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大佐と別れ、別荘街とは逆方向へ足を向けた私は、ケテルブルクの街並みを散策していた。
この地へ足を踏み入れた際、懐かしいと言ってはみたものの、実際こうして街を歩いていても懐かしいと思える風景は残念ながら私の中には残っていないらしい。
まったくと言っていいほど、記憶が呼び起こされる気配はなく、全てが新鮮に映る。
あれだけ初恋だの思い出の街だのと言っておきながら、存外自分は薄情な人間なのかもしれなかった。
深々と降る雪が音を消しているせいか、どこか物悲しい気配を帯びている。
静けさの中、雪を踏む音だけが耳に届いていた。
別荘街とは違いこれと言って目を引くものはなく、住宅や公園、ちょっとしたお店など何処の街でも見受けられるのどかな風景が広がっていた。
幼少期、ケテルブルクに滞在していたのも僅かな期間だったようだし、さして友達と呼べる間柄の人間もこの街にはいなかったように思う。
結局、何かを思い出すこともなかったし、勿論、初恋の男の子との再会だなんてロマンチックでエモーショナルな展開も起こらなかった。
空振りに終わって、この後は大佐と高級スパで新婚旅行もどきの任務が控えているかと思うと気が重い。
今日一日で上がったり下がったりと忙しない私の情緒だった。
特にこれといって用もない。
あまりのんびりしすぎて嫌味を浴びせられるのは御免だ。
そろそろホテルに向かおうと思った時だった。不意に子供の声が耳に届く。
目を向けた先には空き地が広がっていて、雪景色の中、寄り添うように二人分の小さな背中が見て取れる。
「どうしようお兄ちゃん……このままだと鳥さん死んじゃうよ」
「でも、僕達じゃどうすることも出来ないし……」
幼い兄妹の声に誘われ、歩み寄る。
「どうしたの?」
怖がられないように身を低くして目線を合わせ、優しげに声を掛けると、一瞬抱かれた警戒心は直ぐに解ける。
「この子が……」と、妹は瞳に涙の幕を張り、震える声で言って腕に抱かれた小鳥を此方に見せる。
腕の中の小鳥は浅い呼吸を繰り返し、その命の灯火は今にも消えてしまいそうだった。
「雪鳥だね……かなり弱ってる」
「遊んでた時に見つけて……この子、死んじゃうの?」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せて」
不安気な表情を浮かべる二人を安心させるよう、優しく頭を撫でる。
手をかざすと、柔らかな光が雪鳥を包み込む。
「ファーストエイド」
治癒術をかけた瞬間、不意に既視感にも似た感覚が体内を駆け抜けた――輪郭をもたず、朧げなままの“それ”。
(あれ? この感覚、どこかで……)
「わあ! 鳥さん元気になった! お姉ちゃんありがとう!」
「お姉ちゃん治癒士なの? その格好、軍人さんだもんね」
手に残る朧げな記憶の断片に意識を絡め取られていたが、二人の声で引き戻される。
眺めていた手から、眼前の二人へと視線を向けた。
「――え? う、うん。まあね! 処置が間に合ってよかった。じゃあ、お姉ちゃんはもう行くね」
「うん! またね!」
「バイバイ!」
二人に別れを告げて、合流予定のホテルへと向かう。その歩調は自然と速まっていた。
もちろん気持ちが逸っているからではない。断じて。
散策に加えて雪鳥の治療をしていたせいで、予定していた時間よりも遅くなってしまったからだ。
大佐の嫌味をケテルブルクに来てまで聞きたくないからに他ならない。
雪で滑らないように気を付けながらホテルに向かう最中、胸には未だに微かな違和感が燻っていた。
***
予定していた時刻よりも遅くなってしまった。
早足で合流予定のホテルに辿り着き、ロビーを見渡すと、さして探さずとも目当ての姿が視界に入り込む。
軍のコートに身を包んでいる大佐は、その背丈も手伝って人混みの中にいても容易に見つけ出す事が出来た。
やはり、一足先に着いていたようだ。
きっと待たせてしまっただろうし、この際多少の嫌味は飲み込むしかないと諦め、声をかけようとした時だった――一瞬、呼吸が止まる。
「――っ、」
言葉は呼吸と共に喉へ張り付き、駆け出そうとした足は根が張ったように動けない。
私の視界に広がる景色がそうさせた。
大佐の隣に立つ女性は、ただ綺麗という言葉では足りなかった。
すらりと伸びた手足、静かな横顔。
遠目にも分かる整った顔立ちの奥に、凛と澄んだ気配がある。
雪の街に溶け込むような白い肌が、その人をどこか遠い存在に見せていた。
(知り合い……なのかな?)
あの大佐が柔らかな表情で、時には困った風に眉を下げて女性と言葉を交わしている。
大佐のそんな姿を目にしたのは初めてで、無意識に伸びた手がぎゅうっと胸元を掴む。
視線を外すことも声をかけることも出来ず、ただただ言葉にし難い複雑な感情が私の心を曇らせていた。
あれからどれ程の間、二人の姿を遠巻きに眺めていただろう?
如何ともし難い感情に囚われたまま動けずにいると、こちらに気付いた赤い瞳が真っ直ぐに私を捉えた。
「ナマエ、そんな所で何をしているんです?」
「た、大佐……いやぁ、お邪魔したら悪いなーと思って……」
「ナマエ?」
「え、ああ……ジェイド、遅くなってすみません」
いつもの調子で彼を呼ぶと、嗜めるように再度名前を呼ばれて慌てて呼び直す。
別にどちらでもいいじゃないか。此処には私達の関係を知る人はいないのだから。
――誰、も。
ちらりと大佐の横に立つ女性に視線を向ける。
「何を勘違いしているのか知りませんが、そんな気遣いは無用ですよ。紹介します。妹のネフリーです」
「へ? い、妹さん……!?」
ネフリーと呼ばれた女性はニコリと美しい笑みを浮かべた。
この美女が大佐の妹――言われてみれば整った顔立ちの奥に、どこか冷ややかで澄んだ理性を感じる。
雪のように白い肌と、凛と張りつめた気配。言われなくとも、彼と血を分けた人なのだと分かる美しさだった。
妹であると紹介されて、先程まで感じていた複雑な感情はいつの間にか消え去っていた。
「初めまして、ナマエさん。ネフリー・オズボーンと申します。ケテルブルクで知事を務めております」
「は、初めまして。ご挨拶が遅くなってすみません。知事だなんて、ネフリーさんは聡明な方なんですね……美人だし……流石は大佐の妹さんっていうか……ははは」
色々と圧倒されて、頭の悪い感想しか出て来ないのが恥ずかしいが、大佐と偽夫婦ということは、眼前の麗人も私の偽妹ということになる。
ネフリーさんは私達の関係を知っているのだろうか?偽物の私達の事を。
「ピオニー様からご連絡をいただいたんです。お二人が新婚旅行に来るはずだからと」
「まったく……余計な事を。こういう事はやけに根回しがいいのですから困ったものです」
「あら、手紙で結婚したことを事後報告したお兄さんがピオニー様の事をとやかく言えないでしょう?」
「痛い所をついてきますねぇ」
話し振りからネフリーさんは私達の関係を知らされていないのだと理解する。
ネフリーさんの横に立つ大佐に目配せをすると、ニコリと胡散臭い笑顔を浮かべて見せた。
成程。余計な事は口にするなということらしい。
ここでも私は偽装夫婦を演じなければならないようだ。
ネフリーさんは上品に微笑むと、傍に立つ大佐に意味ありげな視線を向ける。
「お兄さん、チェックインはお任せしてもいいかしら? 少しナマエさんとお話しがしたいの」
その微笑みと言葉が何を意味しているのか私には計り知れなかったけれど、大佐には理解できたらしい。
ほんの一瞬考えるような素振りを見せた後、私に視線を向けた。
「ナマエ。すみませんが少しの間、妹の話に付き合って頂けますか?」
「あ、はい! それは勿論かまいませんが……」
大佐は私達をこの場に残してフロントへ足を向ける。
去り際に私へ向けた彼の薄っぺらい笑みからは、“くれぐれもボロは出さないでくださいね”そんな雰囲気が漂っていた。
そう何度も釘を刺さなくても分かっていますとも。
そして、ネフリーさんは「ナマエさん、あちらへ」とロビーの一角に設けられた休憩スペースのソファーへと私を促す。
流石は貴族御用達の高級ホテル。ソファーの座り心地一つ取っても上等な物だと分かる。どおりで私には馴染まないわけだ。落ち着かない。
促されるままに座ったはいいが、暫しの沈黙が流れ、何をしでかしたわけでもないのに気まずい空気が流れ息苦しくてかなわない。
大佐とネフリーさんが血の繋がった兄妹だったとしても、大佐と私は偽装夫婦だ。
所詮は偽物の私達に真意を問われたとしても、何の話も出来ないと思う。
「ナマエさん、失礼を承知で伺ってもよろしいでしょうか? ……兄と、どのような経緯で結婚を?」
「へっ? け、経緯……ですか?」
やはり、一番危惧していた事が起こってしまった。
二人で話したいと提案された時から嫌な予感はしていたけれど。
ネフリーさんの偽りを穿つような眼差しがひたりと私を正面から見据えている。
今は私一人だけ。助け舟を出してくれる大佐は傍に居ない。
間違えてはいけない。ボロを出してはいけない。
緊張感に飲まれ、握る手にじっとりと汗が滲む。
私自らこの関係を望んだわけじゃない。
けれど、結婚は偽装で私達は他人同士なんです……とは口が裂けても言えなかった。
私と大佐の関係は、婚姻とは対極に位置していると言ってもいい。
逃げた私を大佐が見つけ出し、擦った揉んだの末に露店を吹き飛ばし、その露店の弁償代を肩代わりしてもらうかわりに結んだ契約だ。取引みたいなものだ。
残念ながら、それをそのまま話す勇気はなかった。
言い淀む私に、ネフリーさんは気遣うような言葉をかける。
「すみません不躾に。兄が結婚を選ぶとは、正直思っていなかったもので……」
(でしょうね! まあ……そもそも私達、結婚なんてしてないんですけどね!)
あれこれ悩んだ末に、私の脳内に浮かんだ一言はこれだった。
「久し振りに会って驚きました。なんだか少し兄の雰囲気が柔らかくなった気がして」
「え?」
「以前の兄は……人を寄せつけない空気を纏っていましたから。あなたの前では、違うように見えました」
ネフリーさんの視線がフロントで手続きをする大佐を捉える。
その瞳には、ほんの僅かに安堵の色が宿っているように見えた。
大佐の雰囲気が柔らかくなったというのは本当だろうか?
私にとって彼は、二年前も今も変わらず厄介な人だ。
こうして繋ぎ止められたままでいるのだから。
「兄は……あなたを困らせてはいませんか? あの人、昔から少々不器用なところがありますから」
「え!? ええと……困るなんて、そんな。大佐は、その……仕事に関しては、とても頼りになりますし……」
ネフリーさんは何を言うわけでもなく、じっと此方を見つめたままだ。
静かに言葉の続きを待っている。
「……い、意地悪なところも、ありますけど!」
私の言葉にきょとんとして双眸を瞬かせるネフリーさんを前に、ああ……私は間違えてしまったのだと――何とか誤魔化さなければと、取り繕うように慌てて言葉を続けた。
「あ、いえ! でも、ちゃんと優しいと思います……分かりにくいだけで。すみません。うまく言葉にできないや……」
ネフリーさんから視線を外し、膝の上に乗せた手をじっと見つめる。
まるで、自分自身と向き合うみたいに。
「…………たぶん、私が勝手にそばにいたいだけなんだと思います」
――理由は、よく分からないけれど。
言葉にした瞬間、何故か胸の奥がわずかに軽くなった。
「……そうですか。あなたからその言葉を聞けて安心しました」
ネフリーさんは腑に落ちたかのように、嫣然と微笑んだ。
美しい微笑みだったけれど、どうしてだろう……どこかほんの少しだけ、その笑みは幼さを帯びているように感じたのだ。
――兄を思う、妹のような。
「ところで、ナマエさんは兄を“大佐”とお呼びになるのですね」
「え゛!? あ、あれは癖で……! 仕事では上司ですし、その……今日はご覧の通り軍服ですからっ……!」
流石は大佐の妹だ。着眼点が鋭い。
まさか呼び方を指摘されるとは思わず、しどろもどろになりながらそれらしい言い訳を並べる。
「……ふ、夫婦……ですけど」と、尻すぼみになりながら一言付け加えると、ネフリーさんは口元に手を添えてクスクスと笑った。
「ふふ……意地悪なことを伺いました。色々とごめんなさい、ナマエさん。どうか気を悪くしないでください」
「いえ、そんな……! ネフリーさんは妹なんだから気になって当然ですよ」
「ありがとうございます。結婚の事を聞いて驚いたのもそうですが、それよりも嬉しかったんだと思います。兄が、生涯を共にしたいと思える女性に出会えた事が」
「え……あー……ははは。そうだといいですけど」
ネフリーさんの言葉が偽装妻の私に重くのしかかるようだった。心苦しい。
ごめんなさい、ネフリーさん。私にとっても大佐にとっても利害関係の一致だけで結ばれた間柄なんです。
「それにしても、不思議ですね。ナマエさんと初めてお会いするはずなのに、どこか懐かしい気がして……」
「懐かしい?」
「……あなた、どこかで――」
「ネフリー。そろそろ、よろしいですか?」
話を遮るようにして、大佐が会話に割って入る。
今し方チェックインを終えた風を装っているけれど、見計らったかのようなタイミングにも感じられる。
真相は分からずじまいだけれど。
「ええ。早かったのねお兄さん。それでは、ナマエさん。兄を宜しくお願いしますね」
ネフリーさんは会釈して数歩進むと「ああ、そうだ」と、ふと何かを思い出したように振り返る。
私の元まで駆け寄って、そっと耳打ちをした。
「兄は、ちゃんと笑えていますか?」
「え……?」
私の返事を待たず一笑して、ネフリーさんは人波の中へ姿を消した。
『兄は、ちゃんと笑えていますか?』
あれはどういう意味だったのだろうか?
大佐はいつも笑っているだろうに。腹の底が知れない軽薄な笑みで。
「宜しくされちゃいました……」
「やれやれ。宜しくしているのは私の方なのですがねぇ……」
「はい!? そんなわけないですよ!」
いつもの調子で言い合っていると、大佐はいつもの調子で態とらしく言ってのける。
「それにしても――優しい、ですか」
「んな!?」
呟いて、ネフリーさんが去った後を見つめていた視線を私に向ける。
その言葉には覚えがあった。
まさかあの会話を聞いていた?
じゃあ、私が口にしたであろう小っ恥ずかしい言葉の数々も?
「……初耳ですね」
静かに紡がれた一言は、容赦なく私の羞恥心を抉る。
ニッコリと微笑みかけられ、堪らず泡を吹いて卒倒しそうだった。
「ところで、先程ネフリーは何と?」
「ええっと、『兄は、ちゃんと笑えていますか?』って聞かれました……あれってどんな意味だったんでしょうか?」
「!」
大佐は顎に指を添えて暫し思案した後、何か思い至ったように小さく息をつく。
喧騒の中でも、しっかりと大佐の声は私の耳に届いた。
「……我が妹ながらよく見ている」
「?」
大佐は視線を落としたまま、ほんのわずかに口元を緩める。
「あなたには、どう見えますか?」
「え……?」
思わず言葉に詰まる。
問いの真意を測りかねて、それでも思ったままを口にした。
「……ちゃんと、笑っているように見えますけど」
一瞬の沈黙を経て、大佐は静かに目を伏せながら呟く。
「そうですか」
見上げた先の横顔は、喧騒の中にありながら、驚くほど穏やかだった。
20260303
この地へ足を踏み入れた際、懐かしいと言ってはみたものの、実際こうして街を歩いていても懐かしいと思える風景は残念ながら私の中には残っていないらしい。
まったくと言っていいほど、記憶が呼び起こされる気配はなく、全てが新鮮に映る。
あれだけ初恋だの思い出の街だのと言っておきながら、存外自分は薄情な人間なのかもしれなかった。
深々と降る雪が音を消しているせいか、どこか物悲しい気配を帯びている。
静けさの中、雪を踏む音だけが耳に届いていた。
別荘街とは違いこれと言って目を引くものはなく、住宅や公園、ちょっとしたお店など何処の街でも見受けられるのどかな風景が広がっていた。
幼少期、ケテルブルクに滞在していたのも僅かな期間だったようだし、さして友達と呼べる間柄の人間もこの街にはいなかったように思う。
結局、何かを思い出すこともなかったし、勿論、初恋の男の子との再会だなんてロマンチックでエモーショナルな展開も起こらなかった。
空振りに終わって、この後は大佐と高級スパで新婚旅行もどきの任務が控えているかと思うと気が重い。
今日一日で上がったり下がったりと忙しない私の情緒だった。
特にこれといって用もない。
あまりのんびりしすぎて嫌味を浴びせられるのは御免だ。
そろそろホテルに向かおうと思った時だった。不意に子供の声が耳に届く。
目を向けた先には空き地が広がっていて、雪景色の中、寄り添うように二人分の小さな背中が見て取れる。
「どうしようお兄ちゃん……このままだと鳥さん死んじゃうよ」
「でも、僕達じゃどうすることも出来ないし……」
幼い兄妹の声に誘われ、歩み寄る。
「どうしたの?」
怖がられないように身を低くして目線を合わせ、優しげに声を掛けると、一瞬抱かれた警戒心は直ぐに解ける。
「この子が……」と、妹は瞳に涙の幕を張り、震える声で言って腕に抱かれた小鳥を此方に見せる。
腕の中の小鳥は浅い呼吸を繰り返し、その命の灯火は今にも消えてしまいそうだった。
「雪鳥だね……かなり弱ってる」
「遊んでた時に見つけて……この子、死んじゃうの?」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せて」
不安気な表情を浮かべる二人を安心させるよう、優しく頭を撫でる。
手をかざすと、柔らかな光が雪鳥を包み込む。
「ファーストエイド」
治癒術をかけた瞬間、不意に既視感にも似た感覚が体内を駆け抜けた――輪郭をもたず、朧げなままの“それ”。
(あれ? この感覚、どこかで……)
「わあ! 鳥さん元気になった! お姉ちゃんありがとう!」
「お姉ちゃん治癒士なの? その格好、軍人さんだもんね」
手に残る朧げな記憶の断片に意識を絡め取られていたが、二人の声で引き戻される。
眺めていた手から、眼前の二人へと視線を向けた。
「――え? う、うん。まあね! 処置が間に合ってよかった。じゃあ、お姉ちゃんはもう行くね」
「うん! またね!」
「バイバイ!」
二人に別れを告げて、合流予定のホテルへと向かう。その歩調は自然と速まっていた。
もちろん気持ちが逸っているからではない。断じて。
散策に加えて雪鳥の治療をしていたせいで、予定していた時間よりも遅くなってしまったからだ。
大佐の嫌味をケテルブルクに来てまで聞きたくないからに他ならない。
雪で滑らないように気を付けながらホテルに向かう最中、胸には未だに微かな違和感が燻っていた。
***
予定していた時刻よりも遅くなってしまった。
早足で合流予定のホテルに辿り着き、ロビーを見渡すと、さして探さずとも目当ての姿が視界に入り込む。
軍のコートに身を包んでいる大佐は、その背丈も手伝って人混みの中にいても容易に見つけ出す事が出来た。
やはり、一足先に着いていたようだ。
きっと待たせてしまっただろうし、この際多少の嫌味は飲み込むしかないと諦め、声をかけようとした時だった――一瞬、呼吸が止まる。
「――っ、」
言葉は呼吸と共に喉へ張り付き、駆け出そうとした足は根が張ったように動けない。
私の視界に広がる景色がそうさせた。
大佐の隣に立つ女性は、ただ綺麗という言葉では足りなかった。
すらりと伸びた手足、静かな横顔。
遠目にも分かる整った顔立ちの奥に、凛と澄んだ気配がある。
雪の街に溶け込むような白い肌が、その人をどこか遠い存在に見せていた。
(知り合い……なのかな?)
あの大佐が柔らかな表情で、時には困った風に眉を下げて女性と言葉を交わしている。
大佐のそんな姿を目にしたのは初めてで、無意識に伸びた手がぎゅうっと胸元を掴む。
視線を外すことも声をかけることも出来ず、ただただ言葉にし難い複雑な感情が私の心を曇らせていた。
あれからどれ程の間、二人の姿を遠巻きに眺めていただろう?
如何ともし難い感情に囚われたまま動けずにいると、こちらに気付いた赤い瞳が真っ直ぐに私を捉えた。
「ナマエ、そんな所で何をしているんです?」
「た、大佐……いやぁ、お邪魔したら悪いなーと思って……」
「ナマエ?」
「え、ああ……ジェイド、遅くなってすみません」
いつもの調子で彼を呼ぶと、嗜めるように再度名前を呼ばれて慌てて呼び直す。
別にどちらでもいいじゃないか。此処には私達の関係を知る人はいないのだから。
――誰、も。
ちらりと大佐の横に立つ女性に視線を向ける。
「何を勘違いしているのか知りませんが、そんな気遣いは無用ですよ。紹介します。妹のネフリーです」
「へ? い、妹さん……!?」
ネフリーと呼ばれた女性はニコリと美しい笑みを浮かべた。
この美女が大佐の妹――言われてみれば整った顔立ちの奥に、どこか冷ややかで澄んだ理性を感じる。
雪のように白い肌と、凛と張りつめた気配。言われなくとも、彼と血を分けた人なのだと分かる美しさだった。
妹であると紹介されて、先程まで感じていた複雑な感情はいつの間にか消え去っていた。
「初めまして、ナマエさん。ネフリー・オズボーンと申します。ケテルブルクで知事を務めております」
「は、初めまして。ご挨拶が遅くなってすみません。知事だなんて、ネフリーさんは聡明な方なんですね……美人だし……流石は大佐の妹さんっていうか……ははは」
色々と圧倒されて、頭の悪い感想しか出て来ないのが恥ずかしいが、大佐と偽夫婦ということは、眼前の麗人も私の偽妹ということになる。
ネフリーさんは私達の関係を知っているのだろうか?偽物の私達の事を。
「ピオニー様からご連絡をいただいたんです。お二人が新婚旅行に来るはずだからと」
「まったく……余計な事を。こういう事はやけに根回しがいいのですから困ったものです」
「あら、手紙で結婚したことを事後報告したお兄さんがピオニー様の事をとやかく言えないでしょう?」
「痛い所をついてきますねぇ」
話し振りからネフリーさんは私達の関係を知らされていないのだと理解する。
ネフリーさんの横に立つ大佐に目配せをすると、ニコリと胡散臭い笑顔を浮かべて見せた。
成程。余計な事は口にするなということらしい。
ここでも私は偽装夫婦を演じなければならないようだ。
ネフリーさんは上品に微笑むと、傍に立つ大佐に意味ありげな視線を向ける。
「お兄さん、チェックインはお任せしてもいいかしら? 少しナマエさんとお話しがしたいの」
その微笑みと言葉が何を意味しているのか私には計り知れなかったけれど、大佐には理解できたらしい。
ほんの一瞬考えるような素振りを見せた後、私に視線を向けた。
「ナマエ。すみませんが少しの間、妹の話に付き合って頂けますか?」
「あ、はい! それは勿論かまいませんが……」
大佐は私達をこの場に残してフロントへ足を向ける。
去り際に私へ向けた彼の薄っぺらい笑みからは、“くれぐれもボロは出さないでくださいね”そんな雰囲気が漂っていた。
そう何度も釘を刺さなくても分かっていますとも。
そして、ネフリーさんは「ナマエさん、あちらへ」とロビーの一角に設けられた休憩スペースのソファーへと私を促す。
流石は貴族御用達の高級ホテル。ソファーの座り心地一つ取っても上等な物だと分かる。どおりで私には馴染まないわけだ。落ち着かない。
促されるままに座ったはいいが、暫しの沈黙が流れ、何をしでかしたわけでもないのに気まずい空気が流れ息苦しくてかなわない。
大佐とネフリーさんが血の繋がった兄妹だったとしても、大佐と私は偽装夫婦だ。
所詮は偽物の私達に真意を問われたとしても、何の話も出来ないと思う。
「ナマエさん、失礼を承知で伺ってもよろしいでしょうか? ……兄と、どのような経緯で結婚を?」
「へっ? け、経緯……ですか?」
やはり、一番危惧していた事が起こってしまった。
二人で話したいと提案された時から嫌な予感はしていたけれど。
ネフリーさんの偽りを穿つような眼差しがひたりと私を正面から見据えている。
今は私一人だけ。助け舟を出してくれる大佐は傍に居ない。
間違えてはいけない。ボロを出してはいけない。
緊張感に飲まれ、握る手にじっとりと汗が滲む。
私自らこの関係を望んだわけじゃない。
けれど、結婚は偽装で私達は他人同士なんです……とは口が裂けても言えなかった。
私と大佐の関係は、婚姻とは対極に位置していると言ってもいい。
逃げた私を大佐が見つけ出し、擦った揉んだの末に露店を吹き飛ばし、その露店の弁償代を肩代わりしてもらうかわりに結んだ契約だ。取引みたいなものだ。
残念ながら、それをそのまま話す勇気はなかった。
言い淀む私に、ネフリーさんは気遣うような言葉をかける。
「すみません不躾に。兄が結婚を選ぶとは、正直思っていなかったもので……」
(でしょうね! まあ……そもそも私達、結婚なんてしてないんですけどね!)
あれこれ悩んだ末に、私の脳内に浮かんだ一言はこれだった。
「久し振りに会って驚きました。なんだか少し兄の雰囲気が柔らかくなった気がして」
「え?」
「以前の兄は……人を寄せつけない空気を纏っていましたから。あなたの前では、違うように見えました」
ネフリーさんの視線がフロントで手続きをする大佐を捉える。
その瞳には、ほんの僅かに安堵の色が宿っているように見えた。
大佐の雰囲気が柔らかくなったというのは本当だろうか?
私にとって彼は、二年前も今も変わらず厄介な人だ。
こうして繋ぎ止められたままでいるのだから。
「兄は……あなたを困らせてはいませんか? あの人、昔から少々不器用なところがありますから」
「え!? ええと……困るなんて、そんな。大佐は、その……仕事に関しては、とても頼りになりますし……」
ネフリーさんは何を言うわけでもなく、じっと此方を見つめたままだ。
静かに言葉の続きを待っている。
「……い、意地悪なところも、ありますけど!」
私の言葉にきょとんとして双眸を瞬かせるネフリーさんを前に、ああ……私は間違えてしまったのだと――何とか誤魔化さなければと、取り繕うように慌てて言葉を続けた。
「あ、いえ! でも、ちゃんと優しいと思います……分かりにくいだけで。すみません。うまく言葉にできないや……」
ネフリーさんから視線を外し、膝の上に乗せた手をじっと見つめる。
まるで、自分自身と向き合うみたいに。
「…………たぶん、私が勝手にそばにいたいだけなんだと思います」
――理由は、よく分からないけれど。
言葉にした瞬間、何故か胸の奥がわずかに軽くなった。
「……そうですか。あなたからその言葉を聞けて安心しました」
ネフリーさんは腑に落ちたかのように、嫣然と微笑んだ。
美しい微笑みだったけれど、どうしてだろう……どこかほんの少しだけ、その笑みは幼さを帯びているように感じたのだ。
――兄を思う、妹のような。
「ところで、ナマエさんは兄を“大佐”とお呼びになるのですね」
「え゛!? あ、あれは癖で……! 仕事では上司ですし、その……今日はご覧の通り軍服ですからっ……!」
流石は大佐の妹だ。着眼点が鋭い。
まさか呼び方を指摘されるとは思わず、しどろもどろになりながらそれらしい言い訳を並べる。
「……ふ、夫婦……ですけど」と、尻すぼみになりながら一言付け加えると、ネフリーさんは口元に手を添えてクスクスと笑った。
「ふふ……意地悪なことを伺いました。色々とごめんなさい、ナマエさん。どうか気を悪くしないでください」
「いえ、そんな……! ネフリーさんは妹なんだから気になって当然ですよ」
「ありがとうございます。結婚の事を聞いて驚いたのもそうですが、それよりも嬉しかったんだと思います。兄が、生涯を共にしたいと思える女性に出会えた事が」
「え……あー……ははは。そうだといいですけど」
ネフリーさんの言葉が偽装妻の私に重くのしかかるようだった。心苦しい。
ごめんなさい、ネフリーさん。私にとっても大佐にとっても利害関係の一致だけで結ばれた間柄なんです。
「それにしても、不思議ですね。ナマエさんと初めてお会いするはずなのに、どこか懐かしい気がして……」
「懐かしい?」
「……あなた、どこかで――」
「ネフリー。そろそろ、よろしいですか?」
話を遮るようにして、大佐が会話に割って入る。
今し方チェックインを終えた風を装っているけれど、見計らったかのようなタイミングにも感じられる。
真相は分からずじまいだけれど。
「ええ。早かったのねお兄さん。それでは、ナマエさん。兄を宜しくお願いしますね」
ネフリーさんは会釈して数歩進むと「ああ、そうだ」と、ふと何かを思い出したように振り返る。
私の元まで駆け寄って、そっと耳打ちをした。
「兄は、ちゃんと笑えていますか?」
「え……?」
私の返事を待たず一笑して、ネフリーさんは人波の中へ姿を消した。
『兄は、ちゃんと笑えていますか?』
あれはどういう意味だったのだろうか?
大佐はいつも笑っているだろうに。腹の底が知れない軽薄な笑みで。
「宜しくされちゃいました……」
「やれやれ。宜しくしているのは私の方なのですがねぇ……」
「はい!? そんなわけないですよ!」
いつもの調子で言い合っていると、大佐はいつもの調子で態とらしく言ってのける。
「それにしても――優しい、ですか」
「んな!?」
呟いて、ネフリーさんが去った後を見つめていた視線を私に向ける。
その言葉には覚えがあった。
まさかあの会話を聞いていた?
じゃあ、私が口にしたであろう小っ恥ずかしい言葉の数々も?
「……初耳ですね」
静かに紡がれた一言は、容赦なく私の羞恥心を抉る。
ニッコリと微笑みかけられ、堪らず泡を吹いて卒倒しそうだった。
「ところで、先程ネフリーは何と?」
「ええっと、『兄は、ちゃんと笑えていますか?』って聞かれました……あれってどんな意味だったんでしょうか?」
「!」
大佐は顎に指を添えて暫し思案した後、何か思い至ったように小さく息をつく。
喧騒の中でも、しっかりと大佐の声は私の耳に届いた。
「……我が妹ながらよく見ている」
「?」
大佐は視線を落としたまま、ほんのわずかに口元を緩める。
「あなたには、どう見えますか?」
「え……?」
思わず言葉に詰まる。
問いの真意を測りかねて、それでも思ったままを口にした。
「……ちゃんと、笑っているように見えますけど」
一瞬の沈黙を経て、大佐は静かに目を伏せながら呟く。
「そうですか」
見上げた先の横顔は、喧騒の中にありながら、驚くほど穏やかだった。
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