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「おぉー……ここが、バチカル……」
バチカル港から天空客車に揺られること暫く。
キムラスカ・ランバルディア王国の首都バチカルは、グランコクマとはまた違った重厚感のある荘厳な雰囲気の広がる場所だった。
王の御座す場所──世界最大の都市であり、王都と呼ぶに相応しい街並みだ。
光の王都と呼ばれるこの場所は、なんでも過去に落下した巨大な譜石がえぐった大地の跡に作られたらしく、階層状の街並みはとても物珍しかった。
「バチカルは初めてですか?」
大佐は、傍らで感嘆の声を上げながら子供のように目を輝かせて辺りを見渡している私に問う。
「んー……多分、そうだと思います」
「多分、と言うと?」
「前にも言いましたけど、幼い頃の事はよく覚えていなくて。各地を転々とする生活を送っていた中で、もしかしたら昔、父と訪れたことがあるかもしれないけど……」
顎に手を当てがって、定かでない記憶を探りながら「うーん」と唸っていると、隣からは鼻で笑うような声がする。
「なるほど、幼い頃の記憶は……。私との事は覚えていたのに、ねぇ?」
「ちょ、それは……言わないでくださいよ!」
恥ずかしさのあまり声を大きくする私に対し、からかい混じりの眼差しを向ける大佐はどこか上機嫌だった。
最近になって分かった事──私は、大佐のこの表情に酷く弱い。
それを彼が理解しているか否かについては定かでないが、何でも知っている大佐の事だから、きっと気付かれている。
「ですが」と、大佐は軽く咳払いをして場を仕切り直す。
「ナマエ、此処を訪れた我々の目的は何ですか?」
「キムラスカ・ランバルディア王国のインゴベルト六世国王陛下へ書状をお届けに上がることです」
「そうです。ですから、そろそろ観光気分は切り上げて気を引き締めてください。この昇降機を登ればキムラスカ城です」
「え!? あ、はいっ!」
そうだ。私達は決して観光の為に訪れている訳では無い。
ピオニー皇帝陛下からお預かりした大切な書状を、インゴベルト六世国王陛下へお届けする──その任務のために、私達はこの地を訪れている。
自然と背筋が伸びた。
いわば大佐と私はマルクトを代表する使者。
いかなる無礼も許されない。一国を背負うとはそういうことだ。
大佐はともかく、どうして私までこの任務に駆り出されたのか未だに理解できない。どう見ても場違いだった。
そんな場違いな私にはやはり荷が重かったようで、急に胃の辺りがきりきりと痛みだす。
(うぅ……なんか、お腹痛くなってきたかも)
胃の辺りを労わるように手で押さえていると、その様子に気が付いた大佐が耳元で囁く。
「大丈夫ですよ。私がついていますから」
「……っ」
柔らかな声音が耳朶に響く。
見上げた先の大佐は、すっかり公の顔だ。
そうでありながらも、私を見つめる眼差しはどこか温かい。
そのお陰だろうか……不思議と、張り詰めていた緊張がほどけていくようだった。
***
「はぁー……終わった。これで任務は完了、ですよね?」
「ええ、お疲れ様でした。肩の荷が下りたでしょう?」
「はい……でも、こういった役目は金輪際遠慮したいです。緊張しすぎて生きた心地がしなかったし……」
重厚な扉を背に、安堵の息をつく。
外の空気はこんなにも美味しいものだったのかと感じられるほど、場内での緊張は非常に息苦しいものだった。
ただ書状を届けるだけの簡単なお仕事です。なんて大佐は事前に言っていたけれど、何が簡単なものか……。
もう二度とやらないから!!
「大丈夫ですよ。キムラスカとマルクトは平和条約が結ばれて、以前のように緊張状態ではありませんし」
「それはそうかもしれませんけど……。政治的な意味合いじゃなくて、偉大な王様を前にすると恐れ多くて……」
軍人としてよりも一般市民として生きてきた時間の方が長い私にとっては、それだけで息が詰まる。一国の王の御前というだけで。
「それにしても、先程のあなたは、まるで置物のようでしたね」
「……」
悪かったですね。借りてきた猫ですらなく、ただの無機質な置物で。
じっとりと睨むような視線を向けると、大佐はわざとらしく笑った。
「仕方ないでしょ!? なんていうか、インゴベルト陛下のオーラっていうか、威厳? に、気圧されて恐縮してしまったんですよ……」
「まあ、本来、一国の王とはああいうものです。我が国の皇帝が風変わりなだけですよ」
脳内には、豪気な気風で闊達な喋り口をするピオニー陛下の姿が浮かぶ。
確かに、インゴベルト六世国王陛下とは似ても似つかない。
けれど──
「私は好きですよ。ピオニー陛下」
「おや、妬けますね」
「いやいやいや、そういう意味じゃないです!」
「知っていますよ」
眼鏡の奥の瞳を細める大佐は、私をからかっているのか否か、よく分からない表情を浮かべていた。
じゃあ何故、あんな事を言ったのか。
こんな時、大佐はいつも真意を読み取らせてはくれない。
そもそも意味なんてないのかもしれないし。
いつも以上に真意を測りかねる。
空気を変えるには、話題を逸らすのが一番手っ取り早い。
「今更ですけど……大佐お一人で来ればよかったんじゃないですか? 私はどうせ置物だしぃー」
「そうですねぇ、そうしたいのは山々だったのですが、何分、他にも所要がありまして。それにはあなたの同行が不可欠だったのですよ」
「所要?」
大佐は辺りを気にした様子で見回している。
それが“何か”であるのか、“誰か”であるのかは判然としないけれど。
「そのつもり、だったのですが──仕方がありません。もう戻りましょう」
「所要はいいんですか?」
「ええ、どうやら不在のようです。彼女は忙しい人なのですよ。民の為に心を砕く事を惜しまない方ですからね。王族の鏡ですよ」
「……そう、ですか」
大佐がここまで素直に褒める素晴らしい人物とは、一体どんな人なのだろう?
それに、大佐は今“彼女”と言った──王族の女性と私達とではあまりに身分が違う。しかも、他国の王族だ。
いくら大佐がマルクト帝国の要人だからといって、他国で、かつ、王族の女性でありながら所要と一括りに出来る関係とは一体どういう間柄なのだろう?
ますます想像がつかない。
「お待ちください、ジェイド!」
様々な想像を膨らませつつ、昇降機に乗り込もうとした時だった──背後から凛とした声が響いたのは。
声につられて振り向けば、私達を呼び止める女性の姿が視界に飛び込む。
歩を進めるたび、金糸の髪が光を弾いて揺れる。
凛とした気配の内に揺るぎない意思を秘めた佇まいは、気品そのものだった。
そして何より驚いたのは、大佐でも、ファミリーネームでもなく──ファーストネームで大佐の事を呼び止めたことだ。
その瞬間、理解した。たった一言で伝わる親密さ。大佐が探していた所要の女性は間違いなく彼女。
「これは、ナタリア。お久しぶりですね」
「“お久しぶりですね”ではありませんわ。一体どういう事ですの!?」
「どうとは?」
「まあ、白々しい! 結婚の事に決まっているでしょう? あれほど長い付き合いだというのに……わたくし、あなたから何も聞いていません! ガイの手紙で遅れ馳せながらに知るだなんて」
一片の迷いもなく此方に向かって来た彼女は、大佐に臆することなく意見する。
その堂々たる様と上品な言葉遣いに、私はますます気圧されてしまう。
彼女の口振りからは大佐だけでなく、どうやらガイとも知り合いのようだ。
まるで私だけが、会話の外にぽつりと取り残されているようだった。
そして何より、大佐が女性と気の置けない様子で話をする様を初めて見た。
穏やかな表情。その横顔を、私はよく知っている。
けれど今は何処か──知らない顔。
「あ、あの……ジェイド……」
気付けば、大佐の燕尾の襟を遠慮がちに引いていた。
物憂げな表情で見上げる私に気付いた大佐は「ああ、すみません」と一言告げて、彼女を紹介してくれる。
「彼女は、キムラスカ・ランバルディア王国の王女殿下、ナタリアです」
「お、王女殿下でいらっしゃる……!」
「彼女とは、まあ……少々、長い付き合いではありますが」
どう見てもあの親密さは“少々”の度を超えているようだったけれど……。
寧ろ、一国の王女に対して気安ささえ感じた。
それにしても、彼女は王女殿下でいらっしゃるとは知らず、今更ながらに背筋が伸びる。
「あら、少々とはまた随分そっけない言い方をなさいますのね、大佐。昔はもう少し、まともな言い方をなさったものですのに」
「いやぁ、すみません。これ以上親しげにしていると、妻の機嫌を損ねてしまいそうでして」
「んなっ!?」
大佐は言いながら傍らの私へ視線を滑らせると、ナタリア王女は遅れ馳せながらに気が付いて「まあ!」と声を上げた。
口元に手を添えて双眸を見開く。驚き方までお上品だった。所作一つを取っても品格が感じられる。
「あなたがナマエさんでしたのね。大変失礼いたしましたわ。どうかお気を悪くされないでください」
「そんな……とんでもありません!」
「わたくしはナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアと申します。ナマエさん、お会い出来て光栄ですわ」
(顔が小さい! 目が大きい! お肌ツヤツヤ! いい匂いする!)
丁寧に挨拶をしてくださる王女様に対して、私と言ったら頭の悪い語彙しか脳内に浮かばない。
それにしたって、一国の王女様に握手を求められるだなんて、一体私は前世でどんな徳を積んだのだろうか……。
「お、おおおお初にお目にかかりましゅ! こ、こちらこそっ、お会いできて光栄でしゅ……!」
盛大に噛んだ。
差し出される手を見て、握手に応えなければ礼を失する。けれど私のような人間が、ナタリア王女殿下のお手に触れていいものなのか……。
考えれば考えるほど答えは出ず、焦りが生まれるばかりだ。
不思議そうに小首を傾げ、此方を見つめるナタリア王女を前に、早く握手をしなければと頭で分かっていながらも、限界を超えた私のとった行動は──ポン、と彼女の掌に恐る恐る手を重ねただけだった。
「あら……」
「ふっ、ふふ……まるで“お手”のようですね」
ナタリア王女は双眸を瞬かせ、大佐は緊張でパンク寸前の私を見て吹き出した。
まるで、お手のよう──言い得て妙だと思い、じわじわと羞恥心が湧き上がる。
「可愛らしいでしょう? 私の妻は。意地らしくて」
「うぅー……ジェイド、お願いだからこれ以上、追い打ちを掛けないでよ……」
羞恥心に煽られて、真っ赤に染まった顔を両手でさめざめと覆い隠す。
「……まさか、あなた普段からそのようにナマエさんをからかっているのではありませんわよね?」
「心外ですねぇ。からかってなどいません。可愛がるの間違いですよ」
まったく……と、息をついたナタリア王女は、再び此方に向き直る。
「あなたのことはガイからの手紙で存じておりましたわ。ナマエさん──普段から大佐に随分と振り回されていらっしゃるのではなくて?」
「おやおや、随分な言われようですね」
「そうでしょうか? 大佐は、そういう方でしたもの」
またしても、私の知らない時間の話だろうか?
一体二人にはどんな関わりがあったのか、聞きたくても聞けないままだ。
「平気です。ジェイドに振り回される事は慣れてしまいました……ははは、はは」
「やっぱり……! 大佐、彼女はあなたの大切な女性なのでしょう? もっと誠意を見せるべきだと思いますわ」
「そうですねぇ……善処しますよ」
それにしても凄いお姫様だ。勘が鋭いのは勿論、大佐に此処まできっぱり意見できる人はピオニー陛下を除いて初めて見た。
いや、この場合、お姫様であるから出来るのか……。
それはそれで少し複雑でもあった。
「ナマエさん、何かありましたら遠慮なく仰ってください。わたくしはあなたの味方ですわ」
「ありがとうございます、ナタリア王女」
「ナタリア、それほど心配して頂かなくても大丈夫ですよ。私達は仲睦まじい夫婦ですから」
「ははは……そ、そうですねー……」
心から頷けないのは、私達の関係が果たして正式なものに昇格したのかどうか定かでないからだ。
苦し紛れに笑って見せるが、上手く笑えていたのか分からない。
「まあ、そういう事でしたら……」と言うも、訝しげな視線は向けられたままだった。
このお姫様、実に鋭い観察眼をお持ちのようだ。キムラスカは安泰だろう。
「ところでお二人は、もうお帰りに? よろしければバチカルの街並みをゆっくり見て回られてはいかがでしょう? わたくし自らご案内しますわ」
「そ、そんな……王女様にそんなお役目をお願いするわけには……!」
「すみません、ナタリア。私達は今日、インゴベルト陛下へ書状をお届けに上がる為にバチカルへきましたので。それはまた、別の機会に」
ナタリア王女は、名残を惜しむように一瞬だけ視線を伏せると、すぐにいつもの凛とした表情に戻った。
「そうですか……残念ですが、仕方がありませんわね。無理に引き止めるわけにもいきませんし」
私達が昇降機に乗り込むその瞬間まで、ナタリア王女は静かに見送ってくれていた。
「どうぞお幸せに。是非、またお二人揃ってバチカルにいらしてください。任務としてではなく。いつでも歓迎いたしますわ」
微笑む表情には、王女としての気品が滲む。
このキムラスカを背負って立つ者としてこれ以上ない相応しさがそこにはあった。
──ナタリア王女。本当に、綺麗な人だった。
無意識にナタリア王女と自身を比べてしまう自分がいた。
勿論、比べるだなんてそんなことは不敬にも程があるけれど、それでも──大佐に相応しいのは私のような人間ではない事だけは嫌というほど思い知った。
隣に立つ大佐の気配を感じながらも、視界は自然と足元へと落ちていく。
その距離が、やけに遠く感じられた。
***
バチカル港に停泊していた軍艦は、任務を終えた私達を乗せてバチカルからグランコクマまでの航路を悠々と進む。
見渡す限りの海は驚くほど穏やかで、陽光を受けてキラキラと輝いていた。
──今はその眩しさが酷く目に痛い。
甲板で物思いに耽る中、未だに気持ちは晴れないまま。
その理由は分かっている。
大佐がナタリア王女と親しげだった事。そして、それを見て無意識の内に嫉妬した自分がいた事。
だって、大佐のあんな顔──初めて見たもの。
彼にとっての特別が私だけだなんて当然のように思っていたことにもショックを受けた。
ジャブ、ストレート、アッパーカット。脳内にはノックアウトのゴングが鳴り響いていた。完全敗北だ。
よく、恋をすると世界が変わるだなんていうけれど、それは自分の浅ましさも同時に炙り出されるということだ。
私は、自分が思っているよりもずっと、ずっと──
(……大佐のこと、好きになってたんだな)
とっくに取り返しなんてつかない。
「此方に居ましたか」
「ぎゃぁああ──っ!?」
背後から突然声を掛けられて、身を預けていた甲板の手すりから滑り落ちそうになる。
かなずちの私にとってそれは死と同義。
しかし、一瞬の浮遊感を経た次の瞬間、咄嗟に胸元へ回された腕がそれを食い止めた。
「まったく……危なっかしいですね、本当に」
「ははは……ナイスキャッチです」
頭上から降る声につられて顔を上げると、呆れの色を滲ませた大佐と視線が絡む。
トクン、と性懲りもなく私の心臓は淡い音を立てた。
けれど此処は甲板で、周りには同乗の兵士達が沢山いる。
周りの目を気にして直ぐに視線を外し、大佐の腕からも抜け出した。
「……先程から随分、大人しいですね」
「別にそんな事ないです」
一度言葉を切って、再び手すりに凭れ、視線を海に落としながら唇を尖らせる。
「ナタリア王女と仲が良いんですね。とっっっても。相手は他国のお姫様だっていうのに」
無意識に口を衝いて出た言葉には可愛げの欠片も感じられなかった。
こんな言葉が自分の口から、しかも無意思に出てしまったことに驚きを隠せない。
いつもなら間髪入れずに倍の嫌味か、からかいの言葉のどちらかが返ってきそうなものなのに、今はそれもない。
もしかして、呆れさせてしまっただろうかと不安になって、大佐へ向き直る。
「……ぁ、い、今のは、その」
「あなた、まさか……妬いているのですか?」
「なっ、違──」
せっかく交わった視線も、また直ぐに逸らした。
今のは完全に彼の視線から逃げた──逃げずには、いられなかった。
「ち、違……く、ない……かも……」
「! ……おや、あなたがこうも素直なのは珍しいですね。確かに今日は、促さずとも名前で呼んでくれていましたし」
「え゛!?」
「なるほど……そういう事でしたか。……嫉妬、ね」
大佐は目を伏せて、けれど満更でもなさそうに小さく笑った。
「普段からああだと助かるのですが」と、いつもの余計な一言も忘れずに。
正直、指摘されるまで気付かなかったけれど……言われてみれば、呼んでいたかもしれない。
少しずつ彼に侵食されていく感覚に、いよいよ私はどうにも否定できなくなってきている。
ああそうだとも。嫉妬していたんだよ私は!
「だって、二人には私の知らない時間があるもの」
「そうですね。ですが、私から逃げる事を選んだのはあなたですよ?」
「そうですけど……」
「私も同じです。離れていた間のあなたを私は何も知らない」
──私達はまだお互いの事を知らない。
「これから少しずつお互いを知っていきましょう。幸い、私達にはいくらでも時間がありますから」
「はい」
知らなかった時間はこれから埋めてゆけばいいのだ。
これまでのことも、これからのことも。
大佐の指がおもむろに頬へ伸びる。
海風に煽られて唇に張り付いた髪を、指先でそっと外してくれた。
唇に触れた指先の感触が、人目を憚るほど鮮やかに焼きついた。
柔らかな眼差しも手伝って、落ち着いていた心臓はまたしても早鐘を打ち始めてしまった。
滞りなく進む船は、そろそろマルクト帝国の国境へ近付こうとしていた。
「……あ」
そんな時、ふとある場所が視界に入り、自然と声が漏れた。
あの場所だけはどれだけ時間が経とうとも私の中で、決して色褪せる事はない。
(今年もそろそろ──あの時期、か)
「……どうかしましたか?」
「いえ。……少し、思い出しただけです」
私の横顔には哀愁が漂っていたかもしれないが、大佐はそれ以上、何も言及することは無かった。
何かを感じとったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ彼は、確信のないことを口にする人ではないだけで──それだけなのだろう。
20260419
バチカル港から天空客車に揺られること暫く。
キムラスカ・ランバルディア王国の首都バチカルは、グランコクマとはまた違った重厚感のある荘厳な雰囲気の広がる場所だった。
王の御座す場所──世界最大の都市であり、王都と呼ぶに相応しい街並みだ。
光の王都と呼ばれるこの場所は、なんでも過去に落下した巨大な譜石がえぐった大地の跡に作られたらしく、階層状の街並みはとても物珍しかった。
「バチカルは初めてですか?」
大佐は、傍らで感嘆の声を上げながら子供のように目を輝かせて辺りを見渡している私に問う。
「んー……多分、そうだと思います」
「多分、と言うと?」
「前にも言いましたけど、幼い頃の事はよく覚えていなくて。各地を転々とする生活を送っていた中で、もしかしたら昔、父と訪れたことがあるかもしれないけど……」
顎に手を当てがって、定かでない記憶を探りながら「うーん」と唸っていると、隣からは鼻で笑うような声がする。
「なるほど、幼い頃の記憶は……。私との事は覚えていたのに、ねぇ?」
「ちょ、それは……言わないでくださいよ!」
恥ずかしさのあまり声を大きくする私に対し、からかい混じりの眼差しを向ける大佐はどこか上機嫌だった。
最近になって分かった事──私は、大佐のこの表情に酷く弱い。
それを彼が理解しているか否かについては定かでないが、何でも知っている大佐の事だから、きっと気付かれている。
「ですが」と、大佐は軽く咳払いをして場を仕切り直す。
「ナマエ、此処を訪れた我々の目的は何ですか?」
「キムラスカ・ランバルディア王国のインゴベルト六世国王陛下へ書状をお届けに上がることです」
「そうです。ですから、そろそろ観光気分は切り上げて気を引き締めてください。この昇降機を登ればキムラスカ城です」
「え!? あ、はいっ!」
そうだ。私達は決して観光の為に訪れている訳では無い。
ピオニー皇帝陛下からお預かりした大切な書状を、インゴベルト六世国王陛下へお届けする──その任務のために、私達はこの地を訪れている。
自然と背筋が伸びた。
いわば大佐と私はマルクトを代表する使者。
いかなる無礼も許されない。一国を背負うとはそういうことだ。
大佐はともかく、どうして私までこの任務に駆り出されたのか未だに理解できない。どう見ても場違いだった。
そんな場違いな私にはやはり荷が重かったようで、急に胃の辺りがきりきりと痛みだす。
(うぅ……なんか、お腹痛くなってきたかも)
胃の辺りを労わるように手で押さえていると、その様子に気が付いた大佐が耳元で囁く。
「大丈夫ですよ。私がついていますから」
「……っ」
柔らかな声音が耳朶に響く。
見上げた先の大佐は、すっかり公の顔だ。
そうでありながらも、私を見つめる眼差しはどこか温かい。
そのお陰だろうか……不思議と、張り詰めていた緊張がほどけていくようだった。
***
「はぁー……終わった。これで任務は完了、ですよね?」
「ええ、お疲れ様でした。肩の荷が下りたでしょう?」
「はい……でも、こういった役目は金輪際遠慮したいです。緊張しすぎて生きた心地がしなかったし……」
重厚な扉を背に、安堵の息をつく。
外の空気はこんなにも美味しいものだったのかと感じられるほど、場内での緊張は非常に息苦しいものだった。
ただ書状を届けるだけの簡単なお仕事です。なんて大佐は事前に言っていたけれど、何が簡単なものか……。
もう二度とやらないから!!
「大丈夫ですよ。キムラスカとマルクトは平和条約が結ばれて、以前のように緊張状態ではありませんし」
「それはそうかもしれませんけど……。政治的な意味合いじゃなくて、偉大な王様を前にすると恐れ多くて……」
軍人としてよりも一般市民として生きてきた時間の方が長い私にとっては、それだけで息が詰まる。一国の王の御前というだけで。
「それにしても、先程のあなたは、まるで置物のようでしたね」
「……」
悪かったですね。借りてきた猫ですらなく、ただの無機質な置物で。
じっとりと睨むような視線を向けると、大佐はわざとらしく笑った。
「仕方ないでしょ!? なんていうか、インゴベルト陛下のオーラっていうか、威厳? に、気圧されて恐縮してしまったんですよ……」
「まあ、本来、一国の王とはああいうものです。我が国の皇帝が風変わりなだけですよ」
脳内には、豪気な気風で闊達な喋り口をするピオニー陛下の姿が浮かぶ。
確かに、インゴベルト六世国王陛下とは似ても似つかない。
けれど──
「私は好きですよ。ピオニー陛下」
「おや、妬けますね」
「いやいやいや、そういう意味じゃないです!」
「知っていますよ」
眼鏡の奥の瞳を細める大佐は、私をからかっているのか否か、よく分からない表情を浮かべていた。
じゃあ何故、あんな事を言ったのか。
こんな時、大佐はいつも真意を読み取らせてはくれない。
そもそも意味なんてないのかもしれないし。
いつも以上に真意を測りかねる。
空気を変えるには、話題を逸らすのが一番手っ取り早い。
「今更ですけど……大佐お一人で来ればよかったんじゃないですか? 私はどうせ置物だしぃー」
「そうですねぇ、そうしたいのは山々だったのですが、何分、他にも所要がありまして。それにはあなたの同行が不可欠だったのですよ」
「所要?」
大佐は辺りを気にした様子で見回している。
それが“何か”であるのか、“誰か”であるのかは判然としないけれど。
「そのつもり、だったのですが──仕方がありません。もう戻りましょう」
「所要はいいんですか?」
「ええ、どうやら不在のようです。彼女は忙しい人なのですよ。民の為に心を砕く事を惜しまない方ですからね。王族の鏡ですよ」
「……そう、ですか」
大佐がここまで素直に褒める素晴らしい人物とは、一体どんな人なのだろう?
それに、大佐は今“彼女”と言った──王族の女性と私達とではあまりに身分が違う。しかも、他国の王族だ。
いくら大佐がマルクト帝国の要人だからといって、他国で、かつ、王族の女性でありながら所要と一括りに出来る関係とは一体どういう間柄なのだろう?
ますます想像がつかない。
「お待ちください、ジェイド!」
様々な想像を膨らませつつ、昇降機に乗り込もうとした時だった──背後から凛とした声が響いたのは。
声につられて振り向けば、私達を呼び止める女性の姿が視界に飛び込む。
歩を進めるたび、金糸の髪が光を弾いて揺れる。
凛とした気配の内に揺るぎない意思を秘めた佇まいは、気品そのものだった。
そして何より驚いたのは、大佐でも、ファミリーネームでもなく──ファーストネームで大佐の事を呼び止めたことだ。
その瞬間、理解した。たった一言で伝わる親密さ。大佐が探していた所要の女性は間違いなく彼女。
「これは、ナタリア。お久しぶりですね」
「“お久しぶりですね”ではありませんわ。一体どういう事ですの!?」
「どうとは?」
「まあ、白々しい! 結婚の事に決まっているでしょう? あれほど長い付き合いだというのに……わたくし、あなたから何も聞いていません! ガイの手紙で遅れ馳せながらに知るだなんて」
一片の迷いもなく此方に向かって来た彼女は、大佐に臆することなく意見する。
その堂々たる様と上品な言葉遣いに、私はますます気圧されてしまう。
彼女の口振りからは大佐だけでなく、どうやらガイとも知り合いのようだ。
まるで私だけが、会話の外にぽつりと取り残されているようだった。
そして何より、大佐が女性と気の置けない様子で話をする様を初めて見た。
穏やかな表情。その横顔を、私はよく知っている。
けれど今は何処か──知らない顔。
「あ、あの……ジェイド……」
気付けば、大佐の燕尾の襟を遠慮がちに引いていた。
物憂げな表情で見上げる私に気付いた大佐は「ああ、すみません」と一言告げて、彼女を紹介してくれる。
「彼女は、キムラスカ・ランバルディア王国の王女殿下、ナタリアです」
「お、王女殿下でいらっしゃる……!」
「彼女とは、まあ……少々、長い付き合いではありますが」
どう見てもあの親密さは“少々”の度を超えているようだったけれど……。
寧ろ、一国の王女に対して気安ささえ感じた。
それにしても、彼女は王女殿下でいらっしゃるとは知らず、今更ながらに背筋が伸びる。
「あら、少々とはまた随分そっけない言い方をなさいますのね、大佐。昔はもう少し、まともな言い方をなさったものですのに」
「いやぁ、すみません。これ以上親しげにしていると、妻の機嫌を損ねてしまいそうでして」
「んなっ!?」
大佐は言いながら傍らの私へ視線を滑らせると、ナタリア王女は遅れ馳せながらに気が付いて「まあ!」と声を上げた。
口元に手を添えて双眸を見開く。驚き方までお上品だった。所作一つを取っても品格が感じられる。
「あなたがナマエさんでしたのね。大変失礼いたしましたわ。どうかお気を悪くされないでください」
「そんな……とんでもありません!」
「わたくしはナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアと申します。ナマエさん、お会い出来て光栄ですわ」
(顔が小さい! 目が大きい! お肌ツヤツヤ! いい匂いする!)
丁寧に挨拶をしてくださる王女様に対して、私と言ったら頭の悪い語彙しか脳内に浮かばない。
それにしたって、一国の王女様に握手を求められるだなんて、一体私は前世でどんな徳を積んだのだろうか……。
「お、おおおお初にお目にかかりましゅ! こ、こちらこそっ、お会いできて光栄でしゅ……!」
盛大に噛んだ。
差し出される手を見て、握手に応えなければ礼を失する。けれど私のような人間が、ナタリア王女殿下のお手に触れていいものなのか……。
考えれば考えるほど答えは出ず、焦りが生まれるばかりだ。
不思議そうに小首を傾げ、此方を見つめるナタリア王女を前に、早く握手をしなければと頭で分かっていながらも、限界を超えた私のとった行動は──ポン、と彼女の掌に恐る恐る手を重ねただけだった。
「あら……」
「ふっ、ふふ……まるで“お手”のようですね」
ナタリア王女は双眸を瞬かせ、大佐は緊張でパンク寸前の私を見て吹き出した。
まるで、お手のよう──言い得て妙だと思い、じわじわと羞恥心が湧き上がる。
「可愛らしいでしょう? 私の妻は。意地らしくて」
「うぅー……ジェイド、お願いだからこれ以上、追い打ちを掛けないでよ……」
羞恥心に煽られて、真っ赤に染まった顔を両手でさめざめと覆い隠す。
「……まさか、あなた普段からそのようにナマエさんをからかっているのではありませんわよね?」
「心外ですねぇ。からかってなどいません。可愛がるの間違いですよ」
まったく……と、息をついたナタリア王女は、再び此方に向き直る。
「あなたのことはガイからの手紙で存じておりましたわ。ナマエさん──普段から大佐に随分と振り回されていらっしゃるのではなくて?」
「おやおや、随分な言われようですね」
「そうでしょうか? 大佐は、そういう方でしたもの」
またしても、私の知らない時間の話だろうか?
一体二人にはどんな関わりがあったのか、聞きたくても聞けないままだ。
「平気です。ジェイドに振り回される事は慣れてしまいました……ははは、はは」
「やっぱり……! 大佐、彼女はあなたの大切な女性なのでしょう? もっと誠意を見せるべきだと思いますわ」
「そうですねぇ……善処しますよ」
それにしても凄いお姫様だ。勘が鋭いのは勿論、大佐に此処まできっぱり意見できる人はピオニー陛下を除いて初めて見た。
いや、この場合、お姫様であるから出来るのか……。
それはそれで少し複雑でもあった。
「ナマエさん、何かありましたら遠慮なく仰ってください。わたくしはあなたの味方ですわ」
「ありがとうございます、ナタリア王女」
「ナタリア、それほど心配して頂かなくても大丈夫ですよ。私達は仲睦まじい夫婦ですから」
「ははは……そ、そうですねー……」
心から頷けないのは、私達の関係が果たして正式なものに昇格したのかどうか定かでないからだ。
苦し紛れに笑って見せるが、上手く笑えていたのか分からない。
「まあ、そういう事でしたら……」と言うも、訝しげな視線は向けられたままだった。
このお姫様、実に鋭い観察眼をお持ちのようだ。キムラスカは安泰だろう。
「ところでお二人は、もうお帰りに? よろしければバチカルの街並みをゆっくり見て回られてはいかがでしょう? わたくし自らご案内しますわ」
「そ、そんな……王女様にそんなお役目をお願いするわけには……!」
「すみません、ナタリア。私達は今日、インゴベルト陛下へ書状をお届けに上がる為にバチカルへきましたので。それはまた、別の機会に」
ナタリア王女は、名残を惜しむように一瞬だけ視線を伏せると、すぐにいつもの凛とした表情に戻った。
「そうですか……残念ですが、仕方がありませんわね。無理に引き止めるわけにもいきませんし」
私達が昇降機に乗り込むその瞬間まで、ナタリア王女は静かに見送ってくれていた。
「どうぞお幸せに。是非、またお二人揃ってバチカルにいらしてください。任務としてではなく。いつでも歓迎いたしますわ」
微笑む表情には、王女としての気品が滲む。
このキムラスカを背負って立つ者としてこれ以上ない相応しさがそこにはあった。
──ナタリア王女。本当に、綺麗な人だった。
無意識にナタリア王女と自身を比べてしまう自分がいた。
勿論、比べるだなんてそんなことは不敬にも程があるけれど、それでも──大佐に相応しいのは私のような人間ではない事だけは嫌というほど思い知った。
隣に立つ大佐の気配を感じながらも、視界は自然と足元へと落ちていく。
その距離が、やけに遠く感じられた。
***
バチカル港に停泊していた軍艦は、任務を終えた私達を乗せてバチカルからグランコクマまでの航路を悠々と進む。
見渡す限りの海は驚くほど穏やかで、陽光を受けてキラキラと輝いていた。
──今はその眩しさが酷く目に痛い。
甲板で物思いに耽る中、未だに気持ちは晴れないまま。
その理由は分かっている。
大佐がナタリア王女と親しげだった事。そして、それを見て無意識の内に嫉妬した自分がいた事。
だって、大佐のあんな顔──初めて見たもの。
彼にとっての特別が私だけだなんて当然のように思っていたことにもショックを受けた。
ジャブ、ストレート、アッパーカット。脳内にはノックアウトのゴングが鳴り響いていた。完全敗北だ。
よく、恋をすると世界が変わるだなんていうけれど、それは自分の浅ましさも同時に炙り出されるということだ。
私は、自分が思っているよりもずっと、ずっと──
(……大佐のこと、好きになってたんだな)
とっくに取り返しなんてつかない。
「此方に居ましたか」
「ぎゃぁああ──っ!?」
背後から突然声を掛けられて、身を預けていた甲板の手すりから滑り落ちそうになる。
かなずちの私にとってそれは死と同義。
しかし、一瞬の浮遊感を経た次の瞬間、咄嗟に胸元へ回された腕がそれを食い止めた。
「まったく……危なっかしいですね、本当に」
「ははは……ナイスキャッチです」
頭上から降る声につられて顔を上げると、呆れの色を滲ませた大佐と視線が絡む。
トクン、と性懲りもなく私の心臓は淡い音を立てた。
けれど此処は甲板で、周りには同乗の兵士達が沢山いる。
周りの目を気にして直ぐに視線を外し、大佐の腕からも抜け出した。
「……先程から随分、大人しいですね」
「別にそんな事ないです」
一度言葉を切って、再び手すりに凭れ、視線を海に落としながら唇を尖らせる。
「ナタリア王女と仲が良いんですね。とっっっても。相手は他国のお姫様だっていうのに」
無意識に口を衝いて出た言葉には可愛げの欠片も感じられなかった。
こんな言葉が自分の口から、しかも無意思に出てしまったことに驚きを隠せない。
いつもなら間髪入れずに倍の嫌味か、からかいの言葉のどちらかが返ってきそうなものなのに、今はそれもない。
もしかして、呆れさせてしまっただろうかと不安になって、大佐へ向き直る。
「……ぁ、い、今のは、その」
「あなた、まさか……妬いているのですか?」
「なっ、違──」
せっかく交わった視線も、また直ぐに逸らした。
今のは完全に彼の視線から逃げた──逃げずには、いられなかった。
「ち、違……く、ない……かも……」
「! ……おや、あなたがこうも素直なのは珍しいですね。確かに今日は、促さずとも名前で呼んでくれていましたし」
「え゛!?」
「なるほど……そういう事でしたか。……嫉妬、ね」
大佐は目を伏せて、けれど満更でもなさそうに小さく笑った。
「普段からああだと助かるのですが」と、いつもの余計な一言も忘れずに。
正直、指摘されるまで気付かなかったけれど……言われてみれば、呼んでいたかもしれない。
少しずつ彼に侵食されていく感覚に、いよいよ私はどうにも否定できなくなってきている。
ああそうだとも。嫉妬していたんだよ私は!
「だって、二人には私の知らない時間があるもの」
「そうですね。ですが、私から逃げる事を選んだのはあなたですよ?」
「そうですけど……」
「私も同じです。離れていた間のあなたを私は何も知らない」
──私達はまだお互いの事を知らない。
「これから少しずつお互いを知っていきましょう。幸い、私達にはいくらでも時間がありますから」
「はい」
知らなかった時間はこれから埋めてゆけばいいのだ。
これまでのことも、これからのことも。
大佐の指がおもむろに頬へ伸びる。
海風に煽られて唇に張り付いた髪を、指先でそっと外してくれた。
唇に触れた指先の感触が、人目を憚るほど鮮やかに焼きついた。
柔らかな眼差しも手伝って、落ち着いていた心臓はまたしても早鐘を打ち始めてしまった。
滞りなく進む船は、そろそろマルクト帝国の国境へ近付こうとしていた。
「……あ」
そんな時、ふとある場所が視界に入り、自然と声が漏れた。
あの場所だけはどれだけ時間が経とうとも私の中で、決して色褪せる事はない。
(今年もそろそろ──あの時期、か)
「……どうかしましたか?」
「いえ。……少し、思い出しただけです」
私の横顔には哀愁が漂っていたかもしれないが、大佐はそれ以上、何も言及することは無かった。
何かを感じとったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ彼は、確信のないことを口にする人ではないだけで──それだけなのだろう。
20260419