手練手管を御覧じろ
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第三師団師団長補佐官。
これが私に与えられている正式な役職だけれど、それだけに留まっていないのが現状である。
大佐の補佐として付き従い、書類整理などの執務にあたるのは勿論のこと、最近ではそれに加えて第三師団内の潤滑油的な役割も担っている。
兵士達にとって、やはり大佐は近寄り難い存在のようで、気付けば兵士達の相談や大佐との橋渡しであるとか──謂わば第三師団内の相談窓口のような立ち位置になっていた。
その他にも、第七音譜師である私は他師団の任務に治癒師として随伴する事もあれば、時には貴族院などで忙しいガイに代わってブウサギの散歩も請け負う。
中には仕事と呼ぶには怪しいものもあるけれど……とにかく、私は実に多くの役割を担い、日々様々な仕事をこなしている。
つまり私は、とっても働き者なのだ。えらいでしょう?
「はい、もう大丈夫ですよ。お大事に」
「ありがとうございます。お世話になりました」
そして今回、私はまた一つ新たな肩書きを手に入れた──それはズバリ『医務室所属の看護兵』。
“白衣の天使”とは私のことだ。
そもそも何故、こんな事になっているのか──その原因は、基地内で蔓延している季節的な流行病だ。
それに伴い感染者の治療にあたっていた看護兵達も感染してしまい、現在は療養中。
そんな中、人手不足の問題を解消するにあたって治癒師である私に白羽の矢が立ったというわけだ。
軽い治療であれば任務先でいつもやっている事だし、私でも何かの役に立てるのなら断る理由もない。
「はい、今日はどうされましたか?」
「演習中に怪我をしまして……。すみません、この程度の切り傷で……」
「いいえ、軽度でも切創は軽視しては駄目なんですよ。傷口から細菌が入って感染症にかかってしまう恐れもありますから」
「すぐに治しますからね」と笑いかけ、向かいに座る兵士の腕に手をかざして治癒術を発動させる。
柔らかな光が傷口を包み込んで、光の収束と共に傷口は塞がり、腕にあった裂傷は綺麗さっぱり消えて無くなった。
「ありがとうございます。ナマエさん」
「どういたしまして。怪我をしたらまたいつでも来てください。演習頑張ってくださいね」
「はい!」
医師の資格を持たない私が手伝えるのは、治癒師として比較的軽度の傷の手当てと解毒くらいだ。
けれど、こうして医務室を訪れる兵士は後を絶たない。
この仕事を引き受けて初めて、軍医や看護兵達が置かれている現状を把握した。
「はぁ……」
退室する兵士を見送って、大きく伸びをする。
無意識のうちに溢れるため息が、一人きりの医務室にぽつりと響く。
椅子の背もたれに身を預け、ぼんやりと無機質な天井を眺めた。
この役目が決して嫌だとも、面倒だとも思わない。
けれど、忙しい。とにかく忙しい。
連日この調子で一息入れる間もないのだもの。
次々と治療を求めて医務室を訪れる兵士の対応。それから、件の病で療養中の人々の看病。時間も人手も全然足りていない。
「……帰りたい」
気を抜くと、つい本音が漏れてしまう。
帰りたい。嫌味で、不器用ながらに温かいあの人が待つあの家に。
そしてまた、休憩する間もなく小気味よいノック音が室内に響いて患者の来訪を知らせる。
背もたれから上体を起こし、ノックに応えた。
「はい、どうぞー」
静かに開いた扉に視線を向けた途端、患者を迎える柔らかな笑みは何事もなかったかのように引っ込んだ。
真顔に戻った私を気にする様子もなく、彼はいつも通り美しい顔に胡散臭い笑みを貼り付けながら、さも当然のように向かいの椅子へ腰掛ける。
「連日大盛況ですねぇ、“白衣の天使”さん?」
鷹揚に構え、嫌味ったらしい台詞を吐く“愛しの旦那様”と顔を合わせたのは、実に三日振りの事だった。
夫婦でありながら、嬉しさよりも嫌気が先立ってしまうなんて、流石は私達といったところだろうか。
たった今、帰りたいなんて零しておいて。
大佐も捻くれた人だと思うが、私も同じようなものだ。夫婦似た者同士ということで。
「場所を間違えていらっしゃるのでは? どうぞお帰りください。お大事にー」
「おや、患者に対して門前払いですか? 白衣の天使が聞いて呆れますね」
「いや、見るからに怪我してないし。此処は医務室なんですけど?」
大佐は、やれやれと肩を竦め、手袋を外す。
右手の人差し指をピンと立てて、にこやかな笑みを浮かべた。
「不注意で指を切りました」
「いや、それくらい舐めとけば治りますから。お大事にー」
目は口ほどに物を言う。まさか、その程度の傷で私に治癒術を使わせるつもりなのかと言わんばかりに、じっとりとした視線を投げる。
けれど、大佐に引き下がる様子は見られず、椅子に腰掛けたままだ。
後が控えているのだから、正直この程度の傷であれば早々に退室願いたい。
この調子では今夜も帰宅は叶わず、医務室に泊まり込む羽目になってしまいそうだ。
いい加減、仮眠用の固いベッドは飽きてきた。
寝起きは体のあちこちが痛むし、薬品の匂いで満ちた医務室では熟睡できない。
寝室の上等なベッドで、朝までぐっすり眠って疲れを癒したいのが本音だった。
仕方がないとため息をついて棚から軟膏を取り出し、大佐の元へ戻ると、その笑顔が少し陰っているように見て取れたのは……気のせいだろうか?
「私が此処に来なければ、あなたはいつまでも顔を見せないでしょう?」
医務室に泊まり込むようになって三日──今日で実質四日目だ。
久し振りに、しっかりと大佐の顔を見た気がする。
忙しいんです、と口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
陰った笑顔も、かけられた言葉も、全て偽りではないと知り、椅子に腰掛ける大佐をそっと抱きしめる。
彼との時間を蔑ろにしていたつもりはなかった。
しかし、顔を合わせたのが久し振りだったこともまた事実。
大佐は黙って、私を膝の上に乗せた。
促されるままに座ったはいいが、これはこれで何とも気恥ずかしいものだ。
重くないのかな?とか、腕は首に回すべき?とか。
そんな事ばかり考えてしまう。
「し、仕方ないですね……じゃあ、十分だけ。後が控えてるんだから」
「後が控えていると言いながら、この程度の怪我で訪れる兵士達ばかりなのでは?」
「……まあ、そうかも?」
この程度とはつまり、自分のように到底怪我とは呼べない、舐めておけば治るくらいの傷を指しているのだろう。
それにしても、何で大佐がそんな事まで把握しているのだろうか?
一人前の兵士もそうだが、比較的軽傷者が多いと感じていた。中には治療ではなく、わざわざ礼を言う為に訪ねてきた者もいた。
正直、この程度で?と首を傾げたくもなるけれど、私は単純だから感謝されれば嬉しいし、頼りにされれば張り切ってしまう。
誰かの役に立てているという実感は、不思議と自分の価値を肯定された心地になる。
忙しくはあるものの、この仕事にはなんだかんだやり甲斐を感じていた。
「いちいち、この程度の傷で受け入れるあなたもあなたですよ。そんな事をしているから、連日泊まり込む羽目になるのでは?」
「わ、分かってますよ。でも、訪ねてきた人を無下には出来ないっていうか……。中には本当に治療が必要な人もいるんです」
「ですが、そんな兵士はほんの一握り。違いますか?」
「それは……違わないけど。でも、全員を追い返すなんて出来るわけないし……」
大佐はいつも正しい。
組織の上に立つ者として規律と効率を重んじるのは当然で、私も見習うべき姿勢なのだろう。
分かってはいるけれど、だからといって軽傷で訪ねてきた兵士全員を門前払いするというのは、少し違うと私は思う。
今回ばかりは彼の言葉に頷けなかった。
ずっとこの状態が続くようなら、流石に指先を切った程度の怪我では追い返してしまうかもしれないけれど……。
「……あなたは、本当に誰にでも手を差し伸べるんですね」
穏やかな声色だった。
けれど何故だろう? その瞬間だけ、空気がひやりと冷えた気がしたのは……。
「お人好しにも程があります」
「う゛ぅ」
「睡眠時間を削ってまで取り組む価値があるとは到底思えません」
「そこまで言わなくても」
「隈が出来ていますよ。……きちんと休めていないのでしょう?」
「……別に、これくらい平気です」
その言葉で、漸く彼が此処を訪れた理由を理解した。
揶揄う為でも、嫌味を言いに来たわけでもない。
彼だって暇ではないのに、わざわざ時間を割いて私の顔を見に来てくれた。大佐なりの気遣いだったのだ。
そして、私の元を訪れることは、彼の中で時間を割くに値する事柄だった。
その事実に、凝り固まった体も、心も、じんわりと解れていく。
「三日です」
「はい?」
「あなたがこの仕事を引き受けてから、もう三日屋敷に戻ってきていない」
思わず固まってしまった。
その言葉達は、あまりに彼らしくない。
つまり──
「……え、拗ねてる?」
まさか、あの大佐が?
たかが三日、屋敷を留守にしただけで?
顔色こそ普段と変わらないが、そこには明らかな不調和が漂っていた。
意外な発見だ。こんな時に不謹慎かもしれないが、この程度で臍を曲げる大佐があまりに珍しく、つい揶揄うような言い方になってしまう。
「へぇー……この程度で拗ねるなんて、大佐も可愛いところがあるんですね」
いつも揶揄われてばかりだった立場が、逆転する日がやってくるなんて誰が想像しただろう?
けれど、相手が大佐だということを忘れてはならない。出し抜けた事など一度も無かったことを、失念してはならない。
「寂しいなら最初からそう言ってくれればいいのに──へ?」
ニッコリと笑う大佐は、甚く上機嫌だった。
……嫌な予感がする。そう思った時には既に遅かった。
体を支えるように軽く添えられたはずの手が、いつの間にか腰回りにしっかりと纏わりついている。いや、これはガッシリだろうか?
この時を待っていた。決して逃さない。回された腕からは、そんな意思すら感じられる。
「ではさっそく、臍を曲げた夫の機嫌をとって頂きましょうか?」
「ええ!?」
含みをもった笑みが私を見上げる。
その瞬間、最初から彼はこうすることが目的だったのだと遅ればせながらに気が付いた。もう遅いけれど。
一瞬のうちに逃げ場を失い、主導権も全て奪い返されてしまった。
結局はこうなる。落ち着くところに落ち着いたというわけだ。
「し、仕事中です!」
「此処を訪れたのですから、私も患者ですよ?」
「そんなの屁理屈です! たったその程度の怪我で……!」
体を捻ってみても、腰に回された腕が解かれる気配はない。
「眼鏡を外していただけますか? 生憎と手が塞がっていまして」
「……っ、なんで治療に眼鏡を外す必要があるんですか?」
恋人として──今では夫婦として、眼鏡を外すことの意味を知ってしまった。その後、どうなってしまうのかも。
無意識にその先を想像してしまい、喉が鳴る。
戸惑いながらも、震える指先は眼鏡のツルに伸びていた。
カチャリと小さく眼鏡が音を立てて外れる。
赤い瞳に見つめられ、心臓が淡い音を立てた。
声が、息遣いが、触れる手が──ゆっくりと私の理性を解いてゆく。
「では、さっそく治療をお願い出来ますか?」
「へ?」
突然、甘い雰囲気を断つかのように、指先を私の目の前に差し出す。
手に持ったままになっていた軟膏を塗れという事だろうか?
「……ああ、失礼。この程度、舐めておけば治るのでしたね」
「? ええ、そうですよ」
「では、よろしくお願いします」
「……は?」
戸惑う私の唇に、指先を押し当てる。
にこやかな笑みが、冗談のようで決して冗談ではないのだと語りかけてくるようだ。
「な、舐めろってこと!?」
「ええ、是非。あなたが言った事ですよ? ご自身の言葉には責任を持って頂かないと」
「んなっ!?」
眼鏡越しではなく、焼かれるような深紅の双眸に直接射抜かれれば、拒めるはずもない。だからと言って、拒否したところで解放してもらえるとも到底思えなかった。
「……っ」
控えめに出した舌先を、おずおずと指に絡める。
これでいいだろうと期待を込めた眼差しで見上げると、細められた双眸には熱が滲んでいた。
とても解放される気配ではない。
ゾクリと背筋が粟立った瞬間、指が唇を割って口内に押し沈められる。
「──んう!?」
異物が口内に差し入れられる違和感に驚いて、手に持っていた軟膏が転がり落ち、カツンと床を叩いて転がった。
確かに舐めておけばいいと言った。
けれど、他人の口を使って実行に移すとは露ほども思わない。
唇を割り、無遠慮に差し入れられた指は、ぐちゅ、と故意に音を立てるように口内を掻き回す。
逃げ惑う舌に何度も指先を絡められ、口の中で蠢く異物に息苦しさを感じた。
拒みたくても指に歯を立ててしまいそうで完全には拒めきれない。
羞恥に揺れる私の反応を、大佐は面白がるように眺めている。
「……ふ、ぅ……んん」
逃げる舌を絡め取るように掻き混ぜ、内壁を撫でつけ、擽るように口蓋を擦り上げる。
その度に、ピクリと身体が震え、吐息交じりの声が唇から零れ落ちた。
じわりと浮かぶ涙の幕で、楽しげに歪む美しい顔がぼやける。
「嫌そうな顔をしていた割に……随分と素直ですね」
「ん、ぅ……はぁ……ふ……っ、」
纏わりつくような低音が耳朶に響き、背筋が震えた。
酸素を求めて唇を開くと、飲み込めなかった唾液が口角から溢れ、顎を伝う。
好き勝手に蠢いていた指が、漸く引き抜かれたと思った瞬間、直ぐさま唇を深く奪われた。
散々指で慣らされた口内は、捩じ込まれた舌を難なく受け入れる。
普段の余裕を失くしたような口付けは、やっぱり彼らしくない。
「……っ、はぁ……ナマエ──」
「んぅ……は、ぁ……」
吐息交じりに名前を呼ばれ、首元へ回した腕に力が籠もる。
まるで、触れていなかった時間を埋めるように、何度も角度を変えて夢中で口付けを交わした。
名残惜しく離れた唇には、まだ熱の余韻が残っている。
けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
今は仕事中で、扉の外では兵士達が列を成して順番を待っているのだ。
「今夜は何としてでもあなたを連れて帰ります。よろしいですね?」
「は、はい……。でも、どうするんですか? まだ沢山怪我人が……」
大佐は顎に手を添えて「ふむ」と呟くと、私を膝から下ろす。
室内に彷徨わせていた視線が一点で止まる。ハンガーに掛かっていた白衣に手を伸ばしたかと思うと、なんの躊躇もなくそれに袖を通した。
これほどまでに白衣を着こなす人間を、私は知らない。
驚く程に自然で、似合う以外の言葉が見当たらなかった。
その分、胡散臭さも倍になってしまったが……似合うのにヤブ医者感が拭えないのは何故だろう?
大佐はそのまま扉を開け、上半身を覗かせながら和やかな声音で言った。
「さあ、皆さん。ここからは私が特別に診察して差し上げますよ。安心してください。医師免許は“一応”取得していますので」
その瞬間、部屋の外がざわついた。
「ああ……それと、怪我人でなくとも構いませんよ? 丁度、献体も探していたところですから」
底黒い笑顔とトドメの一言で、ざわつきは悲鳴に変わり、兵士達は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「片付きましたね。少し早いですが……まあ、いいでしょう。今日はもう帰りましょうか」
「……ア、ハイ」
ああ、なんて恐ろしいのだろう。
散って行った兵士と同様に、私もその笑顔に慄いたのは言葉にするまでもなかった。
20260517
これが私に与えられている正式な役職だけれど、それだけに留まっていないのが現状である。
大佐の補佐として付き従い、書類整理などの執務にあたるのは勿論のこと、最近ではそれに加えて第三師団内の潤滑油的な役割も担っている。
兵士達にとって、やはり大佐は近寄り難い存在のようで、気付けば兵士達の相談や大佐との橋渡しであるとか──謂わば第三師団内の相談窓口のような立ち位置になっていた。
その他にも、第七音譜師である私は他師団の任務に治癒師として随伴する事もあれば、時には貴族院などで忙しいガイに代わってブウサギの散歩も請け負う。
中には仕事と呼ぶには怪しいものもあるけれど……とにかく、私は実に多くの役割を担い、日々様々な仕事をこなしている。
つまり私は、とっても働き者なのだ。えらいでしょう?
「はい、もう大丈夫ですよ。お大事に」
「ありがとうございます。お世話になりました」
そして今回、私はまた一つ新たな肩書きを手に入れた──それはズバリ『医務室所属の看護兵』。
“白衣の天使”とは私のことだ。
そもそも何故、こんな事になっているのか──その原因は、基地内で蔓延している季節的な流行病だ。
それに伴い感染者の治療にあたっていた看護兵達も感染してしまい、現在は療養中。
そんな中、人手不足の問題を解消するにあたって治癒師である私に白羽の矢が立ったというわけだ。
軽い治療であれば任務先でいつもやっている事だし、私でも何かの役に立てるのなら断る理由もない。
「はい、今日はどうされましたか?」
「演習中に怪我をしまして……。すみません、この程度の切り傷で……」
「いいえ、軽度でも切創は軽視しては駄目なんですよ。傷口から細菌が入って感染症にかかってしまう恐れもありますから」
「すぐに治しますからね」と笑いかけ、向かいに座る兵士の腕に手をかざして治癒術を発動させる。
柔らかな光が傷口を包み込んで、光の収束と共に傷口は塞がり、腕にあった裂傷は綺麗さっぱり消えて無くなった。
「ありがとうございます。ナマエさん」
「どういたしまして。怪我をしたらまたいつでも来てください。演習頑張ってくださいね」
「はい!」
医師の資格を持たない私が手伝えるのは、治癒師として比較的軽度の傷の手当てと解毒くらいだ。
けれど、こうして医務室を訪れる兵士は後を絶たない。
この仕事を引き受けて初めて、軍医や看護兵達が置かれている現状を把握した。
「はぁ……」
退室する兵士を見送って、大きく伸びをする。
無意識のうちに溢れるため息が、一人きりの医務室にぽつりと響く。
椅子の背もたれに身を預け、ぼんやりと無機質な天井を眺めた。
この役目が決して嫌だとも、面倒だとも思わない。
けれど、忙しい。とにかく忙しい。
連日この調子で一息入れる間もないのだもの。
次々と治療を求めて医務室を訪れる兵士の対応。それから、件の病で療養中の人々の看病。時間も人手も全然足りていない。
「……帰りたい」
気を抜くと、つい本音が漏れてしまう。
帰りたい。嫌味で、不器用ながらに温かいあの人が待つあの家に。
そしてまた、休憩する間もなく小気味よいノック音が室内に響いて患者の来訪を知らせる。
背もたれから上体を起こし、ノックに応えた。
「はい、どうぞー」
静かに開いた扉に視線を向けた途端、患者を迎える柔らかな笑みは何事もなかったかのように引っ込んだ。
真顔に戻った私を気にする様子もなく、彼はいつも通り美しい顔に胡散臭い笑みを貼り付けながら、さも当然のように向かいの椅子へ腰掛ける。
「連日大盛況ですねぇ、“白衣の天使”さん?」
鷹揚に構え、嫌味ったらしい台詞を吐く“愛しの旦那様”と顔を合わせたのは、実に三日振りの事だった。
夫婦でありながら、嬉しさよりも嫌気が先立ってしまうなんて、流石は私達といったところだろうか。
たった今、帰りたいなんて零しておいて。
大佐も捻くれた人だと思うが、私も同じようなものだ。夫婦似た者同士ということで。
「場所を間違えていらっしゃるのでは? どうぞお帰りください。お大事にー」
「おや、患者に対して門前払いですか? 白衣の天使が聞いて呆れますね」
「いや、見るからに怪我してないし。此処は医務室なんですけど?」
大佐は、やれやれと肩を竦め、手袋を外す。
右手の人差し指をピンと立てて、にこやかな笑みを浮かべた。
「不注意で指を切りました」
「いや、それくらい舐めとけば治りますから。お大事にー」
目は口ほどに物を言う。まさか、その程度の傷で私に治癒術を使わせるつもりなのかと言わんばかりに、じっとりとした視線を投げる。
けれど、大佐に引き下がる様子は見られず、椅子に腰掛けたままだ。
後が控えているのだから、正直この程度の傷であれば早々に退室願いたい。
この調子では今夜も帰宅は叶わず、医務室に泊まり込む羽目になってしまいそうだ。
いい加減、仮眠用の固いベッドは飽きてきた。
寝起きは体のあちこちが痛むし、薬品の匂いで満ちた医務室では熟睡できない。
寝室の上等なベッドで、朝までぐっすり眠って疲れを癒したいのが本音だった。
仕方がないとため息をついて棚から軟膏を取り出し、大佐の元へ戻ると、その笑顔が少し陰っているように見て取れたのは……気のせいだろうか?
「私が此処に来なければ、あなたはいつまでも顔を見せないでしょう?」
医務室に泊まり込むようになって三日──今日で実質四日目だ。
久し振りに、しっかりと大佐の顔を見た気がする。
忙しいんです、と口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
陰った笑顔も、かけられた言葉も、全て偽りではないと知り、椅子に腰掛ける大佐をそっと抱きしめる。
彼との時間を蔑ろにしていたつもりはなかった。
しかし、顔を合わせたのが久し振りだったこともまた事実。
大佐は黙って、私を膝の上に乗せた。
促されるままに座ったはいいが、これはこれで何とも気恥ずかしいものだ。
重くないのかな?とか、腕は首に回すべき?とか。
そんな事ばかり考えてしまう。
「し、仕方ないですね……じゃあ、十分だけ。後が控えてるんだから」
「後が控えていると言いながら、この程度の怪我で訪れる兵士達ばかりなのでは?」
「……まあ、そうかも?」
この程度とはつまり、自分のように到底怪我とは呼べない、舐めておけば治るくらいの傷を指しているのだろう。
それにしても、何で大佐がそんな事まで把握しているのだろうか?
一人前の兵士もそうだが、比較的軽傷者が多いと感じていた。中には治療ではなく、わざわざ礼を言う為に訪ねてきた者もいた。
正直、この程度で?と首を傾げたくもなるけれど、私は単純だから感謝されれば嬉しいし、頼りにされれば張り切ってしまう。
誰かの役に立てているという実感は、不思議と自分の価値を肯定された心地になる。
忙しくはあるものの、この仕事にはなんだかんだやり甲斐を感じていた。
「いちいち、この程度の傷で受け入れるあなたもあなたですよ。そんな事をしているから、連日泊まり込む羽目になるのでは?」
「わ、分かってますよ。でも、訪ねてきた人を無下には出来ないっていうか……。中には本当に治療が必要な人もいるんです」
「ですが、そんな兵士はほんの一握り。違いますか?」
「それは……違わないけど。でも、全員を追い返すなんて出来るわけないし……」
大佐はいつも正しい。
組織の上に立つ者として規律と効率を重んじるのは当然で、私も見習うべき姿勢なのだろう。
分かってはいるけれど、だからといって軽傷で訪ねてきた兵士全員を門前払いするというのは、少し違うと私は思う。
今回ばかりは彼の言葉に頷けなかった。
ずっとこの状態が続くようなら、流石に指先を切った程度の怪我では追い返してしまうかもしれないけれど……。
「……あなたは、本当に誰にでも手を差し伸べるんですね」
穏やかな声色だった。
けれど何故だろう? その瞬間だけ、空気がひやりと冷えた気がしたのは……。
「お人好しにも程があります」
「う゛ぅ」
「睡眠時間を削ってまで取り組む価値があるとは到底思えません」
「そこまで言わなくても」
「隈が出来ていますよ。……きちんと休めていないのでしょう?」
「……別に、これくらい平気です」
その言葉で、漸く彼が此処を訪れた理由を理解した。
揶揄う為でも、嫌味を言いに来たわけでもない。
彼だって暇ではないのに、わざわざ時間を割いて私の顔を見に来てくれた。大佐なりの気遣いだったのだ。
そして、私の元を訪れることは、彼の中で時間を割くに値する事柄だった。
その事実に、凝り固まった体も、心も、じんわりと解れていく。
「三日です」
「はい?」
「あなたがこの仕事を引き受けてから、もう三日屋敷に戻ってきていない」
思わず固まってしまった。
その言葉達は、あまりに彼らしくない。
つまり──
「……え、拗ねてる?」
まさか、あの大佐が?
たかが三日、屋敷を留守にしただけで?
顔色こそ普段と変わらないが、そこには明らかな不調和が漂っていた。
意外な発見だ。こんな時に不謹慎かもしれないが、この程度で臍を曲げる大佐があまりに珍しく、つい揶揄うような言い方になってしまう。
「へぇー……この程度で拗ねるなんて、大佐も可愛いところがあるんですね」
いつも揶揄われてばかりだった立場が、逆転する日がやってくるなんて誰が想像しただろう?
けれど、相手が大佐だということを忘れてはならない。出し抜けた事など一度も無かったことを、失念してはならない。
「寂しいなら最初からそう言ってくれればいいのに──へ?」
ニッコリと笑う大佐は、甚く上機嫌だった。
……嫌な予感がする。そう思った時には既に遅かった。
体を支えるように軽く添えられたはずの手が、いつの間にか腰回りにしっかりと纏わりついている。いや、これはガッシリだろうか?
この時を待っていた。決して逃さない。回された腕からは、そんな意思すら感じられる。
「ではさっそく、臍を曲げた夫の機嫌をとって頂きましょうか?」
「ええ!?」
含みをもった笑みが私を見上げる。
その瞬間、最初から彼はこうすることが目的だったのだと遅ればせながらに気が付いた。もう遅いけれど。
一瞬のうちに逃げ場を失い、主導権も全て奪い返されてしまった。
結局はこうなる。落ち着くところに落ち着いたというわけだ。
「し、仕事中です!」
「此処を訪れたのですから、私も患者ですよ?」
「そんなの屁理屈です! たったその程度の怪我で……!」
体を捻ってみても、腰に回された腕が解かれる気配はない。
「眼鏡を外していただけますか? 生憎と手が塞がっていまして」
「……っ、なんで治療に眼鏡を外す必要があるんですか?」
恋人として──今では夫婦として、眼鏡を外すことの意味を知ってしまった。その後、どうなってしまうのかも。
無意識にその先を想像してしまい、喉が鳴る。
戸惑いながらも、震える指先は眼鏡のツルに伸びていた。
カチャリと小さく眼鏡が音を立てて外れる。
赤い瞳に見つめられ、心臓が淡い音を立てた。
声が、息遣いが、触れる手が──ゆっくりと私の理性を解いてゆく。
「では、さっそく治療をお願い出来ますか?」
「へ?」
突然、甘い雰囲気を断つかのように、指先を私の目の前に差し出す。
手に持ったままになっていた軟膏を塗れという事だろうか?
「……ああ、失礼。この程度、舐めておけば治るのでしたね」
「? ええ、そうですよ」
「では、よろしくお願いします」
「……は?」
戸惑う私の唇に、指先を押し当てる。
にこやかな笑みが、冗談のようで決して冗談ではないのだと語りかけてくるようだ。
「な、舐めろってこと!?」
「ええ、是非。あなたが言った事ですよ? ご自身の言葉には責任を持って頂かないと」
「んなっ!?」
眼鏡越しではなく、焼かれるような深紅の双眸に直接射抜かれれば、拒めるはずもない。だからと言って、拒否したところで解放してもらえるとも到底思えなかった。
「……っ」
控えめに出した舌先を、おずおずと指に絡める。
これでいいだろうと期待を込めた眼差しで見上げると、細められた双眸には熱が滲んでいた。
とても解放される気配ではない。
ゾクリと背筋が粟立った瞬間、指が唇を割って口内に押し沈められる。
「──んう!?」
異物が口内に差し入れられる違和感に驚いて、手に持っていた軟膏が転がり落ち、カツンと床を叩いて転がった。
確かに舐めておけばいいと言った。
けれど、他人の口を使って実行に移すとは露ほども思わない。
唇を割り、無遠慮に差し入れられた指は、ぐちゅ、と故意に音を立てるように口内を掻き回す。
逃げ惑う舌に何度も指先を絡められ、口の中で蠢く異物に息苦しさを感じた。
拒みたくても指に歯を立ててしまいそうで完全には拒めきれない。
羞恥に揺れる私の反応を、大佐は面白がるように眺めている。
「……ふ、ぅ……んん」
逃げる舌を絡め取るように掻き混ぜ、内壁を撫でつけ、擽るように口蓋を擦り上げる。
その度に、ピクリと身体が震え、吐息交じりの声が唇から零れ落ちた。
じわりと浮かぶ涙の幕で、楽しげに歪む美しい顔がぼやける。
「嫌そうな顔をしていた割に……随分と素直ですね」
「ん、ぅ……はぁ……ふ……っ、」
纏わりつくような低音が耳朶に響き、背筋が震えた。
酸素を求めて唇を開くと、飲み込めなかった唾液が口角から溢れ、顎を伝う。
好き勝手に蠢いていた指が、漸く引き抜かれたと思った瞬間、直ぐさま唇を深く奪われた。
散々指で慣らされた口内は、捩じ込まれた舌を難なく受け入れる。
普段の余裕を失くしたような口付けは、やっぱり彼らしくない。
「……っ、はぁ……ナマエ──」
「んぅ……は、ぁ……」
吐息交じりに名前を呼ばれ、首元へ回した腕に力が籠もる。
まるで、触れていなかった時間を埋めるように、何度も角度を変えて夢中で口付けを交わした。
名残惜しく離れた唇には、まだ熱の余韻が残っている。
けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
今は仕事中で、扉の外では兵士達が列を成して順番を待っているのだ。
「今夜は何としてでもあなたを連れて帰ります。よろしいですね?」
「は、はい……。でも、どうするんですか? まだ沢山怪我人が……」
大佐は顎に手を添えて「ふむ」と呟くと、私を膝から下ろす。
室内に彷徨わせていた視線が一点で止まる。ハンガーに掛かっていた白衣に手を伸ばしたかと思うと、なんの躊躇もなくそれに袖を通した。
これほどまでに白衣を着こなす人間を、私は知らない。
驚く程に自然で、似合う以外の言葉が見当たらなかった。
その分、胡散臭さも倍になってしまったが……似合うのにヤブ医者感が拭えないのは何故だろう?
大佐はそのまま扉を開け、上半身を覗かせながら和やかな声音で言った。
「さあ、皆さん。ここからは私が特別に診察して差し上げますよ。安心してください。医師免許は“一応”取得していますので」
その瞬間、部屋の外がざわついた。
「ああ……それと、怪我人でなくとも構いませんよ? 丁度、献体も探していたところですから」
底黒い笑顔とトドメの一言で、ざわつきは悲鳴に変わり、兵士達は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「片付きましたね。少し早いですが……まあ、いいでしょう。今日はもう帰りましょうか」
「……ア、ハイ」
ああ、なんて恐ろしいのだろう。
散って行った兵士と同様に、私もその笑顔に慄いたのは言葉にするまでもなかった。
20260517