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「はぁ……」
せっかくの非番だというのに、私の口を衝いて出るのは重苦しいため息ばかりだ。
ため息は幸せが逃げるなんてよく言ったものだけれど、きっとここ数日間で私は一生分の幸せを逃がしている。
目的もなく雑踏に紛れ、城下を歩く。
とくに今は宮殿に居ても息が詰まるだけで、ならば少しでも気晴らしになればと城下を散策するが、それもさして効果はないようだった。
だって、この場所は二年前、私と大佐が再会した場所だから。
宮殿にいても、執務室にいても、こうして城下を歩いていても──何処へ行っても、結局、思考の先には大佐がいる。
本当に当時の私はろくでもなかったが、少しくらいマシな人間になれたのだろうか?
今一度、ため息をついた時、肩が何かとぶつかってよろけてしまう。
「──わっ」
「おっと、悪い! 大丈夫か?」
とっさに伸びた手が二の腕を掴み、私の体を支えてくれる。
二の腕を掴む力強い手の感触よりも、頭上から降る聞き覚えのある低音に驚いて、慌てて振り仰ぐ。
身を隠すように目深に被られたマントから僅かに溢れ出る鮮やかな金糸の髪に、浅黒い肌。澄んだ蒼穹を思わせる青い瞳が此方を見下ろしていた。
視線が絡まった瞬間、“彼”も私に気が付いたようで、驚いたふうに双眸を見開く。
──何でこんな所に!?
「へ、陛──んむむむ!?」
「おい、今はその名で呼ぶな! 衆目があるだろ?」
言うが早いか、ピオニー陛下は慌てて私の口元を手で覆う。
音にならなかった言葉は、陛下の掌にモゴモゴと溶けてしまった。
彼の言葉通り視線だけを漂わせて周囲を確認し、ぎこちなく頷くと、覆われた口元が漸く解放されたのだった。
まったく……息苦しいったらない。
「……ピオニー様」
「よし」
陛下は頷いて満足気に笑むと、再び歩き出す。
しかしながら、彼はこんな所で一体何をしているのだろうか?
周囲を見回しても供の姿はない。ということは、またしても彼の悪癖が顔を出したようだった。
勝手に宮殿を脱走したに違いない。そして、時を同じくして宮殿ではきっと今頃、行方をくらませた陛下の大捜索が行われているに違いない。
彼は常日頃“大切な俺の民”などと口にするが、陛下が脱走する度にストレスで胃腸を痛めているであろう家臣達の事も、もっと大切にしてやらなければならないのではないかと思う。
彼らも“大切な俺の民”ではないのか。
「陛、……ピオニー様、お供はいないのですか?」
「ああ。いつもはガイラルディアに頼むんだが、奴は今日、貴族院の集まりでな」
言いながら彼が足を向けるのは宮殿とは正反対の方向だ。
流石にこのまま陛下を一人にするわけにはいかず、付き従うように隣を歩く。
「そこで、だ。今日はお前を供に任命する」
「げぇ……」
「おい、失敬だぞ。光栄に思え」
「喜んで拝命いたしまーす……」
自分を陛下と呼ぶなと言い張る割に、会話の内容は皇帝陛下そのものだ。
これでは周囲にバレるのも時間の問題ではないだろうかと心配でならない。
「お前は本当に思っていることが顔に出るな」
「隠し事は向いてないんです。ですから、宮殿に戻ったら気を付けた方がいいですよ?」
「おい、ジェイドみたいな事を言うな。ちょっと似て来たんじゃないか?」
「! ……まさか」
陛下は「まったく……似なくてもいい所ばかり似てきやがって」と、ぼやきながら人混みを行く。
人混みの中にいても、上背のある陛下はそれだけでも十分に目を引く。
マントで小細工をし、身を隠していなければ一層周囲の視線を攫うだろう。
「あの、それで今日はどうしてまた脱走なんてされたのですか?」
「ん? ああ、たまにこうして街に出る。報告書だけでは測れない事があるだろう? この目で見なけりゃ本当の民の姿も、声も、何も拾えんからな」
ふと、大佐とエンゲーブへ視察に行った時の会話を思い出す。
そう言えば大佐も、陛下と同じ事を言っていたな……と、不意に懐かしくなった。
「ジェイドも同じ事を言ってたろ?」
「へ?」
「本来、あいつの功績を思えば今の役職に甘んじる立場じゃないんだがな。自分の目で見た事しか信じないヤツなんだよ」
「……大佐らしいです」
視線を逸らし、曖昧に笑う私を、陛下は静かに見つめていた。
こう見えて彼は賢帝なのだ。
私の胸に出来た綻びにも勘付かれてしまったのではないかと気が気じゃなかったが、あえて彼は何も言わなかった。
暫く街並みを見て歩き、喧騒を抜けて街を一望出来る場所に出ると、陛下は街並みを眺めながら唐突に問う。
「どうだ? 俺はあの日、お前と交わした約束を果たせているか?」
「え? ……ずっと、覚えていらしたのですか?」
「当然だろう?」
気さくに笑っていても、一国を預かる者としての風格が確かにそこにはある。
『必ず誰もが住み良い国にすると、俺が約束する』
それは──二年前、大佐に捕縛されて牢から出してもらう時、陛下が私と交わしてくれた約束だった。
私をマルクト帝国軍に引き込んだきっかけの出来事でもある。
「一朝一夕とはいかないが、出来る精一杯のことを俺なりにやって行こうと思う。ナマエ、これからもお前の力を貸して欲しい。ジェイドと共にな」
「え? あ、はい……」
大佐と共に──その言葉は今の私には鈍く響いた。
つい煮え切らない返事をしてしまって、この反応には流石の陛下も尋ねずにはいられなかったようだ。
「どうした? ジェイドと何かあったのか?」
「なんで大佐絡み前提なのですか? ……まあ、そうですが」
「お前は顔に出ると言っただろ? アイツもお前くらい単純で分かりやすけりゃいいんだが」
正直、縋るような気持ちだった。
ここ数日、人知れず抱え続けたこの息苦しいほどの感情を吐き出せる場所を求めていた。
ただの主君と家臣ではなく、陛下は大佐の昔馴染みなのだから、相談を持ちかけるのにこれ以上の人材はいないのではないだろうか?
俯きながら、おずおずと言葉を紡ぐ。
「まぁ……その……なんだか最近、大佐の様子が少し違うような気がしてて。うまく言えないけど、嫌な感じがするんです」
「ほう。ジェイドの事をよく見てるな」
「んな、そういう意味じゃなくて……!」
「俺は何も言っていないが?」
すこぶる意地悪だ。
先程、私と大佐が似てきたと言っていたが、陛下こそこういう所は大佐にそっくりだ。
決死の思いで胸の内を吐露したにも関わらず、陛下の口を衝いて出たのは揶揄い混じりの言葉だった。
ニタリと笑う表情が全てを物語っていた。人選ミスだったかも知れないと肩を落とす。
「アイツは、何食わぬ顔で静かに笑っている時に限って、腹に一物抱えているからなぁ」
「え?」
「そんな時は、だいたいロクな事を考えてないもんだが……分かった。俺も気にしておく。まあ、俺よりお前の方がアイツを見ているだろうがな」
「……」
陛下の言葉は静かに私の心を抉る。
“何食わぬ顔で静かに笑っている時”
その言葉はあまりに今の状況に当てはまるのだ。
驚くほど静かでありながら、決して腹の中を見せてはくれない。
そうでなくとも、大佐の腹の中を知れた試しなんて一度としてないけれど。
「おいおい、そんな顔をするな。──あいつは、お前を手放すような男じゃない」
「っ、はい……」
慰めの言葉と共にガシガシと頭を撫でられる。
陛下の言葉に頷いても、胸の奥に沈んだ鉛のような感覚だけは消えてくれなかった。
傍にいても、離れていても。
他の誰かと言葉を交わしていても、何をしていても──この予感めいた不安は拭えないのだ。
***
ピオニー陛下と共に宮殿に戻ると、案の定、慌ただしい宮殿内は君主の行方を探す家臣達でごった返していた。
戻るなり陛下は家臣達に小言を浴びせられながら回収されてしまって、私は苦笑いを浮かべながらその様を眺めつつ彼の姿を見送ったのだった。
その場にポツリと取り残された私の元に、近付いてくる足音に気が付いて振り向く。
視界に捉えた姿に息が詰まり、心に漣が立つ。
「おかえりなさい、ナマエ。陛下と一緒だったのですね」
「大佐……。はい、たまたま城下でお会いして、供も付けずにいらしたので……」
「そうでしたか。ナマエ、非番の日に申し訳ないのですが、執務室まで来ていただけますか?」
それは問いかけているようでいて、首肯以外の選択肢を取り上げるような物言いだった。
私は、ぎごちなく頷くしかない。
「ありがとう御座います」と言って浮かべた笑顔は、上っ面だけのそれであると理解した瞬間、堪らず目を逸らしてしまう。
彼の一挙手一投足が、容赦なく私を追い詰めた。
執務室に通されると、やけに冷えた空気が私を迎え入れる。
通い慣れた部屋であるはずなのに、やけに静かだった。
整頓された書類、綺麗に片付いた机の上──まるで何かを“整理”したみたいだ。
大佐は執務室の扉を閉めると、一片の迷いもなく自分の執務机に向かい、引き出しから何かを取り出す。
そして、真っ直ぐにそれを私に差し出した。
「……え?」
ドクン、と心臓が鈍い音を立てる。
「お好きにどうぞ」
「これって……」
「あなたがずっと欲しがっていた物ですよ?」
この偽装夫婦という関係を結んだ時、必ず奪い取ってみせると心に誓ったそれは、紛れもなく婚姻関係を証明する書類だった。
どうして今更、これを私に?
好きにしろって、一体どういうこと?
大佐の意図が理解ができず、書類から大佐へ視線を移すと、和やかな表情が私を見下ろしていた。
「さあ」と促されるまま震える手でそれを受け取ると、大佐はどこか安堵したように息をつく。
「大佐、あの……」
「ええ。偽装夫婦を演じる必要がなくなりました」
「え、急にどうしたんですか?」
「急ではありませんよ。最初から決めていた事です」
「そんな……」
そんな事は知らないし、事前に何も聞かされていない。
そもそも、いつだったかこの関係はいつまで続ければいいのかと尋ねた時だって、曖昧に誤魔化していたのは大佐の方だ。
それをいきなり必要がないだなんて、到底受け入れられるはずがない。
「言った筈ですよ?」
静かな声が室内に響く。
「後腐れがなく、生産的でもない関係だと。──だから私は、あなたを選んだ」
貼り付けたような笑顔で笑う彼は一体誰なのだろう?
──私は、この男を知らない。
「で、でも! ジェイドも私の事、好きだったんでしょ!?」
大佐はわざとらしく息をつき、眼鏡を指で押し上げる。
伏せた瞳がこちらを見下ろす。
温度を失くした赤い双眸は凍てつくような冷たさで私を射抜いた。
「私が一度でも、あなたを“愛している”と言いましたか?」
「っ、それは……」
「手を出したのは、繋ぎ止めておく為ですよ。あなたが単純で助かりました」
これ以上の反論も、感情も、喉につかえて言葉にならない。
お互いに何を語るでもなく、この場には沈黙が流れた。
「……もう十分でしょう。今日からあなたは“自由”だ」
「話はそれだけです」と言って、大佐は私に背を向ける。
それは確かな離別の意思だった。
それでも。それでも私はまだ──
「待って! ジェイド……!」
振り絞るように出した精一杯の声で呼びかける。
大佐はドアノブに掛けた手を外し、小さく息を吐く。
そして、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、もう何も映っていないように見えた。
「……困りましたね。まだ分かりませんか?」
まるで聞き分けの無い子供を諭すような口振りだ。
静かで、鋭利な言葉を軽薄な笑みで吐き出す姿を、私はきっとこの先、一生忘れないのだろう。
「私は最初から──あなたを愛してなどいませんと言ったのですよ?」
「……ジェイド」
「さようなら、ナマエ」
最後に餞別だと言わんばかりにニッコリと微笑むと、大佐は執務室を出ていく。
パタリとドアが閉まる無機質な音だけが静かに響く。
それが私達の終わりを告げた音だったのだと気付くまでさほど時間はかからなかったのに、どこか他人事に思えてならなかった。
「……ねぇ、待って」
無意識に声が漏れた。
追いかけなければならないのに。追いかけて、違うと言ってほしいのにそれが出来ない。
力が抜けて、その場にへたり込む。
手に握られた婚姻の証明書はこの瞬間、本当に何の意味も持たないただの紙切れとなってしまったのだ。
あまりにも、呆気ない。まるで私達みたいだ。
20260430
せっかくの非番だというのに、私の口を衝いて出るのは重苦しいため息ばかりだ。
ため息は幸せが逃げるなんてよく言ったものだけれど、きっとここ数日間で私は一生分の幸せを逃がしている。
目的もなく雑踏に紛れ、城下を歩く。
とくに今は宮殿に居ても息が詰まるだけで、ならば少しでも気晴らしになればと城下を散策するが、それもさして効果はないようだった。
だって、この場所は二年前、私と大佐が再会した場所だから。
宮殿にいても、執務室にいても、こうして城下を歩いていても──何処へ行っても、結局、思考の先には大佐がいる。
本当に当時の私はろくでもなかったが、少しくらいマシな人間になれたのだろうか?
今一度、ため息をついた時、肩が何かとぶつかってよろけてしまう。
「──わっ」
「おっと、悪い! 大丈夫か?」
とっさに伸びた手が二の腕を掴み、私の体を支えてくれる。
二の腕を掴む力強い手の感触よりも、頭上から降る聞き覚えのある低音に驚いて、慌てて振り仰ぐ。
身を隠すように目深に被られたマントから僅かに溢れ出る鮮やかな金糸の髪に、浅黒い肌。澄んだ蒼穹を思わせる青い瞳が此方を見下ろしていた。
視線が絡まった瞬間、“彼”も私に気が付いたようで、驚いたふうに双眸を見開く。
──何でこんな所に!?
「へ、陛──んむむむ!?」
「おい、今はその名で呼ぶな! 衆目があるだろ?」
言うが早いか、ピオニー陛下は慌てて私の口元を手で覆う。
音にならなかった言葉は、陛下の掌にモゴモゴと溶けてしまった。
彼の言葉通り視線だけを漂わせて周囲を確認し、ぎこちなく頷くと、覆われた口元が漸く解放されたのだった。
まったく……息苦しいったらない。
「……ピオニー様」
「よし」
陛下は頷いて満足気に笑むと、再び歩き出す。
しかしながら、彼はこんな所で一体何をしているのだろうか?
周囲を見回しても供の姿はない。ということは、またしても彼の悪癖が顔を出したようだった。
勝手に宮殿を脱走したに違いない。そして、時を同じくして宮殿ではきっと今頃、行方をくらませた陛下の大捜索が行われているに違いない。
彼は常日頃“大切な俺の民”などと口にするが、陛下が脱走する度にストレスで胃腸を痛めているであろう家臣達の事も、もっと大切にしてやらなければならないのではないかと思う。
彼らも“大切な俺の民”ではないのか。
「陛、……ピオニー様、お供はいないのですか?」
「ああ。いつもはガイラルディアに頼むんだが、奴は今日、貴族院の集まりでな」
言いながら彼が足を向けるのは宮殿とは正反対の方向だ。
流石にこのまま陛下を一人にするわけにはいかず、付き従うように隣を歩く。
「そこで、だ。今日はお前を供に任命する」
「げぇ……」
「おい、失敬だぞ。光栄に思え」
「喜んで拝命いたしまーす……」
自分を陛下と呼ぶなと言い張る割に、会話の内容は皇帝陛下そのものだ。
これでは周囲にバレるのも時間の問題ではないだろうかと心配でならない。
「お前は本当に思っていることが顔に出るな」
「隠し事は向いてないんです。ですから、宮殿に戻ったら気を付けた方がいいですよ?」
「おい、ジェイドみたいな事を言うな。ちょっと似て来たんじゃないか?」
「! ……まさか」
陛下は「まったく……似なくてもいい所ばかり似てきやがって」と、ぼやきながら人混みを行く。
人混みの中にいても、上背のある陛下はそれだけでも十分に目を引く。
マントで小細工をし、身を隠していなければ一層周囲の視線を攫うだろう。
「あの、それで今日はどうしてまた脱走なんてされたのですか?」
「ん? ああ、たまにこうして街に出る。報告書だけでは測れない事があるだろう? この目で見なけりゃ本当の民の姿も、声も、何も拾えんからな」
ふと、大佐とエンゲーブへ視察に行った時の会話を思い出す。
そう言えば大佐も、陛下と同じ事を言っていたな……と、不意に懐かしくなった。
「ジェイドも同じ事を言ってたろ?」
「へ?」
「本来、あいつの功績を思えば今の役職に甘んじる立場じゃないんだがな。自分の目で見た事しか信じないヤツなんだよ」
「……大佐らしいです」
視線を逸らし、曖昧に笑う私を、陛下は静かに見つめていた。
こう見えて彼は賢帝なのだ。
私の胸に出来た綻びにも勘付かれてしまったのではないかと気が気じゃなかったが、あえて彼は何も言わなかった。
暫く街並みを見て歩き、喧騒を抜けて街を一望出来る場所に出ると、陛下は街並みを眺めながら唐突に問う。
「どうだ? 俺はあの日、お前と交わした約束を果たせているか?」
「え? ……ずっと、覚えていらしたのですか?」
「当然だろう?」
気さくに笑っていても、一国を預かる者としての風格が確かにそこにはある。
『必ず誰もが住み良い国にすると、俺が約束する』
それは──二年前、大佐に捕縛されて牢から出してもらう時、陛下が私と交わしてくれた約束だった。
私をマルクト帝国軍に引き込んだきっかけの出来事でもある。
「一朝一夕とはいかないが、出来る精一杯のことを俺なりにやって行こうと思う。ナマエ、これからもお前の力を貸して欲しい。ジェイドと共にな」
「え? あ、はい……」
大佐と共に──その言葉は今の私には鈍く響いた。
つい煮え切らない返事をしてしまって、この反応には流石の陛下も尋ねずにはいられなかったようだ。
「どうした? ジェイドと何かあったのか?」
「なんで大佐絡み前提なのですか? ……まあ、そうですが」
「お前は顔に出ると言っただろ? アイツもお前くらい単純で分かりやすけりゃいいんだが」
正直、縋るような気持ちだった。
ここ数日、人知れず抱え続けたこの息苦しいほどの感情を吐き出せる場所を求めていた。
ただの主君と家臣ではなく、陛下は大佐の昔馴染みなのだから、相談を持ちかけるのにこれ以上の人材はいないのではないだろうか?
俯きながら、おずおずと言葉を紡ぐ。
「まぁ……その……なんだか最近、大佐の様子が少し違うような気がしてて。うまく言えないけど、嫌な感じがするんです」
「ほう。ジェイドの事をよく見てるな」
「んな、そういう意味じゃなくて……!」
「俺は何も言っていないが?」
すこぶる意地悪だ。
先程、私と大佐が似てきたと言っていたが、陛下こそこういう所は大佐にそっくりだ。
決死の思いで胸の内を吐露したにも関わらず、陛下の口を衝いて出たのは揶揄い混じりの言葉だった。
ニタリと笑う表情が全てを物語っていた。人選ミスだったかも知れないと肩を落とす。
「アイツは、何食わぬ顔で静かに笑っている時に限って、腹に一物抱えているからなぁ」
「え?」
「そんな時は、だいたいロクな事を考えてないもんだが……分かった。俺も気にしておく。まあ、俺よりお前の方がアイツを見ているだろうがな」
「……」
陛下の言葉は静かに私の心を抉る。
“何食わぬ顔で静かに笑っている時”
その言葉はあまりに今の状況に当てはまるのだ。
驚くほど静かでありながら、決して腹の中を見せてはくれない。
そうでなくとも、大佐の腹の中を知れた試しなんて一度としてないけれど。
「おいおい、そんな顔をするな。──あいつは、お前を手放すような男じゃない」
「っ、はい……」
慰めの言葉と共にガシガシと頭を撫でられる。
陛下の言葉に頷いても、胸の奥に沈んだ鉛のような感覚だけは消えてくれなかった。
傍にいても、離れていても。
他の誰かと言葉を交わしていても、何をしていても──この予感めいた不安は拭えないのだ。
***
ピオニー陛下と共に宮殿に戻ると、案の定、慌ただしい宮殿内は君主の行方を探す家臣達でごった返していた。
戻るなり陛下は家臣達に小言を浴びせられながら回収されてしまって、私は苦笑いを浮かべながらその様を眺めつつ彼の姿を見送ったのだった。
その場にポツリと取り残された私の元に、近付いてくる足音に気が付いて振り向く。
視界に捉えた姿に息が詰まり、心に漣が立つ。
「おかえりなさい、ナマエ。陛下と一緒だったのですね」
「大佐……。はい、たまたま城下でお会いして、供も付けずにいらしたので……」
「そうでしたか。ナマエ、非番の日に申し訳ないのですが、執務室まで来ていただけますか?」
それは問いかけているようでいて、首肯以外の選択肢を取り上げるような物言いだった。
私は、ぎごちなく頷くしかない。
「ありがとう御座います」と言って浮かべた笑顔は、上っ面だけのそれであると理解した瞬間、堪らず目を逸らしてしまう。
彼の一挙手一投足が、容赦なく私を追い詰めた。
執務室に通されると、やけに冷えた空気が私を迎え入れる。
通い慣れた部屋であるはずなのに、やけに静かだった。
整頓された書類、綺麗に片付いた机の上──まるで何かを“整理”したみたいだ。
大佐は執務室の扉を閉めると、一片の迷いもなく自分の執務机に向かい、引き出しから何かを取り出す。
そして、真っ直ぐにそれを私に差し出した。
「……え?」
ドクン、と心臓が鈍い音を立てる。
「お好きにどうぞ」
「これって……」
「あなたがずっと欲しがっていた物ですよ?」
この偽装夫婦という関係を結んだ時、必ず奪い取ってみせると心に誓ったそれは、紛れもなく婚姻関係を証明する書類だった。
どうして今更、これを私に?
好きにしろって、一体どういうこと?
大佐の意図が理解ができず、書類から大佐へ視線を移すと、和やかな表情が私を見下ろしていた。
「さあ」と促されるまま震える手でそれを受け取ると、大佐はどこか安堵したように息をつく。
「大佐、あの……」
「ええ。偽装夫婦を演じる必要がなくなりました」
「え、急にどうしたんですか?」
「急ではありませんよ。最初から決めていた事です」
「そんな……」
そんな事は知らないし、事前に何も聞かされていない。
そもそも、いつだったかこの関係はいつまで続ければいいのかと尋ねた時だって、曖昧に誤魔化していたのは大佐の方だ。
それをいきなり必要がないだなんて、到底受け入れられるはずがない。
「言った筈ですよ?」
静かな声が室内に響く。
「後腐れがなく、生産的でもない関係だと。──だから私は、あなたを選んだ」
貼り付けたような笑顔で笑う彼は一体誰なのだろう?
──私は、この男を知らない。
「で、でも! ジェイドも私の事、好きだったんでしょ!?」
大佐はわざとらしく息をつき、眼鏡を指で押し上げる。
伏せた瞳がこちらを見下ろす。
温度を失くした赤い双眸は凍てつくような冷たさで私を射抜いた。
「私が一度でも、あなたを“愛している”と言いましたか?」
「っ、それは……」
「手を出したのは、繋ぎ止めておく為ですよ。あなたが単純で助かりました」
これ以上の反論も、感情も、喉につかえて言葉にならない。
お互いに何を語るでもなく、この場には沈黙が流れた。
「……もう十分でしょう。今日からあなたは“自由”だ」
「話はそれだけです」と言って、大佐は私に背を向ける。
それは確かな離別の意思だった。
それでも。それでも私はまだ──
「待って! ジェイド……!」
振り絞るように出した精一杯の声で呼びかける。
大佐はドアノブに掛けた手を外し、小さく息を吐く。
そして、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、もう何も映っていないように見えた。
「……困りましたね。まだ分かりませんか?」
まるで聞き分けの無い子供を諭すような口振りだ。
静かで、鋭利な言葉を軽薄な笑みで吐き出す姿を、私はきっとこの先、一生忘れないのだろう。
「私は最初から──あなたを愛してなどいませんと言ったのですよ?」
「……ジェイド」
「さようなら、ナマエ」
最後に餞別だと言わんばかりにニッコリと微笑むと、大佐は執務室を出ていく。
パタリとドアが閉まる無機質な音だけが静かに響く。
それが私達の終わりを告げた音だったのだと気付くまでさほど時間はかからなかったのに、どこか他人事に思えてならなかった。
「……ねぇ、待って」
無意識に声が漏れた。
追いかけなければならないのに。追いかけて、違うと言ってほしいのにそれが出来ない。
力が抜けて、その場にへたり込む。
手に握られた婚姻の証明書はこの瞬間、本当に何の意味も持たないただの紙切れとなってしまったのだ。
あまりにも、呆気ない。まるで私達みたいだ。
20260430