心の中の額縁を占領するひと
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◎こちらのお話は『ペリドットの懊悩 36話』後日談のような話になっています。
グランコクマから軍用の馬車に揺られて辿り着いたのは、食料の村エンゲーブ。
この場所を訪れるのは久し振りだ。もしかすると“あの時”以来ではないだろうか?
村の入り口付近に馬車を待たせ、ランタンが掛けられた門柱を抜けると広大な穀倉地帯が私達を迎える。
国境から遠いこともあり、牧歌的なこの村はいつ訪れてもゆったりとした時間が流れているようだった。
居住地を通り過ぎ、村の中心部へ向かうにつれて、のどかだった雰囲気は徐々に活気を帯びてゆく。
行き交う荷馬車に商人達の威勢のいい声。市場は今日も大賑わいだ。
流石は世界中の食料が集まる場所である。
国内だけでなく他国への輸出も担うこの村は、定期的な状況確認も欠かせない。
つまり、私達がこうして歩いているのも立派なお仕事というわけだ。
「ただの視察だというのに、珍しく上機嫌ですね」
「はい! 久し振りに執務室以外の空気を吸った気がします……」
ここ最近の、執務室に缶詰状態だった日々に思いを馳せる。
勿論そこに感情など存在せず、疲労だけが浮き彫りになるようだ。
「最近は毎日毎日、誰かさんが書類整理ばかり押し付けてくるからー」
「おや、一体誰でしょうね?」
「大佐でしょ!?」
「はいはい。だからこうして連れ出しているのでしょう?」
それに、今日は大佐と二人だし……なんて事は、口に出さないでおこう。
あくまで、仕事として訪れているんだもの。
「そういう大佐は……あまり乗り気じゃなさそうですね?」
下から顔を覗き込むようにして尋ねると、大佐はわざとらしくため息をつく。
目は口ほどに物を言う。此方を見やる赤い瞳は“良いですね、あなたはお気楽で”と語りかけてくるようだ。
「一体、誰のせいだと?」
「はい?」
真意が伝わっていないと分かると、大佐は今一度深い息を吐き出す。しかも先程より大袈裟で長ったらしい。
「ちょっと! 人の顔を見ながらため息をつくのやめてもらえます!?」
「それはこちらのセリフですよ。“今回は”くれぐれも面倒事を起こさないでくださいね」
「面倒事?」
あたかも、私が大佐に迷惑をかけたかのような口振りだ。
前回エンゲーブを訪れた際、大佐に迷惑をかけた事──ああ、そういえば。
不意に当時の記憶が脳内に流れ込んでくる。
思い当たる節と言えば一点だけあるけれど、あれは迷惑という程の事だっただろうか?
むしろ、大佐がと言うよりも、被害者は私自身だったはずだ。
塵一つ出てこないほど財布をすっからかんにされたあの一件は。
以前訪れた時と変わらない活気と賑わいに包まれている市場を見て回る最中、一角で足を止めた。
その場所は、スリ被害で一悶着あった例の店の前。
そして、その店先で見知った姿を見つけた途端、思わず声を上げる。
「あー!!」
店番をしていた少年も、此方に気が付いて駆け寄ってくる。
「もしかして、君……あの時の!?」
「おう!」
「ここで働いてるの?」
「まーな。簡単な仕事だけど」
胸を張り、誇らしげに答える彼の姿はあまりに見違えていた。
数ヶ月前、痩せ細った体躯でリンゴを盗んで逃げていた少年とはとても思えない。
「うっそ……!」
「まぁ……あんたと約束したし」
真っ当に生きると誓った私との約束を、少年は律儀に守り続けていた。
骨が浮き出ていた四肢もしっかりと肉が付き、顔つきもどこか精悍さを増している。
こんなにも嬉しいことはない。人はいつからでもやり直せるということを、目の前の年端のいかない少年が体現してみせたのだから。
「うん……うん……! 偉いよー!」
あの日、世間から爪弾きにされたこの子を諦めたくなくて、手を伸ばした。
その選択は、決して間違いではなかったのだ。
胸に込み上げるものを堪えきれず、思わず両手で少年の頭を撫でる。
髪をかき混ぜるように撫でくり回すと、擽ったそうにしながら私の手を払いのけた。
「ちょ、やめろよ……! 子供扱いするな!」
「ふふっ、何言ってんのー? 子供でしょ!」
数歩後ろで控える大佐は、私達のやり取りに割り込むでも口を挟むでもなく、ただ静かに眺めている。
その視線に気付いた少年は、大佐の姿を視界に捉えた途端、あからさまに顔を顰める。
「げぇ……あいつも居る」
「どうも。“くそロン毛眼鏡野郎”も一緒ですみません」
「っ、んふ……ちょっと、大佐……」
大佐も彼のことをしっかりと覚えていて、そして、しっかりと根に持っていた。
自ら進んでにこやかに名乗るところは実に大佐らしい。その嫌味な物言いは、子供相手でも容赦がない。
「なあ、何であいつも一緒なんだよ?」
「そりゃ一緒だよ。私は彼の補佐官だもん」
「ふーん。あんたの“じょーし”ってヤツ?」
「まあ……そうだね。うん、上司だよ」
ニコリと一笑する大佐の心境はますます分からない。
けれど、大佐は静かに微笑む時ほど恐ろしい。わずかに張り詰めた場の空気からは、それが確かに伝わってくるようだった。
「お! あんたらか、久し振りだな。今回も視察かい?」
張り詰めた空気に息苦しささえ感じていた時だ。
タイミングよく店主が戻ってきたおかげで、ようやく満足に息が出来た気がする。
「ええ。あなたも店もお変わりないようで」
「お陰様で人手も増えたからな。手広くやらせてもらってるよ」
そう言って、店主は少年の頭をポンと叩くと、私の姿を視界に捉え「あんたのお陰だな」と歯を覗かせて笑う。
その言葉が何よりも嬉しい。そして、彼に居場所が出来た事が。
(本当によかった……)
「なあ、オヤジ。そろそろ休憩に入ってもいいだろ?」
「ああ。かまわねぇよ」
少年は、やった!と年相応の可愛らしい笑顔を浮かべたかと思うと、突然私の手を取る。
私と大佐は驚いたように目を剥いた。
「俺、ちゃんとあんたとの約束守っただろ? だから、ご褒美にデートしろ」
「え゛!?」
突然の事で言葉に詰まる。
私は今、仕事でエンゲーブを訪れている。大佐の補佐官として付き従わなければならない以上、デートだなんて職務放棄も甚だしい。
少年の強請るような眼差しに「う゛」と呻く。
なんて真っ直ぐで無垢な眼差しなのだろう。誰かさんとは正反対だ。
許可を得ると言うよりは、助けを求めるに近い。複雑な面持ちで大佐を見やると、彼は無言のまま相変わらず笑顔を湛えていた。
笑っている。ニッコニコだ。それが余計に恐ろしく、そして当然ながらその笑顔は心からのものではないと知っている。
つまり、彼は今──不機嫌極まりないということ。
(だ、駄目だ……さっさと断らないと……)
「いやぁー、それは流石に……ごめんね、やっぱりデートには行けないかな……一応、仕事で来てるから」
「えー!?」
「ね? 大佐」
不服だとばかりに声を上げる少年に、どうしたものかと頭を抱えていると、ずっと押し黙ったまま様子を窺っていた大佐が漸く口を開いた。
「構いませんよ? 補佐官としての仕事はここまでで結構です。どうぞ、存分に“デート”を楽しんで来てください」
「え、ええー……」
予想外だ。まさか大佐が許可を出すなんて。
前回、何があろうと花を受け取らせなかった時のように容赦なく突っぱねるのだとばかり──ああ、そうか。
ここで漸く大佐が乗り気でなかった理由に見当がついた。正直、そんな理由で機嫌を悪くする人ではないと思っていたのだけれど。
決心がつかないまま動けずにいると、思い切り手を引かれる。
そのまま走り出す様は、まるで大佐のもとから私を掻っ攫っていくような絵面だ。
「早く行こうぜ! オッサンもいいって言ってんだから」
「こら! オッサンじゃなくて、カーティス大佐ね!?」
「はいはい、カーティス大佐ぁー」
複雑な気持ちで腕を引かれる。後ろ髪を引かれる──というのは、少し違うかもしれないが。
いくら大佐が許可をくれたからと言って、仕事を放り出してデートに洒落込むだなんて本当に良かったのだろうか?
私は選択を誤ってしまったんじゃないかって──。
「ひいっ!」
困惑しながら振り向けば、先程まで湛えられたにこやかな笑みは消え失せていることに気付く。真顔だ。
それが何を意味するのかなんて考えたくもないが、確実に大佐の機嫌をもう一段悪化させた最たる結果だった。
引かれる後ろ髪なんて一瞬でバッサリと切り落とされた気分だ。もっと言えば丸坊主にされた気分だった。
戻った時には私ってどうなってしまうのかなんて、今は考えたくもない。
***
デートだなんて言うものだから、一体どんな展開が待ち受けているのかと心配していたが、蓋を開けてみればなんてことはない。
二人で市場をぶらつきながら他愛ない話に花を咲かせた。
最近の生活や仕事のこと。好きな食べ物や休日の過ごし方だとか。可愛らしい内容ばかりで、強張っていた顔も自然と緩み、私達の間には和やかな時間が流れていた。
「最近はよく荷運びを手伝うんだ。お前になら任せられるからってオヤジに言われて」
「力持ちなんだねぇ。やっぱり男の子だ」
「当然だろ? 力だって、背だって、いつかあんたを追い越すんだからな!」
任された仕事を自慢気に話す姿に自然と目尻が下がる。
そういえば、少し見ない間に目線の位置が以前よりも高くなった気がしていたけれど、気のせいではなかったようだ。
これからグンと背が伸びて、力がついて、立派な大人に成長していくことだろう。それこそ先程、彼が宣言していた通りに。
これからもそんな彼の姿を見守っていたい。
そう思うのは、きっと保護者の心境に近いのだろう。
「ふふ、頼もしいね。これでお店も安泰だ。さっき、見ていてよく分かったよ。お店のご主人にも信頼されているって」
「ま、まあな!」
「……あの時、あなたと出会えて本当に良かったと思うよ。こうして頑張っている姿を見れたんだから」
今ならわかる。あの日、彼に手を伸ばしたかった理由が。
「ありがとね」
「何であんたが俺に礼なんて言うんだよ。普通逆だろ?」
「……そっか。そうだよね。それでも、ありがとう」
「変なヤツ」と唇を尖らせて半歩前を行く少年は、不意に何かを思い出したように声を上げて此方に向き直る。
「そういえばずっとあんたの名前、聞きたかったんだ!」
私を映すその瞳は、まるで陽の光を映した水面のようにきらきらと揺れていた。
名前一つでそこまで目を輝かせるとは思わず、またして笑みを零す。
「ナマエだよ。ナマエ・カーティス」
「……カーティス? あんたも?」
「そうだよ。大佐は上司だけど……夫でもあるから。私の大切な人なんだ」
「……ふーん」
その光を宿した瞳は、私の言葉を聞いた途端に翳りを落とす。
不機嫌であることを隠そうともせず、そのままそっぽを向いてしまった。
「怒ったの?」
「別に、なんでもねーよ」
「そう?」
何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回していた少年は、とある露店に目を止める。
「どうしたの?」
「ちょっと待ってて」
理由は告げず、私をこの場に置き去りにしたまま一目散に駆け出す。
待てと言われた以上この場を勝手に動くわけにもいかず、人混みに紛れた少年の帰りをポツンと一人で待つが、ふと頭に浮かんだのは、この場にいない大佐のことだった。
私達を送り出す時の真顔を思い出すと身震いしてしまうが、あれが彼の本心なのだと思った。いつも軽薄な笑みの下にひた隠しされた、本当の彼。
今頃、大佐は何をして過ごしているのだろう?残りの見回りを済ませ、ローズさんに挨拶をしている頃だろうか?
改めて思う。離れていても、デート中でも、何をしていても。私の頭の片隅は、いつだってあの人で占められている。
思いを馳せていると、地面を駆ける小気味良い音がだんだんと大きくなり、傍までやってくる。
音がする方へ顔を向けると、肩で息をしながら戻ってきた彼の手には一輪の花が握られていた。
薔薇が一輪。華美な包装はなく、代わりに可愛らしいリボンが茎に結ばれている。
そして、少年はそれを私にずいっと差し出した。あの日と同じように。
「ん!」
「へ?」
「今度こそちゃんと受けとれよ。盗んだわけでも、危ない場所に行ったわけでもない。これは、あの日のお礼。……あんたのおかげだから」
「ふふっ……ありがとう。ませてるねぇ」
「だから、ガキ扱いすんなって!」
“今度こそ”。
その言葉通り彼の手から離れた薔薇は──その真心は、今度こそ私の元へと辿り着く。
受け取るなり、またしても頭をよしよしと豪快に撫で回す。
まるで陽だまりのような暖かな感情が、胸を満たしていた。
***
あれから──。
デートを終えて、店まで送ると伝えても「俺が送るって言ってるだろ!?」と、少年は決して首を縦に振らなかった。
初めは此処でいいと市場で伝えた。そして、お店の前。それから居住地。何度も何度も此処まででいいと首を振っても、彼は傍を離れなかった。
背伸びをする少年のいじらしさを可愛いと思いながらも、正直、子供に送らせる大人ってどうなの?と複雑な心境のまま、村の外れまで戻ってきてしまったのだった。
馬車を停めた門柱の前では視察を終えた大佐が待ち構えていて、視線が重なった瞬間、真顔で私達を送り出した姿が脳裏を過り、思わず縮みあがる。
「じゃ、じゃあ……もう行くね! 送ってくれてありがとう。君も仕事頑張って──」
別れ際、またしても手を掴まれる。
振り払う事など出来るはずもなく……。困惑しながら振り返ると、少年は振り絞るような声で言った。
「なあっ、……また、会える?」
「ええっと……それは──」
言いかけたところで、その問いに答えたのは大佐だった。
「それはどうでしょうか? 彼女は私の妻ですので」
今回の視察で終始傍観の姿勢を貫いていた大佐が、初めて口を挟む。
驚いて傍を仰ぎ見ると、容赦のない眼光が少年を見下ろしていた。
言ってしまえば、相手は二回りも歳の離れた子供だ。そんな子供相手に容赦なく、年甲斐もなく、淡々と告げる大佐はやはり珍しく機嫌が悪い。
どうしたものかと交互に二人の顔を見比べて、この場を収める術を探すが、残念ながら私にはこの状況に割って入るだけのメンタルを持ち合わせていなかった。
彼は前回も花を渡す寸前、大佐によって追い払われた。
今回もまた同じように追い払われる羽目になるのだとばかり思っていたけれど、違っていた。
大佐の威圧に負けじと食らいつく。
「そんなの分かんねーじゃん。離婚するかもしんねーし」
「……」
「り、離婚!? ちょっとやめてよそんな……縁起でもない!」
大佐は少年の発言に一瞬だけ目を細める。
子供の言葉だ。 ただの思いつきでしかない。
それなのに、どうしてだろう。 “離婚”という言葉だけが妙に耳に残った。
慌てて二人の間に入り、取り繕うけれど、そんなものは何の意味もなさない。
目視できなくても、確かに二人の間には火花みたいなものがぶつかり合っている。
「面白い事を言いますね」
大佐は眼鏡を指で押し上げ、やれやれ……と、呆れたようにため息をつく。
「これだから子供は苦手なんです。話が通じないので」
「た、大佐……落ち着いて! 相手は子供ですから、ね!?」
「ええ。私は落ち着いていますよ」
「おい、ナマエ! 子供扱いすんなって何回も言ってるだろ!?」
「いや、実際子供だし……」
不機嫌に頬を膨らませた少年は、私の腕を両手でがっしりと掴む。
そのまま強引に腕を引かれ、体勢を崩した──次の瞬間。頬に柔らかな感触が触れた。
しかも、大佐の目の前で。
大佐相手に働いたその大胆不敵な行為に、またしても私は寿命の縮まる思いをした。
ときめくどころか、ブワッと全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出すようだった。
「じゃーな、ナマエ! くそロン毛眼鏡野郎に飽きたら俺にしろよ!」
「な、なななっ、何言ってんの!?」
とんでもなくませたお子様だ。
こまっしゃくれた子供とは、まさに彼のことだ。
唇が触れた頬を手で覆い隠しながら打ち震える。
真夏の太陽のように眩しい笑顔でニッカリと笑う少年は、そのまま大佐に向かって“あっかんべー”と舌を出し、可愛げの欠片も感じられない別れの挨拶をして、走り去った。
尻尾を巻いて逃げ出した前回に比べ、今回は完全に言い逃げだ。逃げるが勝ち──そんなふうに。
修羅場と呼ぶにこれ以上ないほど相応しい空気を残して。
「あ、あのー……大佐?」
「はは……これはまた、随分と──」
苦笑混じりに吐き出された声に、思わず肩が跳ねる。 笑っているはずなのに、少しも安心できない。
どうしてくれるんだこの空気……。
恐ろしくて、とてもじゃないが大佐の顔を見られなかった。
***
グランコクマへ戻る最中、馬車の中は終始無言で、重苦しい空気に満ちていた。
まだグランコクマまで距離がある。それまでの間、ずっとこのままだなんて耐えられない。
到着する頃には、重苦しい空気に押し潰されて、ぺちゃんこになっていることだろう。
向かいに座り沈黙を貫く大佐は手足を組んで、静かに目を伏せている。こちらを完全にシャットアウトする彼の姿勢を前に、取り付く島もないとはこのことだと途方に暮れた。
面倒事を起こすなと釘を刺されていたにもかかわらず、思い返してみれば、エンゲーブでの私は面倒事しか起こしていない。
彼の機嫌が地に落ちた理由なんて、いくつもあった。
ありすぎて、最早弁解の余地など残されていない。
それでも張り詰めた空気を少しでも和らげようと、一際明るく振る舞いながら、向かいに座る大佐へ声をかける。
「や、やだなー! 最近の子供はませてますよね!? 大佐もそう思いませんか?」
「そうですね」
「……」
「……」
会話終了。またしても車内は居心地の悪い沈黙が流れた。
状況だけで言えば、むしろ悪化したのではないだろうか?
「……怒ってます、よね?」
「いいえ」
「いや、いやいやいや……絶対怒ってるじゃないですかその反応。相手は子供ですよ?」
「ええ。ですから、怒ってなどいませんよ。あなたは私の“補佐官”なのですから。職務を全うしてさえくれれば、口出しするつもりはありません」
「……まあ、今回はそれさえも出来ていませんでしたが」と、嫌味な口調でネチネチと責められる。
そもそもデートの件は、大佐が許可を出したんじゃないか!と、喉まで迫り上がってきたが、堪えて言葉を飲み込んだ。
状況がこれ以上悪化してしまえば、修復にかなりの時間を要しそうだ。
言葉からも伝わるように、大佐は想像以上に機嫌を損ねている。
感情があまり顔に出ないせいで、軽く臍を曲げた程度だと思っていたけれど、事態はかなり深刻なのかもしれない。
「じゃあ、何でそんなに不機嫌なんですか? 任務の事は……すみません。でも、それ以外のことは──」
大佐は私の弁明を最後まで聞かず、遮るように言葉をかぶせる。
眼鏡を押し上げながら「では逆にお聞きしますが」と。
会話までこぎつけられたことは安堵した。けれど、本番はこれからなのだ。
彼の口を衝いて一体どんな嫌味が浴びせられるのか……。
戦々恐々とする私に、大佐は容赦なく言い放つ。
「あなたは、私を怒らせた自覚があるということですか?」
「自覚っていうか、ジェイドが終始不機嫌だったし……もしかして、嫉妬……とか?」
「そんなわけがないでしょう?」
「ははは……ですよねー」
即答だった。
そこには僅かな呆れも滲んでいて、一度でも嫉妬だなんて口にした自分が恥ずかしい。
そもそも、二回りも年の離れた子供相手に、死霊使いと畏怖される彼が嫉妬心を抱くわけがないのだ。
「少々、不愉快だっただけです。“それ”も含めて」
「……」
前言撤回。世間ではそれを嫉妬と呼ぶ。
大佐は、まるでゴミが何かを見るような目で私の手元を見る。
「薔薇はどうにも好きになれません。色々と思う所があるので」と、零した彼の真意は分からない。
薔薇そのものというよりは、薔薇に関連した何かに嫌悪感を抱いているような……。
「それにしても、赤い薔薇を一輪……ですか。随分と懐かれたようですね。それを受け取るあなたもあなたですが」
その言葉はいつもに増して刺々しい。気のせいなんかじゃない。
薔薇に注がれる大佐の視線が、一段と鋭くなったのだから。
「……別に花の一輪くらい、いいじゃないですか」
「その花の意味をご存じですか? ……まあ、あの年頃の少年が花言葉まで理解しているとも思えませんがね」
博識なカーティス大佐は、石言葉だけでなく花言葉にまで知識が及ぶらしい。
私はただ、感謝を示してくれた男の子の気持ちが嬉しいと思って、一輪だけ手渡してくれた姿が可愛らしくて──その思いが込められた薔薇だったからこそ受け取った。
花を受け取る理由なんて所詮はその程度だと思う。それ以上なんてない。
ましてや花言葉だなんて気にしたこともなかった。
「あのー、ちなみに花言葉って?」
「“一目惚れ”ですよ」
「…………ゴメンナサイ」
完全にやらかした。墓穴を掘った。
花言葉なんて興味本位で尋ねるべきではなかったと後悔したところで、悪化した空気をどうにか出来るわけでもない。
今何かを口走れば拗れる予感しかしなかった。つまりは、八方塞がり。
「おや、謝罪するということは、少なくともやましい事があると受け取ってよろしいですか?」
「滅相もございません!!」
やましい事など断じてない。市場を見て回って他愛ない話をしただけだ。
最早、大佐の機嫌をとる術は何も浮かんでこなかった。
「あの、どうすれば機嫌を直してくれるのかなーって、思ったり……」
「さあ? ご自分で考えてみてはいかがですか?」
正直、この状況で何をしても全て裏目に出てしまいそうでならないが、だからといって何もしないという選択肢は残念ながら残されていない。
意を決して、向かい合わせの座席から立ち上がり、大佐の横に座り直す。
そして、自分より高い位置にある頭をぎこちなく撫でると、大佐は固まった。
それもそのはず。この歳になって、普段は頭を撫でる側である彼が、頭を撫でられる側に回った。
大佐にとってそれは想定外も甚だしい行為だったのだろう。
「…………これには、一体どういった意図が?」
「えっと……ご機嫌取り?」
かと言って直接的な解決策は見出せておらず、一周回って子供をあやす方法で機嫌を取ろうと試みてしまった。つまりは苦し紛れだ。
「もう結構です」
「……でも、拗ねてるじゃないですか」
「ですから、拗ねていなどませんと何度も──っ」
身を乗り出し、頬へ触れるだけのキスを落とす。
大佐は、再び驚いたように目を見開いて言葉を失った。
恥ずかしさのあまり真っ赤に染まった顔を隠すように胸板へと身を埋める。
そのままぎゅうっと抱きついた。
こんなふうに抱き付いて顔を隠してしまわなければ、自分の気持ちも満足に吐き出せない。
「……ジェイド、ごめんなさい。だけど、ちゃんと伝えたよ? ジェイドは上司ってだけじゃなくて、私の大切な夫なんだよって」
「……」
「抱きしめるのも、キスをするのも……全部、ジェイドだけがいい」
頭上から小さなため息が降ってくる。
「まったく……」と溢した言葉は僅かに柔らかで、つられて顔を上げると、いつも私だけに向けてくれる穏やかな笑みがこちらを見下ろしていた。
「そのわりに、頬へキスを許していたようですが?」
「あれは突然だったから拒めなかっただけで……!」
「それで、お詫びのキスですか?」
「……わ、悪いですか?」
「いいえ?」
大佐は、自身に巻き付いた腕を解きながら双眸を細める。
「ですが、残念ながらそれでは少々足りませんね──」
腰に腕を回される。力強く引き寄せられたかと思うと、背後で少々乱暴に閉められたカーテンの音が耳朶に響いた。
顎を掬い上げられて鼻先が触れた瞬間、堪らず声を上げる。
「ちょっと! ……まさか、こんな所で!?」
「……ええ。こんな場所だからこそ、この程度で済ませているんですよ?」
「──っ!」
私を射竦める爛れた瞳に劣情の色を見た。
途端に、ゾクリと体の芯が疼いて熱を帯びる。
「ま、待って! ジェイド……っ」
「待ちません……焚き付けたのはあなたです」
顎を掬った指先が滑り降りて喉元をゆるりとなぞる。
それだけで、心の奥の深い場所を溶かされるような気がして戸惑ってしまう。こんな事は初めてだ。
──私は、一体どうしてしまったんだろう?
「私の機嫌を取ってくれるのでしょう?」
「は、い……でも……」
「では、もう黙ってください──」
その言葉を最後に、呼吸ごと奪われるような口づけが落とされる。
熱を孕んだ眼差しを思い出すだけで、縋るように掴んだ軍服に力が籠もらなくなる。
「……ん、はぁ……」
機嫌を直してほしかった。
ただ、それだけだったはずなのに。
「……っ、ぁ……ジェイ、ド」
「! ……本当に困った人ですね、あなたは」
唇が離れた途端、追い縋るように名前を呼んでいた。
欲張りな私の心を見透かしたように、吐息交じりに吐き出された言葉と共に再び唇が重ねられた。
少し前まで、この腕に抱きしめられるだけで十分だった。触れるだけのキスで、名前を呼ばれるだけで。
それなのに、もっと触れて欲しいだなんて──無意識にその先を求める自分がいる。
私の知らない自分自身がそこには存在しているようで、少しだけ恐ろしかった。
20260605
グランコクマから軍用の馬車に揺られて辿り着いたのは、食料の村エンゲーブ。
この場所を訪れるのは久し振りだ。もしかすると“あの時”以来ではないだろうか?
村の入り口付近に馬車を待たせ、ランタンが掛けられた門柱を抜けると広大な穀倉地帯が私達を迎える。
国境から遠いこともあり、牧歌的なこの村はいつ訪れてもゆったりとした時間が流れているようだった。
居住地を通り過ぎ、村の中心部へ向かうにつれて、のどかだった雰囲気は徐々に活気を帯びてゆく。
行き交う荷馬車に商人達の威勢のいい声。市場は今日も大賑わいだ。
流石は世界中の食料が集まる場所である。
国内だけでなく他国への輸出も担うこの村は、定期的な状況確認も欠かせない。
つまり、私達がこうして歩いているのも立派なお仕事というわけだ。
「ただの視察だというのに、珍しく上機嫌ですね」
「はい! 久し振りに執務室以外の空気を吸った気がします……」
ここ最近の、執務室に缶詰状態だった日々に思いを馳せる。
勿論そこに感情など存在せず、疲労だけが浮き彫りになるようだ。
「最近は毎日毎日、誰かさんが書類整理ばかり押し付けてくるからー」
「おや、一体誰でしょうね?」
「大佐でしょ!?」
「はいはい。だからこうして連れ出しているのでしょう?」
それに、今日は大佐と二人だし……なんて事は、口に出さないでおこう。
あくまで、仕事として訪れているんだもの。
「そういう大佐は……あまり乗り気じゃなさそうですね?」
下から顔を覗き込むようにして尋ねると、大佐はわざとらしくため息をつく。
目は口ほどに物を言う。此方を見やる赤い瞳は“良いですね、あなたはお気楽で”と語りかけてくるようだ。
「一体、誰のせいだと?」
「はい?」
真意が伝わっていないと分かると、大佐は今一度深い息を吐き出す。しかも先程より大袈裟で長ったらしい。
「ちょっと! 人の顔を見ながらため息をつくのやめてもらえます!?」
「それはこちらのセリフですよ。“今回は”くれぐれも面倒事を起こさないでくださいね」
「面倒事?」
あたかも、私が大佐に迷惑をかけたかのような口振りだ。
前回エンゲーブを訪れた際、大佐に迷惑をかけた事──ああ、そういえば。
不意に当時の記憶が脳内に流れ込んでくる。
思い当たる節と言えば一点だけあるけれど、あれは迷惑という程の事だっただろうか?
むしろ、大佐がと言うよりも、被害者は私自身だったはずだ。
塵一つ出てこないほど財布をすっからかんにされたあの一件は。
以前訪れた時と変わらない活気と賑わいに包まれている市場を見て回る最中、一角で足を止めた。
その場所は、スリ被害で一悶着あった例の店の前。
そして、その店先で見知った姿を見つけた途端、思わず声を上げる。
「あー!!」
店番をしていた少年も、此方に気が付いて駆け寄ってくる。
「もしかして、君……あの時の!?」
「おう!」
「ここで働いてるの?」
「まーな。簡単な仕事だけど」
胸を張り、誇らしげに答える彼の姿はあまりに見違えていた。
数ヶ月前、痩せ細った体躯でリンゴを盗んで逃げていた少年とはとても思えない。
「うっそ……!」
「まぁ……あんたと約束したし」
真っ当に生きると誓った私との約束を、少年は律儀に守り続けていた。
骨が浮き出ていた四肢もしっかりと肉が付き、顔つきもどこか精悍さを増している。
こんなにも嬉しいことはない。人はいつからでもやり直せるということを、目の前の年端のいかない少年が体現してみせたのだから。
「うん……うん……! 偉いよー!」
あの日、世間から爪弾きにされたこの子を諦めたくなくて、手を伸ばした。
その選択は、決して間違いではなかったのだ。
胸に込み上げるものを堪えきれず、思わず両手で少年の頭を撫でる。
髪をかき混ぜるように撫でくり回すと、擽ったそうにしながら私の手を払いのけた。
「ちょ、やめろよ……! 子供扱いするな!」
「ふふっ、何言ってんのー? 子供でしょ!」
数歩後ろで控える大佐は、私達のやり取りに割り込むでも口を挟むでもなく、ただ静かに眺めている。
その視線に気付いた少年は、大佐の姿を視界に捉えた途端、あからさまに顔を顰める。
「げぇ……あいつも居る」
「どうも。“くそロン毛眼鏡野郎”も一緒ですみません」
「っ、んふ……ちょっと、大佐……」
大佐も彼のことをしっかりと覚えていて、そして、しっかりと根に持っていた。
自ら進んでにこやかに名乗るところは実に大佐らしい。その嫌味な物言いは、子供相手でも容赦がない。
「なあ、何であいつも一緒なんだよ?」
「そりゃ一緒だよ。私は彼の補佐官だもん」
「ふーん。あんたの“じょーし”ってヤツ?」
「まあ……そうだね。うん、上司だよ」
ニコリと一笑する大佐の心境はますます分からない。
けれど、大佐は静かに微笑む時ほど恐ろしい。わずかに張り詰めた場の空気からは、それが確かに伝わってくるようだった。
「お! あんたらか、久し振りだな。今回も視察かい?」
張り詰めた空気に息苦しささえ感じていた時だ。
タイミングよく店主が戻ってきたおかげで、ようやく満足に息が出来た気がする。
「ええ。あなたも店もお変わりないようで」
「お陰様で人手も増えたからな。手広くやらせてもらってるよ」
そう言って、店主は少年の頭をポンと叩くと、私の姿を視界に捉え「あんたのお陰だな」と歯を覗かせて笑う。
その言葉が何よりも嬉しい。そして、彼に居場所が出来た事が。
(本当によかった……)
「なあ、オヤジ。そろそろ休憩に入ってもいいだろ?」
「ああ。かまわねぇよ」
少年は、やった!と年相応の可愛らしい笑顔を浮かべたかと思うと、突然私の手を取る。
私と大佐は驚いたように目を剥いた。
「俺、ちゃんとあんたとの約束守っただろ? だから、ご褒美にデートしろ」
「え゛!?」
突然の事で言葉に詰まる。
私は今、仕事でエンゲーブを訪れている。大佐の補佐官として付き従わなければならない以上、デートだなんて職務放棄も甚だしい。
少年の強請るような眼差しに「う゛」と呻く。
なんて真っ直ぐで無垢な眼差しなのだろう。誰かさんとは正反対だ。
許可を得ると言うよりは、助けを求めるに近い。複雑な面持ちで大佐を見やると、彼は無言のまま相変わらず笑顔を湛えていた。
笑っている。ニッコニコだ。それが余計に恐ろしく、そして当然ながらその笑顔は心からのものではないと知っている。
つまり、彼は今──不機嫌極まりないということ。
(だ、駄目だ……さっさと断らないと……)
「いやぁー、それは流石に……ごめんね、やっぱりデートには行けないかな……一応、仕事で来てるから」
「えー!?」
「ね? 大佐」
不服だとばかりに声を上げる少年に、どうしたものかと頭を抱えていると、ずっと押し黙ったまま様子を窺っていた大佐が漸く口を開いた。
「構いませんよ? 補佐官としての仕事はここまでで結構です。どうぞ、存分に“デート”を楽しんで来てください」
「え、ええー……」
予想外だ。まさか大佐が許可を出すなんて。
前回、何があろうと花を受け取らせなかった時のように容赦なく突っぱねるのだとばかり──ああ、そうか。
ここで漸く大佐が乗り気でなかった理由に見当がついた。正直、そんな理由で機嫌を悪くする人ではないと思っていたのだけれど。
決心がつかないまま動けずにいると、思い切り手を引かれる。
そのまま走り出す様は、まるで大佐のもとから私を掻っ攫っていくような絵面だ。
「早く行こうぜ! オッサンもいいって言ってんだから」
「こら! オッサンじゃなくて、カーティス大佐ね!?」
「はいはい、カーティス大佐ぁー」
複雑な気持ちで腕を引かれる。後ろ髪を引かれる──というのは、少し違うかもしれないが。
いくら大佐が許可をくれたからと言って、仕事を放り出してデートに洒落込むだなんて本当に良かったのだろうか?
私は選択を誤ってしまったんじゃないかって──。
「ひいっ!」
困惑しながら振り向けば、先程まで湛えられたにこやかな笑みは消え失せていることに気付く。真顔だ。
それが何を意味するのかなんて考えたくもないが、確実に大佐の機嫌をもう一段悪化させた最たる結果だった。
引かれる後ろ髪なんて一瞬でバッサリと切り落とされた気分だ。もっと言えば丸坊主にされた気分だった。
戻った時には私ってどうなってしまうのかなんて、今は考えたくもない。
***
デートだなんて言うものだから、一体どんな展開が待ち受けているのかと心配していたが、蓋を開けてみればなんてことはない。
二人で市場をぶらつきながら他愛ない話に花を咲かせた。
最近の生活や仕事のこと。好きな食べ物や休日の過ごし方だとか。可愛らしい内容ばかりで、強張っていた顔も自然と緩み、私達の間には和やかな時間が流れていた。
「最近はよく荷運びを手伝うんだ。お前になら任せられるからってオヤジに言われて」
「力持ちなんだねぇ。やっぱり男の子だ」
「当然だろ? 力だって、背だって、いつかあんたを追い越すんだからな!」
任された仕事を自慢気に話す姿に自然と目尻が下がる。
そういえば、少し見ない間に目線の位置が以前よりも高くなった気がしていたけれど、気のせいではなかったようだ。
これからグンと背が伸びて、力がついて、立派な大人に成長していくことだろう。それこそ先程、彼が宣言していた通りに。
これからもそんな彼の姿を見守っていたい。
そう思うのは、きっと保護者の心境に近いのだろう。
「ふふ、頼もしいね。これでお店も安泰だ。さっき、見ていてよく分かったよ。お店のご主人にも信頼されているって」
「ま、まあな!」
「……あの時、あなたと出会えて本当に良かったと思うよ。こうして頑張っている姿を見れたんだから」
今ならわかる。あの日、彼に手を伸ばしたかった理由が。
「ありがとね」
「何であんたが俺に礼なんて言うんだよ。普通逆だろ?」
「……そっか。そうだよね。それでも、ありがとう」
「変なヤツ」と唇を尖らせて半歩前を行く少年は、不意に何かを思い出したように声を上げて此方に向き直る。
「そういえばずっとあんたの名前、聞きたかったんだ!」
私を映すその瞳は、まるで陽の光を映した水面のようにきらきらと揺れていた。
名前一つでそこまで目を輝かせるとは思わず、またして笑みを零す。
「ナマエだよ。ナマエ・カーティス」
「……カーティス? あんたも?」
「そうだよ。大佐は上司だけど……夫でもあるから。私の大切な人なんだ」
「……ふーん」
その光を宿した瞳は、私の言葉を聞いた途端に翳りを落とす。
不機嫌であることを隠そうともせず、そのままそっぽを向いてしまった。
「怒ったの?」
「別に、なんでもねーよ」
「そう?」
何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回していた少年は、とある露店に目を止める。
「どうしたの?」
「ちょっと待ってて」
理由は告げず、私をこの場に置き去りにしたまま一目散に駆け出す。
待てと言われた以上この場を勝手に動くわけにもいかず、人混みに紛れた少年の帰りをポツンと一人で待つが、ふと頭に浮かんだのは、この場にいない大佐のことだった。
私達を送り出す時の真顔を思い出すと身震いしてしまうが、あれが彼の本心なのだと思った。いつも軽薄な笑みの下にひた隠しされた、本当の彼。
今頃、大佐は何をして過ごしているのだろう?残りの見回りを済ませ、ローズさんに挨拶をしている頃だろうか?
改めて思う。離れていても、デート中でも、何をしていても。私の頭の片隅は、いつだってあの人で占められている。
思いを馳せていると、地面を駆ける小気味良い音がだんだんと大きくなり、傍までやってくる。
音がする方へ顔を向けると、肩で息をしながら戻ってきた彼の手には一輪の花が握られていた。
薔薇が一輪。華美な包装はなく、代わりに可愛らしいリボンが茎に結ばれている。
そして、少年はそれを私にずいっと差し出した。あの日と同じように。
「ん!」
「へ?」
「今度こそちゃんと受けとれよ。盗んだわけでも、危ない場所に行ったわけでもない。これは、あの日のお礼。……あんたのおかげだから」
「ふふっ……ありがとう。ませてるねぇ」
「だから、ガキ扱いすんなって!」
“今度こそ”。
その言葉通り彼の手から離れた薔薇は──その真心は、今度こそ私の元へと辿り着く。
受け取るなり、またしても頭をよしよしと豪快に撫で回す。
まるで陽だまりのような暖かな感情が、胸を満たしていた。
***
あれから──。
デートを終えて、店まで送ると伝えても「俺が送るって言ってるだろ!?」と、少年は決して首を縦に振らなかった。
初めは此処でいいと市場で伝えた。そして、お店の前。それから居住地。何度も何度も此処まででいいと首を振っても、彼は傍を離れなかった。
背伸びをする少年のいじらしさを可愛いと思いながらも、正直、子供に送らせる大人ってどうなの?と複雑な心境のまま、村の外れまで戻ってきてしまったのだった。
馬車を停めた門柱の前では視察を終えた大佐が待ち構えていて、視線が重なった瞬間、真顔で私達を送り出した姿が脳裏を過り、思わず縮みあがる。
「じゃ、じゃあ……もう行くね! 送ってくれてありがとう。君も仕事頑張って──」
別れ際、またしても手を掴まれる。
振り払う事など出来るはずもなく……。困惑しながら振り返ると、少年は振り絞るような声で言った。
「なあっ、……また、会える?」
「ええっと……それは──」
言いかけたところで、その問いに答えたのは大佐だった。
「それはどうでしょうか? 彼女は私の妻ですので」
今回の視察で終始傍観の姿勢を貫いていた大佐が、初めて口を挟む。
驚いて傍を仰ぎ見ると、容赦のない眼光が少年を見下ろしていた。
言ってしまえば、相手は二回りも歳の離れた子供だ。そんな子供相手に容赦なく、年甲斐もなく、淡々と告げる大佐はやはり珍しく機嫌が悪い。
どうしたものかと交互に二人の顔を見比べて、この場を収める術を探すが、残念ながら私にはこの状況に割って入るだけのメンタルを持ち合わせていなかった。
彼は前回も花を渡す寸前、大佐によって追い払われた。
今回もまた同じように追い払われる羽目になるのだとばかり思っていたけれど、違っていた。
大佐の威圧に負けじと食らいつく。
「そんなの分かんねーじゃん。離婚するかもしんねーし」
「……」
「り、離婚!? ちょっとやめてよそんな……縁起でもない!」
大佐は少年の発言に一瞬だけ目を細める。
子供の言葉だ。 ただの思いつきでしかない。
それなのに、どうしてだろう。 “離婚”という言葉だけが妙に耳に残った。
慌てて二人の間に入り、取り繕うけれど、そんなものは何の意味もなさない。
目視できなくても、確かに二人の間には火花みたいなものがぶつかり合っている。
「面白い事を言いますね」
大佐は眼鏡を指で押し上げ、やれやれ……と、呆れたようにため息をつく。
「これだから子供は苦手なんです。話が通じないので」
「た、大佐……落ち着いて! 相手は子供ですから、ね!?」
「ええ。私は落ち着いていますよ」
「おい、ナマエ! 子供扱いすんなって何回も言ってるだろ!?」
「いや、実際子供だし……」
不機嫌に頬を膨らませた少年は、私の腕を両手でがっしりと掴む。
そのまま強引に腕を引かれ、体勢を崩した──次の瞬間。頬に柔らかな感触が触れた。
しかも、大佐の目の前で。
大佐相手に働いたその大胆不敵な行為に、またしても私は寿命の縮まる思いをした。
ときめくどころか、ブワッと全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出すようだった。
「じゃーな、ナマエ! くそロン毛眼鏡野郎に飽きたら俺にしろよ!」
「な、なななっ、何言ってんの!?」
とんでもなくませたお子様だ。
こまっしゃくれた子供とは、まさに彼のことだ。
唇が触れた頬を手で覆い隠しながら打ち震える。
真夏の太陽のように眩しい笑顔でニッカリと笑う少年は、そのまま大佐に向かって“あっかんべー”と舌を出し、可愛げの欠片も感じられない別れの挨拶をして、走り去った。
尻尾を巻いて逃げ出した前回に比べ、今回は完全に言い逃げだ。逃げるが勝ち──そんなふうに。
修羅場と呼ぶにこれ以上ないほど相応しい空気を残して。
「あ、あのー……大佐?」
「はは……これはまた、随分と──」
苦笑混じりに吐き出された声に、思わず肩が跳ねる。 笑っているはずなのに、少しも安心できない。
どうしてくれるんだこの空気……。
恐ろしくて、とてもじゃないが大佐の顔を見られなかった。
***
グランコクマへ戻る最中、馬車の中は終始無言で、重苦しい空気に満ちていた。
まだグランコクマまで距離がある。それまでの間、ずっとこのままだなんて耐えられない。
到着する頃には、重苦しい空気に押し潰されて、ぺちゃんこになっていることだろう。
向かいに座り沈黙を貫く大佐は手足を組んで、静かに目を伏せている。こちらを完全にシャットアウトする彼の姿勢を前に、取り付く島もないとはこのことだと途方に暮れた。
面倒事を起こすなと釘を刺されていたにもかかわらず、思い返してみれば、エンゲーブでの私は面倒事しか起こしていない。
彼の機嫌が地に落ちた理由なんて、いくつもあった。
ありすぎて、最早弁解の余地など残されていない。
それでも張り詰めた空気を少しでも和らげようと、一際明るく振る舞いながら、向かいに座る大佐へ声をかける。
「や、やだなー! 最近の子供はませてますよね!? 大佐もそう思いませんか?」
「そうですね」
「……」
「……」
会話終了。またしても車内は居心地の悪い沈黙が流れた。
状況だけで言えば、むしろ悪化したのではないだろうか?
「……怒ってます、よね?」
「いいえ」
「いや、いやいやいや……絶対怒ってるじゃないですかその反応。相手は子供ですよ?」
「ええ。ですから、怒ってなどいませんよ。あなたは私の“補佐官”なのですから。職務を全うしてさえくれれば、口出しするつもりはありません」
「……まあ、今回はそれさえも出来ていませんでしたが」と、嫌味な口調でネチネチと責められる。
そもそもデートの件は、大佐が許可を出したんじゃないか!と、喉まで迫り上がってきたが、堪えて言葉を飲み込んだ。
状況がこれ以上悪化してしまえば、修復にかなりの時間を要しそうだ。
言葉からも伝わるように、大佐は想像以上に機嫌を損ねている。
感情があまり顔に出ないせいで、軽く臍を曲げた程度だと思っていたけれど、事態はかなり深刻なのかもしれない。
「じゃあ、何でそんなに不機嫌なんですか? 任務の事は……すみません。でも、それ以外のことは──」
大佐は私の弁明を最後まで聞かず、遮るように言葉をかぶせる。
眼鏡を押し上げながら「では逆にお聞きしますが」と。
会話までこぎつけられたことは安堵した。けれど、本番はこれからなのだ。
彼の口を衝いて一体どんな嫌味が浴びせられるのか……。
戦々恐々とする私に、大佐は容赦なく言い放つ。
「あなたは、私を怒らせた自覚があるということですか?」
「自覚っていうか、ジェイドが終始不機嫌だったし……もしかして、嫉妬……とか?」
「そんなわけがないでしょう?」
「ははは……ですよねー」
即答だった。
そこには僅かな呆れも滲んでいて、一度でも嫉妬だなんて口にした自分が恥ずかしい。
そもそも、二回りも年の離れた子供相手に、死霊使いと畏怖される彼が嫉妬心を抱くわけがないのだ。
「少々、不愉快だっただけです。“それ”も含めて」
「……」
前言撤回。世間ではそれを嫉妬と呼ぶ。
大佐は、まるでゴミが何かを見るような目で私の手元を見る。
「薔薇はどうにも好きになれません。色々と思う所があるので」と、零した彼の真意は分からない。
薔薇そのものというよりは、薔薇に関連した何かに嫌悪感を抱いているような……。
「それにしても、赤い薔薇を一輪……ですか。随分と懐かれたようですね。それを受け取るあなたもあなたですが」
その言葉はいつもに増して刺々しい。気のせいなんかじゃない。
薔薇に注がれる大佐の視線が、一段と鋭くなったのだから。
「……別に花の一輪くらい、いいじゃないですか」
「その花の意味をご存じですか? ……まあ、あの年頃の少年が花言葉まで理解しているとも思えませんがね」
博識なカーティス大佐は、石言葉だけでなく花言葉にまで知識が及ぶらしい。
私はただ、感謝を示してくれた男の子の気持ちが嬉しいと思って、一輪だけ手渡してくれた姿が可愛らしくて──その思いが込められた薔薇だったからこそ受け取った。
花を受け取る理由なんて所詮はその程度だと思う。それ以上なんてない。
ましてや花言葉だなんて気にしたこともなかった。
「あのー、ちなみに花言葉って?」
「“一目惚れ”ですよ」
「…………ゴメンナサイ」
完全にやらかした。墓穴を掘った。
花言葉なんて興味本位で尋ねるべきではなかったと後悔したところで、悪化した空気をどうにか出来るわけでもない。
今何かを口走れば拗れる予感しかしなかった。つまりは、八方塞がり。
「おや、謝罪するということは、少なくともやましい事があると受け取ってよろしいですか?」
「滅相もございません!!」
やましい事など断じてない。市場を見て回って他愛ない話をしただけだ。
最早、大佐の機嫌をとる術は何も浮かんでこなかった。
「あの、どうすれば機嫌を直してくれるのかなーって、思ったり……」
「さあ? ご自分で考えてみてはいかがですか?」
正直、この状況で何をしても全て裏目に出てしまいそうでならないが、だからといって何もしないという選択肢は残念ながら残されていない。
意を決して、向かい合わせの座席から立ち上がり、大佐の横に座り直す。
そして、自分より高い位置にある頭をぎこちなく撫でると、大佐は固まった。
それもそのはず。この歳になって、普段は頭を撫でる側である彼が、頭を撫でられる側に回った。
大佐にとってそれは想定外も甚だしい行為だったのだろう。
「…………これには、一体どういった意図が?」
「えっと……ご機嫌取り?」
かと言って直接的な解決策は見出せておらず、一周回って子供をあやす方法で機嫌を取ろうと試みてしまった。つまりは苦し紛れだ。
「もう結構です」
「……でも、拗ねてるじゃないですか」
「ですから、拗ねていなどませんと何度も──っ」
身を乗り出し、頬へ触れるだけのキスを落とす。
大佐は、再び驚いたように目を見開いて言葉を失った。
恥ずかしさのあまり真っ赤に染まった顔を隠すように胸板へと身を埋める。
そのままぎゅうっと抱きついた。
こんなふうに抱き付いて顔を隠してしまわなければ、自分の気持ちも満足に吐き出せない。
「……ジェイド、ごめんなさい。だけど、ちゃんと伝えたよ? ジェイドは上司ってだけじゃなくて、私の大切な夫なんだよって」
「……」
「抱きしめるのも、キスをするのも……全部、ジェイドだけがいい」
頭上から小さなため息が降ってくる。
「まったく……」と溢した言葉は僅かに柔らかで、つられて顔を上げると、いつも私だけに向けてくれる穏やかな笑みがこちらを見下ろしていた。
「そのわりに、頬へキスを許していたようですが?」
「あれは突然だったから拒めなかっただけで……!」
「それで、お詫びのキスですか?」
「……わ、悪いですか?」
「いいえ?」
大佐は、自身に巻き付いた腕を解きながら双眸を細める。
「ですが、残念ながらそれでは少々足りませんね──」
腰に腕を回される。力強く引き寄せられたかと思うと、背後で少々乱暴に閉められたカーテンの音が耳朶に響いた。
顎を掬い上げられて鼻先が触れた瞬間、堪らず声を上げる。
「ちょっと! ……まさか、こんな所で!?」
「……ええ。こんな場所だからこそ、この程度で済ませているんですよ?」
「──っ!」
私を射竦める爛れた瞳に劣情の色を見た。
途端に、ゾクリと体の芯が疼いて熱を帯びる。
「ま、待って! ジェイド……っ」
「待ちません……焚き付けたのはあなたです」
顎を掬った指先が滑り降りて喉元をゆるりとなぞる。
それだけで、心の奥の深い場所を溶かされるような気がして戸惑ってしまう。こんな事は初めてだ。
──私は、一体どうしてしまったんだろう?
「私の機嫌を取ってくれるのでしょう?」
「は、い……でも……」
「では、もう黙ってください──」
その言葉を最後に、呼吸ごと奪われるような口づけが落とされる。
熱を孕んだ眼差しを思い出すだけで、縋るように掴んだ軍服に力が籠もらなくなる。
「……ん、はぁ……」
機嫌を直してほしかった。
ただ、それだけだったはずなのに。
「……っ、ぁ……ジェイ、ド」
「! ……本当に困った人ですね、あなたは」
唇が離れた途端、追い縋るように名前を呼んでいた。
欲張りな私の心を見透かしたように、吐息交じりに吐き出された言葉と共に再び唇が重ねられた。
少し前まで、この腕に抱きしめられるだけで十分だった。触れるだけのキスで、名前を呼ばれるだけで。
それなのに、もっと触れて欲しいだなんて──無意識にその先を求める自分がいる。
私の知らない自分自身がそこには存在しているようで、少しだけ恐ろしかった。
20260605