掌に小春日和

 冷たい肌があった。波打たぬ胸があった。息は二度と零れることはなく、声は二度と転がることはなく、血は二度と巡ることはない。あんなに美しく未来を見据えていた彼女の瞳が、ただ足元の泥濘に濁っていくのを、彼は呆然と見つめていた。

 ────意識はそこで唐突に浮上した。瞬きの間に景色と体勢が変わったと思い込んでいるものだから、サンクレッドはひどく動揺して、横たわっていた身体を跳ね起こす。知らず詰めていたらしい苦しい呼吸を、何度も繰り返せば、激しく暴れまわる心臓が鳩尾に体当たりしているような衝撃を感じられた。
 そこが慣れたベッドの上で、自分があまりにも非情な夢を見たに過ぎない、と。サンクレッドがそうだと気付いたのは、カーテンの合間から射し込む月光の傾きに、明けにはまだ随分早いとぼんやり判断した時だった。情けなく震える唇を、覆うように手で抑えて、嗚呼しまった、と傍らへと視線を下げる。
 汗が滲んだ寝間着に細い指が触れてくるのと、サンクレッドへ向けられた夢うつつの眼差しと出会うのは、ほぼ同時だった。

「……どうしたの。こんなに冷えて……」

 幸せな微睡みから俄に覚醒する彼女の声が、耳朶に触れて酷く安堵する。サンクレッドは、笑って何でもないと首を振るつもりだったのに、渇いてひび割れたか細い呻きばかりが喉を震わせることを恥じ入って、俯いた。せっかく寝入っていた彼女を叩き起こすような真似をしてしまったし、大の男が夢見の悪さで混乱したなんて事実はいかにも間抜けに思えた。
 彼女と────暁の英雄たる女傑と、こうして共寝をするようになって久しい。彼女の部屋に招かれて、共に手作りの夕食を食べて、眠くなるまで話をする。彼女の暮らしぶりに、当然のようにサンクレッドが組み込まれているのを、身に余ることだと気後れする心も和らいできた頃だった。だからこそ、こんなふうに彼女の死を恐れるような夢を見たのかもしれない。
 今までだって“光の戦士の死”は、歴史を揺るがすほどの大事件になり得る、おそろしくおぞましい、認められざるべきものだ。それは、星海より見守るミンフィリアが愛した世界を失うことにもほぼ等しい。それに加えて、サンクレッドにとっての“愛しいひとの死”という意味さえ持ってしまったから、ちらりとその可能性がよぎるだけで氷が食道を焼くような痛みを覚えるのだ。
 彼女の側にいると、安らぐ。曖昧な心の輪郭に、愛という名前がついて、その唇に触れる意味がもたらされた。しかし幸福なんてものは裏返りやすいことも知っている。特に、お互い危険な任務も多い身だ。いつ死ぬとも分からない────いや、今は、考えたくもない。ともかく、そんな夢を見てしまうに足る条件はあったわけだ。
 上体を起こしてサンクレッドを覗き込む、彼女の頬に触れる。いつもその白い頬をひんやりと感じることが多いのに、今は彼の方が、じっとり纏った汗のせいで冷たくて、相対的に体温を感じられた。重ねてくれる手のひらの、生きた柔らかさに、思わず息が漏れる。

「……ごめんな。起こして……」
「それは、良いのだけど……」

 彼女の指が、強張った肩や背に伸びた。只事ではないことを悟ったか、否、何てことのない悪夢に怯える滑稽な男の無様があるだけなのだが、それでも労るように撫でてくれることが心地好く、素直に甘えたままにした。

「ひどい汗」
「……シーツまで染みたかもな」
「これじゃあ気持ち悪いでしょう。換えようか」

 優しい眼差しが瞼に染みる。もう少しだけ見ていたくて、サンクレッドは額を彼女と重ねた。近い熱に首の筋肉が解れて、知らず深い息が零れた。

「……本当に、どうしたっていうの。随分甘えん坊じゃない」

 茶化すような物言いではあるが、声音はあまりに愛しげだ。サンクレッドはやんわり腕を回すと、英雄と呼ばれるには細すぎる彼女の身体を、思いっきり抱き締めた。小さくて温かい。身じろいだ彼女を無理やりのように足の間へと引き込んで、すっぽりと体中でしがみついてしまえば、トコトコと鳴る心音を感じられた。揺れている肩は、どうやら鼓動のためではないようだが。
 カミーズにさえサンクレッドの汗が伝うのを、少しも嫌がる様子なく、彼女は大人しく彼の胸に頭を寄せた。現実の、命ある女傑が、良く懐いた小鳥みたいに振る舞ってくれることが、サンクレッドの庇護欲から独占欲までを慰めて、それが思うよりも冷静を運んできた。確かめるように呼吸をすれば、彼女の匂いがふんわりと鼻腔を刺激する。

「怖い夢でも?」

 彼女の問いにサンクレッドは言葉なく頷いて、自嘲の息を吐いた。

「…………情けなくて、参るよ」
「そんなことないでしょう。夢見も恐怖も、自分ではどうにもならないもの」

 絹みたいに織られた言葉の触りも、悪戯に顎をなぞる睫毛の先も、何もかもが心地好くて、サンクレッドはやっと笑みを溢した。彼女はこんなに自分に優しい。こういう仲になってから、このひとが特別にサンクレッドを愛してくれているのは、何処からどう見たって明らかだった。向けられる好意が陽だまりみたいに、腹の奥で滞っていた冷たさを少しずつ押し流す。

「お前が死ぬ夢だった」

 凍結が崩れゆくせいで、言うつもりのなかったことまで、ほろりと転がり落ちる。サンクレッドの微かな声に、彼女は顔を上げて、彼の榛色の瞳を覗いた。

「あんたって、本当に私が好きね」

 呆れて笑い出す彼女に、何にも返す言葉がなくて、サンクレッドは曖昧に首を傾げる。全部、全部本当なのだ。
 このひとが愛しい。失いたくないと願うほどに。もう二度と、自分の無力なんて感じないように。持てる全てで彼女の自由を守れたのならば、此処に到るまで重ねてきた祈りが叶えられた気がした。
 彼女のたおやかな指が、あやすように彼の手の甲を撫でる。

「これじゃあ寝られないでしょう。お風呂にお湯を張ってきて。一緒に入ろう」

 窺うように彼女の髪を鼻先で撫でれば、くすくすと笑う声が聞こえた。

「温まったら、蜂蜜酒をお湯で割って飲もう。ほっとするのよ。それからまた一緒に横になりましょう」
「……良いのか。そんな贅沢」
「良いの」

 慈しんで微笑む唇が、サンクレッドの首を撫でた。瑞々しい感覚に目を細めれば、彼女はやっぱり笑っていた。悪戯な表情にも思えたし、いたいけなものを愛でる眼差しにも思えた。
 彼女がそんな風に、可愛らしいと見つめてくれるから、目の奥に微か熱が灯る。

「此処にいるから、大丈夫よ」

 耳に触れる愛の音に、サンクレッドは頷いた。悪い夢なんて欠片も残さず、彼女が魔法で溶かしてしまった。
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