ありがとうございます」と言って、私から書類を受け取る。
そして、一呼吸置いたあと今一度私の顔を見て、何か思い至ったように声を上げた。
「カーティス? ……ああ! あなたが噂のジェイドの奥様でしたか!」
ジェイドの奥様……奥、様。
すっかり聞き慣れていると思っていたその言葉に対して、しかし、私の体は正直らしい。
細胞レベルで拒否反応を示している。
頭の天辺から足の爪先まで、鳥肌と呼ばれる現象が現れていた。
「う、噂の……と、いいますと?」
また自分の預かり知らぬ所で何か良からぬ噂でも立っているのだろうか?
どうせ、人の話なんて広まるにつれて背鰭、腹鰭、尾鰭がついて最終的に本人の耳に届く時には原型を留めないフンみたいなくだらない状態になっている。
「ああ、気を悪くされたのなら謝ります。すみません。彼の結婚は軍、宮殿問わず話題になりましたから。あの死霊使いが遂に年貢を納めたらし――と」
「なるほど……」
要約すると、結婚に何の興味も示さなかった大佐が元部下を連れ帰ったと思ったら、その部下と電撃入籍した。
そんな所だろうか?
電撃入籍もなにも偽装だし、なんなら籍も入っていないけれど。
こうして私達はまた一人、誰かを騙すのだ。
「あの……カドガンさんは、大佐と親しいのですか? 大佐を名前で呼ぶ方って滅多に知らないので……」
カドガンさんは「立ち話も何ですから」と入り口のソファーへ促してくれる。
「私とジェイドは士官学校時代からの同期でして。今では随分と差がついてしまいましたが」
「同期……! 大佐から昔話を聞いた事がなかったので新鮮です。では、先程のグッドJCも士官学校時代に?」
「ええ。私は善人JCと呼ばれていました。自分では特に善人だなんて思っちゃいませんが……ははは」
大佐の話を、しかも士官学校時代の話だなんて滅多に聞けるものではない。
別に、弱味を握ってやろうだなんて思っていない――うん、思ってないよ?
ケテルブルクのプールで私のカナヅチがバレたからって。
完全に白かと問われたら、まあ、多少言葉に詰まってしまうが、単純に大佐の事を知りたいと思ったのは本当だ。
「善人ってことは、悪人もいるんですか?」
「ははは……それはあいつに直接尋ねてみてください」
ジャスパーさんは苦笑いを浮かべ、これ以上の言及を避けた。
あいつとは十中八九、大佐の事だろう。
「いやぁ……それにしても本当にジェイドは結婚したんですね。想像がつかなくて、ただの噂話なんじゃないのかと軍の中には口にしている人間もいるんですよ。かく言う私もナマエさんにお会いするまで正直疑っていました」
「あははは……一応、は」
偽装とは口が裂けてもいえない。
こんな風に友人の結婚話を喜び、柔らかな表情でそれを語る彼には。
罪悪感が胸を締め付けるようだった。
「まあ、ジェイドもあの見た目で地位も名誉もありますから。貴族や軍の名家などからは、そういった話も多く持ちかけられていたようですが、全て断っていると聞いていたので」
偽装夫婦関係を持ち掛けられた時、そんな事を言っていたような気がする。
嘘ではなかったようだ。
確かに性格を除けば彼は整った造形をしている。
眼鏡を外した時なんてとんでもなく美形だ。
「ジャスパー、昔話はその辺にしておいて頂けますか?」
「ジェイド……!」
不意に頭上から声が降る。
驚いた表情のカドガンさんにつられて振り仰ぐと、ソファーの背もたれに手を置いて、此方を見つめる大佐と視線が交わった。
「私の可愛い妻がヤキモチをやいてしまいますので」
「んなっ!?」
カドガンさんの手前、否定することも、いつものように食って掛かる事も出来ない。
それを知っていて、大佐は態と言ったに違いない。
ニッコリといつもの軽薄な笑みが私を見下ろす。
顔を引き攣らせ、不器用な笑顔を返した。
(誰が妬くか! 誰が!)
「それはそうと大佐、どうして此処へ?」
「紛れた書類がありまして」
「それだけですか?」
「ええ。それだけです」
(絶対嘘だー! からかいに来たんだ!)
笑顔の胡散臭さに拍車が掛かる。
「仕事が溜まっていますので彼女は連れて帰ります。ジャスパー、落ち着いたらまた飲みに行きましょう」
「ああ。楽しみにしてるよ」
無理矢理に話を切り上げ、大佐は私の腕を掴む。
暴れるわけにもいかず、有無を言わせない彼の行動に今は大人しく従うしかない。
私もカドガンさんにお礼を告げて、大佐と共に情報部を後にした。
情報部から執務室に戻る最中、歩調を早め、半歩大佐を追い抜く。
身を乗り出して、覗き込むように大佐の顔を見上げた。
「第三師団長サマは随分とモテるんですねー」
「お褒め頂き光栄です。まあ、確かにそういった話で不便を感じたことはないですね」
にこやかに嫌味を吐く大佐に、唇を尖らせる。
「……じゃあ、別に私じゃなくても良かったんじゃないですか? この役目(偽装妻)なんて」
「そうはいきません。後腐れなく、こんな生産性のない関係を結ぶのですから。何の後ろ盾もないあなたをおいて適任者は他にいませんよ」
「……」
(こんな生産性もない関係……か)
今までなら、この程度の軽口で言葉に詰まることなんてなかった。
いつものように反抗して、減らず口を叩いて、それこそ“いつも通り”のやり取りが出来ていた筈だ。
それがどうして今は、一瞬でも彼の言葉に怯んでしまったのだろう?
「ま、まあ? そういう事ならいつでも離婚して差し上げますので安心してくださーい」
「おや、まさか妬いているのですか?」
「は、はぁ!? だから、別に妬いてなん、て――っ!」
不意に手を掴まれる。
足を止めると、大佐はただじっと私を見つめていた。
彼の目は苦手だ。何も言わずとも全てを見透かされてしまうような気がして。
たまらず視線を逸らすと、掴まれていた手がゆっくりと大佐の口元へと運ばれる。
そして、手の甲に軽く口付けられた。
手袋越しでも伝わるその感触に、今、大佐が私の手の甲に何をしたのか嫌でも理解してしまう。
「!?!?」
理解するまでに一拍、そして、途端に頬が紅潮し、バクバクと心臓が暴れ回る。
声にならない声を上げる私を、彼の視線が真っ直ぐに射抜いていた。
「安心してください。今は生憎と余所見などしている暇がないので」
「んな、ななっ、何の話をしているんですか!?」
慌てて手を引き抜いて胸元に抱き込む私に向かって、声色一つ変えず、それこそ“普段通り”に「ですから――」と、大佐は言う。
勿論、いつもの食えない笑みも添えて。
「そろそろ機嫌を直してください」
「っ! ……へ、臍なんて曲げてませんから!!」
言葉にされて初めて、私は自分の発言がそう受け取られても仕方が無いものだったと理解した。
無意識だった事、大佐に言い当てられてしまった事――二重の羞恥に苛まれ、頬を真っ赤に染めたまま、わなわなと打ち震えていた。
ああ、ここからは後日談なのだけれど。
結局、誰が善人JCの対として悪人JCと名を馳せていたのか……それを知ったのは一週間ほど後の事。
「イビルJC? ええ、勿論知っていますよ。今も立っているではないですか――あなたの隣に」
「!?」
ジェイド・カーティス――彼である。
20260315