掌に小春日和

 それなりに長く生活を共にしていると、お互いの好みがおのずと分かってくる。
 特にサンクレッドは、その観察眼も武器のひとつであって、だから妻たる女の見せる些細な仕草から、充分に情報を抜き出すことができた。彼女は────救世の英雄にして光の戦士である女傑は、薔薇が好きだ。甘酸っぱいベリーが好きで、それから、サンクレッドが淹れるカフェオレが好きだ。アウラ族である彼女は、中でも水辺の爬虫類に生態が似ているのか、日向で体を温めるのが好きで、夏の水遊びが好きだ。だから長風呂も当然好きで、ボディスクラブで角や尻尾をゴシゴシ手入れをするのが好きだ。
 そんなふうに指を折りながら、彼女の好きなものを挙げ連ねることができる。そのためサンクレッドは、ふと市場を見渡したときに、「これはこの子が好きそうだ」と直感的に判別することもできた。

(……ああ、)

 今回も、そんな小さな予測が、サンクレッドの足を留めた。買い出しのために訪れていた、森都グリダニアの商店街を一望したときである。
 南北に長く伸びた木造屋根の下は、真っ赤なハートとぴかぴかのリボンで明るく彩られており、甘い香りがそれらをぎゅっとコーティングしているかのようだった。豊かな草葉の青臭さが、今ばかりは上からぺったり塗りつぶされて、たいそう華やかな装いだ。
 チョコレートの匂いである。サンクレッドは、唇を綻ばせた。凶悪なまでに濃縮された魅惑の香りが、風にとろみをつけているのではと錯覚するほどであるが、まあ、この気配も嫌いではない。
 鼻先で浮かれた空気を掻き分けながら、彼は繋いだままのたおやかな手を握り直した。そうして隣を歩く人物の進行方向を、ゆるやかに誘導する。その小さくほっそりとした指は、意図に気付きながらもおとなしくサンクレッドに従って、ぽとぽとと油断した足音でついてきた。

「なぁに」

 サンクレッドの妻である光の戦士は、おっとりと彼を見上げた。丸々として棘のない、優しい声であった。商店街であるゆえ多くの人が行き交うが、混雑しているわけでもない其処で、わざわざぴったり寄り添い一つの塊として歩を進めている。

「なんだろうな」

 サンクレッドは顔を寄せて、微笑みを彼女の額へと滲ませた。誤魔化しにも言い訳にもならない彼の曖昧さを、妻たる女はそれも良しとしたらしい。にまりと頬を緩ませるだけで、つやつやの白い角を夫の腕にじゃれさせて、それ以上の追及はしない。絡んだ指と指で、言葉のない会話をして、爪をお互いに撫で合った。
 英雄という名の怪物が、彼と共に日常を過ごすとき、こんなふうに安心しきっている。死闘を数多経験し、そのたびに絶望を踏み潰してきた彼女が、戦いも悪意も知らないみたいな無垢の振る舞いをしてくれることが、サンクレッドの誇りの一欠片であった。彼女が何にも怯えず、憂いなく過ごしてくれていることが、幸福のひとつであった。
 妻の安寧を喜びながら、しかして笑顔の時間をもっと増やしてやりたいと野望を秘めるのも、善き夫の嗜みではないだろうか。サンクレッドが彼女の好きなものを覚えるのも、与えてみたいという欲求のためだった。彼女の可愛い顔が見たいという、愛と独善であることを、自覚していた。

「あっ、すごい、可愛い!」

 サンクレッドが目当てとした店の前、品物に興味を引かれた彼女が、明るく声を上げて立ち止まった。まんまと予想通りの動きをしてくれたことに、彼女の夫はほくそ笑む。
 眼前で、チョコレートの薔薇が咲き乱れていた。それが精巧な菓子であると分かるのは、赤、白、ピンクにオレンジの色彩があんまりに鮮やかなため。それから薔薇の豊潤な香りとは遠い、重厚なカカオの匂いのせいであった。すっかりチョコの花畑に魅入った彼女は、少女みたいに頬を赤らめて笑った。アウラ族の特徴的な瞳を、エーテルでぴかぴか輝かせながら、サンクレッドの腕をぎゅっと握っていた。
 いとけない子どもみたいだ。サンクレッドは愛しく吐息の先を丸めて、一緒になって薔薇を覗く。

「見て、チョコレートローズだって。可愛い……!」
「だな。よくできてるもんだ」
「赤いのはカーラントの味かな。ピンクのはスナーブルベリー?」

 白はホワイトチョコで、オレンジからは柑橘がほんのり香る。美しく象られた薔薇のチョコレートは、贈答すれば恋に必中であろうし、自ら楽しむものとしても適正である。
 サンクレッドは企んでいた。洒落た皿に薔薇を咲かせて、その横にカフェオレでもつけてやったらどんなにか。
 はしゃいだ妻の手を引いて、砂糖色の角に唇を寄せると、彼は堪えきれない笑みを含めて囁いた。

「気に入ったなら贈らせてくれ。三つまで、色を決めてくれるか?」

 ぴん! と彼女の尻尾が跳ねた。それからモタモタと左右に揺れて、何だか彼女の心境がそのまま表れているみたいで、サンクレッドには好ましかった。
 大きく開いた彼女の瞳が、サンクレッドを見上げる。中途半端に開けっ放しの口が、仄かに嬉しげな形をしていた。

「ほんと?」
「ああ」
「三つも?」
「足りないか?」
「ううん、……ちょっと、多すぎ、かも」
「チョコレートならしばらくもつさ」

 喜色と動揺と、遠慮と愛着と、綯交ぜの声音がほろほろ溢れていく。はにかんだ彼女の指をほぐしてやりながら、サンクレッドは根気よく誘い込んだ。

「食べない分は飾って眺めよう。花びらを一枚ずつ、ミルクに浮かべても良いかもな」

 菓子より甘い彼の提案を、妻は大いに気に入ったようだった。飴細工みたいな瞳をさらに大きく見開くものだから、彼女の顔の半分が目になったみたいに錯覚する。サンクレッドのヘーゼル・アイに視線という視線を刺したまま、彼の可愛い妻は何度も頷いた。

「ありがと、サンクレッド!」

 綻ぶように笑う彼女に、サンクレッドは恭しく頭を垂れた。
 女傑と名高い光の戦士が、無邪気に頬を赤らめて、チョコレートの薔薇を見定めている。長い睫毛の先から注ぐ眼差しが、甘やかな花弁を撫でてゆく様をすぐ横で眺め────なんてうつくしい光景だろう、と、サンクレッドは小さな息を吐いた。
 なおも繋がるままの手指が熱いから、滑らかな皮膚や鱗を撫でて、宥めていた。

「じゃあ、……じゃあ、」
「ゆっくりでいいぞ」
「どうしよう。……ひとつ選んで!」

 甘えた女の声なんて、この時期は珍しいものはない。時折こちらを見守る視線を感じはするが、“英雄と暁の賢人”に対する物々しさではなく、仲睦まじく見目麗しい男女を愛でるそれであると、サンクレッドは胸を張った。妻は文句なく美人だし、自身もこの容姿で諜報活動を捗らせてきた自負がある。
 だから今ばかりは、ヴァレンティオンの浮かれた空気に乗っかった、ただの夫婦で構わない。人目も憚らずイチャついて、おやつの時間の算段を立て、耳と角とでキスをしながら、愛に彩られた街を闊歩する。
 何せ、世界は平和なのだから!
 サンクレッドは、腕にじゃれつく妻に笑いかけた。

「ここはやっぱり、赤だな」
「熱烈。じゃあ、ね、あとは、白とオレンジにする」
「ピンクのは良いのか?」
「こっちの味が気になって」

 てっきり好きなベリー系で固めると思ったが、柑橘系も場合によって選ぶらしい。土産の選択肢が広がってしまったなあと、サンクレッドが考えている間に、妻たる女は爪先を伸ばして彼の頬に囁いた。

「リーンたちにも、買ってあげて良い?」
「もちろん」

 サンクレッドは思わず笑い声をあげると、二つ返事で頷いた。彼女がどうせ言い出すと思っていたし、でなければ自分から切り出そうと考えていたのだった。

「それじゃ、あいつらへの分をピンクにしよう」
「うん!」

 彼女はとてもとても嬉しそうな満面の笑みを咲かせて、それから意気揚々と店員に話しかけた。
 たわわな尻尾が、白鱗を輝かせて元気に揺れている。彼女のそれはぶつかるとそれなりに威力があるので(稀代の英雄の尻尾ビンタなのだから当たり前の話ではある)、サンクレッドは彼女を肩を抱いて背中側に一歩寄った。跳ねる心を映していた尾が、彼の足を探して巻き付きおとなしくなるから、可愛いなあと笑みを堪えた。

「うまいこと、全部の味にかこつけたな」
「ち、がうもん。可愛い色だから、あげたいと思ってたの!」
「はは、分かってる。結果的にって話さ」
「もう!」

 びちん、と彼女の尾が足を叩くから、膝が抜けそうになった。サンクレッドがわざとらしく呻いて妻にしなだれかかると、くすくす笑う振動が感じられて、愛しさについ肩を揺らす。

「見て、箱も可愛い」

 彼女が宝物みたいに掲げたそれを、一緒に見つめた。モチーフの薔薇をふんだんに描いた上品な紙箱に、赤、白、オレンジのチョコレートローズが澄まし顔で植わっている。ピンクの薔薇も一つずつが小箱に入って、お姫様みたいな可憐さだ。
 完璧なプレゼントである。どこから見ても愛らしく、舌に迎える時を思えば自然と唇に笑みが浮かぶ。
 店員にひとこと、「ありがとう」と挨拶して、サンクレッドとその妻は足取りを弾ませた。靴音がステップじみて響き、そんなことがどうにも愉快になる。

「日頃の想いを伝えるに足りたかな、マダム」
「じゅうぶんすぎて困っちゃった!」

 三本の薔薇が示すのは、愛を告げる花言葉。
 彼女はしばらく大切そうに箱を抱えていたが、落として割れても仕方がないからと、もらった手提げにそうっと仕舞いこんだ。
 温かな手を繋ぎ直して、指をするりと絡め取る。

「今日のご飯はハンバーグにしてあげる。ハート型の、おっきいやつ!」

 妻たる女が突然そんなことを宣言したので、サンクレッドは目を丸くして、小さな彼女を見下ろした。訳知り顔がそこにある。彼女は誇らしげにさえ見えるニンマリ笑顔で、夫の腕に角を押し当てた。

「あんた好きだもんね、ハンバーグ」

 柔らかな声音だ。予感でもなく、確信でもない。例えば、朝に日が昇り夜には落ちるというような、至極当然のことをあえて話題にする、何気ない調子だった。
 だって、それは、そうだろう。サンクレッドは途端に落ち着かなくなったうなじを自覚しながら、妻の飴細工みたいな瞳を見つめた。
 肉が嫌いな男なんてまずいない、と、前衛職で身体が資本の彼は豪語できる。フォークを入れるだけで切れてしまうほど柔らかく、それでいて、肉汁を閉じ込めた滑らかな歯触りと強い旨味を叶える食べ物がハンバーグなのだ。好きでないはずがない、が。

(俺はそんなに、がっついていただろうか?)

 彼女にこう言わしめるほど、執着を見せていただろうか。サンクレッドが、なるべく冷静に客観的に記憶をひっくり返そうとしたところで、彼の妻はさらに続けた。

「それから、クリームシチューも作ってあげる。ポポトをごろっと入れたやつね。玉ねぎは飴色になるまでじっくり炒めて、カロットはとびきり甘いの使うの」

 たまらずサンクレッドは呻いた。好きなものばかりである。好きなもの、というよりは、妻たる女がそうやって作ってくれるシチューが好きなのである。
 クソガキ時代に、ちらりと夢想しては振り払ってきた、“家”の味がするからだ。
 彼女が夫に食べさせるために、食材から選んで、素材の味が活きるようしっかり下拵えをして、じっくりと時間をかけて作ってくれる────彼女がその間、サンクレッドのことばかりを考えて用意してくれる優しい料理だから、それが分かるから好きになった。
 毒の可能性なんて微塵も考えずに頬張れる。愛しく思い、想われながら、油断して過ごす食卓の味がするから、彼女の作るハンバーグとシチューが好きだ。

「あんたの好きなもの、いっぱい知ってるんだから」

 妻がそうやって笑うから、サンクレッドはむずがる頬の奥を誤魔化せずに破顔した。

「参ったな」

 どうやら彼女も、相当の観察眼をお持ちのようだ。知らない自分も、忘れていた自分も、妻の眼力の前に炙り出されそうで、それも悪くないかと思えた。

「これで私からのお返事になる?」
「十二分だ」

 彼女を抱え上げて歩きたいのを、さすがに我慢した。代わりにサンクレッドは、妻の可愛いつむじに軽やかなキスを落として、微笑を髪へと滲ませた。

 商店街を彩るハートの数だけ、愛が交錯している。すれ違う人々は今日この時、きっと誰かの顔を思い描きながら店頭を覗いていて、お菓子も夕飯もいつも以上に賑わうだろう。
 サンクレッドはいつの間にか、そんな雑踏のただ中にいる自分に、違和を感じなくなっていた。どこにでもいる愛妻家の顔で妻の手を引き、甘そうなカロットを探す手伝いをするのであった。
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