沙羅双樹は青々と!

 もうダメだ。早く帰って湯船に浸かり、酒をカッ食らって眠りたい。
 確かにそう考えているのだが、かれこれ半刻は動けずにいる。お尻からベンチに根が生えた心地だ。白鱗の尾を丸めたアウラ族の女は、ぐったりと座り込んだまま、お伴のカーバンクルを抱きかかえ、その可愛い前足をただひたすらに揉み続けていた。
 夕暮れの茜色が白亜の港町を包む頃である。海都リムサ・ロミンサのエーテライトプラザは、買い物客と帰路を急ぐ者で、にわかに賑わっていた。行き交う人々をぼんやり眺めながら、彼女────光の戦士にして救世の英雄は、その華々しい肩書きに似つかぬ疲れきった顔を晒していた。いつぞや天の果てまで赴き、死力を尽くして戦ったときの清々しい疲弊ではない。もっと、どろりとした、むかむかした、腹に据えかねるような、重たくぬかるんだ疲労である。瞼をほとんど落としたぶすくれた表情で、女傑は“英雄”と周囲に悟られないまま、ベンチに座り込んでいるのだった。こんなふうに虚無感と不機嫌とを顔面で綯交ぜにしていたら、ただのくたびれた女に見えるのも仕方ないだろう。

 本日、光の戦士たる彼女は、朝からメルヴァン税関公社に出張していた。巴術士ギルドマスター代行・トゥビルゲイムからの依頼を受けてのことだった。
 巴術士とは。算術を起源とする『巴術』をもちいるソーサラーである。解き明かした生命の神秘を幾何学紋様で表し、それを媒体として魔法的効果や使い魔を駆使する、論理の魔術師たちだ。
 エオルゼアに流れ着いた頃、ただの冒険者であった光の戦士が、はじめに修めたのがこの巴術だった。海賊の町と呼ばれるリムサ・ロミンサにおいて、速やかに喧嘩の方法を学ぶ必要があるからと門を叩いた暴虐の女に対して、トゥビルゲイム女史はとても親切であった。巴術の何たるか、そればかりでなくエオルゼアの基本的な歴史や地理を教え、なめらかな共用語の指導までしてくれたものだから、今でも頭が上がらない。そんな恩人に頼みごとをされては、断る理由などなかった。
 二つ返事で依頼を受けた英雄たる女は、すべて終わったあとで、ほんのちょっぴりだけ、後悔することになる。
 その仕事の内容とは、巴術士ギルドが持つもうひとつの側面────海都の健やかな流通を守護する、税関の番人としての業務であった。
 星を蝕む『終末の災厄』を打ち払った、その後。文字通りの世界危機を前に団結した各国のつながりは、今なお深く太い。交易が盛んになるのも道理だ。
 グリダニアの豊かな自然に育まれた農作物、リムサ・ロミンサで水揚げされる新鮮な海産物、ウルダハで磨き上げられた美しい宝石。イシュガルドのチョコボはたくましく軍用として重宝されるし、アラミゴの織物は滑らかで美しい。遠くドマからは米や細工物が、ラザハンからはスパイスや錬金薬が。そしてガレマルドからは、魔導機器がもたらされるようになった。
 もちろん名産品と呼ばれるものはそれぞれの国に数多くあって、簡単に挙げきれないほどの物品が、日々流通するわけだ。当然、運搬業は悲鳴が上がるほど忙しく、また検品する側も、クァールの手だって借りたい状況である。
 特に、西と東とを海路でつなぐ海都リムサ・ロミンサの港は、もう、とんでもなかった。本当にすごいのだ。毎日毎日船がきては木箱やら樽やらがそこらじゅうに積み上げられて、あれを見せろこの税を払え、あっちの船に積み換えろ違うこっちじゃない、おい何だこれは聞いてないぞ、馬鹿野郎ご禁制の品じゃねえか、などなど怒号が飛び交うのである。
 国同士の結び付きが強まり、商売が活発になっていることは、大変喜ばしいことである。が、事務仕事に徴税に取り締まりにと大忙しの巴術士たちは、次々と疲労に目を回した。このままでは全員倒れる。勇敢なギルド員たちの休暇を守るためにトゥビルゲイム女史が掴んだのは、クァールの手どころか、星をまるごと救った女傑の手だったのである。

「あんたにこんなこと頼むなんて、気がひけるんだけどね。もう残ってるメンバーじゃあ、どうにもならなくて……」
「気にしないで。古巣だもの、懐かしいよ」

 目もとにひどく隈を作ったギルドマスター代理に、光の戦士たる女は強気に笑ってみせて、七日間のフルタイム連勤を見事に果たしたのだった。

 果たしたのだった、が。

(…………疲れた…………)

 英雄とまで呼ばれた女は、重たく溜め息を吐き出した。
 毎日毎日、帳簿とにらめっこをして、カーバンクルを端から端まで走らせ、怒鳴り声にはバトルボイスで返し、禁制品はその場でゴミにした。昼食の時間もまともにとれず、寝ても覚めても積み荷が見える。手伝いでこれだけ辛いのだから、本職の巴術士たちの苦労たるや計り知れない。
 倒れていた職員たちが復帰してきたこと、鍛えていた新人巴術士たちも現場に出るようになったこと、何となく多忙の流れにも慣れてきたこととが重なって、とりあえずは英雄を解放できると判断が下ったは良いものの。
 ちょっと休憩のつもりで腰かけたベンチからまあ立ち上がれない。気力がない。私の冒険はここで終わるのか? エメトセルクが見ているのなら、そんなことで終わりを覚悟するななんて青筋を立てているかもしれない。その隣のヒュトロダエウスは、腹を抱えて笑うどころか、全身がひきつって倒れ伏しているかも。
 そんなことを考えて小さく吹き出してしまい、少し元気になったつもりなのだが、どうしても足を動かす気になれなかった。抱えたカーバンクルの頭に頬を寄せる。ぷるぷると脈動するエーテルじかけのいのちが、ほんのりと心を慰めてくれた。

 見たい顔が、脳裏に浮かんでいる。彼女はぼんやりと、左手の薬指に光る銀の指輪を見つめた。ぐったりと気だるい心身を、抱きしめて、あやして、慰めてほしい。そうでもなければ帰れない。
 ────なんて甘えた弱音を、奥歯で噛み潰した。愛しい夫とは連絡を取り合っているものの、遠征の多い彼のこと、すぐ会えるような距離にはいない。疲れちゃったから迎えにきて、なんて気軽にねだるような可愛い女でもないと自負している。帰るだけなのだから、ひとりで頑張らなければ。
 否。ひとりではなく、ひとりと一匹だな、と考え直して、彼女はカーバンクルを見下ろした。だから青い毛並みの友人が、明後日の方向に鼻先を向け、大好物でも探し当てたみたいに目を輝かせる瞬間を、しっかり捉えることができた。

「あ、あれっ?」

 不審に思ったその時、カーバンクルは主人の膝を蹴り、弾丸のように飛び出していく。抑える間もない速さだ。反射的に伸びた指が、むなしく宙を掻いた。
 宝石の神秘を紐解き、組み直して、魔法的な強化を得る魔法生物カーバンクルは、術者のエーテルから成り、ある程度には独立する。しかし巴術を始めたての素人でもあるまいに、使い魔が主人の意図を大きく逸れて動くことなんて無い。あの子も疲れはてて混乱しているのか、それとも自分の制御が下手くそになったのか────ともかく呼び戻さなければ、こんな雑踏の中ではルガディンにうっかり踏まれてしまうかもしれない。
 彼女が重い腰を上げようとしたその時、青い毛並みの善き友人は、誰かの爪先から駆け上がり、白いコートをよじ登った。そうして、ガントレットをまとうたくましい腕に収められる。武器をきつく握るせいで、指の皮膚が厚く硬化した、男の手だった。

「おっと。ずいぶんと人懐っこいな」

 その男は、笑った声でカーバンクルの輪郭を撫でた。武骨な手指の印象に反して、尻尾の付け根をポンポン叩いてやる仕草はあまりに優しい。
 羨ましい。光の戦士たる女傑の思考を掠めたのは、そんな愛着を一身に受ける使い魔への、微かな嫉妬だった。カーバンクルとは、自分の少なくない量のエーテルを分け与えた存在で、だから“その手でそんなふうに触れられることが好きだなんて当たり前”なのだ。主人のもとを離れて遮二無二走り出した理由も、理解できた。
 彼女がパチリと瞬く間に、カーバンクルを抱えた男は、ゆっくりと、しかし確かに目的を持って歩み寄ってくる。斜陽の中にあっても眩しい銀色の髪が、潮風でざらりと揺れた。

「麗しいレディ。ひとりかな」

 微笑む彼の、鮮やかなヘーゼル・アイが輝いた。彼女を覗き込むように見つめるその男は、滑らかな発音で穏やかに台詞を紡ぐものだから、つい角を傾けてしまう。惚れ惚れするようなハンサムであることも、文句の付け所に困る。
 光の戦士たる女傑は、緩みそうになる頬を誤魔化してツンと顎を張ると、見せつけるように左手をかざした。薬指を飾る銀色が、きらりと光る。

「あいにくだけど、未婚の小娘レディじゃないの」

 男の片眉が、可笑しそうに跳ね上がった。

「これは失礼、御夫人マダム。君みたいな美人と一緒になれる奴が羨ましいよ」

 彼は大袈裟に溜め息を吐くと、さも当然みたいに、彼女のすぐ隣へと腰かけた。背に負うガンブレードの物々しさなんて微塵も感じさせない、物腰の柔らかい仕草である。肩同士がやんわり触れて、二人の影はひとつとなって、石畳に映し出された。
 銀髪の男は、腕に抱いたままのカーバンクルの首を掻いた。彼女のもとに行くよう促したつもりであるが、使い魔は離れるのを厭がってびくともしない。むしろ男の膝の上を広々と陣取って、リラックスした様子で体を丸める始末である。
 主人である英雄は、うらぎりものめ! の意を込めて、小さく鼻を鳴らした。どこ吹く風なカーバンクルの態度に、男がくすくすと笑い声をあげる。

「でも俺が夫なら、こんなところで君を退屈させはしないのにな」

 蜜を含んだみたいな、とろりと甘やかな声が聴覚に触れた。彼女が男の方に視線を向ければ、思いのほか、その微笑みが間近にあって、悪戯な眼差しにトンと心臓をつつかれる心地だ。
 アウラ族の角の先を、男の吐息が撫でる。

「俺にしておかないか? 『ビスマルク』のテラス席に招待するよ」

 明らかな誘惑であった。男は榛色の視線で以て女傑の頬をなぞると、細い肩に手を回す。無理に抱き寄せる強さではない、自然と体温を求める彼女の体を、支えてやるみたいな何気なさだ。
 女慣れした色男に、こうも熱烈に口説かれると、何だかとても良い女になった気がする。

「……ふうん?」

 光の戦士たる女は、睫毛をゆったり上下させると、わざとらしく気のない声をあげた。

「上等なワインを味わいながら、一緒にリムサ・ロミンサの夜景を眺めよう」

 女のつれない様子さえ楽しむように、男はしっとりと囁き続けた。唇が額に触れそうなほどの距離だ。髪先同士がさらさらと交じり、そこに夕陽の名残がひと射し跳ねる。日はすっかり水平線へと落ちて、海風は静かに冷涼さを含んだ。夜が香ってきた。
 光の戦士たる女傑の肩を、しっかり覆う男の手は、炎みたいに温かい。彼は寝こけたカーバンクルの上からもう片方の腕を伸ばすと、恭しく女傑の手を握った。

「あそこにはツテがあってね。今日は腕の良いシェフが、厨房に戻ってると聞いてるんだ」
「そうなの」

 小首を傾げる彼女に頬を寄せて、男は微かに口角をあげる。ささやかな慈愛の発露だった。繋いだ指先をすりすりと擦り合わせれば、アウラ族である英雄の白鱗の尾が、きゅっと彼の腰に沿う。

「美味い料理を楽しんで、……デザートは季節のレモンチーズケーキで、どうかな」

 宵の口の薄闇でなお光を集めるヘーゼル・アイが、小粋なウインクで問いかける。女傑はとびっきり気難しい淑女を装って、たっぷり時間をかけて、悩むふりをした。

「オレンジカスタードのタルトなら、良いわ」
「勿論さ」

 男はいよいよ光の戦士の手を口元まで引き上げると、ちゅ、とリップ音で指先に触れた。ので、彼女は唇を綻ばせた。一度気が緩んでしまうと表情はみるみる喜色に崩れて、抑えることはできなくて、くすくす笑い声を漏らした彼女はそのまま男に────愛する夫であるサンクレッドにしなだれかかった。
 胸に飛び込む形になった彼女を抱き締めれば、間に挟まれたカーバンクルが「キュウ!」と文句を放つ。サンクレッドは妻とおんなじくらい大笑いしながら、ぽんぽんと使い魔を撫でてやった。

「驚いた! あんた、ドマの方まで行くんじゃなかったの?」

 ぱっと明るい顔を上げた彼女の額に、ぎゅっと唇を押し当てて、サンクレッドは満足げな笑みを浮かべた。誘い込むような真似ではない、自分の女だと自信と確信を持った扱いである。妻の顔にかかる髪を撫で分けてやって、目の下に浮かんだ疲労を親指でさする。

「そうだったが、予定を変えてこっち行きの飛空艇に飛び乗ってきたんだ。昨日のお前があんまり辛そうだったから」
「……そんなにひどい声だった?」
「ひどかった。そのまましぼんで無くなるんじゃないかと思ったよ」

 じんわりと彼の熱が、肌に食い込んで気持ち良い。英雄たる女は、まだ人通りがある場所に居座るままだというのに、うっとりとサンクレッドに身を任せていた。もっと撫でてほしくて顔を寄せるのだが、下からカーバンクルに邪魔をされて、癪なので彼の膝から退かして、しかし夫が大好きな使い魔はまたすぐに膝に登ってきて、何度かそれを繰り返した。
 サンクレッドと連絡をとったのは昨夜、ずいぶん遅い時分だったように思う。あと一日頑張れば、やっとゆっくりできそうだなんて報告をしていたのだ。そうやって自分に言い聞かせて奮起する意味も持っていたし、明日を越えるために大好きな声を聞きたくなるのは、至極真っ当な欲求だろう。
 察しの良い夫は、妻の声なき悲鳴にすぐ気付いた。疲労困憊の妻を、せめて抱きしめるだけでもと、大急ぎで舞い戻ったのである。

「お疲れ様、だな」

 カーバンクルが五回目のサンクレッドクライムをしたところで、彼は片腕で使い魔を抱き上げた。そしてもう片方の手で妻の背を撫でることで、せわしない戦いを平定するのだった。
 尻尾たちにぎゅうぎゅうに巻かれたサンクレッドが労えば、光の戦士たる女は嬉しそうに頷く。

「あんたもね。空の旅とはいえ、疲れたでしょ」
「何てことないさ。お前と会うのが楽しみで、浮かれてたくらいだよ」

 歯が浮きそうな台詞だって、似合いのアクセサリーのように身につけて、サンクレッドは軽やかに笑ってみせた。カーバンクルを肩に乗せてやると、彼は立ち上がって妻の手を取る。

「コースで予約してある。それで良かったか?」
「ほんとに『ビスマルク』?」

 目を丸くした彼女は、何だか腰が引けてしまって、立ち上がるだけの勇気がなかった。微笑みで問うサンクレッドに、曖昧な表情で首を振って、今さらのように前髪を手ぐしする。

「不満とかじゃ、ないんだけど……仕事終わり、だから」

 激務を駆け抜けてきた代償である。服は動きやすさ重視で、髪もひとつに結わえただけ。朝方適当に顔に塗りつけた化粧だって、汗で溶け出している頃だ。リムサ・ロミンサ随一のレストラン『ビスマルク』に赴くには、あんまりに、カジュアルが過ぎる。何も敷居が高すぎる店ではないのだが、それにしたってあんまりだ。せっかく大好きなひととのディナーならお洒落をして挑みたかった、というワガママが、彼女にはあった。

「ぐちゃぐちゃでしょ、私」

 サンクレッドの指を握りながら、光の戦士たる女は睫毛を伏せる。せっかく彼が準備してくれたデートだ、もちろん嬉しいし断るはずもないのだが────ぼろぼろの自分の姿が、少しだけ恥ずかしい。
 喉の奥で微かに唸った妻の前に、サンクレッドはひざまずいた。

「お前はいつだって、俺にはもったいないくらい綺麗だよ」
「調子良いんだから!」
「本心だし、事実だ。ほら、天然の宝石を着こなす女なんて、そうそういないぞ」

 彼女の腕の鱗を撫でれば、くすぐったそうに笑う息が溢れた。サンクレッドは慈しむようにその様子を見守って、続ける。

「人目が気になるなら、心配しなくて良い。一番海側のテラス席だ。照明も控えめにしてもらえば、誰も俺たちに気付かないさ」
「そう……?」
「でも、そうだな……風で体が冷えるかもしれないから、膝にかけるものを調達してから行こう」

 サンクレッドは、改めて彼女の手を取った。恥じらいからくる不安の色を、ヘーゼル・アイの眼差しが宥めていく。

「月明かりの中でなら、素敵なスカートに見えるようなものを」

 彼のその提案を、彼女はゆっくり聞き入れて、それからとても気に入った。尻尾を大きくくねらせると、顔中に「うれしい」を散らばして、うんうんと頷く。
 そうしてサンクレッドの手を借りて、ふたりで勢いよく立ち上がった。あれだけ感じていた重さや気だるさは何処ぞへと逃げてしまって、早く出かけたいと逸る気持ちばかりが一歩先で跳ね回っている。

「サンクレッドって、すてきなひとね!」
「今さらか?」
「そりゃあ、前から知ってたけど」

 カーバンクルをスカーフみたいに首に巻いた男と、どう見たって仕事帰りのくたびれた女は、睦まじく腕を絡ませた。揃いの銀の指輪が、淡い街灯の光を含んで光る。

「他のひとのところに行かれたくないから、私と結婚して?」
「もうしてるだろ!」

 サンクレッドは喉が反るほど大笑いをしてから、たまらず彼女に口付ける。まあるく整えられた彼女の角先が、彼の頬に触れた自覚もないくらいの短いキスだ。
 可愛くってたまらないと、榛色の瞳が雄弁に物語っていて、それが英雄たる女傑の自意識を、とびっきりの良い女であると塗り替えてくれる。

「目の前にいるのは、お前の旦那だ。安心してくれ」

 サンクレッドの妻は、今日いちばんの華やかな笑顔を咲かせた。
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