沙羅双樹は青々と!

 青い海。白い砂浜。深緑の木々は瑞々しい大地に生い茂り、黄金の陽光を浴びるまま幹を太らせている。その葉や果実、樹皮を食む生き物たちは、天敵なんて存在をほとんど知らず、閉ざされた楽園を穏やかに闊歩していた。この島ですぐ見つけられるような動くものは、そういった草食の獣ばかりである。
 それらに混じって、異物────人間の女がひとり、木陰にしゃがみこんでいた。アウラ族の証である鱗を純白に輝かせながら、ふっくらと熟れた尾を揺らし、せっせと小枝を集めている。

「……よし!」

 満足げに溢すその息に、応える者は見当たらない。少なくとも周囲に他の人影はなく、自慢げに根を伸ばしているヤシの上、渡り鳥が鳴いているくらいしか生き物の声はなかった。
 その場所を何処と知らなければ、この長閑な静寂を不気味にも思ったかもしれない。しかし、此処は彼女────英雄たる光の戦士の勝手知ったる孤島であり、俗世を離れ心から寛げる隠れ家であって、うら寒い恐れなどは感じるはずもなかった。

 きっかけは、何とタタルの計らいである。「たまには人目を気にせずのんびりと過ごしたいだろう」という掛け値なしの良心から、文字通りの無人島を(正確に言えば、無人島の開拓権を)プレゼントされたのだ。
 常識ある人物であれば、その突飛さとスケールにおののいただろう。しかし我らが英雄は、ありとあらゆる非常識を経験してきた猛者である。その好意を喜んでまるっと受け入れると、早速低地ラノシアからロータノ海を南下して、シェルダレー諸島のひとつとして位置するこの島へと降り立ったのだった。
 彼女がそこで目にしたのは、命のままに繁り栄えた野生の風景────町どころか家もない、それどころか道らしい道さえなく、文明を示すものはまったく見当たらない。
 何もなく、故に、何もかもがそこにあった。好奇心旺盛な冒険者は、すっかり此処が気に入ってしまった。

 それから彼女の行動は早かった。開拓の役に立つだろうと送り込まれた魔法人形たちと見事に結託し、ひらけていた場所を拠点とし、住居を建て、土地を拓いて畑や放牧地を作った。島で採れるものを一時的に置いておく倉庫も建てたし、原材料から品物を作るための工房も建った。
 暮らそうと思えば暮らせるが、自給自足の生活は常に忙しい。畑の手入れを怠れば、あてにしていたほどの食料は採れない。乳や卵を恵んでくれる家畜だって、世話をしなければ死んでしまう。自分の面倒をみることだって一苦労で、今も火を起こすための薪を抱えられるだけ抱えて、よたよたと拠点に戻る最中である。しかし彼女は、この何とも不便な気ままさを、この雄大なる自然に組み込まれた過ごし方を、大いに愛し、楽しんでいた。
 もしこれが本当に孤独な開拓であれば心持ちも違ったのであろうが、補佐をしてくれる魔法人形たちはそれぞれ個性と愛嬌があって慰められたし、彼女は真の意味で一人ではなかった。

「あ、」

 その色を遠目から見つければ、自然と口角は上がり、歩は早くなる。獣道をそのまま踏み均しただけの、拠点までの狭い帰り道を、アンテロープみたいな軽やかさでくぐっていけば、目当ての銀の毛並みに近付いていく。この島唯一の肉食獣かと見間違えるほど、たてがみのようにたっぷりと風になびく髪を持つその雄は、確かに人の形をしていた。白狼めいたヒューランの男は、いつも着ている真っ白なコートの代わりに薄手のシャツを羽織っていて、工房を仕切る魔法人形と何かしら打ち合わせをしていたらしい。それでも英雄たる女の足音を聞きつければ、鮮やかな色合いのヘーゼル・アイが彼女の方へと向いた。優しく細められる瞳の奥に、愛しいと囁く熱量を秘めている。

「サンクレッド!」

 彼の名を呼びながら小走りに寄れば、逞しい腕を広げてくれるので、彼女は抱え込んだ小枝たちごとその胸に突進した。ばらばらと貴重な資源が足もとへ数本落ちていく。

「ただいま!」
「おかえり。また張り切ったな」

 英雄たる女傑を、まるで花束みたいにぎゅうと抱き締めると、その男────サンクレッドは、皮膚が厚く硬化した指で、彼女の額の汗を拭った。よく働いた証を滲ませるそこに、それから瞼に、彼はたっぷりと親密な口付けをする。

「あって困るものじゃないと思ったら、ね」

 彼女はその愛着の行為をうっとりと受け入れると、彼の胸元に自慢の角をなつかせた。微かな潮の香りがする。この精悍な男が纏っていると、不思議とどんな香水より魅力的に感じられて、自然と呼吸が深くなる。彼女のその息づかいを悟ったサンクレッドが、可笑しそうにくすくすと喉を鳴らすから、小刻みに揺らされる彼女も楽しくなって、まあるく和んだ瞳で彼を見上げた。

「漁はもう良いの?」
「ああ。晩飯の分どころか、干しておけば売れるくらい獲れたさ。魔法人形たちに任せてきたよ」
「さすが潜水の達人」
「お前ほどじゃあないけどな」

 鼻先をちょんと重ねると、視界いっぱいに広がる愛しい眼差しに、お互い寛いで笑いあう。やがて唇で睦む時には、ぽたりとまた一本、拾ってきた小枝が腕から滑り落ちていった。

 彼女がサンクレッドをこの聖域に呼びつけたのには、二つ理由があった。
 ひとつは、彼がサバイバル術のエキスパートでもあり、その技術で以てシャーレアン賢人位まで取得していることにある。彼はそこに自生しているものの有用さが理解できるし、風を読んで天気を予測することもある程度は可能だ。おまけに野生動物との闘いにも慣れていて、その他、無人島を開拓していくにあたって生ける字引を果たすだけの知恵を持つわけだ。利用しない手はない。
 そしてもうひとつは────改めて明確な言葉で説明する必要もないかもしれないが────サンクレッドが、彼女のつがいだからである。だからこそこの島を譲り受けた時、彼女は真っ先に彼へと喜びの一報を入れたし、サンクレッドは妻が望んだことを上手に汲み取った。最初の理由なんて、ついてきたおまけに等しい。
 それに、と。光の戦士たる女は、この手から小枝の束を引き取っていくサンクレッドの腕を、その男らしい均整美をうっとりと見つめた。その様を目敏く見留めたサンクレッドが、いつかそうやって振る舞っていた頃のように、いかにも色男めいて微笑む仕草にも、彼女の視線は釘付けだ。

「どうした、可愛い顔して」

 彼女の額に鼻先でキスをして、サンクレッドは面映ゆそうに唇を綻ばせた。小枝たちさえ抱えていなければもう一度抱き締めてやりたい、なんて、彼の眼差しが雄弁に語っていて、彼女はそれにも嬉しそうにはにかむ。
 此処に来てからというもの、サンクレッドには惚れ直すばかりなのだ。知ってはいたが、彼は賢くて、したたかで、とても優しい。彼女よりも世の中の動きというものに敏いから、流行りと需要と在庫の管理が要る特産品の取引は頼りっぱなしであるし、彼女が夜に冷えるだろうからと単身で立派な毛皮をとってきてくれた時には、何度めかのプロポーズをしてしまった。海育ちで魚を獲るのが上手だとか、家畜になつかれてもみくちゃにされているだとか、そんな温かな毎日の中で、サンクレッドがどんなに素敵な男なのだか数分おきに思い知る。

「大好きだなあって、思ったの」

 へらへらと締まりなく笑う彼女がそう告げれば、サンクレッドはたまらずと言った調子で噴き出した。

「俺もだよ」

 彼の榛色の瞳が、蜂蜜を溶かし込んだような甘い色に変わる。再度額に触れる唇は少しだけかさついていて、しかし柔らかく解れていた。

「愛してる」

 短く謳うサンクレッドに、英雄たる女傑は、戦も知らぬ乙女みたいにおっとりと眦を和ませた。
 彼ときたら、こと自分の本心に関して黙りがちの男で、だからあれほど流暢に扱っていた愛の詩も、妻の前では全く振るわない。それでも、美しくなくとも、洗練されていなくとも、精一杯を湯水のように注いでくれるから、サンクレッドの簡素な言葉が頬を潤すのが好きだ。

 誰もが名を知る大英雄と、彼女を盾役として支えるハンサム。エオルゼアのビッグカップルと言っても差し支えない二人にとって、誰の目を気にすることもない環境で魔法人形たちと戯れて暮らす日々は、開放的で、刺激的で、真新しく、それからとても優しい体験だった。此処を終生の住みかにしようなんて、ヤシの葉の褥で語らうくらいには。
 本当にそうしたって良いとさえ、英雄たるアウラの女は思っていた。夜の海風が涼しすぎる時もあるが、基本的には温暖で過ごしやすい。程よく湿気ている気候も、肌や鱗に合っているようで、日に艶やかさが増している気がする。嗜好品の類いは島の外から取り寄せる必要があるが、外出の機会と思えばそう悪くはないし、外界から完璧に隔離されたいなんて願いもなかった。
 そう、ちょうど良いのだ、この島は。愛しい夫と二人きり、物語のように人類最初の男女になったような気分が味わえるが、世界との繋がりがすべて絶たれたわけではない。魔法人形たちの助けによって海都との交易も行われているし、『暁の血盟』の仲間たちだって気軽に遊びに来られる距離だ。

「そう、あのね、相談したいことがあって」

 薪にするための小枝を定位置まで片付けに行くサンクレッドの後ろを、ご機嫌でつけ回しながら、彼女はそう切り出した。彼は、さらりと頬にかかった白銀の髪を掻き上げて、可愛いものを観察するみたいに首を傾げる。

「今晩の献立か?」
「それもあるけど、今は別件」

 ころころと笑い声をあげた彼女は、あのね、と両手の指を擦り合わせた。

「この島も、だいぶ住みやすくなってきたでしょう?」
「ああ」
「だから、ランドマークというか……そういう、特徴的な施設をね。建てたらどうかって、魔法人形たちから提案されて」

 サンクレッドは、形の良い眉を片方上げた。普段はとても快活に喋る彼女が、何となく言いづらそうにするのは、言葉にすること以上に思惑がある時だと彼は理解していた。邪悪な目論見があるというわけではなく、気恥ずかしいとか、後ろめたいとか、そういった語調を曇らせるようなことが。

「でね、でね、今なら、風車かツリーハウスが選べるっていうの」
「うん」
「…………ツリーハウスにしたら……アリゼーや、ラハがね。喜ぶかな、って……」

 彼女のたわわな尾が、落ち着かなさげにもじもじと揺れるのを、サンクレッドは見ていた。勿体ぶって腕を組み、考え込む振りをすれば、妻がその目に期待と不安を半々に混ぜ合わせるものだから、ああ愛しいと口許がだらしなく緩みそうになる。

「……悪くはないが、どちらかであれば、風車じゃないか?」
「そ、そう?」
「より多く製粉や製塩が出来れば、あいつらにたくさん飯を作ってやれるだろ?」

 サンクレッドの案を聞くや否や、彼女はぱあと表情を明るくして、大袈裟なほどに何度も頷いた。嬉しそうに頬を染めさえしながら、ぴったりと彼に寄り添う。

「幸い、この島で遊ぶ場所は飽きるほど思い当たる。美味いものを振る舞えるようになって……それから、汗や海水を流せる場所を用意して。ツリーハウスはその後でも、遅くはないさ」
「じゃあ……風車の次は、お風呂?」
「あれば、アルフィノとウリエンジェの肌が助かるんじゃないかと思うんだが。あいつら、すぐ赤くなりそうだからなあ……」

 くつくつとサンクレッドが喉を鳴らせば、暁の英雄たる女も同じリズムで肩を揺らす。確かに、海水浴のあとに肌荒れを起こす者もそこそこ多い。北洋の都シャーレアン育ちの彼らとはいえ、海ではしゃいだ思い出があるとは思えず、だから日焼けや塩水への耐性をつい疑ってしまうのだ。
 サンクレッドとその妻しかいない時分であれば、拠点の近くにある池で、それはもう楽しく水浴びをして洗い流せてしまえるのだが。年頃の男女も含めたそれなりの人数を呼び集めることを考えれば、やはりきちんと身を清める施設が必要だろう。

「何処かに風呂場が建てられないか、魔法人形たちにも掛け合ってみよう」
「うん、うん。シュトラやクルルも喜びそう。景色の良いところに建てたいな」

 そう語気を弾ませる彼女が、あんまりに幸福そうな顔をしながらへばりついてくるから、サンクレッドは愛しく彼女を抱き上げた。上品な膝のその裏に腕を差し入れて、彼女の姿に太陽を透かし見るよう高く掲げれば、さらさらと、絹糸みたいな髪が光沢を放つ。

「……此処が、俺たち二人の場所だってことに変わりはないさ」

 深く低く伝うサンクレッドの声に角を傾けながら、英雄と呼ばれる女は、剛健な肩書きに不釣り合いなほどたおやかな指で、彼の頬を包んだ。おんなじように、此処にいない誰かを想って微笑んでくれるから。
 放牧地でまどろむ羊たちを眺めては、いつかエスティニアンが牧童として見ていただろう景色を想像した。揃えた食器に混じる小さなマグカップは、タタルが使うようにと用意したもの。
 浜を飾るような貝殻を集めては、遠く世界線を隔てた先で暮らしている娘、リーンに、土産話と共に持っていくことを考えた。
 畑で育てるものは、自分たちの好物よりも望まれるだろう作物が多く、拠点にある椅子のひとつひとつさえ、座るだろう他の誰かを想定している。
 お互いに同じことを、思っているのだ。隔絶された二人だけの楽園には、愛する友人や仲間の気配がそこかしこに散りばめられていて、だから決してふたりぼっちになれなくて、そのことが瞳の奥を熱くするほどに幸せだった。

「だからこそ、あいつらを招き入れる準備のあるほうが、俺たちらしい。そうだろ?」
「うん!」

 にっこりと笑うサンクレッドに、彼女は大きく頷いた。
 だって、みんなが大好きなのだ。共に激動の最中を駆け抜けてきた暁の英傑たちが、可愛くって仕方がない。光の戦士たる女が愛した男も、同じようにみんなが大好きで、この甘ったれた押し付けがましい好意を、共有できるのが嬉しかった。
 柔らかく光る二対の眼差しが、鼻の先で絡み合う。

「さあ、まずは飯にしよう。腹が減ってちゃ開拓は出来ないからな」
「うん。そういえば、キャベツが良い感じに大きくなったの。それも食べてみよう?」
「そりゃあ良い。ウォータース・ファーム産の記念すべき初試食といこう」
「やぁだ、勝手に言ってる」

 いつまでも抱きかかえられたままなので、彼女はくすくす揺れる体で、サンクレッドにしなだれかかった。逞しくって、優しくて、安心する。その腕に全てを任せて、彼女は体を蕩けさせた。
 その愛らしい重みを改めて噛み締めるように、サンクレッドは銀の睫毛をうっとりと上下させる。こうして彼女と過ごしていると、何もかもを護り、慈しむことが出来るような気さえしていた。この瞬間に感じた自信を、きっと生涯握りしめてゆこうと淡く誓いながら、サンクレッドは顔を上げて一歩を踏み出した。
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