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見上げた空は雲一つなく晴れ渡っているのに、私の心は暗雲が立ち込め今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
誰がそうさせたのか今更言葉にするまでもなく、遠く離れた場所に居て尚、私の心を掻き乱す彼の名前なんて意地でも口にしたくない。
脳裏に彼の姿が浮かんだ瞬間――私の心には突風が吹き荒れ、白波が立つ。
只今、暴風波浪警報発令中。
「おいおい! 力任せに洗ったらジェイドが痛がってるじゃないか」
「へ? うわぁぁあ! ゴ、ゴメンね可愛い方のジェイドー……」
そんなこんなで感情の赴くまま一心不乱に手を動かしてしまったばかりに、泡に塗れたブウサギジェイドが手元でぐったりと項垂れ「ブヒブヒ」と力なく鳴き声を漏らしていた。
毎度弁明しているような気がするが、今一度。
ブウサギジェイドには何の罪もない。
たとえ目の敵にしている彼と同じ名前であろうとも。
ブウサギ洗いという名の癒しイベントですら八つ当たりの対象に変えてしまった私は、余程毒されているようだった。
「それで今度はジェイドと何があったんだ?」
「べっっつにぃ? ……ていうか、何で大佐が前提なのかな!?」
「そうカッカするなよ。キミの喜怒哀楽にはいつもジェイドが絡んでるだろう? 必然的に今回もそうなんじゃないかって思っただけさ」
「…………ふぅん」
止めていた手を再び動かしながら素気ない反応を返す私を見て、ガイは困ったように笑う。
「ハハハ……」と、彼の口から溢れる乾いた笑い声からは、やれやれと心情が漏れ聞こえるようだった。
喜怒哀楽にはいつも大佐がからんでいると指摘されたことに如何ともしがたい心境に陥ってしまう。
ダアトから強制連行されてからというもの、この宮殿や基地を往復するだけの日々を送る私にとって大佐は誰よりも身近な存在だ。
此処マルクトの地において、現在、私の世界は全てとはいかずとも大半を大佐が占めている。それが気に食わない。
ガイの指摘通り今回も例外なく大佐絡みであったから反論出来ず、不貞腐れる事しか出来ないのだ。
今度は一体何があったのか……それは昨日、朝の定例軍議を終えた大佐が執務室に戻って来た時に遡る。
***
「どういうことですか!?」
執務室に響き渡る私の声は苛立ちを孕んでいた。
此方を一顧とせず、理由も告げない。
ただ淡々と決定事項だけを突きつける大佐の振る舞いが私の苛立ちに拍車をかける。
「聞こえませんでしたか? あなたには今回、第三師団の任務から外れてもらうと言ったんですよ」
「それはさっき聞きましたよ! 私が知りたいのは、その理由で――」
大佐の行く先々ピタリと張り付いて離れない私に漸く目を向けたかと思うと「それが分からない内は当分大人しくしていてください」と呆れながら指で眼鏡を押し上げた。
その口振りは、まるで私が少しも反省していないみたいじゃないか。
けれど事実、大佐はそうだと言っている。
当分、第三師団の任務には私を連れて行かないだなんて恐ろしい事を。
書類整理ばかりの地獄の毎日に戻るのかと思うと、気が触れそうだ。
それだけは何があっても避けたい。
「……分かってます。先日の任務で私が大佐に迷惑をかけたからでしょう?」
「違いますよ。あなたの取った軽弾みな行動は部隊を危険な目に合わせる可能性があったからです」
「……うぅ」
仰る通りで御座います。
それ以外の言葉が見つからない的確かつ鋭い指摘だった。
「で、でも……結果的に被害は私一人だけだったわけだし」
「ええ、結果的にはそうですね。ですが、次もその程度で済む保証はありますか?」
「それは……」
――なんとも言えない。
唇を食み、言葉を飲み込んだ。
「いいですか? 我々は組織です。あなたにとっては“その程度”であっても一歩間違えば大きな歪みに繋がる。そんな事はあってはならない。あなたはその重大さをきちんと理解すべきです」
淡々と語る軍人としての大佐の言葉は、軍人紛いの私に重くのしかかった。
正論を突き付けられ、行き場のない感情を飲み込むように拳を握る。
「ご理解頂けたようでなにより。今回の任務は数日を要しますから頭を冷やすには打って付けかと思いますよ。くれぐれも面倒事など起こさず大人しく留守番をしていてください。反省の意味も込めて」
しかし、そこで諦める私じゃない。
頭では理解出来ても、気持ちは収まらなかった。
言葉が無理なら、感情に訴えかける。
「お願い、ジェイド……やっぱり私も連れてって? 反省してるから」
「駄目です」
軍服の裾を控えめに掴み、潤んだ瞳で見上げるも、大佐は間髪入れずにこやかに却下した。見事撃沈。
「ケチ! 大佐のケチケチ眼鏡!」
「ケチケチ眼鏡で結構です」
「鬼畜腹黒目が、ね――っ!」
言葉にしても駄目、感情に訴えても駄目、体を使っても駄目。
全て袖にされた私がとった行動と言えば幼稚な悪口を浴びせる事だった。端的に言えばただの八つ当たり。
不貞腐れ、悪口三昧な私の顎を不意に伸びた手が掬い上げる。
「そうですねぇ……もう少し扇情的に誘って頂けるなら考えなくもないですが」
大佐は今にも唇を奪わんとして顔を寄せてくるものだから、慌てて顎に掛かった彼の手を払って距離を取った。
「――ひぃっ! い、いいえ! 大人しく留守番しておきます!!」
「はい。宜しくお願いします。私が不在だからと、くれぐれも短慮を起こさないでくださいね。例えば、これをまたとない機会とし脱走を試みる……ですとか」
「は、はは……そんな刺激的な事はしませんよ」
白状しよう。正直、脱走の二文字が脳裏を過った。
けれど今、私は曲がりなりにも彼の妻なのだ。
偽物でも嘘っぱちでも残念ながらナマエ・カーティスである事に変わりない。
ふと、彼の発言に違和感を覚える。
二年前とはわけが違うのだから、そう安々と脱走出来る立場ではない。
それを大佐だって分かっているだろうし、再度釘を刺す必要など無いだろう。
先程の発言は、実に彼らしくないと思えてならなかったのだ。
それに、たとえ逃げ出したとしても、持てる全てを使って直ぐさま見つけ出されるに決まっている。
「それはよかった。まあ、そうもあからさまに寂しそうな顔をされれば後ろ髪を引かれなくもないですが」
「はあ!? してませ――っ!」
大佐はポンと私の頭に手を乗せて、緩く撫でる。
私を見つめる双眸は柔和に細められていた。
不意に見せる優しげな眼差しは狡い。
今回もまた私は性懲りもなく彼に言いくるめられてしまったのだから。
***
――回想終了。
と、まあ現在進行系で盛大な置いてけぼりをくっているというわけ。
後ろ髪を引かれるだの何だの言っておきながら、何の躊躇もなく私を残し、大佐率いる第三師団は早朝に基地を出た。
この際割り切って存分に羽を伸ばすのも悪くない。鬼の居ぬ間になんとやら。
けれど、息巻いたところで何処か張り合いを感じないのは、何だかんだ毎日傍らには大佐が居たからだ。
あのネチネチとした嫌味が聞こえないとなると、それはそれで物足りない――知らず知らずの内に馴染んでしまったそれは、今や生活の一部として機能している。
ああ、なんて事。最悪だ。
「……どーせ私が足手まといだから置いてったんだよ大佐は」
「そうなのか?」
「そうだよ。だって、反省してるって言ったのに聞く耳持たずって感じで強制的にお留守番だもん」
隣でブウサギサフィールを洗うガイは、その手を止めて思考を巡らせる。
まるで抱いた違和感の正体を探るように。
「いや、それは足手まといというより……」と意味深に呟く。
そして、何かに思い至ったのか、うんうんと頷いて自己完結させてしまった。
その内容を打ち明けてくれる様子はなく、隣で見ていた私にとって彼の行動は焦れったくて仕方がない。
我慢ならず、言葉の続きを強請る様に身を寄せた。
「足手まといというより、何?」
「ん? ああ、いや……こういう事は俺からじゃなくて、キミがきちんと気付くべき事だと思うよ」
「どういう事?」
「分かり辛いジェイドなりの守り方って事さ」
「守る? 大佐が私を? いやいやいや……大佐は嫌味ったらしいだけだよ」
大佐が私の為に心を砕いてくれるわけがない。そんな所、想像すら難しい。
「それこそ決めつけなんじゃないか? 任務で宮殿を立つ前、ジェイドから聞いたよ。キミ達夫婦の事」
「え!?」
「キミの話相手に。いざとなれば味方になってやって欲しいって珍しく頭を下げるもんだから……あれには流石に驚かされたな」
「嘘でしょ……」
正直、あの大佐が?としか思えない。
猜疑心が胸を占める私にとって“有り得ない”が率直な感想だった。
一体どんな風の吹き回しなのだろう?
私を思っての事なのか、それとも――また別の思惑なのか……。
「ちゃんと考えてるんだよ、ジェイドなりに。少なくともキミはジェイドにとって、どうでもいい人間ではないってことだろう?」
「それは、まぁ……」
偽装夫婦を演じている以上、どうでもいい人間ではないと理解しているけれど……。
もし仮に――万が一、いや億が一、大佐が私に対して“脱走した元部下以上の感情”を抱いていたとしても、私はきっとその事実を受け入れられないだろう。
これ以上はやめよう。仮定の話など無意味だ。
それでも、彼はきちんと約束を果たしてくれたのだ。
そこは感謝しなければならない。
たとえ私を置いてけぼりにしたとしても、だ。
「でもさー、ちょっと分かり辛いと思うんだよねぇ」
「ああ、それは同感だ」
手元のブウサギジェイドを見て、此処には居ない同じ名前の彼へ思いを馳せた。
「あ、そうだ。私、ガイにお願いがあるの」
「お願い? まあ、俺に出来ることなら協力するよ」
「本当!?」
前向きな返事をもらって気分が高揚した私は、泡の付いた手でガイの手をぎゅっと握る。
「ひぃっ」と小さく漏れた悲鳴と共にガイの体が強張り、表情が引き攣る。
その様子に、つい失念していた彼の特性を思い出して手を離して謝罪する。
一瞬の動揺から平静を取り戻したガイはほっと一息吐きながら内容を尋ねた。
「はぁ……それで、俺は何に協力すればいいんだ?」
「うん、実は――」
言葉より先にガイの腰を指差す。
「私に剣術を教えてください!」
「剣術? なんでまた……」
「話すと長くなるんだよね……まあ、斯々然々で。とにかく、私が剣を扱えれば今後置いてけぼりをくう事は無くなるの。だから剣術を教えてほしい!」
「まったく事情が分からないんだが……キミには譜術があるじゃないか。それだって立派な武器だろう?」
ガイが困惑するのも無理はない。
彼が一番知りたい事情を斯々然々と端折ったのだから。
けれど私は今、大佐が不在であるこの瞬間に何としてでも約束を取り付けなければならない。
今回、大佐が下した判断を突き付けられた時に思い知った。
今の私では大佐の中で選択肢にすらなれない事実。
ただ足手まといだと切って捨てた彼の認識を覆すためにも今、変わらなければ。
「確かにそうだけど、もしもの武器が使えなくなった時、今の私には何も抗う術がない。技を習得出来なくても構わないの。自分の身が周囲の枷にならない程度に剣を扱えたらそれで十分。どうか、お願いします」
頭を下げ、今一度願い出る。
ガイは黙って私の言葉に耳を傾けていた。
今までにない真摯な態度に心打たれたのか、一呼吸置いてガイは、ふっと小さく笑みを零した。
顔を上げると、緑がかった美しい青の瞳が柔和に細められる。
「……わかったよ。その点に関しては俺の扱うシグムント流は生き残る事に重点を置いてる。キミにピッタリだしな」
「ガイ……ありがとう! 師匠!」
「わ、分かったから急に寄らないでくれ!」
勢い余って立ち上がり、両手を広げると、その先を察したガイがいち早く距離を取った。
なるほど。彼もまた大佐同様、私の行動が読めてきたようだ。
そして、早速ブウサギ洗いの後に剣術稽古の約束を取り付けた。
ふん、今に見ていろ。私は足手まといなんかじゃない。
大佐の鼻を明かす日が訪れるのかと思うと、口角が得意げにつり上がる。
“気心の知れた良き話し相手兼、剣術師範代”
こうして人知れず、私達の間柄に新たな称号が追加されたのだった。
20260127
誰がそうさせたのか今更言葉にするまでもなく、遠く離れた場所に居て尚、私の心を掻き乱す彼の名前なんて意地でも口にしたくない。
脳裏に彼の姿が浮かんだ瞬間――私の心には突風が吹き荒れ、白波が立つ。
只今、暴風波浪警報発令中。
「おいおい! 力任せに洗ったらジェイドが痛がってるじゃないか」
「へ? うわぁぁあ! ゴ、ゴメンね可愛い方のジェイドー……」
そんなこんなで感情の赴くまま一心不乱に手を動かしてしまったばかりに、泡に塗れたブウサギジェイドが手元でぐったりと項垂れ「ブヒブヒ」と力なく鳴き声を漏らしていた。
毎度弁明しているような気がするが、今一度。
ブウサギジェイドには何の罪もない。
たとえ目の敵にしている彼と同じ名前であろうとも。
ブウサギ洗いという名の癒しイベントですら八つ当たりの対象に変えてしまった私は、余程毒されているようだった。
「それで今度はジェイドと何があったんだ?」
「べっっつにぃ? ……ていうか、何で大佐が前提なのかな!?」
「そうカッカするなよ。キミの喜怒哀楽にはいつもジェイドが絡んでるだろう? 必然的に今回もそうなんじゃないかって思っただけさ」
「…………ふぅん」
止めていた手を再び動かしながら素気ない反応を返す私を見て、ガイは困ったように笑う。
「ハハハ……」と、彼の口から溢れる乾いた笑い声からは、やれやれと心情が漏れ聞こえるようだった。
喜怒哀楽にはいつも大佐がからんでいると指摘されたことに如何ともしがたい心境に陥ってしまう。
ダアトから強制連行されてからというもの、この宮殿や基地を往復するだけの日々を送る私にとって大佐は誰よりも身近な存在だ。
此処マルクトの地において、現在、私の世界は全てとはいかずとも大半を大佐が占めている。それが気に食わない。
ガイの指摘通り今回も例外なく大佐絡みであったから反論出来ず、不貞腐れる事しか出来ないのだ。
今度は一体何があったのか……それは昨日、朝の定例軍議を終えた大佐が執務室に戻って来た時に遡る。
***
「どういうことですか!?」
執務室に響き渡る私の声は苛立ちを孕んでいた。
此方を一顧とせず、理由も告げない。
ただ淡々と決定事項だけを突きつける大佐の振る舞いが私の苛立ちに拍車をかける。
「聞こえませんでしたか? あなたには今回、第三師団の任務から外れてもらうと言ったんですよ」
「それはさっき聞きましたよ! 私が知りたいのは、その理由で――」
大佐の行く先々ピタリと張り付いて離れない私に漸く目を向けたかと思うと「それが分からない内は当分大人しくしていてください」と呆れながら指で眼鏡を押し上げた。
その口振りは、まるで私が少しも反省していないみたいじゃないか。
けれど事実、大佐はそうだと言っている。
当分、第三師団の任務には私を連れて行かないだなんて恐ろしい事を。
書類整理ばかりの地獄の毎日に戻るのかと思うと、気が触れそうだ。
それだけは何があっても避けたい。
「……分かってます。先日の任務で私が大佐に迷惑をかけたからでしょう?」
「違いますよ。あなたの取った軽弾みな行動は部隊を危険な目に合わせる可能性があったからです」
「……うぅ」
仰る通りで御座います。
それ以外の言葉が見つからない的確かつ鋭い指摘だった。
「で、でも……結果的に被害は私一人だけだったわけだし」
「ええ、結果的にはそうですね。ですが、次もその程度で済む保証はありますか?」
「それは……」
――なんとも言えない。
唇を食み、言葉を飲み込んだ。
「いいですか? 我々は組織です。あなたにとっては“その程度”であっても一歩間違えば大きな歪みに繋がる。そんな事はあってはならない。あなたはその重大さをきちんと理解すべきです」
淡々と語る軍人としての大佐の言葉は、軍人紛いの私に重くのしかかった。
正論を突き付けられ、行き場のない感情を飲み込むように拳を握る。
「ご理解頂けたようでなにより。今回の任務は数日を要しますから頭を冷やすには打って付けかと思いますよ。くれぐれも面倒事など起こさず大人しく留守番をしていてください。反省の意味も込めて」
しかし、そこで諦める私じゃない。
頭では理解出来ても、気持ちは収まらなかった。
言葉が無理なら、感情に訴えかける。
「お願い、ジェイド……やっぱり私も連れてって? 反省してるから」
「駄目です」
軍服の裾を控えめに掴み、潤んだ瞳で見上げるも、大佐は間髪入れずにこやかに却下した。見事撃沈。
「ケチ! 大佐のケチケチ眼鏡!」
「ケチケチ眼鏡で結構です」
「鬼畜腹黒目が、ね――っ!」
言葉にしても駄目、感情に訴えても駄目、体を使っても駄目。
全て袖にされた私がとった行動と言えば幼稚な悪口を浴びせる事だった。端的に言えばただの八つ当たり。
不貞腐れ、悪口三昧な私の顎を不意に伸びた手が掬い上げる。
「そうですねぇ……もう少し扇情的に誘って頂けるなら考えなくもないですが」
大佐は今にも唇を奪わんとして顔を寄せてくるものだから、慌てて顎に掛かった彼の手を払って距離を取った。
「――ひぃっ! い、いいえ! 大人しく留守番しておきます!!」
「はい。宜しくお願いします。私が不在だからと、くれぐれも短慮を起こさないでくださいね。例えば、これをまたとない機会とし脱走を試みる……ですとか」
「は、はは……そんな刺激的な事はしませんよ」
白状しよう。正直、脱走の二文字が脳裏を過った。
けれど今、私は曲がりなりにも彼の妻なのだ。
偽物でも嘘っぱちでも残念ながらナマエ・カーティスである事に変わりない。
ふと、彼の発言に違和感を覚える。
二年前とはわけが違うのだから、そう安々と脱走出来る立場ではない。
それを大佐だって分かっているだろうし、再度釘を刺す必要など無いだろう。
先程の発言は、実に彼らしくないと思えてならなかったのだ。
それに、たとえ逃げ出したとしても、持てる全てを使って直ぐさま見つけ出されるに決まっている。
「それはよかった。まあ、そうもあからさまに寂しそうな顔をされれば後ろ髪を引かれなくもないですが」
「はあ!? してませ――っ!」
大佐はポンと私の頭に手を乗せて、緩く撫でる。
私を見つめる双眸は柔和に細められていた。
不意に見せる優しげな眼差しは狡い。
今回もまた私は性懲りもなく彼に言いくるめられてしまったのだから。
***
――回想終了。
と、まあ現在進行系で盛大な置いてけぼりをくっているというわけ。
後ろ髪を引かれるだの何だの言っておきながら、何の躊躇もなく私を残し、大佐率いる第三師団は早朝に基地を出た。
この際割り切って存分に羽を伸ばすのも悪くない。鬼の居ぬ間になんとやら。
けれど、息巻いたところで何処か張り合いを感じないのは、何だかんだ毎日傍らには大佐が居たからだ。
あのネチネチとした嫌味が聞こえないとなると、それはそれで物足りない――知らず知らずの内に馴染んでしまったそれは、今や生活の一部として機能している。
ああ、なんて事。最悪だ。
「……どーせ私が足手まといだから置いてったんだよ大佐は」
「そうなのか?」
「そうだよ。だって、反省してるって言ったのに聞く耳持たずって感じで強制的にお留守番だもん」
隣でブウサギサフィールを洗うガイは、その手を止めて思考を巡らせる。
まるで抱いた違和感の正体を探るように。
「いや、それは足手まといというより……」と意味深に呟く。
そして、何かに思い至ったのか、うんうんと頷いて自己完結させてしまった。
その内容を打ち明けてくれる様子はなく、隣で見ていた私にとって彼の行動は焦れったくて仕方がない。
我慢ならず、言葉の続きを強請る様に身を寄せた。
「足手まといというより、何?」
「ん? ああ、いや……こういう事は俺からじゃなくて、キミがきちんと気付くべき事だと思うよ」
「どういう事?」
「分かり辛いジェイドなりの守り方って事さ」
「守る? 大佐が私を? いやいやいや……大佐は嫌味ったらしいだけだよ」
大佐が私の為に心を砕いてくれるわけがない。そんな所、想像すら難しい。
「それこそ決めつけなんじゃないか? 任務で宮殿を立つ前、ジェイドから聞いたよ。キミ達夫婦の事」
「え!?」
「キミの話相手に。いざとなれば味方になってやって欲しいって珍しく頭を下げるもんだから……あれには流石に驚かされたな」
「嘘でしょ……」
正直、あの大佐が?としか思えない。
猜疑心が胸を占める私にとって“有り得ない”が率直な感想だった。
一体どんな風の吹き回しなのだろう?
私を思っての事なのか、それとも――また別の思惑なのか……。
「ちゃんと考えてるんだよ、ジェイドなりに。少なくともキミはジェイドにとって、どうでもいい人間ではないってことだろう?」
「それは、まぁ……」
偽装夫婦を演じている以上、どうでもいい人間ではないと理解しているけれど……。
もし仮に――万が一、いや億が一、大佐が私に対して“脱走した元部下以上の感情”を抱いていたとしても、私はきっとその事実を受け入れられないだろう。
これ以上はやめよう。仮定の話など無意味だ。
それでも、彼はきちんと約束を果たしてくれたのだ。
そこは感謝しなければならない。
たとえ私を置いてけぼりにしたとしても、だ。
「でもさー、ちょっと分かり辛いと思うんだよねぇ」
「ああ、それは同感だ」
手元のブウサギジェイドを見て、此処には居ない同じ名前の彼へ思いを馳せた。
「あ、そうだ。私、ガイにお願いがあるの」
「お願い? まあ、俺に出来ることなら協力するよ」
「本当!?」
前向きな返事をもらって気分が高揚した私は、泡の付いた手でガイの手をぎゅっと握る。
「ひぃっ」と小さく漏れた悲鳴と共にガイの体が強張り、表情が引き攣る。
その様子に、つい失念していた彼の特性を思い出して手を離して謝罪する。
一瞬の動揺から平静を取り戻したガイはほっと一息吐きながら内容を尋ねた。
「はぁ……それで、俺は何に協力すればいいんだ?」
「うん、実は――」
言葉より先にガイの腰を指差す。
「私に剣術を教えてください!」
「剣術? なんでまた……」
「話すと長くなるんだよね……まあ、斯々然々で。とにかく、私が剣を扱えれば今後置いてけぼりをくう事は無くなるの。だから剣術を教えてほしい!」
「まったく事情が分からないんだが……キミには譜術があるじゃないか。それだって立派な武器だろう?」
ガイが困惑するのも無理はない。
彼が一番知りたい事情を斯々然々と端折ったのだから。
けれど私は今、大佐が不在であるこの瞬間に何としてでも約束を取り付けなければならない。
今回、大佐が下した判断を突き付けられた時に思い知った。
今の私では大佐の中で選択肢にすらなれない事実。
ただ足手まといだと切って捨てた彼の認識を覆すためにも今、変わらなければ。
「確かにそうだけど、もしもの武器が使えなくなった時、今の私には何も抗う術がない。技を習得出来なくても構わないの。自分の身が周囲の枷にならない程度に剣を扱えたらそれで十分。どうか、お願いします」
頭を下げ、今一度願い出る。
ガイは黙って私の言葉に耳を傾けていた。
今までにない真摯な態度に心打たれたのか、一呼吸置いてガイは、ふっと小さく笑みを零した。
顔を上げると、緑がかった美しい青の瞳が柔和に細められる。
「……わかったよ。その点に関しては俺の扱うシグムント流は生き残る事に重点を置いてる。キミにピッタリだしな」
「ガイ……ありがとう! 師匠!」
「わ、分かったから急に寄らないでくれ!」
勢い余って立ち上がり、両手を広げると、その先を察したガイがいち早く距離を取った。
なるほど。彼もまた大佐同様、私の行動が読めてきたようだ。
そして、早速ブウサギ洗いの後に剣術稽古の約束を取り付けた。
ふん、今に見ていろ。私は足手まといなんかじゃない。
大佐の鼻を明かす日が訪れるのかと思うと、口角が得意げにつり上がる。
“気心の知れた良き話し相手兼、剣術師範代”
こうして人知れず、私達の間柄に新たな称号が追加されたのだった。
20260127