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非日常というものは、ときに人の箍を外す。驚くほどあっさりと。
少なくとも、目の前で上機嫌に笑っている彼女を見る限り、その説は間違いではないようだ。
「えへへー楽しいれすねっ! ジェイドぉ!」
「……ええ。あなたが楽しそうで何よりですよ」
こんなふうに陽気なナマエを見るのは初めてだ――いや。二度目、だったか。
二年前にもこんな風にグランコクマの酒場にて、似たような光景を目の当たりにしたものだ。
酔っ払った張本人は、何も覚えていないようだが……。
ならば、今日という日も何も覚えていないと彼女は口にするのだろうか?
それでも、頬を上気させ、上機嫌にケラケラと笑う彼女は二年前と何も変わっていないということだ。
その事実は、少しばかり私を堪らなくさせた。
私もまた、彼女のように非日常の雰囲気とやらに飲み込まれ、らしくなく浮かれてしまっているのかもしれない。
「んえー!? ジェイドはぁ、楽しくないんれすかぁ?」
「少々、飲みすぎです。呂律が回っていませんよ?」
「いいえ! 私は酔っれまれんっ!」
「今度は酔っ払いの常套句ですか……期待を裏切りませんねぇ」
彼女の手からワイングラスを取り上げると、ナマエは呂律の回らないまま酔ってないと言い張って、私の手からワイングラスを奪い返す。
座った目で何を言う。
それは、今この瞬間において一番信用ならない言葉だった。
朝一番でグランコクマを追い出された後、ゆったりとケテルブルクまで船旅。スパで寛ぎ、食事に舌鼓をうつ。
そして今、窓の外で舞う雪を眺めながら二人だけのゆったりとした時間を過ごしている。
軍務に忙殺される日々を送る私達にとって、今日一日は確かに非日常だったろう。
彼女を連れ戻してから、こんな風に酒を飲んだのは初めての事だ。
今日くらいは多めに見てもいいのかもしれない。
「!」
不意に、ナマエが私の手を取った。
「熱い……」と一言漏らしたかと思うと、そのまま私の手を自分の頬へと当てがう。
掌にじんわりと広がってゆく熱。
まろい肌の感触と、ぬくもりを帯びた息遣い。
「んうー……ジェイドの手、冷たくて気持ちー……、…………死んでる?」
蕩けていた瞳が、絶望の色に染まった。
私は死んでいない。死霊使いと呼ばれても、私自身が骸になった覚えはない。
よほど私の手が冷たかったらしい。
だからといって死体と思われるほどに冷えていた自覚はなく、単にアルコールで彼女自信の体温が上がっているだけだろう。
「勝手に殺さないで下さい。あなたが火照っているからですよ。全く……羽目を外しすぎるのも考えものですね」
「いいじゃないれふかー! だって今日はー……新、りょ……れしょう?」
「はい?」
いよいよ何を言っているのか分からなくなった。
しまいには船まで漕ぎ出して、中身が溢れる前に彼女の手からワイングラスを取り上げ、テーブルの上に置く。
屈めた上体を起こした時、またしても彼女は私の想定外の行動を取った。
あろうことか私の胸元へと、その身を預けてきたのだ。
普段の彼女からはとても考えられない行動に、言葉を失う。瞬きもせず、指先一つ動かすことすら忘れてしまって。
胸元へ凭れかかるナマエも微動だにしない。
まさか、この状態で眠ってしまったのだろうかと、細い肩に触れた時だった――「もしも」と、くぐもった声がポツリと胸元から響いたのは。
「……もしもぉ、この関係が解消されてぇ、お互い別々の道を歩んだとするじゃないれふか?」
俯いたまま凭れる彼女の表情は窺い知れない。
笑っているのか、複雑な面持ちか、はたまた無表情であるのか――。
しかし、ひとたび表情を窺ってしまえば、積み上げてきたものが全てが崩れ去ってしまいそうな気がして、何も行動に移せずにいる。
知らずに済むなら、知らなくていい物事だってある。今はまさにそれだ。
「……今、そんな話をするのですか? 新婚旅行中にしては随分と味気ない話題ですね」
「んー、今……だから……かなぁ」
ナマエの手が、私の衣服をぎゅうっと握った。
それが、まるで縋るようだと感じたのは、きっと私のエゴにすぎないのだろうが――。
「ジェイドはきっともう、結婚なんてしないれしょ……?」
「さて、どうでしょうか?」
「…………しないれしょ?」
「はいはい。しませんよ……きっと」
どうやら彼女は、私を“忘れられない元妻を想い続け、独り身を貫く男”に仕立て上げたいらしい。
随分と都合のいい男にしてくれる。
やっと私の返答がお気に召したのか、それともただ酔っ払って気分がいいだけなのか定かではない。
こちらを見上げるナマエの瞳は相変わらずとろりと熟れている。
双眸が柔和に細められ、アルコールで赤く染まった顔はくしゃりと満足げに崩れた。
「だと思った! だからぁ、ジェイドがひとりぼっちで寂しくなった時はぁ、仕方がないのれぇ、私が結婚してさしあげまーす!」
「おや、それは随分と魅力的なお誘いですね」
「んふふ……れしょー? 有能な部下にぃ感謝しろくださいっ!」
言いたい事を言い切って、彼女はそのまま糸が切れた操り人形のようにパッタリと動かなくなる。
胸元に倒れ込む華奢な体躯は脱力し、僅かに重みが増した。
じきに小さな寝息が聞こえてくる様子から、今度は本当に眠ってしまったらしい。
「……はぁ」
自分のワイングラスも並べるようにテーブルへ置くと、胸元で眠るナマエに再び視線を落とす。
「無邪気に残酷な事を言いますね……あなたは」
独りごちた言葉はナマエに届くことなく静寂で満たされた室内に溶けて消える。
指先で赤味を帯びた頬にそっと触れると、脳内ではさきほどの言葉が反芻される。
『……もしもぉ、この関係が解消されてぇ、お互い別々の道を歩んだとするじゃないれふか?』
「残念ながら……」
指先がなだらかな頬の輪郭を滑り、唇をなぞる。
ため息混じりに乾いた笑みを溢した。
「“そんな日”は来ないんですよ、ナマエ――」
顔を寄せると、はらり……と、ひと束零れ落ちた髪が彼女の頬を撫でる。
どちらが纏ったものとも知れないアルコールの香りが鼻腔を満たし、そのまま、薄く色付いた柔らかな唇へ己のそれを押し当てた。
それは軽く触れるだけのものではなく――彼女を離すつもりなど更々ないのだという意思を示すような口付けだった。
相変わらずナマエは何も無かったかのように、穏やかな寝顔を浮かべたまま。
その無垢な寝顔は、私の胸に焦燥の芽を容赦なく植え付けた。
凭れかかったナマエを腕にそっと抱き直す。
――そんな日は来ない。
ああも言っておきながら、確かめるような事をする私も私だ。
自分の行いにため息を一つ零して、眠るナマエを抱き上げる。
ベッドまで運ぶ途中、腕の中の温もりが僅かにかに身じろぐ。まつ毛が震え、ゆるりと瞼が開いた。
「んー……」
「すみません、起こしてしまいましたね」
開かれた双眸は茫洋としていて、焦点が合っていない。
微睡んで再び瞳を閉じ、胸元に顔を擦り寄せてきた。
思わず、足を止める。
「んふふ……」
「……おやおや。今日は随分と甘えたですね」
(いつもこれだけ素直であれば、こうも頭を悩ませずに済むのだが)
再び歩き出し、今度こそ彼女の体をベッドに横たえた。
ナマエは、何事もなかったかのように穏やかな寝息を立てている。
「全く……今後、私の目の届く場所でしか飲ませられませんね」
顔にかかった髪を指でそっと払いのけると、視線はそのまま無防備な唇へと落ちる。
焦っているわけではない。
私はただ――確証が欲しいのだ。
「……」
無意識に身体が動く。
徐に伸ばした指先が淡く色付いた唇に触れる寸前、ベッドの軋む音がして我に返る。
またしても、自分の行いに小さく息を吐いた。
「……私は我慢強い方だと、思っていたのですが」
存外そうでもないようだ。彼女を前にすると。
理性はこうも容易く揺らいでしまうのだから。
明日にはここを発つ。
明日からはまたいつもの日常が始まるのだ。
果たしてこの感情を押し殺したまま、いつも通りの日々に戻れるのだろうか――そんなものは愚問だ。
この行き場のない感情を燻ぶらせたまま、素知らぬ顔で傍らに立つことには慣れている。
「その時が来るまで――せいぜい、道化を演じてみせますよ」
20260311
少なくとも、目の前で上機嫌に笑っている彼女を見る限り、その説は間違いではないようだ。
「えへへー楽しいれすねっ! ジェイドぉ!」
「……ええ。あなたが楽しそうで何よりですよ」
こんなふうに陽気なナマエを見るのは初めてだ――いや。二度目、だったか。
二年前にもこんな風にグランコクマの酒場にて、似たような光景を目の当たりにしたものだ。
酔っ払った張本人は、何も覚えていないようだが……。
ならば、今日という日も何も覚えていないと彼女は口にするのだろうか?
それでも、頬を上気させ、上機嫌にケラケラと笑う彼女は二年前と何も変わっていないということだ。
その事実は、少しばかり私を堪らなくさせた。
私もまた、彼女のように非日常の雰囲気とやらに飲み込まれ、らしくなく浮かれてしまっているのかもしれない。
「んえー!? ジェイドはぁ、楽しくないんれすかぁ?」
「少々、飲みすぎです。呂律が回っていませんよ?」
「いいえ! 私は酔っれまれんっ!」
「今度は酔っ払いの常套句ですか……期待を裏切りませんねぇ」
彼女の手からワイングラスを取り上げると、ナマエは呂律の回らないまま酔ってないと言い張って、私の手からワイングラスを奪い返す。
座った目で何を言う。
それは、今この瞬間において一番信用ならない言葉だった。
朝一番でグランコクマを追い出された後、ゆったりとケテルブルクまで船旅。スパで寛ぎ、食事に舌鼓をうつ。
そして今、窓の外で舞う雪を眺めながら二人だけのゆったりとした時間を過ごしている。
軍務に忙殺される日々を送る私達にとって、今日一日は確かに非日常だったろう。
彼女を連れ戻してから、こんな風に酒を飲んだのは初めての事だ。
今日くらいは多めに見てもいいのかもしれない。
「!」
不意に、ナマエが私の手を取った。
「熱い……」と一言漏らしたかと思うと、そのまま私の手を自分の頬へと当てがう。
掌にじんわりと広がってゆく熱。
まろい肌の感触と、ぬくもりを帯びた息遣い。
「んうー……ジェイドの手、冷たくて気持ちー……、…………死んでる?」
蕩けていた瞳が、絶望の色に染まった。
私は死んでいない。死霊使いと呼ばれても、私自身が骸になった覚えはない。
よほど私の手が冷たかったらしい。
だからといって死体と思われるほどに冷えていた自覚はなく、単にアルコールで彼女自信の体温が上がっているだけだろう。
「勝手に殺さないで下さい。あなたが火照っているからですよ。全く……羽目を外しすぎるのも考えものですね」
「いいじゃないれふかー! だって今日はー……新、りょ……れしょう?」
「はい?」
いよいよ何を言っているのか分からなくなった。
しまいには船まで漕ぎ出して、中身が溢れる前に彼女の手からワイングラスを取り上げ、テーブルの上に置く。
屈めた上体を起こした時、またしても彼女は私の想定外の行動を取った。
あろうことか私の胸元へと、その身を預けてきたのだ。
普段の彼女からはとても考えられない行動に、言葉を失う。瞬きもせず、指先一つ動かすことすら忘れてしまって。
胸元へ凭れかかるナマエも微動だにしない。
まさか、この状態で眠ってしまったのだろうかと、細い肩に触れた時だった――「もしも」と、くぐもった声がポツリと胸元から響いたのは。
「……もしもぉ、この関係が解消されてぇ、お互い別々の道を歩んだとするじゃないれふか?」
俯いたまま凭れる彼女の表情は窺い知れない。
笑っているのか、複雑な面持ちか、はたまた無表情であるのか――。
しかし、ひとたび表情を窺ってしまえば、積み上げてきたものが全てが崩れ去ってしまいそうな気がして、何も行動に移せずにいる。
知らずに済むなら、知らなくていい物事だってある。今はまさにそれだ。
「……今、そんな話をするのですか? 新婚旅行中にしては随分と味気ない話題ですね」
「んー、今……だから……かなぁ」
ナマエの手が、私の衣服をぎゅうっと握った。
それが、まるで縋るようだと感じたのは、きっと私のエゴにすぎないのだろうが――。
「ジェイドはきっともう、結婚なんてしないれしょ……?」
「さて、どうでしょうか?」
「…………しないれしょ?」
「はいはい。しませんよ……きっと」
どうやら彼女は、私を“忘れられない元妻を想い続け、独り身を貫く男”に仕立て上げたいらしい。
随分と都合のいい男にしてくれる。
やっと私の返答がお気に召したのか、それともただ酔っ払って気分がいいだけなのか定かではない。
こちらを見上げるナマエの瞳は相変わらずとろりと熟れている。
双眸が柔和に細められ、アルコールで赤く染まった顔はくしゃりと満足げに崩れた。
「だと思った! だからぁ、ジェイドがひとりぼっちで寂しくなった時はぁ、仕方がないのれぇ、私が結婚してさしあげまーす!」
「おや、それは随分と魅力的なお誘いですね」
「んふふ……れしょー? 有能な部下にぃ感謝しろくださいっ!」
言いたい事を言い切って、彼女はそのまま糸が切れた操り人形のようにパッタリと動かなくなる。
胸元に倒れ込む華奢な体躯は脱力し、僅かに重みが増した。
じきに小さな寝息が聞こえてくる様子から、今度は本当に眠ってしまったらしい。
「……はぁ」
自分のワイングラスも並べるようにテーブルへ置くと、胸元で眠るナマエに再び視線を落とす。
「無邪気に残酷な事を言いますね……あなたは」
独りごちた言葉はナマエに届くことなく静寂で満たされた室内に溶けて消える。
指先で赤味を帯びた頬にそっと触れると、脳内ではさきほどの言葉が反芻される。
『……もしもぉ、この関係が解消されてぇ、お互い別々の道を歩んだとするじゃないれふか?』
「残念ながら……」
指先がなだらかな頬の輪郭を滑り、唇をなぞる。
ため息混じりに乾いた笑みを溢した。
「“そんな日”は来ないんですよ、ナマエ――」
顔を寄せると、はらり……と、ひと束零れ落ちた髪が彼女の頬を撫でる。
どちらが纏ったものとも知れないアルコールの香りが鼻腔を満たし、そのまま、薄く色付いた柔らかな唇へ己のそれを押し当てた。
それは軽く触れるだけのものではなく――彼女を離すつもりなど更々ないのだという意思を示すような口付けだった。
相変わらずナマエは何も無かったかのように、穏やかな寝顔を浮かべたまま。
その無垢な寝顔は、私の胸に焦燥の芽を容赦なく植え付けた。
凭れかかったナマエを腕にそっと抱き直す。
――そんな日は来ない。
ああも言っておきながら、確かめるような事をする私も私だ。
自分の行いにため息を一つ零して、眠るナマエを抱き上げる。
ベッドまで運ぶ途中、腕の中の温もりが僅かにかに身じろぐ。まつ毛が震え、ゆるりと瞼が開いた。
「んー……」
「すみません、起こしてしまいましたね」
開かれた双眸は茫洋としていて、焦点が合っていない。
微睡んで再び瞳を閉じ、胸元に顔を擦り寄せてきた。
思わず、足を止める。
「んふふ……」
「……おやおや。今日は随分と甘えたですね」
(いつもこれだけ素直であれば、こうも頭を悩ませずに済むのだが)
再び歩き出し、今度こそ彼女の体をベッドに横たえた。
ナマエは、何事もなかったかのように穏やかな寝息を立てている。
「全く……今後、私の目の届く場所でしか飲ませられませんね」
顔にかかった髪を指でそっと払いのけると、視線はそのまま無防備な唇へと落ちる。
焦っているわけではない。
私はただ――確証が欲しいのだ。
「……」
無意識に身体が動く。
徐に伸ばした指先が淡く色付いた唇に触れる寸前、ベッドの軋む音がして我に返る。
またしても、自分の行いに小さく息を吐いた。
「……私は我慢強い方だと、思っていたのですが」
存外そうでもないようだ。彼女を前にすると。
理性はこうも容易く揺らいでしまうのだから。
明日にはここを発つ。
明日からはまたいつもの日常が始まるのだ。
果たしてこの感情を押し殺したまま、いつも通りの日々に戻れるのだろうか――そんなものは愚問だ。
この行き場のない感情を燻ぶらせたまま、素知らぬ顔で傍らに立つことには慣れている。
「その時が来るまで――せいぜい、道化を演じてみせますよ」
20260311