掌に小春日和
「媚薬というものはね、存在しないのよ」
はらはらと舞うカカオパウダーを追うような、ぽろりとこぼれた声だった。
規則的かつ軽やかなリズムが、微かに鼓膜を打っている。ぽんぽんと叩かれるふるいからは、ミルクブラウンの色が雪のように降って、ハートのかたちに成型されたチョコレートへと積もっていった。
魔法のようだなあ、と、サンクレッドはそれを見下ろしていた。彼の手はといえば、彼よりひと回りもふた回りも小さなアウラの女の腹に回されていて、細いというか薄いというか、ともかくその収まりの良さを楽しんでいたのだった。愛を表す甘い菓子の仕上げをしている彼女の────暁の英雄であり光の戦士の、手際とつむじを、愛しく眺めていた。
聞こえ良く言えばリラックスを、悪く言えば油断していたサンクレッドは、斜めの方向性から投げ込まれた話題に、咄嗟に反応することが出来なかった。
イシュガルドより広まった愛の年行事、ヴァレンティオンデーの季節である。友愛。親愛。隣人愛。家族愛。偏愛。それから────恋愛、など。ひとくちに「愛」と言っても、形や情熱は様々だ。
サンクレッドと、その妻である光の戦士にとって、その日は口実でしかない。確かに心を寄せていると示すこと、その証に品々を贈ることが、愛の日であるために許される。ふたりで暮らす家の一角には、可愛い仲間たちを想ったプレゼントボックスが、ささやかに積まれていた。
そして、ふたりで休暇を合わせた一日。彼女は昼間から夫や仲間に渡すためのチョコレート作りに励み、彼はその様子を特等席で見守る。そうして優しく浮かれた時間を、共に過ごしていたのだった。
そんな時、不意に落とされたのが、妻のひとこと爆弾である。
なぜ媚薬の話に。サンクレッドがどう反応すべきか迷っている時間を、彼女は少し長く感じたらしい。アウラ族特有の、エーテルで光る瞳がじっとりと彼を見上げる。聞いてますかと問わんばかりだ。
愛しい妻の視線を受けて、サンクレッドは────曖昧に微笑んで首を傾げた。聞いてはいたが、発言の意図を理解できていない。降参の表情である。優柔不断な態度を怒られるときもあるが、今回に限っては、彼女はそれで満足したようだった。にっこりと笑った眼差しが手もとに戻り、ぽんぽんとふるいをかける作業を続ける。
光の戦士であるこの女は、時折こうなのだ。興味があちこちにあって、思考もあちこちでするものだから、彼女の中でだけ紐付けられている話や記憶が多くある。(カレーに入れるスパイスの話をしていたはずなのに、突然カエルの使い魔が話に上がってきたときは特に驚いた。)突拍子のないように思える彼女との四次元の会話は、女性とのコミュニケーションに慣れたサンクレッドにすら難解で不明瞭、要領を得ることはできず、だからこそ新鮮で刺激的で、愛おしかった。
彼女の髪を鼻先で撫でれば、くすくすと真っ白な尾が揺れて、それからほんのりサンクレッドの足をくるむ。
「セヴェリアンが、この時期はいつも嘆いてるの」
「ああ、錬金術師ギルドの」
「媚薬なんて都合の良いものは存在しないっ、そんなもの酒か麻薬か疑似フェロモンだっ、私がわざわざ作るものではないっ、て!」
かの奇人の憤りをそのまま真似して、堪えきれず彼女は噴き出す。光の戦士である女は、製作業にも通じていて、だから各ギルドのマスターにも顔がきくのだ。この間材料を届けに行っていたから、その時に愚痴でも聞いたのだろう。砂都ウルダハで活動していたこともあるサンクレッドにとって、セヴェリアンの名前と奇行と尊大な自信は知るところでもあって、その勢いが妙に似ていることも分かるから、うっかり妻につられて笑ってしまった。
多忙な錬金術師ギルドマスターの怒りも至極真っ当に思えるほど、その手の注文は多いのだろう。何せ黄金と謀略の都市のこと、金さえ積めば愛すら買える。────それが、まやかしで構わないのであれば、だ。
他人の心を操るような魔法も薬も、戯れのためのものはない。支配するため、陥れるため、飼い慣らすためのもののみが、悲しいことに存在していて、それらは厳重に管理されている。
ことり、と。光の戦士たる女はふるいを置いて、ひとつチョコレートをつまんだ。
「でもね、似たようなものならあるの。みんなが思うような、安心安全のハートフル媚薬」
「へえ?」
そいつはお目にかかりたいもんだ、と。言いかけたサンクレッドの下唇に、甘い香りが押し当てられる。視線を巡らせれば、いたずらっ子のように眦を和ませた妻と、できあがったばかりのチョコレートを捉えた。ハートのかたちだ。サンクレッドは、何の疑いなく、彼女の指ごとチョコレートを口内へ迎え入れた。
まず感じたのは、嗅覚にじっとり絡む香りだ。次いで舌の熱に溶ける幸福な甘味。そうして歯で割るまでもなく崩れたその中から、豊潤な酒気が鼻に抜けていく。
サンクレッドは、味覚からもたらされる快楽に、小さく肩を揺らした。くらりと揺れそうになる思考と、かっかと火照る瞳の奥。不思議と気が大きくなって、誘惑を差し出されたら二つ返事で応じてしまいそうだ。彼は妻のひとさし指を逃がさないように食むと、その皮膚に残っていたカカオパウダーと僅かなチョコを丁寧に舐めとっていく。
「酒じゃないか」
「あまーいチョコで口当たりの良くなった、キッツいやつね」
当然みたいな顔で愛撫を受け入れていた彼女は、振り返ってから、サンクレッドの胸に角の先を寄せた。
「おいしい?」
楽しそうに弾んだ問いへの返答として、彼はゆっくりと頭を下げて、可愛い妻と額を重ねた。それから鼻先を擦り合う。アウラ族である彼女の角の先がサンクレッドの頬に当たるのだが、まあるく整えられたそれが彼を傷付けることはなかった。受け入れられていることを、否、むしろ誘引されているのを感じながら、彼女の可愛い思惑通りに求めてやっと、唇同士が睦み合う。
表面が触れるだけのキスから、互いの粘膜で濡れる口付けへ。彼女の小さな唇に舌を捩じ込めば、残っていた甘やかさがうっとりと吸われていった。
「……おいしい。私、天才かも?」
「違いない」
顔を綻ばせた妻の口許を指で拭ってやって、さて、とサンクレッドは片眉を上げた。いかにも色男めいた微笑みで、彼女の喉元の鱗をなぞる。
「お誘いを受けたってことで良いんだよな」
「だぁめ、まだ皆のチョコできてないもの!」
愛しい夫に顎のラインを撫でられて、光の戦士はキャアと軽やかな笑い声を上げた。大仰な仕草で腕を広げ、このキッチンを見て、なんて台詞が決まる。並べられた材料や調理器具の賑やかさから、今日はまだまだ長いことが窺えた。夫婦ふたりだけで楽しんでいる場合ではない。
芝居がかって肩を落とすサンクレッドに、妻である光の戦士はくすくすと笑い声をあげると、彼の膝に尻尾の先を懐かせた。
「あとで、ゆっくりね」
「言質はとったぞ」
じろりとヘーゼル・アイを細めたサンクレッドは、それから可笑しそうに破顔した。
かつて多くの女性を虜にしてきた自覚がある。そんな自分が、今では妻にいたずらなちょっかいをかけられて、良いように「待て」を命じられているのか。それを、悪くないなと穏やかに思うほどに、この女が可愛かった。
改めて彼女の腹に手を回すと、サンクレッドは先程までと同じように、妻の作業を見守った。細い指が目まぐるしく働く様子さえ、愛おしいものだな、と噛み締めながら。
はらはらと舞うカカオパウダーを追うような、ぽろりとこぼれた声だった。
規則的かつ軽やかなリズムが、微かに鼓膜を打っている。ぽんぽんと叩かれるふるいからは、ミルクブラウンの色が雪のように降って、ハートのかたちに成型されたチョコレートへと積もっていった。
魔法のようだなあ、と、サンクレッドはそれを見下ろしていた。彼の手はといえば、彼よりひと回りもふた回りも小さなアウラの女の腹に回されていて、細いというか薄いというか、ともかくその収まりの良さを楽しんでいたのだった。愛を表す甘い菓子の仕上げをしている彼女の────暁の英雄であり光の戦士の、手際とつむじを、愛しく眺めていた。
聞こえ良く言えばリラックスを、悪く言えば油断していたサンクレッドは、斜めの方向性から投げ込まれた話題に、咄嗟に反応することが出来なかった。
イシュガルドより広まった愛の年行事、ヴァレンティオンデーの季節である。友愛。親愛。隣人愛。家族愛。偏愛。それから────恋愛、など。ひとくちに「愛」と言っても、形や情熱は様々だ。
サンクレッドと、その妻である光の戦士にとって、その日は口実でしかない。確かに心を寄せていると示すこと、その証に品々を贈ることが、愛の日であるために許される。ふたりで暮らす家の一角には、可愛い仲間たちを想ったプレゼントボックスが、ささやかに積まれていた。
そして、ふたりで休暇を合わせた一日。彼女は昼間から夫や仲間に渡すためのチョコレート作りに励み、彼はその様子を特等席で見守る。そうして優しく浮かれた時間を、共に過ごしていたのだった。
そんな時、不意に落とされたのが、妻のひとこと爆弾である。
なぜ媚薬の話に。サンクレッドがどう反応すべきか迷っている時間を、彼女は少し長く感じたらしい。アウラ族特有の、エーテルで光る瞳がじっとりと彼を見上げる。聞いてますかと問わんばかりだ。
愛しい妻の視線を受けて、サンクレッドは────曖昧に微笑んで首を傾げた。聞いてはいたが、発言の意図を理解できていない。降参の表情である。優柔不断な態度を怒られるときもあるが、今回に限っては、彼女はそれで満足したようだった。にっこりと笑った眼差しが手もとに戻り、ぽんぽんとふるいをかける作業を続ける。
光の戦士であるこの女は、時折こうなのだ。興味があちこちにあって、思考もあちこちでするものだから、彼女の中でだけ紐付けられている話や記憶が多くある。(カレーに入れるスパイスの話をしていたはずなのに、突然カエルの使い魔が話に上がってきたときは特に驚いた。)突拍子のないように思える彼女との四次元の会話は、女性とのコミュニケーションに慣れたサンクレッドにすら難解で不明瞭、要領を得ることはできず、だからこそ新鮮で刺激的で、愛おしかった。
彼女の髪を鼻先で撫でれば、くすくすと真っ白な尾が揺れて、それからほんのりサンクレッドの足をくるむ。
「セヴェリアンが、この時期はいつも嘆いてるの」
「ああ、錬金術師ギルドの」
「媚薬なんて都合の良いものは存在しないっ、そんなもの酒か麻薬か疑似フェロモンだっ、私がわざわざ作るものではないっ、て!」
かの奇人の憤りをそのまま真似して、堪えきれず彼女は噴き出す。光の戦士である女は、製作業にも通じていて、だから各ギルドのマスターにも顔がきくのだ。この間材料を届けに行っていたから、その時に愚痴でも聞いたのだろう。砂都ウルダハで活動していたこともあるサンクレッドにとって、セヴェリアンの名前と奇行と尊大な自信は知るところでもあって、その勢いが妙に似ていることも分かるから、うっかり妻につられて笑ってしまった。
多忙な錬金術師ギルドマスターの怒りも至極真っ当に思えるほど、その手の注文は多いのだろう。何せ黄金と謀略の都市のこと、金さえ積めば愛すら買える。────それが、まやかしで構わないのであれば、だ。
他人の心を操るような魔法も薬も、戯れのためのものはない。支配するため、陥れるため、飼い慣らすためのもののみが、悲しいことに存在していて、それらは厳重に管理されている。
ことり、と。光の戦士たる女はふるいを置いて、ひとつチョコレートをつまんだ。
「でもね、似たようなものならあるの。みんなが思うような、安心安全のハートフル媚薬」
「へえ?」
そいつはお目にかかりたいもんだ、と。言いかけたサンクレッドの下唇に、甘い香りが押し当てられる。視線を巡らせれば、いたずらっ子のように眦を和ませた妻と、できあがったばかりのチョコレートを捉えた。ハートのかたちだ。サンクレッドは、何の疑いなく、彼女の指ごとチョコレートを口内へ迎え入れた。
まず感じたのは、嗅覚にじっとり絡む香りだ。次いで舌の熱に溶ける幸福な甘味。そうして歯で割るまでもなく崩れたその中から、豊潤な酒気が鼻に抜けていく。
サンクレッドは、味覚からもたらされる快楽に、小さく肩を揺らした。くらりと揺れそうになる思考と、かっかと火照る瞳の奥。不思議と気が大きくなって、誘惑を差し出されたら二つ返事で応じてしまいそうだ。彼は妻のひとさし指を逃がさないように食むと、その皮膚に残っていたカカオパウダーと僅かなチョコを丁寧に舐めとっていく。
「酒じゃないか」
「あまーいチョコで口当たりの良くなった、キッツいやつね」
当然みたいな顔で愛撫を受け入れていた彼女は、振り返ってから、サンクレッドの胸に角の先を寄せた。
「おいしい?」
楽しそうに弾んだ問いへの返答として、彼はゆっくりと頭を下げて、可愛い妻と額を重ねた。それから鼻先を擦り合う。アウラ族である彼女の角の先がサンクレッドの頬に当たるのだが、まあるく整えられたそれが彼を傷付けることはなかった。受け入れられていることを、否、むしろ誘引されているのを感じながら、彼女の可愛い思惑通りに求めてやっと、唇同士が睦み合う。
表面が触れるだけのキスから、互いの粘膜で濡れる口付けへ。彼女の小さな唇に舌を捩じ込めば、残っていた甘やかさがうっとりと吸われていった。
「……おいしい。私、天才かも?」
「違いない」
顔を綻ばせた妻の口許を指で拭ってやって、さて、とサンクレッドは片眉を上げた。いかにも色男めいた微笑みで、彼女の喉元の鱗をなぞる。
「お誘いを受けたってことで良いんだよな」
「だぁめ、まだ皆のチョコできてないもの!」
愛しい夫に顎のラインを撫でられて、光の戦士はキャアと軽やかな笑い声を上げた。大仰な仕草で腕を広げ、このキッチンを見て、なんて台詞が決まる。並べられた材料や調理器具の賑やかさから、今日はまだまだ長いことが窺えた。夫婦ふたりだけで楽しんでいる場合ではない。
芝居がかって肩を落とすサンクレッドに、妻である光の戦士はくすくすと笑い声をあげると、彼の膝に尻尾の先を懐かせた。
「あとで、ゆっくりね」
「言質はとったぞ」
じろりとヘーゼル・アイを細めたサンクレッドは、それから可笑しそうに破顔した。
かつて多くの女性を虜にしてきた自覚がある。そんな自分が、今では妻にいたずらなちょっかいをかけられて、良いように「待て」を命じられているのか。それを、悪くないなと穏やかに思うほどに、この女が可愛かった。
改めて彼女の腹に手を回すと、サンクレッドは先程までと同じように、妻の作業を見守った。細い指が目まぐるしく働く様子さえ、愛おしいものだな、と噛み締めながら。
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