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「お待ちなさい、ジェイドーー!」
耳を劈く不快な声に、眉根を寄せる。
まったく……余計な邪魔が入ったものだ、と人知れずため息をつく。
この鼻タレは、相も変わらず場の空気というものが読めないらしい。
昔も今も、容赦なく場を壊すこの男を蛇蝎の如く嫌っていたが、今この瞬間ほど業腹だと感じた事は未だかつて無かっただろう。
何故、よりにもよって、このタイミングで現れたのか。
「……ディスト。まったくこんなモノを易々と敷地内に入れるとは……門番は一体何をしているのでしょうね」
「おだまりなさい! そんな事よりも、あなたは私に言うべきことがあるでしょう!」
その言葉を聞いて、しかつめらしく指を顎にあてがい思案するフリをして、一拍。さらりと述べる。
「……ありませんね」
「とぼけないでください! 結婚ですよ結・婚! 私は何も聞いていませんよー!」
いつだったか、アニスからトカゲの尻尾だと揶揄された譜業の椅子は無く、ズガズガと全身で不機嫌さを露わにしながら此方へと歩み寄る。
その間も空気に飲まれ、取り残されたナマエは燕尾の襟を掴んだままポカンとしていた。
「ジェイドの唯一無二の親友である、この私に何の報告もなく結婚だなんて許しません!」
「おや、それはどこの物好きなジェイドですか?」
ナマエを間に挟んで喚くものだから、呆然としていた彼女にも流石に困惑の色が浮かぶ。
「あの、大佐……誰ですか?」
「放っておきましょう。あれは赤の他人です。あなたが気にする必要はありません」
「さあ、行きましょうか」と彼女の手から襟を解き、背に手をあてがって先を促す。
勿論、そんな事でディストが引き下がるとは思っていない。
しかし、此処は基地の廊下だ。
其処此処に耳目がある。出来れば事を荒立てたくない。
現に今もディストが喚くせいで兵士がぽつぽつと集まり始めている。
ディストは相変わらず荒ぶったままだが、不意に私から傍らに立つナマエに視線を移す。
その時、一抹の不安が過ぎる。
「──まさか……このちんちくりん女があなたの結婚相手だとでも!?」
「んなっ、ちんちくりん女!?」
(ですから、これ以上この場で事を荒立てたくないのですが──)
私の懸念をよそに、今度はナマエが声を荒げた。
“ちんちくりん女”は彼女にとって聞き逃せない侮辱であったらしい。
「お黙りなさい! 私はあなたのようなちんちくりんをジェイドの妻だなんて絶っ対に認めませんからね!」
「ちょっ、何ですかいきなり! 失礼な!」
「いいですか? ジェイドに相応しい女性はもっと知的で美しく、決してあなたのような野蛮で粗暴な知性の欠片も感じられないちんちくりん女などではな、く──」
ディストはここぞとばかりにナマエを貶すが、何かに気が付いて突然言葉を飲み込む。
耳障りな発言をパタリとやめ、ナマエの顔を覗き込んだ。
「……おや?」
上体を屈め、背の低いナマエと目線を合わせながら呟く。
「あなた……何処かで……」
「な、何……? あの、ちょっと、近いです……」
さながら観察でもするかのように、舐めるように彼女を見つめたあと、体勢を戻す。
視線をあさっての方向に泳がせ、記憶を探っているようだ。
見てくれと人間性はさておき、ディストも私に負けず劣らず物覚えが良かった。
ともすれば、ナマエに関する記憶も、頭の片隅で燻っているのではないか──。
その可能性は限りなく高い。
まずいと思った時には既に遅かった。
思い至ったディストは一層声を大にして言った。その声は基地の廊下の隅々まで轟く。
「──あぁ!! あなた、あの時の“ストーカー女”じゃないですか!」
「え?」
「思い出しましたよ。毎日のように花だの菓子だの持って来て、ジェイドと結婚すると騒いでいたあのちびっ子!」
「……は、はぁ?」
ディストはナマエを指差し、容赦なく幼少期のやり取りを次々と暴露してゆく。
「拒否されても懲りずに何度も求婚していましたよね!? “私の王子様”だのなんだのと、金魚の糞のようにジェイドの周りをうろついて! 鬱陶しくてかないませんでしたよ!」
金魚の糞に関しては決して彼が言えた立場ではなく、鬱陶しさに関しては今この瞬間も遺憾なく発揮されている。
この場に居合わせた兵士たちの視線が一斉に此方へ集まる。
「そ、そんなこと……」
ディストの言葉を受けて、ナマエには動揺の色が浮かぶ。
そんな事はないと言いかけて、しかし、断言出来ずにいる彼女はついに言葉を飲み込む。
動揺の色が濃くなり、直に絶望の色に塗り替えられた表情を見る限り──思い出してしまったのだろう。全て。
ディストの言葉が引き金となって、幼少期の記憶の扉が開いてしまった。
一度思い出してしまえば、芋蔓式に次々と記憶が蘇るはずだ。
きっと今頃あの台詞も彼女の脳内で再生されているに違いない。
『ジェイド! 私と結婚して』
「…………う、そ」
動揺して、青ざめて、真っ赤に染まる。
一度に全てを暴かれたナマエの顔色は、なんとも忙しない。
隣で傍観することしか出来なかった私に、彼女は縋るような視線を向けた。
これが、彼女にとって最後の望みの綱であることは容易に理解出来た。
細く、脆く、頼りなく。今にも千切れてしまいそうな──。
今ならまだ、引き上げてやることは出来た。
──それでも、手を伸ばさなかった。
惜しんだのだ。彼女を引き上げてやることを。
諦観したように眉をさげ、絡まった視線を断ち切るように目を伏せる。
何も言わなかった。
救いを求めるナマエに対して、否定も肯定もしない。
ただ一度静かにため息をついた。
「ディスト……」
「ジェイド、まさか覚えていないのですか!? ほら、あなたの熱烈な求婚者ですよ!」
その一瞬でナマエは全てを悟ったらしかった。
呆然と立ち尽くしている。
「はっ……まさか、あなたともあろう人間が、何も知らずこの女に丸め込まれて結婚したんじゃないでしょうね!?」
「ち、違っ……違う違う違う……違うー!!」
あちらで喚いて、こちらでも喚く。
そのうち羞恥心に耐えられなくなったナマエがこの場から逃走する。
本来、規律正しいはずの基地には秩序の影もなく、混沌としていた。
「ナマエ……!」
「何が違うというのです!? あ、待ちなさーい! 話はまだ終わっていませんよ!」
彼女を追いかけようと咄嗟に体が動いたが、何とか踏みとどまる。
本心ではナマエを追いかけたい。しかし今は、此方を片付ける方が先決だ。
「あなたは昔から本当に余計な事しかしませんね」
「まさかジェイド……全てを知った上で結婚を……?」
僅かな間に沈黙が流れた後、冷ややかな声で言う。
「ええ。それが?」
こんな形で彼女に知られてしまうのは想定外だったが。
ディストは信じられないと言わんばかりに打ち震えて、戦慄いている。
「血迷ったのですかジェイド……! あんな女と結婚だなんて正気とは思えません!」
「お前はいつも空気が読めませんでしたねディスト。そこをどいてもらいます──イグニートプリズン!」
容赦なく上級譜術を発動させる。
術を諸に食らったディストは廊下の窓を突き破って吹き飛んだ。
「ジェイドー!」と、最後まで耳障りな悲鳴が木霊するが気にとめている場合ではない。
侵入者の排除だったのだ。粉砕された窓は仕方がない。
後始末をその場に居合わせた兵士に任せ、足早にナマエの後を追った。
***
正直、基地を飛び出した彼女が向かう先の見当はつかなかった。
こんな時、つくづく思い知らされる。
私はまだ彼女の事を何も理解出来ていないのだ、と。
二年前のようにグランコクマから逃亡するとは考えにくい。
あの時と違って、今の彼女には曲がりなりにも“私の妻”という肩書があるからだ。
今はその仮初の肩書がどれほど心強いことか──。
そんなものに縋らずにはいられないほど“もしもの可能性”を危惧している。
基地で兵士の衆目を浴び、羞恥に耐えかねたナマエが向かう先を考えると、基地の敷地内には居ないはずだ。
であれば行き先は宮殿だろうが、しかし、彼女が宮殿内に駆け込む場所が果たしてあるだろうか?
自分達の部屋ではベタすぎる。
私が探しに向かうであろうことは彼女であっても容易に想像がつくだろう。
なにより今、ナマエは何があっても私と顔を合わせたくないはずだ。
ならば最後に思い浮かぶのは、彼女にとって唯一気が置けない存在であるガイの元ぐらいだろう。
(こんな時まで──)
自嘲を零す自分が、酷く滑稽に感じられる。
自然と歩調が速まっていた。
ナマエの姿を探し、人気の無い廊下に出た時だった。探し求めた姿を視界に捉える。
萎れた姿で俯いて、トボトボと此方に向かって歩いて来る。
「どちらへ?」
「っ!」
静な廊下に声が響く。
声を掛けられるまで、私の気配に気付いていなかったのだろう。
弾かれたように顔をあげ、不安げに揺れる瞳が私を捉えた。
「あなたからの求婚の件──私はまだ返事をしていませんよ?」
「な、何の話……ですか?」
ナマエは気不味そうに視線を逸らし、歯切れ悪く答える。
それでもまだ、認めようとはしない。
「その反応、思い出したのでしょう? ──全て」
「お、思い出してません……何のことだかさっぱり……」
「おや、悪い子ですね。嘘をつくなんて」
無理もない。
あれだけ関係を拒み、淡い初恋にのぼせ、蓋を空けてみればその全てが目の敵にしていた私に繋がっていたのだから。
「……あの時は随分と熱心でしたね。まさか、今になって撤回するおつもりですか?」
「ち、違っ……」
「何も違いませんよ──あれは私です。そして、あなただ」
うまく感情を言葉に出来ないナマエが一歩、後退る。
その動きを見逃さなかった私は彼女の手首を掴み、引きとめた。
そして、開いた一歩分だけ距離を詰めると、ナマエは肩を小さく振るわせる。
「……それとも」
ほんの僅かに、声が低くなる。
意識したわけではない。自然とそうなっていた。
俯き、顔が隠れて見えないことが──感情を知る手立てがないことが焦燥感を掻き立てられてならない。
「また逃げるつもりですか?」
一瞬の沈黙すら許さず、掴んだ手に力が籠る。
選択肢を与えたのではない──もはや私は彼女の意思に関係なく、手離すつもりがないという意思表示だ。
「に、逃げません……逃げませんから! とにかく今は、ほっといてください!」
「お断りします。ナマエ、顔を上げなさい」
「や、やだ……!」
「ナマエ──っ、」
髪の隙間から、此方を睨みつけるように覗いた双眸は潤み、溶け落ちそうな熱が滲んでいる。
羞恥心から紅潮した頬。噛み締めた唇がふるりと震えていた。
思わず言葉に詰まる。視線が釘付けになり、意識をまるっと奪われてしまって──。
その隙に、ナマエは勢い任せに手を振り解く。
「とっくに時効ですよそんなの! 忘れてください!!」
捨て台詞とばかりに声を荒げ、駆け出した瞬間だった。
足が縺れてしまい、走り出して数歩の所で派手にずっこける。
「ぶへ!」
こうして、私の虚を突いた彼女の逃亡劇は一瞬で幕を閉じたのだった。
びたん!と音がしそうなほど派手に、庇う間もなく顔面から倒れ込む。
転んだかと思うと慌てて振り向いて、再び噛みつくように声を荒げた。
「み、見ないでください!!」
歩幅にして実に三歩程度の距離だ。静かに歩み寄ると、その場に片膝をついてしゃがみ込んだ。
そして、徐に手を差し伸べる。
「ええ、しっかり見ていますよ。あなたは昔から──助けた途端に求婚してくる人でしたから」
「う゛ぅ……け、結構です!」
羞恥に震えるナマエは、差し出された私の手をペチンと叩いて拒んだ。
助けられてたまるか。求婚なんてしない。
そこには、そんな彼女の意思が滲んでいるようだった。
「その手には乗りませんから!」と強がりを一つ零して立ち上がり、よろけつつも今度こそ私の前から逃げ出した。
「やれやれ……」
遠ざかっていく背中を見つめながら肩を竦め、小さく息を吐く。
あれが無意識だというのなら、随分と質が悪い。
「嫌でも、期待してしまうじゃありませんか」
独り言のように呟くと、胸の奥が僅かに漣立つのを感じた。
20260330
耳を劈く不快な声に、眉根を寄せる。
まったく……余計な邪魔が入ったものだ、と人知れずため息をつく。
この鼻タレは、相も変わらず場の空気というものが読めないらしい。
昔も今も、容赦なく場を壊すこの男を蛇蝎の如く嫌っていたが、今この瞬間ほど業腹だと感じた事は未だかつて無かっただろう。
何故、よりにもよって、このタイミングで現れたのか。
「……ディスト。まったくこんなモノを易々と敷地内に入れるとは……門番は一体何をしているのでしょうね」
「おだまりなさい! そんな事よりも、あなたは私に言うべきことがあるでしょう!」
その言葉を聞いて、しかつめらしく指を顎にあてがい思案するフリをして、一拍。さらりと述べる。
「……ありませんね」
「とぼけないでください! 結婚ですよ結・婚! 私は何も聞いていませんよー!」
いつだったか、アニスからトカゲの尻尾だと揶揄された譜業の椅子は無く、ズガズガと全身で不機嫌さを露わにしながら此方へと歩み寄る。
その間も空気に飲まれ、取り残されたナマエは燕尾の襟を掴んだままポカンとしていた。
「ジェイドの唯一無二の親友である、この私に何の報告もなく結婚だなんて許しません!」
「おや、それはどこの物好きなジェイドですか?」
ナマエを間に挟んで喚くものだから、呆然としていた彼女にも流石に困惑の色が浮かぶ。
「あの、大佐……誰ですか?」
「放っておきましょう。あれは赤の他人です。あなたが気にする必要はありません」
「さあ、行きましょうか」と彼女の手から襟を解き、背に手をあてがって先を促す。
勿論、そんな事でディストが引き下がるとは思っていない。
しかし、此処は基地の廊下だ。
其処此処に耳目がある。出来れば事を荒立てたくない。
現に今もディストが喚くせいで兵士がぽつぽつと集まり始めている。
ディストは相変わらず荒ぶったままだが、不意に私から傍らに立つナマエに視線を移す。
その時、一抹の不安が過ぎる。
「──まさか……このちんちくりん女があなたの結婚相手だとでも!?」
「んなっ、ちんちくりん女!?」
(ですから、これ以上この場で事を荒立てたくないのですが──)
私の懸念をよそに、今度はナマエが声を荒げた。
“ちんちくりん女”は彼女にとって聞き逃せない侮辱であったらしい。
「お黙りなさい! 私はあなたのようなちんちくりんをジェイドの妻だなんて絶っ対に認めませんからね!」
「ちょっ、何ですかいきなり! 失礼な!」
「いいですか? ジェイドに相応しい女性はもっと知的で美しく、決してあなたのような野蛮で粗暴な知性の欠片も感じられないちんちくりん女などではな、く──」
ディストはここぞとばかりにナマエを貶すが、何かに気が付いて突然言葉を飲み込む。
耳障りな発言をパタリとやめ、ナマエの顔を覗き込んだ。
「……おや?」
上体を屈め、背の低いナマエと目線を合わせながら呟く。
「あなた……何処かで……」
「な、何……? あの、ちょっと、近いです……」
さながら観察でもするかのように、舐めるように彼女を見つめたあと、体勢を戻す。
視線をあさっての方向に泳がせ、記憶を探っているようだ。
見てくれと人間性はさておき、ディストも私に負けず劣らず物覚えが良かった。
ともすれば、ナマエに関する記憶も、頭の片隅で燻っているのではないか──。
その可能性は限りなく高い。
まずいと思った時には既に遅かった。
思い至ったディストは一層声を大にして言った。その声は基地の廊下の隅々まで轟く。
「──あぁ!! あなた、あの時の“ストーカー女”じゃないですか!」
「え?」
「思い出しましたよ。毎日のように花だの菓子だの持って来て、ジェイドと結婚すると騒いでいたあのちびっ子!」
「……は、はぁ?」
ディストはナマエを指差し、容赦なく幼少期のやり取りを次々と暴露してゆく。
「拒否されても懲りずに何度も求婚していましたよね!? “私の王子様”だのなんだのと、金魚の糞のようにジェイドの周りをうろついて! 鬱陶しくてかないませんでしたよ!」
金魚の糞に関しては決して彼が言えた立場ではなく、鬱陶しさに関しては今この瞬間も遺憾なく発揮されている。
この場に居合わせた兵士たちの視線が一斉に此方へ集まる。
「そ、そんなこと……」
ディストの言葉を受けて、ナマエには動揺の色が浮かぶ。
そんな事はないと言いかけて、しかし、断言出来ずにいる彼女はついに言葉を飲み込む。
動揺の色が濃くなり、直に絶望の色に塗り替えられた表情を見る限り──思い出してしまったのだろう。全て。
ディストの言葉が引き金となって、幼少期の記憶の扉が開いてしまった。
一度思い出してしまえば、芋蔓式に次々と記憶が蘇るはずだ。
きっと今頃あの台詞も彼女の脳内で再生されているに違いない。
『ジェイド! 私と結婚して』
「…………う、そ」
動揺して、青ざめて、真っ赤に染まる。
一度に全てを暴かれたナマエの顔色は、なんとも忙しない。
隣で傍観することしか出来なかった私に、彼女は縋るような視線を向けた。
これが、彼女にとって最後の望みの綱であることは容易に理解出来た。
細く、脆く、頼りなく。今にも千切れてしまいそうな──。
今ならまだ、引き上げてやることは出来た。
──それでも、手を伸ばさなかった。
惜しんだのだ。彼女を引き上げてやることを。
諦観したように眉をさげ、絡まった視線を断ち切るように目を伏せる。
何も言わなかった。
救いを求めるナマエに対して、否定も肯定もしない。
ただ一度静かにため息をついた。
「ディスト……」
「ジェイド、まさか覚えていないのですか!? ほら、あなたの熱烈な求婚者ですよ!」
その一瞬でナマエは全てを悟ったらしかった。
呆然と立ち尽くしている。
「はっ……まさか、あなたともあろう人間が、何も知らずこの女に丸め込まれて結婚したんじゃないでしょうね!?」
「ち、違っ……違う違う違う……違うー!!」
あちらで喚いて、こちらでも喚く。
そのうち羞恥心に耐えられなくなったナマエがこの場から逃走する。
本来、規律正しいはずの基地には秩序の影もなく、混沌としていた。
「ナマエ……!」
「何が違うというのです!? あ、待ちなさーい! 話はまだ終わっていませんよ!」
彼女を追いかけようと咄嗟に体が動いたが、何とか踏みとどまる。
本心ではナマエを追いかけたい。しかし今は、此方を片付ける方が先決だ。
「あなたは昔から本当に余計な事しかしませんね」
「まさかジェイド……全てを知った上で結婚を……?」
僅かな間に沈黙が流れた後、冷ややかな声で言う。
「ええ。それが?」
こんな形で彼女に知られてしまうのは想定外だったが。
ディストは信じられないと言わんばかりに打ち震えて、戦慄いている。
「血迷ったのですかジェイド……! あんな女と結婚だなんて正気とは思えません!」
「お前はいつも空気が読めませんでしたねディスト。そこをどいてもらいます──イグニートプリズン!」
容赦なく上級譜術を発動させる。
術を諸に食らったディストは廊下の窓を突き破って吹き飛んだ。
「ジェイドー!」と、最後まで耳障りな悲鳴が木霊するが気にとめている場合ではない。
侵入者の排除だったのだ。粉砕された窓は仕方がない。
後始末をその場に居合わせた兵士に任せ、足早にナマエの後を追った。
***
正直、基地を飛び出した彼女が向かう先の見当はつかなかった。
こんな時、つくづく思い知らされる。
私はまだ彼女の事を何も理解出来ていないのだ、と。
二年前のようにグランコクマから逃亡するとは考えにくい。
あの時と違って、今の彼女には曲がりなりにも“私の妻”という肩書があるからだ。
今はその仮初の肩書がどれほど心強いことか──。
そんなものに縋らずにはいられないほど“もしもの可能性”を危惧している。
基地で兵士の衆目を浴び、羞恥に耐えかねたナマエが向かう先を考えると、基地の敷地内には居ないはずだ。
であれば行き先は宮殿だろうが、しかし、彼女が宮殿内に駆け込む場所が果たしてあるだろうか?
自分達の部屋ではベタすぎる。
私が探しに向かうであろうことは彼女であっても容易に想像がつくだろう。
なにより今、ナマエは何があっても私と顔を合わせたくないはずだ。
ならば最後に思い浮かぶのは、彼女にとって唯一気が置けない存在であるガイの元ぐらいだろう。
(こんな時まで──)
自嘲を零す自分が、酷く滑稽に感じられる。
自然と歩調が速まっていた。
ナマエの姿を探し、人気の無い廊下に出た時だった。探し求めた姿を視界に捉える。
萎れた姿で俯いて、トボトボと此方に向かって歩いて来る。
「どちらへ?」
「っ!」
静な廊下に声が響く。
声を掛けられるまで、私の気配に気付いていなかったのだろう。
弾かれたように顔をあげ、不安げに揺れる瞳が私を捉えた。
「あなたからの求婚の件──私はまだ返事をしていませんよ?」
「な、何の話……ですか?」
ナマエは気不味そうに視線を逸らし、歯切れ悪く答える。
それでもまだ、認めようとはしない。
「その反応、思い出したのでしょう? ──全て」
「お、思い出してません……何のことだかさっぱり……」
「おや、悪い子ですね。嘘をつくなんて」
無理もない。
あれだけ関係を拒み、淡い初恋にのぼせ、蓋を空けてみればその全てが目の敵にしていた私に繋がっていたのだから。
「……あの時は随分と熱心でしたね。まさか、今になって撤回するおつもりですか?」
「ち、違っ……」
「何も違いませんよ──あれは私です。そして、あなただ」
うまく感情を言葉に出来ないナマエが一歩、後退る。
その動きを見逃さなかった私は彼女の手首を掴み、引きとめた。
そして、開いた一歩分だけ距離を詰めると、ナマエは肩を小さく振るわせる。
「……それとも」
ほんの僅かに、声が低くなる。
意識したわけではない。自然とそうなっていた。
俯き、顔が隠れて見えないことが──感情を知る手立てがないことが焦燥感を掻き立てられてならない。
「また逃げるつもりですか?」
一瞬の沈黙すら許さず、掴んだ手に力が籠る。
選択肢を与えたのではない──もはや私は彼女の意思に関係なく、手離すつもりがないという意思表示だ。
「に、逃げません……逃げませんから! とにかく今は、ほっといてください!」
「お断りします。ナマエ、顔を上げなさい」
「や、やだ……!」
「ナマエ──っ、」
髪の隙間から、此方を睨みつけるように覗いた双眸は潤み、溶け落ちそうな熱が滲んでいる。
羞恥心から紅潮した頬。噛み締めた唇がふるりと震えていた。
思わず言葉に詰まる。視線が釘付けになり、意識をまるっと奪われてしまって──。
その隙に、ナマエは勢い任せに手を振り解く。
「とっくに時効ですよそんなの! 忘れてください!!」
捨て台詞とばかりに声を荒げ、駆け出した瞬間だった。
足が縺れてしまい、走り出して数歩の所で派手にずっこける。
「ぶへ!」
こうして、私の虚を突いた彼女の逃亡劇は一瞬で幕を閉じたのだった。
びたん!と音がしそうなほど派手に、庇う間もなく顔面から倒れ込む。
転んだかと思うと慌てて振り向いて、再び噛みつくように声を荒げた。
「み、見ないでください!!」
歩幅にして実に三歩程度の距離だ。静かに歩み寄ると、その場に片膝をついてしゃがみ込んだ。
そして、徐に手を差し伸べる。
「ええ、しっかり見ていますよ。あなたは昔から──助けた途端に求婚してくる人でしたから」
「う゛ぅ……け、結構です!」
羞恥に震えるナマエは、差し出された私の手をペチンと叩いて拒んだ。
助けられてたまるか。求婚なんてしない。
そこには、そんな彼女の意思が滲んでいるようだった。
「その手には乗りませんから!」と強がりを一つ零して立ち上がり、よろけつつも今度こそ私の前から逃げ出した。
「やれやれ……」
遠ざかっていく背中を見つめながら肩を竦め、小さく息を吐く。
あれが無意識だというのなら、随分と質が悪い。
「嫌でも、期待してしまうじゃありませんか」
独り言のように呟くと、胸の奥が僅かに漣立つのを感じた。
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