どこまでもゆるやかな浸蝕
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エンゲーブ視察の一件から数日、私の執務机にはケテルブルクでもらった置物の横に、新たに薔薇が一輪飾られている。
それを眺めていると、つい頬が緩んでしまうが、どうやら大佐はそれが気に入らないようで……。
『何かを貰う度に飾っていたのでは、一体何の為の机か分かりませんね』だなんて嫌味を言われる始末だ。
けれど、そんな嫌味に屈する私ではない。飾りたいから飾るのだ。
こんな性分だから、無意識に彼の感情を逆撫でてしまうのだろう。
この薔薇を目にする度、あの少年も頑張っているのだから、私も負けていられないと背筋が伸びる。
きっと、今度の視察ではもっと逞しくなっているだろう──子供の成長は早いから。
しかし、向かいからその様を眺める大佐にとって、あまり気分のいいものではないようで、彼は当てつけのようにため息を落とした。
「ちょっと大佐! あからさまにため息つくのやめてくださいよー」
「いやぁ、すみません。それを見ていると、どうにもあの子供の顔が浮かぶもので」
「嫌ですねぇ、まったく」と、またしてもわざとらしく言って、眼鏡を押し上げる。
念の為に言っておくが、勿論、大佐への嫌がらせではない。
「なおさら悪いですよ。薔薇に罪はないんですから」
「そうですね。“薔薇には”、ね」
それでも大佐の言葉にはどこか棘がある。
まるで、薔薇にはなくとも少年には罪があるような口振りだ。
今回の視察を思い返してみれば、大佐と少年のいがみ合いは、少年の言い逃げ(加えて、あっかんべー)で幕を閉じてしまったので仕方がないのかもしれない。
彼にも思うところがあるのだろう。
大佐にとって、少年との因縁で胸の内が晴れないのと同じように、私もまた帰りの馬車の中での出来事が胸につかえていた。
──あれは一体なんだったのだろう?
初めての感覚だった。
あの日、胸に芽生えた感情の名前を知らない。
まだ離れないで欲しいと名前を呼んで、もっと触れて欲しいと縋った。
(あの時、私は無意識に──)
曖昧な思考に支配され、ペンを走らせる手も止まってしまう。
すると突然、思考を遮るようにして、眼前に書類を差し込まれる。
「修正してください。ゼロが二つ抜けているようですが? あと、ここはスペルミスです」
「え゛!?」
「未だに視察気分が抜けきらないようですが、程々にお願いしますよ? 仕事を増やされたのでは、何の為の補佐か分かりません」
嫌味な一言に笑顔の圧力を添えて差し出された書類を受け取る。
いくら嫌味を言われても、大佐の言っていることはいつも間違ってはいないので、今回も反論出来ない。
抜けきれないのは視察気分というより、その帰り道の出来事の方なのだけれど。
「……す、すみません。修正します」
「よろしくお願いします。あなたにしては珍しいですね、こんな初歩的なミスは」
「ははは……疲れてるのかも……」
言えない。先日の馬車での事が尾を引いて、気がそぞろになってミスをしただなんて。
書類を眺めながら肩を落としていると、何やら背後から大佐の視線を感じる。
早急に直せということだろうか?
(はいはい……今すぐ直しますよ、直せばいいんでしょ?)
ペンに手を伸ばそうとした時だった。
頭上から、柔らかな低音が降ってくる。
「……随分、伸びましたね」
「へ?」
「あなたの髪を整えた時、顎下までの長さだったでしょう?」
大佐は懐かしむように言って、私の髪を一束掬い上げる。
「──ひゃっ!」
髪を掬った際に指先が僅かに耳を掠め、反射的に肩が跳ね上がった。
ほんの一瞬、指先が耳を掠めただけ。
たったそれだけの事なのに、どうして過剰に反応してしまったのか自分でも分からない。
慌てて口元を覆い隠す。口を衝いて出た自分らしからぬ声にも動揺を隠せなかった。
「ナマエ?」
「……っ、」
大佐の呼び掛けにも答える事も、振り向く事も出来ない。
今、きっと私の頬は真っ赤に染まっているだろう。心臓は早鐘を打って、あっという間に体が熱を持つ。
指が掠めた場所から熱が伝わって、全身を飲み込んでゆくような──じわじわと体の内側から侵食される感覚。
まるで、あの時と同じだ。体が熱に浮かされる。
私は本当に、どうしてしまったのだろう?
混乱の一途を辿る頭でも、とにかく大佐に気付かれたら終わりだということだけは理解できた。
ここはうまく誤魔化して、この場から──大佐から逃げ出すことが先決だ。
「しょ、書類を! 情報部へ! 届けてきましゅ!」
決して振り向かず、顔を隠すように俯いたまま席を立つと、大佐は私の肩を掴んで引き留める。
やはり、逃がしてくれない。
「ナマエ、待ちなさい──」
「う、ぁ……ぁ……っ」
「!」
肩を掴む力に負けてバランスを崩すと、髪の隙間から真っ赤に染まった顔が覗いてしまう。
そして、しっかりと互いの視線が絡まった。
だって、大佐は私の顔を見るなり酷く驚いたように目を見開いていたもの。
(み、見られた……絶対見られた!)
「あは、はははっ、なんちゃてー……行ってきます!!」
体中の熱を持て余し、困惑のあまり半べそをかく私の表情が想像以上に衝撃的だったのか、肩を掴む手の力が一瞬緩む。
その隙を突いて、大佐の手を振り払うと、執務室から一目散に逃げ出した。
「やれやれ……あれで誤魔化しているつもり、なのでしょうね」と溢した大佐の言葉は、当然私に届くことはなかった。
***
倒つ転びつ執務室から飛び出して、情報部までの道のりを全速力で駆け抜ける。
盛大に取り乱している今の私は、人目を気にする余裕すらない。
分かっていた。
暴れ回る心臓は走っているせいじゃない。
体が火照るのも、上手く呼吸が出来ないのも、全部全部──ジェイドに触れられたからだ。
必死に押さえ込んだはずの熱は、たった指先一本でぶり返してしまう。
あの日から、大佐に触れられると私はおかしくなる。私ではない何かに成り果てる。
彼の事が好きで、好きで、大好きで──触れたいと思うのに。もっと触れて欲しいと思うのに。
普段通りに接することが出来ない。
「──ぶへっ!!」
熱に浮かされ、足元が覚束ないまま走ったせいで、足が縺れてすっ転ぶ。
カエルが潰れるような声をあげ、ビタン!と顔面から派手に転んだ私の姿は、その場に居合わせた兵士達の視線を一斉に集めた。
転ぶ瞬間、手から離れた書類はヒラヒラと宙を舞い、遅れて頭の上に落ちてくる。
カサリと小さく音を立てて頭へ被さる書類は、まるで打ち覆いのようだった。ご臨終だ。
さようなら、今までの私。
「うう゛ー……」と唸る私の双眸にはじんわりと涙が滲む。
顔を打ち付けた痛みからなのか、公衆の面前で転んだ事への羞恥心からか、それとも──自分で導き出した答えが、今の私にはあまりに残酷だったからなのか。
今までこんなことは無かった。
触れても物足りなくなる感情も、彼を今以上に求めてしまう衝動も。
それなのに──。
待ってよ……これじゃあまるで、私──
「…………ただの痴女じゃん」
誰に届くこともなく、床に突っ伏したまま呟いた。
きっと今なら、クローゼットの肥やしになっているピオニー陛下から賜った寝間着がさぞかし良く似合う事だろう。
20260611
それを眺めていると、つい頬が緩んでしまうが、どうやら大佐はそれが気に入らないようで……。
『何かを貰う度に飾っていたのでは、一体何の為の机か分かりませんね』だなんて嫌味を言われる始末だ。
けれど、そんな嫌味に屈する私ではない。飾りたいから飾るのだ。
こんな性分だから、無意識に彼の感情を逆撫でてしまうのだろう。
この薔薇を目にする度、あの少年も頑張っているのだから、私も負けていられないと背筋が伸びる。
きっと、今度の視察ではもっと逞しくなっているだろう──子供の成長は早いから。
しかし、向かいからその様を眺める大佐にとって、あまり気分のいいものではないようで、彼は当てつけのようにため息を落とした。
「ちょっと大佐! あからさまにため息つくのやめてくださいよー」
「いやぁ、すみません。それを見ていると、どうにもあの子供の顔が浮かぶもので」
「嫌ですねぇ、まったく」と、またしてもわざとらしく言って、眼鏡を押し上げる。
念の為に言っておくが、勿論、大佐への嫌がらせではない。
「なおさら悪いですよ。薔薇に罪はないんですから」
「そうですね。“薔薇には”、ね」
それでも大佐の言葉にはどこか棘がある。
まるで、薔薇にはなくとも少年には罪があるような口振りだ。
今回の視察を思い返してみれば、大佐と少年のいがみ合いは、少年の言い逃げ(加えて、あっかんべー)で幕を閉じてしまったので仕方がないのかもしれない。
彼にも思うところがあるのだろう。
大佐にとって、少年との因縁で胸の内が晴れないのと同じように、私もまた帰りの馬車の中での出来事が胸につかえていた。
──あれは一体なんだったのだろう?
初めての感覚だった。
あの日、胸に芽生えた感情の名前を知らない。
まだ離れないで欲しいと名前を呼んで、もっと触れて欲しいと縋った。
(あの時、私は無意識に──)
曖昧な思考に支配され、ペンを走らせる手も止まってしまう。
すると突然、思考を遮るようにして、眼前に書類を差し込まれる。
「修正してください。ゼロが二つ抜けているようですが? あと、ここはスペルミスです」
「え゛!?」
「未だに視察気分が抜けきらないようですが、程々にお願いしますよ? 仕事を増やされたのでは、何の為の補佐か分かりません」
嫌味な一言に笑顔の圧力を添えて差し出された書類を受け取る。
いくら嫌味を言われても、大佐の言っていることはいつも間違ってはいないので、今回も反論出来ない。
抜けきれないのは視察気分というより、その帰り道の出来事の方なのだけれど。
「……す、すみません。修正します」
「よろしくお願いします。あなたにしては珍しいですね、こんな初歩的なミスは」
「ははは……疲れてるのかも……」
言えない。先日の馬車での事が尾を引いて、気がそぞろになってミスをしただなんて。
書類を眺めながら肩を落としていると、何やら背後から大佐の視線を感じる。
早急に直せということだろうか?
(はいはい……今すぐ直しますよ、直せばいいんでしょ?)
ペンに手を伸ばそうとした時だった。
頭上から、柔らかな低音が降ってくる。
「……随分、伸びましたね」
「へ?」
「あなたの髪を整えた時、顎下までの長さだったでしょう?」
大佐は懐かしむように言って、私の髪を一束掬い上げる。
「──ひゃっ!」
髪を掬った際に指先が僅かに耳を掠め、反射的に肩が跳ね上がった。
ほんの一瞬、指先が耳を掠めただけ。
たったそれだけの事なのに、どうして過剰に反応してしまったのか自分でも分からない。
慌てて口元を覆い隠す。口を衝いて出た自分らしからぬ声にも動揺を隠せなかった。
「ナマエ?」
「……っ、」
大佐の呼び掛けにも答える事も、振り向く事も出来ない。
今、きっと私の頬は真っ赤に染まっているだろう。心臓は早鐘を打って、あっという間に体が熱を持つ。
指が掠めた場所から熱が伝わって、全身を飲み込んでゆくような──じわじわと体の内側から侵食される感覚。
まるで、あの時と同じだ。体が熱に浮かされる。
私は本当に、どうしてしまったのだろう?
混乱の一途を辿る頭でも、とにかく大佐に気付かれたら終わりだということだけは理解できた。
ここはうまく誤魔化して、この場から──大佐から逃げ出すことが先決だ。
「しょ、書類を! 情報部へ! 届けてきましゅ!」
決して振り向かず、顔を隠すように俯いたまま席を立つと、大佐は私の肩を掴んで引き留める。
やはり、逃がしてくれない。
「ナマエ、待ちなさい──」
「う、ぁ……ぁ……っ」
「!」
肩を掴む力に負けてバランスを崩すと、髪の隙間から真っ赤に染まった顔が覗いてしまう。
そして、しっかりと互いの視線が絡まった。
だって、大佐は私の顔を見るなり酷く驚いたように目を見開いていたもの。
(み、見られた……絶対見られた!)
「あは、はははっ、なんちゃてー……行ってきます!!」
体中の熱を持て余し、困惑のあまり半べそをかく私の表情が想像以上に衝撃的だったのか、肩を掴む手の力が一瞬緩む。
その隙を突いて、大佐の手を振り払うと、執務室から一目散に逃げ出した。
「やれやれ……あれで誤魔化しているつもり、なのでしょうね」と溢した大佐の言葉は、当然私に届くことはなかった。
***
倒つ転びつ執務室から飛び出して、情報部までの道のりを全速力で駆け抜ける。
盛大に取り乱している今の私は、人目を気にする余裕すらない。
分かっていた。
暴れ回る心臓は走っているせいじゃない。
体が火照るのも、上手く呼吸が出来ないのも、全部全部──ジェイドに触れられたからだ。
必死に押さえ込んだはずの熱は、たった指先一本でぶり返してしまう。
あの日から、大佐に触れられると私はおかしくなる。私ではない何かに成り果てる。
彼の事が好きで、好きで、大好きで──触れたいと思うのに。もっと触れて欲しいと思うのに。
普段通りに接することが出来ない。
「──ぶへっ!!」
熱に浮かされ、足元が覚束ないまま走ったせいで、足が縺れてすっ転ぶ。
カエルが潰れるような声をあげ、ビタン!と顔面から派手に転んだ私の姿は、その場に居合わせた兵士達の視線を一斉に集めた。
転ぶ瞬間、手から離れた書類はヒラヒラと宙を舞い、遅れて頭の上に落ちてくる。
カサリと小さく音を立てて頭へ被さる書類は、まるで打ち覆いのようだった。ご臨終だ。
さようなら、今までの私。
「うう゛ー……」と唸る私の双眸にはじんわりと涙が滲む。
顔を打ち付けた痛みからなのか、公衆の面前で転んだ事への羞恥心からか、それとも──自分で導き出した答えが、今の私にはあまりに残酷だったからなのか。
今までこんなことは無かった。
触れても物足りなくなる感情も、彼を今以上に求めてしまう衝動も。
それなのに──。
待ってよ……これじゃあまるで、私──
「…………ただの痴女じゃん」
誰に届くこともなく、床に突っ伏したまま呟いた。
きっと今なら、クローゼットの肥やしになっているピオニー陛下から賜った寝間着がさぞかし良く似合う事だろう。
20260611