カランコエの花絨毯

 機嫌の良い尻尾が跳ねる様を見ていた。生来の白鱗を自慢げに輝かせ、靴音と一緒にリズムを刻んでいる。
 サンクレッド・ウォータースは、左肩からずり落ちつつある買い物バッグをかけ直し、三歩先を行くアウラ族の女を見守っていた。小さな体だ。サンクレッドは、改めてそう思った。ヒューラン族としては平均的な背丈の彼でさえ、首を曲げて見下ろすほど、彼女は小柄である。
 それでも彼女は、成人してしばらく経った大人の女性であり、腕の一振りで大の男を三人薙ぎ倒す女傑である。その力で以て戦を平らげ、身の丈よりもでかい魔物を踏み潰し、魔導兵器を薄衣みたいに引き裂く怪物である。紅蓮の解放者、闇の戦士、救世の英雄────数多の猛々しい二つ名を誇る、我らが光の戦士である。
 天から遣わされし神話の獣がごとく、美しく、恐ろしく、強大で凶悪で、その身だけで災害を為す、そういう生き物だ。そういう生き物がいつの間にか、花の香りとお菓子の甘さ、小鳥の軽さと赤ん坊の柔らかさを知った。果ての問答を超えて彼女が星にもたらしたのは、希望と未来の礎だった。
 大きな役目を終えた今、光の戦士という怪物は、かかとをコツコツ弾ませながら、春の陽気を堪能している。正しく幸福を望む人々と同じ場所に立って、同じものを食べて、その中で可愛い選り好みをしながら、平和な時間を楽しんでいる。富も望まず地位も望まず、彼女は気ままな冒険者として暮らすことを良しとした。
 そうして彼女は、安心して眠れる巣としてサンクレッドを選んだ。彼と同じ姓を名乗って、無邪気に慎ましい女の真似事をして日々を遊んでいた。

「転ばないようにな」

 爪先で歩き始めた妻の背に、サンクレッドは笑みを湛えて呼びかけた。銀の指輪を光らせて。
 そうして彼女は、夫のいかにも優しげな声音に、ぱっと振り返った。揃いの指輪を、やっぱり左の薬指で輝かせながら、木苺味の飴みたいな瞳を和ませていた。

「誰にものを言ってるの!」

 高慢ちきな言葉選びであるが、語調は愛しげに蕩けている。青白い頬に微か血色を滲ませて、光の戦士でありサンクレッドの妻であるアウラの女────ザクロ・ウォータースは、にんまり笑って夫が隣に追いつくのを待った。

 その日はにわかに陽光の輝きが増し、わずか汗ばむ昼間となった。季節は晩春へと変わりつつあって、夏を先取りしたような鮮やかな青空が、頭上にぬるい風を運んでくる。
 夫婦で歩く『ラベンダーベッド』は、黒衣森こくえのもりの恵みのただ中で、緑をより濃く深くしていた。水辺の円庭には、居住区の名付けの由来どおりにラベンダーが咲き乱れ、景色に上品な紫色を差している。その香りが、木綿のシーツみたいに優しく鼻に触れるから、今から昼寝と洒落こんだって誰も文句は言わないだろう。サンクレッドは、この荷物を部屋に置いたなら、すぐさま妻を捕まえてベッドに潜り込んでやろうなんて企んでいた。
 日が差す間なら上着も要らず、薄手のシャツで浮かれて出かけられるのが、本日の吉であり厄でもあった。朝からシーツやクッションカバーを丸洗いするという快挙を成したザクロは、まだ今日を満喫するに足りていないと、いさんで外に飛び出した。もちろん、長旅から帰っていたサンクレッドの手をひっ掴んでの快走だった。
 サンクレッドが二人暮らしの愛の巣に留まる時間は、そう長くない。自ら立てた魂の誓いのため、世界中のあちこちに足を運んでいるからだ。妹よと愛したミンフィリアへ、星の今を語るため。そして、娘よと愛する少女、リーンが生きる未来のため。生命の存続に関わる重篤な危険が隠れていないか、問題が起きていやしないだろうかとつぶさに見つめる旅に出ているからであった。
 だから、その旅を善しとする妻ザクロのもとに帰る頃には、それなりに疲弊して草臥れている。土産を欠かすことはそうそう無いが、白いコートが埃色になっているときもあれば、無精髭が生え散らかっているときもあった。だいたいザクロの手料理で腹を満たし、共に熱い湯に浸かり、妻を抱いて一晩眠れば、回復するはするのだが。正直に物申すと、許される限り惰眠を貪り、昼すぎに起きて、具の少ないうどんを食いたかった。働き者のザクロが許してくれなかったので、ささやかな願望は春風に霧散した。
 だがしかし、それも悪くないな、と。まったく、全然、ちっとも悪くないなと、そう思えるのはひとえに、動き回るザクロについて歩くのが好きだからだ。彼女の指が春採れのキャベツを選ぶのを見守るのが好ましい。店頭でスナーブルベリーを見かけては、サンクレッドに微笑みかけ、「美味しそうね」「食べる?」と声をかけてくれるのが、たまらなく幸せだった。
 だから、午前中いっぱいの長い買い物も、荷物持ちにも甘んじる。バッグに入っているのは葉ものと卵くらいだから、ちっとも重くなんてないのに、彼女の手から取り上げて持った。
 彼女のそばにいるだけで満ち足りて、漲る心地がサンクレッドの背筋を伸ばしていた。

「そろそろ薔薇も見頃だね」

 サンクレッドの右隣に、ぴったりついたザクロが笑った。手の甲でお互いを探り、腕を撫で下ろして、指同士を探り当てると絡め合う。しっかり寄り添ったザクロの体温が、日光できちんと温まっているのを感じて、サンクレッドは目を細めた。眦にしわを寄せて、内緒話でもするみたいに、ほんの少し頭を垂れる。

「今度、見に行くか」
「うん。近くなら花蜜浅橋かな」
「大聖堂の庭園まで足を伸ばすのも良いな。弁当を持って」
「すてき。サンドウィッチたくさんつめる?」
「握り飯の方が、腹にたまってありがたいな」

 呑気な会話をしながら、二人の歩は長く続く橋に差し掛かった。透き通る清水が滔々とうとうと、流れてゆく快い音が、靴裏の向こう側で響いていた。

 森都グリダニアの近郊に位置する、冒険者居住区『ラベンダーベッド』。本来、この一帯を包む黒衣森は、精霊という不可視の存在に認められなければ住まうことの叶わない土地である。そのため、肥沃な恵みを持つにも関わらず人口はかなり絞られており、また冒険者という戦力を流入させるに困難を極めた。
 そこで、幻術皇がひとりカヌ・エ・センナが、大精霊との対話の果てに許しを得て、冒険者専用の居住区を開発したのである。これにより多数の冒険者が『ラベンダーベッド』を、ひいては森都を拠点とするようになり、グリダニアは国力の増強という課題をクリアしたのだった。

 サンクレッドとザクロは、そんな『ラベンダーベッド』の一角にそびえ立つアパルトメント、『リリーヒルズ』の一室に居を構えていた。もともとはザクロがひとりで住み着いていた部屋で、サンクレッドと夫婦になった際、契約をし直してリフォームを重ね、二人暮らしの住まいに変えたのである。
 冒険者ばかりが集う集合住宅地アパルトメントであることが、まず都合が良い。英雄を狙う輩が仕掛けてこようものなら、巣をつつかれた毒蜂めいて、手練れたちが涌き出てくる。攻め入ろうにも並々ならぬ作戦、準備、心構えが要るから、妻を守るに適した要塞であると、サンクレッドは判断していた。
 土地は水源豊かで作物も多く、獣も川魚もいる。食に困ることはまず無く────“質素な食事”が主なグリダニアだから、調味料や香辛料の調達は少し手間だが────まあ、かなり住みやすい。
 何よりザクロにとって、この森の温度と湿度はちょうど良いようだった。サンクレッドがあえて転がり込むような同居を決めたのは、彼女が此処を気に入って暮らしているからであった。

「あったかいねー」

 ザクロの視線が、サンクレッドの瞳を探して人懐っこく上向いた。
 彼女の眼は、蜥蜴とかげわにのそれに構造が似ている。重ねた金箔を苺飴で閉じ込めたみたいな、複雑な細工のようだ。サンクレッドは、その独特に美しく、甘やかな色彩を覗き込んだ。

「だな」

 彼は短く応答した。声音は随分と柔らかい。ゆっくり上下させた銀の睫毛の向こう側から、鮮やかなヘーゼル・アイが眼差しで慈しんでくれるから、彼女は嬉しそうにはにかんで小首を傾げた。
 こんな風に、ふたりで過ごしてきた。積み重ねてきた日々を思うみたいに、一歩一歩、ゆっくりと、『リリーヒルズ』へと続く長い橋を渡る。二人分の軽やかな足音が、木板をコツコツ鳴らす。水面で微か冷やされた風が、髪をすき、余韻を残して空へと上がっていった。

 ────気配が膨れ上がるのを感じたのは、その時である。
 橋を渡り終え、土を踏んだ瞬間、ザクロの眼光がギョロリと虚空を貫いた。大魔道士でもある彼女はエーテルの動きに敏い。獲物を捉えようとその首が巡ったのち、風が、割れた。
 溢れたのは光である。目映さは点から線になり、がばりと口のように開いて、瞬く間に空間を裂いた。胎動している。短い手足をばたつかせて、這いずり出ようとしているようにも見えた。

「ザクロ、」
「はい!」

 そこでサンクレッドも動いた。
 買い物バッグを投げ置き、背中側にザクロの身体を引く。
 かしゃん。
 卵の殻が割れる嫌な音がした。構ってはいられない。
 気楽な買い出しのつもりだったため、いつもの得物であるガンブレードは持ち合わせていない。しかし靴に仕込んだ刃はそのままだ。
 蹴り出せる体勢でサンクレッドが身構える。いつも通りだ。彼が陽動し、ザクロが叩く。彼女の道を開けてやるのはサンクレッドであるし、その先で目的を果たすのはザクロだ。
 だから、互いにすべきことは分かっていた。
 背中の皮膚がひりつくのを感じて、サンクレッドは思わず笑った。眼前の光に対抗するかのようなエーテルが、集束し、膨れている。発熱していると錯覚するほど。竜が翼を広げるがごとき威風である。
 彼女の輝く双眸を、見なくたって思い出せる。食らい付くまでの興奮と歓喜で、爛々と燃える赤を、サンクレッドは瞼の裏で幻視した。
 真に絶対強者を自負する生き物は静かなものだ。脅されようと威嚇されようと、ただ鎌首をもたげ、牙を研ぎ、笑うだけ。
 そうして相対するものの全貌が見え始めたところで、────サンクレッドが目を見張った。明らかに動揺して、警戒を解き、攻撃と別の意味を持って地を蹴る。

「────リーン!!」

「え、っ?」

 彼が吼えた名に、ザクロは瞬いた。集中させていた莫大なエーテルが、刹那に霧散し、ばらりと花びらみたいに溶ける。
 辺りを焼かんばかりの光が弾けたのも同じタイミングだった。ほどけた繭のような残滓が落ちる中、小さな何かが、急に重力を持ってがくりと落ちる。飛び出していたサンクレッドが真下にいたから、それは割れずに済んだ。抱きかかえるようにして受け止めたサンクレッドは、その場でしゃがみこみ、狼狽えてザクロを振り仰ぐ。榛色の瞳がぐらぐらと揺れていた。

「来てくれ!」

 慌てているわりに、指示の声は明瞭である。ザクロはほとんどひとっ飛びでサンクレッドの隣へ添うと、膝をついて腕の中を覗き込み────は、と息を呑んだ。

「……リーンだ……」

 理解を自身に促すように、音のひとつひとつを噛み潰すみたいに、ザクロは呟いた。

 リーン・ウォータース。光の巫女にして、ミンフィリアの意志を継ぐ可愛い娘。サンクレッドとザクロが実の子みたいに心を寄せる少女であり、サンクレッドに至っては、その姓を分けるほどに深く愛する対象だ。本来であれば次元を隔てた向こう側、第一世界で生きる人間である。その子がすやすやと眠っていた。
 光の氾濫により滅びを迎えつつあった第一世界、その中で唯一残った地域であるノルヴラント。鏡像世界のひとつを旅した記憶は未だ色濃い。夜を取り戻し、巡り来る明日を手に入れた第一世界は、星の救済とともに未来が約束され、今日も平和に時を進めているはずだ。
 そして、世界を航るすべは簡単でない。理論はあれど内容も条件も難解で、現時点では実現不可能。ザクロ以外に、原初世界と第一世界を相互に移動できる者は、ない。
 だからリーンが今ここにいるのはおかしい。非現実的で、非論理的だ。夫婦二人を狙った的確な罠かとさえ考えがよぎる。
 おまけのように、不審な点がもうひとつ。

「……どうなってるんだ……」

 リーンの体を支えながらも、サンクレッドは眉根を寄せて低く唸った。真っ先にその名を呼んだにも関わらず、彼は迷っていた。

(これは本当にリーンか?)

 サンクレッドの腕にすっぽり収まった少女の────否、童女と言って差し支えない彼女の体は、あまりに小さく、幼すぎた。
 リーンの年齢は十七歳、年頃の娘である。同い年の少女たちよりずっと小柄であるものの、そうと言われれば納得はできるほどに生育していた、はずだ。
 それが今ここで眠っている女の子は、どう見たって十に満たない、まだ頭部の比率が大きい子どもである。
 これがリーンであるという判断材料になるのは、見覚えのある鮮やかなコーラルオレンジの髪色と、あどけないが確かに面影のある顔立ちのみ。
 怪しいのだ。何もかも。どんな術であるかは定かでないが、こうしてザクロとサンクレッドの気を引き、その間に襲撃なり何なりするつもりの第三者がいて然るべく状況である。
 だから二人がすることは、周囲への強い警戒である。次に、この『子どものリーンの姿をしたもの』が一体何者であるのかを突き止める必要があった。彼女が目を覚ますなら事情を聞かなければならないし、そもそもこれがヒトの形をした爆発物である可能性だってある。
 そうすべき、なのだ、が。

「…………かわいいー……」

 ザクロの緩んだ唇から、蕩けた声音がこぼれ落ちた。
 サンクレッドはジロリと怪訝な顔で彼女を睨もうとして────気持ちが分かるから失敗した。眉間にしわが寄りきらず、口角が上がってしまったものだから、中途半端に笑った表情になってしまった。
 そう、我が娘ながら、否、まだそうと決まったわけではないが、そうであればと願うほどに、可愛いのである。
 淡い色の赤毛は肩あたりで丁寧に切り揃えられており、頬っぺたは魅惑のふっくらカーブを描いている。小さな唇はチェリー色、まだ短く細い手足が、純白のワンピースから伸びている。閉じた瞼はバサバサの長い睫毛で彩られており、きっとその下には、空を透かした木漏れ日色の瞳がまっていることだろう。
 これが第三者の作戦であるなら、まごうことなき大成功である。立案し実行した者に拍手喝采を贈りたい。
 この通り、救世の英雄であるザクロは、その猛々しい異名をどこにやったと言われるくらいの緩慢さで、夢中になって童女の顔を覗いているし。サンクレッドだって、この子を地面に下ろすのが憚られていて、両手をふさいだままだ。
 隙だらけである。今、襲われでもしたらたまったものではない。だのに、小さな“リーン”が可愛くて、ふたりして眠る顔を観察しているのだ。
 しかし、サンクレッドの苦笑いに、ザクロが「あっ」と我に返ってくれたのが幸いだった。わざとらしくキリリと眼差しを研ぐと、手を童女の胸元にかざす。

「とりあえず、診てみるね」
「ああ」

 簡素なやり取りのあと、ふんわりとエーテルの輝きが可視化した。
 ザクロはあらゆる魔法を修めた大魔道士であり、主に癒し手を担っている。癒し手といえば、小隊の後方から治癒魔法によって戦線を維持する役目が常であるが、彼女はもっと攻撃的で────否、この話は後にしておく。
 ともかく優秀な癒し手であるザクロは、傷や病を癒すために、対象の肉体エーテルを分析する術にも長けるのである。暁の魔女ヤ・シュトラのエーテル視ほど的確でないが、『これが本当にリーンであるか』くらいは、構成エーテルで判別できる。
 ついでに、怪我や異常がないか調べているのだろう。ザクロは“リーン”の頬に触れ、耳の後ろから首をなぞり、それから、愛しげに前髪を撫で付けていった。

「……どうだ」

 サンクレッドの問いに、ザクロはフムと鼻を鳴らす。

「九割八分は、リーンだと思う」
「残りの二分は?」
「それがちょっと変で……」

 もたもたと虚空を捏ねるザクロを見ながら、ひとまずサンクレッドは、息をついてリーンを抱き直した。信頼している彼女がそう言うのであれば、この子はほとんどリーンに違いない。
 あとはザクロが、言葉をまとめるのを待った。彼女はどちらかというと感覚でものを見て、それを言葉や理論に落とす。

「私の気配が混じってるんだよね」
「何?」
「エーテル……ってほどは言い切れない、ほんとに、ちょっと……でも私の気配、……痕跡、を感じてて」

 サンクレッドは首を捻った。ザクロの気配や痕跡を感じる“ほとんどリーン”だとするならば、ザクロがリーンの召喚を試みたと考えるのが筋だろう。しかし、如何に光の戦士とて、不可能はある。次元の壁は厚い。それに彼女が、召喚にまつわる大がかりな魔法を仕掛けたとも考えにくい。何せ、昨日今日は一日ずっとそばにいたのだし、予兆があればサンクレッドが気付いたはずだ。
 あの光は────突如現れ、消えた光は、向こう側からリーンをこちらに送り込もうとしているように、思えた。

「あの……」

 思考に耽っていたサンクレッドの頬に、ザクロの遠慮がちな声が触れた。視線を向ければ、彼女の困りきった顔が近くにあって。

「……わ……私が産んだのかな?」
「落ち着いてくれ、お砂糖ちゃんシュガー!」

 大真面目にそんなことを言うものだから、サンクレッドはうっかり大笑いした。うっかり大笑いして、腹を立てたザクロに背中を叩かれた。ベチン、と素敵な音がした。
 今の寸劇で(寸劇なんて言ったらまたザクロに叩かれそうだが)リーンが驚いて起きやしないかと、二人そろって注視する。心配をよそにリーンはふかふかと寝息をたて続けていて、健やかで穏やかなものだった。
 いつかのどこかで家族三人、こんな日々を過ごしていたような気になる、優しい麻薬のような瞬間だった。

「ともかく、怪しいものじゃあなく、リーンでほぼ間違いないんだな?」
「うん。私の気配がすること以外はリーンのエーテルと一緒だから、本人、あるいは分体かなと思う」
「そうか……」

 サンクレッドは、長く息を吐き出した。それからリーンを抱えたまま立ち上がると、ザクロにいつもの笑顔を見せる。ヘーゼル・アイを僅かに見張る、優しい笑みである。

「それなら、ここでこうしてるのも何だ。部屋に入れてやらないか。何処かから狙われているような感じもないしな」

 彼の言葉の半ばから、ザクロはぱっと頬を染めてうんうんと大きく頷いていた。どういう経緯で、何故子どもの姿でやってきたのかは分からないが、それはリーンが目を覚ましてから訊けるだけ訊けば良い。
 今は確かに、寝かせておける場所と、手触りの良いブランケット、それから焼きたての菓子が必要なように思えた。ザクロは小走りで、打ち捨てられた買い物バッグを回収すると、浮かれた足取りで舞い戻った。

「私にも抱っこさせて!」
「いや、何かあったら危ないからな。部屋までは俺が運ぶさ」
「ずるいんだけど!」

 買い物帰りの道。眠ってしまった娘を抱えて歩く父と、それを横から眺めて笑う母。ありふれた幸せの風景に見えるのに、実情は何とも分からないまま。

「卵めちゃくちゃ~」
「非常事態だったからなぁ……」
「どうしよーコレ」

 ただ、おそらくは、考えうるような謀略も陰謀も存在しない。そんなことを予期させるほどに呑気な会話が、『リリーヒルズ』の門を潜っていった。
 太陽は未だ真上。昼時だ。新緑を撫でた春風が、開け放たれた窓から窓へ、ランチの香りを届けていた。
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