09
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水上の帝都グランコクマ マルクト軍基地――兵士詰所の扉が壊れんばかりに開け放たれる。
扉の奥から飛び出すなり倒つ転けつ走り出すのは言うまでも無く私――ナマエ・カーティスだ。
「や、やばい……やばいやばいやばいっ!!」
詰所から大佐の執務室までの道のりを全力ダッシュする私の表情は、きっと鬼気迫るものだったに違いない。
死霊使いと畏怖されるマルクト帝国軍第三師団師団長ジェイド・カーティス大佐の妻(偽装)にしてマルクト帝国軍第三師団師団長補佐も兼任する私は、今やこのマルクト軍基地を始めグランコクマ宮殿に住まう人間なら知らない者はいない異色の経歴を有している。
数年前まで、悪事を働くならず者だったというのに。人生、何が起こるか分からない。
『あのカーティス大佐に見初められる事自体、普通ではない』
『彼女も相当な変わり者に違いない』
そんな不名誉な陰口が耳に入ることは私の日常になっていた。
我ながらろくでもない日常だと思う。
と、まあ。簡単な自己紹介はこのくらいにしておいて、何故私が鬼気迫る表情で詰所から飛び出したのか説明しよう。
なんてことはない簡単な話だ。昼一番、執務室へ来いと大佐に呼び付けられたからにほかならない。
午前中に軍議が控え、午後からは溜まった書類整理があり、体が空く時間帯は昼食後なのだとか。
まったく……師団長様はお忙しくていらっしゃる。
遅刻厳禁と釘を刺されたばかりなのに――現在、約十分間の遅刻。
その理由は詰所での歓談だった。
いつも腫れ物のような扱いだった私に声を掛けた物好きな兵士がおり、ずっと孤立状態だった事もあってこの好機を逃すまいと、つい話しすぎてしまったのだ。
ここに強制送還され、強いられるままに偽装結婚をし、初めて同僚に声をかけられた。
話題は専らカーティス大佐こと旦那様(偽装)の事で、馴れ初めに始まり、どうやって大佐のハートを射止め、結婚に至ったのかと根掘り葉掘り聞かれてしまって……。
そもそも馴れ初めなどの仔細を一切決めていなかった事に今更気付いてしまい、とりあえず、その返答に困った私はざっくりとありのままを話した。話すしかなかったのだ。ダアトへ逃げ込み、露店を吹っ飛ばせば結婚できますよ……と。
引き攣った笑顔で話す私と、ポカンとする同僚――それは、のろけ話をするにはあまりに不釣り合いな表情だったろう。
そして何より、大佐の心を掴んだつもりも射止めたつもりもない。叶う事なら今すぐにでも逃げ出したいのに。
とりあえず、大佐に憧れている彼女には理想をぶち壊すようで申し訳ないが、それはただの幻想に過ぎないのだと伝えたい。声を大にして言いたかった。
あなたの憧れであるジェイド・カーティス大佐は……本当は、ただの腹黒鬼畜眼鏡なのだと。
「お、遅くなりました……!」
息急き切って執務室に飛び込むと、大佐の姿は見当たらなかった。
てっきり貼り付けた笑顔と、ふんだんに嫌味を盛り込んだ小言で出迎えられるとばかり思っていたので、正直これには拍子抜けだった。
人を呼びつけておいて、遅刻厳禁と口にした張本人が不在とは呆れる。
弾む呼吸を整えながら部屋の中を見回すと、ふとソファーに目が留まる。
不在だと思っていた部屋主の姿がそこにあった。
「ちょっと大佐! 人を呼びつけておいて何自分だけ寛いでいるんです、か――」
文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。
息巻いて、ドカドカと床を踏み鳴らしながら正面に回り込むが、寛いでいるとばかり思っていた大佐は腕組みをした状態でソファーに体を預け双眸を閉じていた。
「……大佐? あのー、もしもーし?」
掌をひらひらと顔の前にちらつかせてみたが、反応はない。
珍しいものを見た。あの大佐が眠っているだなんて。
何も眠る事自体が珍しいのではない。執務中に居眠りをしている事が珍しく、故に驚いたのだ。
その様を見てふと思った。もしも、狸寝入りではなく本当に眠っているのだとしたら、掛けっぱなしになった眼鏡は外した方がいいのでは?と。
以前、彼が掛けているのは単なる眼鏡ではなく譜業なのだと聞かされた事がある。
何でも譜眼による譜術の暴走を効率的に制御する為の物なのだとか。
ならば、この眼鏡は尚更丁重に扱うべき代物だろう。
眠る大佐を起こさないようそっとつるに手を掛け、慎重に眼鏡を外す。
眼鏡を外した大佐の顔を正面からまじまじと見つめるのは、実はこれが初めてだったりもする。
新婚生活ならぬ共同生活を送る中で彼は常に眼鏡を掛けているし、夜も私の方が先に眠ってしまうので、単に眼鏡を外した彼を目にする機会が無いのだ。
色白で陶器のように滑らかな肌、秀でた眉。すっと通った鼻筋に形のいい唇。
凝視せずにはいられない、まるで彫刻のような美しい顔面がそこには存在していた。
これはなかなか――否、かなりの美形なのでは。
本当に彼は三十を回り、四十路に片足を突っ込む男なのだろうかと疑わずにはいられない。
「おお……」と思わず声が漏れる程、意識をまるっと奪われた。認めたくはないが見惚れてしまったのだ。麗しい見目に。
詰所での歓談にて、女性兵士が大佐の見目にのぼせ上っていたのも頷ける。
ただ中身がああも性悪でさえなければと、悔やまずにはいられないが……。
いくら中身が残念だろうとそれはそれ、これはこれ。
美しい顔に罪は無いので、暫し大佐のご尊顔を眺めていると、目の下に隈が出来ている事に気が付く。
色白のせいで、余計に隈が目立つ。
その隈に思い当たる節があった。
ここ最近、大佐は帰りの遅い日が続いていた。肩を並べて宮殿に戻る事は無くなったし、食事を共にする事も久しく無い。
ベッドに入る時間になっても戻らない事はざらで、翌日は早朝に部屋を出ていく。
そんな生活を繰り返していれば隈が出来て当然だった。
以前、執務に加えて個人的な調べ物もしていると聞いたこともあり、間違いなく睡眠時間を削って無理矢理それらを両立している様子だ。
普段から人間離れした存在であるせいでつい失念してしまうが、大佐も人間なのだから睡眠時間が足りなければ見た目も体にも影響が出る。
私が昼一番に執務室を訪ねるまでの僅かな時間で眠ってしまうくらいには疲労が溜まっているのだろう。
彼の疲労を思うと、起こすのは何だか忍びなく感じられた。
そんな私が辿り着いた結論は、彼の目が自然と覚めるまで待つという事。
何か掛ける物を探す為、大佐の傍を離れようと背を向けた瞬間だった。
突然手首を掴まれ、勢いよく引っ張られる。
あまりに突然で体は反応出来ず、重力に従うまま背後に倒れ込んでしまう。
状況把握も追いつかない中、ぎゅうっと背後から包み込むように抱き締められた。
「何もしないのですか?」
「ぎゃあああああっ!」
鼓膜を揺らす低音に、堪らず絶叫した。
耳に吐息がかかり、ぞわぞわとした感覚が背筋を這い上がる。
「い、いつからっ! いつから起きていたんですか!?」
「そうですね……あなたが部屋に入ってきた時ぐらいでしょうか」
「最初からじゃないですか! この嘘つきー!」
「嘘付きとは心外ですねぇ。私はただ目を閉じて座っていただけだというのに。あなたが勝手に眠っていると勘違いしたのでしょう?」
そこを指摘されると反論出来なかった。
確かに私は彼の顔の前で手をちらつかせた程度で確認を怠ったのだから。
「夫婦らしいスキンシップを期待していたのですが。一体何の為に狸寝入りをしていたと思っているんですか?」
「やっぱり狸寝入りだったんですね! はい、言質取りましたー!」
甘い雰囲気は皆無たが、私は今、現在進行形で大佐に抱きしめられている事を忘れてはいけない。
腰に回った腕を引き剥がそうと躍起になるが、びくともしない。
たった腕一本満足に引き剥がせない事実に愕然としてしまう。
困惑しながら大佐を仰ぎ見ると、彼は笑顔を浮かべこの状況を、私の反応を楽しんでいるようだった。
意地でもこの腕を引き剥がさなければ気が済まない。
ますます躍起になって腕を引き剥がしにかかる。
「ちょ、固っ! なにこれ固っ! ……それで、何でしたっけ? 夫婦らしいスキンシップ?」
大佐は「ええ」と肯定しながら私の顎に指を掛ける。そのまま掬い上げられ、互いの鼻先か擦れた。
「やり直しますか?」
「――っ、ちょ、大佐!」
大きく心臓が打ち鳴らされる。
その顔面で迫るのは卑怯千万だ。美形は罪だ。
眼鏡を掛けていないだけで、どうしてこうも普段と感じ方が違うのだろう?
拒めず、きつく目を閉じる事しか出来ない。
腰に回った腕を掴む手が震えていたからだろうか……大佐は、私の額に軽く触れるだけのキスを落として「冗談ですよ」と溢した。
「無理強いはしません。キスの一つでもして頂きたかったですが……あなたにはハードルが高かったですね」
「偽装なんだからしませんよ! するわけないでしょう! するわけ!」
「それは残念です」
全然残念そうに見えない。寧ろ楽しんでいる様に映った。
またしても私は彼に揶揄われただけだったようだ。私は決して彼の暇潰しではないのに。
私を抱きしめていた腕が解けようく自由になったが、心臓は今も早鐘を打っている。
すかさず距離を取って座り直すと、大佐は小さく笑った。
私の手から眼鏡を取り上げて掛け直す。
美形は封印か……だなんて、がっかりしていない。残念に思ってなどいない。思うわけがない。
「それよりも、その……怒らないんですか? 遅れて来たこと……」
「怒られたいのですか?」
その問いに、首がもげそうな程全力で左右に振った。
ネチネチと小言をもらわずに済んで胸を撫で下ろしたばかりだとうのいに。
「まあ、あなたが時間に遅れて来る事は想定していたので問題ありません」
「え?」
「詰所の前を通った時、あなたの楽しそうな声がしていましたから」
あれは別に楽しんでいたわけではないのだが……。
しかし、初めて声を掛けられて、交流のきっかけになったのは事実だ。
「陛下にお叱りを受けました」
「え? 陛下から、ですか?」
「ええ。私とした事が偽装結婚をするにあたり、あなたに起こり得る不利益をきちんと把握出来ていませんでしたから。申し訳なく思っています」
大佐が謝罪だなんて珍しい。
いや、大佐だって人間なのだから、謝罪の一つや二つくらいするだろう。
しかし、陛下の名前が出た事を思えば、直接の原因は私が先日、ブウサギの世話をしながら不平不満を漏らしたからに違いない。
「……その件はもういいです。今更だし。それよりも大佐、居眠りするくらい疲れているなら少し休んだらどうですか?」
「平気ですよ」
「でも、隈が酷いです」
「日頃の執務に加えて陛下の思い付きにも頭を悩ませていますからねぇ……」
「思い付き?」
何の事だろうかと小首を傾げる。
「惚けるつもりですか? 陛下直々に話があったのでは?」
「ああ! 陛下の側付きになる話……!」
「ナマエは私の補佐官だと再三お伝えしたのですが。それに側付きは既にガイがいるでしょうに」
大佐は此処に居ない陛下を思いながら、やれやれと肩を竦めた。
以前、陛下と大佐は昔馴染みだと聞いた事があるが、肩を竦める彼の横顔は家臣というよりも、友を思うそれだった。
「“ガイ”とは――“ガイラルディア”という方ですか?」
「ええ、そうですが……何故そんな事を?」
「ブウサギの世話係をしている時にも陛下から名前を聞いた事があったので、いつか会ってみたいなと思って」
「おかしなことを言いますね。あなたは既に彼と会っているでしょう?」
「え?」
「まあ、そう焦らずとも、遅かれ早かれ会えると思いますよ」
「無論、“余所見”は厳禁ですが」と、眼鏡を指で押し上げながら言う。底冷えする笑みを美しい顔に湛えて。
「それはそうと、ナマエ。陛下の傍付きの話は勿論断りましたね?」
「へっ!?」
勿論、その場で断ろうと思った。
けれど、返事は急がないかららよく考えろと言われ、正式な返事はまだ出来ていない。
堪らず目を逸らす――それが返答の全てだった。
大佐は、その問いにイエスと答える以外は求めていないと理解していたからだ。
「ナマエー?」
「こ、断ります! 断りますよ勿論!」
「まったく……目が離せませんね、あなたって人は」
溜め息を吐いて、大佐はソファーから立ち上がった。
「さて、仕事に戻りましょうか。少々話し過ぎましたね」
「え、でもお疲れなんじゃ……?」
「この程度、なんという事はありません。本当ですよ。慣れていますから。それに、確かめたかった事もあなたの口から聞けましたしね。あまり芳しくありませんでした、が――」
手を伸ばし、大佐の軍服を掴んで引き止めた。
無意識だったと思う。
でも、大佐をこのまま仕事に戻らせてはいけないと思っての行動だったと言い切れる。
振り返った彼の表情は少々驚きの色が浮かんでいた。
それはそうだ。本人である私が一番驚いている。
あれだけこの偽装夫婦関係に後ろ向きで、口を開けば不平不満や文句ばかりだった私が、歩み寄りとも取れる行動を見せたのだから。
「……し、仕方がないので、夫婦らしい事の一つぐらいしてあげます」
ポンポンと自分の膝を叩くと、大佐と私の間には暫しの沈黙が流れた。
「はい?」
「“はい?”じゃないです! ひ、膝枕ですよ! 見たら分かるでしょう!?」
「すみません。生憎、こういった事に疎いもので」
「絶対嘘だ!」
どうして私達はこうも甘い雰囲気が似合わないのだろう?
歩み寄りを見せても、次の瞬間には啀み合ってばかりだ。
啀み合うと言っても私が一方的に噛み付いているだけに過ぎないのだが……。
もっと言えば、噛み付こうとしても大佐にあしらわれてそれすら叶わないのが現状だ。
「十五分だけですからね!! ……大佐が体調を崩したら、偽装妻である私に皺寄せがくるんですから」
「偽装妻として、ですか」
「と、当然です!」
恥ずかしさのあまり、そっぽを向いて可愛げなく言った。
熱を帯びた顔を背けてみても、耳まで赤く染まっているだろうから、きっと大佐にはバレている。
ふふっと、頭上から小さな笑い声が降ってきて、手から服の感触が無くなった直後、ソファーが軋んだ。
「せっかくですし、お言葉に甘えましょうか」と言って寝転ぶと、大佐は私の膝に頭を乗せる。
自分から申し出た事ではあるが、これは何というか、なかなかに恥ずかしい。
いつも見上げてばかりの大佐を見下ろすのは新鮮で不思議な感覚だ。
そして何を思ったのか、大佐は手持ち無沙汰な私の手を取り、自身の頭に添えた。
「どうしました? 偽装妻として夫を癒すのでしょう? ほらほら、頑張ってください」
堪らず「う゛ぅー……」と声を漏らし一層頬を紅潮させる私を、柔和に細められた瞳が捉える。
「きっと明日はグランコクマに雪が降りますねぇ」
「ちょっと……どういう意味ですか?」
「まあまあ。ただの照れ隠しですよ」
せっかくの気遣いも冷やかしにされてしまうのだから、たまったものじゃない。
これでも私なりに頑張ったのだ。大佐の体調を気にかけた結果だ。
まあ、夫婦らしいスキンシップとやらが、私にはハードルが高いだなんて煽られたことは否めないが。
「そんなに雪が見たければケテルブルクへどうぞー」
「それはいいですね。久々に戻りましょうか。二人で」
「遠慮します」
「まあそう仰らず。ケテルブルクへ行けば、甘酸っぱい初恋の彼と再会出来るかもしれませんよ?」
「……」
「彼との思い出も何か思い出せる可能性もあるでしょうし」
「…………か、考えておきます」
「はい、是非。いい返事をお待ちしてます」
軽く聞き流してしまったが、大佐が口にした“久々に戻る”とは、“私が”と言う意味であって、大佐はあくまで付き添いとして戻るという意味であっているのだろうか?
もしそうなら、私はケテルブルクよりもダアトに里帰りさせて欲しいのだけれど。両親を失って各地を転々としていた私にとって一番思い入れがあるのはダアトだった。
間違っても大佐に捕縛されたケセドニアに戻るのは御免だ。ケセドニアの地を踏むと嫌でもあの日の事を思い出してしまう。
軽く想いを馳せた後、ふと視線を下に落とすと、大佐は静かに目を閉じていた。
「おやすみなさい……」
果たして私の言葉は彼に届いたのだろうか?
今度こそ、届いていなければいいと願った。
20251109
扉の奥から飛び出すなり倒つ転けつ走り出すのは言うまでも無く私――ナマエ・カーティスだ。
「や、やばい……やばいやばいやばいっ!!」
詰所から大佐の執務室までの道のりを全力ダッシュする私の表情は、きっと鬼気迫るものだったに違いない。
死霊使いと畏怖されるマルクト帝国軍第三師団師団長ジェイド・カーティス大佐の妻(偽装)にしてマルクト帝国軍第三師団師団長補佐も兼任する私は、今やこのマルクト軍基地を始めグランコクマ宮殿に住まう人間なら知らない者はいない異色の経歴を有している。
数年前まで、悪事を働くならず者だったというのに。人生、何が起こるか分からない。
『あのカーティス大佐に見初められる事自体、普通ではない』
『彼女も相当な変わり者に違いない』
そんな不名誉な陰口が耳に入ることは私の日常になっていた。
我ながらろくでもない日常だと思う。
と、まあ。簡単な自己紹介はこのくらいにしておいて、何故私が鬼気迫る表情で詰所から飛び出したのか説明しよう。
なんてことはない簡単な話だ。昼一番、執務室へ来いと大佐に呼び付けられたからにほかならない。
午前中に軍議が控え、午後からは溜まった書類整理があり、体が空く時間帯は昼食後なのだとか。
まったく……師団長様はお忙しくていらっしゃる。
遅刻厳禁と釘を刺されたばかりなのに――現在、約十分間の遅刻。
その理由は詰所での歓談だった。
いつも腫れ物のような扱いだった私に声を掛けた物好きな兵士がおり、ずっと孤立状態だった事もあってこの好機を逃すまいと、つい話しすぎてしまったのだ。
ここに強制送還され、強いられるままに偽装結婚をし、初めて同僚に声をかけられた。
話題は専らカーティス大佐こと旦那様(偽装)の事で、馴れ初めに始まり、どうやって大佐のハートを射止め、結婚に至ったのかと根掘り葉掘り聞かれてしまって……。
そもそも馴れ初めなどの仔細を一切決めていなかった事に今更気付いてしまい、とりあえず、その返答に困った私はざっくりとありのままを話した。話すしかなかったのだ。ダアトへ逃げ込み、露店を吹っ飛ばせば結婚できますよ……と。
引き攣った笑顔で話す私と、ポカンとする同僚――それは、のろけ話をするにはあまりに不釣り合いな表情だったろう。
そして何より、大佐の心を掴んだつもりも射止めたつもりもない。叶う事なら今すぐにでも逃げ出したいのに。
とりあえず、大佐に憧れている彼女には理想をぶち壊すようで申し訳ないが、それはただの幻想に過ぎないのだと伝えたい。声を大にして言いたかった。
あなたの憧れであるジェイド・カーティス大佐は……本当は、ただの腹黒鬼畜眼鏡なのだと。
「お、遅くなりました……!」
息急き切って執務室に飛び込むと、大佐の姿は見当たらなかった。
てっきり貼り付けた笑顔と、ふんだんに嫌味を盛り込んだ小言で出迎えられるとばかり思っていたので、正直これには拍子抜けだった。
人を呼びつけておいて、遅刻厳禁と口にした張本人が不在とは呆れる。
弾む呼吸を整えながら部屋の中を見回すと、ふとソファーに目が留まる。
不在だと思っていた部屋主の姿がそこにあった。
「ちょっと大佐! 人を呼びつけておいて何自分だけ寛いでいるんです、か――」
文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。
息巻いて、ドカドカと床を踏み鳴らしながら正面に回り込むが、寛いでいるとばかり思っていた大佐は腕組みをした状態でソファーに体を預け双眸を閉じていた。
「……大佐? あのー、もしもーし?」
掌をひらひらと顔の前にちらつかせてみたが、反応はない。
珍しいものを見た。あの大佐が眠っているだなんて。
何も眠る事自体が珍しいのではない。執務中に居眠りをしている事が珍しく、故に驚いたのだ。
その様を見てふと思った。もしも、狸寝入りではなく本当に眠っているのだとしたら、掛けっぱなしになった眼鏡は外した方がいいのでは?と。
以前、彼が掛けているのは単なる眼鏡ではなく譜業なのだと聞かされた事がある。
何でも譜眼による譜術の暴走を効率的に制御する為の物なのだとか。
ならば、この眼鏡は尚更丁重に扱うべき代物だろう。
眠る大佐を起こさないようそっとつるに手を掛け、慎重に眼鏡を外す。
眼鏡を外した大佐の顔を正面からまじまじと見つめるのは、実はこれが初めてだったりもする。
新婚生活ならぬ共同生活を送る中で彼は常に眼鏡を掛けているし、夜も私の方が先に眠ってしまうので、単に眼鏡を外した彼を目にする機会が無いのだ。
色白で陶器のように滑らかな肌、秀でた眉。すっと通った鼻筋に形のいい唇。
凝視せずにはいられない、まるで彫刻のような美しい顔面がそこには存在していた。
これはなかなか――否、かなりの美形なのでは。
本当に彼は三十を回り、四十路に片足を突っ込む男なのだろうかと疑わずにはいられない。
「おお……」と思わず声が漏れる程、意識をまるっと奪われた。認めたくはないが見惚れてしまったのだ。麗しい見目に。
詰所での歓談にて、女性兵士が大佐の見目にのぼせ上っていたのも頷ける。
ただ中身がああも性悪でさえなければと、悔やまずにはいられないが……。
いくら中身が残念だろうとそれはそれ、これはこれ。
美しい顔に罪は無いので、暫し大佐のご尊顔を眺めていると、目の下に隈が出来ている事に気が付く。
色白のせいで、余計に隈が目立つ。
その隈に思い当たる節があった。
ここ最近、大佐は帰りの遅い日が続いていた。肩を並べて宮殿に戻る事は無くなったし、食事を共にする事も久しく無い。
ベッドに入る時間になっても戻らない事はざらで、翌日は早朝に部屋を出ていく。
そんな生活を繰り返していれば隈が出来て当然だった。
以前、執務に加えて個人的な調べ物もしていると聞いたこともあり、間違いなく睡眠時間を削って無理矢理それらを両立している様子だ。
普段から人間離れした存在であるせいでつい失念してしまうが、大佐も人間なのだから睡眠時間が足りなければ見た目も体にも影響が出る。
私が昼一番に執務室を訪ねるまでの僅かな時間で眠ってしまうくらいには疲労が溜まっているのだろう。
彼の疲労を思うと、起こすのは何だか忍びなく感じられた。
そんな私が辿り着いた結論は、彼の目が自然と覚めるまで待つという事。
何か掛ける物を探す為、大佐の傍を離れようと背を向けた瞬間だった。
突然手首を掴まれ、勢いよく引っ張られる。
あまりに突然で体は反応出来ず、重力に従うまま背後に倒れ込んでしまう。
状況把握も追いつかない中、ぎゅうっと背後から包み込むように抱き締められた。
「何もしないのですか?」
「ぎゃあああああっ!」
鼓膜を揺らす低音に、堪らず絶叫した。
耳に吐息がかかり、ぞわぞわとした感覚が背筋を這い上がる。
「い、いつからっ! いつから起きていたんですか!?」
「そうですね……あなたが部屋に入ってきた時ぐらいでしょうか」
「最初からじゃないですか! この嘘つきー!」
「嘘付きとは心外ですねぇ。私はただ目を閉じて座っていただけだというのに。あなたが勝手に眠っていると勘違いしたのでしょう?」
そこを指摘されると反論出来なかった。
確かに私は彼の顔の前で手をちらつかせた程度で確認を怠ったのだから。
「夫婦らしいスキンシップを期待していたのですが。一体何の為に狸寝入りをしていたと思っているんですか?」
「やっぱり狸寝入りだったんですね! はい、言質取りましたー!」
甘い雰囲気は皆無たが、私は今、現在進行形で大佐に抱きしめられている事を忘れてはいけない。
腰に回った腕を引き剥がそうと躍起になるが、びくともしない。
たった腕一本満足に引き剥がせない事実に愕然としてしまう。
困惑しながら大佐を仰ぎ見ると、彼は笑顔を浮かべこの状況を、私の反応を楽しんでいるようだった。
意地でもこの腕を引き剥がさなければ気が済まない。
ますます躍起になって腕を引き剥がしにかかる。
「ちょ、固っ! なにこれ固っ! ……それで、何でしたっけ? 夫婦らしいスキンシップ?」
大佐は「ええ」と肯定しながら私の顎に指を掛ける。そのまま掬い上げられ、互いの鼻先か擦れた。
「やり直しますか?」
「――っ、ちょ、大佐!」
大きく心臓が打ち鳴らされる。
その顔面で迫るのは卑怯千万だ。美形は罪だ。
眼鏡を掛けていないだけで、どうしてこうも普段と感じ方が違うのだろう?
拒めず、きつく目を閉じる事しか出来ない。
腰に回った腕を掴む手が震えていたからだろうか……大佐は、私の額に軽く触れるだけのキスを落として「冗談ですよ」と溢した。
「無理強いはしません。キスの一つでもして頂きたかったですが……あなたにはハードルが高かったですね」
「偽装なんだからしませんよ! するわけないでしょう! するわけ!」
「それは残念です」
全然残念そうに見えない。寧ろ楽しんでいる様に映った。
またしても私は彼に揶揄われただけだったようだ。私は決して彼の暇潰しではないのに。
私を抱きしめていた腕が解けようく自由になったが、心臓は今も早鐘を打っている。
すかさず距離を取って座り直すと、大佐は小さく笑った。
私の手から眼鏡を取り上げて掛け直す。
美形は封印か……だなんて、がっかりしていない。残念に思ってなどいない。思うわけがない。
「それよりも、その……怒らないんですか? 遅れて来たこと……」
「怒られたいのですか?」
その問いに、首がもげそうな程全力で左右に振った。
ネチネチと小言をもらわずに済んで胸を撫で下ろしたばかりだとうのいに。
「まあ、あなたが時間に遅れて来る事は想定していたので問題ありません」
「え?」
「詰所の前を通った時、あなたの楽しそうな声がしていましたから」
あれは別に楽しんでいたわけではないのだが……。
しかし、初めて声を掛けられて、交流のきっかけになったのは事実だ。
「陛下にお叱りを受けました」
「え? 陛下から、ですか?」
「ええ。私とした事が偽装結婚をするにあたり、あなたに起こり得る不利益をきちんと把握出来ていませんでしたから。申し訳なく思っています」
大佐が謝罪だなんて珍しい。
いや、大佐だって人間なのだから、謝罪の一つや二つくらいするだろう。
しかし、陛下の名前が出た事を思えば、直接の原因は私が先日、ブウサギの世話をしながら不平不満を漏らしたからに違いない。
「……その件はもういいです。今更だし。それよりも大佐、居眠りするくらい疲れているなら少し休んだらどうですか?」
「平気ですよ」
「でも、隈が酷いです」
「日頃の執務に加えて陛下の思い付きにも頭を悩ませていますからねぇ……」
「思い付き?」
何の事だろうかと小首を傾げる。
「惚けるつもりですか? 陛下直々に話があったのでは?」
「ああ! 陛下の側付きになる話……!」
「ナマエは私の補佐官だと再三お伝えしたのですが。それに側付きは既にガイがいるでしょうに」
大佐は此処に居ない陛下を思いながら、やれやれと肩を竦めた。
以前、陛下と大佐は昔馴染みだと聞いた事があるが、肩を竦める彼の横顔は家臣というよりも、友を思うそれだった。
「“ガイ”とは――“ガイラルディア”という方ですか?」
「ええ、そうですが……何故そんな事を?」
「ブウサギの世話係をしている時にも陛下から名前を聞いた事があったので、いつか会ってみたいなと思って」
「おかしなことを言いますね。あなたは既に彼と会っているでしょう?」
「え?」
「まあ、そう焦らずとも、遅かれ早かれ会えると思いますよ」
「無論、“余所見”は厳禁ですが」と、眼鏡を指で押し上げながら言う。底冷えする笑みを美しい顔に湛えて。
「それはそうと、ナマエ。陛下の傍付きの話は勿論断りましたね?」
「へっ!?」
勿論、その場で断ろうと思った。
けれど、返事は急がないかららよく考えろと言われ、正式な返事はまだ出来ていない。
堪らず目を逸らす――それが返答の全てだった。
大佐は、その問いにイエスと答える以外は求めていないと理解していたからだ。
「ナマエー?」
「こ、断ります! 断りますよ勿論!」
「まったく……目が離せませんね、あなたって人は」
溜め息を吐いて、大佐はソファーから立ち上がった。
「さて、仕事に戻りましょうか。少々話し過ぎましたね」
「え、でもお疲れなんじゃ……?」
「この程度、なんという事はありません。本当ですよ。慣れていますから。それに、確かめたかった事もあなたの口から聞けましたしね。あまり芳しくありませんでした、が――」
手を伸ばし、大佐の軍服を掴んで引き止めた。
無意識だったと思う。
でも、大佐をこのまま仕事に戻らせてはいけないと思っての行動だったと言い切れる。
振り返った彼の表情は少々驚きの色が浮かんでいた。
それはそうだ。本人である私が一番驚いている。
あれだけこの偽装夫婦関係に後ろ向きで、口を開けば不平不満や文句ばかりだった私が、歩み寄りとも取れる行動を見せたのだから。
「……し、仕方がないので、夫婦らしい事の一つぐらいしてあげます」
ポンポンと自分の膝を叩くと、大佐と私の間には暫しの沈黙が流れた。
「はい?」
「“はい?”じゃないです! ひ、膝枕ですよ! 見たら分かるでしょう!?」
「すみません。生憎、こういった事に疎いもので」
「絶対嘘だ!」
どうして私達はこうも甘い雰囲気が似合わないのだろう?
歩み寄りを見せても、次の瞬間には啀み合ってばかりだ。
啀み合うと言っても私が一方的に噛み付いているだけに過ぎないのだが……。
もっと言えば、噛み付こうとしても大佐にあしらわれてそれすら叶わないのが現状だ。
「十五分だけですからね!! ……大佐が体調を崩したら、偽装妻である私に皺寄せがくるんですから」
「偽装妻として、ですか」
「と、当然です!」
恥ずかしさのあまり、そっぽを向いて可愛げなく言った。
熱を帯びた顔を背けてみても、耳まで赤く染まっているだろうから、きっと大佐にはバレている。
ふふっと、頭上から小さな笑い声が降ってきて、手から服の感触が無くなった直後、ソファーが軋んだ。
「せっかくですし、お言葉に甘えましょうか」と言って寝転ぶと、大佐は私の膝に頭を乗せる。
自分から申し出た事ではあるが、これは何というか、なかなかに恥ずかしい。
いつも見上げてばかりの大佐を見下ろすのは新鮮で不思議な感覚だ。
そして何を思ったのか、大佐は手持ち無沙汰な私の手を取り、自身の頭に添えた。
「どうしました? 偽装妻として夫を癒すのでしょう? ほらほら、頑張ってください」
堪らず「う゛ぅー……」と声を漏らし一層頬を紅潮させる私を、柔和に細められた瞳が捉える。
「きっと明日はグランコクマに雪が降りますねぇ」
「ちょっと……どういう意味ですか?」
「まあまあ。ただの照れ隠しですよ」
せっかくの気遣いも冷やかしにされてしまうのだから、たまったものじゃない。
これでも私なりに頑張ったのだ。大佐の体調を気にかけた結果だ。
まあ、夫婦らしいスキンシップとやらが、私にはハードルが高いだなんて煽られたことは否めないが。
「そんなに雪が見たければケテルブルクへどうぞー」
「それはいいですね。久々に戻りましょうか。二人で」
「遠慮します」
「まあそう仰らず。ケテルブルクへ行けば、甘酸っぱい初恋の彼と再会出来るかもしれませんよ?」
「……」
「彼との思い出も何か思い出せる可能性もあるでしょうし」
「…………か、考えておきます」
「はい、是非。いい返事をお待ちしてます」
軽く聞き流してしまったが、大佐が口にした“久々に戻る”とは、“私が”と言う意味であって、大佐はあくまで付き添いとして戻るという意味であっているのだろうか?
もしそうなら、私はケテルブルクよりもダアトに里帰りさせて欲しいのだけれど。両親を失って各地を転々としていた私にとって一番思い入れがあるのはダアトだった。
間違っても大佐に捕縛されたケセドニアに戻るのは御免だ。ケセドニアの地を踏むと嫌でもあの日の事を思い出してしまう。
軽く想いを馳せた後、ふと視線を下に落とすと、大佐は静かに目を閉じていた。
「おやすみなさい……」
果たして私の言葉は彼に届いたのだろうか?
今度こそ、届いていなければいいと願った。
20251109