掌に小春日和

 ふと、サンクレッドの指が視界の横に入ってきた。こちらを脅かさないようにゆっくりと、攻撃性のない掌を見せながら、眼前を通って胸元を過ぎ、その腕がやんわり肩を抱く。

「そろそろ休憩にしないか。コーヒー淹れたぞ」

 文字の羅列から視線を引き剥がし、角に触れる優しい声に顔を上げれば、後頭部が体温とぶつかった。頭の先にちょんと触れたのはおそらく彼の唇で、笑った吐息が髪に染みていく。
 時計を見れば短針が、向かって右下を示したところだ。陽射しは僅かに傾いて、金に色付いた光が窓辺を染めている。初夏の南風がコーヒーの香りをまとって鼻先をくすぐっていくから、つい唇を綻ばせ、随分と読み込んでしまった本にしおりを挟んだ。ぐりぐりとサンクレッドに頭を寄せながら体を伸ばすと、彼は決まってこの首を撫でる。皮膚と鱗のあわいをなぞるように、慈しむように触れてくれる。その感覚が何とも言えず心地良いから、サンクレッドの手が好きだ。
 彼の手付きが好きなのだ。あんまり大事そうにするものだから、自分が何の力も持たないただの女になったような気がする。こちらを見下ろす榛色の、穏やかな双眸も好ましく、不器用な心根を表す唇も愛しい。愛されていると、感じる。
 だから安心して微睡んでしまう。サンクレッドの手に懐きながら、ふかりと欠伸まじりに応えた。

「ありがと。つい熱中しちゃった」
「構わないさ。何か妙案は得られたか?」

 彼の指が角の付け根に移動して、凝った筋肉を揉み込んでくる。うっとりと浸ってしまいそうになりながら、たった今仕入れた知識とこれまでの知見を頭の中で混ぜていく。

「やっぱり、随分前の傷になるから……根本的な治療は難しそう。ガレマール式の補助器具を使うのが、一番マシに歩けると思うんだけど」
「……心境的に、難しいだろうな。何せその帝国の兵から負わされた傷が原因なんだ」

 サンクレッドの苦い声に頷く。
 ガレマール帝国は崩壊し、首都ガレマルドは瓦礫の山だ。だからといってもたらされた戦禍も傷も、灰となって消えるわけではない。苦しむ人々は未だに各地で生きている。終末の災厄を退けてなお、眠れぬ痛みに苛まれ、絶望にいる者も少なくはない。
 だからこそ、シャーレアンの治癒術やガレマールの先端医療について読み漁りながら、癒し手として各地を回ってみてもいる。英雄のエゴイズムで勝手に救った命たちなのだ。出来る限りの苦痛は取り除いてやりたかった。今を生きていることを後悔してほしくない。世界は、故郷は美しいと、希望と肯定によりこの先を歩んでほしい。こんな思いだってただの独善と知りながら、それでも、ひとり宇宙をゆく青い鳥だけに謳わせはしない。

「せっかく生活できるようになっても、トラウマを刺激するんじゃしょうがないものね。しばらくは痛み止めとリハビリで様子見てかな」
「長期戦になるな。……あんまり抱え込みすぎるなよ。他に世話してくれてる奴もいるんだろ」
「うん、そうみたい。少し顔色も良くなっててさ」

 怪我や病の厄介なところは、孤独がそいつを酷くすることだ。自分の世話もままならず、不安を溢す先もなく、焦燥と自己否定ばかりが内に渦巻いて膨れ上がって動けなくなる。そこに、たった一瞬でも、背に触れる指の体温があれば救われる。手当ての語源はそこにある。治療行為が真に癒すのは心なのだ。
 世界は変わりつつある。誰かの背を撫でることが出来る、そんな人々が立ち上がりつつある。きっとこうしてアーテリスは、青く輝きを増していき、遥かな空の命たちにも語りかけていけるだろう。
 本当に良かった、と。手を合わせて笑えば、サンクレッドも眦を和ませて頷く。

「さあ、お前もちゃんと休めよ。治す側が一番元気でいないといけないんだから」

 彼の手がふんわり両の瞼を覆うので、その温かさに長く息を吐いた。サンクレッドの手当ては、特に効く気がする。癒しの力を持たないどころか、エーテル操作さえままならなくなった彼だが、よく気が付くし、小まめに労ってくれる。こうしてコーヒーを淹れてくれるのだって。

「カフェオレにするか。甘い方が良いだろ?」

 気遣わしげな台詞だが、その裏に、当然それが好きだろう、なんて自信が隠れていて、思わず笑ってしまった。頬を撫でてくれるサンクレッドの手に、頭を預ける。
 別にカフェオレが好きなわけではないし、どちらかというとブラック派だ。元々の風味がまったく分からないくらい甘ったるくされたら、それはもう砂糖とミルクなのだ。コーヒーがおまけに成り下がっているではないか。
 ただ、サンクレッドが初めて淹れてくれた飲み物が、ぬるくて甘いカフェオレだった。優秀な諜報員、戦闘員であっても給仕ではない、そんな彼がそうやって気遣いをしてくれたことが嬉しくて、とても喜んだのを覚えている。するとサンクレッドは、そんなに喜ぶほどこれが好きなのかと学んだらしく、例えば不機嫌を宥めてくれる時だとか、ご機嫌を取りたい時だとか、こうして過度な没入から引き離したい時だとかに、カフェオレをちらつかせてくるようになったのだ。

「どうした?」
「ううん、」

 肩を揺らしながら首を振った。サンクレッドの中では、カフェオレは自分の大の好物で、差し出せば食い付くことになっている。本当は、彼がこちらのことを思いながら淹れてくれるものが好きなのに。サンクレッドのその心が、可愛らしいと思うのに。
 だから今日も、その申し出に、如何にも嬉しそうに頷いて見せた。

「カフェオレにして。あんたが淹れるやつがいちばん好き」

 鏡で見なくたって、自分の表情がだらしなく緩んでいることが理解できた。彼の眼差しが、触れる指先が、同じように愛してくれるから。ああ本当に、サンクレッドの手当てはよく効く。少しだけ疲れて強張った目もとも、肩も、乳白色に混じり溶け出してしまいそうだった。
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