掌に小春日和

 ガラス越しに見えるのは、淡い曇天からこぼれ落ちる綿雪である。ひとひらが窓の向こう側に張り付いて、じっとりと溶けて雫となり、そうして名残惜しむみたいに一筋伝っていった。
 季節はいよいよ冬だ。木々も獣もほとんど寝支度を済ませ、だから静謐な黒衣森は、いっそう濃密なしじまに包まれていた。遠く鈴の音がさらさらと風をわたるほどに。
 のしかかるような寒さがもたらす氷色の景色に、ほんのりと、星とランプの灯りが浮かび上がった。

 森都グリダニア近郊に広がる冒険者居住区、ラベンダーベッド。名前の通り、常ならばラベンダーの香りが鼻先を撫でる場所だが、今はヤドリギの青さと枯れ枝の粉臭さが感じられるばかりだ。
 其処に位置するアパルトメントの一室は、今日も温かさに満ちている。イシュガルド式のストーブの上にかけられたケトルからは、とろとろと湯気が上がっていて、挽かれたばかりの珈琲豆の香りとじゃれていた。
 小刻みに踊る熱湯に添うように、針と糸がつるりと布を通過する、ささやかな音が響く。
 こと、こと。つる、つる。断続的で正確無比、器用に律動を奏でながら、白魚のような指はてきぱきと、何物かを拵えていた。白金色の鱗が彩る手の鮮やかなこと。部屋の灯りを含んだように光りながら、クァールの毛皮を丁寧に縫い合わせていく。
 側に控えたトルソーには、すでに完成した一着のケープが、誇らしげに飾られていた。ピュアホワイトで統一した羅紗を、手触りの良いチンチラの毛皮で縁取って、アクセントのリボンは甘やかなコーラルピンク。お洒落に興味を持ち出した乙女心と、彼女の細い肩を心配する父親心と、どちらの言い分にも配慮して可愛らしさと温かさを両立した。
 その出来映えを確かめるかのように、男の武骨な手が横から伸びて、裾の糸屑を払っていく。

「……よし。これでどうだ!」

 黙々と作業を続けていたアウラ族の女────暁の英雄にして、職人としても名高い光の戦士は、明るく声をあげて糸を断ち切った。
 賑やかな針山にぷすりと仲間を増やして、達成感とともに作品を差し上げる。真っ白なケープと対をなすピュアブラック、リボンは深いワインレッドで、大人びた上品な印象だ。
 非常に似通うデザインでありながら、対照的な二着のケープ。夢見る少女の羽衣であり、強く歩を進める女の鎧でもある。なかなか難しいテーマであったが、よくもまあやりきったものだと、ケープを見比べた彼女は深く深く息を吐き出した。
 その視界に、再度、男の手が映り込む。武器を握るせいで皮膚が厚く硬くなった、指の太い、たくましい手だ。“依頼主”が何度も何度もケープを撫でるから、光の戦士たる女は、丸ごと愛しく思ってしまう気持ちを無理やり押し込め、いかにも不機嫌そうな声を出した。

「どう、文句ある?」

 彼女の声音に、男の視線が上がった。光の加減で色を変える、魅惑のヘーゼル・アイだ。銀の睫毛に縁取られた、原石のごとき眼差しで彼女を捉え、男────サンクレッドは、感心したような後ろめたいような曖昧な笑みで眦を下げた。

「いや。むしろ感謝と称賛で、言葉が詰まりそうだ」

 その布越しに、可愛い誰かの頭を撫でるような、そんな優しい手つきだ。今ここにはいないが、心で深く繋がるあの子を慈しみながら、サンクレッドはひとつ頷く。

「さすがだな」

 光の戦士たる女は、ふんと鼻を鳴らした。満足とも不満ともとれる、微妙な仕草である。トルソーをもう一体並べて黒いケープをかけると、彼女はさっさと裁縫道具を片付けにかかって、彼に背を向けてしまった。つれない態度の彼女に、サンクレッドは気まずそうに自身の前髪をかき混ぜる。

「星芒祭に向けて、リーンにプレゼントを贈ってやりたい。温かな衣服を買ってやれなかったから、防寒具が良い。ガイアと揃えた方が喜ぶだろうから、二着必要だ。デザインが似ていて、でもそれぞれに似合うようなものを作ってほしい」

 おおよそこんな旨の依頼を、夫であるサンクレッドから受けたのは一週間前であった。星芒祭────イシュガルドから広まった子どものための祝祭を、間近に控えた出来事である。
 諜報のためや人脈確保のために贈るものならポンポン思い浮かぶ男だ。そのくせ、本当に大事なひとびと────家族と愛しむ相手に贈るものとなると、熟考しすぎて二の足どころか三の足四の足を踏む愚か者。それがサンクレッドである。
 価値の力で喜ばせたいのではない、本当に必要なものを、本当に欲しいものを、心からの笑顔を見たいと願うのだから、ああだこうだと悩む気持ちは分かる。そして出来る限り質の良いものを、光の戦士でありリーンの母親代わりの彼女が手掛けたものなら間違いないと考えたことも理解できる。
 しかし、製作には時間と体力が必要だ。ただえさえ忙しくしている彼女に身内という権力を振りかざして頼むのは如何なものかと、サンクレッドはギリギリまで、本当にギリギリまで悩んでしまい、そして結局駆け込んだ。
 だからこそ、彼女は。

「バッッッカヤローッ!! お前ーッ! せめて納期一ヶ月前には言えーーーッ!!!」

 大馬鹿旦那の横っ面を七割の力でひっぱたいたあと、やれ原材料の確保だ、やれデザインの相談だとあちこち駆け回って、(もちろんサンクレッドもこき使い、)時間も体力も捻り出しながら、何とか星芒祭の前日に完成させたのだった。

 この快挙にはサンクレッドも頭が上がらない。自分が無茶を言わなければ、彼女は今頃悠々とチキンやケーキの用意を済ませ、アロマキャンドルの揺れる火に目を細めているはずだったのだ。何と謝ればいいのか見当すらつかないが、それでも口に出して許しを乞わなければならないのは、身に染みて理解している。
 言葉にしなければ、伝わらないのだ。何事も。

 サンクレッドはそっとキッチンに向かうと、ストーブの上でことこと踊っていたケトルから湯を注ぎ、コーヒーを濾し始めた。酸味よりも苦味が強い、芳醇な香りがふかりと広がっていく。
 あちらを向いているアウラの尾が小さく跳ねているのを見ると、なかなか効果がありそうだ。
 それから彼女が愛用するマグカップにコーヒーを半分ほど移し、たっぷりのホットミルク、砂糖を大さじ一杯いれてかき混ぜる。マドラーがからからと賑やかな音をたてるから、彼女の尻尾の動きが大きくなったようだった。サンクレッドはその様子を見つめながら、甘くしたカフェオレを、そっとテーブルの上に置く。

「ほら。温かいうちに、な」
「…………」

 サンクレッドの気遣わしげな態度に、光の戦士たる女はじろりと眼球を巡らせると、むっつり黙ったまま席についた。怒っている表情のわりに、マグカップをしっかり両手で捕まえて、これは自分のと主張する構えである。
 鼻を近付けて、たっている湯気から熱さを推し測ると、彼女はゆっくりカフェオレに口をつけた。噛むものなんかひとつも入っていないのに、味わうように顎をもくもく動かして、それから飲み込み、湿った口回りを舌先で拭う。彼女のそんな仕草を可愛いと思うから、サンクレッドは状況を忘れて微笑んでしまいそうになる。
 これはいけない。何気なさを装って、彼は口許を手で覆った。今は、彼女の好きなもので機嫌をとっている段階なのに。
 サンクレッドも椅子に腰かけると、僅かテーブルに身を乗り出して、彼女の顔を覗き込むような姿勢をとる。

「……本当に、悪かった。報酬は言い値で払うし、欲しいものがあればそっちでも良い。何でも言ってくれ」

 そう切り出すと、彼女は剣呑に目を細めた。尖らせた唇は未だに開かれず、ただエーテルを含んでじっとり光る瞳が訴えかけてくるだけだ。

「……してほしいこと、でも良いぞ」
「…………」
「…………あー……、……どんなに貴重なものでも、調達してくる……」

 愛の吟遊詩人を名乗っていたことだってあるのに、妻の前では形無しである。彼女の仕事を何で労ってやればよいのか、彼女の鬱憤をどう晴らしてやればいいのか、さっぱり分からない。サンクレッドは困り果てながら、情けなくそう言い連ねた。

「……感謝してるんだ、本当に。なるべく、お前に報いたいんだが……」

 苦々しく転げ落ちる夫の声に、彼女の白鱗の尾が、椅子の上でひとつ波打った。

「…………それなら、さあ……」
「ん?」

 すかさず反応したサンクレッドは、吊り上がったままの妻の目を見つめ────ふと違和を感じた。
 何だってこんなにも、拗ねているみたいな顔をしているのだろう?

「……言うことがあるんじゃないの」
「言うこと?」

 榛色の瞳を瞬かせるサンクレッドに、アウラ族の女は低く唸り声を上げた。ぺたりと尻尾が跳ねる。

「……ごめん、とか……悪かった、じゃなくてぇ……」

 明らかにいじけた調子だった。彼の妻は睫毛を伏せると、ふいと角の先を逸らしてしまう。落ち着かない尻尾の先が、ぴたぴたと椅子を叩いている。
 謝罪の言葉を封じられてしまった今、他にどんな手段があるというのか。サンクレッドは一瞬思考が固まって、それから、彼女が手掛けたケープたちにくすくす笑われているような気がして、嗚呼と声を上げた。
 無茶を課したことに萎縮するばかりで、肝心なことを伝えそびれていたのだ。
 サンクレッドは、彼女の名前を呼んだ。それから椅子を引いて広くスペースをとると、ぽんと自分の膝を叩く。

「おいで」

 夫の優しい声音に、彼女は再度、そちらへ視線を向けた。じっとしたままの大きな目は、蛇のそれみたいに静かで底知れないが、サンクレッドはその眼底に、ちゃんと喜色を見つけていた。
 だめ押しで、腕を広げてみる。

「ほら」

 アウラの尻尾が、小さく蠢いた。わざとではないかと思えるほどゆっくりした動きで、マグカップをテーブルの上に置いた彼女は、勿体ぶったしなやかさで、しゃなりしゃなりとサンクレッドのそばに寄る。
 それから、極上のソファにでも腰かけるみたいに、夫の膝の上に収まった。彼女がそうしてリラックスしたのを感じると、サンクレッドは思いっきり妻を抱きしめる。

「ありがとうな、」

 彼は妻の米神に唇を押し当てると、肌と鱗に含ませるみたいに囁いた。

「本当に助かった。これならリーンも、ガイアも喜ぶだろう」
「ふふふ!」

 キスで額を撫でながら、彼女の頬や腕をさすってやれば、それはそれは嬉しそうな声がこぼれてくる。難解で、簡単な問題だったのだ。必要なのはへりくだることではない、愛情と感謝と慰労を示すことであった。大仕事を終えた妻を甘やかし、崇め奉ることが肝要だった。
 こんな当然みたいなことで対価とするなんて、気難しいのか、安いのか。サンクレッドは、唇ごしに感じられる彼女の満面の笑顔に安堵しながら、ころころ揺れる肩のリズムの愛しさに吐息を漏らした。

「すごい女だよ、お前は。最高の嫁さんをもらったもんだ」
「そうでしょう! すごいでしょ! カフェオレ、もう一杯くれてもいいよ!」
「今のが飲み終わったらな。いくらでも淹れるさ」

 すっかり上機嫌の妻は、いつも通りのにこにこモードだ。サンクレッドに髪や背中を撫で回されながら、手元にマグカップを迎え、満ち足りて寛いでいる。

「……カフェオレの他に、欲しいものはないのか?」

 サンクレッドは、その指で挟むように彼女の角を撫でながら、訊ねてみる。とろりと目もとを和ませる妻は、ただただ笑んで彼を見つめるばかりだ。

「ハニーヤードの蜂蜜酒?」
「んー?」
「カーラインカフェの、星芒祭限定タルトは?」
「んふふ」

 絶えず注がれる慈愛に、光の戦士たる女はくすぐったそうに首を竦めた。そうすると、サンクレッドが被さるように追いかけてきて、鼻先に口付けてくる。
 その体温が、好ましかった。間近で光るヘーゼル・アイと見つめあって、自然と互いを啄む。

「今日はカフェオレがいいの」
「そうか?」
「タルトは明日買って」
「わかった」

 彼女がねだるつもりで角先を差し向ければ、サンクレッドは恭しくそこにキスをした。
 しっかり抱き込められて、安心している。英雄なんて仰々しい肩書きのついた女傑は、今ばかりは、愛しいひとの腕のたくましさを堪能する小柄な女だった。
 叶うのなら、皮膚がこのまま癒着して、肉同士が溶け合ってひとつになって、それでいて好きなときに分裂できたら良いのに。
 そんなことを彼女が呟くから、サンクレッドは思わず大笑いしてしまった。瞼の薄い皮膚同士を重ねれば、繊細な眼球の動きが感じられて、擬似的に一体となった気がした。

「……私、何だかんだ、依頼してくれて良かったと思ってるの」

 ふと、ささやかな声音で彼女がこぼすので、サンクレッドはひとつ瞬いてから妻を見つめる。きょろりと大きな彼女の瞳は、ランプの柔らかい輝きを反射して、とてもとても幸せそうだった。

「私も悩んでたから。サンクレッドが、これが良いって言ってくれて。作るのが私で。だから、二人からのプレゼントになるでしょ?」
「……それじゃあ、俺の負担が少なすぎる」
「じゃあ、もっとたくさん褒めて!」

 彼女がじゃれるので、残り少ないカフェオレの水面が、ちゃぽんと音を立てた。そっとマグカップを回収したサンクレッドは、そいつをテーブルへと片付けてしまうと、お安いご用と言わんばかりに、きつく妻を抱き締める。きゅう、と上がった小さな声は、彼女が楽しい時や快い時に出すものと知っていた。

「あ、お手紙。リーンとガイアに書いてね。明日渡しに行っちゃうから」
「ああ。その後は、野外音楽堂で集合だな?」
「うん、プレゼント配りのお手伝いするから」

 星芒祭は子どもたちのための祝祭だ。大好きなひとは子どもが好きで、だから同じように心から楽しみに迎えられることがあまりにも幸福で、サンクレッドも光の戦士も、温かく頬を緩ませた。
 愛しい娘たちにとっても、慈しまれる子どもたちにとっても、どうか健やかで優しい日になるようにと、願っている。

「楽しみだね」
「そうだな」

 改めて、誇らしげに並んだケープたちを眺めると、夫は妻を力の限り讃えるのだった。
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