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『あなたは私と行くべき場所があるでしょう?』
その言葉通り基地へと連れ戻され、軟禁紛いの書類整理地獄の刑を宣告されるのだとばかり思っていたが、大佐の足は基地とは正反対の宮殿内へ向かった。
一体何処へ向かい、何をさせられるのだろう?
彼の言う“私のやるべき事”とは何なのだろう?
尋ねようにも、先程から私達の間に流れる張り詰めた空気がそれを良しとしない。
だからといっていつまでもこのままというわけにもいかず……悩みに悩んだ末、恐る恐る声をかける。
「た、大佐……あの、その、そろそろ手を離して欲しなーって思ったり……。もう逃げたりしませんから」
「信用できませんね」
勇気を出して声をかけたのに、大佐はぴしゃりと言って私を拒んだ。
ここまでに至る一連の出来事で、私は彼の信用を失いつつある。
にべない態度をとられても仕方がないのだ。私は、それだけの事をした。
まず、彼の補佐でありながら陛下の側付きの誘いを断っていない。
次に、話し合いを拒否してトイレから逃亡。
さらに、今日初めて言葉を交わしたガイラルディア・ガラン・ガルディオスことガイに私達夫婦の秘密をバラそうとした。
私は僅かな時間で何度も虎の尾を踏んだのだ。
その結果が今の現状を引き起こしている。
片手をポケットへ、もう片方で私の手首を掴んで引っ張る大佐はいつも通りのようでいて全くそうではなかった。
恐る恐る呼びかけてみても、大佐は前を向いたまま一瞥もくれなければ返事もない。
まずい。これは想像以上にお怒りなのでは……?
手を伸ばせば届く距離にあるのに、何も語らない広い背中は酷く遠い。
重苦しい空気のせいで、長い宮殿の廊下が普段の何倍も長く感じられてならなかった。
「あの、大佐……怒ってますか? 絶対怒ってますよね?」
「ご想像にお任せします」
想像に任せると言いつつ、否定はしない。
ほら、やっぱり怒ってる。
しかもこれは、ただ怒っているのではなくとても怒っている。そう、激おこだ。
大佐の静かなる怒りが言葉と態度の端々に滲み出ているようだった。
手首を掴む力が強い。言葉が刺々しい。こちらを一顧としない。
力任せとまではいかずとも、私の手首を掴む手の強さに感情が現れている。
一体全体どうすれば彼の怒りを鎮める事ができるのだろう?私が取るべき行動は?最適解は?
怒りを完全に鎮めるとまではいかずとも、せめて緩和させることが出来たなら。
そうと決まれば、さっそく交渉だ。
大佐の機嫌と引き換えに私が差し出せるものは何だろう?私には何がある?
――何もなかった。
熟考の末、何もなかった。
大佐にとって利点となりうる事柄において、私は差し出せるものも能力も何一つとして持ち合わせていなかった。何も思い当たらない。
皮肉なものだ。熟考したばかりに己の価値の低さを浮き彫りにしてしまった。
ならば、どうして大佐は私を傍に置いているのだろう?
これは私の偏見だが、彼は合理性や利用価値の有無に重きを置いているように思う。利用価値の面で私を他者と天秤にかけた時、自分がそこまで値打ちのある人間だとは思えない。
強いて言うなら第七音譜術士であることぐらいだろうか?
大佐に捕縛された時もその点を買われ、彼の下につく羽目になった。
今回の偽装結婚の件も、いくら都合がいいとはいえ探し出してまで手元に置くほどではないだろう。
――だったら、なぜ?
「うぶ! ちょ、大佐、急に立ち止まらないでください……!」
「どういうつもりですか?」
「へ?」
突然立ち止まるものだから、勢い余って大佐の背中に顔面をぶつけてしまった。
ただでさえ低い鼻が、更に低くなってしまったらどうしてくれるのか。
鼻をさすりながら恨めしげな視線を向けると、真紅の瞳が私を冷ややかに見据えていた。
たまらず怖気付く。
その赤は燃え上がるようでいて、しかし、身を切るような凍てついた印象を与える。
「とぼけないで頂きたい。私達の関係をガイに話そうとしましたね?」
「あー……えっと、その事に関しては…………ハイ」
「はぁ……何故こうもあなたは軽率なのですか? 公衆の面前では口を慎むようにと先程話したばかりですが」
「……ごめんなさい。でも、周りには私達以外に誰もいなかったし……それに、ガイならいいかなって思って……」
まるで悪事を働いた子供と、それを叱る親の会話のように感じられた。
きっとこの場に第三者がいたのなら同じことを思うだろう。
「先程から疑問でしたが、その信用は一体どこから来るんですか? あなた方は顔を合わせたばかりでしょう?」
「うーん、それに関しては私も不思議で……あ! やっぱり顔が好みだからですかね!」
「……はぁ」
少しばかり戯けた返答をしてみるが、ウケるどころか大佐は肩を竦め、溜め息を吐いた。
つまり、盛大に滑ったということだ。
そもそも冗談を打っ込む空気感ではないことぐらい分かりそうなものなのに、そう出来なかった私はやはり配慮に欠けている。
「な、なーんちゃって! 冗談ですよ……冗談……怒りました?」
「いえ、実にあなたらしいと呆れていただけですよ。呆れ果てて言葉もありませんが」
「だから、ごめんなさいってば! ……もう結婚の事に関しては他言しませ、ん――っ!」
罰が悪そうに目を背け、ついでに顔も背けると、どうやらそれらが彼の気に障ったらしい。
直ぐさま顎を掬い上げられ、せっかく逸らした顔は強制的に正面に向き直った。
交わった視線からは、まだ納得していない――そんな感情が見て取れる。
「それにしても、随分とガイに懐いていますね」
「っ、」
彼の一言で高らかにゴングが打ち鳴らされる。
ここにきて唐突に大佐VS私の第二試合が始まった。
第一試合は偽装結婚から逃げ出す時。あの時は逃走を読まれ完全敗北したわけだが、果たして今回はどうなるのか……。
経験上、この問は私を試している。つまり、今回は心理戦というわけだ。
大佐の納得する返答以外を口にしてしまった場合、私にとって何かしらの不利益が発生する。
大佐の先制攻撃【貼り付けた笑顔】。
笑顔に気圧され私の特殊防御力が下がった。追加効果で怯み、技が出せない。
返答を間違えてはいけない。絶対にだ。
ガイに懐いている――その言葉から大佐の意図を読み取り、彼の欲している言葉を導きだす。
ガイ“に”懐いている=自分には懐いていない。ここだ!ここを否定し、明確にすればいい。
「え、ええー? そうですか? 私が一番懐いてるのは、やっぱり大佐ですよ! だってほら、私は大佐の補佐官なんだし……ははは、はは……」
「そこは是非、“妻”という言葉が聞きたかったですねぇ」
間違えてしまった。しっかりと。
この瞬間二度目の敗北が確定した。
嫌な予感がする。
何がどんなふうにと問われると上手く言葉に出来ないけれど、これからとんでもなく面倒な状況に陥る予感がするのだ。
いわゆる第六感と呼ばれるそれが、野生の勘が、危険だと警鐘を鳴らしている。
警鐘が頭の中で一層けたたましく鳴り響いた時、大佐が口を開いた。
「ここはやはり身をもって事の重大さを自覚して頂かなくてはなりませんね」
「……今度は何の話ですか?」
「いわゆるペナルティですよ」
「はい?」
「今日から二人きりの時は私の事も名前で呼んで頂きましょうか」
「はぁ!? 何でそうなるんですか!?」
事の重大さと大佐を名前で呼ぶ事がどうしてイコールで結びつくのか説明してほしい。
「無理ですよ、無理!」と首を左右に振りながら全力で拒否するが、そう簡単に引き下がる大佐ではない。
「おや? ガイのことは名前で呼んでおいて、夫である私のことは名前で呼べないのですか?」
事の重大さ云々ではなく、それこそが彼の本心なのだろう。
回りくどく色々と言っているが、そんなものは建前で本音はこちらなのではないかと思えてならない。
形だけの夫婦なら、呼び方なんてどうでもいい。少なくとも私はそう思っている。
「や、やだなぁー! 大佐ってば、まさかヤキモチですかぁ? らしくないですよ」
「ええ、そうですよ。ですから、大人気なく臍を曲げた夫の機嫌をとってください」
そうきたか。
そもそも大佐が私の挑発に乗ったことなどただの一度もない。
状況を回避しようと、いくら誤魔化したところでそれはかなわない。かなった試しがなかった。
「だーかーらー、何度も言ってますけど私達は偽そ――っ、」
「まったく、学びませんね……あなたって人は。それとも、躾が必要ですか?」
大佐は立てた人差し指を私の唇に押し付けて、言葉を制す。
躾という一言に縮み上がり、ヘッドバンキングさながらに何度も首を縦に振った。大佐なら本当にやりかねないので恐ろしい。
大佐に怯えているうちにいつの間にか辿り着いた部屋の前で足を止める。
他の部屋に比べて華やかで絢爛な造りの扉は、誰の私室であるかなど一目瞭然だった。
――ピオニー皇帝陛下の私室。
「さあ、着きましたよ。ここであなたがすべき事は分かっていますね?」
「…………ハイ。大佐」
「今は二人きりですよ?」
私は、そのペナルティを呑んだつもりはこれっぽっちもないが、いつの間にか私達の中で確立されてしまったらしい。
名前で呼ぼうが呼ばまいが、私達の関係が変化することはないというのに……。
「あーもう、はいはい! わかりましたよ! 呼べばいいんでしょ呼べば!」
「是非お願いします」
改めて面と向かって名前を呼ぶと言うのは、何だろう……物凄く恥ずかしい。
そういう間柄ではないのに、破茶滅茶に恥ずかしい。
「どうしました? 陛下のペット相手には簡単に呼べていたではないですか」
「ブウサギと大佐は別でしょう!? ていうか、どこから見てたんですか!?」
気が進まない。名前で呼び合う関係では決してないし、そんなふうに関係を発展させる気もさらさら無いのに、こうも無理強いされては。
しかし、裏を返せばここで一言名前を呼べば彼の気は済むのだ。
相変わらず上部だけの笑みを湛える大佐を前に、私は意を決した。
「………………ジェイド」
「はい?」
ぼそりと蚊の鳴くような声で口早に名前を呼ぶと、当然のように大佐はとぼける。
耳に手を当て、今何か言いましたか?とでも言うように態とらしく聞き直す。
「…………ジェイド」
「はい?」
「何で聞こえないんですか!? 今のは絶対聞こえたでしょ!?」
「いやあ、すみません。歳をとると耳が遠くなってしまいまして」
私を見下ろす大佐は一層笑みを濃くする。
完全に私をからかって遊んでいた。
あれほど私はあなたの玩具ではないのだと主張したのに、あの主張は何の意味もなしていないことが判明した瞬間だった。
大佐は私よりも遥かに上背がある。
腕を掴み、力を込めて引っ張ると、傾いた体に今だと言わんばかりにつま先立ちをして耳元で名前を呼んだ。
今度こそ、聞き逃される事の無いように。
緊張で震える声で彼にだけ聞こえるように、そっと。
「ジェイド」
「――っ、」
これで聞こえなかっただなんて言わせない。
いっそのこと大声で名前を叫び、鼓膜を破ってやろうかとも思ったが、いつにない柔らかな表情を前にそんな考えは雲散霧消した。
たった一言名前を呼んだだけ。
それだけの事で、どうしてそんなに嬉しそうなのだろう?
「ふ、ふんっ! これで満足ですか?」
「ええ。それはもう」
そんなやりとりをする最中、遠慮がちに部屋の扉が開く。
「おい、お前ら仲睦まじいのは実に結構だが、人の部屋の前でイチャつくのはやめろ」と、顔を覗かせたピオニー陛下に冷やかされた。
最悪だ。恥ずかしすぎて土に還りたい。
そして、大佐の言っていた私のやるべき事とは、大佐の前で正式に陛下の側付きの話を断る事だったようで……。
「陛下にお話があるのですよね? ナマエ」と、傍らからの圧力にぶるぶると震えながら陛下に側付きを辞する旨を伝えたのだった。
20251123
その言葉通り基地へと連れ戻され、軟禁紛いの書類整理地獄の刑を宣告されるのだとばかり思っていたが、大佐の足は基地とは正反対の宮殿内へ向かった。
一体何処へ向かい、何をさせられるのだろう?
彼の言う“私のやるべき事”とは何なのだろう?
尋ねようにも、先程から私達の間に流れる張り詰めた空気がそれを良しとしない。
だからといっていつまでもこのままというわけにもいかず……悩みに悩んだ末、恐る恐る声をかける。
「た、大佐……あの、その、そろそろ手を離して欲しなーって思ったり……。もう逃げたりしませんから」
「信用できませんね」
勇気を出して声をかけたのに、大佐はぴしゃりと言って私を拒んだ。
ここまでに至る一連の出来事で、私は彼の信用を失いつつある。
にべない態度をとられても仕方がないのだ。私は、それだけの事をした。
まず、彼の補佐でありながら陛下の側付きの誘いを断っていない。
次に、話し合いを拒否してトイレから逃亡。
さらに、今日初めて言葉を交わしたガイラルディア・ガラン・ガルディオスことガイに私達夫婦の秘密をバラそうとした。
私は僅かな時間で何度も虎の尾を踏んだのだ。
その結果が今の現状を引き起こしている。
片手をポケットへ、もう片方で私の手首を掴んで引っ張る大佐はいつも通りのようでいて全くそうではなかった。
恐る恐る呼びかけてみても、大佐は前を向いたまま一瞥もくれなければ返事もない。
まずい。これは想像以上にお怒りなのでは……?
手を伸ばせば届く距離にあるのに、何も語らない広い背中は酷く遠い。
重苦しい空気のせいで、長い宮殿の廊下が普段の何倍も長く感じられてならなかった。
「あの、大佐……怒ってますか? 絶対怒ってますよね?」
「ご想像にお任せします」
想像に任せると言いつつ、否定はしない。
ほら、やっぱり怒ってる。
しかもこれは、ただ怒っているのではなくとても怒っている。そう、激おこだ。
大佐の静かなる怒りが言葉と態度の端々に滲み出ているようだった。
手首を掴む力が強い。言葉が刺々しい。こちらを一顧としない。
力任せとまではいかずとも、私の手首を掴む手の強さに感情が現れている。
一体全体どうすれば彼の怒りを鎮める事ができるのだろう?私が取るべき行動は?最適解は?
怒りを完全に鎮めるとまではいかずとも、せめて緩和させることが出来たなら。
そうと決まれば、さっそく交渉だ。
大佐の機嫌と引き換えに私が差し出せるものは何だろう?私には何がある?
――何もなかった。
熟考の末、何もなかった。
大佐にとって利点となりうる事柄において、私は差し出せるものも能力も何一つとして持ち合わせていなかった。何も思い当たらない。
皮肉なものだ。熟考したばかりに己の価値の低さを浮き彫りにしてしまった。
ならば、どうして大佐は私を傍に置いているのだろう?
これは私の偏見だが、彼は合理性や利用価値の有無に重きを置いているように思う。利用価値の面で私を他者と天秤にかけた時、自分がそこまで値打ちのある人間だとは思えない。
強いて言うなら第七音譜術士であることぐらいだろうか?
大佐に捕縛された時もその点を買われ、彼の下につく羽目になった。
今回の偽装結婚の件も、いくら都合がいいとはいえ探し出してまで手元に置くほどではないだろう。
――だったら、なぜ?
「うぶ! ちょ、大佐、急に立ち止まらないでください……!」
「どういうつもりですか?」
「へ?」
突然立ち止まるものだから、勢い余って大佐の背中に顔面をぶつけてしまった。
ただでさえ低い鼻が、更に低くなってしまったらどうしてくれるのか。
鼻をさすりながら恨めしげな視線を向けると、真紅の瞳が私を冷ややかに見据えていた。
たまらず怖気付く。
その赤は燃え上がるようでいて、しかし、身を切るような凍てついた印象を与える。
「とぼけないで頂きたい。私達の関係をガイに話そうとしましたね?」
「あー……えっと、その事に関しては…………ハイ」
「はぁ……何故こうもあなたは軽率なのですか? 公衆の面前では口を慎むようにと先程話したばかりですが」
「……ごめんなさい。でも、周りには私達以外に誰もいなかったし……それに、ガイならいいかなって思って……」
まるで悪事を働いた子供と、それを叱る親の会話のように感じられた。
きっとこの場に第三者がいたのなら同じことを思うだろう。
「先程から疑問でしたが、その信用は一体どこから来るんですか? あなた方は顔を合わせたばかりでしょう?」
「うーん、それに関しては私も不思議で……あ! やっぱり顔が好みだからですかね!」
「……はぁ」
少しばかり戯けた返答をしてみるが、ウケるどころか大佐は肩を竦め、溜め息を吐いた。
つまり、盛大に滑ったということだ。
そもそも冗談を打っ込む空気感ではないことぐらい分かりそうなものなのに、そう出来なかった私はやはり配慮に欠けている。
「な、なーんちゃって! 冗談ですよ……冗談……怒りました?」
「いえ、実にあなたらしいと呆れていただけですよ。呆れ果てて言葉もありませんが」
「だから、ごめんなさいってば! ……もう結婚の事に関しては他言しませ、ん――っ!」
罰が悪そうに目を背け、ついでに顔も背けると、どうやらそれらが彼の気に障ったらしい。
直ぐさま顎を掬い上げられ、せっかく逸らした顔は強制的に正面に向き直った。
交わった視線からは、まだ納得していない――そんな感情が見て取れる。
「それにしても、随分とガイに懐いていますね」
「っ、」
彼の一言で高らかにゴングが打ち鳴らされる。
ここにきて唐突に大佐VS私の第二試合が始まった。
第一試合は偽装結婚から逃げ出す時。あの時は逃走を読まれ完全敗北したわけだが、果たして今回はどうなるのか……。
経験上、この問は私を試している。つまり、今回は心理戦というわけだ。
大佐の納得する返答以外を口にしてしまった場合、私にとって何かしらの不利益が発生する。
大佐の先制攻撃【貼り付けた笑顔】。
笑顔に気圧され私の特殊防御力が下がった。追加効果で怯み、技が出せない。
返答を間違えてはいけない。絶対にだ。
ガイに懐いている――その言葉から大佐の意図を読み取り、彼の欲している言葉を導きだす。
ガイ“に”懐いている=自分には懐いていない。ここだ!ここを否定し、明確にすればいい。
「え、ええー? そうですか? 私が一番懐いてるのは、やっぱり大佐ですよ! だってほら、私は大佐の補佐官なんだし……ははは、はは……」
「そこは是非、“妻”という言葉が聞きたかったですねぇ」
間違えてしまった。しっかりと。
この瞬間二度目の敗北が確定した。
嫌な予感がする。
何がどんなふうにと問われると上手く言葉に出来ないけれど、これからとんでもなく面倒な状況に陥る予感がするのだ。
いわゆる第六感と呼ばれるそれが、野生の勘が、危険だと警鐘を鳴らしている。
警鐘が頭の中で一層けたたましく鳴り響いた時、大佐が口を開いた。
「ここはやはり身をもって事の重大さを自覚して頂かなくてはなりませんね」
「……今度は何の話ですか?」
「いわゆるペナルティですよ」
「はい?」
「今日から二人きりの時は私の事も名前で呼んで頂きましょうか」
「はぁ!? 何でそうなるんですか!?」
事の重大さと大佐を名前で呼ぶ事がどうしてイコールで結びつくのか説明してほしい。
「無理ですよ、無理!」と首を左右に振りながら全力で拒否するが、そう簡単に引き下がる大佐ではない。
「おや? ガイのことは名前で呼んでおいて、夫である私のことは名前で呼べないのですか?」
事の重大さ云々ではなく、それこそが彼の本心なのだろう。
回りくどく色々と言っているが、そんなものは建前で本音はこちらなのではないかと思えてならない。
形だけの夫婦なら、呼び方なんてどうでもいい。少なくとも私はそう思っている。
「や、やだなぁー! 大佐ってば、まさかヤキモチですかぁ? らしくないですよ」
「ええ、そうですよ。ですから、大人気なく臍を曲げた夫の機嫌をとってください」
そうきたか。
そもそも大佐が私の挑発に乗ったことなどただの一度もない。
状況を回避しようと、いくら誤魔化したところでそれはかなわない。かなった試しがなかった。
「だーかーらー、何度も言ってますけど私達は偽そ――っ、」
「まったく、学びませんね……あなたって人は。それとも、躾が必要ですか?」
大佐は立てた人差し指を私の唇に押し付けて、言葉を制す。
躾という一言に縮み上がり、ヘッドバンキングさながらに何度も首を縦に振った。大佐なら本当にやりかねないので恐ろしい。
大佐に怯えているうちにいつの間にか辿り着いた部屋の前で足を止める。
他の部屋に比べて華やかで絢爛な造りの扉は、誰の私室であるかなど一目瞭然だった。
――ピオニー皇帝陛下の私室。
「さあ、着きましたよ。ここであなたがすべき事は分かっていますね?」
「…………ハイ。大佐」
「今は二人きりですよ?」
私は、そのペナルティを呑んだつもりはこれっぽっちもないが、いつの間にか私達の中で確立されてしまったらしい。
名前で呼ぼうが呼ばまいが、私達の関係が変化することはないというのに……。
「あーもう、はいはい! わかりましたよ! 呼べばいいんでしょ呼べば!」
「是非お願いします」
改めて面と向かって名前を呼ぶと言うのは、何だろう……物凄く恥ずかしい。
そういう間柄ではないのに、破茶滅茶に恥ずかしい。
「どうしました? 陛下のペット相手には簡単に呼べていたではないですか」
「ブウサギと大佐は別でしょう!? ていうか、どこから見てたんですか!?」
気が進まない。名前で呼び合う関係では決してないし、そんなふうに関係を発展させる気もさらさら無いのに、こうも無理強いされては。
しかし、裏を返せばここで一言名前を呼べば彼の気は済むのだ。
相変わらず上部だけの笑みを湛える大佐を前に、私は意を決した。
「………………ジェイド」
「はい?」
ぼそりと蚊の鳴くような声で口早に名前を呼ぶと、当然のように大佐はとぼける。
耳に手を当て、今何か言いましたか?とでも言うように態とらしく聞き直す。
「…………ジェイド」
「はい?」
「何で聞こえないんですか!? 今のは絶対聞こえたでしょ!?」
「いやあ、すみません。歳をとると耳が遠くなってしまいまして」
私を見下ろす大佐は一層笑みを濃くする。
完全に私をからかって遊んでいた。
あれほど私はあなたの玩具ではないのだと主張したのに、あの主張は何の意味もなしていないことが判明した瞬間だった。
大佐は私よりも遥かに上背がある。
腕を掴み、力を込めて引っ張ると、傾いた体に今だと言わんばかりにつま先立ちをして耳元で名前を呼んだ。
今度こそ、聞き逃される事の無いように。
緊張で震える声で彼にだけ聞こえるように、そっと。
「ジェイド」
「――っ、」
これで聞こえなかっただなんて言わせない。
いっそのこと大声で名前を叫び、鼓膜を破ってやろうかとも思ったが、いつにない柔らかな表情を前にそんな考えは雲散霧消した。
たった一言名前を呼んだだけ。
それだけの事で、どうしてそんなに嬉しそうなのだろう?
「ふ、ふんっ! これで満足ですか?」
「ええ。それはもう」
そんなやりとりをする最中、遠慮がちに部屋の扉が開く。
「おい、お前ら仲睦まじいのは実に結構だが、人の部屋の前でイチャつくのはやめろ」と、顔を覗かせたピオニー陛下に冷やかされた。
最悪だ。恥ずかしすぎて土に還りたい。
そして、大佐の言っていた私のやるべき事とは、大佐の前で正式に陛下の側付きの話を断る事だったようで……。
「陛下にお話があるのですよね? ナマエ」と、傍らからの圧力にぶるぶると震えながら陛下に側付きを辞する旨を伝えたのだった。
20251123