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「うへぇ……もう一歩も動けない」
風呂から出て覚束ない足取りでなんとかソファーの前まで辿り着くと、そこで限界を迎える。
まるでプツリと糸が切れた人形のように、受け身もろくに取らず顔面からソファーに倒れ込んだ。
とてつもなく濃い一日を過ごした気がする。
食堂での嫌味に始まり、トイレからの逃走。可愛い方のジェイドと触れ合い、念願のガイラルディアに遭遇してからの激おこ大佐の襲来と、名前呼びのペナルティ。
あとは何だったか……ああそうだった。ピオニー陛下に冷やかされ、無言の圧力に怯えながら陛下の側付きになる話を断った後、執務室で地獄の書類整理をした。
思い返すと今日一日で――正確には半日で色々な事が起こりすぎている。おかげで心身共に酷く疲弊してしまった。
「ナマエ、髪を乾かないと風邪を引きますよ」
ソファーで伸びる私を見かねて大佐が声をかけるが、起き上がる気力は残っておらず「あー」だの「うー」だの呻いて、なんとか顔だけ彼の方へ向けた。
「面倒臭いです……別に髪を乾かさなかったからって風邪を引いたことないし」
「成る程。だからあなたの髪は毎朝奇天烈な寝癖がついているんですね。それに、馬鹿は何とやらとも言いますし」
「はい!?」
「いえいえ、何でもありませんよ。お気になさらず」
「疲れてるんですから止めを刺さないでくださいよ……今日はとても言い返せません……」
いつもの威勢は何処へやら。
普段なら大佐の嫌味に噛み付くところだが、今はその気力すら残っていなかった。
そんな私の様子を見兼ねて大佐は読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がる。
「だらしがないですよ」と一言チクリと溢したかと思うと、こちらへ歩み寄った。
大佐は寝そべる私を引き上げて座らせると、自分もそのまま傍へ腰掛ける。
一体何事かと思えば、肩に掛けっぱなしになっていたタオルで水の滴る髪を拭いてくれる。
言葉とは裏腹にその手付きはどこまでも優しい。
「きちんと手入れをなさい。せっかく綺麗な髪をしているんですから」
「へ!?」
驚いた。突然何を言い出すのかと思えば。
そんな言葉を軽々しく口にしないで欲しい。
不可抗力とはいえ心臓が小さく跳ねて、トクリと淡い音を立てる。
鼓動を伝い、じんわりと広がる甘い痺れが胸を埋め尽くす。
少しずつ彼の言葉に、仕草に侵されていくようだと思った。
「……あの、そういう事は軽々しく女性に言わない方がいいと思います」
「勿論、誰にでもは言いませんよ」
何それ、と口の中で呟いて仰ぎ見ると、態とらしい笑顔が私を迎えた。
「だから……そういう思わせぶりな事もです。勘違いしちゃう人がいるかもしれないでしょ?」
「おや、あなたは勘違いしてくださらないのですか?」
「し、しないですよ! 騙されませんからね!」
「それは残念です」
本音なのか、冗談なのか、はたまた新手の嫌がらせなのか……。
相変わらず何も読み取らせてくれない。感情も、本心も、何もかもその笑顔の下に隠れている。
私ばかり容易に心を読まれてしまって不公平極まりないが、こればっかりは思った事が直ぐ顔に出てしまう自分が悪いのだ。
こうも分かりやすく毎回顔に出しているのだから少しぐらい察してほしいものだが、それは傲慢というものだろう。
「さあ、前を向いて下さい。拭きにくいので」
「何かパパッと乾かす方法はないんですか? 大佐は第三音素と第五音素を扱えるじゃないですか。フレアトーネードとか!」
「……丸焼きになりたいのですか? 言うのは簡単ですが、譜術は加減が難しいんですよ。あなたも譜術士ならわかるでしょう?」
「それは、まあ……」
確かに譜術を使う時、力加減など考えたこともない。
火と風=熱風と安易に考えが及ぶ私は、よっぽど疲れている。
髪に触られる事に嫌悪感はないのかと問われると、彼の行動にこそ驚きはしたが不思議と嫌ではない。
そこに疑問を持った。髪を触られるのは正直あまり好きじゃない。
主ろ嫌だと感じるものなのに、どうして嫌だと思えないのだろうか?
それは私が僅かでも大佐に心を開いているからだとでも?
…………そんな馬鹿な。
いやいやいや、ないないない。そんな馬鹿げた事があってたまるか。
ただ楽だからだ。これは、座っているだけで勝手に髪が乾くという何とも楽ちんなシステムなのだ。
だから、受け入れている。ただそれだけ。
「夫婦関係が偽装である旨は、折りを見て私からガイに伝えておきます」
「え?」
一体どんな風の吹き回しだろうか?
この件に関して、昼間あれだけ機嫌を損ねておいて今更?
今度は何を企んでいるのだろう?
まさか、大佐お得意の上げて落とす作戦?
彼の口から出た予想外の言葉に、私の脳内は混乱の一途を辿る。
場合によっては昼間に引き続き大佐VS私・第三試合のゴングが打ち鳴らされるところだったが、大佐にその気はないようだ。
「あなたにも気兼ね無く話が出来る相手が必要でしょう。ガイなら信用できますから」
「いいんですか!?」
「ええ。誰彼かまわず言い振らされるより幾分もマシです」
嬉しさのあまり「やった」と小さく声を漏らす。
先日、陛下にお叱りを受けたと言っていた通り、大佐なりにその件を考慮しているようだ。
その心遣いは私としても大変ありがたい。
不平不満の捌け口が有るのと無いのとでは気分がまるで違う。
「ですから、今後は先走らず一言私に相談してください」
「はーい」
大佐も根っからの悪人ではない。
ただ、今までが今までだっただけに悪いところばかりが目に付いていただけで、私を気にかけてくれる優しさもちゃんと持ち合わせているのだ。そう、腹黒鬼畜眼鏡にも仏心はあるという事。
少し――ほんの少しだけ見直した。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
「はい?」
「昼間あなたから言い出したのでしょう? 私達の馴れ初め――でしたか?」
呆れ気味に言う大佐に、そうだったと思い出す。
今夜はようやく巡って来た話し合いの機会。
正直今すぐにでもベッドに潜り込んで眠ってしまいたい衝動に駆られるが、これを逃すと次はいつ話し合いの機会が巡ってくるか分からない。連日多忙を極める大佐だから。
彼の補佐官を務めているのだから話をする機会ぐらいいくらでもありそうなものだが、なにぶん話の内容が内容であるだけに其処彼処で気軽に出来る話ではない。
こんなふうに閉鎖された空間で、且つ二人きりでなければ。
さて、私達の馴れ初めをどうするか。
出来るだけ違和感がなく、嘘だとバレない都合のいい設定――あれこれ考えを巡らせていると、大佐は考える素振りの一つも見せずさらりと言った。
「出会いはケテルブルクで魔物に襲われるあなたを私が助けたという設定でいいのでは?」
うん、何だかとっても運命的だ。
そして、どこかで聞いた話だ。
「ちょっと待ったー! それ、まるっきり私の初恋の話じゃないですか!」
「ええ。話に現実味を持たせるには、嘘に少しの真実を混ぜるといいんですよ」
実際そうなのかもしれないが、なんなら少し感心すらしてしまったが……違う、そうじゃない。
そもそも嘘に少しの真実と言うが、嘘の部分が大問題だ。
登場人物が初恋の男の子から大佐にすり替わっている。そんなのは看過出来ないし、到底頷けない。
「冗談じゃないですよ! 私の大切な思い出を穢さないでください」
「ならば、他に現実味を帯びた都合のいい嘘がありますか? あるのなら、是非お聞かせ願いたいものです」
「…………無い、です。無いから相談してるんでしょう?」
二人の問題だから一緒に妙案を考えて欲しかった。
しかし、その考え自体が間違っていたのかもしれない。
どうしてもその案だけは頷けない。他に案が無くとも、それだけは。
だって大佐は大佐だ。どう転ぼうとも私の初恋の男の子が大佐に成り替わるなどありえない。
「他に案が無いようですので馴れ初めはそれでいきましょう」
「ちょっと! 私は納得してませんからね!?」
「それとも本当の事を話しますか? 悪事を働き、帝都であるグランコクマの治安を乱していたあなたを私が懲らしめたと」
「う……それは、その……大変困ります」
それはそれで最悪な印象だ。今や私は曲がりなりにもマルクト帝国軍の兵士である。
それこそ当時の私の事を知っているのは一部の人間に限られるのだろうし、後ろ暗い過去である以上この話題にはあまり触れてほしくない。
「では、前者の案でよろしいですね?」
「…………ハイ」
見直したのも束の間、またしても大佐は私の好感度を下げた。
その下げ幅といったら凄まじい。上げて落とす落差が半端じゃない。
私の中で腹黒鬼畜眼鏡に陰険と言うワードが加わり、この瞬間から大佐は“陰険腹黒鬼畜眼鏡”に昇格した。
やったね!おめでとう。拍手喝采のスタンディングオベーション。
もう既に精神的ダメージを大いに喰らってしまったが、私にはもう一つ確認すべき事柄があるのを忘れてはいけない。
どちらかといえば、私にとってこちらの方が重要だったりもする。もっと言えば最重要事項ですらある。
いつになれば私はこの関係から、大佐から解放されるのか――。
期間が決まっていればこの不本意な関係も理不尽な仕打ちも耐えられる。
髪を拭き終わったところで大佐と向かい合うように座り直し、燈のような淡い期待を胸に抱きながら話を切り出す。
「あと、もう一つお話があって……」
「何ですか?」
途端に緊張が走る。
声が震え、心拍数が上昇する。
謂わばこの問いで私の今後の運命が決まるようなものだ。
自由を手に出来るのか、大佐の下僕として永遠に偽装夫婦を演じ続ける羽目になるのか。
「いつになったら解放してくれますか?」
「はい?」
「だから、この偽装夫婦関係の話です。私はあとどれだけ偽りの妻を演じればいいんですか?」
大佐は双眸を見開き、珍しく言葉に詰まっているようだった。
まるで、想定していなかった問いにどう答えるべきか考えあぐねているような……。
けれど、一呼吸置いて普段通りの胡散臭い笑みを浮かべて言う。
「おや、自力では婚姻関係の証明書を奪うのは無理だと悟って交渉に切り替えたのですか?」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「では聞きますが、何故今更そんな事を?」
今度は私が言葉に詰まる番だった。
彼にしてみたら、私の問いは“今更”なのだ。
最初にきちんと確認しなかった私が悪いのだと思う。しかし、いつまでもこのままだなんて理不尽を受け入れて生きるほど私は人生を諦めていない。
「ふと思って……いつになったら私は自由になるのかなって」
「それだけですか? でしたらその疑問にはお答えしかねます」
大佐は眼鏡を指の腹で押し上げ、素っ気なく告げた。
「どうしてですか!?」
「忘れたのですか? あなたが壊した露店の修繕費用の対価に偽装夫婦関係を結んでいるんです。それに見合った分の働きをして頂かなくては」
対価というが、私が頷かずにはいられないように仕向けたのは大佐じゃないかと苛まれるが、ここはグッと堪える。
喧嘩を売っているのではなく、あくまでも交渉なのだから。
「この夫婦関係を近く解消したとして、立て替えてもらったお金は必ず返します。何年かかっても。たとえヨボヨボのおばあちゃんになっても完済しますから……! 体裁の問題なら、全て私のせいにして頂いて構いません」
「是非、私が生きているうちに完済して欲しいですが……それだけでは頷けませんね。私が聞きたいのは“何故そうまでして関係を解消したいのか”ですよ」
これはもしかして、もしかしなくても、第三試合のゴングが打ち鳴らされたのでは?
回避されたと安堵した矢先、唐突に始まった第三試合。
【大佐VS私 続・決して間違えてはいけない返答編】
昼間は盛大に間違えてしまったが、同じ轍を踏むわけにはいかない。
今度こそ正しい返答をし、惨事を避けなければならない。
昼間、返答を間違えてしまったばかりに散々な目にあった。
再び間違えてしまったら、どんな恐ろしい目にあわされるか分かったもんじゃない。
「ええっと……あ! す、好きな人!」
「ほう」
「ごめんなさい……大っ、ジェイド。私には心に決めた人がいるので。この気持ちに嘘はつけません……だから、いずれこの偽装夫婦関係を解消してください。出来れば期限付きで。可能であるなら明日から」
我ながら完璧だ。完璧且つ迫真の演技だと自負している。
揚げ足を取られないよう、名前呼びにも気を付けた。完璧だ。
これ以上ない返しだったろう。
それなのに……。
「なんだか取って付けたような理由ですねぇ。まるで今この瞬間に思い付いたような」
「え゛?」
大佐は軽薄な笑みを浮かべた。
私の企みを全て見透かしたような――いつもの貼り付けた笑顔とはまた違ったそれは、僅かに軽蔑の念が混じっているように感じる。
見据え、射抜くような鋭い深紅の瞳に囚われ、息が詰まる。
足元から悪寒が這い上がってくるような感覚は昼間と同じ――否、昼間の比ではない。
まるで息をする事も許されない、そんな重圧すら感じる。
「その“心に決めた人”というのも疑わしいですね。欺けると思ったのですか? その程度の“嘘”で」
「へ!? そ、そそそんなわけありません! 純愛です」
大佐は直ぐ様私の左手を取って、薬指を示す。
そこには周囲の目を欺く為の結婚指輪がはめられている。
「そうですか? 純愛と言う割に随分と律儀ですね」
「これは貴金属なので話は別です! 返しませんよ!」
慌てて左手薬指の指輪を右手で覆い隠す。
指輪に罪は無い。これは私の物なのだから。
ここに来て守銭奴魂を存分に発揮してしまったが、今はそれどころじゃない。
見破られている。百パーセント疑っている。
やはり、出任せの言葉では大佐を欺くことは出来ないようだ。
「はぁ……見え透いた嘘でしょうが、まあ、一応聞いておきます。どなたですか? その心に決めた人物とは」
「ちょっと! 信じてませんね!?」
「まさか、幼少期の初恋とは言いませんよね?」
「…………」
無言は肯定。
視線を逸らすと、ソファーが軋む。
逸らしていた視線を正面に戻した途端、一瞬の浮遊感と共に天井を背負った大佐の姿を映し出していた。
座っていたはずの体はソファーへ沈み、逃さないとばかりに大佐が上から覆い被さっている。
これは一体どういう状況なのだろう?
「ちょ、え!? へ!?」
「そうまで仰るなら、作りましょうか? 既成事実」
「キセイジジツ!?」
「夫婦を演じきれないのでしょう? ならば、演じきれるように仕向ければいいだけですから」
ニッコリと聞こえて来そうな程、それは態とらしい笑顔だった。何て恐ろしい…!
既成事実?何故そんな事になるのか。私はただいつまでこの偽装夫婦を続けるのか期間を尋ねただけなのに。
混乱している私など気にも留めず、大佐の手がゆるりと太腿を這い上がる。
総身が震え、彼の手付きは嫌でもその先を想像させた。
「いやいやいや……じょ、冗談すよね?」
「それは、あなたの返答次第ですよ」
「そ、そんなの……おかしいですよ! 都合がいいからって言ったじゃないですか! 私を連れ戻したのだって、その為だったんじゃないんですか!?」
「……ええ。それでかまわないと思っていましたよ。その時は」
「今も、でしょ……?」
いつもと雰囲気が違うと思った時、彼の表情から軽薄な笑みが消えた。
いつになく真剣な眼差しは、私の心をぐらりと揺さぶる。
不穏な空気を払拭するために何か言わなければ――。
頭では分かっていても、言葉が喉に詰まって出てこない。
「――私です」
薄い唇が動く。
一言ぽつりと降ってきた言葉が頬を撫で、滑り落ちてゆくようだった。
その瞬間――私の世界から音が無くなって、大佐の声以外の全てが掻き消えたような気がした。
以前、彼はこんな事を言っていた。
確証がなく、憶測だけで話すのは嫌いなのだと。
だからこそ、彼の一言には重みがある。
決して苦し紛れに口にした言葉では無いことは私にも分かった。
これ以上何も聞きたくない。何も知りたくない。
どんなに強く願っても、決して許してはくれないのだろう。
「あの日、あなたを助けた少年は私です」
20251130
風呂から出て覚束ない足取りでなんとかソファーの前まで辿り着くと、そこで限界を迎える。
まるでプツリと糸が切れた人形のように、受け身もろくに取らず顔面からソファーに倒れ込んだ。
とてつもなく濃い一日を過ごした気がする。
食堂での嫌味に始まり、トイレからの逃走。可愛い方のジェイドと触れ合い、念願のガイラルディアに遭遇してからの激おこ大佐の襲来と、名前呼びのペナルティ。
あとは何だったか……ああそうだった。ピオニー陛下に冷やかされ、無言の圧力に怯えながら陛下の側付きになる話を断った後、執務室で地獄の書類整理をした。
思い返すと今日一日で――正確には半日で色々な事が起こりすぎている。おかげで心身共に酷く疲弊してしまった。
「ナマエ、髪を乾かないと風邪を引きますよ」
ソファーで伸びる私を見かねて大佐が声をかけるが、起き上がる気力は残っておらず「あー」だの「うー」だの呻いて、なんとか顔だけ彼の方へ向けた。
「面倒臭いです……別に髪を乾かさなかったからって風邪を引いたことないし」
「成る程。だからあなたの髪は毎朝奇天烈な寝癖がついているんですね。それに、馬鹿は何とやらとも言いますし」
「はい!?」
「いえいえ、何でもありませんよ。お気になさらず」
「疲れてるんですから止めを刺さないでくださいよ……今日はとても言い返せません……」
いつもの威勢は何処へやら。
普段なら大佐の嫌味に噛み付くところだが、今はその気力すら残っていなかった。
そんな私の様子を見兼ねて大佐は読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がる。
「だらしがないですよ」と一言チクリと溢したかと思うと、こちらへ歩み寄った。
大佐は寝そべる私を引き上げて座らせると、自分もそのまま傍へ腰掛ける。
一体何事かと思えば、肩に掛けっぱなしになっていたタオルで水の滴る髪を拭いてくれる。
言葉とは裏腹にその手付きはどこまでも優しい。
「きちんと手入れをなさい。せっかく綺麗な髪をしているんですから」
「へ!?」
驚いた。突然何を言い出すのかと思えば。
そんな言葉を軽々しく口にしないで欲しい。
不可抗力とはいえ心臓が小さく跳ねて、トクリと淡い音を立てる。
鼓動を伝い、じんわりと広がる甘い痺れが胸を埋め尽くす。
少しずつ彼の言葉に、仕草に侵されていくようだと思った。
「……あの、そういう事は軽々しく女性に言わない方がいいと思います」
「勿論、誰にでもは言いませんよ」
何それ、と口の中で呟いて仰ぎ見ると、態とらしい笑顔が私を迎えた。
「だから……そういう思わせぶりな事もです。勘違いしちゃう人がいるかもしれないでしょ?」
「おや、あなたは勘違いしてくださらないのですか?」
「し、しないですよ! 騙されませんからね!」
「それは残念です」
本音なのか、冗談なのか、はたまた新手の嫌がらせなのか……。
相変わらず何も読み取らせてくれない。感情も、本心も、何もかもその笑顔の下に隠れている。
私ばかり容易に心を読まれてしまって不公平極まりないが、こればっかりは思った事が直ぐ顔に出てしまう自分が悪いのだ。
こうも分かりやすく毎回顔に出しているのだから少しぐらい察してほしいものだが、それは傲慢というものだろう。
「さあ、前を向いて下さい。拭きにくいので」
「何かパパッと乾かす方法はないんですか? 大佐は第三音素と第五音素を扱えるじゃないですか。フレアトーネードとか!」
「……丸焼きになりたいのですか? 言うのは簡単ですが、譜術は加減が難しいんですよ。あなたも譜術士ならわかるでしょう?」
「それは、まあ……」
確かに譜術を使う時、力加減など考えたこともない。
火と風=熱風と安易に考えが及ぶ私は、よっぽど疲れている。
髪に触られる事に嫌悪感はないのかと問われると、彼の行動にこそ驚きはしたが不思議と嫌ではない。
そこに疑問を持った。髪を触られるのは正直あまり好きじゃない。
主ろ嫌だと感じるものなのに、どうして嫌だと思えないのだろうか?
それは私が僅かでも大佐に心を開いているからだとでも?
…………そんな馬鹿な。
いやいやいや、ないないない。そんな馬鹿げた事があってたまるか。
ただ楽だからだ。これは、座っているだけで勝手に髪が乾くという何とも楽ちんなシステムなのだ。
だから、受け入れている。ただそれだけ。
「夫婦関係が偽装である旨は、折りを見て私からガイに伝えておきます」
「え?」
一体どんな風の吹き回しだろうか?
この件に関して、昼間あれだけ機嫌を損ねておいて今更?
今度は何を企んでいるのだろう?
まさか、大佐お得意の上げて落とす作戦?
彼の口から出た予想外の言葉に、私の脳内は混乱の一途を辿る。
場合によっては昼間に引き続き大佐VS私・第三試合のゴングが打ち鳴らされるところだったが、大佐にその気はないようだ。
「あなたにも気兼ね無く話が出来る相手が必要でしょう。ガイなら信用できますから」
「いいんですか!?」
「ええ。誰彼かまわず言い振らされるより幾分もマシです」
嬉しさのあまり「やった」と小さく声を漏らす。
先日、陛下にお叱りを受けたと言っていた通り、大佐なりにその件を考慮しているようだ。
その心遣いは私としても大変ありがたい。
不平不満の捌け口が有るのと無いのとでは気分がまるで違う。
「ですから、今後は先走らず一言私に相談してください」
「はーい」
大佐も根っからの悪人ではない。
ただ、今までが今までだっただけに悪いところばかりが目に付いていただけで、私を気にかけてくれる優しさもちゃんと持ち合わせているのだ。そう、腹黒鬼畜眼鏡にも仏心はあるという事。
少し――ほんの少しだけ見直した。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
「はい?」
「昼間あなたから言い出したのでしょう? 私達の馴れ初め――でしたか?」
呆れ気味に言う大佐に、そうだったと思い出す。
今夜はようやく巡って来た話し合いの機会。
正直今すぐにでもベッドに潜り込んで眠ってしまいたい衝動に駆られるが、これを逃すと次はいつ話し合いの機会が巡ってくるか分からない。連日多忙を極める大佐だから。
彼の補佐官を務めているのだから話をする機会ぐらいいくらでもありそうなものだが、なにぶん話の内容が内容であるだけに其処彼処で気軽に出来る話ではない。
こんなふうに閉鎖された空間で、且つ二人きりでなければ。
さて、私達の馴れ初めをどうするか。
出来るだけ違和感がなく、嘘だとバレない都合のいい設定――あれこれ考えを巡らせていると、大佐は考える素振りの一つも見せずさらりと言った。
「出会いはケテルブルクで魔物に襲われるあなたを私が助けたという設定でいいのでは?」
うん、何だかとっても運命的だ。
そして、どこかで聞いた話だ。
「ちょっと待ったー! それ、まるっきり私の初恋の話じゃないですか!」
「ええ。話に現実味を持たせるには、嘘に少しの真実を混ぜるといいんですよ」
実際そうなのかもしれないが、なんなら少し感心すらしてしまったが……違う、そうじゃない。
そもそも嘘に少しの真実と言うが、嘘の部分が大問題だ。
登場人物が初恋の男の子から大佐にすり替わっている。そんなのは看過出来ないし、到底頷けない。
「冗談じゃないですよ! 私の大切な思い出を穢さないでください」
「ならば、他に現実味を帯びた都合のいい嘘がありますか? あるのなら、是非お聞かせ願いたいものです」
「…………無い、です。無いから相談してるんでしょう?」
二人の問題だから一緒に妙案を考えて欲しかった。
しかし、その考え自体が間違っていたのかもしれない。
どうしてもその案だけは頷けない。他に案が無くとも、それだけは。
だって大佐は大佐だ。どう転ぼうとも私の初恋の男の子が大佐に成り替わるなどありえない。
「他に案が無いようですので馴れ初めはそれでいきましょう」
「ちょっと! 私は納得してませんからね!?」
「それとも本当の事を話しますか? 悪事を働き、帝都であるグランコクマの治安を乱していたあなたを私が懲らしめたと」
「う……それは、その……大変困ります」
それはそれで最悪な印象だ。今や私は曲がりなりにもマルクト帝国軍の兵士である。
それこそ当時の私の事を知っているのは一部の人間に限られるのだろうし、後ろ暗い過去である以上この話題にはあまり触れてほしくない。
「では、前者の案でよろしいですね?」
「…………ハイ」
見直したのも束の間、またしても大佐は私の好感度を下げた。
その下げ幅といったら凄まじい。上げて落とす落差が半端じゃない。
私の中で腹黒鬼畜眼鏡に陰険と言うワードが加わり、この瞬間から大佐は“陰険腹黒鬼畜眼鏡”に昇格した。
やったね!おめでとう。拍手喝采のスタンディングオベーション。
もう既に精神的ダメージを大いに喰らってしまったが、私にはもう一つ確認すべき事柄があるのを忘れてはいけない。
どちらかといえば、私にとってこちらの方が重要だったりもする。もっと言えば最重要事項ですらある。
いつになれば私はこの関係から、大佐から解放されるのか――。
期間が決まっていればこの不本意な関係も理不尽な仕打ちも耐えられる。
髪を拭き終わったところで大佐と向かい合うように座り直し、燈のような淡い期待を胸に抱きながら話を切り出す。
「あと、もう一つお話があって……」
「何ですか?」
途端に緊張が走る。
声が震え、心拍数が上昇する。
謂わばこの問いで私の今後の運命が決まるようなものだ。
自由を手に出来るのか、大佐の下僕として永遠に偽装夫婦を演じ続ける羽目になるのか。
「いつになったら解放してくれますか?」
「はい?」
「だから、この偽装夫婦関係の話です。私はあとどれだけ偽りの妻を演じればいいんですか?」
大佐は双眸を見開き、珍しく言葉に詰まっているようだった。
まるで、想定していなかった問いにどう答えるべきか考えあぐねているような……。
けれど、一呼吸置いて普段通りの胡散臭い笑みを浮かべて言う。
「おや、自力では婚姻関係の証明書を奪うのは無理だと悟って交渉に切り替えたのですか?」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「では聞きますが、何故今更そんな事を?」
今度は私が言葉に詰まる番だった。
彼にしてみたら、私の問いは“今更”なのだ。
最初にきちんと確認しなかった私が悪いのだと思う。しかし、いつまでもこのままだなんて理不尽を受け入れて生きるほど私は人生を諦めていない。
「ふと思って……いつになったら私は自由になるのかなって」
「それだけですか? でしたらその疑問にはお答えしかねます」
大佐は眼鏡を指の腹で押し上げ、素っ気なく告げた。
「どうしてですか!?」
「忘れたのですか? あなたが壊した露店の修繕費用の対価に偽装夫婦関係を結んでいるんです。それに見合った分の働きをして頂かなくては」
対価というが、私が頷かずにはいられないように仕向けたのは大佐じゃないかと苛まれるが、ここはグッと堪える。
喧嘩を売っているのではなく、あくまでも交渉なのだから。
「この夫婦関係を近く解消したとして、立て替えてもらったお金は必ず返します。何年かかっても。たとえヨボヨボのおばあちゃんになっても完済しますから……! 体裁の問題なら、全て私のせいにして頂いて構いません」
「是非、私が生きているうちに完済して欲しいですが……それだけでは頷けませんね。私が聞きたいのは“何故そうまでして関係を解消したいのか”ですよ」
これはもしかして、もしかしなくても、第三試合のゴングが打ち鳴らされたのでは?
回避されたと安堵した矢先、唐突に始まった第三試合。
【大佐VS私 続・決して間違えてはいけない返答編】
昼間は盛大に間違えてしまったが、同じ轍を踏むわけにはいかない。
今度こそ正しい返答をし、惨事を避けなければならない。
昼間、返答を間違えてしまったばかりに散々な目にあった。
再び間違えてしまったら、どんな恐ろしい目にあわされるか分かったもんじゃない。
「ええっと……あ! す、好きな人!」
「ほう」
「ごめんなさい……大っ、ジェイド。私には心に決めた人がいるので。この気持ちに嘘はつけません……だから、いずれこの偽装夫婦関係を解消してください。出来れば期限付きで。可能であるなら明日から」
我ながら完璧だ。完璧且つ迫真の演技だと自負している。
揚げ足を取られないよう、名前呼びにも気を付けた。完璧だ。
これ以上ない返しだったろう。
それなのに……。
「なんだか取って付けたような理由ですねぇ。まるで今この瞬間に思い付いたような」
「え゛?」
大佐は軽薄な笑みを浮かべた。
私の企みを全て見透かしたような――いつもの貼り付けた笑顔とはまた違ったそれは、僅かに軽蔑の念が混じっているように感じる。
見据え、射抜くような鋭い深紅の瞳に囚われ、息が詰まる。
足元から悪寒が這い上がってくるような感覚は昼間と同じ――否、昼間の比ではない。
まるで息をする事も許されない、そんな重圧すら感じる。
「その“心に決めた人”というのも疑わしいですね。欺けると思ったのですか? その程度の“嘘”で」
「へ!? そ、そそそんなわけありません! 純愛です」
大佐は直ぐ様私の左手を取って、薬指を示す。
そこには周囲の目を欺く為の結婚指輪がはめられている。
「そうですか? 純愛と言う割に随分と律儀ですね」
「これは貴金属なので話は別です! 返しませんよ!」
慌てて左手薬指の指輪を右手で覆い隠す。
指輪に罪は無い。これは私の物なのだから。
ここに来て守銭奴魂を存分に発揮してしまったが、今はそれどころじゃない。
見破られている。百パーセント疑っている。
やはり、出任せの言葉では大佐を欺くことは出来ないようだ。
「はぁ……見え透いた嘘でしょうが、まあ、一応聞いておきます。どなたですか? その心に決めた人物とは」
「ちょっと! 信じてませんね!?」
「まさか、幼少期の初恋とは言いませんよね?」
「…………」
無言は肯定。
視線を逸らすと、ソファーが軋む。
逸らしていた視線を正面に戻した途端、一瞬の浮遊感と共に天井を背負った大佐の姿を映し出していた。
座っていたはずの体はソファーへ沈み、逃さないとばかりに大佐が上から覆い被さっている。
これは一体どういう状況なのだろう?
「ちょ、え!? へ!?」
「そうまで仰るなら、作りましょうか? 既成事実」
「キセイジジツ!?」
「夫婦を演じきれないのでしょう? ならば、演じきれるように仕向ければいいだけですから」
ニッコリと聞こえて来そうな程、それは態とらしい笑顔だった。何て恐ろしい…!
既成事実?何故そんな事になるのか。私はただいつまでこの偽装夫婦を続けるのか期間を尋ねただけなのに。
混乱している私など気にも留めず、大佐の手がゆるりと太腿を這い上がる。
総身が震え、彼の手付きは嫌でもその先を想像させた。
「いやいやいや……じょ、冗談すよね?」
「それは、あなたの返答次第ですよ」
「そ、そんなの……おかしいですよ! 都合がいいからって言ったじゃないですか! 私を連れ戻したのだって、その為だったんじゃないんですか!?」
「……ええ。それでかまわないと思っていましたよ。その時は」
「今も、でしょ……?」
いつもと雰囲気が違うと思った時、彼の表情から軽薄な笑みが消えた。
いつになく真剣な眼差しは、私の心をぐらりと揺さぶる。
不穏な空気を払拭するために何か言わなければ――。
頭では分かっていても、言葉が喉に詰まって出てこない。
「――私です」
薄い唇が動く。
一言ぽつりと降ってきた言葉が頬を撫で、滑り落ちてゆくようだった。
その瞬間――私の世界から音が無くなって、大佐の声以外の全てが掻き消えたような気がした。
以前、彼はこんな事を言っていた。
確証がなく、憶測だけで話すのは嫌いなのだと。
だからこそ、彼の一言には重みがある。
決して苦し紛れに口にした言葉では無いことは私にも分かった。
これ以上何も聞きたくない。何も知りたくない。
どんなに強く願っても、決して許してはくれないのだろう。
「あの日、あなたを助けた少年は私です」
20251130