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髪を巻き上げ、頬を撫でてすり抜けて行く海を渡ってきたばかりの風は、潮と光の匂いがした。
空と海の境目が溶け合う世界は青一色に塗りつぶされ、陽光を浴びた海面が硝子を砕いたように煌めいている。
「なんだか気が抜けますねー……」
「それでいいのですよ。任務ではありませんから」
旅客船の甲板の手すりにだらしなく凭れかかる私の心情は、美しい情景とは打って変わって地を這うように重苦しい。
(私にとっては任務みたいなもんだよ……)
以前ダアトからグランコクマへ連行された際の軍用船舶での船旅を思えば、今回の船旅は何十倍も平穏だ。
あの時も傍らには大佐がいて、言うまでもなくこの度もしっかりと傍らを陣取っている。
どうやら私の隣は大佐の特等席であるらしい。
「そーですけど……軍艦でもないのに大佐と船旅なんて変な感じだなって」
「流石に“新婚旅行”で軍艦は引っ張り出せませんからねぇ」
「はぁ!? 慰安旅行です! い・あ・ん!」
「まあまあ、似たようなものじゃないですか」
「全然似てないから! 全っ然!」
基地であろうと宮殿であろうと、はたまた果てしなく広がる蒼海を進む船上であろうとも――私達は相変わらずなのだった。
事の発端は、今ではすっかりお決まりとなってしまったあのお方のせいなのだけれど……。
我らがピオニー・ウパラ・マルクト九世皇帝陛下である。
***
「どうしよう……二人揃って陛下に呼び出されるなんて、絶対ろくな事じゃないですよね……」
「同感ですね。また何かくだらない事でも思い付かれたのでしょう。全く……陛下のお戯れには頭が痛い」
「そうですねー……」
ピオニー陛下からの呼び出しを受け、基地から陛下の執務室へと向かう最中、二人分の盛大なため息が廊下に響く。
大佐の言葉に相槌を打つと、途端に彼は足を止めた。
数歩遅れて私も立ち止まり、振り返ると、纏わりつくようなじっとりとした視線が注がれている。
「ナマエ、あなたにも言っているのですよ?」
「へ?」
先程まで陛下への不平不満で志を同じくしていたはずなのに、どういうわけか、その矛先が私に向けられている。
「あのような珍妙な格好で陛下と楽しんでいた事、忘れたとは言わせませんよ?」
珍妙な格好ではない。あれはメイド服だ。
私が着用したばかりに珍妙に見えただけで、あれは使用人が着用するれっきとしたコスチュームである事を忘れないで頂きたい。
「い、いや……ああれはもう、なんていうか……時効でいいじゃないですか! ね!?」
「時効? 生憎とそんな言葉は知りませんね」
陰険鬼畜眼鏡!!
あれは、私の人生において消したい記憶ランキングTOP3に堂々ランクインを果たした、目を覆いたくなる痛ましい出来事だ。
事ある毎にほじくり返すのはやめて欲しい。
そう何度も釘を刺さなくても、あんな格好もう二度とするもんか。
そうこうしているうちに執務室まで行き至る。
陛下は私達の姿を認めるなり「遅いぞお前ら!」と待ちかねた様子で迎え入れた。
「陛下、どういった御用でしょう? 私だけでなくナマエも一緒にとの事でしたが……」
「そりゃあ、二人に関係のある事だからに決まっているだろう?」
陛下は机の上に散らばった書類を掻き分け、見つけ出した“何か”を私達に差し出す。
以前、整理整頓が不得手だと話していた彼らしく、その特性は執務机の上でも発揮されるようだ。
「お前達二人に暇をとらす。少しは夫婦らしい事でもしてこい!」
「!」
「はいいい!?」
眼前に突き付けられた物を繁々と見ると、それはケテルブルクの高級スパ――メガロフレデリカ・スパの会員証だった。
「新婚旅行、まだだったろう? ありがたく受け取れ」
「い、いやいやいやいや……ピオニー陛下、あの……私達の関係はご存知ですよね?」
外に声が漏れ聞こえないよう最新の注意を払いながら、小声で話す。
人払いをしてあるとはいえ、それなりの話題であるし、用心に用心を重ねるに越したことはない。
「私と大佐は……偽装夫婦なんですよ?」
「そんな事は勿論知っている。だがな、“嘘から出たまこと”ってのがあるだろう?」
ニヤリと口角をあげる陛下を見て、一抹の不安が過った。
「んな、ななっ! 陛下っ、ご冗談を……!」
「冗談なもんか。俺は割と本気でそうなればいいと思っている」
「ちょ、大佐! 大佐!!」
先程から口を開こうとしない大佐に、縋るような視線を向ける。
取り乱す私とは対照的に、大佐は落ちつき払った様子でため息をついただけだった。
「陛下、ご期待に添えず申し訳ありませんが、彼女の言う通り私達は偽装夫婦ですので、新婚旅行とやらは不要です」
「ふ、不要です!」
「それに、私が席を外せば執務が滞ります。陛下の政務に支障を来すわけにはまいりませんので」
「ま、まいりませんので!」
「ったく、お前らなぁ……」
陛下は不服とばかりに腕を組み、唇をへの字に曲げた。
いつもならこれで終わりだ。大佐に諌められ、この話は此処まで。
それなのに、陛下はよっぽど私達を“偽新婚旅行”とやらに行かせたいらしい。
再び机に無造作に置き捨てられた書類を漁り、見つけ出したそれを私達に突き付けた。
「残念だったなジェイド。お前達はもう、今日の午後から休暇を取ることになっている」
「へ?」
「……全く、どうしてこうも強引なのです?」
その書面は“休暇申請届”と記されている。
もちろん私達はそんな物にサインをしたことも、申請した覚えもない。
それは所謂、偽造された申請書だった。
偽造夫婦に偽造申請書。
偽りの私達にとって、これ以上ぴったりな書類といったら無い。
「では、行かざるを得ないようにしてやろう。ジェイド、ナマエ、お前らは今からケテルブルクへ新婚旅行に行け。“皇帝勅命”だ」
“皇帝勅命”
これを振りかざされて逆らえる者は誰一人として存在しない。
そもそもこんな事に使用する為の権限ではないと思うのだけれど……。
***
斯々然々。
そんなわけで私と大佐は宮殿からほっぽり出され、無理矢理に新婚旅行という名の慰安旅行へと行かざるを得なくなってしまったのだ。
「してやられましたね。まさか“こんなこと如き”に皇帝勅命権限を使用されるとは思いもしませんでしたから」
「そんなに凄い事なんですか? その勅命に背いたらどうなるんです?」
大佐は私の問いに、やれやれと言いたげに息をつく。
軍人でありながらそんな事も知らないのかと言いたげに。
「首が飛びます」
「へ?」
「勿論、物理的にですよ」
「へ、へぇ……」
到底、軽々しく口にする言葉ではない。
この世は理不尽だ。
命がけで新婚旅行ならぬ慰安旅行へ行かなければ首が飛ぶらしい。
実際、内容によってそんなことにはならず、せいぜい地下牢にぶち込まれるくらいなのだろうが、何らかの刑が下るのは間違いないのだろう。
「さて、そろそろ客室に戻りましょう」
「大佐お一人でどうぞー。私はまだ甲板に居ます。風も気持ちいいし」
客室で大佐と二人きりになるよりも、甲板で潮風を浴びながら海を眺めていた方が幾分か気分がマシだ。
ケテルブルクにつけば、嫌でも大佐の顔ばかり見て過ごすことになるのだろうし。
「そんなに悠長な事を言っていてよろしいのですか?」
「え?」
「……まあ、身を持って経験した方が理解出来るでしょう。忠告はしましたよ」
大佐はあっさりと背を向けて甲板を後にする。
その後数分もしないうちに雲行きが怪しくなる。気持ちのいい抜けるような晴天が一転、顔色を変え一面鈍色に染まってしまう。
和やかな海風も、冷気を纏って頬を刺すように吹き抜ける。遂には雪まで降ってきた。
周りを見渡すと先程まで散見されていた人影はなく、甲板には私一人だけだ。
『……まあ、身を持って経験した方が理解出来るでしょう。忠告はしましたよ』
不意に大佐の言葉を思い出す。
大佐は、この事を言っていたのだ。
「わあっ!」
「おっと」
寒さから逃げ出すように小走りで客室に戻ると、突然部屋のドアが開く。
出会い頭にぶつかりそうになり、よろけた体を大佐の片腕が軽々と受け止めた。
「相変わらず騒々しいですね」
「す、すみません……って、自分だけコート着てズルいですよ!」
「おや、私は忠告しましたよ?」
「だったら、もっと分かりやすく忠告して欲しかったです!」
部屋から出てきた大佐は、ちゃっかり軍のコートを着込んでいて、その腕にはもう一着同じものが抱えられていた。
そして、そのコートを私に差し出す。
「……ありがとう、ございます」
「かまうなと言ったり、かまえと言ったり……天邪鬼ですね」
「大佐に言われたくないですけどねー」
軽口を叩きながら、差し出されたコートを受け取り、袖を通すと、再び大佐と共に甲板へ出る。
「この寒さって事は、もうすぐケテルブルクですか?」
「ええ。もう、数分もしないうちにケテルブルク港が見えてきますよ」
「上陸する前に一つ、よろしいですか?」と、大佐は改めて口を開く。
改まる程なのだから、きっと何か大切な話だろうか?
慰安旅行を装って、実際は極秘の任務だった――とか。
身構えながら、大佐の言葉に耳を傾ける。
「ケテルブルクに着いたら私の事は是非、名前で呼んでください」
「……はい?」
そんなことは、全くなかった。
極秘任務などではなく、やっぱりこれはただの新婚旅行(偽)だった。
「成り行きとはいえ、せっかくの新婚旅行で大佐呼びは味気ないですからね」
私服の完全プライベートならまだしも、私達の服装は普段通り色気もクソもない軍服のままだ。
軍服姿で上司と部下にしか見えないのに、むしろ名前で呼び合う方が不自然なのでは?
「いや、別に大佐呼びで違和感ないですよ? 服装も軍服だし……」
「仕方がないでしょう? 準備をする間もなくあの場で宮殿を追い出されてしまったのですから」
「気持ちの問題ですよ」と付け足して、大佐はケテルブルク港に停泊した旅客船から悠々と降りてゆく。
その背中を、いかんともしがたい複雑な心境で見つめながら後を追った。
ケテルブルク港を経由して、足を踏み入れた懐かしい景色に心が弾む。
流石は銀世界の街ケテルブルク。同じオールドラントに存在する街とは思えない程、景観も、空気も――何もかも。外界とは隔絶された特別な空気がそこにはあった。
ピオニー陛下から暇をとらすと言われた時には気乗りがしなかったけれど、実際訪れてしまえば何だかんだテンションも上がって楽しみになってきた。
陛下の紹介なのだから、宿泊予定のホテルも貴族御用達の高級スパなのだろう。
「わぁ……一面銀世界。懐かしいなぁ」
「まあ、銀世界の街と呼ばれるくらいですからね」
私は思わず感嘆の声を上げる。
こんなにも幻想的な風景の中にいて、それでも大佐は特別何を感じた風もなく、至って普段通りさっぱりした反応だった。
「此処へ来るのは幼少期以来ですか?」
「はい。あれ以来立ち寄った事がなくて」
父と二人、各地を転々としていた中で立ち寄ったケテルブルクは、色々訪れた街の中でも特別な場所だ。
幼心にも離れがたかったのを覚えている。
でも、どうして離れがたかったんだろうか?
大切な思い出であることは確かだけれど、もっとこう、大切な何か――その核を忘れて知るような気がする。
「せっかくですから、ゆっくり街を見て回ってはいかがです? 生憎と私は所要がありますのでお付き合い出来かねますが……。“新婚旅行”だというのに申し訳ありません」
「“慰安旅行”なので付き添いは結構でーす。じゃあ、後からホテルのロビーで落ち合いましょう」
「ええ。初恋の男の子と運命的な再会……なんて事もありえるかもしれませんしねぇ」
大佐は茶化すような口振りで言う。
彼にとって取るに足らない初恋という代物も、私にとっては幼少期の大切な思い出だ。
「あの……その話題に触れる時、いつも馬鹿にしてますよね? ね!?」
「いえいえ、馬鹿になどしていませんよ。結構じゃないですか初恋。いいですねぇ、甘酸っぱくて」
「やっぱり馬鹿にしてるー!!」
うん。やっぱりこれは新婚旅行などではない。間違いなく慰安旅行で安心した。
今の私達には夫婦のふの字も感じられない。
「でも、いいんですかぁ? そんなに余裕ぶっちゃって。もし運命的な再会を果たして、相手も私の事を覚えていて、手に手を取って逃げちゃうかもしれませんよ?」
初恋の男の子と運命的な再会を果たし、そのまま愛の逃避行……なんてことには、まあ、ならないだろうけど。
それでも、一方的に揶揄われてばかりというのも面白くない。
ニヤニヤしながら試すような口振りで大佐に揺さぶりをかける。
「! ……ふふっ」
しかし、彼の反応は私が望むものとはかけ離れていた。
私の発言がどういうわけかツボに入ったようで、大佐は面食らった後、クツクツと喉を鳴らして笑い出す。
「ちょっと! 何で笑うんですか!?」
「いえ、すみません。あまりに突拍子もない事をあなたが言うものですから。……そうですねぇ、その時はどうしましょうか?」
一瞬、私を捉える瞳の奥の色が変わった気がして、びくりと肩が跳ねる。
けれど次の瞬間には、いつもの薄っぺらい笑みがそこにあった。
「見つけ出して、首輪でも付けてしまいましょうか?」
「ひぃっ! 冗談ですよ冗談……ははは」
「分かっていますよ。まあ、そんな事にはなりませんから安心してください。それではナマエ、後ほど」
「……はーい」
足下から立ち上ってくる悪寒にぶるりと身を震わせた。
ケテルブルクの気温のせいか、それとも一瞬垣間見えた大佐の冷えた目つきのせいだろうか?
「はー……さむっ……」
大佐と別れた後、身を縮こませながら別荘街とは逆方向へと足を向けた。
20260223
空と海の境目が溶け合う世界は青一色に塗りつぶされ、陽光を浴びた海面が硝子を砕いたように煌めいている。
「なんだか気が抜けますねー……」
「それでいいのですよ。任務ではありませんから」
旅客船の甲板の手すりにだらしなく凭れかかる私の心情は、美しい情景とは打って変わって地を這うように重苦しい。
(私にとっては任務みたいなもんだよ……)
以前ダアトからグランコクマへ連行された際の軍用船舶での船旅を思えば、今回の船旅は何十倍も平穏だ。
あの時も傍らには大佐がいて、言うまでもなくこの度もしっかりと傍らを陣取っている。
どうやら私の隣は大佐の特等席であるらしい。
「そーですけど……軍艦でもないのに大佐と船旅なんて変な感じだなって」
「流石に“新婚旅行”で軍艦は引っ張り出せませんからねぇ」
「はぁ!? 慰安旅行です! い・あ・ん!」
「まあまあ、似たようなものじゃないですか」
「全然似てないから! 全っ然!」
基地であろうと宮殿であろうと、はたまた果てしなく広がる蒼海を進む船上であろうとも――私達は相変わらずなのだった。
事の発端は、今ではすっかりお決まりとなってしまったあのお方のせいなのだけれど……。
我らがピオニー・ウパラ・マルクト九世皇帝陛下である。
***
「どうしよう……二人揃って陛下に呼び出されるなんて、絶対ろくな事じゃないですよね……」
「同感ですね。また何かくだらない事でも思い付かれたのでしょう。全く……陛下のお戯れには頭が痛い」
「そうですねー……」
ピオニー陛下からの呼び出しを受け、基地から陛下の執務室へと向かう最中、二人分の盛大なため息が廊下に響く。
大佐の言葉に相槌を打つと、途端に彼は足を止めた。
数歩遅れて私も立ち止まり、振り返ると、纏わりつくようなじっとりとした視線が注がれている。
「ナマエ、あなたにも言っているのですよ?」
「へ?」
先程まで陛下への不平不満で志を同じくしていたはずなのに、どういうわけか、その矛先が私に向けられている。
「あのような珍妙な格好で陛下と楽しんでいた事、忘れたとは言わせませんよ?」
珍妙な格好ではない。あれはメイド服だ。
私が着用したばかりに珍妙に見えただけで、あれは使用人が着用するれっきとしたコスチュームである事を忘れないで頂きたい。
「い、いや……ああれはもう、なんていうか……時効でいいじゃないですか! ね!?」
「時効? 生憎とそんな言葉は知りませんね」
陰険鬼畜眼鏡!!
あれは、私の人生において消したい記憶ランキングTOP3に堂々ランクインを果たした、目を覆いたくなる痛ましい出来事だ。
事ある毎にほじくり返すのはやめて欲しい。
そう何度も釘を刺さなくても、あんな格好もう二度とするもんか。
そうこうしているうちに執務室まで行き至る。
陛下は私達の姿を認めるなり「遅いぞお前ら!」と待ちかねた様子で迎え入れた。
「陛下、どういった御用でしょう? 私だけでなくナマエも一緒にとの事でしたが……」
「そりゃあ、二人に関係のある事だからに決まっているだろう?」
陛下は机の上に散らばった書類を掻き分け、見つけ出した“何か”を私達に差し出す。
以前、整理整頓が不得手だと話していた彼らしく、その特性は執務机の上でも発揮されるようだ。
「お前達二人に暇をとらす。少しは夫婦らしい事でもしてこい!」
「!」
「はいいい!?」
眼前に突き付けられた物を繁々と見ると、それはケテルブルクの高級スパ――メガロフレデリカ・スパの会員証だった。
「新婚旅行、まだだったろう? ありがたく受け取れ」
「い、いやいやいやいや……ピオニー陛下、あの……私達の関係はご存知ですよね?」
外に声が漏れ聞こえないよう最新の注意を払いながら、小声で話す。
人払いをしてあるとはいえ、それなりの話題であるし、用心に用心を重ねるに越したことはない。
「私と大佐は……偽装夫婦なんですよ?」
「そんな事は勿論知っている。だがな、“嘘から出たまこと”ってのがあるだろう?」
ニヤリと口角をあげる陛下を見て、一抹の不安が過った。
「んな、ななっ! 陛下っ、ご冗談を……!」
「冗談なもんか。俺は割と本気でそうなればいいと思っている」
「ちょ、大佐! 大佐!!」
先程から口を開こうとしない大佐に、縋るような視線を向ける。
取り乱す私とは対照的に、大佐は落ちつき払った様子でため息をついただけだった。
「陛下、ご期待に添えず申し訳ありませんが、彼女の言う通り私達は偽装夫婦ですので、新婚旅行とやらは不要です」
「ふ、不要です!」
「それに、私が席を外せば執務が滞ります。陛下の政務に支障を来すわけにはまいりませんので」
「ま、まいりませんので!」
「ったく、お前らなぁ……」
陛下は不服とばかりに腕を組み、唇をへの字に曲げた。
いつもならこれで終わりだ。大佐に諌められ、この話は此処まで。
それなのに、陛下はよっぽど私達を“偽新婚旅行”とやらに行かせたいらしい。
再び机に無造作に置き捨てられた書類を漁り、見つけ出したそれを私達に突き付けた。
「残念だったなジェイド。お前達はもう、今日の午後から休暇を取ることになっている」
「へ?」
「……全く、どうしてこうも強引なのです?」
その書面は“休暇申請届”と記されている。
もちろん私達はそんな物にサインをしたことも、申請した覚えもない。
それは所謂、偽造された申請書だった。
偽造夫婦に偽造申請書。
偽りの私達にとって、これ以上ぴったりな書類といったら無い。
「では、行かざるを得ないようにしてやろう。ジェイド、ナマエ、お前らは今からケテルブルクへ新婚旅行に行け。“皇帝勅命”だ」
“皇帝勅命”
これを振りかざされて逆らえる者は誰一人として存在しない。
そもそもこんな事に使用する為の権限ではないと思うのだけれど……。
***
斯々然々。
そんなわけで私と大佐は宮殿からほっぽり出され、無理矢理に新婚旅行という名の慰安旅行へと行かざるを得なくなってしまったのだ。
「してやられましたね。まさか“こんなこと如き”に皇帝勅命権限を使用されるとは思いもしませんでしたから」
「そんなに凄い事なんですか? その勅命に背いたらどうなるんです?」
大佐は私の問いに、やれやれと言いたげに息をつく。
軍人でありながらそんな事も知らないのかと言いたげに。
「首が飛びます」
「へ?」
「勿論、物理的にですよ」
「へ、へぇ……」
到底、軽々しく口にする言葉ではない。
この世は理不尽だ。
命がけで新婚旅行ならぬ慰安旅行へ行かなければ首が飛ぶらしい。
実際、内容によってそんなことにはならず、せいぜい地下牢にぶち込まれるくらいなのだろうが、何らかの刑が下るのは間違いないのだろう。
「さて、そろそろ客室に戻りましょう」
「大佐お一人でどうぞー。私はまだ甲板に居ます。風も気持ちいいし」
客室で大佐と二人きりになるよりも、甲板で潮風を浴びながら海を眺めていた方が幾分か気分がマシだ。
ケテルブルクにつけば、嫌でも大佐の顔ばかり見て過ごすことになるのだろうし。
「そんなに悠長な事を言っていてよろしいのですか?」
「え?」
「……まあ、身を持って経験した方が理解出来るでしょう。忠告はしましたよ」
大佐はあっさりと背を向けて甲板を後にする。
その後数分もしないうちに雲行きが怪しくなる。気持ちのいい抜けるような晴天が一転、顔色を変え一面鈍色に染まってしまう。
和やかな海風も、冷気を纏って頬を刺すように吹き抜ける。遂には雪まで降ってきた。
周りを見渡すと先程まで散見されていた人影はなく、甲板には私一人だけだ。
『……まあ、身を持って経験した方が理解出来るでしょう。忠告はしましたよ』
不意に大佐の言葉を思い出す。
大佐は、この事を言っていたのだ。
「わあっ!」
「おっと」
寒さから逃げ出すように小走りで客室に戻ると、突然部屋のドアが開く。
出会い頭にぶつかりそうになり、よろけた体を大佐の片腕が軽々と受け止めた。
「相変わらず騒々しいですね」
「す、すみません……って、自分だけコート着てズルいですよ!」
「おや、私は忠告しましたよ?」
「だったら、もっと分かりやすく忠告して欲しかったです!」
部屋から出てきた大佐は、ちゃっかり軍のコートを着込んでいて、その腕にはもう一着同じものが抱えられていた。
そして、そのコートを私に差し出す。
「……ありがとう、ございます」
「かまうなと言ったり、かまえと言ったり……天邪鬼ですね」
「大佐に言われたくないですけどねー」
軽口を叩きながら、差し出されたコートを受け取り、袖を通すと、再び大佐と共に甲板へ出る。
「この寒さって事は、もうすぐケテルブルクですか?」
「ええ。もう、数分もしないうちにケテルブルク港が見えてきますよ」
「上陸する前に一つ、よろしいですか?」と、大佐は改めて口を開く。
改まる程なのだから、きっと何か大切な話だろうか?
慰安旅行を装って、実際は極秘の任務だった――とか。
身構えながら、大佐の言葉に耳を傾ける。
「ケテルブルクに着いたら私の事は是非、名前で呼んでください」
「……はい?」
そんなことは、全くなかった。
極秘任務などではなく、やっぱりこれはただの新婚旅行(偽)だった。
「成り行きとはいえ、せっかくの新婚旅行で大佐呼びは味気ないですからね」
私服の完全プライベートならまだしも、私達の服装は普段通り色気もクソもない軍服のままだ。
軍服姿で上司と部下にしか見えないのに、むしろ名前で呼び合う方が不自然なのでは?
「いや、別に大佐呼びで違和感ないですよ? 服装も軍服だし……」
「仕方がないでしょう? 準備をする間もなくあの場で宮殿を追い出されてしまったのですから」
「気持ちの問題ですよ」と付け足して、大佐はケテルブルク港に停泊した旅客船から悠々と降りてゆく。
その背中を、いかんともしがたい複雑な心境で見つめながら後を追った。
ケテルブルク港を経由して、足を踏み入れた懐かしい景色に心が弾む。
流石は銀世界の街ケテルブルク。同じオールドラントに存在する街とは思えない程、景観も、空気も――何もかも。外界とは隔絶された特別な空気がそこにはあった。
ピオニー陛下から暇をとらすと言われた時には気乗りがしなかったけれど、実際訪れてしまえば何だかんだテンションも上がって楽しみになってきた。
陛下の紹介なのだから、宿泊予定のホテルも貴族御用達の高級スパなのだろう。
「わぁ……一面銀世界。懐かしいなぁ」
「まあ、銀世界の街と呼ばれるくらいですからね」
私は思わず感嘆の声を上げる。
こんなにも幻想的な風景の中にいて、それでも大佐は特別何を感じた風もなく、至って普段通りさっぱりした反応だった。
「此処へ来るのは幼少期以来ですか?」
「はい。あれ以来立ち寄った事がなくて」
父と二人、各地を転々としていた中で立ち寄ったケテルブルクは、色々訪れた街の中でも特別な場所だ。
幼心にも離れがたかったのを覚えている。
でも、どうして離れがたかったんだろうか?
大切な思い出であることは確かだけれど、もっとこう、大切な何か――その核を忘れて知るような気がする。
「せっかくですから、ゆっくり街を見て回ってはいかがです? 生憎と私は所要がありますのでお付き合い出来かねますが……。“新婚旅行”だというのに申し訳ありません」
「“慰安旅行”なので付き添いは結構でーす。じゃあ、後からホテルのロビーで落ち合いましょう」
「ええ。初恋の男の子と運命的な再会……なんて事もありえるかもしれませんしねぇ」
大佐は茶化すような口振りで言う。
彼にとって取るに足らない初恋という代物も、私にとっては幼少期の大切な思い出だ。
「あの……その話題に触れる時、いつも馬鹿にしてますよね? ね!?」
「いえいえ、馬鹿になどしていませんよ。結構じゃないですか初恋。いいですねぇ、甘酸っぱくて」
「やっぱり馬鹿にしてるー!!」
うん。やっぱりこれは新婚旅行などではない。間違いなく慰安旅行で安心した。
今の私達には夫婦のふの字も感じられない。
「でも、いいんですかぁ? そんなに余裕ぶっちゃって。もし運命的な再会を果たして、相手も私の事を覚えていて、手に手を取って逃げちゃうかもしれませんよ?」
初恋の男の子と運命的な再会を果たし、そのまま愛の逃避行……なんてことには、まあ、ならないだろうけど。
それでも、一方的に揶揄われてばかりというのも面白くない。
ニヤニヤしながら試すような口振りで大佐に揺さぶりをかける。
「! ……ふふっ」
しかし、彼の反応は私が望むものとはかけ離れていた。
私の発言がどういうわけかツボに入ったようで、大佐は面食らった後、クツクツと喉を鳴らして笑い出す。
「ちょっと! 何で笑うんですか!?」
「いえ、すみません。あまりに突拍子もない事をあなたが言うものですから。……そうですねぇ、その時はどうしましょうか?」
一瞬、私を捉える瞳の奥の色が変わった気がして、びくりと肩が跳ねる。
けれど次の瞬間には、いつもの薄っぺらい笑みがそこにあった。
「見つけ出して、首輪でも付けてしまいましょうか?」
「ひぃっ! 冗談ですよ冗談……ははは」
「分かっていますよ。まあ、そんな事にはなりませんから安心してください。それではナマエ、後ほど」
「……はーい」
足下から立ち上ってくる悪寒にぶるりと身を震わせた。
ケテルブルクの気温のせいか、それとも一瞬垣間見えた大佐の冷えた目つきのせいだろうか?
「はー……さむっ……」
大佐と別れた後、身を縮こませながら別荘街とは逆方向へと足を向けた。
20260223