掌に小春日和

 その日、クリスタリウムは惚れ惚れするほどの晴天だった。空を覆う光の帯が消え失せて久しく、第一世界の人々は天気というものに慣れつつある。曇りの日には湿った風を楽しみ、雨の日には屋根叩く水音で歌い、そして晴れの日には張り巡らせたロープいっぱいに洗濯物が吊るされた。
 ぱたぱたと翻るシャツやシーツがずらりと並ぶ壮観を眺めながら、サンクレッドは小脇にアップランド小麦粉の入った紙袋を抱え、我らが英雄の居室────ペンダント居住区の一室へと向かっていた。
 原初世界に帰還するための方法を探るだとか、無の大地の調査だとか、何かと忙しく飛び回っていた中でふいに訪れた短い休暇だ。その貴重な時間を、あの女からのおつかいに費やしているとは。サンクレッドは苦く笑うと、ゆるりと首を揺らした。
 毎日のように顔を突き合わせているというのに、彼の可愛い娘であるリーンがどうしても遊びに行くと言うので、朝から光の戦士たる女傑の部屋を訪ねていた。そこで目にしたのは、洗濯日和にあてられて、部屋中の布という布を洗って回っている彼女の姿。捕捉されるや否や、お前たちの部屋のシーツも持ってこいと指示されて、結局クッションカバーから下着まで丸洗いされてしまったのである。これでは遊びに来たというより世話をされに来ただなと、いたたまれなさにサンクレッドは肩を丸めたが、彼女と一緒になってぬるい風と戯れるリーンがいたく楽しそうであったから、そのままはしゃぐ二人の姿を眺めていた。暇なら手伝えと言い渡されたのもその時で、まず工芸館に納品するものだと小箱を渡され、医療館に持っていけと薬草の束を渡され、帰りにムジカ・ユニバーサリスで小麦粉を買ってこいと申し付けられ。つまりは、体よく追い払われてしまったのである。女同士の睦まじい交流を、ただ観察しているよりは建設的かと、渋々引き受けて今に至る。
 かの英雄は光の巫女を娘同然に可愛がっているし、リーンも彼女を母親みたいに慕っている節がある。そんな二人だからこそ話すこともあるだろう。その時に父親面をした男なんているべきではないのだと、どこかうら寂しさを覚えながら律儀に言われたことをこなし、サンクレッドはたっぷり時間をかけて帰着した。さすがにもうあの洗濯物の山は消えているだろうと部屋のドアをノックするのだが、返事がない。人に用事を頼んでおいて出掛けてしまうような人柄でないことを知っているから、のっぴきならない事象でも起こっただろうかと、サンクレッドは迷わずドアを開ける。窓から吹き込む南風が、静かに彼の睫毛に触れた。
 広いテーブルに小麦粉の袋を下ろし、くるりと部屋中を見渡して、噴き出しそうになった息を無理やり閉ざした唇で押し殺した。すっかり乾いた洗濯物たちが広がるベッド、輝くような白いシーツの上に、名高き英雄と光の巫女が寄り添うようにして横たわっていたからである。すう、すう、と平和な寝息のリズムで肩が上下している様子から、ただただこの心地よさに負けたのだなと察せられた。
 何て呑気な光景だろう!
 サンクレッドはくつくつと揺れる肩を押さえきることができず、眦に幸福を滲ませた。日向の香りがする布の繭の中、激動を戦い抜いた女たちが、羽をたたんだ天使みたいに眠っている。罪食いなんて醜悪な怪物より、よほど罪を食らってくれそうではないか。
 サンクレッドは満ち足りるまでその様子を見つめると、二人が寝そべるベッドにそうっと腰掛けた。影がシーツに広がった髪に落ちかかる。

「俺たちの英雄も、さすがに干したてのシーツには弱いんだな」
「いや気付いてんのかよ……」

 彼の呼びかけに応えが返ってくる。ぱっちりと目を開いたのは、光の戦士たる女傑だ。吐息の多いささやかな話し声では、すっかり深く眠っているリーンを起こすに至らない。英雄たる女は寝そべったまま、少しだけ首を傾けてサンクレッドを見上げた。

「おつかいありがとう。暑かったでしょ」
「少しな。日陰は風が通って涼しいもんだった」

 可愛い娘の頭をふんわり手で包みながら、サンクレッドは笑う。

「そっちこそ、大仕事お疲れ様、だな。張り切ったじゃないか」
「こうお天気だと、つい嬉しくなっちゃって」

 無防備に体を伸ばしてはいるが、英雄と呼ばれる身になると、真昼を行き交う人の気配に刺激されて、眠れるだけの安寧を得られない。だから眠たげに目を擦るリーンに寄り添って、体を休めながら鳥の声を聞いていたのだろう。彼女は明朗な光を灯す瞳を少しだけ細めた。

「小麦粉買えた?」
「ああ。コルシア島の名産らしい」
「良いやつだ。それでお昼にスコーンを焼こうかと思って」
「昼にスコーン?」

 まだ働くのかという呆れと、そんなもので満足できるのかという驚きとで、サンクレッドがすっとんきょうな声を上げると、リーンが起きるでしょと言わんばかりの平手に膝を叩かれる。

「お腹に溜まるじゃない。粉物だし」
「そうか?」
「甘い昼食が気に入らなかったら、他所で食べてくれば良いでしょ」

 つんと唇を尖らせた彼女に、サンクレッドは目を瞬いた。

「……俺も良いのか?」
「えっ、何……なに、その反応」

 不思議そうな顔をする彼に、光の戦士は面食らって思わず身を起こした。シーツの上に流れていた髪が、ぱさりと肩を覆う。

「二人で来たんでしょ……なら一緒に食べると、思った……んだけど……」
「……そう、か」

 至極当然の口振りで彼女は言うが、娘の父親であれ、彼女にとっての夫でも恋人でもない、ただの仲間に手料理をわざわざ振る舞うのは構わないのだろうか。この英雄も大概人を好むから、色のついた意味があって施すことはなく、意識しないからたちが悪いとサンクレッドは息をついた。本来なら、例えば水晶公くらいなら、彼女の手作りと言えば昏倒しかねない威力があるぞと教えてやるのは、今は野暮だなと思い至る。

「……まあ、良いさ。ご相伴に預かろう」
「えーっ、なに、何なんだよ!」

 不満と不可解で白鱗の尾を振り回す彼女に、サンクレッドはただ首を振って笑った。
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