最遊記
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日が落ちかけた頃、村の入り口から馬車が一台、土埃を巻き上げながら宿へと近づいてきた。
田舎の、目立たない村。けれどその宿だけは、丁寧に手入れされ、毎日花が絶えない。
宿屋「木洩れ日庵」の看板の下、今日も瑠々は笑顔で客を迎えていた。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」
玄関に立った旅人たちは、見るからに異質だった。
黒い法衣に身を包んだ金髪の男、赤い髪に陽気な表情の青年、背中に金棒を担ぐ元気な少年、そして――
「ふふ、はい。できれば、今夜一晩だけでも。よろしいでしょうか?」
淡い緑の瞳と、柔らかな口調。
一歩遅れて入ってきた男が、静かにそう言った。
(――この人)
初対面なのに、どこか懐かしく、胸に灯がともるような感覚だった。
それが、猪八戒との出会いだった。
瑠々は、村で唯一の宿屋を切り盛りする少女だった。
誰よりもよく気がつき、誰よりも人を優先してしまう。
「自分のことより誰かのこと」が当たり前すぎて、時に心をすり減らすような、そんな子だった。
その日も、疲れた様子の旅人たちに、あたたかい食事と布団を用意し、ひとり黙って台所で片づけをしていた。
誰に求められるわけでもなく、ただそうすることが「日常」だったから。
ふと、廊下に影が落ちた。
「……遅くまで、お疲れさまです」
振り向けば、八戒が立っていた。
「あっ……ありがとうございます。でも、慣れてるので大丈夫です」
「ふふ、強いですね」
「強くなんて……ないですよ」
ぽつりとこぼれた言葉に、八戒の表情がわずかに揺れる。
「優しい人ほど、自分が気づかないまま疲れてしまうものですよ。…だから、たまには甘えてもいいんじゃないでしょうか?」
不意に心の奥まで届いたその声に、瑠々は驚いたようにまばたきをした。
(――どうして、この人はこんなに……)
けれどその言葉の意味を、深く考える時間はなかった。
その夜、村が襲われたのだ。
怒声と悲鳴。
獣のような唸り声と、振動する地面。
――妖怪だ。
突如現れた一団は、村を蹂躙し、手当たり次第に破壊していく。
子どもが泣き叫び、村人が逃げ惑う中、瑠々は気がつけば体を張って飛び出していた。
「危ないっ――!」
倒れ込んだ子どもをかばい、間一髪、妖怪の爪が振り下ろされようとした瞬間――
「そこまでにしてもらいましょうか」
その声は静かで、けれど確かな威圧を含んでいた。
緑の眼差しが、怒りに揺れる。
次の瞬間、爆発的な力が妖怪たちを吹き飛ばしていく。
「あ、あの…八戒、さん……?」
「大丈夫ですか? 怪我は……」
彼の手が、そっと瑠々の肩に触れる。
それだけで、涙があふれそうになった。
優しいだけじゃない。
本当に、命を懸けて誰かを守ろうとする――そんな強さを、彼は持っていた。
その夜、村は守られた。
けれど、瑠々の心はざわめいていた。
いつも誰かのことばかり考えていた胸の中に、初めて芽生えた感情。
(この人を、もっと知りたい。もっとそばにいたい――)
でも彼は旅をしている。
その事実だけが、残酷な現実としてそこにあった。
翌朝、空は晴れていた。
けれど、胸の中は少し曇っていた。
「朝食、ありがとうございました!」
悟空が元気よく叫ぶ。
悟浄も「美味かったぜ、ほんと」と笑って手を振る。
三蔵は無言のまま、タバコをくわえたまま去ろうとする。
その中で、八戒はしばらく黙っていた。何か言いかけて、でもやめたように。
玄関まで見送った瑠々は、旅立つ彼らの背を見ながら、小さく呟いた。
「いってらっしゃいませ。……どうか、ご無事で」
それだけでよかったはずなのに、言葉が震えて、視界がにじんでいく。
込み上げる感情は、優しさでも悲しさでもなく――恋だった。
「……ごめんなさい……っ」
その時、ふっと誰かに手を取られた。
「瑠々さん」
見上げると、八戒が、真っ直ぐな瞳で自分を見ていた。
「……少し、歩きませんか」
誰もいない裏庭。
鳥の声と、風に揺れる葉の音。
小さな草の上、立ち止まった彼が、静かに言った。
「あなたの涙を、僕は忘れられないでしょう。あの時、命を懸けて子どもをかばった姿も――全部」
「でも……私は、何もできなくて。迷惑ばかりで、あなたの旅の役には立てなくて――」
「立ってますよ」
遮るように、八戒が言った。
「あなたの優しさが、心に残りました。……惹かれてしまったんです」
瑠々は目を見開いた。
「でも、僕は旅を続けなければならない。だから……今は、そばにいられない」
「……っ」
そして、彼はそっと身を寄せて――唇を重ねた。
あたたかくて、切なくて、胸が苦しいほどに優しいキスだった。
「旅が終わったら、きっと戻ってきます。あなたに、もう一度会いに来る。……約束します」
「……はい。待ってます」
それから、いくつかの季節が過ぎた。
村は少しずつ落ち着き、人々の暮らしも元に戻ってきた。
瑠々もまた、変わらず宿屋の仕事に励み、笑顔を絶やさない日々を送っていた。
けれど、胸の奥には、あの日の言葉がずっと灯のように残っていた。
「――旅が終わったら、戻ってきます」
信じていた。
きっと、彼は来る。だから、自分は笑って待っていようと。
そして、その日は唐突にやってきた。
「ただいま、って言っても……いいですか?」
その声に、全身が凍ったように止まる。
振り返ると、そこにはあの日と同じ、けれど少しだけ大人びた表情の八戒が立っていた。
「……ほんとに……?」
「ええ。約束ですから」
次の瞬間、二人は言葉もなく抱き合った。
やさしさとぬくもり、そして何より“信じていた”気持ちが、すべてを包み込む。
「……おかえりなさい、八戒さん」
「ただいま、瑠々さん」
微笑み合った二人の間に、もう涙はなかった。
あるのは、ずっと待ち望んだ再会と、始まりの予感だけだった。
〜Fin〜
