甘やかな劣情を飼い殺す*
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物音一つ聞こえない寝室は、先程までの騒がしさがまるで嘘のように静まり返っていた。
薄闇の中、仄かな灯りが手元を照らし、書類の文字をぼんやりと浮かび上がらせる。
持ち帰った仕事は他にもいくつか残っていたが、眠ったナマエをベッドに残して書斎に籠る気にはなれず、手を付けていたものだけを持ち出した。
寝室には仕事を持ち込まない主義だ。
けれど、今回ばかりは──。
ふと、手元の書類から傍へ視線を滑らせる。
私にも、ままならない感情というものは存在するらしい。 今はどうにも、彼女から離れがたい──そんな人間臭い感情が。
無意識に伸ばした指先で顔に掛かった髪を掬い上げる。 仄かな灯りの下で眠るその横顔は、年齢よりもずっと幼く見えた。
誰の邪魔も入らない、二人きりの緩やかな時間が流れているにもかかわらず、その寝顔を見つめていると、脳内に彼女の言葉が流れ込んでくる。
『だって……私に魅力が無いから、抱いてくれないんでしょ?』
何故、そんな言葉が彼女の口を衝いたのか未だに理解出来ない。心外だった。
そんなふうに悩ませていた事実も。
そして、その悩みを私より先に他人が知っていた事も。
そればかりではない。
近頃は、男共が向ける分かりやすい視線にも気付かない彼女の鈍さに頭を抱えている。
あれだけ分かりやすい視線と態度に、全く気付かないわけもないだろうに……。
しかし、彼女は自分自身に対して少々無頓着な一面があるのは事実。
そのくせ誰にでも公平で、分け隔てなく手を差し伸べる心持ちと、太陽のような眩しい笑顔を振りまく──嗚呼、実に厄介だ。
先日の看護兵の手伝いで起きた現象が最たるものだった。
その度に私が一体どれほど心を腐らせているのか彼女は知らない。
傍らで眠るナマエは、私の苦心など知らず安らかな寝息を立てている。いつものように四肢を豪快に投げ出して。
とてもじゃないが、つい先程まで夫を誘惑していた妻の姿には到底思えず、すっかり毒気を抜かれてしまった。
サイドテーブルの照明に手を伸ばし、消灯する。
体を横たえると、傍らからは「んむー……」と小さな呻き声が聞こえた。
その声に誘われて目を向けると、此方に寝返りをうった彼女の姿がある。
眼前に晒された姿は肩紐が中途半端にずれ落ちて、胸元は大きく開き、谷間が覗いている。
思わず目を奪われる。縫い付けられたように視線を逸らせなかった。
そういったところは私も男なのだと実感するが、一拍置いて我に返るなり、長ったらしいため息を落とした。
「そういった格好をするのなら、せめて最後まで覚悟を決めてからにしてもらいたいものです」
当然、私の言葉は熟睡中の彼女には届かない。
あの後すぐに着替えさせなかった事を後悔しつつ、はだけた布団を掛け直してやる。
改めて彼女の格好を見れば、あのまま感情に押し流されて、一思いに抱いてしまう選択肢もあっただろう。
だが、私を踏み止まらせた最たる理由は、今回の一件に陛下の息が掛かっていると知ったからに他ならない。癪だと思ってしまったのだ。
どうにもこの格好を見ると、余計な世話を焼く事にかけては天才的な皇帝陛下の顔が脳裏を過る。
ええ、私は捻くれていますので。
お膳立てをされれば、その膳をひっくり返さずにはいられない性分なのだ。
眠る彼女の髪を梳くように触れ、そのまま滑り下ろした手で柔らかな頬を包み込む。
滑らかで、吸い付くような肌の柔らかな感触が掌に広がる。
「……ん……じぇ、ど……」
どうやら寝言らしい。けれども、寝言であっても彼女の口から自分の名前を聞くのは悪くないものだ。
伏せられた瞼は瞳を隠したまま私の姿を映すことはしないが、まるで猫のように頬に添えた掌へ擦り寄ってくる。
一瞬呼吸を忘れた。指先だけがピクリと僅かに動く。
思いがけない行動に目を瞬かせ、自然と口元が緩む。
眉を下げ、フッと笑みを零した。
こうも安心しきった様子で眠られると、それはそれで男としては複雑だ。
……いや、複雑なのは結局の所、対極に座す私の理性と本能なのかもしれないが。
「確かに、あなたを待つことには慣れていますが、ね……」
待つ事と平気である事は、また別の話だ。私にも欲はある。
次こそは誰に唆されるでもなく、あなたの意思で私を求めてほしい──。
「まったく……意地らしい妻を持ったものですよ。こういう時ばかり無防備なのですから」
苦笑混じりに独りごちて、額に触れるだけの口付けを落とす。
華奢な体を抱いて目を閉じると、誘われるままに、ゆるりと眠りに落ちていった。
***
「昨夜はどうだった?」
翌日、朝一番に私を私室に呼びつけたこの男は、得意げに口元を釣り上げながら開口一番そう言った。
分かってはいたが、やはりそういう事だったらしい。ナマエを焚きつけ、唆した黒幕の正体は。
「陛下、昨夜は余計なお気遣いを頂き、ありがとうございました。あれは実にあなた好みの品性の欠片も感じられない代物でしたね。これを機に皇帝として品性の一つでも身に付けてはいかがですか?」
いつものようにニコリと笑って、嫌味という嫌味を一息で吐き出す。
「おいおい、随分と機嫌が悪いな。それで? 勿論、上手くいったんだろう?」
「さあ? どうでしょうか」
親友と括られるのは心外だが、互いに勝手知ったる仲であることは事実。陛下は、その一言で全てを理解したようだった。
期待外れだとばかりに、どっかりとソファーに腰を下ろし、口をへの字に曲げてふんぞり返る。
「ったく……あれだけお膳立てしてやったってのに」
「そんな事を頼んだ覚えはないのですがねぇ」
「大体、惚れた女が横で無防備に寝てるってのに手を出さんとはなぁ……お前は仙人か?」
「まあ、少なくともあなたとは違いますので。それに──」
軽薄な笑みを浮かべたまま、言葉を返す。
余計な手出しは不要だと、軽口の合間に本心を滲ませながら。
「どうにもあなたに据えられた膳だと思うと、ついうっかりひっくり返してしまいました」
「相変わらずいい性格をしているな」
「お褒めに与り光栄です」
何しろ、欲しいものほど囲いたくなる性分なもので。
そこに“それ以外”など必要ない。
彼女の世界においての唯一は──私だけでいいのだ。
20260529
薄闇の中、仄かな灯りが手元を照らし、書類の文字をぼんやりと浮かび上がらせる。
持ち帰った仕事は他にもいくつか残っていたが、眠ったナマエをベッドに残して書斎に籠る気にはなれず、手を付けていたものだけを持ち出した。
寝室には仕事を持ち込まない主義だ。
けれど、今回ばかりは──。
ふと、手元の書類から傍へ視線を滑らせる。
私にも、ままならない感情というものは存在するらしい。 今はどうにも、彼女から離れがたい──そんな人間臭い感情が。
無意識に伸ばした指先で顔に掛かった髪を掬い上げる。 仄かな灯りの下で眠るその横顔は、年齢よりもずっと幼く見えた。
誰の邪魔も入らない、二人きりの緩やかな時間が流れているにもかかわらず、その寝顔を見つめていると、脳内に彼女の言葉が流れ込んでくる。
『だって……私に魅力が無いから、抱いてくれないんでしょ?』
何故、そんな言葉が彼女の口を衝いたのか未だに理解出来ない。心外だった。
そんなふうに悩ませていた事実も。
そして、その悩みを私より先に他人が知っていた事も。
そればかりではない。
近頃は、男共が向ける分かりやすい視線にも気付かない彼女の鈍さに頭を抱えている。
あれだけ分かりやすい視線と態度に、全く気付かないわけもないだろうに……。
しかし、彼女は自分自身に対して少々無頓着な一面があるのは事実。
そのくせ誰にでも公平で、分け隔てなく手を差し伸べる心持ちと、太陽のような眩しい笑顔を振りまく──嗚呼、実に厄介だ。
先日の看護兵の手伝いで起きた現象が最たるものだった。
その度に私が一体どれほど心を腐らせているのか彼女は知らない。
傍らで眠るナマエは、私の苦心など知らず安らかな寝息を立てている。いつものように四肢を豪快に投げ出して。
とてもじゃないが、つい先程まで夫を誘惑していた妻の姿には到底思えず、すっかり毒気を抜かれてしまった。
サイドテーブルの照明に手を伸ばし、消灯する。
体を横たえると、傍らからは「んむー……」と小さな呻き声が聞こえた。
その声に誘われて目を向けると、此方に寝返りをうった彼女の姿がある。
眼前に晒された姿は肩紐が中途半端にずれ落ちて、胸元は大きく開き、谷間が覗いている。
思わず目を奪われる。縫い付けられたように視線を逸らせなかった。
そういったところは私も男なのだと実感するが、一拍置いて我に返るなり、長ったらしいため息を落とした。
「そういった格好をするのなら、せめて最後まで覚悟を決めてからにしてもらいたいものです」
当然、私の言葉は熟睡中の彼女には届かない。
あの後すぐに着替えさせなかった事を後悔しつつ、はだけた布団を掛け直してやる。
改めて彼女の格好を見れば、あのまま感情に押し流されて、一思いに抱いてしまう選択肢もあっただろう。
だが、私を踏み止まらせた最たる理由は、今回の一件に陛下の息が掛かっていると知ったからに他ならない。癪だと思ってしまったのだ。
どうにもこの格好を見ると、余計な世話を焼く事にかけては天才的な皇帝陛下の顔が脳裏を過る。
ええ、私は捻くれていますので。
お膳立てをされれば、その膳をひっくり返さずにはいられない性分なのだ。
眠る彼女の髪を梳くように触れ、そのまま滑り下ろした手で柔らかな頬を包み込む。
滑らかで、吸い付くような肌の柔らかな感触が掌に広がる。
「……ん……じぇ、ど……」
どうやら寝言らしい。けれども、寝言であっても彼女の口から自分の名前を聞くのは悪くないものだ。
伏せられた瞼は瞳を隠したまま私の姿を映すことはしないが、まるで猫のように頬に添えた掌へ擦り寄ってくる。
一瞬呼吸を忘れた。指先だけがピクリと僅かに動く。
思いがけない行動に目を瞬かせ、自然と口元が緩む。
眉を下げ、フッと笑みを零した。
こうも安心しきった様子で眠られると、それはそれで男としては複雑だ。
……いや、複雑なのは結局の所、対極に座す私の理性と本能なのかもしれないが。
「確かに、あなたを待つことには慣れていますが、ね……」
待つ事と平気である事は、また別の話だ。私にも欲はある。
次こそは誰に唆されるでもなく、あなたの意思で私を求めてほしい──。
「まったく……意地らしい妻を持ったものですよ。こういう時ばかり無防備なのですから」
苦笑混じりに独りごちて、額に触れるだけの口付けを落とす。
華奢な体を抱いて目を閉じると、誘われるままに、ゆるりと眠りに落ちていった。
***
「昨夜はどうだった?」
翌日、朝一番に私を私室に呼びつけたこの男は、得意げに口元を釣り上げながら開口一番そう言った。
分かってはいたが、やはりそういう事だったらしい。ナマエを焚きつけ、唆した黒幕の正体は。
「陛下、昨夜は余計なお気遣いを頂き、ありがとうございました。あれは実にあなた好みの品性の欠片も感じられない代物でしたね。これを機に皇帝として品性の一つでも身に付けてはいかがですか?」
いつものようにニコリと笑って、嫌味という嫌味を一息で吐き出す。
「おいおい、随分と機嫌が悪いな。それで? 勿論、上手くいったんだろう?」
「さあ? どうでしょうか」
親友と括られるのは心外だが、互いに勝手知ったる仲であることは事実。陛下は、その一言で全てを理解したようだった。
期待外れだとばかりに、どっかりとソファーに腰を下ろし、口をへの字に曲げてふんぞり返る。
「ったく……あれだけお膳立てしてやったってのに」
「そんな事を頼んだ覚えはないのですがねぇ」
「大体、惚れた女が横で無防備に寝てるってのに手を出さんとはなぁ……お前は仙人か?」
「まあ、少なくともあなたとは違いますので。それに──」
軽薄な笑みを浮かべたまま、言葉を返す。
余計な手出しは不要だと、軽口の合間に本心を滲ませながら。
「どうにもあなたに据えられた膳だと思うと、ついうっかりひっくり返してしまいました」
「相変わらずいい性格をしているな」
「お褒めに与り光栄です」
何しろ、欲しいものほど囲いたくなる性分なもので。
そこに“それ以外”など必要ない。
彼女の世界においての唯一は──私だけでいいのだ。
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