沙羅双樹は青々と!

「もういい、サンクレッドなんか知らない!!」

 鳥獣の雄叫びのような、怒りの声が部屋の壁じゅうに跳ね散らかった。
 その咆哮に怯んだ男が、呆然と見つめる先────清潔なダブルベッドの上には、頭からすっぽりと毛布を被って丸まったアウラの女が、ドラゴンめいた迫力で盛大に彼を威嚇していた。



 事の発端は数刻前に遡る。その時彼女は────光の戦士にして暁の英雄である女傑は、熱心に洗面台の鏡と向き合っていた。白鱗に覆われた尾をうきうきと揺らして、どことなく自慢げな表情である。

(これは、我ながら可愛いのでは!)

 映りこんだ自分の姿から、実際の肢体へと、見下ろすように視線を移す。
 小柄ではあるが豊満な身体を彩るのは、清楚な純白にして可憐なレースの刺繍、百合の花弁を縫い合わせたみたいに甘やかなシフォン生地だ。フリルが咲き誇る肩紐から、流れる布がさざ波のようなドレープを作り、ふっくらと柔らかな胸を、きゅっとくびれた腰を、それから上向きに跳ねるようなヒップを、ロマンティックに包み込んでいる。
 ワンピースにも似た下着兼寝間着は、俗に『ベビードール』というらしい。英雄なんて猛々しい肩書きのついた女は、軽やかな裾を指でつまむと、ひらりと一回転した。ささやかな動作にすら、妖精の羽みたいに翻るお姫様気分に、あどけない少女みたいな顔で笑う。

 それが流行りだと聞かされたのは、つい先日のことだ。同時に、意中の相手を必ず射落とせる夢のような装備であるとも角にした。
 そんなもの、絶対欲しい!
 彼女がその足で向かったのは、砂都ウルダハに構えられた裁縫師ギルドであった。マスターであるレドレント・ローズに相談してみれば、それはもう愛の伝道師の二つ名に違わぬほど盛り上がってくれた。着心地から触り心地、肌を見せる面積、むしろ隠す場所、透けさせる箇所、ふんわり揺れる布地で雄を誘い込む魅惑の設計────その他諸々の貴重なアドバイスを、これでもかと授けられて完成したのがこの真っ白なベビードールというわけである。
 ではこいつを誰に見せようというのかと問われれば、もちろん彼女のつがいである、サンクレッド・ウォータースそのひとにであった。既に夫婦という形におさまっているから、手段を選ばず陥落させる必要はない。しかし、思いが通じあっているからこそ、選ぶ方法があるのだ。刺激的な夜。マンネリ防止。何度だって惚れ直されたいし、何ならちょっと激しく求められてみたい。別段、飽きられているとかつまらないとか感じることはないが、それはそれ。人生で唯一惚れた相手なのだ、いつだって目一杯可愛がられたいではないか。
 そのための、対サンクレッド専用誘惑兵装ベビードールである。彼女はもう一度、鏡の前で全身のチェックをすると、両手を添えた頬をにまっと緩ませた。
 可愛いと褒めてくれるだろうか。我慢ならないと飛びかかってきてくれるだろうか?
 仕上げといわんばかりに、髪の先にニメーヤリリーの香油を含ませる。普段は薔薇の匂いばかりを気に入って使っているが、この装いには清らかな大輪が相応しいだろう。それからそっと洗面台を離れて、ダイニングテーブルの方まで向かった。

 彼女の愛しの夫は、風呂上がりのラフな服装でのんびりと夕刊に目を通していた。頭脳労働はウリエンジェやヤ・シュトラに任せると宣言しているが、彼は決して頭が回らないわけではないし、むしろ博識で賢明なほうだ。諜報術を売りにしているサンクレッドは、各国の政治や軍事もある程度理解しており、流行から文化、スラングみたいな言語にだって明るい。知識の更新にも余念がない、熱心な男である。
 字面をなぞる榛色の眼差しを斜め後ろから眺めながら、ああ好きだなあ、なんて考えて、彼女はこっそりサンクレッドの背中に忍び寄る。しかし、弾んだ気配は筒抜けだったらしい。彼は、くく、と喉を鳴らすと、潔く夕刊を畳んで顔を上げた。

「やっと出てきたな、マイ・シュガー。いったいどんな悪戯を、」

 かつての色男を滲ませた甘やかな笑みを浮かべながら、サンクレッドは可愛い妻へと視線を移し────ゆっくりと目を見開いたかと思えば文字通り硬直した。表情を取り落としたヘーゼル・アイが、瞬きもせずに彼女を見るものだから、さすがの女傑もたじろいでベビードールの裾をいじる。
 予想していた展開とまるで違う。これは、どういう反応だろう。

「…………あの、」

 彼女が口を開いた瞬間、サンクレッドがひゅっと息を飲んだ。止まっていた時間が動き出したらしい。彼は大きく分厚い手で、自分の顔の下半分をすっかり覆ってしまうと、何度か深く呼吸をして。

「……若すぎやしないか……?」

 苦し紛れといった様子で、やっとそう言葉を絞り出した。

「……………………は?」

 光の戦士であり暁の英雄たる蛮族の、低く地を這うような声が鳴り渡った。恋する乙女の様相なんて何処へやら、ほとんど臨戦態勢へと移行する。

「どういう意味?」
「いや、すまん、間違えた。ええと、」
「どう間違えたらそうなるの?」
「その……、……幼いな、と……」
「何も間違ってねーじゃねえか!!」

 怒髪天の衝撃で、びりびりと窓ガラスが振動した。“世界最強クラスの生き物が憤怒する”という、霊災めいた事件はこうして始まり、冒頭に至るというわけだ。



 大体、何だ、「若すぎやしないか」とは!
 ぷいとサンクレッドに背を向けてしまうと、彼を拒絶するためのバリアである毛布の中、彼女はギイギイと威嚇音をあげ続けていた。言うことに欠いて、若すぎる。少女趣味がすぎるという意味だろうか!
 確かに、うら若く純粋な乙女が好んで纏うような、真っ白で夢見心地の衣装だ。自分はサンクレッドより歳は下といえ、レースやフリルに挑戦するには年嵩で、似合うような可愛げのある顔立ちでもない。────それでも、彼なら手放しに喜んで、褒めてくれると思ったのに。

(……見苦しかったのかな……)

 英雄とまで呼ばれた女傑は、頼りなく毛布を握り込むと、しょげて丸まった尻尾の先まですっかり隠れてしまった。サンクレッドの反応を決めつけていたからこその怒りだったと、気付いてしまったから威嚇音が萎んでいく。彼に都合の良い幻想を課していた自身が情けなく、それからひどく惨めで、恥ずかしかった。多くを期待しすぎていたから招いた事態で、それでもあんなに怒鳴ってしまった手前、すぐサンクレッドに向き直るのも憚られてしまう。
 せめて、彼の好みと見識くらい、聞いてから挑戦すれば良かった。じんと熱くなった目の奥を無視したくて、彼女は、すんと鼻を鳴らした。
 ベッドのスプリングが軋んだ音と同時に、被っていた毛布をずらされた。つるりとアウラの角が露出する。ぎくりと肩を揺らして振り返れば、こちらへと乗り出してきたサンクレッドが思いのほか近くにいるので、彼女は悲鳴をあげながら後退る。

「やだっ、来ないで!」
「頼む、聞いてくれ、」

 ずんぐりと毛布にくるまったままでは、彼の俊敏さに到底及ばない。あっさりとたくましい腕に捕まって、無理やりに抱き込められそうになって、彼女は負けじと暴れ出す。抱きしめられたら否が応にも安心してしまうから、なあなあになってしまいそうで、それも嫌だ。

「やー、だー!!」

 言葉尻に再度、威嚇の唸り声が混じった。サンクレッドの身体ですっぽりと覆われてしまうほど小柄な女ではあるが、繰り出される全身全霊の抵抗は、凶悪なドラゴンそのものだ。毛布からずるりと抜け出た彼女の片手が、彼の肩を突き放すように押した、その時。

「逃げるな!」

 吠えたのはサンクレッドだった。ひくりとすくんだ彼女の隙をついて、やっと腕に閉じ込めて、艶やかな髪を撫でながら、小さな頭を胸に掻き抱く。
 
「ひっぱたいてくれたっていい、噛みついてくれてもいい、指でも腕でもくれてやるから、」

 干からびた喉で遮二無二吐き出すような、掠れて痛々しい声音だ。激しい言葉に思わず彼女が視線を上げれば、────歯噛みするサンクレッドの、苦悶の表情があった。

「……言い訳を。させてくれ……」

 サンクレッドは、毛布越しの彼女の背にふんわりと腕を回した。彼女の角が触れる箇所から、彼の早鐘みたいな心臓の音が伝う。緊張しているのか。焦っているのだろうか。雄弁な鼓動に、彼女はすっかり抗う気力を失くしてしまった。

「……すまん。傷付けるつもりじゃ、なかったんだ……」

 そう口にするサンクレッドの方が傷付いているような調子だから、ただただ包まれるだけの彼女は、ああそうだったと思い出す。この男は優しいから、可愛い誰かに自分が害を為してしまうことに対して、ひどく臆病なのだ、と。
 アウラの女は、おとなしい爬虫類みたいに縮こまると、そっと尾の先をサンクレッドの足に添わせた。しばらくの沈黙がしんしんと降り注いで、床に積もっていくようである。

「………………可愛い。似合ってる……」

 言いづらそうに、それでも確かに発音したサンクレッドに、彼女は抗議の唸りを上げた。彼が優しいのは知っているが、同情や哀れみで言われたくない。

「うそつき」
「嘘じゃない、本当に、……そう思ってる……」
「じゃあ何でそんなに迷ってるの」

 今度はサンクレッドが呻く番だった。身動ぎする彼女を抱えながら、あー、とか、うー、とか、何ともつかない鳴き声を上げ続けて。
 そうして次には、決心の短い溜め息を吐いて、サンクレッドは重い口を開いた。

「…………俺は、もう良い歳のおっさんだろ……?」
「う、ん?」

 話が読めない。つい彼を見上げれば、毛布が彼女の背中側へとこぼれていった。サンクレッドの、苦虫を噛み潰したような、世知辛い顔が見える。

「肉体的には三十二だが……まあ、いろいろ、あったからな。心持ちはほとんど四十路だ」
「う……、……うん」

 あんまりに彼が落ち込んでいるように見えるから、どういうつもりでその話をしているのか、なんて口を挟むことも出来ず、とりあえず彼女は相槌を打つ。
 サンクレッドはそう言うが、狼のたてがみめいた銀髪はつやつやと豊かだし、漲る筋肉だって雄々しく若々しい。ヒューラン族だから、柔らかな皮膚ばかりが表面を覆っていて、年齢とともに鱗が増えるアウラ族の彼女からしてみれば、サンクレッドの方こそあどけなく見える瞬間が多くあった。
 普段は実年齢に逆らうような発言も多い彼が、いったい何故こんなにも、自らを卑下しているのか。
 可哀相になるくらい彼が消耗しているものだから、彼女はそっと手を伸ばして、サンクレッドの頬を撫でた。喧嘩みたいなことをしてはいたが、とりあえず横に置いておこうと思えるくらいには、落ち着きを取り戻していた。
 愛しい妻の低い体温を感じたか、サンクレッドはその白魚みたいな指にすり寄って、ほうと丸い息を吐く。

「だから、…………お前がこんなに……可愛いと。……無邪気な年頃の子に、懸想してるみたいで、な……」

 英雄たる女は、きょとんと目を瞬かせた。罪を告白するかのようなサンクレッドの言葉を、何度か頭の中で繰り返して、「えっ?」とすっとんきょうな声を上げる。
 若すぎる、って、本当に本当の意味で若すぎるということか。

「いや、あんたね、私がとっくに成人してるの知ってるでしょ!?」
「理解と納得は違うんだ、ただえさえアウラの女性はみんな子どもみたいに見えるんだぞ!?」
「えっ、知らない何それ!?」

 曰く、背も小さく、顔の彫りも浅い傾向にあるアウラ族の女性は、エオルゼアの民から見ると実際より相当幼い印象を受けるらしい。そう言われてみると、何かにつけて菓子をもらったり、いやに丁寧な説明を受けたりと、周囲からいたいけなもののように扱われている節はそれなりに思い当たる。

「……ミンフィリアよりも歳下だしなぁ、お前……」
「気にしてたの、それ……」
「そうでなくたって、四十の男が……二十歳なんだかも分からない女に興奮するんだぞ……クソ変態ペド野郎も良いとこだろ……」
児童性愛ペドフィリアは言いすぎだろ、せめて少女愛ロリコンにしろよ!」

 サンクレッドの肩をぺちんと叩けば、その拍子で毛布がすっかり脱げて、花綻ぶような彼女の姿が露になった。
 つまり、彼は、心から可愛いと思ってくれたからこそ戸惑ったのだ。純真無垢の体現に、相応しくないような感情────劣情や欲情、性愛や情愛、穢れなき白に墨入れるような罪悪感と高揚を抱いてしまったから。

「……もおー……」

 彼女は大きく息を吐くと、サンクレッドに身体中で寄りかかった。
 生きづらい男だ。自分を律してばっかりな、気にしいの大馬鹿者だ。愚かしいほど理性的で冷静で、そういうどうしようもない人だから、好きになった。
 彼の胸に手を添えると、彼女はねだるように鼻先を上向ける。

「…………、可愛い?」

 その問いに対してサンクレッドは、答えに先んじて、彼女を見下ろす瞳をやんわりと細めた。愛しくて仕方がないと、口よりずっと饒舌な榛色の眼差しで語りながら、額を擦り合わせる。

「……可愛い。綺麗だ、シュガー。大輪の白百合か、精巧な砂糖菓子かと思った」

 甘いミルクみたいな賛辞とともに、ゆっくりと唇同士が重ねられた。小鳥が蜜をついばむような、軽やかで優しいバードキス。何度か睦み合う内に、絡んだ視線に熱が灯る。
 押し当てられる舌先を受け入れた彼女は、そのままシーツの上に転がって、覆い被さってくる男を見つめた。熱いサンクレッドの熱い手指が、探るように彼女の腕を撫で上げて。

「……はーあ…………」

 それから彼の悲壮な溜め息が、彼女の前髪を揺らしていった。彼自身に向いた落胆の具合があんまりに大袈裟で、いよいよ彼女は笑いながらサンクレッドを抱きしめる。

「しっかりして、あんたが好きなのは私でしょ!」
「それは、そうなんだが……」

 罪を犯しているかのような後ろめたさに苛まれながらも、サンクレッドの正直な手は、可愛い妻の身体をまさぐり始めている。花びらのドレスみたいな純白の衣、そのさらさらと滑らかな手触りから、迎え入れるみたいに吸い付く素肌への感触を楽しむ武骨な手だ。その愛着の行為が、そして彼の憂いすら、最高に良い女になったみたいな満ち足りた自己肯定感を、彼女にもたらしてくれた。
 この人にこうして、愛されたかったのだ。嬉しい、大好き、と繰り返しながら、彼女はサンクレッドにしがみつく。

「次は、黒にしようかな。うんとオトナなデザインのやつ!」
「……赤も似合いそうだ。情熱的でそそる」

 くすくすと揺れる肌と肌の合間で、蕩けるような衣擦れの音が、微かに響いた。
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